電子レンジの寄付を求めています
寝屋川市民たすけあいの会では10年前から「一人暮らし支援」を行ってきました。
そのメニューの一つに一人暮らしへの移行や生活困窮の方への「小型家電の提供」を行ってきました。
寄付いただいたものをストックしておき必要な方に提供してきました。
実は先月から立て続けに、緊急の支援依頼が入っておりストックが底をついてきました。これまでは年間で2〜3件だったものが先月からで3件。ちょっと異常事態です。
寄贈の方もだいたい年間2、3件なのてバランスが一気に崩れてしまっています。
これから年度末に近づいて、転居や移動に伴い小型家電があまりますという方が出やすい時期です。ぜひ、いろいろな方にお声かけいただけないでしょうか?
(遠くにとりにはいけないので、寝屋川市近郊の方にお願いします)
いま求めているのは
電子レンジ
電気ポット
炊飯器
掃除機
が、主です。
一人暮らし向きの家電であればいただきます。
なにとぞ、よろしくお願いします
2022年01月16日
2019年08月07日
インターンシップ&一日体験参加者募集します
2019年01月10日
3.たすけあいからのネットワーキングの現在地 多久寛子さん−重度障害者等包括支援事業と重度知的障害者の一人暮らし支援
3.多久寛子さん−重度障害者等包括支援事業と重度知的障害者の一人暮らし支援
(通例 こういった文章などでは個人名をださずにイニシャルで紹介することが圧倒的ですがここではあえて、ご本人のお名前を出しています。本文中にも触れていますが、それは当会が彼女をはじめ漠然としただれかを支援させていただいているのではなく、固有名詞「多久寛子」さんとの関係性の中で支援を構築しているからです。そのスタンスで、これまでも、TVの取材やその他でもすべて彼女は実名で出演、登場しています。)
寝屋川市民たすけあいの会の40年を語るときに、多久寛子さんのことは外すことはできません。
現在、私たちが運営をしている「社会参加活動センター ぼちぼちはうす(制度上は地域活動支援センターU型)」を作ることになったのも、彼女が市内の通過型施設を修了する際にその後の通所先を母が当会に相談に来られたことからはじまっています。障害者自立支援法が始まるときに、その自分たちがつくって制度化した「ぼちぼちはうす」が廃止/存続の危機になったときにも率先し活動を、また、毎日放送のドキュメンタリー映像06「ぼちぼちはうす〜障害者自立支援法の波紋〜」の取材のときにもご協力をいただきました。何より彼女自身がとても重い知的障害がありながら、地域の学校に行き、学童保育を利用し、地域のお祭りには必ずと言っていいほど母子で出席、出店し、自宅を開放し、「文庫活動」をされておられたご家庭でした。
そもそも、ボランティア活動のみを行っていた寝屋川市民たすけあいの会がなぜ、事業を行うようになったのか?10周年記念誌「たすけあいからのネットワーキング」の中にも、「ボランティア・ビューロー、ボランティア活動だけではなく障害者の作業所などつくっていくべきではないかという議論があるが、それはやらない」と整理をされています。p142
振り返ってみると外在的な要因と内在的な要因があったように思います。外在的な要因は、「はじめに」に書いた1998年のNPO法、2000年の介護保険があります(2003年の支援費は当会が事業をやりはじめてからはじまりました)。外在的な要因としてもう一つ注文すべき点は、1995年の阪神淡路大震災とそのときの「ボランティア」元年と言われるボランティア文化の転換があるようにも思います。その大部分はNPO法創設につながっていくと一般には言われていますが、実はその前からの「ボランティア活動」が市民権を得始めていた1990年代前半、福祉制度の変更、「環境(エコ)」に対する市民の関心の高まりなど、ボランティアを取り巻く社会事情が変わっていたことが、当会を取り巻く外在的な要因の変化にもつながっていると思います。
内在的な要因として、その時期は、会発足10周年以降、運営の中心だったメンバーが抜け、運営状況も変わりつつある中、また会発足の契機を担い、その後も職員の派遣などを行っていただいていた大阪ボランティア協会との関係性もかわり、大きく会の運営の「自立」が必要になってきていた時期でもありました。
また、そういった運営の自立の議論の中から、「ボランティア・ビューロー」という看板はあっても、日本で「ボランティア・コーディネート」を生み出したと言われる活動の一つだったと言われても、実際の活動をするボランティアたちは「コーディネート(調整型)」よりも「課題解決型」の志向が強かったということもあると思います。例えば、コーディネートから生み出された「在宅療養者交流会」(たすけあいからのネットワーキングP43)もこの頃から、在宅ボランティア活動の活動先の「支援を必要とされる人」どおしをつなぐという役割よりも、もっとプログラム化され、「外出のプログラム」という取り組みのアナウンスから新しい人につながっていく、口づてに広がるという流れが強くなってきます。
自分たちが培ってきた「ボランティア文化」ではないものが広がり、また地域の福祉を課題解決として行っていくべきであるという社会制度の変化、そして、会の「自立」のプロセスの中で出てきた(強まってきた)課題解決志向。そういった90年代後半の内・外の動きや事情の中で、多久寛子さんの母の「たすけあいの会で(障害者)作業所をやってほしい」という話から、「ぼちぼちはうす」を作る動きが本格化していきます。「在宅療養者交流会」などで広がってきたつながりから在宅の重度の障害のある方と出会い、保健所などの新しい事業の支援依頼から中途障害の方との出会い。また、市内で開催される環境啓発イベント「エコフェスタ」の300ブースのフリーマーケットのとりまとめを依頼されて、その事務局を担うというような、確かにこれまでの活動の延長戦上にはありますが、そもそもの規模のかなり大きな「ネットワークを広げる活動」(4)も大きく関連しています。直接的・間接的なネットワーク活動が大きく拡がった中で事業活動をはじめることになったと言えると思います。もちろん、前項で触れたこどもたちのプログラムを発足当初から中断しながらも行ってきていて、そこで出会ったこどもたちが成人になり、通所先がないとか、支援(サービス)を受けることが十分にできないという現状の声をきく中から、再度出会っていく「プロセス」であったと思います。10年、15年たって再び出会い、その人たちと一緒につくったものが、「ぼちぼちはうす」であり、「ヘルパーステーション『ほっと』」でした。
「ぼちぼちはうす」は約2年間の制度外の運営を経て、2003年の支援費制度施行と同時に「(基準該当)身体障害者デイサービス」になります。(5)2000年の介護保険施行時に「(基準該当)での訪問介護をはじめ、2002年の精神障害者居宅介護事業の補助、2003年に身体、知的障害者の居宅介護の補助(支援費制度の指定)。(6)これらは当会が行政からの補助がないままに、ボランティア(ボランタリー)に行っていた活動を市が追認して、制度化していく流れでした。そうして本格的にボランティア活動とは別に制度内事業を行っていくようになっていきます。
ただ、社会の流れは「サービスニーズがあるからサービスを創設していく」という市場化の流れでしたが、それに抗うように私たちは、「つながりから創っていく」支援、そして、それを市民の意識として事業化も行っているようにできるだけ市と協議して、市の追認を得ながら行っていくというスタイルをとっています。
2006年に障害者自立支援法が施行されるときに、「ぼちぼちはうす」は元になる制度である「身体障害者デイサービス」がなくなるということで、廃止の危機に陥りました。そのときにも安易に単なる存続という思考ではなく、専門家でない人でもかかわることができるように新しく創設された重度障害者等包括支援(7)の指定をとりました。また、市との協議の結果、地域活動支援センターの委託も受け、ることができましたし、その際に、自主事業ではじめていた「スリーコイン ランチ王」・精神障害者を対象にしたランチサロンの事業を対象にして、福祉分野での精神障害者デイサービスを地域活動支援センターU型としてはじめました。「地域活動支援センターU型+重度障害者等包括支援事業の日中部分」というのが制度でいえば、現在の「ぼちぼちはうす」の位置づけになります。現在では、利用対象者は、重度肢体不自由者、重度知的障害者に精神障害、加えて、現在は高次脳機能障害(8)、発達障害者も入ってきています。
多久寛子さん(9)
そんな当会の事業の中心を担ってきた多久さんですが、2011年の夏にお母さんが急に入院され、その約1ヶ月後には意識がない状態になり、入院して2ヶ月半後には亡くなられてしまいます。母子2人暮らしで、身寄りのない多久さん。
