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釜石市の被災地で高校生がボランティア [2011年04月12日(Tue)]


<中>釜石市の被害も莫大でした。左側が海。
少しだけ高台にある住宅は津波の被害を逃れています。




菅原大志くん(左)と千田秀斗くん


釜石市の災害対策本部のある建物の横に、緊急支援物資が運ばれてくるドーム型のテントがあり、サッカー部の千田くんと菅原君(ともに高校2年生)が荷物の搬入や搬出のボランティアをしていました。


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東日本大震災”女川” [2011年04月08日(Fri)]
3月31日から4月6日まで、被災地を回ってきました。
被害が莫大な地域を車で回りました。岩手県の宮古市、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、宮城県の気仙沼市、南三陸町、女川町、石巻市・・・。
地区ごとに写真を掲載していきます。

宮城県の女川町



建物が根こそぎ倒れている・・・


女川町は平地はほぼ壊滅状態。4月6日現在、亡くなった方は約350人、行方不明者は約850人。海沿いには、原形をとどめている建物はほとんどありません・・・。
電車は、車両がバラバラになり、線路がどこにあるのかわかりませんでした。
人間の想像をはるかに超えた自然の脅威を感じました・・・。
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ベイルートは中東のスイスだった? [2011年01月27日(Thu)]
う、気づいたら2011年、一度もアップしてなかった・・・。早い、早過ぎる。1年が経つのも、1週間が過ぎるのも・・。1日1日大切に過ごさなくちゃと思いつつ、一生懸命寝る時間を確保したりしてる今日この頃。印象的だったレバノン・ベイルートの写真をアップすることにしよう。去年の12月に行ってきましたー。



ベイルートは中東のスイスって言われているらしいけど、中心地はまさにそんな感じ!

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ベトナム・ハノイの街角 [2010年11月01日(Mon)]


色とりどりの果物がずらりと並ぶ




ベトナムと言えばフォー!(日本でいえばラーメン)街角のあちこちでみかけます




24フォーといういわゆるフォーのチェーン店で食べたフォー!次は街角で食べたい




おじさんたちがゲームに夢中




タクシーはメーターがついているので安心
エチオピア・バンナ族 [2010年07月30日(Fri)]
そして、バンナ族。
ハマル族と同じようにヤギのバターと赤土を混ぜたもので髪の毛を飾る。

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エチオピア・ハマル族 [2010年07月30日(Fri)]
次に会ったのがハマル族。




頭には赤土とヤギのバターをまぜたものを塗っておしゃれをする。
近づくと正直、臭い。ヤギのバターは割と匂いがきついから・・・。
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エチオピア・ムルシ族 [2010年07月29日(Thu)]
エチオピアのオモ渓谷に住む独特な服装や髪形をする部族の人たちにに会ってきた!
まずは・・・↓


ムルシ族の女性。お皿を下唇に入れることで知られている。



顔の大きさよりお皿が大きい!
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スリランカ国内最大の避難民キャンプ訪問 [2010年05月17日(Mon)]

先日、スリランカの北部にあるヴァヴーニャ地域にある、国内最大の避難民キャンプを訪問した。昨年5月の紛争終結時には約30万人が収容されていたマニクファーム・避難民キャンプ。現在は約8万人まで減ったという。通常、外部の人は入れない場所だが特別に入ることができた。









インドの看板 [2010年02月08日(Mon)]
日本財団ブログマガジンでも紹介したが、インドのムンバイで見つけた看板が意外に面白かったのでここでも紹介しまーす。



ザンジバル王女の旅 [2010年01月08日(Fri)]
2010年が始まった・・。本当に時間が過ぎるのは早い!
でも何より去年も健康で過ごせたことに感謝!

先月の26日から今月の2日まで、アメリカのオーランドへ行ってきた。
アフリカの歴史を専門とする母の調査に同行したのだ。


彼女がサルメ王女

何を調査しに行ったかというと・・・私が説明するよりも確実なので、母がどこかに掲載したものそのまま転記する。
「二〇〇八年三月、わたしはドイツ北部の港町ハンブルク市内の墓地にいた。手入れのゆき届いた林に抱かれた広大な墓地だ。小雪が舞う寒い日だった。ようやくたどり着いた小さな墓標、ここにはわたしが二〇年ほど前からその生涯を追跡してきたひとりの女性が眠っている。女性の名は、サルメ・ビント・サイード、またの名をエミリー・リューテ。一八四四年、東アフリカ沿岸のインド洋に浮かぶサンゴ礁の島ザンジバル(タンザニアの島嶼部)にイスラーム王家の一員として生まれ、一九二四年にドイツで没した王女である。父は、オマーンと東アフリカ沿岸部一帯を支配するイスラーム王国の盟主、母はコーカサスからザンジバル島の王室に売られてきたチェルケス人の奴隷だった。生まれ育った離宮は、他にもアビシニア人やアッシリア人、あるいはグルジア人の側室とその子供たちが大勢おり、多民族・多言語の国際色豊かな空間だった。いや、離宮だけではない。王宮のある都市部は、インド洋海域とアフリ
カ内陸部との象牙や奴隷の交易地であり、アラブ商人やインド人商人が繁栄を謳歌する国際都市だった。そこに割って入ってきたのが、西欧諸国の商社である。父王の死後、後継者をめぐる宮廷クーデタに巻き込まれて傷ついていたサルメは、こうした商社がもたらす西欧文化に魅かれるようになっていった。やがて、サルメは、ドイツ商社の代表としてやってきていた青年と恋におち、妊娠する。一八六六年のことだった。禁じられた愛を貫くために、サルメは密かに島を脱出し、アデンで恋人と合流、キリスト教に改宗して結婚式を挙げ、ただちに夫の故郷ハンブルクに向かった。その途中、悲劇がサルメを襲った。アデン滞在中に生まれた長男が、列車の中で息を引き取ったのだ。しかし、ハンブルクでは、夫の両親や親せきに温かく迎えられ、異国での新しい生活をスタートさせた。だが、その幸せな日々は三年あまりで終止符が打たれる。三人の幼子を遺し、夫が交通事故で急死したのである。一九二四年、八〇歳でこの世を去るまでの長いサルメの苦闘の年月の始まりだった」―――。

まだまだ彼女の物語は続くのだが、母は昨年、このサルメ王女の末裔を見つけたのだ。
サルメの娘の娘の娘(ひ孫)ウワズラさん(ドイツ国籍)がアメリカのノースカロライナに住んでいるという。メールでコンタクトを取ると、昨年5月、3泊4日で私を連れてすっとんでいった。みっちりと話しを聞くことができ、大量の収穫を得て帰国。すると、今度はウワズラさんから他のひ孫を紹介してもらった。アメリカ、オーランドに住むアンさん(米国国籍)。それで、昨年末からオーランドへ行ってきたわけだ。息子のマイケルさんが自分の祖先が王女だったということに関心を持っていて、たくさんの資料や写真を持っていた。オーランドには6日間滞在。これまたみっちりと話しを聞くことができた。


奥が話しを聞く母とアン・マイケル親子。愛犬ガントーだけが話の輪に入れず・・・。

同行しているうちに、私もずいぶんとサルメ王女について詳しくなってきた。もしかして日本では母に次いで2番目に詳しいかも?!そのうち、母がこのことについてまとめるはずなので、そのときにはまた紹介したい。