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2016年02月10日(Wed)
パラリンピック競技特集(13)車いすフェンシング
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香港からコーチ迎え、リオ大会で再出発目指す

車いすを「ピスト」と呼ばれる床の装置に固定し、上半身のみで戦うフェンシング。これを車いすフェンシングといいます。健常者のような、下半身の華麗なフットワークがない分、剣さばきのスピードとコントロール、さらに近距離の駆け引きが重要になってきます。選手の攻撃と体重移動に合わせ、車いすが持ち上がり、ピストがしなる…。京都駅近くの旧山王小学校で行われた強化合宿の練習風景を見て、予想以上の迫力に驚きました。

香港のキー特別コーチに手ほどきを受ける桜井杏里選手
香港のキー特別コーチ=右=に手ほどきを受ける桜井杏里選手

廃校になった小学校の教室に、ピストが3台設置されていました。ピストの両端に車いすが固定され、選手は110度の角度で向き合います。対戦相手との距離は、選手の腕の長さによって調整します。電気回路がついたユニフォームを着て、顔にはマスクを着用します。そして主審の「アレ」(フランス語で始め)という合図と共に試合が開始されます。

競技そのものは、健常者のフェンシングと同様、剣の種類や得点になる場所によって3つに分かれます。一番やわらかい剣を使う「フルーレ」、一番長くて重い剣を使う「エペ」、刀のような形をした「サーブル」の3つです。攻撃が有効かどうかは電気審判器のランプで表示されます。赤または緑のランプがつけば有効、白のランプは無効となります。また、選手は障害の程度により、腹筋の機能がある軽度のクラスAと、機能がない重度のクラスBの2種類に分かれます。

剣のさばき方を教える小松真一理事長
初心者に剣のさばき方を教える小松真一理事長(右)

小松理事長車いすフェンシングは1960年のローマ・パラリンピックから公式競技になりました。日本では、高校、大学とフェンシングをやっていた小松真一さん(62)が94年、京都市内に教室を開き、車いすフェンシングを教え始めました。小松さんは健常者で、初めはルールブックを見ながらの指導でした。選手が思うように増えなかったので解散しようとしたところ、教え子から「ぜひ続けてほしい」といわれ、98年にNPO法人日本車いすフェンシング協会を設立、理事長に就任しました。

日本からは2000年のシドニー・パラリンピックに初めて参加、04年のアテネ大会、08年の北京大会にも選手を派遣しましたが、入賞できなかったうえ、有力選手が家業の関係でやめたことから、北京大会後、活動を停止していました。そこへ東京で五輪と一緒にパラリンピックが開催されるという朗報が届き、小松理事長は選手発掘を再開しました。選手は初心者も含め、20人以上になりましたが、上位選手はまだ少なく、リオ大会への参加は厳しい状況だといいます。

このため小松理事長は香港の車いすフェンシング金メダリスト、フン・イン・キーさん(36)を2、3カ月に一度、京都に招いて特別コーチを依頼しています。キー・コーチはシドニー・アテネのパラリンピックに出場し、金5個、銀、銅各1個を獲得した名選手です。ウイルス性の脊髄障害でしたが、引退後、10年間トレーニングを受けて歩けるようになったそうです。京都が好きで、何度も来日していて、東京パラリンピックが決まってから「お手伝いします」と自らコーチを買って出たといいます。

キー・コーチは今回の強化合宿でも4日間、選手に付き添い、丁寧に指導していました。来日する度に日本語も上手になり、日本選手について「技術は強くないが、ハートは強い。今は結果ではなく、進歩することが大事です」と話していました。

小松理事長は現状について「選手は増えてきましたが、まだ横一線の状態なので基本練習に力を入れている段階です。リオ大会から選手を派遣したいところですが、世界ランクでまだ基準に達している選手はいないので、厳しいですね」と分析しています。そこで目標は東京大会でのメダル獲得におき、「そのためにも4年間がんばりたい」と意欲を燃やしていました。