母のずっと実践してこられたこの地域で暮らし続けたい、多久さん自身のここで暮らしたいという思いに応えていくために、私たちは体制づくりを行い、短期入所を組み合わせながらも、ヘルパーの支援を入れながら、一人暮らしをしていただいています。重度知的障害でかつ行動障害のある方の一人暮らしという生活の形態は全国的にみてもかなり少数です(10)。 「ふわりんクルージョン2017」2017.1.29 日本地域共生協議会主催のシンポジスととして発表させていただいたときにも述べましたが、私たちは「重度知的障害があり行動障害者」の一人暮らしを支援しているわけでもなく、「重度知的障害があり行動障害のある多久寛子さん」を支援しているわけでもなく、「多久寛子さん」とともに寝屋川という地域で生活をしていくために支援をし、支援を組み立てています(11)。
もちろん、唯一の身寄りであり、親族後見人であった母が急に亡くなられたわけですし、彼女自身が何らかの明確なことばによる意思疎通ができるわけではありませんから、ここまで安定した生活を組み立て、かつ、保ちつつづけていくには大きな課題をいくつも乗り越えています。少なくとも、重度の知的障害者が一人暮らしをするには全く制度は追いついていません。隙間だらけです。その「隙間」はともに歩んでいるからこそ埋めていくことができているのです。
多久寛子さんの生活 「ふわりんクルージョン2017」2017.1.29 発表資料
(5)昔、障害福祉の分野で言わていた「在宅」。行き場(通所先、所属先)のない重度重複障害者ばかりが集まって始まる。
(6) 2003年支援費制度がはじまるまで、寝屋川市の障害者ガイドヘルプ事業は、寝屋川市が直営で行っていた。利用者もヘルパーも市に登録をする形だった。実際は市の調整力は低く、重度者にはほとんど派遣ができていない状況だった。
(7)重度障害者等包括支援事業は居宅介護の事業の一つでありながら、従事者に資格を有しないものも従事ができる。障害者自立支援法(現在は障害者総合支援法)の制度であるが全国的に利用は低調で大阪府内で実際に利用者がいるのは当事業所のみ。事業所の利用者数でいえば、全国で2番目に多い事業所である(2018年10月現在 7名)
(8)字数の都合上、高次脳機能障害者の支援について詳細を書くことができないがここ数年当会には多くの中重度の高次脳機能障害者支援の依頼がある。4年前から地域活動支援センターの一セクションとして、リハビリ要素を付加して活動をしている。
(9)多久寛子さんのひとりぐらしの様子は https://youtu.be/qSDiek2vFMQ
(10)「統計は見当たらないが、30年前から知的障害者の自立を支援している市民団体「たこの木クラブ」代表の岩橋誠治さんによると、一人暮らしをしている重度知的障害者は全国で100人もいないとみられている。」『げんちゃん、みんなを変えた 知的障害者が一人暮らしすること』岩永直子 https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/genchan?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharetwitter&utm_term=.vfKJGWa1e
(11)以下の動画で多久寛子さんの生活を紹介している https://youtu.be/MFOlMwBsEZ4
(通例 こういった文章などでは個人名をださずにイニシャルで紹介することが圧倒的ですがここではあえて、ご本人のお名前を出しています。本文中にも触れていますが、それは当会が彼女をはじめ漠然としただれかを支援させていただいているのではなく、固有名詞「多久寛子」さんとの関係性の中で支援を構築しているからです。そのスタンスで、これまでも、TVの取材やその他でもすべて彼女は実名で出演、登場しています。)
寝屋川市民たすけあいの会の40年を語るときに、多久寛子さんのことは外すことはできません。
現在、私たちが運営をしている「社会参加活動センター ぼちぼちはうす(制度上は地域活動支援センターU型)」を作ることになったのも、彼女が市内の通過型施設を修了する際にその後の通所先を母が当会に相談に来られたことからはじまっています。障害者自立支援法が始まるときに、その自分たちがつくって制度化した「ぼちぼちはうす」が廃止/存続の危機になったときにも率先し活動を、また、毎日放送のドキュメンタリー映像06「ぼちぼちはうす〜障害者自立支援法の波紋〜」の取材のときにもご協力をいただきました。何より彼女自身がとても重い知的障害がありながら、地域の学校に行き、学童保育を利用し、地域のお祭りには必ずと言っていいほど母子で出席、出店し、自宅を開放し、「文庫活動」をされておられたご家庭でした。
そもそも、ボランティア活動のみを行っていた寝屋川市民たすけあいの会がなぜ、事業を行うようになったのか?10周年記念誌「たすけあいからのネットワーキング」の中にも、「ボランティア・ビューロー、ボランティア活動だけではなく障害者の作業所などつくっていくべきではないかという議論があるが、それはやらない」と整理をされています。p142
振り返ってみると外在的な要因と内在的な要因があったように思います。外在的な要因は、「はじめに」に書いた1998年のNPO法、2000年の介護保険があります(2003年の支援費は当会が事業をやりはじめてからはじまりました)。外在的な要因としてもう一つ注文すべき点は、1995年の阪神淡路大震災とそのときの「ボランティア」元年と言われるボランティア文化の転換があるようにも思います。その大部分はNPO法創設につながっていくと一般には言われていますが、実はその前からの「ボランティア活動」が市民権を得始めていた1990年代前半、福祉制度の変更、「環境(エコ)」に対する市民の関心の高まりなど、ボランティアを取り巻く社会事情が変わっていたことが、当会を取り巻く外在的な要因の変化にもつながっていると思います。
内在的な要因として、その時期は、会発足10周年以降、運営の中心だったメンバーが抜け、運営状況も変わりつつある中、また会発足の契機を担い、その後も職員の派遣などを行っていただいていた大阪ボランティア協会との関係性もかわり、大きく会の運営の「自立」が必要になってきていた時期でもありました。
また、そういった運営の自立の議論の中から、「ボランティア・ビューロー」という看板はあっても、日本で「ボランティア・コーディネート」を生み出したと言われる活動の一つだったと言われても、実際の活動をするボランティアたちは「コーディネート(調整型)」よりも「課題解決型」の志向が強かったということもあると思います。例えば、コーディネートから生み出された「在宅療養者交流会」(たすけあいからのネットワーキングP43)もこの頃から、在宅ボランティア活動の活動先の「支援を必要とされる人」どおしをつなぐという役割よりも、もっとプログラム化され、「外出のプログラム」という取り組みのアナウンスから新しい人につながっていく、口づてに広がるという流れが強くなってきます。
自分たちが培ってきた「ボランティア文化」ではないものが広がり、また地域の福祉を課題解決として行っていくべきであるという社会制度の変化、そして、会の「自立」のプロセスの中で出てきた(強まってきた)課題解決志向。そういった90年代後半の内・外の動きや事情の中で、多久寛子さんの母の「たすけあいの会で(障害者)作業所をやってほしい」という話から、「ぼちぼちはうす」を作る動きが本格化していきます。「在宅療養者交流会」などで広がってきたつながりから在宅の重度の障害のある方と出会い、保健所などの新しい事業の支援依頼から中途障害の方との出会い。また、市内で開催される環境啓発イベント「エコフェスタ」の300ブースのフリーマーケットのとりまとめを依頼されて、その事務局を担うというような、確かにこれまでの活動の延長戦上にはありますが、そもそもの規模のかなり大きな「ネットワークを広げる活動」(4)も大きく関連しています。直接的・間接的なネットワーク活動が大きく拡がった中で事業活動をはじめることになったと言えると思います。もちろん、前項で触れたこどもたちのプログラムを発足当初から中断しながらも行ってきていて、そこで出会ったこどもたちが成人になり、通所先がないとか、支援(サービス)を受けることが十分にできないという現状の声をきく中から、再度出会っていく「プロセス」であったと思います。10年、15年たって再び出会い、その人たちと一緒につくったものが、「ぼちぼちはうす」であり、「ヘルパーステーション『ほっと』」でした。
「ぼちぼちはうす」は約2年間の制度外の運営を経て、2003年の支援費制度施行と同時に「(基準該当)身体障害者デイサービス」になります。(5)2000年の介護保険施行時に「(基準該当)での訪問介護をはじめ、2002年の精神障害者居宅介護事業の補助、2003年に身体、知的障害者の居宅介護の補助(支援費制度の指定)。(6)これらは当会が行政からの補助がないままに、ボランティア(ボランタリー)に行っていた活動を市が追認して、制度化していく流れでした。そうして本格的にボランティア活動とは別に制度内事業を行っていくようになっていきます。
