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四季折々の雑記

 05年夏まで在籍したマスコミの世界は極力、主観を排した客観報道を原則とした。しかし真の意味で「客観」を実現するのは報道の現場に限らず難しい。ブログと言うには程遠いが、忘れない程度に自分の想い、時に意見をささやかに書いていくつもりです。


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フィリピン残留2世国籍問題 [2011年08月29日(Mon)]
時間の経過に埋没させるな
比外務省の認証証書評価を


フィリピン残留日本人2世7人が8月、来日した。彼らは日本人を父に持ちながら、その身元が判明しないため日本国籍が取得できず、多くは無国籍状態で極貧の生活を余儀なくされている。しかし過去5回の訪日調査と同様、祖国に対する不満や注文は今回も出なかった。一方で戦後66年を経て“日本人の証”を手にしないまま故人となる2世も目立って増えた。このままでは問題は時間の経過の中に埋没する。国の名で行われた戦争に伴う犠牲は国の名で救済されなくてはならない。

焦点は日本側の評価

今回の訪日調査では、一行の一人、奥間パシータさんの父親・奥間萬蔵さんが沖縄県・伊是名島に健在であることが確認され、66年ぶりに喜びの対面をした。訪日調査で親子対面が実現したのは初めて。終戦時、31歳、働き盛りだった萬蔵さんは97歳、3歳の幼児だったパシータさんは69歳、歳月の長さをあらためて実感する対面となった。


比外務省の認証証書


今回の訪日調査では、もう一つ新たな“進展”があった。残留2世の父親が日本人であることを認めたフィリピン外務省の認証証書の発行である。認証は1995年から日本の外務省が進める実態調査の一環としてフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)やフィリピン日系人協会が現地で行った調査結果を基に「残留2世は日本人の父とフィリピン人の母の間に生まれた」などと記している。当時の国籍法は日比両国とも父系主義を採っており、これによりフィリピン外務省は理屈上、残留2世が「日本人」であることを追認した形となり、今後は日本の司法、行政がこれをどう評価するかがの焦点となる。

残留日本人2世は戦争がなければフィリピン社会で幸せな生活を築いていた。彼らは間違いなく戦争の犠牲者である。同様に終戦前後の混乱で両親と離ればなれになった中国残留孤児の場合は日中両国政府が口上書を交換、該当者に孤児証明書を発行することで就籍手続きは大きく前進し、既に1350人が日本国籍を取得している。

自己意思残留は酷な決め付け

これに比べフィリピン残留二世の国籍取得が遅々として進まない背景には、次のような両者の違いが指摘されている。中国残留孤児が両親とも日本人であるのに対し、残留2世は父親だけが日本人。現地に渡った理由も、前者は国が進めた満蒙開拓だったのに対し、後者は個人の自由意思。さらに日中間は1972年まで国交がなかったが、フィリピンとは戦後も国交があり音信、渡航も自由だった。従って残留2世が現地に残ったのは「自己意思残留」に当たる。


沖縄の空


さらに中国残留孤児対策を進める根拠となった「中国残留邦人等の円滑な帰国の支援及び永住帰国後の自立の支援に関する法律」(支援法)は対象を「旧満州、旧ソ連、樺太に取り残された両親が日本人の子」に限定しており、フィリピン残留2世は対象にならない、との説明もされている。行政は法律や法令の執行機関であり、残留2世問題に対応するには支援法の改定か残留2世の救済に向けた新たな法律が必要といった指摘もある。

しかし、日本人の父から生まれた子供は日本国籍を有する、とした国籍法は残留2世問題が発生した終戦時に存在しており、支援法の制定はずっと後である。残留2世にとっては国籍法がすべてであったはずである。自己意思残留に至っては敗戦後、現地に残された2世が母親とともに「敵国人の子」として追われ、山野を逃避行する中で日本人の父との関係を裏付ける写真や婚姻証明書、出生証明書を捨てた悲惨な歴史を見れば、あまりに酷な決め付けである。