安直樹選手選手の中で一番の変り種は、車いすバスケットボールの選手からフェンシングの世界に入ってきた安(やす)直樹選手(38)=クラスA=です。ジュニア時代から車いすバスケの選手として活躍、アテネ・パラリンピックに出場したほか、日本人初のプロ選手としてイタリアリーグで3シーズンの間、プレーした実績もある選手です。昨年、車いすフェンシングに転向した事情について「バスケに年齢的にも体力的にも限界を感じ、もう一花咲かせたいと色々な種目を体験してみました。その結果、小さいころ、楽しんだチャンバラをやってみたいと思い、フェンシングを選びました」と話していました。

安選手は1年間、練習した結果、「ようやく戦い方が分かってきた」といいます。「フェンシングは接近して戦うことが多いので、体を使った動きがメーンになる。まず体のスピードが大事で、体幹が遅いとダメですね」と話しました。リオ大会への出場については「厳しいと思うが、可能性はゼロではない。次の東京につなげるためにも出たい」と語っていました。現在エイベックスに所属、東京都内に住んでいます。

恩田竜二選手恩田竜二選手(39)=クラスB=も車いすテニスから転向してきた一人です。昨年、妻の親しい友人から車いすフェンシングを勧められ、やってみると楽しかったので変わったといいます。障害者になったのは、11年前、作業中に労災事故が起き、1トンの荷物と一緒に尻餅をついたため。その結果、脊髄を損傷し、足の感覚がなくなったそうです。

今後の抱負を聞くと、「最終的には東京大会で結果を出せるようにしたい。出るからにはメダルを取るのが目標です」と話していました。今は三重県鈴鹿市に住んでいます。

藤田道宣選手健常者の時からフェンシングをやっていて、障害ができてから車いすフェンシングに転身したのは京都・龍谷大学大学院生、藤田道宣選手(29)=Bクラス。高校生からフェンシングを始めましたが、19歳の時、海岸で遊んでいて海に飛び込み、頚椎を損傷しました。半年入院しましたが、障害が重く、3年くらいブラブラしていたそうです。そのころ、車いすでもフェンシングができると知り、始めました。それまで車いすフェンシングという競技は知らなかったそうです。

藤田選手は健常者のフェンシングとの違いについて「車いすは固定されているので、足を使って逃げられない。そのため上半身を使って逃げるしかないので、健常者よりスピード感がある。技術半分、フィジカルが半分の競技だと思う」と話していました。
今後の目標については「東京大会でメダルを取れるよう、練習していきたい。選手が増えれば国のレベルも上がると思う」と語りました。

桜井杏里選手紅一点は、京都市内のスポーツ用品店で車いすフェンシング協会の原田かの子事務局長に勧誘されたという桜井杏里選手(27)=クラスB。小学校から長距離を走っていて、高校では全国駅伝京都府予選に出場したといいます。ところが、20歳の時、腰椎間板ヘルニアを患い、手術を受けたが腰から下がマヒし、車いす生活に。その後、スポーツ用品メーカーに就職して働いている時に勧誘を受けたことになります。

桜井選手は「この競技は技術が難しい。でも、相手との駆け引きや心理戦が面白く、やりがいがあります」と話していました。桜井選手の現在の世界ランクは20位台。12位以内でないとリオ大会に出場できないので、今年春から夏の国際大会にかかっています。

日本車いすフェンシング協会はリオ大会からの再出発を目指し、選手発掘や競技普及に力を入れています。まだ経験の浅い選手が大半ですが、さまざま分野から参入していて、スーパースターが生まれる可能性を秘めているといえそうです。



競技紹介車いすフェンシング
車いすを固定して行うフェンシング競技。ユニフォームや剣、マスクなどの用具は一般の競技と同じものを使う。ルールも一般の競技規則に準じている。男女共通の種目は、フルーレ(メタルジャケットを着た胴体のみの突き)とエペ(上半身の突き)。男子だけの種目はサーベル(上半身の突き、斬り)。選手は障害の程度によってA級、B級に分かれ、クラスごとに競技を行う。

● 日本車いすフェンシング協会 ウェブサイト
● 日本財団パラリンピックサポートセンター ウェブサイト 






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