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多数決ではきめられない[2019年05月06日(Mon)]
こんな話がある
「500匹の猿がいて、たった1匹だけに両目があり、ほかの499匹は、どういうわけか片目がない。『目がふたつある』といじめられた両目がある猿は、やがて、自分で片目を
つぶしてしまった・・・。


多数決とは集団でものを決めるときの決定ルールの一つで民主主義の原則のひとつである。
その民主主義の原則である多数決の原理では、ものごとが良いか悪いはきめられない。
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ましてや、男か女といった人の性別や、同性婚が合憲か違憲を裁判官が多数決では決めることはできないのである。

そのような問題は、時間がかかっても、意見をまとめ、合意を得ることが求められるのである。

それは違憲である、と言って、国を相手に慰謝料請求の訴訟を起こしても、勝つか負けるかであって、合意を得るということではない。
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まして、プラカードを掲げて自己主張するやり方はまちがっている。



古代オリンピアが男色を発達させた〜裸体開眼〜[2019年02月26日(Tue)]
健康な男性の肉体美を尊んだ古代ギリシアでは、すべての運動競技は全裸でおこなわれた。
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歴史上はじめて全裸で走ったのはことスパルタ人のアカントスという男だったとか、メガラの市民のオルシッツポスだったとかいろいろと言われているが、走りやすいという理由で全裸で走ったという理由とともに、見物客らが男性の筋肉美が堪能できるという楽しみがあったという。

男尊女卑が激しかったギリシアでは、古代オリンピアの競技会場は女人禁制であった。その女人禁制の会場に近づいた既婚の女性は捕らえられ崖から突き落とされたという。男性の筋肉美は男性だけが鑑賞するものだと言わんばかりに、オリンピアの競技会場すべてが女人禁制だった。

あの男性同士の愛が最上の愛であるとした哲学者プラトンが言うには、全裸の起源は地中海に浮かぶクレタ島で、それがスパルタにつたわり、そしてギリシャ本土に広まったのだそうだ。全裸になった身体にオリーブ油を塗って運動する習慣もスパルタ人が広めたとか。

競技会だけでなく、普段の練習も全裸で練習した。少年たちにも体育場では入念に肉体の鍛錬を施された。もっとも少年たちはへそから下にはオリーブ油は塗らなかった。男社会のなかの女性的な役割を果たした少年たち「性器には花梨さながら露と薄毛がやわに咲き匂うている」と言われるほどの存在であった。

ギリシアの各地の体育館や訓練場などや、軍隊においても愛の神エロスの祭壇や有名な男同士の恋人たちの彫像が置かれ、若者たち同士のプラトニックラブが絶えず称賛されるよう周到な配慮がなされていたのである。
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ギリシア人はいろいろな手段を尽くして男性美を楽しむ方法を追求したと言われる。世界史上、ギリシア人ほど、男性の肉体美に対して敏感であった民族はいないそうだ。

ギリシア人の間で、男色が発達したのは、全裸で体育場や各闘技場で肉体の鍛錬に励んだ習慣の成果なのだそうだ。

参考文献)「ホモセクシャルの世界史」(松原国師著、作品社)
Posted by tsukuyomi at 18:45 | ホモセクシャルの世界史 | この記事のURL
地元紙が掲載しなかった幻の記事(2)〜わたしたちの平成〜困難を生きる〜[2019年02月25日(Mon)]
「公衆浴場に入るのか」
国への請願、5分で棚上げ

