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四季折々の雑記

 05年夏まで在籍したマスコミの世界は極力、主観を排した客観報道を原則とした。しかし真の意味で「客観」を実現するのは報道の現場に限らず難しい。ブログと言うには程遠いが、忘れない程度に自分の想い、時に意見をささやかに書いていくつもりです。


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ミャンマーと南機関 [2015年08月30日(Sun)]

「国軍は恩を感じている」
今回も鈴木大佐の墓参り

「日本ミャンマー将官級交流プログラム」(日本財団主催)で来日したミャンマー国軍の将官9人が8月25日、昨年の第1陣と同様、静岡県浜松市を訪れ、旧日本軍の特務機関「南機関」の機関長だった鈴木敬司大佐(最終階級・陸軍少将)の墓参りをし、団長のアウン・チョウ・ゾー少将は墓参の理由を「鈴木大佐はミャンマー独立に貢献された。ミャンマー国軍は尊敬し、恩を感じている」と語った。

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鈴木大佐の墓参をするアウン・チョウ・ゾー少将

 「21世紀構想懇談会」は安倍晋三首相の戦後70年談話に先立って公表した報告書で、戦後の多くのアジアの国の独立と戦前の日本の関係について「(日本の)多くの意思決定は自存自衛のために行われたのであって、アジア解放のために、決断したことはほとんどない」と指摘した。

 多くの国の独立が民族運動の高まりと戦争によって宗主国の圧倒的な力が低下した結果、達成されたのは間違いない。先の戦争を「侵略」とした上で「国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない」という報告書の指摘にも異論はない。

しかし、かの戦争に一片の「大儀」もなかったとなると、日本人だけで310万人にも上った犠牲者は一体、何だったのかー。多くの人が戦争を否定し、「侵略」の位置付けを肯定しながらも、いまだに、こだわりを捨てきれないのは、そのためだ。

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大草山頂上に立つビルマゆかりの碑

南機関に対するミャンマー国軍の評価を、ミャンマー国民や政府と内戦を続けてきた少数民族がどこまで共有しているか、といった別の問題もあるが、それでもなお一行の墓参やゾー少将の言葉に快さを感じるのは、こんな心理が影響しているのかもしれない。

一行は25日、航空自衛隊浜松基地を訪問した後、浜名湖を望む舘山寺大草山の頂上に立つ「ビルマゆかりに碑」と鈴木大佐の墓を訪れた。「昭和四十九年五月十二日」付けの碑文には「ビルマ国民に建国の父と仰がれるオンサン将軍が去る昭和十五年わが国に亡命して当地出身の鈴木敬司陸軍少将と共に祖国独立運動の秘策を練ったこのゆかりの地に建てられた・・」とある。

資料によると、南機関は東南アジアへの勢力拡大を図る旧日本軍と英国からの独立を目指すビルマ(現ミャンマー)の思惑が結び付く中で誕生した。鈴木少佐はオンサン将軍(後に「建国の父」と呼ばれるアウン・サン将軍、アウン・サン・スー・チー氏の父親)らビルマの独立運動家30人を脱出させ浜松で態勢を固めた上、1941年、タイ・バンコクで「ビルマ独立義勇軍」(BIA)を立ち上げ、43年8月には首都ラングーン(現ヤンゴン)を陥落させ独立を宣言した。

独立をめぐり日本軍との間に亀裂を生ずる中、南機関は最後までBIAに肩入れしたとされ、ミャンマー国軍が「独立に貢献した」というのは、南機関のこうした行動を念頭に置いた話かもしれない。現にビルマの33回目の独立記念日に当たる81年1月、ビルマ政府は独立に貢献した日本人7人にアウン・サン勲章を贈っているが、鈴木大佐未亡人を含め全員が南機関関係者だった。

