• もっと見る

前の記事 «  トップページ  » 次の記事
2012年07月10日(Tue)
場と向き合う
(九州うんゆジャーナル 2012年7月10日掲載)
20806.jpg
公益・ボランティア支援グループ 
東日本大震災復興支援チーム 樋口 裕司 


 エッセイということで、少し襟を緩めて書くことにしている。なにより、今回の寄稿のテーマは私の仕事に関することである一方で、先例のない出来事、人生においてとても大きなインパクトをもった日々(現在も境目なく続いているが)を振り返る作業でもあるから、未整理でとりとめのない書きぶりであり、読者の役に立つ情報満載では決してない点をご容赦いただきたい。むしろ、発災当日からこれまでの、きわめて個人的な体験談とそこからの私なりの学びを中心に書いた。とは言え、日本財団の被災地支援の取り組みもきちんと皆さんにお伝えしたいと思うから、気長にご覧いただき、何かしらの気付きの種にでもなれば幸いである。
都市の混乱 その時の行動
 2011年3月11日午後、東日本大震災が起こった。当時、私は東京赤坂のオフィスにいた。古い三角柱型のビルの6階はよく揺れた。震度5強。誰かにビルごとゆすられたような感覚。その時点から日常の雰囲気は失せ、まさに異常な事態を肌で感じていた。

 九州圏の読者が多いであろうから、もう少し当日の話を続けさせていただく。2度目の大きな揺れの後、全職員帰宅指示が出された。と言っても電車は地震の影響で動いていない。すでに外堀通りはごった返しの人の群れ。歩いて帰る者、冷静に状況を見守り待機する者。タクシーもほとんどが大渋滞に加勢するだけだった。

 夕方には慣れてきたせいか、大概の人はどこかのんびりしてもいたし、コンビニに買い物に行ったり、非常用物資の毛布を倉庫から持ち出して宿泊を決め込む者もあった。職場には身重の女性もいた。安全を期して早めにオフィスを出た彼女はかえって帰宅困難者の混沌に巻き込まれ、その後何時間か休憩できる場所を探し歩き回る羽目になった。幸いにある居酒屋チェーン店の計らいで、電車が再開するまで休ませてもらえたと報を受けた時は心底安心したものだ。彼女は人の優しさに涙が出たと言っていた。

 私がその報を受けたのは実は私の帰宅後夜9時かそのくらい遅くで、結局彼女が自宅に帰れたのは完全に夜中になった。それまでかろうじてメールで、分かる限り参考になる情報や励ましの言葉を投げかけ続けたりしていた。それが先に無事家にたどり着いた自分にできることであり、不思議と湧いた使命感だった。それも送受信のタイミングが合わず役に立ったのかどうかだったが。

 当時、電話回線は完全にパンク状態で、メールの回線もほぼ麻痺していた。兄からの情報で、メールよりもTwitter(ウェブ上で“つぶやく”コミュニケーションサービス)などが機能することはわかっていた。その時はなんとなくユーザー登録をしなかったが、今では情報との向き合い方、代替インフラの重要性など、技術は賢く利用すべきだと考えるようになった。FaceBookなどでの情報の発信・収集もわりかし自然に行っている。

 そうは言っても、やはり自分の目と足で確かめねばならないときがあることを、今回の震災では身を以て再認識した。

 私は板橋区の家に、今年100歳になった祖母と姉とで暮らしている。地震直後、メールはおろか、耳が遠くてそもそも電話に出られない、家にいるはずの祖母の安否を確認する手段がなかった。姉とも連絡がつかず、大丈夫だろうと思いつつも不安が募った。夜6時ごろになっても動く気配のない電車を諦め、とりあえず私は同じ方面に自宅のある先輩職員と歩いて帰ることを決めた。革靴での長距離歩行は予想以上に足に応えたが、大塚付近で先輩と別れてから、不安が大きくなるのを感じて家に向かって走る自分がいた。

 結局、何事もなかったように椅子に座ってテレビを眺める祖母を見て、一安心した。(仕事で遠出していた姉とは翌日まで連絡が取れず、不安にさせられたが)こうしたエピソードを、今回の震災はたくさん生んだだろう。大切なものを見直すきっかけになったのは言うまでもなく、また“その時”にあって自分がどうするかを確かめられた日でもあった。自分の今手の届くところを守る。この日得た感覚が、東北の被害を比較的自分事として捉えさせてくれているのだと思う。