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 「私の活動の最終章」。松江市の上田地優は2017(平成29)年
の夏、自身のブログにそう書き残して島根県議会に向かった。
 上田は戸籍上は男性だが、06(平成18)年、心と体の性が一致しない性同一性障害と診断されたのをきっかけに「女性として生きる」とカミングアウトした。ただ、現行の性同一性障害特例法では性別適合手術を受けないと性別変更することができない。「体を傷つけることを強いられず、あるがままの性で生きたい」。いわゆる「手術要件」の撤廃に向け、国への請願を議会に求めた。
 審議が始まり、男性県議が口を開いた。「極端なこと言うと、女性の風呂に男性のものをぶら下げた人が入ってひげをそっとったらびびる」
 5分程度のやりとりで「継続審査」となり、棚上げが決まった。「風呂の話になっちゃうのか」。上田は落胆し、請願の求めを取り下げた。
 日本精神神経学会のガイドラインに従った初の性別適合手術は、1998(平成10)年、埼玉医科大で実施された。これをきっかけに性同一性障に苦しむ人たちの存在がクローズアップされ、2015(平成27)年までに延べ約2万2千人が国内の医療機関を受診するまでになった。だが、実際に手術を受けて性別変更した人は16(平成28)年末の時点で約6900人にとどまる。
 経済的な負担や手術そのものに対する恐怖もある。戸籍の性を変えるためには手術の他にも、現に婚姻していない、子どもがいない、などの諸要件が立ちはだかる。「性の越境」に踏み切るのは容易なことではない。
 身体的な事情を抱える上田も手術を受けない道を選んだ。内心では県議と同じような懸念を抱いていた記者(37)が尋ねると、「女性宣言」後、公衆浴場には一度も入っていないという。「そんな人生はもうあきらめた。当たり前でしょう。本気で女風呂に入ると思っているんですか」。
 知らない土地に行くと、性別にかかわらず誰でも入れる「多目的トイレ」の場所を真っ先に確認するのが習慣になった。できるだけ他者に迷惑を掛けず、リスクの少ない方法を模索して生きてきたつもりだが、他人にはなかなか伝わらない。トイレや風呂などといった私的で敏感な問題について、自ら進んで説明するのはやっぱり抵抗がある。
 国際的には人権意識の高まりを受け、2000年代以降、英国やオランダ、アルゼンチンなど手術をせずに性別変更できる国が増えた。だが、全裸で公衆浴場に入る独特の慣習を持つ日本では、女性が安心して入浴できないとして議論が進まない。
 早稲田大専任講師で『LGBTを読みとく』の著者森山至貴(36)は「障害のある人や高齢者に配慮したバリアフリーを進められるなら、性的マイノリティーの人たちが過ごしやすい公共空間も可能なはずだ」と指摘する。
 専用の入浴時間帯を設けてもいい。他人の目が気になる人はプールと同じように水着を着用し、気にならない人は裸で入浴する。それで生じる問題とは何だろうか。歴史ある温泉旅館で続いている混浴文化に抗議する人はどれだけいるのか。
 裸のつきあいはコミュニケーションのあり方として大事だし、水着で入浴することが衛生的かどうか気にする人もいるかもしれない。そうした観点からの反論はいくつか考えられるが、「本気で共生を望むなら、越えられないハードルではない」と森山は思う。
 島根県議会での請願活動を巡り、インターネット上では県議の発言を支持する意見がほとんどで、上田に手厳しかった。「少数派の意見を主張し、多数派に押しつけて強要する社会は、民主主義を越えた暴力だ」との書き込みもあった。上田には、平成後期に吹き荒れるヘイトスピーチに重なって見えた。(敬称略)
ギルガメシュ叙事詩〜それはメソポタミアで始まった?〜[2019年02月24日(Sun)]
ギルガメシュ叙事詩は世界最古の神話文学として知られ、また人類最古の男どうしの友愛を歌い上げていることで名高く、この作品を通して、メソポタミア文明圏の人たちは男色と女色との間に優劣などつけず性愛を楽しんでいたことを想像させる。
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ギルガメシュ叙事詩によると、ウルク第一王朝(前2800〜前2500)の5代目の支配者であったギルガメシュの身体の3分の2が神で3分の1が人間だったという。

優れた王だったギルガメシュはやがて横暴な王となり、臣下や市民の息子や娘を一人残らず奪い取って性の相手としてもてあそんだり、人妻をも望むままにわがものとしたのだった。

ウルクの住民は、その暴君ぶりに困り果て、天の神に救いを求めることにした。

神々はギルガメシュに匹敵するエンキドゥという毛深い野生の闘士を造りだして、ウルクに送りこむことにした。

ウルクにやってきたエンキドゥはギルガメシュと1対1の対決をするのだったが、なかなか決着がつかない。あげくに、お互いがお互いの力を認め合うようになり、やがて親密な友人となってしまう。

やがて男女の夫婦のあいだの情愛を凌駕するほどの情愛関係となったふたりは手に手をとって森の怪物を退治しに出かけるようにまでなった。

そんなある日、ギルガメシュの立派な姿に魅了された愛の女神のイシュタルはギルガメシュに求愛したが、ギルガメシュは愛の女神イシュタルを袖にし、愛するエンキドゥのほうを選んでしまったのだ。