ただ、社会の流れは「サービスニーズがあるからサービスを創設していく」という市場化の流れでしたが、それに抗うように私たちは、「つながりから創っていく」支援、そして、それを市民の意識として事業化も行っているようにできるだけ市と協議して、市の追認を得ながら行っていくというスタイルをとっています。
2006年に障害者自立支援法が施行されるときに、「ぼちぼちはうす」は元になる制度である「身体障害者デイサービス」がなくなるということで、廃止の危機に陥りました。そのときにも安易に単なる存続という思考ではなく、専門家でない人でもかかわることができるように新しく創設された重度障害者等包括支援(7)の指定をとりました。また、市との協議の結果、地域活動支援センターの委託も受け、ることができましたし、その際に、自主事業ではじめていた「スリーコイン ランチ王」・精神障害者を対象にしたランチサロンの事業を対象にして、福祉分野での精神障害者デイサービスを地域活動支援センターU型としてはじめました。「地域活動支援センターU型+重度障害者等包括支援事業の日中部分」というのが制度でいえば、現在の「ぼちぼちはうす」の位置づけになります。現在では、利用対象者は、重度肢体不自由者、重度知的障害者に精神障害、加えて、現在は高次脳機能障害(8)、発達障害者も入ってきています。
多久寛子さん(9)
そんな当会の事業の中心を担ってきた多久さんですが、2011年の夏にお母さんが急に入院され、その約1ヶ月後には意識がない状態になり、入院して2ヶ月半後には亡くなられてしまいます。母子2人暮らしで、身寄りのない多久さん。
母のずっと実践してこられたこの地域で暮らし続けたい、多久さん自身のここで暮らしたいという思いに応えていくために、私たちは体制づくりを行い、短期入所を組み合わせながらも、ヘルパーの支援を入れながら、一人暮らしをしていただいています。重度知的障害でかつ行動障害のある方の一人暮らしという生活の形態は全国的にみてもかなり少数です(10)。 「ふわりんクルージョン2017」2017.1.29 日本地域共生協議会主催のシンポジスととして発表させていただいたときにも述べましたが、私たちは「重度知的障害があり行動障害者」の一人暮らしを支援しているわけでもなく、「重度知的障害があり行動障害のある多久寛子さん」を支援しているわけでもなく、「多久寛子さん」とともに寝屋川という地域で生活をしていくために支援をし、支援を組み立てています(11)。
もちろん、唯一の身寄りであり、親族後見人であった母が急に亡くなられたわけですし、彼女自身が何らかの明確なことばによる意思疎通ができるわけではありませんから、ここまで安定した生活を組み立て、かつ、保ちつつづけていくには大きな課題をいくつも乗り越えています。少なくとも、重度の知的障害者が一人暮らしをするには全く制度は追いついていません。隙間だらけです。その「隙間」はともに歩んでいるからこそ埋めていくことができているのです。
多久寛子さんの生活 「ふわりんクルージョン2017」2017.1.29 発表資料
(5)昔、障害福祉の分野で言わていた「在宅」。行き場(通所先、所属先)のない重度重複障害者ばかりが集まって始まる。
(6) 2003年支援費制度がはじまるまで、寝屋川市の障害者ガイドヘルプ事業は、寝屋川市が直営で行っていた。利用者もヘルパーも市に登録をする形だった。実際は市の調整力は低く、重度者にはほとんど派遣ができていない状況だった。
(7)重度障害者等包括支援事業は居宅介護の事業の一つでありながら、従事者に資格を有しないものも従事ができる。障害者自立支援法(現在は障害者総合支援法)の制度であるが全国的に利用は低調で大阪府内で実際に利用者がいるのは当事業所のみ。事業所の利用者数でいえば、全国で2番目に多い事業所である(2018年10月現在 7名)
(8)字数の都合上、高次脳機能障害者の支援について詳細を書くことができないがここ数年当会には多くの中重度の高次脳機能障害者支援の依頼がある。4年前から地域活動支援センターの一セクションとして、リハビリ要素を付加して活動をしている。
(9)多久寛子さんのひとりぐらしの様子は https://youtu.be/qSDiek2vFMQ
(10)「統計は見当たらないが、30年前から知的障害者の自立を支援している市民団体「たこの木クラブ」代表の岩橋誠治さんによると、一人暮らしをしている重度知的障害者は全国で100人もいないとみられている。」『げんちゃん、みんなを変えた 知的障害者が一人暮らしすること』岩永直子 https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/genchan?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharetwitter&utm_term=.vfKJGWa1e
(11)以下の動画で多久寛子さんの生活を紹介している https://youtu.be/MFOlMwBsEZ4
2018年12月07日
たすけあいからのネットワーキング 3−2
「たすけあいからのネットワーキング」の現在地
(4)高次脳機能障害者支援について
これまでもふれてきましたように、寝屋川市民たすけあいの会の活動の歴史は、制度やサービスの「すきま」に陥りがちな方についてのかかわりが多くありました。当然、そのことは、その時代、時代の制度やサービス、地域の現状によって変わっています。
その中で、近年、少しずつ社会的にも焦点が当てられてきているのが「高次脳機能障害」者(児)です。しかし、現在の制度、サービスでは難病者とともに「すきま」の障害とも言われています。当会では、現在、日中活動の地域活動支援センターU型(ぼちぼちはうす)の中に、高次脳機能障害ユニットをもうけてリハビリ・プログラムの提供をしています。
90年代の後半に2つの出会いがありました。一つは高齢者サービスが徐々に増えていく中で、市内にも単独型のデイサービスセンターができはじめました。また、当時は保健所を中心にして(現在で言う脳血管障害の方を対象に)病院から退院するときの支援と地域リハビリテーションを保健事業ではじめられていて、その二つからボランティアの依頼が入り、活動をはじめていきました。もちろん、それまでにも中途障害者との出会いはありました(難病の方が多い)が、制度が動きはじめたときに、特に40代の中途障害者の生活問題や社会復帰に向けての課題、そして、その中でも、失語症の方の課題が突出してでてきていました。当時は、まだ、言語聴覚士が国家資格化もしていなかった時代です。
もう一つの出会いは脳外傷の方との出会いです。交通事故や転落事故で脳に損傷を負われ、後遺障害に悩まれている方たちとの出会いがこの頃に始まります。
前者の方たちとの出会いは、その後、当会のサロンや交流会への参加から、ずっとおつきあいが続いていくことになり、現在にいたりますし、失語症の方とのかかわりは、「寝屋川さくらんぼの会」発足にいたる経緯の中で、1997年に東京から故・遠藤尚志さんをお呼びし、実行委員会の一員として参画し、寝屋川市で「失語症ライブ」を開催したことに端を発します。失語症サポーター養成講座を失語症ボランティア講座として数年間開催もしてきました。寝屋川さくらんぼの会は、一緒に活動をさせていただいてた寝屋川市内の単独型デイサービスを会場にはじまり、その後、寝屋川市立保健福祉センターに場所を移し、いまでも月に1回開催しています。
そういったプログラム化によって出会った方たちとは別に、2000年頃から主に相談支援のチャンネルで、いわゆる高次脳機能障害の方たちとの出会いが増えてきます。この当時でもまだ、高次脳機能障害ということばはなく、若年の脳外傷者、脳血管障害の後遺症者になります。介護保険がはじまり、それでも40歳以上の脳血管障害者への支援は、それ以前に比べると格段に増えました。が、支援者の意識はあたりまえですが追いつきません。明確なニーズがあれば(たとえば、入浴)別ですが、70代、80代の方が中心のデイサービス(通所介護、通所リハ)に、40代の方が利用されても、なかなかなじめず、もっと違うところがないのか?という希望がでたり、医療制度の改革の中で病院でのリハビリ期間がどんどんと短くなっていくにしたがって、「リハビリ難民」が増えていく現状だったり、リハビリ施設から、地域に戻ってくる支援だったりがどんどんと入ってくるようになってきます。そして、付け加えるならば、「支援が難しい」と言われる行動上の障害がある高次脳機能障害者の相談と生活支援が増えていきます。そんな中で、日中活動の場であるぼちぼちはうすも高次脳機能障害の方の受け入れも少しずつ行うようになります。その文脈はこれまでにも述べてきたように「他に参加する場所がない」という背景に収斂するわけなのですが。
