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2017年02月06日(Mon)
「全てが私のアイデア」ペルー元大統領が語る救出作戦
(リベラルタイム 2017年3月号掲載)
日本財団 理事長 尾形 武寿


Liberal.png昨年秋、二度にわたりペルーを訪問、首都リマ郊外の軍警察施設に収監中のアルベルト・フジモリ元大統領を訪ねた。

舌がんの手術を受けた以前に比べ相当、健康も回復されたようで、現在は手記を執筆中という。そんな訳で1996年12月17日に起きた在ペルー日本大使公邸占拠事件に話が及び、元大統領から直接、人質救出作戦の詳細を聞くことができた。
事件では、左翼ゲリラ「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」の武装部隊14人が日本大使公邸に乱入、天皇誕生日祝賀レセプションに出席していた約600人を人質に立てこもった。

事件発生127日目に当たる翌年4月22日、140人の政府軍特殊部隊が突入し、最後まで残されていたペルー政府閣僚や青木盛久大使、日本企業の駐在員等72人を救出、ゲリラ全員とペルー人判事1人、特殊部隊員2人が死亡した。

救出作戦は公邸から約60m離れた民家からトンネルを掘り進めるところから始まった。工事はベテラン鉱山労働者たちを動員して夜間を中心に行い、音が外に漏れないよう絨毯を敷いて進められた。

トンネルの大きさは幅2.5m、高さ2m。途中に打ち合わせ用の待機所も作り、公邸にたどり着いてから、さらに三方向に掘り進み公邸の真下に到達した。

そのかたわら、軍の敷地内に間取りも大きさも公邸と同じ建物を作り、牛や羊、豚も使って突入に使用するダイナマイトの威力を繰り返し確認した。全体の作業に約45日を要したという。

最終的にダイナマイト4kgを3カ所で同時に爆発させ、直径5mほどの穴から内部に突入した。神父さんに託したギターと聖書に、内緒で盗聴器をしのばせ邸内の動きも探った。「全てが私のアイデア。どこでスタートの合図を出すか、そのタイミングが一番難しかった」という。

かなりの部分が事件当時に報道されているが、動物を使った爆発威力の確認など、初めて聞く内容も多く、元大統領は「最初は特殊部隊による早期救出を検討したが、日本政府から平和的解決を強く要請され、止むなくトンネル作戦に変更した」とも語った。明言はしなかったが、作戦決行を事前に日本政府に知らせることはなかったようだ。

元大統領は2000年末、“反フジモリ”の高まりで事実上、日本に亡命。5年後、強引に帰国を図り、チリで拘禁され、最終的に25年の禁固刑が確定した。

逮捕される可能性を承知で何故、帰国を強行したのか聞くと「ペルーが自分の母国だから。国民のために、まだやらねばならないことがあった」と語った。国のリーダーとなった人の責任の取り方なのであろう。

元大統領の両親を含め日系移民は想像を絶する劣悪な環境の中で、塗炭の苦しみに耐えながらペルーの繁栄に貢献してきた。元大統領は日系人社会の“希望の星”でもあった。

力によるテロ制圧の是非は、長女のケイコ氏が惜敗した二度の大統領選でも争点となった。テロとの戦いが国際社会の喫緊の課題となる中、元大統領の勇断はもっと評価されていい。

帰国を前にした日系人協会での講演では、そんな思いも込め、「ペルー人として母国に忠誠を誓い、その上でルーツが日本であることも忘れないでほしい。我々も皆さんが誇りにできる日本を作ることを約束します」と最後を締めくくった。
タグ:ペルー
カテゴリ:世界







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