エンキドゥに嫉妬した愛の女神イシュタルは父神に頼んで天の牛を地上に使わしてもらった。天の牛をウルク城のなかにいたギルガメシュとエンキドゥに襲い掛からせたが、天の牛はエンキドゥに殺されてしまう。

しかし、天の牛を殺したせいでエンキドゥは病魔に取りつかれ、やがて息を引き取った。

エンキドゥの臨終に際し、ギルガメシュは彼を妻のように抱擁し悲しみ、滝のように涙を流し、泣き女さながらに泣き叫んだという。
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ギルガメシュ叙事詩は、のちにバビロニア、アッシリアと何千年にわたって人気を博し、ヒッタイト語やギリシア語などに翻訳され、地中海世界で広く愛読されたという。

ギルガメシュとエンキドゥの親密な関係は、のちに古代オリエント人の友愛の模範となり、バビロニアのハンムラビ王などの歴代君主たちが男の愛人をもつことの正当な理由づけとなったらしい。

参考文献)「図説ホモセクシャルの世界史」(松原国師著、作品社)
Posted by tsukuyomi at 17:25 | ゲイの世界史 | この記事のURL
地元紙が掲載しなかった記事「わたしたちの平成〜困難をいきる」1[2019年02月23日(Sat)]
昨年秋、共同通信本社T記者から約20時間にわたるインタビューを受けた。
このインタビューはその後全国の地方紙で掲載された。


T記者は、わたしが活動する島根県で、その島根県の多くの人たちに読んでもらいたいと
丁寧に記事を書いた。

わたしも、自分の胸の内を地元の多くの人たちに知ってもらいたいと思ってインタビューに応じた。

しかし、地元紙は「メンツにかかわるから」と言ってその掲載を見送った。

島根県の多くの人たちに読んでもらえなかった幻の記事を一部掲載するのは、地元紙が地元紙としての伝える義務を放棄し、地元の人たちが性同一性障害について知る権利を奪ったことに対する抗議でもある。

ブログに掲載することを快く承諾してくださったT記者には感謝の意を申し上げだい。

上田地優(うえだちひろ)
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「永久的に女装は続く」
性的少数者、苦悩伝える


 性同一性障害と認定され「女性」として暮らす松江市の上田地優は2011(平成23)年の夏、市内の県立高校に招かれた。生徒会が秋の文化祭に女装コンテストを企画し、親交があった校長から意見を求められた。
 担当教員は「性の問題が絡むと社会的によく思われない」と難色を示し、生徒側は「事なかれ主義だ。いったい誰が傷つくのか」と反発していた。上田は「女装コンテストは性のパロディー化につながる」と否定的だったが、開催にこだわる生徒たちの姿勢に興味を持った。
 校長室で生徒たちに対面し、2時間かけて思いを伝えた。「体は男だけど、どうしても脳が私を女性へ向けさせる」「コンテストの女装は一時的なもの。私は永久的に続けていくんです」。生徒たちはほとんど質問せずに黙り込んでいた。何を考えているのか、その表情からはうかがい知れなかった。
 心と体の性が一致しない人たちが「性的倒錯者」と表現されることもあった昭和の時代。性同一性障害という診断名がつけられ、性別適合手術が正当な医療行為に位置づけられたのは、1990年代後半になってからだ。
 2006(平成18)年に認定された上田は、当時、医師に女性化がいつ始まったか問われ「いつの間にか」としか答えられなかった。小学生で初めて化粧して外出し、母にきつくしかられたこと。オウム真理教事件が発覚した1995(平成7)年、髪が肩にかかるほどになり「教祖みたいのがいる」と警察に通報されたこと。上田の説明はどれも断片的だ。
 外見の変化と反比例するかのように、個人で教えていた英語塾の生徒は減っていった。自宅の部屋が女性に人気のキャラクターグッズでいっぱいになり、久々に会った母の友人に驚かれた。「自分は男のはずなのになぜ…」。衝動的に障子を破り、流し台でコップをたたき割るようになった。
 性同一性障害という診断名がついて初めて霧が晴れる思いがした。女性よりも女性らしく生きようとの思いが芽生え、自然と化粧が濃くなった。


