日本財団公益コミュニティサイト CANPAN CANPANブログ:公益法人,NPO,CSR,社会貢献活動のための無料ブログ

ラテン日系留学生

私たちは中南米で生まれ育った日系人です。
現在、日本財団から奨学金をいただき、それぞれの夢の実現のために日本で猛勉強中です。
「中南米日系人から見た日本」をテーマに、28人のラテン日系留学生が毎週記事を掲載します。乞うご期待!


日系ポータル!日系留学生サイト
プロフィール


2006年06月
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30
日系留学生の個人ブログ
にほんブログ村 海外生活ブログ 日系人・日系社会へ にほんブログ村 海外生活ブログ 中南米情報へ
最新記事
最新コメント
Érika Kimura
もう一度 かえりたいです (12/04)
りょうこ
もう一度 かえりたいです (12/03)
ワカ
あ、おばあ様たち (11/28)
yuki
あ、おばあ様たち (11/26)
古木 マキ
BABA 2008 (11/19)
カテゴリアーカイブ
http://blog.canpan.info/nikkei/index1_0.rdf
塩+砂糖?! [2006年06月30日(金)]
日本に来て食事の面で一番驚いたこと!!
皆さんは何でしょう?
私は食事中に甘い物を一緒に食べているのを見てビックリしました。
食後のデザートならば理解できますが、ご飯やおかずを食べながらケーキやスイートポテトなども一緒に食べる。
それをみた時私は、何故???どうして???
驚きのあまり、それが顔に出てしまいました。
その時その人は勘違いしたらしく「美味しいよう、ゆきも食べる??」と進めてくれました。
私は心のなかで、「ムリッ!!」と叫びながら、失礼にならないように断りました。
祖国ではしょっぱい物と甘い物一緒に食べる習慣はなく、日系人の食卓では調味料として砂糖が使われているため珍しがられていました。
そんな環境の中、私も塩と砂糖は混ぜないようにしてきました。
この体験は来日当初の経験です。
こんなことがあったのも忘れていた最近、またもや思い出してしまう出来事がありました。
それは授業で行なわれた学校給食体験の日。私にとっては初学校給食でした。
何故なら、パラグアイで通っていた学校には給食の制度がなかったからです。
給食のメニューは、コッペパン+チキンカツ+野菜サラダ+牛乳+イチゴジャム。
「イチゴジャム???これどうするの?!」
と聞いたとこ、友達は「パンにつけるんだよ」、「えっ、じゃあ主食は?」、「パンだよ」
「ジャムつけたら甘いじゃん!!」
「えっ、普通にそのまま食べれるよ。」
食習慣の違いを感じた一瞬でした。
確かに食後のデザートも最終的に胃では混ざってるんだから、たいした変わりはないと思えばそうなのかもしれませんが、どこか違うような気がします。
「ゆきは外見的にも内面的にも日本人と代わりがないようなのに、やっぱりどこか違うんだね。食事中に甘い物を一緒に食べるのも指摘されるまではなんとも思っていなかったよ。」
と友達に言われ、日本人には当たり前のことなんだと勉強になりました。
そこのところは理解できましたが、その習慣を自分が取り入れるのは難しい気がします。
はっきりと何故受け入れられないのかが分からなくてもただ単に、ダメな物もあるんだと実感した出来事でした。


パラグアイ国
上杉ゆき
一期生
日本での生活 [2006年06月28日(水)]

はじめまして、ブラジルから参りましたフェルナンドです。
僕は和太鼓作りと演奏を習いに日本にやってきました。

日本にに来て勉強するということは僕にとって大きなチャレンジです。
困難なことがたくさんありますが、自分の夢を今叶えているのだと思うと幸せです。

日本列島は僕の住むサン・パウロ市(ブラジル)より約50%ほど大きい場所です。
しかし、この日本列島は産業に使う石油も、鉄も、高品質の炭素も、銅や様々なミネラルが
ない。