3,4年前から特に医療制度のリハビリテーションの改革が行われる時期相まって、高次脳機能障害の方へのスタッフに理学療法士が加わったこともあり、プログラムを編成するようになりました。そのときに、参考にさせていただいたのが発達障害者支援で行われていたアプローチです。特に水野敦之氏の「フレームワークを活用した自閉症支援」を中心にした「構造化」、「視覚化」、それに基づく「ワークシステム」づくりに、記憶障害へのアプローチとしてよく使われる「メモリーノート」、認知行動療法で使われる教材と理学療法を組み合わせて、独自のプログラムを行っています。
プログラム支援のなかでは、特に多職種連携を重視して、「理学療法士」「精神保健福祉士」「社会福祉士」に相談支援専門員が加わり、支援を行っています。
こうした日中活動の中での取り組みだけではなく、生活支援でもやはりまだまだニーズは多くあります。精神障害者や難病者の医療と福祉の連携の課題はよくいわれるところですが、実際のところ、高次脳機能障害者についても医療と福祉の連携を強く感じるところです。
(4)高次脳機能障害者支援について
これまでもふれてきましたように、寝屋川市民たすけあいの会の活動の歴史は、制度やサービスの「すきま」に陥りがちな方についてのかかわりが多くありました。当然、そのことは、その時代、時代の制度やサービス、地域の現状によって変わっています。
その中で、近年、少しずつ社会的にも焦点が当てられてきているのが「高次脳機能障害」者(児)です。しかし、現在の制度、サービスでは難病者とともに「すきま」の障害とも言われています。当会では、現在、日中活動の地域活動支援センターU型(ぼちぼちはうす)の中に、高次脳機能障害ユニットをもうけてリハビリ・プログラムの提供をしています。
90年代の後半に2つの出会いがありました。一つは高齢者サービスが徐々に増えていく中で、市内にも単独型のデイサービスセンターができはじめました。また、当時は保健所を中心にして(現在で言う脳血管障害の方を対象に)病院から退院するときの支援と地域リハビリテーションを保健事業ではじめられていて、その二つからボランティアの依頼が入り、活動をはじめていきました。もちろん、それまでにも中途障害者との出会いはありました(難病の方が多い)が、制度が動きはじめたときに、特に40代の中途障害者の生活問題や社会復帰に向けての課題、そして、その中でも、失語症の方の課題が突出してでてきていました。当時は、まだ、言語聴覚士が国家資格化もしていなかった時代です。
もう一つの出会いは脳外傷の方との出会いです。交通事故や転落事故で脳に損傷を負われ、後遺障害に悩まれている方たちとの出会いがこの頃に始まります。
前者の方たちとの出会いは、その後、当会のサロンや交流会への参加から、ずっとおつきあいが続いていくことになり、現在にいたりますし、失語症の方とのかかわりは、「寝屋川さくらんぼの会」発足にいたる経緯の中で、1997年に東京から故・遠藤尚志さんをお呼びし、実行委員会の一員として参画し、寝屋川市で「失語症ライブ」を開催したことに端を発します。失語症サポーター養成講座を失語症ボランティア講座として数年間開催もしてきました。寝屋川さくらんぼの会は、一緒に活動をさせていただいてた寝屋川市内の単独型デイサービスを会場にはじまり、その後、寝屋川市立保健福祉センターに場所を移し、いまでも月に1回開催しています。
そういったプログラム化によって出会った方たちとは別に、2000年頃から主に相談支援のチャンネルで、いわゆる高次脳機能障害の方たちとの出会いが増えてきます。この当時でもまだ、高次脳機能障害ということばはなく、若年の脳外傷者、脳血管障害の後遺症者になります。介護保険がはじまり、それでも40歳以上の脳血管障害者への支援は、それ以前に比べると格段に増えました。が、支援者の意識はあたりまえですが追いつきません。明確なニーズがあれば(たとえば、入浴)別ですが、70代、80代の方が中心のデイサービス(通所介護、通所リハ)に、40代の方が利用されても、なかなかなじめず、もっと違うところがないのか?という希望がでたり、医療制度の改革の中で病院でのリハビリ期間がどんどんと短くなっていくにしたがって、「リハビリ難民」が増えていく現状だったり、リハビリ施設から、地域に戻ってくる支援だったりがどんどんと入ってくるようになってきます。そして、付け加えるならば、「支援が難しい」と言われる行動上の障害がある高次脳機能障害者の相談と生活支援が増えていきます。そんな中で、日中活動の場であるぼちぼちはうすも高次脳機能障害の方の受け入れも少しずつ行うようになります。その文脈はこれまでにも述べてきたように「他に参加する場所がない」という背景に収斂するわけなのですが。
3,4年前から特に医療制度のリハビリテーションの改革が行われる時期相まって、高次脳機能障害の方へのスタッフに理学療法士が加わったこともあり、プログラムを編成するようになりました。そのときに、参考にさせていただいたのが発達障害者支援で行われていたアプローチです。特に水野敦之氏の「フレームワークを活用した自閉症支援」を中心にした「構造化」、「視覚化」、それに基づく「ワークシステム」づくりに、記憶障害へのアプローチとしてよく使われる「メモリーノート」、認知行動療法で使われる教材と理学療法を組み合わせて、独自のプログラムを行っています。
プログラム支援のなかでは、特に多職種連携を重視して、「理学療法士」「精神保健福祉士」「社会福祉士」に相談支援専門員が加わり、支援を行っています。
こうした日中活動の中での取り組みだけではなく、生活支援でもやはりまだまだニーズは多くあります。精神障害者や難病者の医療と福祉の連携の課題はよくいわれるところですが、実際のところ、高次脳機能障害者についても医療と福祉の連携を強く感じるところです。
2018年10月25日
たすけあいからのネットワーキングの現在地(4) 重層的なネットワーキング 民間非営利団体ネットワーキング1
この項では、寝屋川市民たすけあいの会が寝屋川市内で構築している協働のネットワークのうち、寝屋川市の精神障害者支援について紹介する。
現在は、医療法人、社会福祉法人、株式会社、NPO法人という法人の形態も成り立ちも事業も違う団体がそれぞれの歴史と文化と特色を活かして取り組みを行ってきています。今後さらに、協働活動を深めていこうと昨年度、協働で新たに一般社団法人(一般社団法人 MUGEN)を立ち上げています。
一般社団法人MUGEN「わたしたちは、ともに大阪府寝屋川市内で障がいのある人やマイノリティの人たちの地域生活をサポートする団体として発足、活動してきました。
単身世帯の増加・社会的孤立・多問題家庭・貧困など、多くのまちで生じている課題は、ここ寝屋川市でも課題となっています。
こうした課題に対して、一つの団体だけでなく、複数の団体が連携し、当事者も支える人たちも地域の人たちとも手を取り合いながら、尊厳ある暮らしと住みよいまちづくりにコミットしていく。そのためにMUGENは生まれました。」
MUGENを構成する四団体は、
1978年 NPO法人寝屋川市民たすけあいの会
1981年 医療法人 三家クリニック
1984年 社会福祉法人 みつわ会
2015年 (株)toitoitoi の四団体です。
寝屋川市民たすけあいの会は、四団体の中でもっとも早く発足し、活動をしているだけではなく、精神障害者支援に特化して活動をしている団体ではありません。1978年に発足した「寝屋川市民たすけあいの会」は2000年に介護保険制度が発足するまでは、すべてを「ボランティア」で文字通り「たすけあい」を旗印に、年齢、障害のあるなしにかかわらず活動を行ってきた団体です。
「その時々に出会った方とのかかわりから、心の病のある人とのかかわりもみられる。たすけあいの会と心の病のある人たちとのかかわり方は、@個別にボランティアが訪問し援助する場合、A心の病のある人がボランティア活動をする中でかかわる場合、B精神障害者関係の団体と組織的なかかわりをもっている場合がある。(『精神保健福祉ボランティア』石川到覚編 中央法規 2001年 P106より)
たすけあいの会が発足した当時は福祉サービスや在宅医療もほとんどなく、まだ「ボランティア」ということばも市民権のなかった時代でした。その当時に、産声をあげた時代に、たすけあいの会によせられた相談の多くは地域をかけずり回っていた保健師等から相談が舞い込んだそうです。
当時のボランティア活動のエピソードからは、こどもを乳児院に預け改めて一人で暮らしはじめようとしていた精神疾患をもつ母が、部屋だけ確保したあとに支援依頼をたすけあいの会が受け、家財道具一式を会員からかき集め、家事の援助を全面的に行ったエピソードがよく語られます。このエピソードは、代表の森川がビデオ教材「ひらく かける つなぐ 精神保健ボランティア」ジエムコ出版でも語っている。
そういった精神障害者を地域で支える取り組みは、たすけあいの会が発足した三年後、地域医療を目指して三家クリニックhttps://www.mitsuya-clinic.jpが開院。そして、また三年後、三家クリニックの院内の取り組みからはじまった社会福祉法人みつわ会https://www.mitsuwakai.comの前身の三和共同作業所の開所へとつながり、寝屋川市でも本格的な精神障害者の地域支援の取り組みへとひろがっていきます。
