ミャンマー再訪
[2012年01月02日(Mon)]
悲しいほどに美しい夕陽
港町にビルマ戦線の跡
昨年末、2年ぶりにミャンマー(ビルマ)を訪問、ベンガル湾に接するラカイン州の州都シットウエーを訪ねた。ビルマ戦線では、世界の戦史の中でも「最悪」と評されるインパール作戦を中心に30万人を超す日本兵のうち6割以上が戦死、多くが銃弾、食料の補給もなく悲憤の中で散った。当時、アキャブと呼ばれたシットウエーでもインパール作戦に連動する形で日本軍と英印軍が激突、師団長の“狂気の作戦指導”に抗議して撤退した連隊長は戦後、自決した。カラダン川に沈む夕陽を見るうち、あまりの美しさに彼らの無念が伝わってくるような気がした。

▼狂気の作戦
シットウエーはヤンゴンから飛行機で約1時間。もともと英軍の基地だった空港を日本軍が激戦の末占領、インパール作戦の敗退まで基地として使用し加藤隼戦闘隊もこの空港を拠点に戦った。現地に詳しい日本財団メンバーによると、当時の日本軍が滑走路の強化に使った鉄板が市内の民家や公共施設の塀に今も使われているという。よく見ると鉄板には直径6、7ミリの穴が開いており、河口に近い空港の水はけを良くする工夫だという。

フリー百科事典「ウィキペディア」などによると、インパール作戦は連合国側の軍需物資を蒋介石・国民政府に送る援蒋ルートの遮断を狙い1944年1月強行された。食糧も弾薬の補給もない無謀な作戦で8万6000人の日本将兵のうち3万2000人が死亡、戦病者も4万人に上り、日本陸軍瓦解の発端ともなった。この陽動作戦として南へ550`離れたシットウエーで同時期、発動されたのが第2次アキャブ作戦。インパール作戦と同様、弾薬・食糧が尽きる中、2年前に行われた第1次アキャブ作戦とは逆に日本軍が大敗、多数の日本兵が命を失った。

外国人の立入りは長い間、禁止されていたが、10数年前、この地にも旧日本軍の慰霊碑が立てられた。碑は寺の境内にあり、表には「祖国の名誉の為にこの地に散った英霊よ安らかに 顕彰」、裏側には「平成11年(1999)2月8日 元33師団砲兵第33連隊 巡拝有志一同建立」とある。経を上げてくれた住職は、すぐ横の本堂の柱にある傷跡を指し示しながら、先輩の住職から聞いた話として「大戦末期、英国軍に追われた日本兵が数人、ここに逃げ込み、銃撃戦の末、全員死亡した。これがその時の銃弾の跡」と説明した。

▼悲惨な退却
第33師団は第15、第31師団とともにインパール方面第15軍を編成した。インド、ミャンマー国境で展開された一連の戦争がいかに絶望的な戦いであったかー。資料は悲惨な退却の模様を「英印軍の追撃の中、一発の弾丸、一粒の米も補給されることなく、飢えと寒気で悲惨を極め、死体が横たわるジャングルの道は“白骨街道”と化した」と記している。
今回は、舟でカラダン川を上り、古都、ミャウーも訪問した。乾季とは言え水量は豊か。ベンガル湾に流れ込む河口部分を除けば舟も人影もまばら。岸辺で草を食む大きな角の水牛や船に向かって手を振る子供たち、さらに緑色のジャングルの彼方に金色に輝くパゴダが散見できた。古都の寺院のたたずまい、カラダン川の流れとも穏やか。川面にオレンジ色の光を投影しながら静かに沈む夕陽は美しく、日本兵たちは絶望的な闘いの中でこの光景をどんな思いで眺めたのかー。家族、故郷を想い、望郷の念にとらわれたかもしれない。彼らの無念さを思うと、国の名で行われるのが戦争とは言え、無謀な作戦を遂行した指揮官の個人責任は問われなければならない。
シットウエーに戻り港を見学すると、桟橋を挟んで一方は小船が野菜や穀物を運ぶ伝統的な風景、その反対側ではインド・タタ財閥資本による大掛かりな改修工事が進められていた。南方のチャウッピューでは中国資本によるガス田開発、さらにこの地から中国の雲南省昆明に至るパイプラインの建設も進められている。
▼内向き
インド、中国、さらにベンガル湾に接するミャンマーは昔も今も要衝の地にある。とりわけ中国にとって、雲南省からベンガル湾に至る流通路が確保できれば、アフリカや中東からの原油など資源輸入はマラッカ海峡経由に比べ大幅に短縮され、輸出品の積み出しも極めて便利となる。ミャンマーの豊富な鉱物資源、安い労働力には世界も注目する。

テイン・セイン大統領は昨年、北部カチン州で中国が建設を進めていたミッソンダム水力発電計画を中止した。かつて英国の植民地として翻弄された国として、特定の国に偏することを嫌ったようにも見える。そのセイン大統領は今回の訪問で会談した日本財団の笹川陽平会長に対し「中国・韓国に比べ日本の動きはあまりに遅い」と日本の積極的な対応を求めた。
当の日本は大統領の民主化を評価、ODA(政府開発援助)を復活するものの、中韓両国に比べれば企業進出はゼロに等しい。米国の意向を意識するあまり独自の外交を展開できていない、といった批判もある。戦地に散った英霊たちが戦前の強気から一転して内向きとなった戦後の母国をどう見ているか、あらためて考えさせられる思いがする。(了)
港町にビルマ戦線の跡
昨年末、2年ぶりにミャンマー(ビルマ)を訪問、ベンガル湾に接するラカイン州の州都シットウエーを訪ねた。ビルマ戦線では、世界の戦史の中でも「最悪」と評されるインパール作戦を中心に30万人を超す日本兵のうち6割以上が戦死、多くが銃弾、食料の補給もなく悲憤の中で散った。当時、アキャブと呼ばれたシットウエーでもインパール作戦に連動する形で日本軍と英印軍が激突、師団長の“狂気の作戦指導”に抗議して撤退した連隊長は戦後、自決した。カラダン川に沈む夕陽を見るうち、あまりの美しさに彼らの無念が伝わってくるような気がした。