毎年かなり強い地震が起き、台風もくる。人口密度も世界一でどうやって食料を
貯えるのかに頭を悩ましている。

なぜこんなにも困難な問題を抱えている国が成功するのだろうか?
答えは簡単です:それは日本人がここに住んでいるからです。

日本は投資や経済をうまく分かっているとかそういうことではなく、
僕は日本社会のモラル、価値観、道徳そしてハーモニー(和)
などがここまでの成功を収めたのだと思います。

「和」をいろんな場所で感じました。大都市東京の真ん中でも、昔からの神社が
建っています。僕はこういう知識や価値観、文化を日本で見つけに来ました。
僕の日系人の目で日本の社会構成を分析しているところです。

僕にとって日本人はある意味、ひとつの大きな「船」で過酷な事態を乗り越えて
行ったと思います。日本社会ではこの団体意識が強いのも、いろんな問題を
力を合わせて解決していくためとった手段だと思います。

そういった知識を僕は今、和太鼓で習っています。本当の意味での「和」。
この大事な言葉はもしかして日本の経済成長のコアにあったのではないでしょうか。


国吉フェルナンド
ブラジル
3期生
事件 [2006年06月26日(月)]
 これは、二週間前の話です。世間では、「いろいろなことを経験したほうがいい」と良くいわれますが、そのとおりのことがありました。その日、天気予報では梅雨の晴れ間との予報だったので自転車で出かけました。夕方になり小雨が振り出したので帰ることにして、その帰り道に事件はおきました。私は生まれて初めて「ひき逃げ」をしてしまいました。私の視野に入ってきたときは、もう遅かったのです。残酷なことに私は、蛙を引いてしまったのです。もともと蛙が苦手な私は、蛙が真正面にいるのはわかっていたにもかかわらず、方向を変えることはおろかブレーキもかけられませんでした。蛙と私の大きな叫び声とともにその場を離れました。犯人は犯行現場に戻るとありますが、ご多分にもれず、私も現場へ戻りました。そこには、昨夜の雨が味方をしたらしく、犯した罪の痕跡もなく、現状を確認できる手がかりもありませんでした。今は、希望的観測ですが、どこかで元気に虫をとっていることを祈っています
 恥ずかしいことに、私は、自然がいっぱいの中南米生まれでありながら、虫とはあまり縁のない生活を送ってきました。東京は大都会ですが、虫が多くいます。それは、日本が自然を守る努力をしている賜物だと思います。
 日本で、梅雨の時期は、素敵なアジサイを楽しめる時期です。移り変わる色合いを見ると自然が呼吸しているのが感じられます。あの事件後、まだ蛙には会っていません。でも、次に会うときは新たな気持ちで出会えることを望みます
 留学生活では、社会や大学で勉強するだけではなく、日本の素敵な自然を学ぶことも私の一つの大きな課題になりました。

古堅マリアクラウディア和賀
アルゼンチン
南米のサッカーの秘密 [2006年06月23日(金)]

「どうしてブラジルやアルゼンチンはそんなにサッカーが強いの?」とよく日本人に聞かれる。

いつも答えるのは:
−サッカーで遊ぶには場所さいあれば出来る。
   でもボールは? なければ、何か軽い物 (服、草など)を丸めたらいいの。
   ゴールは? 石4個あったら立派なゴールが2できる。
   シューズは? 場合によってははだしででも遊べる。

−ブラジルには1億7千万人のサッカー監督がいると言われます。
   国民の一人一人がサッカーには興味深い。特にワールドカップの時には!!

