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四季折々の雑記

 30年以上在籍したメディアでは「公」の動きを、その後10年以上は「民」の活動を中心に世の中を見てきた。先行き不透明な縮小社会に中にも、時に「民の活力」という、かすかな光明が見えてきた気もする。そんな思いを記したく思います。


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虎頭要塞を訪ねて [2013年09月23日(Mon)]
本当の終戦は8月26日
玉砕の地、虎頭要塞


中国では第2次世界大戦の終結を1945年の8月26日としているそうだ。関東軍がソ満国境に築いた「虎頭要塞」を舞台にした旧ソ連軍と日本軍の攻防が終結したのが、この日だからだ。17日前の8月9日、突然、対日戦に参戦した旧ソ連軍は高度の兵器を装備した2個師団2万人、対する日本側は第15国境守備隊の兵員約1500人と開拓団員約1400人。兵員ばかりか武器の多くも南方戦線に送られ、日本軍は文字通り玉砕、生存者はわずかに53人だったとされている。

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第二次世界大戦終結地記念園

▼生存者はわずか53人
8月初旬、現地を訪れると、主陣地があった猛虎山一帯は黒龍江省の重要文化財として「第二次世界大戦終結地記念園」に整備され、「侵華日軍 虎頭要塞遺址博物館」と名付けられた地下要塞には観光客があふれていた。旧満州へのソ連軍の進行を阻止し、ウスリー江対岸のシベリア鉄道の遮断を目的に地下40bまで掘り下げられたという要塞は未発掘の部分も多く、遺骨も残されたまま。地下道を進むうち“無念”の声が聞こえてくるようで、先の敗戦をどう“総括”すべきか、いつもながらの戸惑いを覚えた。

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「8・26が対日最後一戦」の記述

今回、中ロ国境地帯を訪れるまでは、かつて関東軍が旧ソ連に対抗するため旧満州国の国境沿いの何ヶ所かに防衛用の軍事要塞を築いた、といった知識しかなかった。関連資料も、学徒兵として虎頭要塞に転属され、ハバロスクでの抑留生活を経て復員した岡崎哲夫氏の「秘録 北満永久要塞 関東軍の最期」(1964年・秋田書店)、2005〜07年にかけて行われた日中共同学術調査の日本側調査報告書「第二次世界大戦最期の激戦地 ソ満国境の地下に眠る関東軍の巨大軍事要塞」(発行・虎頭要塞日本側研究センター)など限られているようで、フリー百科事典・ウィキペディアの記述も少ない。

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41_榴弾砲の巨大な砲座跡

兵員、装備は南方戦線に

これらによると虎頭要塞は中ソ国境を流れるウスリー江沿いの猛虎山、虎北山、虎東山、虎西山、虎嘯山の5つの山の要塞からなり、1935年前後から建設が始まった。主陣地猛虎山でみると、鉄筋コンクリートで固められた地下要塞には銃眼や弾薬庫、通信司令室、戦闘司令室、発電所、食糧庫、井戸、調理室などが備えられ、1万人の兵員を3ヶ月養える食糧、被服、弾薬、燃料を蓄え、周辺には東洋最大といわれた口径41aの榴弾砲をはじめ各種要塞銃砲、対空高射砲、対戦車速射砲などが備えられていた。

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現在も頑丈な地下要塞

国境守備隊1個師団1万2千人が配備された。しかし、その後、南方戦線の悪化で兵員、軽砲など主要な武器・弾薬は南方に移され1945年春には国境守備隊も解体、ソ連軍参戦直前に第15国境守備隊が再編成されたが、その数は1500人弱、周辺から避難した開拓団員の中には女性や子供も多く、戦車、ロケット砲、戦闘機を装備したソ連軍の前になすすべもなく玉砕した。

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近くには虎園も

▼使者を斬殺

絶望的な戦いが進められる中、守備隊も8月15日の無条件降伏の玉音放送を聞いた。しかし戦闘司令官の大尉は謀略放送として信じず、3日後にソ連軍の軍使として訪れた日本人を斬殺した。岡崎氏は書籍の中で「玉音放送はうまく聞き取れず、それまで天皇がマイクロフォンの前に立つというようなことはなかったのだから、真偽の判断に迷ったのも無理はない」と記している。

第二次世界大戦終結地記念園を訪れると、整備された園内には中国語と英文を記述した掲示板が何本も立てられ、中国人の若者がはしゃぎながら記念写真を取っていた。虎頭要塞遺址博物館の地下道は大人が立って歩けるほどの大きさで、穀物庫や風呂の跡もあり、極めて堅牢なつくり。裏手に回ると、41a榴弾砲の巨大なコンクリート製の砲座跡が残されていた。

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虎林市繁華街 以前訪れたハバロスクの街並みとそっくりだった


船でウスリー江を溯ると、対岸のロシア側、さらに中国側にも監視塔があり、カメラの望遠レンズを通して見る限り、ロシア側に人影はなく、中国側は無人、中年の女性が床にロシア製のみやげ物を並べていた。

ウスリー江はアムール川の支流。中州である珍宝島(ロシア名・ダマンスキー島)の帰属など中国と旧ソ連の間で国境紛争が続いた当時の緊張感はなく、北3分の1が中国領、南3分の2がロシア領となっている興凱湖(ロシア名ハンカ湖)の中国側湖畔は海水浴場として賑わっていた。

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ウスリー江両岸に立つロシア(上)、中国(下)の監視塔

先の大戦の日本軍ゆかりの地を訪ねると、いつも思うことがある。あの大戦にどのような大儀があろうと、戦勝国が作った戦後の国際秩序の中で敗戦国が主張できる余地は極めて少なく、時には沈黙を余儀なくされるということだ。虎頭要塞に関しても、ロシアの南進を防ぐのが目的だったといっても中国人に理解されることはない。残された“不の遺産”のあまりの重みに言葉もない。(了)

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興凱湖畔は海水浴場になっていた


(追)今回の中ロ国境訪問は日本財団の事業に伴う出張の一環で、黒龍江省社会科学院のお世話になった。また「秘録 北満永久要塞 関東軍の最期」に関しては、出版から半世紀近くも経った今も秋田書店に4冊が保存されており、うち1冊を提供いただいた。著者の岡崎氏は1955年に起きた森永ヒ素ミルク中毒事件で長女が被災、全国被災者同盟協議会の委員長を務められたことも本書で初めて知った。
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