2019年10月10日(Thu)
《徒然に…》ボランティア研修が始まった
日本財団 アドバイザー 佐野 慎輔 2020年東京オリンピック・パラリンピックのボランティア研修会を見学させてもらった。東京・代々木の国立オリンピック記念青少年総合センター。1964年東京オリンピック選手村だった施設が会場である。 |
楽しく、わかりやすく
およそ300人、参加者で埋まった会場で3人の講師たちがわかりやすく、「ボランティアとして活動する心構え」「オリンピック・パラリンピックの歴史」や「ダイバーシティ(多様性)とインクルージョン(包括)の大切さ」といった基礎知識を話していく。受講者は、座った3人掛けのテーブルでグループに分かれて出題されたクイズの答えを考え、与えられた課題について考えをまとめる。グループワークは『One Team』としての一体感の醸成をめざした方法。ときに巧みな話に引き込まれ、笑いが広がった。 配布されたテキストは6章立て、全180ページ。研修内容とともによく考えられ、練り上げられたプログラムだ。 研修内容、テキストともに日本財団ボランティアサポートセンターが中心になった検討委員会による労作である。 「優しく、わかりやすい」から、約3時間にわたる研修でも集中力がきれなかった。ここで得た知識は、カウントダウンが始まった大会本番に向けて大きな力となっていくことだろう。いや、それ以上にこれが今後のスポーツボランティア育成の教科書、モデルとなっていくことは疑うべくもない。 ボランティアは自主的な奉仕活動である。最近は少しトーンが落ちた気もするが、ボランティアを「ただ働き」の「強制だ」と批判する人がいる。たぶん、そうした人たちがもしこの光景をみたら、「偽善の塊」とでも批判するかもしれない。ただ参加した人たちは「強制された」わけではなく、自ら募集に応じた人たちである。8万人の定員に、なんと20万人を超える応募があった。都市ボランティアには、中核をなす1万1000人の東京マラソン・ボランティアに加えて、3万600人の人が集まった。 「とにかくオリンピック・パラリンピックに関わりたい」「スポーツが大好きだから」「人の役に立ちたい」…理由はさまざまだが、自分の意志で集まった人たちである。 ボランティアは選手や観客のために活動し、一緒になって大会を盛り上げる重要な役割を担う。世界的なお祭りにインナーサークルの一員として参加する“祝祭ボランティア”の人たちには、ぜひ大会を楽しみながら盛り上げていただきたい。彼ら一人一人の活躍が、2020年東京大会の大きなレガシーとなることは間違いない。 ボランティアとの触れ合いは心に残る ここ四半世紀ほど、何かしらの形でオリンピック・パラリンピックに関わってきた。記者席や取材現場、メーンプレスセンター(MPC)詰め、そして観客としてもボランティアの人たちに少なからずお世話になった。 1994年リレハンメル冬季大会、まだ大会が始まる1年ほど前、オスロ駅でうろうろしていたら声をかけてくれる人がいた。電車の乗り方、チケットの買い方、「来年はボランティアをする」という若い男性が丁寧に教えてくれた。それが始まりである。 1996年アトランタ大会、隣の会場に行くために乗ったメディア用のバスは実に遠回りして会場に着いた。「あまり、アトランタの道路は知らないんだ」。ほかの州から来たというボランティア・ドライバーのすまなそうな顔に、思わず笑ってしまった。競技時間に余裕もあり、奇妙な緊張感がほぐれた。 1998年長野冬季大会、朝早くから寒さに震えながら駐車場の整理にあたっていた人に頭を下げたら、「これが私の役目です」と返ってきた。アテネ、北京、ロンドン…いずれも自分の役割に誇りをもって活動している人たちとふれあった。空席の目立った2016年リオデジャネイロ大会の競技会場、試合を盛り上げたのはボランティアの飛びっ切りの笑顔と熱狂だった。2018年平昌冬季大会にも確かに豊かな笑顔があった。 忘れられない出来事がある。2000年シドニー大会はシドニーに駐在していたから連日、シドニー北部の自宅から西部ホームブッシュベイのMPCまで1時間以上かけて通った。大会も半ばを過ぎたある日、時計は午前2時をまわっていた。長い時間待ってようやくメディアバスに乗り込むと、乗客は4、5人。みんな組織委員会が用意した記者村≠ナ下車してしまい、私ひとりが残された。最寄りの停留所を告げて、やがて疲れもあったのだろう。すっかり寝入ってしまった。 「停留所だよ」。大きな声に目を覚ました。すると、ドライバーは聞いてきた。「ここから遠いのか」。「うん20分ほど歩く」。そう言うと彼は、「わかった。道案内してくれ、自宅まで送り届けるよ」。泥のように眠る姿に同情してくれたらしい。