ゆかりの碑や鈴木大佐の墓は昨年9月に訪日したミン・アウン・フライン国軍総司令官も訪れ、古くはネ・ウイン元大統領も訪日のたびに元南機関の関係者と旧交を温めていたとされる。ミャンマー国軍には多くの日本の軍歌が今も引き継がれ、3月のミャンマー国軍記念日(3月)のパレードでは「軍艦マーチ」も演奏されるという。一行によると、音楽だけでなく、「ハンゴウ」(飯盒)、「モウイッカイ」(もう1回)といった日本語も使われているそうだ。

ミャンマーの人口は現在、約5300万人。135に上る民族が住み、6割以上をビルマ族が占める。植民地時代は英国の分割統治で山岳の少数民族が軍や警察を握りビルマ族を抑え込んだとされ、そのしこりが今も続く内戦の一因になったといわれる。日本に対する評価、さらには訪問の度に実感する「対日好感度」にも、われわれが知り得ない複雑な面があるのかもしれない。そんなことを考えながら、11月の総選挙を注目したい。(了)

遅れる比残留2世の国籍取得 [2015年07月30日(Thu)]

われわれは“棄民か”と思ったことも
日系人連合会・カルロス前会長に聞く


フィリピン残留日系人2世の国籍取得問題で7月下旬、フィリピン日系人会の代表7人が来日、安倍晋三首相に早期解決を求める要望書を日系人ら約2万8000人の署名簿を添えて提出、安倍首相は「日本人としてのアイデンティティーを取得したいという思いは当然で、政府としても、しっかりと協力させていただきたい」と答えた。残留2世の平均年齢は既に76歳、“日本人の証”を求める彼らの願いは時間との戦いでもあり、戦争が国の名で行われた以上、それに伴う被害も国の名で回復される必要がある。一行の代表を務めたフィリピン日系人連合会のカルロス寺岡前会長(84)に国籍取得にかける思いを聞いた。

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「一時も早く全員に日本国籍を!」と訴えるカルロス寺岡前会長

―フィリピンに取り残された日系人について厚生省(現・厚生労働省)が初めて調査を行ったのは戦後40年近く経た1980年代後半、何故、これほど長い空白があったのでしょうか?

「日本人と名乗れる雰囲気はなかった」

現地に在住した日本人の多くは日本軍に軍属として徴用され死亡、生き残った人も米軍捕虜として収容された後、日本に強制送還されました。日本軍の敗色が濃くなる中、残された母と子(残留2世)の多くは、敗走する日本軍とともに山中を逃避行し、多くが米軍の空爆などで命を失ったのです。私も母や妹、弟ら8人で逃げ、途中で母ら5人が命を落としました。
反日感情が渦巻く中、「敵国人の子」としてゲリラの攻撃対象にもなり、誰もが日本名や父親との関係を示す写真や資料を捨て、日本人であることを隠してひたすら生きてきたのです。私自身は生き残った妹といったん父の出身地である山口県に戻りましたが、父の戸籍に自分や妹の名はなく日本国籍がないまま7年後、フィリピンに戻りました。
60年代にミンダナオ島のダバオに初の日系人会が結成されました。それまでは日本人と名乗れるような雰囲気ではなかったのです。そんな中で80年代に初めて厚生省が現地調査しました。どういう調査をしたのか、今でも知りません。後日、「フィリピンに取り残された日系人はいない」との結論になったと聞き、「われわれは日本政府からも見捨てられた“棄民”なのだ」とつくづく思いました。


―95年には外務省もフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)や日系人会に委託する形で調査に乗り出していますが?