国としての正義

となればフィリピン外務省の認証証書を中国残留孤児の孤児証明書と同様に扱うことこそ問題を早期に解決する道である。日本政府が認証証書を公式に評価するなり、東京家裁が就籍の審判に積極的に認証証書を取り込む方法である。支援法の改正や新法の制定は、これまでも何度か指摘されたが本格的な議論にはならず、時間がかかり過ぎるからだ。日本の外務省も引き続き調査を支援する方針を明らかにしており、厚労省も終戦時、米軍施設に収容された軍人・軍属の名簿など手持ち証拠の提供など協力の姿勢と聞く。検討の余地は十分あるはずだ。

1995年の調査で残留2世と判明した約3000人のうち親の身元が未判明だったのは約900人。このうち64人が東京家裁で就籍が認められ、80人が係属中となっている。さらに約200人について日本財団の支援でPNLSCが就籍を申し立てるための調査票を整備する段取りだ。

残る約500人は既に故人となった。後は時間との戦いである。司法・行政の前向きの対応で残留二世が生あるうちに国籍を取得できるよう祈ってやまない。それが国としての正義と考える。(了)
比残留2世 [2011年01月13日(Thu)]
比2世の国籍問題にも通じる首相発言
「なぜ、こんなことに」


菅首相は2011年の年頭会見で、先の大戦で戦没した旧日本軍の軍人、軍属らの遺骨収集に関連して「御遺骨を家族の元に返すことは国の責任」と述べた。消費税を含めた税制改革や米軍普天間飛行場移設問題、解散・総選挙、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)など山積する重要課題の陰に隠れ報道対象にならなかったが、昨年12月に訪問した太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島での遺骨収集作業について「多くの遺骨が残されていることを知ったときに、なぜこんなことになっているんだろうと不思議に思いました」とも語った。



会見で首相は今年を明治維新、戦後に続き日本人全体が世界に向かって羽ばたく「新たな開国元年」としたいと述べたうえ、開国を進めるには「国民がおかしいと思っていることにしっかり取り組んでいく」として遺骨収集問題に言及した。当然、なされるべきことがなされないままでは国に求心力がなく、それでは新たな開国を進めるのは不可能、との認識と理解する。

国としての求心力の問題

先の大戦では約240万人の旧日本軍人、軍属らが死亡した。これまでに収容されたのは32万柱、引揚者らによる持ち帰り分を含めても114万柱が未収用で、首相が訪問した硫黄島も2万2千人の戦没者のうち収容されたのは約9千柱にとどまっている。遺骨を家族の元に返すのが国の責任であるのは言うまでもない。

戦後処理の関しては遺骨収集に限らず台湾日本兵や山西省残留日本兵、シベリア抑留者の補償問題など多くの課題が積み残しとなっている。首相は厚生省(現厚生労働省)担当大臣経験者として、こうした現実は当然把握されているはずである。そして積み残された課題の一つにフィリピン残留2世の国籍問題があることも承知されていると思う。

この問題に関しては以前にも触れたが、比残留2世は戦中戦後の混乱で「日本人の父」と離ればなれになり現地に取り残された。父系主義をとった当時の戸籍法からも彼らが「日本人」であることに間違いはない。ただし多くは日本の敗戦後、「敵国人の子」として母とともに山中の逃避行を続け、父との関係を裏付ける資料を失った。

家庭裁判所への「就籍」申し立てで日本国籍の取得を目指しているが、父との関係を裏付ける資料の薄さが大きな足かせとなっている。しかし死と同居した逃避行の中で多くの資料が失われたのは本人の責任ではない。日本人の子であることを隠すため自ら捨てざるを得なかった事情もある。残留2世の悲惨な現状が国家の名で行われた「戦争の結果」である以上、被害の救済も国の名で行うのがあるべき姿である。

政府の決断こそ

日本は戦後、世界第2の経済大国まで復興した。一連の戦後処理が徹底されぬまま何故、何故、現在に至ったのか理解に苦しむ面もある。とりわけ比残留2世の場合は就籍の審判で戦後65年も経てなお新たな裏付け証拠を求めるのは無理がある。日本財団が支援するNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」が改めて国籍取得に向けた名簿作りを進めているが、早期解決には中国残留孤児と同様、日比両国政府で日本人の子として認め合うことこそ必要であり、そのために必要なのは日本政府の決断である。