 だが、町に出ると勝手に足が震えることが5年ほど前まであった。制服を着た警察官と、生徒を連れた教師と思われる人に出くわした時だ。
 「規範の象徴だからでしょうか。自分が望んだ生き方をやっと見つけられたと確信していたはずなのに、瞬間的に罪悪感をおぼえ、怒られたような気分になったんです」
忘れ去れた法律〜性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律〜[2019年02月15日(Fri)]
同性愛者だけに同性婚を容認しながら、性同一性障害者には性同一性障害者が性別を変更したら同性婚になるから離婚しなさい、というのは差別である。立憲民主党をはじめとする野党はそういうことがわからないのだろうか?

ここに、まったく忘れ去れた法律がある。
2003年に国会で成立し、2004年に公布された法律だ。
「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(以下、特例法と書く)である。

特例法第3条第2項に以下の性別変更の要件が定められている。
一) 二十歳以上であること。
二) 現に婚姻をしていないこと。
三) 現に未成年の子がいないこと。
四) 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五) その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

二)の「現に婚姻していないこと」は婚姻している性同一性障害者が性別を変更した場合、同性婚となるので、現行法の秩序では問題が生じてしまうからである。

さて、昨日、全国各地で、同性婚を認めるようにと同性愛者らが一斉に訴訟を起こした。新聞各紙もそのことを報じている。ある弁護士が憲法24条の結婚とは両性の合意云々を引き合いにだし、現行法では同性婚を禁じていないとのコメントを出していたが、では、なぜ特例法には性同一性障害者の性別変更要因に現に婚姻していないことがあるのだろう。
婚姻している性同一性障害者が性別を変更したら、同性婚になり、現行法の秩序では問題を生じるからという理由なのだが、、同性愛者同士の婚姻なら問題が生じないのか?

要するに、性同一性障害者は精神疾患だから、不良な遺伝子を残してはいけない、ということなのだろうか?

同性愛者の同性婚騒動の陰に隠れて、性同一性障害者のことはまったく忘れ去られている。
法の下の平等を言うなら、性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律の婚姻要件、不妊要件も同時に議論するべきである。

LGBTの大きなくくりの中で、同性愛者らと性同一性障害者らが連帯して権利の拡充を図るというのは幻想なのである。

抱えている問題が違うのであれば、利害関係も異なるのである。
所詮、同床異夢の世界なのである。


近代以前の我が国のセクシュアリティは髪型だった?[2019年02月10日(Sun)]
徳川実紀によれば、承応元年(1652)に幕府は若衆に前髪をそり落とすことを命じたとある。

そのきっかけはその年保科弾正正貞宅で松下隼人正重継と植村帯刀康朝が若衆のことでいさかいをおこしたことにある。

若衆とは前髪の一部を三角形に剃った思春期の男の子のことで男女どちらとも性的な関係を結ぶことが許されていたのだ。
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欧米の学者たちの間では、男性とも女性ともセックスをすることが許されていた若衆たちのことを第3のジェンダーと呼ぶそうだ。

そして、思春期の若衆は西洋の視点でいえば、近代初期の日本の美を象徴する若い男性たちとされる。


近代以前の西欧化されるまでの我が国では、前髪は男性性を象徴するもので、元服するとき、その前髪は切り落とされるのである。つまり前髪があるということは一人前の男ではないということだったのである。ちなみに前髪をそり落とした髪型を野郎髷という。

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前髪が男性性を象徴するものであったということは、社会の中心にいる男=武士にとってはそれがあることが性的な魅惑の対象であったのだ。元服前の思春期の男の子は男社会のなかでは女性の代わりとみなされていたのである。若衆の前髪は西欧化された現代の日本社会における女性の胸のように性的な魅惑の対象だった。

その若衆が躍る歌舞伎、若衆歌舞伎が隆盛だった時代、役者が同性愛を好む男の相手になっても金銭を要求することもなく、揚げ代の定めもなかった。揚げ代とは遊女や芸者たちを揚屋に呼んで遊ぶ時の代金、玉代ともいう。

幕府からすると、その若衆歌舞伎が江戸の風紀を乱したのだが、男娼までには堕落はしなかった。ただ息のあったものに対して身を任せたにすぎないのだ。
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それが、男色を売り買いするようになったのは、若衆歌舞伎が野郎歌舞伎と改称されたあたりからである。