「希望すれば日本に帰れた、というのはあまりに無責任」

戦後半世紀を経て、さすがにフィリピンの反日感情も和らいでいました。日系人会も10ヵ所以上で立ち上がり連合会もできました。その中で多くの残留2世が無国籍状態で悲惨な生活を強いられていることが次第に明らかとなり、あらためて調査する必要が出てきたのでしょう。56年7月の日比平和条約の締結で国交が回復しており、「希望すれば日本に帰れた」などという声もあるようですが、残留日系人が置かれた悲惨な状況を知らない、あまりに無責任な意見です。

―その調査の結果として外務省はフィリピン残留2世の総数を3545人、うち父親の身元が判明し日本国籍を取得した2世は1058人(311人は既に死亡)、父親は分かっているものの戸籍に2世の名が登載されていない、などの理由で国籍を取得できてない人1676人(同759人)、父親が日本人であることは分かっているが、その戸籍の所在が分からない2世811人(同529人)としていますが、この数字をどう見ますか?

「新しい証拠の発掘は不可能」

実質的な調査はPNLSCと日系人会が行っており、数字はこれまでに把握できた結果ということになりますが、個人的には、離島などに残されたままの残留2世や日本人であることを名乗り出ない2世もまだいると思います。いずれにしても残留2世の半数弱(1599人)が故人となり、父親が日本人と判明しながら国籍取得の夢を果たせないまま亡くなった残留2世も1288人に上っています。一刻も早く、国籍取得を加速させていただきたい。2006年以降217人が、新たに戸籍を設け日本国籍を取得する「就籍」の申し立てを東京家庭裁判所に行い157人が日本国籍を取得していますが、このままではとても間に合いません。日本人の証拠を自ら捨てざるを得なかった経過や70年の歳月の流れを前にすれば、これから新しい証拠を発掘するのは最早、不可能です。


―同じように終戦の混乱の中で現地に取り残された中国残留孤児の場合は、日中両国政府が協力して孤児名簿を作成、名簿に登載された孤児の就籍の審判を加速し、既に1250人が日本国籍を取得、帰国後も中国残留邦人支援法などで手厚い支援が行われています。中国残留孤児は国策により満蒙開拓団などに送り込まれた両親とも日本人の子、父親が自己意思でフィリピンに渡り現地の女性と結婚してできた残留2世とは立場が違うといった指摘もあるようですが、どう思いますか?

「父の国と母の国の戦い」

フィリピン移民は、1903年にルソン島の山岳地帯の道路建設の契約労働者として3000人近い日本人が移住したのが始まりで、その後、ダバオを中心にした麻農園の開拓などで移民が増え、最盛期には全体で3万人、ダバオには2万人の日本人町も形成され豊かな生活をしていました。戦争ですべてが崩壊したのです。逃亡生活の中で教育を受ける機会もなく、長い間、どん底の生活を余儀なくされています。どちらも戦争の犠牲者であり、残留2世は父親だけが日本人という指摘も父系主義を採った当時の国籍法から、本人の国籍問題には何の影響もありません。それに残留2世にとって、あの戦争は父の国と母の国の戦いでした。その分、生き延びるのも大変だったのです。

―日本国籍を取得できていない残留2世の多くは長い間、無国籍状態にあるようですが、日常生活に支障はないのですか?

「日常生活は一種の“なり済まし”」

残留2世の子や孫はフィリピンで生まれフィリピン国籍を持っています。従って家族の中で残留2世だけが無国籍ということになりますが、日常生活では一種の“なり済まし”ということになるでしょうか、収入があれば税金を支払い、政府のサービスも受け、選挙で投票もできます。ただしパスポートの取得は無国籍では難しく、晴れて日本国籍を取得すると、これまで70年間、無国籍のまま違法に滞在したということで罰金問題も出てくるようです。現に日本国籍を取得して母国を訪問しようとしたところ300万円を超す罰金の支払いを求められた残留2世もいます。それこそ長年、問題を放置した結果であり、残留2世に求められてもできない相談です。日比両政府の間で早急に解決していただきたい。

―今回の訪日で安倍首相も協力を約束し、外務省も現在、PNLSC、日系人会に委託して進めている「フィリピン残留日系人2世名簿」の作成に当たり、今後は在フィリピン大使館員を調査に立ち会わせ、就籍の審判では名簿とともに調査に立ち会った旨を証明する書類を提出するとしています。家裁の裁判官が、これを持って“中国残留孤児と同様、日本政府が残留2世の身元を保証した”と解釈すれば、就籍の審判が加速する可能性も期待できる。この点をどう受け止めていますか?

