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分かったようで、実は、わからん[2022年05月25日(Wed)]
同一性とはアイデンティティーのことを指すそうです。
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自我が同一であるとは、
時や状況を超えても同じであるというまとまりの感覚のことで、同様に、
性同一性とは、時間的に社会的に同じ性別であるという感覚なんですって。だから、
性同一性には強弱、濃淡があるそうなんです。つまり

自分は女性と同じであるという感覚が
非常に強い人から非常に弱い人まで個人差があるということだそうです。

さて、
日本では、分からないことはいいことだとみなす傾向が強くて
特に大学の先生がいうことなら、まったく分からないことでも
もそのまま鵜呑みしてしまうことが美徳なのですね。

そのかわり、肩書もどの大学にも属していないぺいぺいが
大学の先生と同じことを言っているにも関わらず、
偉そうにしやがって、と言って文句をいったり、全然わからんと
ケチをつけられたりすることもありますが、で、話をもとに戻しまして、

自我でなんですか?と質問すらしないし、そんなこと、わからないのか、と
周りの人からバカにされるのではないかと思って、わかったふりをする。
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自我とはegoの訳語です。自我が同一とはどういうことなのでしょうね。
はっきりいってわかりません。

わたしたちは、意識していると、つねに、ああでもない、こうでもないと疑い、いろいろと妄想し、考えていています。自我とは、その考えている自分のことなんです。

考えている自分、自我は眠ってしまうと消えてしまいます。また、なにかに没頭していると、自我は消えてしまいます。自我とはそういうものです。

わたしたちが大切にしがみついている自我とは多くの要素がたまたまなにかの縁があって集まって構成されている空(くう)の存在です。

自我とは常に移り変わる無常なものなのです。浮き雲みたいに絶えず姿かたちをかえていていく自我が時と状況をこえて同じであるはずがありません。

性同一性も同様です。
時間的にも社会的にもわたしがずっと同じ性別である状態が性同一性なんだ、ということなんですが、わかったようなわからないような。普段、わたしたちは「自分はきょうも女性なんだ」とか「わたしはうまれてこのかたずっと女性と同じなんだ」と思いながら生活してますか?

「わたしはずっと男性とおなじなんだ」という感覚が極端に強い人からその感覚が弱い人までいて、個人差があるんだぞ、ということなんですが、それは個人差ではなく、人はみんなそれぞれ千差万別ということなんですよ。
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竹は竹になろうとおもって竹になったわけではありません、わたしたちだってみんな
たとえば、病気になろうと、おもってなったわけではないし、自然(じねん)になったということですね。

だから、わたしはずっと女性とおなじなんだ、ではなく、知らず知らずのうちに自然(じねん)に、おのずからこうなったということなのです。

きょうはこのへんで、
では、また
うえだちひろでした
Posted by tsukuyomi at 21:38 | 風姿花伝 | この記事のURL
わからないことは有難いこと[2022年05月06日(Fri)]
日本では「仏」を「ほとけ」と読ませて、「死んだ人」のことにされた。本来は「真理に目覚めた人」「真の自己に目覚めた人」ということである。

「道楽」は「どうぎょう」と読んで「道(覚り)を求めようとする願い」「どうらく」と読んで「仏法の覚りの楽しみ」を意味していたが、我が国では、「道楽息子」「道楽者」といった使い方をされる。「道楽者」とは「酒色や、ばくちにふけって身を持ち崩しているもの、怠け者」ということである。
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さて、うつらうつらテレビを見ていたら、ドラッグクイーンと言葉が耳に飛び込んできた。

ふつう、ドラッグと聞けば、多くの人たちはドラッグストアー、薬物を連想するであろう。したがって、テレビを見ていた多くの人は、「薬物中毒の女王?」と勝手に解釈したであろう。

それは無理のないことである。耳でドラッグと聞いて、それが「引きずる」とか「重いものを引っ張る」という意味のdragで、俗語としての「女装した男の人」「男の人にまとわれた女性用の服、ドレス」ということで、大げさに化粧をした男たちがスカートのすそを引きずりながらあるいていることだと誰が想像できようか。
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話は違うが、ほとんどの日本人、坊さんも含めて、経典に何が書かれているかをよく知らないままで、今日まで来たという不幸がある。日本人には「わからないことは有難い」という変な思想があるそうだ。