参考文献)「江戸時代の男女関係」昭和2年、田中香涯著
Posted by tsukuyomi at 11:34 | 江戸時代の男女関係 | この記事のURL
姿を美しく見せよ[2019年02月08日(Fri)]
「風姿花伝」とは能楽論書で世阿弥によって室町期に書かれたもので、世阿弥の芸能論の基本をなし、「花伝書」とか「花」という。

そのなかで、世阿弥は、そもそも女の演技は、若い男の役者が演じることがふさわしい、と言うのである。しかしながら、それは大変むつかしいことなのだと言う。扮装が大事なのだそうだ。
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扮装とは、俳優や舞踏家が劇中の人物を表現するために、化粧を施し、衣装、かつら、仮面、かぶりもの、履物などを身に着けることだ。世阿弥は、扮装とは見ている人たちの視覚に訴えるもので、それはセリフやしぐさに先立つもので、もっとも重要なのだという。

女御・更衣などの位の高い女性の扮装には、衣や袴の着方には、定まった約束事があるので、よくよく調べ、研究せよ、と、いっぽう、ふつうの着流しの女姿は、ほとんどの場合、見慣れているので、まずますの風情があるという程度でよいとしながらも、とりわけ曲舞舞(曲舞は南北朝期に流行した歌謡に合わせて立って舞う芸術)や白拍子(平安末期に流行した女流の歌舞)もしくは物狂(能で演じられる物狂とはこの世の愛別離苦に狂乱して旅芸人に身をやつした人物として描かれる)の女姿は、扇であっても、その持ち物であっても、柔らかく、握りしめたりしないように持つべしと世阿弥は花伝書のなかで言う。
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さらに、世阿弥は、女姿とは、着物や袴などもゆったりと裾長に足先が隠れるほどに着て、腰やひざはまっすぐ、体つきはしとやかで美しくなければならないとし、顔の角度も重要で、たとえば上を向きすぎると不器量に見え、うつむくと背中が曲がって後姿が悪く、顎を引きすぎると、女に見えないのだそうだ。

そして、なるべく袖の長いものを着て、手先は見せない。帯なども弱弱しげに締めるのがよろしいのだという。

ある人が女も女装していると言っている。女装とは女姿ということである。

うまれながらに女である人も、心と身体の性が一致しないで途中から女になった人も、女装という扮装して女姿となっている。

扮装を工夫せよというのは、つまり姿を美しく見せよ、ということなのである。

視覚に訴える部分が最も重要だ、ということなのである。

性別適合手術をしてきました。だから、わたしは女性です、ではなく、日ごろから、自分を美しく見せる努力のほうが重要だよ、ということである。
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自分の女姿を美しく見せる努力のほうが、性別適合手術を受けて身体のある部分だけ女姿になるよりも、安上りなのである。
Posted by tsukuyomi at 16:48 | この記事のURL
我が国の男色史[2019年02月04日(Mon)]
売春を仕事として従事する女性を娼婦とか売春婦といい、男性については男娼という。

昭和2年に書かれた「江戸時代の男女関係」(田中香涯著)によると、天保のころには、江戸、京、大坂などの都市に、色子、蔭間などと呼ばれた男娼がいて、彼らは一方には同性に色を買い、一方には女性の相手にもなっていたという。

我が国における男性同士の同性愛、いわゆる男色は、奈良時代に起こり、平安時代に及んで盛んとなり、室町時代に至っては武門の間で盛んにおこなわれた。しかし、売春を仕事とする男娼はいなかったという。男娼が現れるのは、江戸時代の初期のことである。
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それは若衆歌舞伎の流行と関係があるらしい。若衆歌舞伎は、男色が盛んだった戦国の名残りが漂うなかで、物珍しさも手伝って人気をはくしたという。若衆とは美少年のことで、男色の対象になる少年のことで、稚児のことである。稚児、特に男色の対象となった美少年は天台宗などの稚児信仰は観音菩薩信仰と重なり、男性社会の中の女性の代わりとして見なされていた。中国の影響を受け、観音菩薩は女の菩薩とみなされていたので、稚児はその漢音菩薩と同格とされていたので、稚児と交わることは観音菩薩の功徳が得られると信じられていたのである。

