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2012年01月20日(Fri)
ミャンマー・シットウェを訪ねて
(SANKEI EXPRESS 2012年1月20日掲載)

かつての激戦地 面影無く

民主化運動に世界の注目が集まるミャンマー。昨年12月16、17の両日、中国、インドに接し、インド洋に面する要衝の地、ラカイン州を訪れた。州都シットウエは戦前、アキャブと呼ばれた場所だ。
軍政時代には、立ち入りが禁止されたカルダン川をさかのぼると、乾季とはいえ、豊かな水がゆっくりと流れ、川岸では大きな角の水牛が草をはみ、沈みそうなまでに穀物を積み込んだ小船も見える。
シットウエから船で約3時間、70`ほど上流に進むと古都ミャウーに到着。15世紀から約350年間、アラカン国として栄えた都には、先が尖った黒い仏塔が南国の強い日差しを浴びて影絵のように立ち並んでいた。
再びカルダン川に沿ってシットウエに向かうと、ちょうど川面にオレンジ色の光を映しながら、大きな夕陽が静かに沈んでいった。時の流れが止まったような、のどかな風景。しかし、この一帯はかつてビルマ戦線の激戦地でもあった。
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ゆっくりと沈む夕日がカラダン川に映る=2011年12月16日

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穀物を載せた小舟が静かにカラダン川を下る。心和むミャンマーの光景だ

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15世紀から約350年間、アラカン国として栄えた古都ミャウー。
黒い仏塔が南国の強い日差しを浴びて影絵のように立ち並ぶ

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シットウェ市の寺院内を歩く少年僧。
カメラを向けられ、少し照れた表情を見せた


因縁の地 押し寄せる大国資本の波
アキャブは日本軍が南方に展開したインパール作戦の重要拠点のひとつと位置付けられていた。平屋のターミナルビルが建つシットウエ空港の敷地はエースパイロットがそろう「加藤隼戦闘隊」の拠点だった。
現在のシットウエ市内の寺院には12年前、日本人有志が立てた慰霊碑もある。寺院を訪ねると、住職が本堂の柱の傷を指しながら「大戦末期、日本兵が床下に逃げ込み英軍と銃撃戦の末、命を失った。これがその時の銃弾の跡」と説明してくれた。
シットウエには今、新たな貿易拠点、天然資源を求めて、インド、中国資本が押し寄せている。
シットウエ港の周辺を回ると、小船が行き交う昔ながらの光景の傍らで、インド資本による大規模な改修工事が進められていた。約100キロ南方のチャウッピューでは天然ガス田も見つかり、中国雲南省に通じるパイプラインの建設も進行している
一方、日本も今月12日、産業界代表がミャンマーを訪問、貿易、投資の拡大に意欲を示した。シットウエが再び注目されるかもしれない。(宮崎正)

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寺院内の柱には銃弾の痕。戦争の爪痕が生々しく残る

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シットウェ港は新たな貿易拠点としてインド資本による改修工事が急ピッチで進められている


<インパール作戦>
日本軍が1944年、インド北東部の都市インパール攻略をねらった作戦で、この年の6月末まで連合軍側と激しい戦闘を繰り広げた。「ウ号作戦」ともいわれる。ビルマ(現ミャンマー)戦線の転換点とされ、日本軍は苦境に立たされることになった。

<加藤隼戦闘隊>
日本陸軍の加藤建夫中佐(1903〜42年、最終段階は少将)率いる飛行第64戦隊。1941年から展開された南方作戦でマレー作戦の船団護衛のため、夜間における洋上飛行を実施。南進作戦を優位に進めることに成功した。加藤中佐はアキャブで戦死した。

タグ:ミャンマー
カテゴリ:災害支援・防災




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