赤ちゃんがお腹の中でけり始めると 「あっ、男だったらサッカー選手になるぞ!!」と言うほどです。

−学校の休憩時間、体育の時間はサッカーで遊んでいるのが普通。

−「サッカーのプロ選手になって家族全員をもっと楽な生活にしたい」という強い気持ちでその夢に向かって歩むのが普通。

日本が世界のトップクラスになるまではまだまだですね・・・

山本ロブソン隆

ブラジル・日系2世
なまり [2006年06月21日(水)]
私は東京の学校に通っているけれど、クラスメートの多くが地方から来ているので、1年目は色んななまりを聞いていた。

私は地方のなまりっていうのはすごく味があっていいと思うのだけど、本人達はどんどん矯正していって、2年生になった今ではほとんどが標準語で話してしまっている。

よくクラスメート達に
「実家では何語で話しているの?」
と聞かれるけど、その度にちょっと迷う。正確には、岩手弁とスペイン語のミックスである。
父に至ってはスペイン語まで岩手なまりなので、境目がよく分からない

日系人の間で話すときは、日本語とスペイン語の混ざったものになる。これはある意味、日系訛りなんじゃないかと思う。小学生の頃は、トウモロコシのことを日本語調で「マイス」と言っていて、かなり大きくなるまで「トウモロコシ」という単語を知らないままだった。

そうやって混ざっていくと、面白い単語も出てくる。「私」とはスペイン語で「ジョ」と言うが、いつしか「私ら」というのが「ジョら」になっている。他の移住地ではどうなのか知らないのだけれど、多分探せば色々出てくるのかしら。正しい日本語を知ることはもちろん大事だけど、自然に生まれてきたこのような造語も、日系人社会を反映しているものとして是非残っていってほしいと思います。

こんなこと書いてますが、ちなみに私は影響を受けやすいので、すぐ話し言葉が変わっちゃいます今はバリバリ標準語。実はあんまり人のこと言えまっせん

ティナ
パラグアイ
日系ペルー人の私にとっての日本 [2006年06月19日(月)]

私は日本で自己紹介をするとき、「私は日系3世のペルー人です」と言えば、
時々「どうしてペルーには日系人がいますか」と質問されます。

確かに、日本が先進国であることを考えれば、多くの日本人がペルーのような
発展途上国へ移民したことをあまり想像できないかもしれません。
しかし、日本人が初めてペルーへ移民した時代は最近のことではありません。当時の日本とペルーは現在と全く違う状況でした。

日本人のペルーへの移民は日本の明治時代、1899年に始まりました。明治時代には日本の人口は大都市に集中していて、当時の政府は人口過剰問題のために外国への移民を推進し、ペルーはそれらの国々の一つでした。

私の祖父母は1930年代ごろに福島県からペルーへ移民しました。他の日本人の移民者と同じように、ペルーに着いたとき財産などを持っておらず、最初は貧しい生活をしていました。

私は小さいころから、親に移民したころの祖父母についての話を聞いていました。祖父母は言葉の違い、貧しさ、差別などのような問題を超えることができ、一生懸命働き、私はそのようなお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのこと、そして、日系人であることに誇りを持つように、いつも親に教えてくれました。

私が住んでいるリマ市には多くの日系人がいて、私はペルーの日系人社会が行う様々な活動によく参加して、日本のような祭り、日本の食べ物、日本の踊りなどの、日本の文化と小さいころから接触していました。ですから、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの話を聞いたり、ペルーの日系人社会の活動に参加したり、日本は私のルーツの国だと認識していました。しかし、日本は遠い国で、行くことができないかもしれないと思っていました。

大学生になったとき、初めて「是非日本へ行きたい」と思いました。そして、日本でのホームステイプログラムに応募しました。そのおかげで、初めて日本に来ることができて、しかも、祖父母の故郷の福島県に行って、祖父母が生まれた町に行くことができました。そして、そのときまで存在を知らなかった祖父の兄弟に会うことができて、たくさんの感動的な経験がありました。

日本は私のルーツの国で、とても大事な場所になりました。最初は日本語があまりできなかったのですが、日本に来たおかげで、以前より日本に興味を持つようになって、日本語を話せるようになりたい気持ちを強く感じるようになりました。

その後、日本語を勉強するためにまた2年間来日しました。その留学が終わって、より日本のこと好きになり、今回で3回目の来日となります。現在、日本のことを考えると、まだ不思議な感じがします。母国ではないのですが、外国だという感じでもありません。日本は私にとって、第二の母国になったのではないかと思います。

