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2019年06月24日(Mon)
「無謀な作戦」の影響を後世に!
戦没者の尊い犠牲の上に今の平和
インパール平和資料館開館に想う

日本財団 参与 宮崎 正

風の香りロゴ第二次大戦の中で最も激しい戦闘の一つとされるインパール作戦から75年。激戦の地に日本財団の支援で「平和資料館」が完成し6月22日、地元インドのほか日本、英国の関係者らが出席して開館式が行われた。補給を軽視したこの作戦では、武器、弾薬、食料が途絶え、投入された旧陸軍3個師団約8万5000万人のうち3万人が戦死、4万人近くが戦病死したとされ、「無謀な作戦」として語り継がれている。

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レッドヒルの麓に開館したインパール平和資料館

一方でイギリス軍の損害も大きかった。久山忍著「インパール作戦 悲劇の構図」(潮書房光人新社)などによると、編入されたインド兵を含め1万5000人が戦死、2万5000人の戦病者が出た。日本軍と行動を共にしたインド国民軍(INA)や戦場となったインド北東部のマニプール、ナガランド両州では多くの住民が犠牲になったと言われている。

式典の挨拶で笹川陽平・日本財団会長は、大戦後のインドの独立や“今ある平和”が「これら戦没者の尊い犠牲の上に成り立っている」と指摘し、ドミニク・アスクイス在インド英国高等弁務官は「戦争で命を落とした兵士たちの思いを無駄にしてはいけない」と述べた。戦地に散った英霊のためにも、この戦争がその後の歴史にどのような影響を与えたのか、幅広く後世に伝えられる必要がある。

「最悪な作戦」のあまりに悲惨な結末が、関係者の口を重くしたのかもしれないが、日本国内ではこうした点の議論がともすれば希薄だった気がする。平和資料館が改めてその役目を果たすよう期待する。

平和資料館は旧日本軍が目指したインパール市の西方20キロの「レッドヒル」と呼ばれる小高い丘の麓に建つ。地元で「Japan War」(日本の戦争)と呼ばれ、インドの歴史にも大きな影響を与えたインパール作戦の記録を後世に残すため、地元の若者らが始めた資料収集などを日本財団が支援し、約5000万円の費用で完成した。

8角形の平屋建て建物には展示スペースや中央ホールなどが整備され、「戦争」、「戦後」、「生活・文化」のコーナーが設けられ、写真や資料、地元民の証言映像などが展示され、中央には安倍晋三首相直筆の「平和」の額も飾られた。引き続き資料の発掘、収拾が進められる。

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館内には安倍首相直筆の「平和」の額も

開館式には日本から訪れた遺族、地元観光協会関係者のほか、首都デリーから多数の日本関係者も訪れ、インパール市内にある連合国軍墓地、資料館近くに旧厚生省(現厚生労働省)が15年前に建てたインド平和記念碑に献花した後、開館式に臨んだ。この後、インパール市内のホテルに移り記者発表、さらにインパール作戦75周年を記念した文化イベントも行われ、平松賢司・駐インド日本大使は「日本、英国、インドの関係は過去にないくらい、いい関係にある。戦争で亡くなった人に思いを馳せ友好を続けて行く」と述べた。(宮崎正)

[インパール作戦]1944年3月、ビルマ(現ミャンマー)方面軍の3個師団がインドとの国境を流れるチンドウィン河、さらに3000メートル級のアラカン山脈を越え、マニプール州の州都インパールにあった英軍基地の制圧を目指した。連合国軍の補給路を断つのが目的で、3週間の短期決戦をうたい補給は最初から軽視された。陸軍内部からも疑問の声が上がる中、強行され、装備を固めた英軍の前に大敗、7月に入り作戦中止を決定し、多くの日本兵が命を落とした敗走路は“白骨街道”と呼ばれた。日本軍に参加したインド国民軍兵士らの軍事裁判の動きにインド国民が反発、反対運動が盛り上がる中で英国からのインド独立が実現した。
タグ:日本財団 宮崎正 風の香り
カテゴリ:世界







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