支援 できること、すべきこと
 震災当日の帰宅時、祖母が見ていた例のテレビの映像はにわかには信じられなかった。仙台平野を塗りつぶしていく何かは、まるで下手なCGのような違和感があった。

 週末の土日、情報収集に没頭した。震災支援の実績がある財団だけあって、日本財団の職員間のメールのやり取りは、すでに具体的に動き出そうとする空気が感じ取れた。当時入社約4年、私自身は災害についての組織的な支援も個人的な支援もそれまで経験がなく、正直何をすればよいのかまるで分っていなかった。ただ少なくとも、信頼できる情報にアンテナを張り、人と共有することはできる。そして財団職員である私としては、個人よりもチームとして動いた方が、被災地の役に立てることは明白だった。

東日本大震災支援基金の設置
 震災当日の夜、日本財団CANPANセンターの職員が災害支援のための寄付を募る仕組みをWEB上に構築した。広範かつ甚大な被害規模と、それまでの知見から、財団独自の資金では十分な支援策は展開できない。もはや世界中の関心事であり、その力が必要になるという確信に基づく独断であった。

 「東北地方太平洋沖地震支援基金(名称は当時)」の名で、設置されるやいなや、視覚的に訴えるバナーの作成、企業による呼びかけ協力、多言語発信のための翻訳など、職員の得意分野や人脈を駆使して、スピーディーに広がっていった。私自身は、寄付金のコンセプトを説明する文章作成などに関わった。

 なぜこのタイミングで寄付金を呼びかけるのか。賛否両論あるが、志あるお金を多く集め、いち早く現地に届ける。それができるのが民間の助成財団の強みであり、それゆえのミッションであるという考えだ。義捐金は現地に届くのに時間がかかる。被災者にとって今すぐ必要なのは数か月後に損失を賄う費用ではなく、絶え間ない炊き出しや居住空間の確保などもっとフィジカルで直接的な支援活動であり、翻ってそれを支え促進する仕組みもまた不可欠であった。そういうわけで、緊急支援期には、現地に入るNPOやボランティアの活動資金を集めておく必要があった。

ROADプロジェクト
 3月13日の日曜日、役員と各部署の管理職、災害支援の経験のある若手スタッフも交じって緊急会議が招集された。寄付金を大々的に募って支援活動を展開するという、財団にとっても初めての方針が、その場で正式に決められた。

 一方、財団には直接現地に対して、それこそフィジカルに支援活動を行ってきた歴史もあった。1995年の阪神・淡路大震災をはじめ、新潟中越地震(2004年)、能登半島地震(2007年)など、過去28回の災害支援実績から、自ら現地に入り他の団体と協力して支援を展開するための土壌ができていた。

 その土壌を中心的に作ってきた一人が黒澤司という男である。彼は私の入社後ほどなく、ほとんど入れ違いの格好で、家庭の事情によって退職。その後宮城県の山奥で木こりとして生計を立てていた。発災後すぐに現地支援に入っていた彼から財団に一報が入る。それに基づいて、まず現地に向かう災害支援実績のある団体に物資をゆだね、現地拠点設置の後押しをした。拠点ははじめ宮城県名取市を想定したが、その後被害の最も大きな同県石巻市へと移り、ここを中心に継続的に支援活動を展開することとなった。

 資金や物資、情報のサポートによる後方支援と、現地活動。これらを総称するのがROADプロジェクトである。Resilience will Overcome Any Disaster(どんな困難も乗り越える力)の頭文字をとったこのプロジェクト名には、復興に向けたそれぞれの活動を一本ずつの道になぞらえ、それらが集まって大きな力となる。そんな思いが込められている。

現地への派遣
 発災後の一週間、私は当時在籍していた海洋グループの関連団体や支援先団体の安否確認等に奔走していた。平素から事業で連携を取らせていただいている海上保安庁との意見交換や、全国にネットワークを持つ海守からの協力要請の連絡調整なども行っていた。17日木曜日の夕方、辞令によって、前日のうちに財団内に組織されていた災害支援センターに配属が決まり、すでに実施方向で検討が始まっていた役職員総出による週末街頭募金の打ち合わせに参加。翌金曜日、募金の班ごとにリーダーを割り当てられ、私も当初その一人となっていたが、午後には翌日からの先遣隊としての派遣が言い渡された。