「誰もが日本人として死にたいと願っています」

これまではPNLSCや日本財団の支援がほぼすべてでした。今回、安倍首相に直接、会っていただき、日本政府も積極的に対応していただけるのではないかと希望を膨らませています。フィリピンに帰国して同胞にもその旨、報告したい。日本人を父親として生を受けながら、日本国籍を取得できていない人は、判明しているだけでも1199人に上ります。誰もが日本人の血を誇りに思い、日本人として死にたいと願っています。残された時間は多くありません。日本での3世、4世の就労にも影響します。対応を急いでいただくよう切にお願いします。

[カルロス寺岡氏]
1930年12月、山口県・大島町出身の日本人男性とフィリピン人の母の3男としてルソン島のバギオで生まれた。父は大戦が始まる4ヵ月前、結核で死亡。その後、長兄は日本軍憲兵隊に、次兄はフィリピンゲリラに殺害され、バギオが陥落した45年4月、14歳で母と妹2人に弟、叔母と2人のいとこの計8人で日本軍の後を追ってルソン島の山中に逃げた。
5ヶ月に及ぶ逃避行の中で母と妹、弟、叔母、いとこの5人が米軍の砲弾などに倒れた。生き残った3人が戦争終結後の9月、米軍捕虜収容所に収容され、妹のマリエさんといったん日本に渡った後、21歳でフィリピンに戻り、98年、マリエさんとともに、ようやく日本国籍を取得した。1998年から12年間、フィリピン日系人連合会会長、95年から15年間、在バギオの名誉総領事も務めた。 (宮崎正)


比残留2世国籍取得問題(日本財団ブログ)
講演会「中国の現状と課題」 [2015年06月22日(Mon)]
過度の被害者意識捨て尊厳獲得を
根強く残る100年の屈辱


共産党一党支配の中国にも当然、多様な意見がある。1840年のアヘン戦争以降、約100年間の屈辱の歴史に対する過激な被害者意識が、今後の中国の発展に足かせになりかねない、といった指摘もそのひとつだ。5月末、東京・赤坂の日本財団ビルで行われた講演会「中国の現状と課題」でも、中国の若手研究者が同様の立場から「(中国は)怨恨、被害者意識を捨てない限り尊厳は得られない」と述べ注目された。

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大国が大国たり得るには、各国から信用され尊敬される “品格”が必要である。国際社会は、躍進する中国の経済力や軍事力を認めつつも、強引な外交姿勢を前に、この国が今後、どこまで国際社会のリーダーになり得るか、不安と期待の眼差しで見守っている。

過度の愛国心や被害者意識は国内の不満をそらすため政権によって利用されてきた面もある。経済格差が拡大し国民の不満が高まる中で、一層肥大化する可能性も否定できない。若手研究者のような冷静な意見こそ、この国には必要ではないかー。今後の日中関係を占う意味でも注目に値する。

講演会は笹川平和財団笹川日中友好基金と中国の共識傳媒集団(周志興総裁)が共催した。「中国の政治外交、経済、社会分野などで活躍し、政策決定や世論形成にも影響力を持つ」中国人若手研究者4人が講演に立ち、「被害者意識」に関しては北京外交学院世界政治研究センターの施展主任が「“一帯一路”戦略と中国の世界歴史責任」の演題で取り上げた。

この中で施主任は中国政府が経済、外交政策の柱とする現代版シルクロード・一帯一路 に言及する形で、中国が国を越えた普遍的価値である「公共財」を世界に提供するには何が必要か、述べた。慎重な言い回しを筆者なりに解釈すれば、中国が国際社会の尊厳を得るには、狭いナショナリズムから国を越えて地域の安定や発展に貢献する世界主義へシフトすることが不可欠。そのためにもまずは中国社会に内在する被害者意識を捨てる必要がある、といった論旨だったと思う。