「あなたたちにはわからないでしょ。わたしたちにしか分からないのよ」と権威付けに使われたと言ってもよいのかもしれない。

わからないから、呪術的に、有難いものとして、大事に大事にする。

マスコミはしきりにSDG’sとかで、同性婚とか同性愛、多様な性をセンセーショナルに取り上げるが、取り上げるのはとてもありがたいことだが、わたしには、それこそ一般人にはわからない横文字を多用して「わからないでしょ、わたしたちにしかわからないのよ」と
報道しているように思えてしょうがない。

ある意味、我が国では、SDG’sも多様な性も呪術的なもので、有難いものなのかもしれない。
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さっきの話ではないが、輸入された多くの言葉が、我が国では、本来の意味とはまったくことなって用いられていることがほとんどだ。

たとえば、おそらく、北米西ヨーロッパの人たちが考えている同性婚と我が国の若者たちが考えているそれは全く異なることなのかもしれない。北米西ヨーロッパの人たちの結婚観は古代ギリシャのプラトンに由来するそうだ。プラトンは『饗宴』という作品のなかで、男同士の愛はこの上ないもので、天上の愛だと述べている。いっぽうで、日本人の結婚観はなにに由来するのだろうか、まさかプラトンではあるまい。
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我が国の特徴として、思想的なものや仏教用語が茶化されたり低俗化され、ふざけて使われたりすることが多く、特に北米西ヨーロッパで新しい何かが流行するとすぐに飛びつくが、何年か経つときれいさっぱりわ捨て去られてしまう傾向にある・・・、

着せ替え人形の着せ替え現象が顕著である。

なにかにつけ、現代の日本では、思想的に安易ということもあり、なにやらおかしな方向に引きずられているような気がしてしょうがないのである。


Posted by tsukuyomi at 21:22 | 風姿花伝 | この記事のURL
ひとりの精神科医の誤解で始まった〜性同一性障害のおおはなし〜[2021年08月31日(Tue)]
性同一性障害って、一度は聞いたことがあるでしょう?

性同一性障害(gender identity disorder)とは、心の性と身体の性が一致しない状態で、それだったら、性転換手術をして性別を変更してしまえば解決するんじゃないの、と一般には思われています。


性同一性障害とは心の性と身体の性の一致しない疾患なんだ、という誤った理解は当時の有名な精神科医の誤解から始まったのです。そして、その有名な精神科医の誤解を訂正することなく、まぁ、相手が有名な精神科医だということで「先生、それはちがっていますよ」とは言えないし、そもそもその精神科医さん、ジェンダーに関することは「まったくわからない」とおっしゃてたぐらいだから、しかも、アメリカ発の障害なので、わからなかったのでしょうね。それで高名な精神科医の誤解が訂正されることなくマスコミが無批判に流したからいまのようなガラパゴス状態になってしまったのです。
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わたしたちは人間として生まれてきたとき、男か女をいずれかの性を選ばないといけません。その両方を持つこと、そのどちらでもないということは許さません。(多様な性については別の機会に)
しかし、それは選ぶというのではなくて、好むと好まざるとにかかわらず、わたしたちはわたしたちの意思とは関係なく男か女に決定づけられます。それが身体の性、戸籍上の性なんです。

男として、女として生まれたときに決定づけられた性別に対してふつうは疑問を持たないで成長して、年ごとになったら異性に抗しがたい魅力を感じるのは、考えてみると不思議なことですね。で、4%の確率で同性に魅力を感じる人もいますが、考えてみるとそれも不思議なことです。

そして、1%以下の確率で、その与えられた性に疑問をもち、自分は男ではないとか女ではないという現象が生じるのです。心と身体の性の不一致という現象です。性別違和とか性別不合と言います。

さて、性同一性とはジェンダーアイデンティティーのことです。アイデンティティーとは時間的に社会的に「同じ」であるということで、変化することなくあるもの、唯一無二の自分ということです。だからジェンダーアイデンティティーとは変化することない唯一無二の女性あるいは男性としての自分ということです。で、男であるか女であるかということは人格の根幹にかかわってきます。だから性同一性とは人格の中枢なんです。よく似たような言葉に性自認という言葉がありますが、性自認の自認とは「自分で認める」ということで「同一性」とは違うんです。自分で認めたということはいつか変わる可能性がありますからね、時間的に社会的に変わることない同一性ではないんです。性自認障害って、聞いたことがないでしょ?