寝屋川市民たすけあいの会の在宅ボランティア活動の中での取り組みは制度のスキマということで、制度化の遅れた精神障害者の方への支援が少なくありませんでした。ただ、その多くは保健所から紹介されたものだったようです。
【緩やかな連携とフォーマルな連携による地域でのネットワーク】
その後、1990年代に入り、精神障害者支援にかかる法律・制度の改正があり、公的な団体も含めた地域のネットワークづくりが拡がっていきます。三団体は「医療」と「福祉」と「ボランティア」というそれぞれの切り口で、公的な地域のネットワークへの参画とともに、90年代の後半からは、インフォーマルなネットワークでもつながりを強めていくことになります。公的なネットワークは、大阪府寝屋川保健所が主催で行っていた精神医療保健福祉関係の会議(精神障害者合同委員会→自立支援促進会議→退院促進会議)に、ボランティア団体である当会も参加。その会議への参加がきっかけで、精神保健福祉ボランティア講座の共同開催やみつわ会の新たな作業所づくりへの協力などの協働活動につながっていきます。
また、そういった協働活動の中でも、現在も行っている精神障害者地域交流事業「Club E&T」http://neyagawatasukeai.org/katsudo/tsudou/tsudou_20170505_4.htmlは、その当時のインフォーマルなネットワークをひきついで、現在も行われている事業(事務局は寝屋川市民たすけあいの会)であり、毎年、好評を得ている「寝屋川ハートアート展」https://neyagawaheart-art.jimdo.com
「寝屋川ハートアート展」「精神保健医療福祉白書」2018/2019中央法規 P111
は、90年代のボランティアの参画とともに、当事者の参画を強く意識した取り組みに端を発しています。
【多様な拡がり、支援対象の拡大と地域の課題の深まり】
2000年代に入り、社会福祉の制度の大きな改正、医療制度の大きな改正の中で、さまざまな地域支援が拡がってきました。みつわ会も社会福祉法人格を取得し、寝屋川市民たすけあいの会もNPO法人を取得しボランティア活動だけではなく、障害者自立支援法(障害者総合支援法)の事業を行っています。三家クリニックは、デイケア、訪問看護ステーションの経営だけでなく、「ひきこもり外来」を開設。いろいろな展開の中から、(株)toitoitoiを設立。その後も精神疾患をもつ親のこどもの支援、NEFNEの開店などをおこなっています。
それぞれの多様な展開と同時に事業上の協働だけでなく、さらに大きく深い展開を取り組もうと(一社)MUGENを設立してきています。
昨年度、その一環のモデル事業として、MUGENハウス(平成29年度社会福祉振興助成事業「クライシスハウスの可能性を考える事業」申請団体:寝屋川市民たすけあいの会)を行っています。ゆるやかな協働、個別のケースのつながりから、実際の共同運営事業やそれぞれの特性を活かした形での協働(同)事業などかなり多角的に現在は取り組んでいます。それは、狭い意味での精神障害者支援だけではなく、(2)でふれた子どもに対しての取り組みにもつながっています。
これまで、福祉の分野でいわれてきたネットワークは、二次元でかつ「サークル」型
のネットワークが言われることが多かったように思いますが、多様化する地域社会/地域課題において、さまざまな要素での「ネットワーク」が必要になってきています。ネットワークの結節点をどのように作っていくのかという課題などはありますが、多様なネットワークが必要であると感じています。
2018年10月14日
「たすけあいからのネットワーキング」の現在地(2) −こどもさんたちとの出会いから地域の現状を知ることができる こども(たち)とのかかわり−
「たすけあいからのネットワーキング」の現在地(2)
−こどもさんたちとの出会いから地域の現状を知ることができる こども(たち)とのかかわり−
現在の寝屋川市民たすけあいの会の事業活動のことをよくご存知の方は、「寝屋川市民たすけあいの会」は、障害者の支援を中心に事業活動をやっているとともに昔ボランティアをやっていた団体だと思っておられる方が多いかもしれません。
しかしながら、もともと寝屋川市民たすけあいの会の活動は、会の歴史を語るときに紹介しているように障害のある子どもたちの親のサポートから始まっています。また、活動が始まった当初から、障害がある/ない子どもたちのあそびのプログラムとして「びっくりおもちゃ箱」という名前のプログラムがありました。
「びっくりおもちゃ箱」については「たすけあいからのネットワーキング」p48からに活動の紹介がありますので、詳細はふれませんが、障害のあるこどもさんと障害のないこどもさんの出会える場を作りたいという声からスタートしています。
学生のボランティアを中心に障害児と健常児の交流活動が始められ、何度か中断しつつもプログラムは続けられました(1990年代はじめで休止)。
2000年代に入ってから学生のボランティアや若いスタッフが入ってきはじめたときに障害児の遊びのプログラムを再開させることになり、「びっくりおもちゃ箱」を何度か開催し、その後、2006年から内容を再編して、毎月第1日曜日に開催する「そるどみ(Sol De Domingo」が始まっている。
「びっくりおもちゃ箱」の時代は障害のあるこどもたちのための支援のプログラムは、公的な療育センター、保育、教育しかなくあとはボランティアで行っているプログラムくらいしかどの地域でもなかった。寝屋川市でも「びっくりおもちゃ箱」はボランティアプログラムの一つで、当時から障害の重いこどもたちの月に1度の社会参加の場だったようです。まさか、その「びっくりおもちゃ箱」に通ってきていたOBたちが日中活動の場「ぼちぼちはうす」やヘルパーステーション「ほっと」をつくるきっかけになっていくとは思っていなかったでしょう。これについては後述します。
「障害の重い」といわれるこどもたちはその「障害の重い」が故に、さらに社会参加の場を奪われることになります。このスパイラルはいまもかわっていませんし、そのスピリットは当会がボランティア活動ではなく事業を行っていくときにも痛感している方向性でもあります。
「そるどみ」から見えてきている風景
2006年からはじめた「そるどみ」は、ちょうど、障害者自立支援法ができ、3年前の支援費制度がはじまってようやく制度にのった日中活動の場「ぼちぼちはうす」が存続の危機になったときと時期を同じくしてはじまっています。実はこれには理由があります。障害者福祉施策にとって障害者自立支援法の施行は大きなパラダイム転換でした。いまでは当たり前になっている「サービス」という考え方が入り、それまで障害者支援の世界で当たり前だったことがあたり前でなくなることを意味しました。そして、その制度下の事業を行うということは、当会にとっても組織運営そのものを変えていかざるを得ないことを意味しました。だからこそ、制度内の事業ではなく、それも、従前のボランティア活動の延長ではない新しい活動をいくつか打ち出したのがこの時期です。その一つが「そるどみ」でした。
その数年前からびっくりおもちゃ箱を年に2度ほどの活動を積み重ねてきている中で、以前のびっくりおもちゃ箱と同様やはり障害の重いこどもさんたちとの出会いがそこでも主でした。以前と違っていたのは、制度内の相談支援事業をはじめていたことがあり、関係機関や教育関係からのご紹介で利用がはじまったこどもさんも少なからずおられたことでしょうか。こういった関係機関からの紹介の流れはこの時期から後の「放課後デイサービス」が広がったときの雰囲気が、すでにはじまっていたことを示していると思います。
そういった放課後デイサービスで見えてくる風景は、その後の「そるどみ」がいわゆる障害の重いこどもさんではなく、いわゆる発達障害のあるこどもさんにも対象が利用対象が広がっていくことにも重なります。障害のあるこどもさんとないこどもさんという線引きそのものに難しさを感じていくことになります。そして、現在はその傾向はもっと進み、複雑な家庭環境をもつこどもさん、不登校のこどもさんが参加するという形になっています(これはあとでふれる精神障害者支援を行っている機関とのネットワークとも絡んでいます)。