戦後70年、中国は世界第2位の経済力と強大な軍事力を備え、十分、世界の大国となった。そうした中で「この国が長い歴史の中で世界の中心であった」というプライドが膨らみ、一方でアヘン戦争から約1世紀間、欧米諸国や日本に侵略された歴史を屈辱と捉える「被害者意識」が強まっているのだという。

習近平国家主席が掲げる「中華民族の偉大な復興」に刺激された愛国主義の高揚、全体の収入水準は上がっているものの所得分配の不平等さを示す指標であるジニ係数が「慢性的暴動の危険がある」0・5を超えたともいわれる格差拡大に対する不満が影響しているのかもしれない。

しかし、これでは世界のリーダーに相応しい品格を身に付けることは難しい。施主任は「中国が被害者意識を捨て責任ある影響力を行使しよりよい国際環境を手に入れることが中国の利益になる」とするとともに、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に関しても「もう一つの“炉”ではなく、アメリカと協力して正義の世界秩序となり、国際経済貿易の新しい秩序を推進することにある」としている。

Webを検索すると、同様の意見は2010年10月、中国共産党機関紙・人民日報系の国際情報紙「環球時報」にも掲載されていた。中国人民大学国際関係学院・東昇副教授の寄稿「過激な被害者意識は国の復興を防げる」がそれで、「今の中国に国が滅ぼされるという危機感も焦燥感もない。それなのに100年前の国辱が植え付けた『被害者意識』だけは根強く残っている。・・台頭する大国として列強と心穏やかに肩を並べるには相応しくない」などとしている。

政権内部にもこうした意見が根強くあるとみられ、中国人の友人によると、過度な愛国主義や被害者意識を中国の今後にマイナスと見る意見は近年、増える傾向にあるという。

何度か中国を訪れ、政府に近い関係者と話す機会もあった。日本を“加害者”と見る歴史認識の中で、日本人として、同じ考えを声高に問うのを差し控える気分があったが、無用な遠慮だったかもしれない。(了)
五輪禁煙対策をめぐって [2015年05月29日(Fri)]

条例制定見送りは責任逃れか!
たばこ千円の笹川会長が批判


 「東京オリンピック・パラリンピックに向けて受動喫煙防止法を実現する議員連盟」(尾辻秀久会長)の会合が5月28日開かれ、たばこ千円運動を提唱した日本財団の笹川陽平会長が講演すると聞き傍聴した。この中で笹川会長は、「受動喫煙の防止は国が法律でやるべし」として都としての条例制定に消極的な姿勢を打ち出した舛添要一知事の姿勢を「責任逃れ」と厳しく批判した。

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左から松沢成文・議連幹事長、笹川会長、尾辻会長=参院議員会館で

 同議員連盟は昨年11月、かつての「禁煙推進議員連盟」を発展解消して結成され、現在、超党派の議員約60人が所属。強制力を持って屋内の公共的空間の禁煙もしくは完全分煙を義務化する受動喫煙防止法を3年以内に議員立法で制定する、としている。

 笹川会長の講演は情報収集の一環として行われ、舛添知事が打ち出した受動喫煙防止条例見送りについて意見を述べた。知事方針は5月22日の定例記者会見で明らかにされ、舛添知事はその理由を「国全体で検討して法律を決めないと各地域ばらばらになる」、「条例というより法律で」と説明したと報じられている。

 条例化について舛添知事は昨年夏、テレビ番組で「是非やりたい」と述べ、有識者による検討会も設置しており、姿勢を後退させたと指摘する報道もある。これに対し笹川会長は責任逃れとするとともに「これではリスクを取らない指導者ということになりかねない」と述べた。