3期生
ペルー
中村パトリシア
私の趣味 [2006年06月16日(金)]



私はペルーリマ市で生まれた、日系3世です。祖父母は沖縄出身の人です。私はペルーと日本の両文化・習慣があるので、趣味もいろいろありますが、どちらかと言うとスポーツ系で体を動かすのが好きです

子供の頃は祖母と良く一緒に野球をしに行きました。祖母には「あなたは日系人だから、野球をしなければなりません」と言いわれていました。初めの頃はすごく下手でしたが、毎日の練習で、少しずつ上達して行きました。友達も増えましたが、個人的に野球はそれ程楽しいと思ったことがありません。多分祖母に無理やりやらされていたからなのかもしれません

中学時代はペルーでも大人気のスポーツ、「サッカー」をする様になりました。それまで、「イヤイヤ」にやっていた野球とは違って、夢中になりました。高校に上がってからは、学校代表チームに入りました。練習はもちろん大変でしたが、「大好き」でしたので辛いと思ったことがありません。逆に毎日が楽しく、仲間と汗を流し、喜び、悲しみ、勝利、敗北などを分け合えました。

何かをやるときは「無理やり」ではなく、「心から好き」だと思わなければ、いくら頑張っても思うように上達はしません。この経験のお陰で、その後の自分の人生に大きな影響を与えました。自分の好きな「道」を見つける事が出来、夢だった「医師」になることが出来ました。もしこの経験がなければ、勉強のプレッシャーに負けて、違った道を進んでいたのかもしれません。

サッカーは今でも趣味でときどきやっています。ワールドカップは勿論逃さず見ています。残念ながら、ペルーは中々南米予選突破できません。アルゼンチン、ブラジル、チリ、コロンビア、エクアドル、パラグアイなど強いチームぞろぞろいるので、もう何十年と出場を果たせません

2004年に新横浜競技場に行く機会がありました。そのとき、ブラジル代表チームのロッカールームに入る事が出来ました。有名な選手が使っているロッカーがいくつもありましたので、感激でした。いつかペルーも強くなって、有名になって欲しいと思います。

私は去年JICAの研修制度で、国立ガンセンターで1年間研修を受けました。勉強したいことが山ほどありましたが、時間が限られていたため、全部を終えることが出来ませんでした。今回は日本財団の「夢の実現プロジェクト」のお陰で勉強を継続することが可能になりました。研修は来年から始まりますが、今でもときどきガンセンターの友人とサッカーをやっています。

私はペルー人ですが、妻がブラジル人ですので、今年のワールドカップでブラジルの六回目の優勝を見たいと思っています。妻と一緒に優勝の喜びを分け合いたいと思っています。


Gustavo Kishimito
ペルー
三期生
日系社会と日本 [2006年06月14日(水)]
日本で過ごし始めてからもうすぐ2年。時がたつのが早く感じられる。
私が聞いて育った日本と実際に見て感じている日本には多きな違いを感じるが、最初の時ほど今はその差に驚いてはいない。
それもそのはず、私が生まれ育った日系移住地では70年前の日本人の考え方や言葉、習慣が今だ残っている。それが普段の生活に生かされている。
日本を愛し、今一度この土を踏むことを夢見ていた祖父はそれを実現することなく昨年他界した。孫である私や弟が祖父の夢をかなえたから、自分は満足していると言っていた。でも、私は祖父に今の日本を見て欲しかった。
この話を学校の先生にした時、祖父が今の日本を見たら嘆いただろうと言われた。
日本の社会はめまぐるしく変化を遂げ、昔ながらの人付き合いや絆の深さは徐々に失われつつある。
それに比べ、日系社会では時がフリーズドライしてしまったかのように、移住地では人と人の絆を元に作られる村社会が強く残っている。
その証拠に、日本にいる祖父の従妹にあたる親戚の方々とも連絡をとり続けることができている。
昔ながらの生活がある日系社会に行ってみたいと言う大学の友達もいる。娯楽はないけど、ゆっくりと時間が流れ、暖かい人々に囲まれた環境。時にはそれがめんどくさく感じられたけど、そこを離れてみて、自分は恵まれた環境で育ったのだと思えるようになった。
古い日本のみを知っている私の家族、世代交代で今度は私が現在の日本を語っていきたい。
もちろん古き良きところもしっかりと取り入れながら。