ここ数年、「こどもの貧困」ということがことさらに言われるようになりました。当会の活動の中で、その「こどもの貧困」に関して、感じること関わることは実は少なくはありません。個別のケースでいえば、精神保健ジャーナル「ゆうゆう」31号 萌文社の紹介記事&精神保健福祉ボランティア 石川到覚編 中央法規 2001 第3章「暮らしを支える」P107で紹介されている事例などはその一例です。筆者が当会にかかわりはじめた当時から数年間、「在宅ボランティア活動」のケース依頼の中で、年に1、2ケース「沐浴」のボランティアという種別のボランティアの依頼がありました。「沐浴ボランティア」とは、生まれたばかりの赤ん坊をお風呂に入れる活動のことです。当会のベテランのボランティアさんたちは特に気にする風もなく保健所の保健婦(師)からの依頼を受けていました。活動の性格上、数日間のボランティア活動で終わるわけですが、いまから振り返ると母に精神疾患や知的障害があり養育に課題が見られ、保健師が自分が訪問するだけでは、産後すぐの時期を乗り切ることが難しいと感じての依頼だったのでしょう。当時は、核家族化で頼れる周りの人がいないという切り口での依頼趣旨でしたが。
2000年前後くらいには寝屋川市ではこども虐待(死)やこどもが絡む事件(例えば、寝屋川市中央小学校事件 2005年など)が頻繁におこるようになり、地域の中でこどものことに日常的に関心が向けられるようになりました。同時期にいろいろなチャンネルから地域では「30代後半のおばあちゃん」が珍しくないことにも気づかされるようになります。「30代後半のおばあちゃん」とは、10代出産のこどもが10代で出産し、30代後半にして祖母になるということです。若年出産が悪いという意味ではありませんが他地域ではあまり聞かない話があたりまえに聞こえてくると「なぜ」と考えざるを得ません。また、同時期に市内のある小学校の保護世帯率が3割を超える(2000年代初頭)ということをきいたときにも先んじて、地域の貧困化と「貧困の世代間連鎖」が地域の課題になってきていることを実感しました。
ともすれば、虐待とも密接にかかわるこどもの支援の話は公的な施策が先行していきますので、わたしたちのような民間の、それも特に、こども支援をメインの看板に出していない団体にはそれほどの出番がないようにも思えます。しかしあたりまえですが、こどものことは家族のことともかかわります。無関係ではあり得ません。アプローチの仕方が多層的でないと課題解決どころか、課題にすらたどりつきません。
数年間のある研修会でこんなことをききました。妊産婦救急を受けている病院のケースワーカーさんでした。年末の休暇をすごし年始に出勤したときに10数ケース「飛び込み出産」のこどもがいた。そのうちの7割以上が当市と隣市の住所だったそうです。生まれたあとのこどものことだけを考えていてはダメだ痛感した話でした。狭い意味の「障害」に着目していてはいけないと強く感じ、その後のライフステージの節で漏れない相談機関のネットワークづくりを指向するきっかけになります。
−こどもさんたちとの出会いから地域の現状を知ることができる こども(たち)とのかかわり−
現在の寝屋川市民たすけあいの会の事業活動のことをよくご存知の方は、「寝屋川市民たすけあいの会」は、障害者の支援を中心に事業活動をやっているとともに昔ボランティアをやっていた団体だと思っておられる方が多いかもしれません。
しかしながら、もともと寝屋川市民たすけあいの会の活動は、会の歴史を語るときに紹介しているように障害のある子どもたちの親のサポートから始まっています。また、活動が始まった当初から、障害がある/ない子どもたちのあそびのプログラムとして「びっくりおもちゃ箱」という名前のプログラムがありました。
「びっくりおもちゃ箱」については「たすけあいからのネットワーキング」p48からに活動の紹介がありますので、詳細はふれませんが、障害のあるこどもさんと障害のないこどもさんの出会える場を作りたいという声からスタートしています。
学生のボランティアを中心に障害児と健常児の交流活動が始められ、何度か中断しつつもプログラムは続けられました(1990年代はじめで休止)。
2000年代に入ってから学生のボランティアや若いスタッフが入ってきはじめたときに障害児の遊びのプログラムを再開させることになり、「びっくりおもちゃ箱」を何度か開催し、その後、2006年から内容を再編して、毎月第1日曜日に開催する「そるどみ(Sol De Domingo」が始まっている。
「びっくりおもちゃ箱」の時代は障害のあるこどもたちのための支援のプログラムは、公的な療育センター、保育、教育しかなくあとはボランティアで行っているプログラムくらいしかどの地域でもなかった。寝屋川市でも「びっくりおもちゃ箱」はボランティアプログラムの一つで、当時から障害の重いこどもたちの月に1度の社会参加の場だったようです。まさか、その「びっくりおもちゃ箱」に通ってきていたOBたちが日中活動の場「ぼちぼちはうす」やヘルパーステーション「ほっと」をつくるきっかけになっていくとは思っていなかったでしょう。これについては後述します。
「障害の重い」といわれるこどもたちはその「障害の重い」が故に、さらに社会参加の場を奪われることになります。このスパイラルはいまもかわっていませんし、そのスピリットは当会がボランティア活動ではなく事業を行っていくときにも痛感している方向性でもあります。
「そるどみ」から見えてきている風景
2006年からはじめた「そるどみ」は、ちょうど、障害者自立支援法ができ、3年前の支援費制度がはじまってようやく制度にのった日中活動の場「ぼちぼちはうす」が存続の危機になったときと時期を同じくしてはじまっています。実はこれには理由があります。障害者福祉施策にとって障害者自立支援法の施行は大きなパラダイム転換でした。いまでは当たり前になっている「サービス」という考え方が入り、それまで障害者支援の世界で当たり前だったことがあたり前でなくなることを意味しました。そして、その制度下の事業を行うということは、当会にとっても組織運営そのものを変えていかざるを得ないことを意味しました。だからこそ、制度内の事業ではなく、それも、従前のボランティア活動の延長ではない新しい活動をいくつか打ち出したのがこの時期です。その一つが「そるどみ」でした。
その数年前からびっくりおもちゃ箱を年に2度ほどの活動を積み重ねてきている中で、以前のびっくりおもちゃ箱と同様やはり障害の重いこどもさんたちとの出会いがそこでも主でした。以前と違っていたのは、制度内の相談支援事業をはじめていたことがあり、関係機関や教育関係からのご紹介で利用がはじまったこどもさんも少なからずおられたことでしょうか。こういった関係機関からの紹介の流れはこの時期から後の「放課後デイサービス」が広がったときの雰囲気が、すでにはじまっていたことを示していると思います。
そういった放課後デイサービスで見えてくる風景は、その後の「そるどみ」がいわゆる障害の重いこどもさんではなく、いわゆる発達障害のあるこどもさんにも対象が利用対象が広がっていくことにも重なります。障害のあるこどもさんとないこどもさんという線引きそのものに難しさを感じていくことになります。そして、現在はその傾向はもっと進み、複雑な家庭環境をもつこどもさん、不登校のこどもさんが参加するという形になっています(これはあとでふれる精神障害者支援を行っている機関とのネットワークとも絡んでいます)。
ここ数年、「こどもの貧困」ということがことさらに言われるようになりました。当会の活動の中で、その「こどもの貧困」に関して、感じること関わることは実は少なくはありません。個別のケースでいえば、精神保健ジャーナル「ゆうゆう」31号 萌文社の紹介記事&精神保健福祉ボランティア 石川到覚編 中央法規 2001 第3章「暮らしを支える」P107で紹介されている事例などはその一例です。筆者が当会にかかわりはじめた当時から数年間、「在宅ボランティア活動」のケース依頼の中で、年に1、2ケース「沐浴」のボランティアという種別のボランティアの依頼がありました。「沐浴ボランティア」とは、生まれたばかりの赤ん坊をお風呂に入れる活動のことです。当会のベテランのボランティアさんたちは特に気にする風もなく保健所の保健婦(師)からの依頼を受けていました。活動の性格上、数日間のボランティア活動で終わるわけですが、いまから振り返ると母に精神疾患や知的障害があり養育に課題が見られ、保健師が自分が訪問するだけでは、産後すぐの時期を乗り切ることが難しいと感じての依頼だったのでしょう。当時は、核家族化で頼れる周りの人がいないという切り口での依頼趣旨でしたが。
2000年前後くらいには寝屋川市ではこども虐待(死)やこどもが絡む事件(例えば、寝屋川市中央小学校事件 2005年など)が頻繁におこるようになり、地域の中でこどものことに日常的に関心が向けられるようになりました。同時期にいろいろなチャンネルから地域では「30代後半のおばあちゃん」が珍しくないことにも気づかされるようになります。「30代後半のおばあちゃん」とは、10代出産のこどもが10代で出産し、30代後半にして祖母になるということです。若年出産が悪いという意味ではありませんが他地域ではあまり聞かない話があたりまえに聞こえてくると「なぜ」と考えざるを得ません。また、同時期に市内のある小学校の保護世帯率が3割を超える(2000年代初頭)ということをきいたときにも先んじて、地域の貧困化と「貧困の世代間連鎖」が地域の課題になってきていることを実感しました。