 誤解を恐れずに言えば、安心に似た感覚があった。自分にできること、他に優先すべきことはないか。現地を見ずに今していることは困っている人のニーズに応えられているだろうか。そんな形の定まらない焦りを感じていた中で、現地行きを指名されたことは私としては精神的な安定にもなり、有難かった。

 すぐに翌日の出発準備に取り掛かる。現地派遣は私含め3名。1人は姉妹財団の笹川スポーツ財団からの協力派遣で、私以外の2名は災害支援の現場経験豊富な先輩職員であった。その先輩と役員とがすでに警察署を駆け回り、車両の緊急通行許可の取得ルートを確保していた。私は同日中に赤坂警察署と財団ビルを2往復して自分たちが乗る分を確保した。移動のための車両は福祉車両事業でお世話になっているオーテックジャパンの国島氏が茅ヶ崎から自ら運転し、社用車のキャラバンを無償供与していただいた。その時点で燃料のエンプティ―サインが灯っていた。すでに深夜で営業しているガソリンスタンドはない。出発時最低限の燃料は戸田市から災害ボランティアの仲間がわざわざ立ち寄って分けくれて、なんとか食いつないだ。明け方4時過ぎ、出発の段取りを確認し合い、一度自宅に戻って身支度を整え、7時くらいに再び集合し、車に荷物を詰め込んで出発した。

二つの現場
 ここまで書いてきた派遣までの動きはまったくスキーム立っていない。それは今でも同じかもしれない。現場の状況に合わせ後手ゆえか先手ゆえか、とにかくチームは走りながら何かを作り、作りながら走った。スキームのない現場で得たことは数限りなく、伝えたいエピソードもたくさんある。しかし、こうして書き綴っていくと際限がないので、一度ここで要点を絞ってみたい。

 派遣期間は、2週間ほどで他の職員と交代する格好を繰り返し、徐々に東京の比重が多くなっていったが、それが半年間ほど続いた。始めの経緯から、私は主に現地担当であったが、東京の仕事もあらかじめ寄って立つマニュアルやスキームなどない、まぎれもなく現場の仕事であった。ここからは、被災地とバックオフィスとしての東京、二つの「現場」という視点でご紹介したいと思う。

作業着と長靴とパソコンと
 3月19日の深夜、石巻市のボランティア拠点で黒澤と合流した。彼の表情は疲れがありありと見えるほどやつれていたが、緊張感とともに静かな頼もしさがあった。現地での活動は翌日の市立湊小学校の一斉泥出しから始まった。

 先遣隊としての現地活動は、この泥出しやガレキ撤去といった重作業に文字通り明け暮れる日もあれば、東京本部で組まれる事業の事前調査や調整業務、その運営などで奔走することもある。泥まみれでいながらパソコンと携帯電話を手放せない毎日だった。また夜になれば打ち合わせをし、ブログなどで東京への報告を行った。先輩スタッフは実にたくましく、財団の現地責任者となった黒澤の指示を的確にこなしつつ、自主的に物事の必要性を見出し動いていた。勝手が分かっていない自分は、なんとか彼らの負担を減らすことに努めるのが精一杯だった。

 現地での作業と作業のための調整に加え、東京発の動きも受けて、ミッションには事欠かなかった。例えば、川の水を生活水として提供するための浄水プラントの設置運営、足湯隊や大学生泥かき隊といったボランティアの受け入れと現場コーディネートは、ほぼ毎日絶え間なく回転させた。頭も体も使う、泥まみれのくたくたな毎日だったが、現地入りの2日後に無償提供を受けて新たに拠点としていた地元のカラオケ店舗(カラオケ本舗まねきねこ)には、さらにシャワーや洗濯機を設置していただけたことで、意外なほどに生活感があった。

独自の活動と所属を越えた連携
 被害規模の大きさゆえ、石巻には多くのNGO・NPOやボランティア団体などが集まっていた。活動場所のバッティングや地元住民との摩擦を防ぎ、それぞれの活動がより効果的に行われるカギとなっていたのが地元社会福祉協議会が運営する災害ボランティアセンターと、団体間の連絡調整会議からはじまった石巻災害復興支援協議会という民立のボランティアセンターだった。前者が石巻に来た個人ボランティアを、後者が同じく団体をそれぞれ受け入れ調整し、地元被災者から上げられたニーズとマッチングする役割を担った。両者が同じ石巻専修大学内にあったことで、同市の受援力(外部支援を受け入れる総合的な体力)は相乗的に高まった。