日本人のフィリピン移民は1903年(明治36年)に始まった。当時、この国を統治した米国が避暑地として海抜1500bのルソン島バギオの開発に乗り出し、ここに通じるベンゲット道路の建設工事に従事するためだ。移民者は1903年と04年だけで5千人に上ったとされ、そのまま現地に残った移民者が日系人社会を形作っていく。

日本の敗戦に伴いバギオやミンダナオ島ダバオなど各地で確実に地歩を固めつつあった日系人社会は崩壊した。戦争がなければフィリピン社会の一員として大きな尊敬を集める存在になっていたはずである。近年、日系人社会が再興されつつあるとはいえ、出自が判明しないまま無国籍状態で暮らしてきた比残留2世の戦後はあまりに悲惨であり、老境を迎え多くが日本人の証を手にすることなく故人になりつつある。日本国籍の取得は日本人を父親に生まれた彼らの権利であり、生あるうちにこれに応えることこそ首相の言う「国の責任」であると思う。

  ―――――  ×  ―――――  ×  ―――――  ×  ―――――

今後も折に触れ、残留2世問題を取り上げたいと思う。それに先立ち戦前のフィリピンにおける日系人社会がどのような社会だったのか、名簿作成に向けた有識者会議のメンバーで写真家でもある古屋英之助さん(77)=横浜市神奈川区=の証言と古屋さんが日系人会の活動紙に寄せた「松籟(しょうらい)の子」「少年の見た戦場 記憶にたどるルソンの残像」から拾った。

豊かな生活


戦前のバギオでの日系人誕生会=元バギオ日本人小学校同窓生提供=

古屋さんはルソン島北部の高原都市バギオの生まれ。熱帯地方には珍しく松林に囲まれた近代的な避暑地でフィリピンの夏の首都、「松の都」とも呼ばれた。当時の在留邦人は約600人。古屋さんは写真技師を営む父と母、それに弟の4人暮らし。大正時代には商業や農業、建築、鉱山など幅広い分野に日系人が根を張り、日本人男性と現地の女性の間に生まれた2世を含め約150人が日本人学校に通った。男子生徒の制服はカーキー色の木綿の半そでに半ズボン、女子は白のブラウスに紺色のスカート。当時の写真に見る在留邦人の生活は豊かで、父親の正之助さんは初代大統領のアギナルド将軍とも親交があった。

メーンストリートにはあった日本人経営のホテルでは自由に日本食も食べられた。映画館では黒澤明監督の「姿三四郎」や美男俳優長谷川一夫、喜劇王エノケン(榎本健一)らの主演作品、さらにミッキーマウスやピノキオ、白雪姫などデイズニー作品も上映され、ジュースやコーラを片手にポップコーンを頬張りながら映画を見たり、父とゴルフや洋弓を楽しんだ思い出もあるという。

そんな生活も小学2年だった1941年12月の開戦で一変、尋常小学校は国民学校に変わり、英語の教科も廃止となり、父親は軍属として戦場に。敗色が深まるにつれゲリラの襲撃や米軍の空爆が激しくなり開戦から3年、日本軍とともに古屋さん母子3人も雨季の山岳地帯へ避難した。昼間は米軍機の機銃掃射が激しく、徒歩による夜間の逃避行。食糧不足に高熱と下痢、迫り来る死の恐怖―。古屋さんは「少年が見た戦場」で「飢えは空腹よりずっと恐ろしい。空腹は胃袋が満たされれば解消するが、飢えは腹いっぱい食べても生理的なひもじさが持続する異常な状態」と書き記している。

山中の逃避行

同行者がばたばたと倒れ絶望的な逃避行を続けるうち、妻子が行き倒れになって死んだらしい、とのうわさを聞き、せめて骨だけでもと探しにきた父と奇跡的に再会。終戦後の収容所生活を経て1945年11月に母子3人、やや送れて父親も帰国した。フィリピン在留邦人の中では稀有と言っていいほどの“幸運”に恵まれたケースであろう。

父親、さらに「母親が倒れたら子供は生きていけない。子供を死なせてしまった母親は生き甲斐を失い、結局、一家全滅となる」と気丈に兄弟を守り抜いた母親も既に他界し、旧満州から引き上げた妻博美さん(72)と当時の記録作りや残留2世の国籍取得支援を進めている。