 笹川会長が厳しい批判をする背景には、国際オリンピック委員会(IOC)が1988年、健康の祭典であるオリンピックからたばこを排除する方針を打ち出し、たばこ産業のスポンサーシップを拒否するとともに会場の内外を禁煙を実施、2010年には世界保健機関(WHO)との間で、たばこのない五輪を目指す合意文書を交わした経過がある。

 これを受け04年のアテネ五輪以降、冬季大会も含め、すべての開催都市が罰則付きの法や条例、州法で禁煙対策を実施、来年のリオデジャネイロ、18年の平昌も既に同様の対応を打ち出している。

 換言すれば、東京が2020年大会の招致に名乗りを挙げた時点で、日本は禁煙対策の強化を国際的に公約したことになり、招致に成功した以上、ホスト国として禁煙対策を強化する当然の責務を負う。まずは開催都市・東京が率先して受動喫煙防止条例を制定するのが自然な流れということになる。

 笹川会長の「責任逃れ」発言にはこんな背景があり、現実に条例を制定した後、法を整備しても特段の支障はない。現に神奈川県では罰則規定を盛り込んだ受動喫煙防止条例が制定されている。

 さらに日本は世界で19番目にたばこの規制に関するWHOの枠組み条約(FCTC)を批准しているが、3月、議員連盟で講演したWHO生活習慣病予防局長のダグラス・ベッチャー博士は日本を「衛生面、健康面で優れた尊敬できる国」としながらも、「たばこ災害からの国民の保護が不十分」と指摘した。国際社会の中で全体的な取り組みが遅れている現状もある。

 国立がん研究センターなどが実施した都民アンケートでは、都民の約4分の3が罰則付きの条例や法律を含め何らかの規制が必要と答えている。五輪招致が猪瀬直樹前知事時代に決まった事案であるとしても行政上は当然、継承されなければならない。

 条例制定を見送るというのなら、舛添知事は国際的にも国内的にも、もっと納得のいく説明をする責任があるのではないかー。(了)
「養子の日」(4月4日)に思う [2015年04月23日(Thu)]

衝撃の生い立ち サヘル・ローズさん
特別養子縁組 SIBにも期待


 特別養子縁組の普及に向け4月に開催された企画で強く印象に残った点がふたつある。ひとつは「養子の日」の4月4日、日本財団などが東京・渋谷で開催したイベント「すべての赤ちゃんに温かい家庭を」でイラン出身の女優サヘル・ローズさんが語った「母と子」の壮烈な人生。もう一つはソーシャル・インパクト・ボンド(SIB)を活用して養子縁組の促進を目指す日本財団と神奈川県横須賀市のパイロット事業=4月15日に調印=に対する期待だ。

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「養子の日」のイベントで講演するサヘル・ローズさん

 まずサヘルさんの生い立ち。2008年に出版されたサヘルさんの自叙伝「戦場から女優へ」や多彩な女優・タレント活動をめぐるWeb上の関連記事などで「知る人ぞ知る」話のようだが、関連記事で本人が「もしかしたら、これは作り話じゃないの、と思われる方がいるかもしれない」と語っているように、初めて聞いた筆者には驚きであり衝撃であった。

▼母となる女性との奇跡の出会い

 当日の本人のスピーチなどを基に再現すると、サヘルさんの「これまで」は概略、以下のようになる。

 イラン・イラク戦争さなかの1989年、サヘルさんが住んでいたイラク国境近くの村はイラク軍の空爆を受け、土を塗り固めて乾燥させただけの生家は全壊、一緒に住んでいた両親と11人の兄姉は全員死亡し、瓦礫の下で奇跡的に生き延びたサヘルさんは爆撃から4日後、テヘランから駆け付けた救助隊に救出された。

瓦礫の中から、わずかにのぞくサヘルさんの小さな手に気付いたのが、救助隊にボランティアとして参加していたテヘラン大学生フローラ・ジャスミンさん、後にサヘルさんの母となる女性だった。4歳で孤児院へ。当時の名はナイゲス。孤児院では週1回、孤児たちが、きれいな服を着て一列に並び、大人の面接を受けた。「養子にするための一種のオーディション。皆がライバルで、取り残されるとペットショップで売れ残った心境だった」(サヘルさん)。