カラダン川に沈む夕陽
▼狂気の作戦
シットウエーはヤンゴンから飛行機で約1時間。もともと英軍の基地だった空港を日本軍が激戦の末占領、インパール作戦の敗退まで基地として使用し加藤隼戦闘隊もこの空港を拠点に戦った。現地に詳しい日本財団メンバーによると、当時の日本軍が滑走路の強化に使った鉄板が市内の民家や公共施設の塀に今も使われているという。よく見ると鉄板には直径6、7ミリの穴が開いており、河口に近い空港の水はけを良くする工夫だという。

塀に利用される旧空港施設
フリー百科事典「ウィキペディア」などによると、インパール作戦は連合国側の軍需物資を蒋介石・国民政府に送る援蒋ルートの遮断を狙い1944年1月強行された。食糧も弾薬の補給もない無謀な作戦で8万6000人の日本将兵のうち3万2000人が死亡、戦病者も4万人に上り、日本陸軍瓦解の発端ともなった。この陽動作戦として南へ550`離れたシットウエーで同時期、発動されたのが第2次アキャブ作戦。インパール作戦と同様、弾薬・食糧が尽きる中、2年前に行われた第1次アキャブ作戦とは逆に日本軍が大敗、多数の日本兵が命を失った。

旧日本軍慰霊碑
外国人の立入りは長い間、禁止されていたが、10数年前、この地にも旧日本軍の慰霊碑が立てられた。碑は寺の境内にあり、表には「祖国の名誉の為にこの地に散った英霊よ安らかに 顕彰」、裏側には「平成11年(1999)2月8日 元33師団砲兵第33連隊 巡拝有志一同建立」とある。経を上げてくれた住職は、すぐ横の本堂の柱にある傷跡を指し示しながら、先輩の住職から聞いた話として「大戦末期、英国軍に追われた日本兵が数人、ここに逃げ込み、銃撃戦の末、全員死亡した。これがその時の銃弾の跡」と説明した。

銃弾の跡が残る柱
▼悲惨な退却
第33師団は第15、第31師団とともにインパール方面第15軍を編成した。インド、ミャンマー国境で展開された一連の戦争がいかに絶望的な戦いであったかー。資料は悲惨な退却の模様を「英印軍の追撃の中、一発の弾丸、一粒の米も補給されることなく、飢えと寒気で悲惨を極め、死体が横たわるジャングルの道は“白骨街道”と化した」と記している。
今回は、舟でカラダン川を上り、古都、ミャウーも訪問した。乾季とは言え水量は豊か。ベンガル湾に流れ込む河口部分を除けば舟も人影もまばら。岸辺で草を食む大きな角の水牛や船に向かって手を振る子供たち、さらに緑色のジャングルの彼方に金色に輝くパゴダが散見できた。古都の寺院のたたずまい、カラダン川の流れとも穏やか。川面にオレンジ色の光を投影しながら静かに沈む夕陽は美しく、日本兵たちは絶望的な闘いの中でこの光景をどんな思いで眺めたのかー。家族、故郷を想い、望郷の念にとらわれたかもしれない。彼らの無念さを思うと、国の名で行われるのが戦争とは言え、無謀な作戦を遂行した指揮官の個人責任は問われなければならない。
シットウエーに戻り港を見学すると、桟橋を挟んで一方は小船が野菜や穀物を運ぶ伝統的な風景、その反対側ではインド・タタ財閥資本による大掛かりな改修工事が進められていた。南方のチャウッピューでは中国資本によるガス田開発、さらにこの地から中国の雲南省昆明に至るパイプラインの建設も進められている。
▼内向き
インド、中国、さらにベンガル湾に接するミャンマーは昔も今も要衝の地にある。とりわけ中国にとって、雲南省からベンガル湾に至る流通路が確保できれば、アフリカや中東からの原油など資源輸入はマラッカ海峡経由に比べ大幅に短縮され、輸出品の積み出しも極めて便利となる。ミャンマーの豊富な鉱物資源、安い労働力には世界も注目する。

シットウエー港を行き交う小舟
テイン・セイン大統領は昨年、北部カチン州で中国が建設を進めていたミッソンダム水力発電計画を中止した。かつて英国の植民地として翻弄された国として、特定の国に偏することを嫌ったようにも見える。そのセイン大統領は今回の訪問で会談した日本財団の笹川陽平会長に対し「中国・韓国に比べ日本の動きはあまりに遅い」と日本の積極的な対応を求めた。
当の日本は大統領の民主化を評価、ODA(政府開発援助)を復活するものの、中韓両国に比べれば企業進出はゼロに等しい。米国の意向を意識するあまり独自の外交を展開できていない、といった批判もある。戦地に散った英霊たちが戦前の強気から一転して内向きとなった戦後の母国をどう見ているか、あらためて考えさせられる思いがする。(了)