「仮に第2次世界大戦が起きず、日本とアメリカとフィリピンが仲良く平和を保ち続けていたとしたら、バギオ市民である日本人はこの地域で、どのような生活基盤を築いていたのだろうか」。「松籟の子」に古屋さんがつづった感慨である。(了)

 
初のダバオ訪問 [2007年06月12日(Tue)]
初のダバオ訪問
残留2世は「棄民」か


5月19日から3日間、フィリピン・ミンダナオ島の港町ダバオを初めて訪れた。マニラから南へ飛行機で1時間40分。町全体がバナナやヤシ、ココナツなどの緑に覆われているせいか、雨季を迎え30度を超す気温も熱帯地方特有の暑熱というほどではなく、中心部の道路両側には果物をきれいに山積みした店が軒を並べる。

20世紀初頭から日本人の移民が始まり、終戦前は東南アジア最大、2万人の日本人が日系人社会を形成し、この町の発展に貢献した。「日本人がつくった町」とも言われ“リトル東京”と呼ばれた一角には日本人が経営する商店が並び、周辺にはやはり日本人経営のダバオ麻農園が多数あった。日本人学校も13校、児童数は1500人に上ったとされている。


再建された日系人学校

敗戦で完全に崩壊した日系人社会も再興されつつあり、1980年代には日系人会館も完成、現在、会員も6400人に上る。近年はタイなどとともに団塊世代の退職後の長期滞在先としても注目を集めつつあり、ダバオ日系人のジョセブン会長によると「再建された日系人学校の生徒の7割は地元民」というから、戦後の厳しい反日感情にも、ようやく軟化の兆しが出てきているようだ。
                                    
日比間の国際結婚も年間8000組を超え、一時、目立ったエンターテイメントとして入国を規制した結果、“偽装結婚”が増加したといわれ、これに伴う増加分もあると見られるが、両国関係が確実に新しい時代を迎えつつあるのは間違いない。

そこで気になるのは、日本の敗戦に伴いフィリピン人の母親とともに現地に取り残され、現在も日本国籍を取得できない日系2世の存在だ。当時は日比両国とも父系主義を採っており、父親が日本人である以上、父親の身元が判明し、親子関係が証明されれば、日本国籍を取得できる。

90年代にようやく行われた厚生省(現厚労省)、外務省の調査で残留2世と確認された約3千人のうち2千人近くが、父親の身元判明に伴い国籍を取得している。しかし残る千人近くの父親の身元は未判明で、彼らが国籍を取得するには、新たに日本国内に本籍を設け、ここに戸籍をつくるしか方法がない。いわゆる就籍手続きがそれで、既に死亡した人を除く約500人がこの手続きに国籍取得の最後の望みを託す。


就籍にかける残留2世タグチ・タダシさん

しかし軍人軍属として現地召集され日本軍の支配下に組み込まれ父親の多くは戦死、生き残った人も強制収用を経て日本に強制送還され、戦中・戦後の混乱もあって父親の身元を探す手掛かりがほとんどない。現地に取り残されたフィリピン人の母と2世は「敵国人の子」として憎悪の対象、ゲリラの標的となり、多くは山中での逃亡生活を余儀なくされ、夫、父が日本人であることを示す婚姻証明書や出生届などを自ら捨てた。

それ以前に多くの記録、資料は戦火で焼失しており、新たな手掛かりの発掘は難しい。現在、22人の2世が日本財団の支援などで東京家裁に就籍の申し立てを行っているが、父親の身元が判明していない2世の申し立てを認めた審判はまだなく、裁判所がどの程度の証拠を求めているのかもはっきりしない。

中国残留孤児の場合も、同様に両親の身元が分からない孤児は多く、日中両国政府の合意の下、中国政府が孤児証明書を発行することで既に1300人近くが日本国籍を取得している。しかし、フィリピン残留2世について、日本政府が積極的に動く気配はない。中には「中国残留孤児は両親とも日本人。父親だけが日本人のフィリピン残留2世とは違う」「国交がなかった中国と違い、フィリピン残留2世はその気になれば帰国できた」といった国籍法や戦後、2世が置かれた厳しい状況を無視した暴論も聞かれる。