ともすれば、虐待とも密接にかかわるこどもの支援の話は公的な施策が先行していきますので、わたしたちのような民間の、それも特に、こども支援をメインの看板に出していない団体にはそれほどの出番がないようにも思えます。しかしあたりまえですが、こどものことは家族のことともかかわります。無関係ではあり得ません。アプローチの仕方が多層的でないと課題解決どころか、課題にすらたどりつきません。
数年間のある研修会でこんなことをききました。妊産婦救急を受けている病院のケースワーカーさんでした。年末の休暇をすごし年始に出勤したときに10数ケース「飛び込み出産」のこどもがいた。そのうちの7割以上が当市と隣市の住所だったそうです。生まれたあとのこどものことだけを考えていてはダメだ痛感した話でした。狭い意味の「障害」に着目していてはいけないと強く感じ、その後のライフステージの節で漏れない相談機関のネットワークづくりを指向するきっかけになります。
2018年09月22日
「たすけあいからのネットワーキング」の現在地(1)
現在、当会は来春に発行予定の『関西社会福祉研究』への投稿論文の執筆依頼をお受けしている。この文章 「たすけあいからのネットワーキング」の現在地 は、その草稿にあたるものである。
「たすけあいからのネットワーキング」は、以下にもあるように10周年の記念誌のタイトルである。10年から40年というのは飛躍しているようにも思われるかもしれないが、20年が1998年。特定非営利活動促進法施行年。かつ、社会福祉制度が措置制度から契約制度にかわりはじめた年。30年は2008年。障害者自立支援法がはじまり、制度が本格的に動き始めていた時期。今回、被災した日中活動の場を現在のような内装に映像06「ぼちぼちはうす〜障害者自立支援法の波紋〜」の寄付金、損保ジャパンの助成金、年賀状助成金で改装していった時期です。
そして、今年が40年。会は大きな岐路に立っています。
「たすけあいからのネットワーキング」の現在地
寝屋川市民たすけあいの会は、1978年5月に発足なので、今年2018年5月で40周年を迎えることになりました。「たすけあいからのネットワーキング」は寝屋川市民たすけあいの会が10周年を記念して出版した書籍のタイトルになります。その「はじめに」にこんな一文があります
現在、医療。保健・福祉のネットワークとかインフォーマル・サポート・アプローチであるとかが専門職の間で議論されている。
「参加する福祉」「創造する福祉」など、言葉だけが一人歩きをし、なかなか実態が伴わない。「たすけあいの会」が産み出している活動は、その土壌づくりの活動であるとも言える。素人の、市民のエネルギーが、重層的なネットワーキングによって、ボランタリーに発揮されたとき、どれだけの創造的な取り組みが出来るのかの実験的・開拓的事業でもある。また、会の実践は一つのロマンでもある。(『たすけあいからのネットワーキング』1989年 松籟社
1990年代までの萌芽的な活動の取り組みは、多くの発信とともに問題提起を行ったように思っています。地域福祉の教科書的な書籍に「草の根の」とか「民家改修型福祉の先駆け」と紹介されたこともあります。昔から活動を続けている会員さんや当会の代表は自虐的に発足当時の故柴田善守氏・当時 大阪ボランティア協会理事長が当会の発足総会の場をして、「『20世紀の社会福祉は倉庫からはじまった(ハルハウス)』といわれたけどいまだに倉庫や」、と言います。
1990年代に「ボランティア元年」と言われたボランティアブームが来、ボランティアという言葉が市民権を得ます。また、社会福祉基礎構造改革の中で社会福祉のあり様が大きく変革しはじめていきます。活動の隆盛はどの団体でもあることですが、10周年を機にいったんしぼんだ活動は、90年代後半に時代の流れに相応しく再び盛り上がりを見せてきます。
00年代になり、NPOの時代・特定非営利活動促進法ができ、NPOが市民権を得ていきます 。そして、社会福祉は福祉サービスになり、介護保険法の施行、障害者の支援費制度→障害者自立支援法施行と進んでいきます。「参加する」は共助ということばでくくられ、「創造する」は起業ということばでくくられる、はっきりその傾向が見て取れるようになるのは、10年代になりますが、その傾向はすでに00年代に見て取れます。
当会は、2001年に特定非営利活動法人を会を一部分離する形で設立。2010年には一体化をします。時代の流れにアンテナを高くしつつ、地域の事情そして会を組織づくってきた会員さんたちの動きの中で、当会は「活動」「事業」そして「組織」のあり様を変えてきました。「福祉が専門職化して市民はその下請けとなっている」と現状を嘆くわけでもなく、「素人こそ住民、市民こそがその主役である」と声高に唱えるわけでもなく、いろいろな人のかかわりがエネルギーを生み出し、『「矛盾」×「矛盾」×「矛盾」=【なんとかなる】』の計算式の「矛盾」という要素がドンドンと増えていきながら、創造的取り組みをいかに続けてできるのか、というスタンスがこの40年の取り組みに貫通しているように感じています。
しかし、10年代に入っての「制度化」の波はどんどん大きくなっています。また、当会が発足当時からお借りしていた土地が道路拡幅により、当会自体の存続が危うい事態になっています。その時期であるからこそ、今回、40周年を機会として、活動の取り組みを書き残すことの意義を感じています。
この小稿では、すでにさまざまな形でまとめられてきているものはそちらに委ね、「たすけあいからのネットワーキング現在地」として、「一人」のかかわりから生まれてきた当会の実践をいくつかと、「ネットワーキング」と称される活動の実践のいくつかを触れていきたい、そして、その中で組織運営の困難さと重要さについてふれていきたいと思います。
「たすけあいからのネットワーキング」は、以下にもあるように10周年の記念誌のタイトルである。10年から40年というのは飛躍しているようにも思われるかもしれないが、20年が1998年。特定非営利活動促進法施行年。かつ、社会福祉制度が措置制度から契約制度にかわりはじめた年。30年は2008年。障害者自立支援法がはじまり、制度が本格的に動き始めていた時期。今回、被災した日中活動の場を現在のような内装に映像06「ぼちぼちはうす〜障害者自立支援法の波紋〜」の寄付金、損保ジャパンの助成金、年賀状助成金で改装していった時期です。
そして、今年が40年。会は大きな岐路に立っています。
「たすけあいからのネットワーキング」の現在地
寝屋川市民たすけあいの会は、1978年5月に発足なので、今年2018年5月で40周年を迎えることになりました。「たすけあいからのネットワーキング」は寝屋川市民たすけあいの会が10周年を記念して出版した書籍のタイトルになります。その「はじめに」にこんな一文があります
現在、医療。保健・福祉のネットワークとかインフォーマル・サポート・アプローチであるとかが専門職の間で議論されている。
「参加する福祉」「創造する福祉」など、言葉だけが一人歩きをし、なかなか実態が伴わない。「たすけあいの会」が産み出している活動は、その土壌づくりの活動であるとも言える。素人の、市民のエネルギーが、重層的なネットワーキングによって、ボランタリーに発揮されたとき、どれだけの創造的な取り組みが出来るのかの実験的・開拓的事業でもある。また、会の実践は一つのロマンでもある。(『たすけあいからのネットワーキング』1989年 松籟社
1990年代までの萌芽的な活動の取り組みは、多くの発信とともに問題提起を行ったように思っています。地域福祉の教科書的な書籍に「草の根の」とか「民家改修型福祉の先駆け」と紹介されたこともあります。昔から活動を続けている会員さんや当会の代表は自虐的に発足当時の故柴田善守氏・当時 大阪ボランティア協会理事長が当会の発足総会の場をして、「『20世紀の社会福祉は倉庫からはじまった(ハルハウス)』といわれたけどいまだに倉庫や」、と言います。
1990年代に「ボランティア元年」と言われたボランティアブームが来、ボランティアという言葉が市民権を得ます。また、社会福祉基礎構造改革の中で社会福祉のあり様が大きく変革しはじめていきます。活動の隆盛はどの団体でもあることですが、10周年を機にいったんしぼんだ活動は、90年代後半に時代の流れに相応しく再び盛り上がりを見せてきます。
00年代になり、NPOの時代・特定非営利活動促進法ができ、NPOが市民権を得ていきます 。そして、社会福祉は福祉サービスになり、介護保険法の施行、障害者の支援費制度→障害者自立支援法施行と進んでいきます。「参加する」は共助ということばでくくられ、「創造する」は起業ということばでくくられる、はっきりその傾向が見て取れるようになるのは、10年代になりますが、その傾向はすでに00年代に見て取れます。