だから、性同一性障害とは自分の性別を自分で認めることに障害があるのではなく、性同一性の社会的機能が低下している状態なのです。具体的には周囲が認めてくれない、望む性役割が取れない、身体の性的な特徴が受容できないなどがあります。性同一性障害とは性同一性の社会的機能の低下なのです。自尊心と自己肯定感が極端に低下していて、自分はこういう人物であるという安心感が持てなくて、それによって、社会生活などのさまざまな分野で障害を起こしている疾患なのです。

したがって、ホルモン療法をやって、性転換手術をして、戸籍上の性別を変更したら、それでよし、ではないのです。

つづく



Posted by tsukuyomi at 20:45 | 風姿花伝 | この記事のURL
同性愛行為は特殊な現象ではありません[2021年08月15日(Sun)]
動物行動学の専門家で随筆家の竹内久美子氏は、
「同性愛者は間接的に子育てをしていて、そうやってじぶんたちの遺伝子を後世に残しているんです」とおっしゃる。

先生のお話によると、
イタリアのパトヴァ大学の研究グループが、男性同性愛者と男性異性愛者、その血縁者からなる4600人を超える大規模な家系調査をしたところ、男性同性愛者の母方の女性(母親、おば、祖母など)のほうが、男性異性愛者の母方の女性たちよりもたくさんの子どもを産んでいたという結果が得られたというのです。

男性同性愛者は間接的な過程、つまり自分の母方の女性たちを通じて、じぶんたちの遺伝子、男性同性愛についての遺伝子をつぎの世代に伝えていて、生産性はあるのですね。

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男性同性愛者はいつの時代でもだいたい25人に一人、約4%に落ち着くのだそうです。逆に言えば、男性異性愛者は96%存在しているということ、女性同性愛者のほぼ同じ割合で存在しているのです。

この4%という数字。異常でもエラーでもありません。当たり前なのです。
生物学的にはだいたい1%以上マイノリティーが存在してたら、普通で、反対に、たとえば、トランスセクシャル(性同一性障害・性別不合)と呼ばれる人たちは何万人に一人の割合で存在しているので、だから、エラー、つまり障害とみなされているのです。

同性愛は人間だけではなく、哺乳類に広く分布しています。

同性愛行為、ふつうに考えればじぶんたちの子孫を残しにくいと思われますが、しかし生物学的には必ず一定数存在しています。

同性愛はけっして特殊な現象ではないのです。

脳の機能がどうのこうではなく、同性愛行動をとる確率を高める遺伝子が代々受け継がれている、ということなのです。

それは、ある意味、生物の種としての生存戦略のひとつなのです。

Posted by tsukuyomi at 20:05 | 風姿花伝 | この記事のURL
今のわたしを自分が変えていく[2020年11月14日(Sat)]
あることにとらわれてしまうと選択肢を失い、
逆にそれで、自分を自分が苦しめてしまう。

そんなとき、自分を変えるしかないのだけど、自分自身が、
そもそも自分のものではない。
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わたしというものに、しがみつくから苦しいのである。

自分の姿に執着しても、意味はないのだ。
えいk
肉体は永遠に続くものではなく、
刻々と変化していく。
そんなものに、しがみついても、くるしいだけだ。

しかし、こころはちがう。
いくつになっても、鍛えることができる。
感性は磨くことができる。

いまのわたしを自分が変えていく
未来のわたしの道すじを今のわたしが決めていく。
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過去の成功体験は捨てて、過去のわたしにしがみつかず、
わたしは今のわたしを変えていく
Posted by tsukuyomi at 19:19 | 風姿花伝 | この記事のURL
自然の神、仏が宿る国[2020年10月10日(Sat)]
ある夏の日のことです。
わたしは比叡山東塔の大講堂と根本中堂のお参りを済ませ、西塔を目指して歩いていました。わたしの前方のほうから外国人青年の二人連れが地図を見ながら歩いてくるのが目に入りました。
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やがて、わたしが彼らとすれ違おうとすると、「延暦寺はどこですか?」と彼らはわたしに聞いてきたのです。わたしは彼らに、

「いま、あなたがたは延暦寺を歩いてますよ。この山そのものが延暦寺なんですよ」と言うと彼らは「延暦寺という建物はないのか」と問いかけてきた。「ここにあるたくさんのお堂や建物のことを延暦寺と呼んでいるんですよ」と言うと、彼らは、不思議そうな顔をして、そばにたたずむ石仏に目もくれず、また歩き始めたのです。