彼の親切に甘え、ルール違反だが、正規のルートを大きく外れて自宅の前まで送ってもらった。 彼はシドニー郊外に住む会社員。大型免許を持っており、地元で開くオリンピックのボランティアをかってでた。もちろん賃金など出ない。もらえるものはユニホームと感謝の言葉だけ。それでも「大きな国際イベントに参加して、シドニーを知ってもらうことがうれしい」と話した。彼にはポケットにあった当時勤務していた産経新聞社と日本オリンピック委員会のピンバッジを「ありがとう」の言葉とともに贈った。ただそれだけの話なのだが、今も心にしっかりと残っている。 ボランティアは人生を変える ボランティアによって人生が変わった、いや生き方を変えた男の話をしたい。 彼の名は丸山一郎という。 障害者と関わり、障害者の側に立って考え、悩み、障害者が行動することの難しさ、厳しさを深く理解し、障害者のために活動した人である。 丸山の大きな仕事はいくつもある。特筆されるべきは東京都職員から出向、障害者の就労支援施設を運営する社会福祉法人東京コロニーを運営したことであろう。大分県別府市にある障害者の社会復帰をめざす福祉施設『太陽の家』で学び、日本初の障害者のための福祉工場・東京都葛飾福祉工場(通称・東京コロニー)の初代工場長として製品開発から営業まで先頭に立った。以後、ここは太陽の家とともに、日本の福祉事業のモデルとなる。 丸山は国際労働機関(ILO)に日本の障害者雇用の実態を訴え、日本の政策はILO159号条約等に違反していると申し立て、受理されたことがあった。 この申し立てによってILOは動き、障害者の権利保護の動きが諸外国でも高まって、雇用法改正などに結びついていく。実はこのとき、丸山は末期の膵臓がんと闘っていた。闘病生活をおくりながら、障害者の雇用促進運動を率いた。まさに壮絶な闘いであった。 その丸山の原点こそ1964年東京パラリンピックにある。長野県松本市出身、慶応義塾大学工学部在学中に友人の誘いで当時、日本赤十字社が募集していた東京パラリンピックの語学ボランティアに応じた。最初は軽い動機、学生らしい「なんでもみてやろう」という思いからだ。 東京パラリンピックが開催されるとはいえ、当時はまだ日本に障害者がスポーツする環境などなく、ようやく大分の国立別府病院の整形外科医長、中村裕の尽力によって大会開催にこぎつけた。ちなみに中村は英国ストークマンデビル病院で「パラリンピックの父」と後に称されるルードウィッヒ・グットマン博士に学び、障害者のリハビリにスポーツが有益であると初めて日本に広めた人物である。 パラリンピックで丸山は通訳ボランティアを務めるとともに、陣頭指揮を執る中村の側らで仕事を手伝っていた。選手団長であり、国際組織とのパイプ役であり、さらに医師として医療部門にも深く携わる中村は忙しく、満足に食事もとれない。丸山は進んでサポートを続けていくうち、障害のあるアスリートを通して障害者問題に傾注していく。そして中村がパラリンピック大会翌年、別府に『太陽の家』を開設すると、周囲の反対を押し切って職員として応募。その後、障害者支援に人生を捧げる一歩を踏み出したのだった。 軽い気持ちが重い仕事へ、やがて天職となっていく。それは東京パラリンピックでのボランティア活動が始まりに他ならなかった。 ボランティアこそ、大会成功の源 多くの人が丸山のような道を選択するとは思わない。ただ、ボランティア活動をすることによって何かが変わる、と思う。参加者はきっとそんな体験をするだろう。それはボランティアに応じた者だけに与えられた特権だ。 大会成功には3つの要素が必要である。1つが好天。2つめは選手、とりわけ開催国の選手たちの活躍。そして3つめがボランティアの活動。それを実証してみせたのが、2012年ロンドン大会にほかならない。「ゲームメイカー」と呼ばれた約7万人の大会ボランティアが大会の顔として選手や観客を試合に集中できるようサポートし、文字通り、熱戦を演出した。「ロンドンアンバサダー」という約8000人の都市ボランティアは、市内各所で民間外交官のような活躍をみせた。ロンドンが「近年まれにみる成功した大会」と評価された最大の要因である。 彼らは、ただ与えられた役目を果たしただけではない。進んで大会を盛り上げ、訪れた人に好印象を残した。「ボランティアが大会を支え、成功に導く」と言われる所以である。 ボラサポセンターは日本、東京でそうした雰囲気の醸成を考えた。だからこそ、さまざまに練り上げられた“教科書”を創り上げたのである。どうぞ、これが新たな文化の醸成、社会変革の出発点であってほしい。 ※丸山一郎に関する参考文献:渡辺忠幸著『常に先駆け走り抜く』(一般社団法人ゼンコロ) |