                              パラグアイ国
                              一期生 
                              上杉ゆき
わたしにとっての日系人 [2006年06月12日(月)]

どんな人でも一回は「自分は何なんだろう」って問いかけていると思います。
これは幼いころからの本能的なもので、自分の居場所やアイデンティティーを探し始める。

個人的に、私も自分の民族的は何なのだろうかすごく迷った。父は100%日本人、母は50%日本人。私のボリビア人と日本人の「アイデンティティーミックス」は外見的なものだけでなく、習慣、文化そして勉強方にも生じた。

しかし、私の家族の中で日系アイデンティティーのほうを少しずつ失いかけている気がする。家の中で日本語を話していないのが一番の理由かもしれない。おかげでほかの日系青年との言語の壁が出来てしまい、あまり仲良くなれなかった。

私のボリビアでの友達の輪のほとんどが純ボリビア人であった。皮肉にボリビア人とはこの言語の壁も、日系人から生じる差別感も感じられなかったしありのままで受け入れられた。この生活の中で、私は奥深く自分の日系的な面に気づき始めた。

初めて日本に来て、長い間ここで過ごせたおかげで自己の存在、日系人としての自分をもっとはっきり見えてきた気がする。ボリビアと日本の文化、習慣、言語や個々の現実を備えて今の私の人生は大きく変わっていってると思う。

去年ボリビアに一時帰国した際、元の環境にいたのにもかかわらず自分がはっきりとしているような気がした。50%ボリビア人、50%日本人とは言わない。私はその両方のカルチャーのバランスに今たどり着いたかもしれない。

私にとって日系とは:日本でもボリビアでも、私はボリビア人。しかし私の血には2カ国が存在する。だから両方の国でわたしが存在する。

一期生
ボリビア
古木マキ
第3回留学生研修会 [2006年06月09日(金)]






6月2日〜4日、第三回日本財団留学生研修会が行われました。始めの一泊は横浜JICAセンター、二泊目は日本財団笹川会長の別荘に宿泊しました。今年、新しく来日した三期生との初対面でもあったので、みんな楽しみにしていました。

初日行われた留学生会議では、日本財団中南米留学生のネットワークや今後のあり方について話し合いました。二日目は河口湖の自然を楽しみながら、遊覧船、クラフト工房などを楽しみました。夕方からは笹川会長の別荘で豪華なバーベキューを味わいました。夜の懇談会では歌あり、踊りあり、笑いありで非常に有意義な一時を過ごすことが出来ました。

笹川会長や奥様の様な忙しい方々が、わざわざ我々の為に時間を作って下さったことを非常に嬉しく思いました。我々にとってこれ以上ないモチベーションとなりました。

留学生として、グループとしてたくさんの課題が残されています。この研修のお陰で一人一人にパワーが与えられました。一番大きな課題として、「帰国後のネットワークとグループ活動の維持」です。そのためには、まず自分たちの「絆」から始めなければなりません。

しかし、「絆」を深めるにはやはり、時間を共有しなければ難しいです。いくらインターネットが発達からと言っても、顔を一度も合わせたことの無い人たちと何かを成し遂げるのは困難です。我々にとって、今回の研修会はグループ団結のために、非常に重要な役割を果たしました。

研修を可能にして頂いた笹川会長、奥様を始め、日本財団、海外日系人協会に深く感謝をしたいと思います。本当に有難う御座いました。


日系留学生一同

平成18年度 第3回 日本財団留学生研修会のまとめ

resumennikkei.pdf
| 次へ