「漁業支援」というボランティア
 上記の枠組みの中で各団体間の連絡調整も促され、それが支援の薄い地域をカバーする動きにつながった。津波で甚大な被害を受けたはずの沿岸の各漁村は、地理的に市街地から離れていることや知名度の低さ、外部との交流の不慣れなどの理由から、ボランティア側としてもハードルが高く、人の多い市街地に比べて支援が行き届いていないことが問題視されていた。

 このとき4月下旬。海と言えば日本財団だろうという意識もあった。財団チームの黒澤は、先に石巻市牡鹿半島に入っていたボランティアから地元のキーパーソンをたどり、根気よく通って漁師たちのニーズを見出し、学生ボランティアが100名以上入るゴールデンウィークに合わせて、イベントを組んだ。その内容は、ガレキの中に散乱したまだ使える漁具の回収だった。

 カキ養殖の盛んな同地域では「タル」と言われる浮き(ブイ)が重要な生活道具のひとつであったが、放っておくとこれらは災害ゴミとしてガレキとともに処分されてしまう。幅1メートルほどの楕円球状のブイは、1個1万円から1万5千円。保有数は1つの浜で数千個に及ぶこともざらで、その資産価値はおのずと知れてくる。浜がきれいになったとして、生活の糧がなければ復興はできない。生業の支援になるが、ボランティアだからこそできるし、このタイミングでやることに意味があった。このイベントを皮切りに、牡鹿半島だけでなく雄勝町や北上川の河口にある浜など、ボランティアが継続的に支援に入る流れが生まれた。

後方支援の現場
 始めて東京に戻ったのは、4月1日。他の現地メンバーを残し、一足早く帰還した。「日本財団災害支援センター」は10畳ほどの会議室に机を詰める形で即席で設置されており、財団のあらゆる部署のスタッフで構成されていた。加えて災害系NPOのネットワーク組織である「震災がつなぐ全国ネットワーク」との共同事務局にもなっていて、ボランティアの送り出しからNPO支援プログラム等の構築・運営、出納管理、情報センターなど、あらゆる機能が凝縮されたタスクフォースだった。

 正直、戻った初日は、鳴りやまない電話に出ることができなかった。というのも3月29日、支援策の第一弾がすでにリリースされており、詳細はおろか概要や誰が何を知っているのか、シェアする時間もままならなかったからだ。それでも早く戦力になるしか道はない。現地の状況を直接知っているのは自分一人であったから、その情報を以て東京と現地とを有機的につなぐことが自分に求められる東京での最初の任務だと考えた。

日本財団の打ち出した支援策
 問い合わせの原因となっていた支援策の内容は、(1)死者・行方不明者1人あたり5万円の弔慰金・見舞金の贈呈(2)漁船を失った漁業者向けなどに上限1億円の緊急支援融資制度の新設(3)被災地支援のNPO、ボランティア団体に対し、100万円までを迅速に助成、の3点であった。どれも前代未聞の支援策であったが、特に(1)(3)は即座に大きな反響を呼んだ。それゆえスキーム作りも運営もほとんど境目なく進んでいった。

 義援金とは異なる「支援金」として打ち出して募った寄付ではあったが、明らかにコンセプトに矛盾すると思われる(1)の支援策も、被災者の方にとにかく早く具体的な希望を持ってもらうことが共通だった。支援金の真骨頂である(3)の100万円助成については、前事業部のノウハウと唯一現地を見ていた経験から、審査方針や重点テーマの策定に意見を求められ、それがほぼそのまま採用された。上司の判断は早かった。時間がない中にあって、よく耳を傾け、信頼してくれたと思う。そのことでかえって加速的に支援策が回転していく様を体感することもできた。災害支援の「現場」には被災地でも東京でも、同じ原理が働いていた。結果的にこの100万円助成は、約3ヶ月の募集期間で695事業/651団体の活動を支援することになった。