当会は、2001年に特定非営利活動法人を会を一部分離する形で設立。2010年には一体化をします。時代の流れにアンテナを高くしつつ、地域の事情そして会を組織づくってきた会員さんたちの動きの中で、当会は「活動」「事業」そして「組織」のあり様を変えてきました。「福祉が専門職化して市民はその下請けとなっている」と現状を嘆くわけでもなく、「素人こそ住民、市民こそがその主役である」と声高に唱えるわけでもなく、いろいろな人のかかわりがエネルギーを生み出し、『「矛盾」×「矛盾」×「矛盾」=【なんとかなる】』の計算式の「矛盾」という要素がドンドンと増えていきながら、創造的取り組みをいかに続けてできるのか、というスタンスがこの40年の取り組みに貫通しているように感じています。
しかし、10年代に入っての「制度化」の波はどんどん大きくなっています。また、当会が発足当時からお借りしていた土地が道路拡幅により、当会自体の存続が危うい事態になっています。その時期であるからこそ、今回、40周年を機会として、活動の取り組みを書き残すことの意義を感じています。
この小稿では、すでにさまざまな形でまとめられてきているものはそちらに委ね、「たすけあいからのネットワーキング現在地」として、「一人」のかかわりから生まれてきた当会の実践をいくつかと、「ネットワーキング」と称される活動の実践のいくつかを触れていきたい、そして、その中で組織運営の困難さと重要さについてふれていきたいと思います。
2015年05月16日
理事総会 開催されました
昨夜は、「寝屋川市民たすけあいの会」の理事総会でした。
NPO法人はたいてい年に1度総会があります。
たすけあいの会の総会は、実は2回ありまして、昨夜の総会は定款上は社員総会に位置づけています。
理事、監事、に加え、たすけあいの会は外部理事・監事さんがおられます。そして、常勤のスタッフが参加して行います。
もう一度は、会員総会。任意団体の当時から行っているたすけあいの会の会員さん(非会員も参加OK)の総会です。今年は5月24日(日)に行われます。
たすけあいの会はさまざまな事業、活動を行っています。また、それゆえに、さまざまな立場の人がかかわっています。それゆえに、いろいろな意見をいろいろな形で、反映できる仕組みをめざして行っています。まだまだ、試行錯誤ではありますが。
昨年度は、「いったん立ち止まって考える」1年目。そして、今年度はその2年目。立ち止まってみての現状報告をさせていただき、今後のたすけあいの会の、大きくは、その方向性と、感じている意見をみんなで語り合いました。その意見を踏まえて、今度は24日の総会でも、会員のみなさんと議論をして、最終的な事業、活動計画を決めていきます。
NPO法人はたいてい年に1度総会があります。
たすけあいの会の総会は、実は2回ありまして、昨夜の総会は定款上は社員総会に位置づけています。
理事、監事、に加え、たすけあいの会は外部理事・監事さんがおられます。そして、常勤のスタッフが参加して行います。
もう一度は、会員総会。任意団体の当時から行っているたすけあいの会の会員さん(非会員も参加OK)の総会です。今年は5月24日(日)に行われます。
たすけあいの会はさまざまな事業、活動を行っています。また、それゆえに、さまざまな立場の人がかかわっています。それゆえに、いろいろな意見をいろいろな形で、反映できる仕組みをめざして行っています。まだまだ、試行錯誤ではありますが。
昨年度は、「いったん立ち止まって考える」1年目。そして、今年度はその2年目。立ち止まってみての現状報告をさせていただき、今後のたすけあいの会の、大きくは、その方向性と、感じている意見をみんなで語り合いました。その意見を踏まえて、今度は24日の総会でも、会員のみなさんと議論をして、最終的な事業、活動計画を決めていきます。
2014年12月31日
2015年元旦
2014年08月15日
つなぐ215号 連載「枠組み外しの旅A」
事実と価値前提の関係性 山梨学院大学 竹端寛
先日、新型出生前診断を巡るドキュメントを観ていたら、番組の最後で、「ハーバード白熱教室」で有名な哲学者、マイケル・サンデル氏がコメントを寄せていた。ぼんやりと観ていたので正確には覚えていないが、「髪の毛や目の色、障害の有無などを選別することが当たり前になる社会では、自分達とは外見上違う存在に対して非寛容になる」と指摘していた。
「青い目で、ブロンドで、障害のない子を産みたい」と、遺伝子治療も出来るアメリカの高級クリニックに通う妊婦もいる、という。そして、そういう親の希望を「パーフェクトベビー願望」と言うらしい。サンデル博士が指摘しているのは、この願望が価値前提を超えて事実になった時への危惧ではないか、と僕は感じている。
「パーフェクトベビー」でないと、不幸になる。これは、言うまでもなく、一つの価値観である。ただ、そういう「願望」を持つ親の視点としては、「青い目」で「ブロンド」で「障害のない」子どもの方が、そうではない子どもに比べて「幸せ」である、あるいは「成功」しやすい、という認識がある。これも、一つの価値観である限りにおいては、思想信条の自由の範囲内である。
だが、その価値前提が、事実認識となっていた場合は、話が異なる。見た目や障害の有無が、社会的な「成功」の「条件」になっている社会は、同質的で生きづらい社会だ。それは、「違い」に対して「非寛容になる」というサンデル氏の指摘とも通じる。
この問題を、もう少し俯瞰的に考えてみよう。個々人の価値前提は、社会的な「常識」に強い影響を受けている。すると、「社会が望ましいと思う人」を称揚して、それ以外の存在を排除する、という「常識」が形成されていれば、それも個々人の価値前提に影響を与える可能性があるのではないか。
例えば今、特別支援学校の高等部に通う生徒が爆発的に増えている。発達障害とラベルを貼られ、中学までは普通学校だったのに、高校では支援学校に進む児童が増えている。本人が望んで、という場合もあるかもしれないが、普通学校では排除された結果、支援学校しか行き場がなかったというケースも少なくない。
障害があるから、そこに配慮した教育、という前提。一見すると「正しい」ように見える。でも「関わりが難しいから、普通学校では大変だ」となれば、話は別である。「障害者と関わりたくない」という価値前提が、「支援学校への進路決定」という事実にすり替わる時、それは「非寛容な社会」への第一歩、と言える。そして、そういう「非寛容さ」を無意識的に感じた妊婦が、パーフェクトベビーを望むとき、その問題を妊婦の自己決定に矮小化してはならない。これは社会的な支援の課題でもある。(続)
先日、新型出生前診断を巡るドキュメントを観ていたら、番組の最後で、「ハーバード白熱教室」で有名な哲学者、マイケル・サンデル氏がコメントを寄せていた。ぼんやりと観ていたので正確には覚えていないが、「髪の毛や目の色、障害の有無などを選別することが当たり前になる社会では、自分達とは外見上違う存在に対して非寛容になる」と指摘していた。
「青い目で、ブロンドで、障害のない子を産みたい」と、遺伝子治療も出来るアメリカの高級クリニックに通う妊婦もいる、という。そして、そういう親の希望を「パーフェクトベビー願望」と言うらしい。サンデル博士が指摘しているのは、この願望が価値前提を超えて事実になった時への危惧ではないか、と僕は感じている。
「パーフェクトベビー」でないと、不幸になる。これは、言うまでもなく、一つの価値観である。ただ、そういう「願望」を持つ親の視点としては、「青い目」で「ブロンド」で「障害のない」子どもの方が、そうではない子どもに比べて「幸せ」である、あるいは「成功」しやすい、という認識がある。これも、一つの価値観である限りにおいては、思想信条の自由の範囲内である。
だが、その価値前提が、事実認識となっていた場合は、話が異なる。見た目や障害の有無が、社会的な「成功」の「条件」になっている社会は、同質的で生きづらい社会だ。それは、「違い」に対して「非寛容になる」というサンデル氏の指摘とも通じる。
この問題を、もう少し俯瞰的に考えてみよう。個々人の価値前提は、社会的な「常識」に強い影響を受けている。すると、「社会が望ましいと思う人」を称揚して、それ以外の存在を排除する、という「常識」が形成されていれば、それも個々人の価値前提に影響を与える可能性があるのではないか。
例えば今、特別支援学校の高等部に通う生徒が爆発的に増えている。発達障害とラベルを貼られ、中学までは普通学校だったのに、高校では支援学校に進む児童が増えている。本人が望んで、という場合もあるかもしれないが、普通学校では排除された結果、支援学校しか行き場がなかったというケースも少なくない。
障害があるから、そこに配慮した教育、という前提。一見すると「正しい」ように見える。でも「関わりが難しいから、普通学校では大変だ」となれば、話は別である。「障害者と関わりたくない」という価値前提が、「支援学校への進路決定」という事実にすり替わる時、それは「非寛容な社会」への第一歩、と言える。そして、そういう「非寛容さ」を無意識的に感じた妊婦が、パーフェクトベビーを望むとき、その問題を妊婦の自己決定に矮小化してはならない。これは社会的な支援の課題でもある。(続)