若衆歌舞伎は京では元和3年、大坂においては寛永年間、江戸にては寛永元年に起こり、女歌舞伎とともに流行したのだが、寛永6年、幕府は女歌舞伎は風紀を乱すという理由で禁止し、以後若衆歌舞伎だけが隆盛を極めた。若衆歌舞伎では美少年たちが女歌舞伎の美女に代わって踊ったのである。

室町から江戸時代の初めにかけて、男色が盛んにおこなわれ、武士僧侶の間でこれを好むものが多く、かつ男色は武士道の慣習は男色をかえって奨励したので、機をみるに敏な者たちは、佐渡島の女歌舞伎が遊女をエサに顧客を釣ったごとく、美少年の歌舞をもって、江戸時代初期の人々の心の弱さをついたのである。

その若衆歌舞伎は身分の上下を問わず愛され、大名畑本のなかには俳優を自宅に招いて演技させるものも多く、また自ら劇場に出入りした者も多かったらしい。

「美少年に魂を奪われて有頂天になって通う。それどころか、大名高家へ召し出され、酒宴のお相手に酌などなり」などと美少年の色におぼれて風紀を乱す弊害も現れだしたので、慶安元年、幕府は若衆歌舞伎役者との禁令を発したのだが、その効き目はなかったという。

つづく
Posted by tsukuyomi at 17:50 | 江戸時代の男女関係 | この記事のURL
日本の男色は観音信仰と稚児信仰に結びついていた[2019年01月30日(Wed)]
浄土真宗の開祖、親鸞が修行中、夢に観音菩薩が現れ、親鸞に自分を抱け、と告げた。以後、親鸞は悟りを開き、浄土真宗をおこし、僧侶たちに妻帯を許した。

一般に、浄土真宗以外の宗派の僧侶は明治維新になって肉食妻帯が許されるまで、中性とみなされていたという。(「江戸時代の男女関係」昭和2年 内外出版協会、田中香涯著)
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もともと、観音菩薩は男性の仏さまだった。それが、中国で、女性の仏さまになる。観音信仰である。中国で女の仏さまになった観音菩薩は人が亡くなったとき、手に蓮のつぼみを持ち、亡くなった人をそのうえに乗せて、極楽に運ぶと信じられた。やかて、それが中央に阿弥陀如来、左に勢至菩薩、右に観音菩薩という阿弥陀信仰と結びついていく。

親鸞は浄土宗の開祖法然のもとで修業を積むが、どうしても煩悩(性欲)がなくならず、悩み、苦しみ、堂にこもって修行をしていたある夜、観音菩薩が現れ、わたしを抱きなさい、と告げられて、やがて悟りを開き、浄土真宗を開いた。

仏教がインドから中国を経て、我が国に入ってきた。日本に伝わってきた仏教はもともとの姿ではなく、漢訳された中国式仏教であり、家父長的な儒教文化圏である中国においては男尊女卑にふさわしくない部分は中国社会になじまないとして改変されたのである。

さて、稚児とは「ちのみご」のことである。本来は、6歳ごろまでの幼児をさしたのであるが、平安時代になると、我が国の大規模寺院で、剃髪しない少年修行僧(12〜18歳ぐらい)も稚児と呼ばれるようになった。
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彼らは平安貴族の女性のように化粧をし、おはぐろをし、極彩色の水干を着ていたという。なかには女装する稚児もいて、少女とほとんど見分けがつかなかった。かれらは寺院という男性社会における女性的な存在であり、男色の対象とされた。天台宗では、稚児灌頂という儀式も行われ、稚児灌頂を受けた稚児は○○丸と命名された。これを受けた稚児は観音菩薩と同格とされ、神聖化されたのである。

法然のもとで修行する前、天台宗の総本山比叡山延暦寺で修行を積んでいた親鸞もそのことをしらないはずはない。案外、夢の中に出てきた観音菩薩は観音菩薩の姿を借りた稚児であったのかもしれない。

女犯を禁じられていた僧侶たちも、観音菩薩と同格で神聖な稚児と交わることはご法度ではなかった。むしろ、前の世の罪を償い、この世で徳を積み、極楽に行くうえにおいては、男性社会における女性的な存在であり、また観音菩薩とみなされていた稚児を抱くことによって功徳が得られると信じていたのである。
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