現場から縁をつくる
 ここまで書いてきたのは、すべて2011年5月初め以前の緊急支援期のことである。しかし災害支援業務でもっとも印象に残っていることは、ここに凝縮されている。二つの「現場」から得たことは、ごく当たり前の原理に対する実感であった。つまり、現場に身を置き、自ら感じ考え行動することの大切さ。そこからしか周囲の信頼や縁はつながっていかない。そこからしか物事は動いていかないということだった。

 縁ということで、ひとつの事例を紹介したい。日本財団はボートレースの収益を財源に活動する団体である。そのボートレース場のある埼玉県戸田市から、5月中旬に重機隊が牡鹿半島の狐崎浜に派遣された。神保国男市長名で戸田市建設業協会、同市環境整備事業協同組合や市内ロータリークラブ、青年会議所に支援を求め、結成されたプロの災害救援隊だった。作業は2日間だけだったが持ち寄った重機8台の威力と士気の高さで、岸壁に山となっていた災害ゴミは仮設の集積所へ完全に移すことができた。

 このときコーディネーターとして関わったご縁で、今年4月、神保戸田市長の石巻再訪に同行する機会があった。狐崎の漁師に会うのも私自身久しぶりであったが、ただ訪問していただくだけではおそらく何にもつながらない。実はこれも黒澤の受け売りだが、最近はこのように視察をアテンドする際は、現地のお願い事を聞いてもらうようにしている。支援が得られにくいものが不足していたり、求めにくい雰囲気になりがちだが、まだまだ、外部からの助けを必要とする部分がある。何より忘れられてしまうにはまだ早い。このとき神保市長は然りと心得ていて、少しためらっていた浜の支部長に自ら支援を申し出てくださった。そして5月31日に浜に待望のスクーター新車7台が寄贈された。こうして再び訪れる方たちの思いを少しでも形に変え、縁をつないでいくことも私の仕事だと思っている。

これからの支援
 縁をつないでいくこともそうだが、財団の今後の支援事業としては、主に次の観点で取り組んでいる。ひとつは、企業などが持つ多様なリソースと志をつなぐ事業の創出である。社会課題に取り組もうとする主体は非営利だけではない。社会資源としての企業や学校等の豊かな蓄積は、非営利組織にない専門性を持っている。例えば、ダイムラー社からの寄付金では東北のリーダーを育成する基金を作り、仙台にこの春開講したビジネススクールと提携して、奨学金と事業開始のためのスタートアップ助成の制度を創設した。

 また今後起こるとされる東海地震等に備えることも重要である。今回の教訓を活かしてよりスピーディーで効果的な災害支援を実現するために、異業種連携やマルチパートナーの動きの促進を視野に入れたセミナーなどの取り組みも始めている。

 そしてまだ支えを必要とする中長期の被災地支援には、被災者目線のニーズに応えつつも、もともと地域が抱えていた問題に対し、地元と一緒になって解決先を探っていくことが求められている。少子高齢化や一次産業の衰退など、震災は課題先進国日本の10年後の姿を一気に表出させたと言われる。しかし、まだその対策の術ははっきりとは見えていない。それゆえ、地域に根差して外部のリソースと地域のニーズとを継続的に翻訳・マッチングするための中間支援的な組織の設立が必要とされている。これについては、すでに草の根活動を始めている団体はあるものの、運営体制の強化が喫緊の課題であるため、企業の本業を活かす形での人材派遣(プロボノ)の仲介などを試験的に進めているところである。

 実現できていないことはまだまだ沢山あるが、こうした観点からの事業推進を通じて、引き続き被災地支援に取り組んでいきたい。
皆様からの寄付総額は5月18日現在、49億9042万4140円。この場をお借りして感謝申し上げます。

 九州運輸振興センターの師岡氏から、前職の海洋グループ時代にお世話になったご縁で本寄稿のお話があった。氏には被災地にいる私に何度か労いの電話をかけていただいていた。抽象的な話が多くなったが、エッセイということで、これまでに書いたり話したりする機会のなかったことを書くことができた。師岡氏にも、この場を借りてお礼申し上げる次第である。



トラックバック
ご利用前に必ずご利用規約(別ウィンドウで開きます)をお読みください。
CanpanBlogにトラックバックした時点で本規約を承諾したものとみなします。
この記事へのトラックバックURL
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
トラックバックの受付は終了しました


コメントする
コメント


 写真の力で「風化」防ぐ  « トップページ  »  書物に触れ、夏の思い出を