現在も牛が活躍

戦後60年を経て残留2世の大半は70才を超え老境にある。シニア世代の長期滞在先として再び脚光を浴びつつあるダバオを歩いてみて、現在も極貧の生活を余儀なくされている2世と戦後日本の繁栄を享受したシニア世代が同じ町に同居する姿には、どうしても違和感が付きまとう。

何故、政府として残留2世に救いの手を差し伸べられないのかー。中国、韓国の歴史認識批判に組する気は毛頭ないが、残留2世に関する限り、国としての無責任さに疑問を持たざるを得ない。国の名で起こした戦争に伴う犠牲を国の名で救済するーそんな当然のことができないのでは、国としての求心力も持ち得ない、と痛感する。

                                     (了)
映画「蟻の兵隊」の試写会に参加して [2005年11月18日(Fri)]
11月15日、山西省残留日本兵問題をテーマにした映画「蟻の兵隊」の試写会を観た。「延安の娘」で知られる池谷薫監督による2本目の長編ドキュメンタリーで、製作委員会に寄せられた支援金などを基に国内・中国ロケを敢行し、150時間のテープを101分に編集して完成したと聞く。

怒りと苦しみ
主人公は、前回触れた軍人恩給請求訴訟の原告のひとり奥村和一さん。奥村さんらが敗戦後も山西省に残留し国民党の一翼として中国共産軍と戦うことを余儀なくされた背景に何があったのか、さらに踏み込んで自身を「殺人者」に仕立てた戦争を改めて問い掛ける内容。靖国神社に初詣に訪れた戦争を知らない世代と奥村さんとの対話から、終戦時、全将兵を速やかに帰国させるべく南京総司令部から山西省太原に飛び、現在は高齢のため病床にある当時の総司令部主任参謀との対面、さらに山西省への旅と画面は展開する。

前半では奥村さんらが所属した北支方面軍第1軍の将兵約1万人のうち2600人が国民党の“傭兵”として現地に残留することになった背景に、戦犯逃れを意識した当時の日本軍司令官の思惑と、圧倒的な共産軍の前に守勢に立たされた国民党司令官との密約があったことを示唆。後半では初年兵教育の名で残虐行為を強制された奥村さんの体験を基に、現地への旅を通じて戦争が持つ「狂気」を浮き彫りにしていく。奥村さんの怒りと悲しみが全編にあふれ、観る者に「戦争とは何か」を重く問い掛けてくる。

池谷監督は試写会の後「どのような形で映画を公開していくか、これから決める」と語っているが、是非,ひとりでも多くの人に観てもらいたい作品だ。

激しく反応
本来ここでは映画に対する感想を述べるべきだが、その前に個人的な思いを記すことにする。というのも、奥村さんが病院に面会に訪れた南京総司令部の主任参謀・宮崎中佐(当時)は私の叔父に当たる。映画で叔父は奥村さんの語り掛けに、3回にわたり絶叫に近い大声で反応した。介護に当たる長女の増本敏子さんによると「話すこと、見ることは駄目だが、耳は聞こえる」という。太原に飛行機で同行した少佐(当時)の手記「山西省内日本人引揚促進の想出」によると、叔父は全将兵の帰国に強い義務感と熱意を持っていたことがうかがわれる。激しい反応を見た瞬間、結果的に全将兵を救えなかったことに対する無念の表われ、とも感じられ、正直言って、衝撃を受けた。

私はこの夏まで在籍した通信社で法務・検察、厚生行政を長く担当、台湾日本兵、シベリヤ抑留兵、中国残留孤児など戦争を起点とした多くの問題を取材する機会があった。しかし叔父に取材を申し入れたことはなかった。多忙で時間がなかったというより、「(叔父にとって)触れられたくないテーマ」「聞いても何も答えてくれないだろう」との思いが先行し、そうした発想をしなかった、ということになる。しかし、今回の映画で叔父の激しい叫びを聞いた時、少なくとも山西省残留日本兵問題に関しては、むしろ多くを語ってくれたのではないかと思う。何故、素直にアプローチしなかったのか、残念であり、後悔している。(了)
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