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2014年12月04日(Thu)
フィリピン残留二世の国籍問題、いまこそ国が先頭に立つ時
(リベラルタイム 2015年1月号掲載)
日本財団理事長
尾形 武寿


Liberal.png 仕事で海外を回っていると、思わぬ場面に遭遇することがある。二〇一一年六月に訪れたペルーの首都リマの日系人協会病院増築工事の竣工式典もその一つだ。

 日本財団が事業を全面支援した関係で筆者も来賓席に座り、冒頭のペルー・ガルシア大統領(当時)の挨拶を聞いた。大統領はペルー社会における日系人の貢献を讃えた後、唐突に「大戦中の日系人に対する人権侵害について政府は一度も謝罪してこなかった。ここに政府を代表して謝罪する」と語り、詰め掛けた二百人の日系人が一瞬の静寂の後、歓喜の声を上げた。
 第二次世界大戦でペルー政府は、米国の強い影響下にあった他のラテンアメリカ諸国と同様、排日政策を採り、日系人の資産を凍結、千七百人余の日系人をアメリカ・テキサス州の移民労働者用キャンプに強制収容した。アメリカ政府は一九八八年に正式に謝罪、被害者に賠償金も支払った。しかし、ペルー政府の公式謝罪はこの時が初めて。アメリカや日本でも大きなニュースとして報じられた。

 明治末期、中南米や北米への「国策移住」が始まって一世紀以上経った。サプライズに涙を流す関係者を見ながら、あらためて日系人がたどってきた過酷な歴史を知らされる思いがした。

 一方で、戦後七十年近く経た現在もその“後遺症”から抜け出せないでいる人々もいる。日本人を父親に持ちながら、今も日本国籍を取得できないでいる「フィリピン残留二世」もそうだ。フィリピンへの日本人移民は二十世紀初頭に始まり、第二次世界大戦直前、ミンダナオ島の港町ダバオには東洋最大、二万人の日本人街も形成され、多くが現地の女性と結婚、豊かな生活を営んでいた。しかし開戦に伴い軍属として徴用され多くが死亡、生き残った人も日本へ強制送還され、現地に残された妻子は、ゲリラの攻撃を避けるため山中の逃避行を余儀なくされた。

 日本政府が、初めて調査に乗り出したのは終戦から半世紀も経った一九九三年。確認された残留二世は約三千人、うち九百人は父親の身元が分からないまま無国籍状態にあった。

 当時の国籍法は父系主義。日本人の父親から生まれた子は日本国籍を持つ。しかし逃避行の中で父親との関係を裏付ける書類や写真は失われ、国籍を取得するには、新たに戸籍を作る就籍手続しかない。

 日本財団は「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」と共同で東京家裁への就籍申し立てを進め、これまで百三十人が国籍を取得、約二百五十人が審理中、あるいは近く審判申し立ての予定となっている。

 現地調査でダバオを訪れた際、熱帯とはいえ、調度類もほとんどなく、形ばかりの小屋で暮らす残留二世の女性を訪ねたことがある。女性はカタカナで自分の名前を書き、幼時に覚えた日本の歌を歌ってくれた。「日本人であることを認めてほしい」と控え目に語る老いた女性を見ながら、「こんなことがあっていいのか」、涙を禁じ得なかった。

 中国残留孤児は、同じ就籍手続きで既に約千三百人が日本国籍を取得している。残留孤児は満蒙開拓団など国策による移民の子で両親とも日本人。残留二世とはやや性格を異にするが、国籍に関する法律的立場に何ら違いはない。にもかかわらず残留二世に対する政府の取り組みは何故か弱い。

 残留二世の平均年齢は七十歳を超え、九百人のうち過半の五百人は既に故人となった。生あるうちに「日本人の証」を求める二世の願いは時間との戦いになりつつある。同時に、これまでのフィリピンでの生活が在留資格のない“違法滞在”に当たり、国としてどうするか、未解決の問題も残されている。国が先頭に立たない限り事態は前に進まない。あらためて、そんな思いを強くしている。(了)





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