その比叡山には至る所に石仏があり、ご神木があり、祈りをささげるところあります。回峰行をする行者さんは数百、数千もある祈りの箇所をすべて記憶し、祈りをささげます。森羅万象すべてに命が宿り、山や川、草や木、小さな石ころに至るまで、神であり仏そのものだからです。
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ただ、さきほどの外国人のように西洋の人たち、特に欧米圏の人たちには、山そのものが信仰の対象だとか、滝が神だとか、森羅万象に命が宿り、神や仏に出会うために山を歩いたり滝に打たれたりする行為に違和感を感じる人が多いようです。彼らにとってのそれは擬人化された絶対的な何かではないといけないのです。



わたしたち日本人にとっては、自然は敵ではないのです。那智の滝をお参りに行って清々しいのは生き生きとした自然の生命力をいただくからです。荒々しいとはもともと「生ら生ら」と書いたそうです。荒神さん、荒ぶる神とは、自然の生命力のことなのだそうです。その荒ぶる神を擬人化したのがスサノオです。しかし、そういう感覚は西洋、とくに欧米圏の人たちには理解しがたいところなのでしょう。彼らにとっては開発されない自然、特に、森は悪魔の領域なのです。ハリーポッターで森のことをforbiden forestと呼んでいますね。



しかし、わたしたち日本人にとっては自然は敵でも悪魔でもなく、よみがえりの場であり、生命力をもらうところなのです。そして、わたしたち日本人にとっての神は、その存在を感じる気配、オーラのようなもので、西洋の神のように、人はこうしてはいけない、ああしてはいけないとは言いませんし、なにか気に食わないことをしたからといって楽園を追い出したり、命を奪うような神ではありません。人間と同じように間抜けなことをしたり、荒々しいことをしたり、裸になったり、落ち込んでしまう神もいて、絶対的な存在ではないのです。


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ただ、こんなことをしたら、ほかの人も嫌だろうから、わたしはほかの人にこういうことをしないようにしよう、そして、困ったとき、落ち込んだときに、よみがえりの生命力を授けてくれる存在なのです。







Posted by tsukuyomi at 14:32 | 風姿花伝 | この記事のURL
わたしはあなたである[2019年11月14日(Thu)]

わたしはあなたであり、この世のすべてのものである。
あなたの悲しみはわたしの悲しみ
あなたの喜びはわたしの喜び
あなたの苦しみはわたしの苦しみ
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この世のすべてのものはつながっている。
人も動物も植物も風も光も岩も川も
さまざまな命はつながっている。

すべての生き物、すべてのものを大事することは自分を大事にすること

わたしはわたしなのか、なぜ、わたしはあなたではないのか
いや、わたしはあなたである。
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わたしとあなたの境界線は、じつはどこにもないのです。
Posted by tsukuyomi at 23:51 | 風姿花伝 | この記事のURL
なぜ価値観を変えないといけないのか?[2019年10月26日(Sat)]
先の参議院選挙で、価値観を変える、と言っていた政党がある。
わたしは、その価値観を変えるというスローガンを聞くたびに、違和感を感じた。
価値観を変えるというのは、つまるところ、同性婚を合法化するということなのであろう。。
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いまから70年ほど前、我が国を占領統治したGHQは敗戦国日本の破壊すべき価値観の一つに「家制度」を掲げていた。

GHQが家制度を廃止するという方針を事前に察した我妻栄ら日本の民法学者らは「家族制度、つまり戸主及び家族というものを廃止しようということをはっきりいっていることは非常に進歩的であると思われる」として積極的に民法の改正を推進した。

実際には、日本の家族や家自体は戸籍法で担保されたため無くならなかったものの、GHQが家を解体するという方針は、戦後の日本人の生活観・家族観に大きな影響を与えた。


戦後、欧米流の個人主義の方向へと制度と思想を変えられた日本人は自らの手で家の概念を徹底的に破壊してきた。離婚、そして母子家庭・父子家庭の増加、父親不在・家庭崩壊。そして、いま、その延長線上に同性婚合法化の動きがある。


個人の尊厳は大事である。しかし、あまりにも個人を重視しすぎるのはどうか?このまま、日本の家、家庭、そして家族を崩壊させてよいのか?

「日本人の理想とする家庭と家族像」とは何か?

山田洋次監督の「学校V」のなかで、
妻子と別居中の中年男性を演じる小林稔二と子どもたちが海岸で砂遊びを
したり海に入ったりしている場面で、その様子をみている余貴美子が大竹しのぶ(二人ともシングルマザーで、大竹しのぶは自閉症の子をもつ母親、余貴美子はその自閉症の子と仲がいい男の子を持つ母親を演じる。小林稔二と大竹しのぶは職業訓練校で一緒に学ぶ級友という設定)に
「やっぱり、男親が必要ね」と語り掛ける場面がある。

戦後、シロタ・ベアテが基本プログラムを作ったという日本国憲法。その日本国憲法24条は、家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等について規定し、戦後の民法の改正に大きく影響を与えた。

しかし、その男女平等主義は、日本の男女それぞれに価値があって、それぞれに役割があるという考えを遠ざけた。

男女それぞれ違っているけど、しかし、その違いを違いとして受け入れ、それぞれの違いのなかに価値があって、男女それぞれに、重要な役割があるのだ。
自然界は常に陰と陽でなりたっていることを忘れてはならない。

個人の尊厳は大事である。しかし、行き過ぎた個人主義重視は考えものである。
個人主義とは欧米の基本的な思想である。
Posted by tsukuyomi at 22:22 | 風姿花伝 | この記事のURL
神語(かむがたり)[2019年10月22日(Tue)]
Mythとは「根拠に乏しい話」という意味である。

明治になって輸入されたmythに「神話」という訳語が与えられた。
だから、ほとんどの日本人が、神話とは根拠に乏しい話だとみなしている。

明治になるまでの日本人は、神話ではなく、神語(かむがたり)と言っていたのである。
神語とは先祖たちの言葉という意味である。

我が国の神語とは、先祖の言葉なのである。

我が国の神々は生きているときは人間である。
笑ったり怒ったり泣いたり悩んだりした人間だった。
その人間が死んで、神になった。
生きているときに個性豊かだったので、
死んで神になっても個性豊かなのである。
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先祖の言葉を小ばかにし
神社を粗末にし、
西洋の文化をうらやましがり、猿真似ばかりして、
日本の文化や美しいものを粗末に扱うことは
すなわち、天に唾を吐く行為なのである。
Posted by tsukuyomi at 23:14 | 風姿花伝 | この記事のURL
もう少し、おおらかに、なれないものか[2019年10月08日(Tue)]
むかし、中学生のころ、運動会の練習で、フォークダンスをするとき、あこがれの異性と踊る順番が近づいてくると、胸の音が高まった。憧れの異性と手をつないで踊っている間、顔はほてり、胸はドキドキした。

高校生になって、好きな異性が、放課後、一緒に帰ろうと言ってくれて、一緒に歩いて帰る道々、そっと手を握ろうとしても、うまく握れず、家に帰ってからため息をついた。

家に電話をかけて、その子のお母さんに「○○さん、いますか」が言えず、電話を切ったり

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さて、盗撮、痴漢、下着泥棒、挙句に、女の子の連れ去り・・・、自分好みの女の子にしてみたかった・・・

現代の日本の若者は、片思いの恋愛経験さえしたことがない人が半数を占めると言う。
自分であることに忙しすぎるのか、他人への関心が生まれないまま老成しているのか。

性的なことは、公序良俗に反するからと言って、禁欲的なご時世ということもあり、性的なことを本当に「ワイセツ」と感じ、セックスを悪だと思っているのかもしれない。

しかし、人間も自然の一部である。創造主が創ったわけではない。だから、性欲から逃れることはできない。そんなことをすれば、子孫は繁栄しないだろう。実験室で、人工的に子孫を作るわけにはいかないだろう。

かと言って、恋愛経験の乏しい、胸がワクワクしたことをほとんど知らない現代の若者は、どうやって、異性と接していいのか、わからないらしい。へたすると、後日、セクハラ行為を受けました、と訴えられたら元も子もないから、、恋愛そのものを避けるのかもしれない。

しかし避けても、悲しいから、本能には逆らえない。

本物のバーチャルではないリアルな異性の手さえ握ったこともなく、どうやって、リアルな異性と付き合っていいのかわからないから、勢い、いきなり、お尻をさわったり、胸をさわったり・・・、AVビデオのようなセックスをして、相手の顰蹙をかったり。
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ダビデ像にパンツをはかせなさい、と抗議した保護者たちがいた。
しかし、そういうなんというか禁欲的な、アダムとイブを楽園から追放した神のマネをするのではなく、伊邪那岐が「なりなりて、あまれるところあり」と言うと伊邪那美が「なりなりて、欠けているところあり」と答え、「では、われの余れるところで、おまえのかけているところをふさいで子作りしましょう」で始まった日本である。

もうすこし、おおらかになれないものだろうか?
Posted by tsukuyomi at 19:19 | 風姿花伝 | この記事のURL
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