3年間、引き取り手がなかったが、7歳の時、孤児院のテレビコマーシャルに出演する機会があり、これを見たフローラさんがサヘルさんに気付き孤児院に。フローラさんに向かって「お母さん」と呼ぶサヘルさんを見て、引き取る決意を固めた。しかしフローラさんの実家は身分が高く「家柄に傷がつく」と勘当され、苦難の生活が始まる。

婚約者が日本にいたことからフローラさんは8歳になったサヘルさんを連れ日本に。しかし婚約者との生活は程なく破たんし二人は一時期ホームレスの生活も。赤貧の生活の中で試食コーナーの食べ歩き、サヘルさんは入学先の埼玉県の小学校でいじめも体験した。

見かねた小学校の給食担当の女性が食事の提供やアパートを紹介し、フローラさんもイラン人が経営するペルシャ絨毯の会社に職を得て苦しいながらも次第に生活も安定、サヘルさんも都立高校に進み、タレントとしてラジオやテレビでの活躍の場を広げた。

空爆で一人取り残されたサヘルさんに生年月日や本名の記憶はなく、「サヘル・ローズ」はフローラさんの命名、アラビア語で「砂漠のバラ」といった意味という。イランでは子供の引き取りを認める条件の一つに「子どもを産めない」の1項があり、フローラさんがサヘルさんの引き取りに当たり闇の病院で “子供を産めない体”になったことをサヘルさんは18歳になって初めて知る。

「私がいなかったら母は普通の結婚をして家族を持っただろう。母の人生を台無しにした」、「彼女のお陰で私の今がある」、「母と出会って夢を持つことができた」―講演のスピーチでもサヘルさんの口から「母」に対する感謝の言葉が何回も出た。

 当のフローラさんはその後、両親との関係も修復し、年に一度はイランにも帰国、「多くの人が助けてくれた日本で最期を迎えたい」とも語っているという。サヘルさんの夢はイランでの児童養護施設「サヘルの家」の建設とオスカー賞を受賞して母に手渡すことだという。

▼“お帰り”と言ってくれる人がいる幸せ

 一方、SIBは2010年に英国で開発され、民間投資を活用して社会課題に取り組み、一定の成果が挙がれば行政が投資家に利子を付けて事業費を償還する仕組み。現在、米国やカナダ、オーストラリア、韓国などで取り組まれているが、歴史が浅く、具体的な成果の報告例はまだないようだ。尽きるところ、民の活力を利用して良質なサービスを実現する一方で、国や自治体の負担の軽減を図る手法と理解する。

今回は日本財団が資金を提供し、養子縁組に取り組む一般社団法人が来春までに計4件の特別養子縁組の実現を目指す。現実にSIBの手法でこうした問題の解決が可能か、実験的に取り組むのが狙い。広く軌道に乗れば、「公」の財政が悪化する中、社会課題の新しい解決法になると期待する。

優良な投資家と事業の実施主体となる団体の確保がカギとなろうが、特に後者は近年、日本でも確実に活動団体が増えている。特別養子縁組に限って言えば、日本では乳児院と社会養護施設で3万人を超す子供が暮らし、一方で養子縁組を求める夫婦が1万組も存在する。

乳児院や児童養護施設の職員が日々、努力しているのは理解するが、子供が「母」の元で暮らすのが何よりも幸せであるのは言うまでもない。ましてサヘルさんが生まれた中東では複雑な政治情勢の中、サヘルさんと同様、あるいはそれ以上に過酷な運命に翻弄されている子供たちが多数いる。

 サヘルさんは「家に帰った時“お帰り”と言ってくれる母がいる幸せ」との表現で母の存在の大きさを語っている。サヘルさんの夢の実現とともに、特別養子縁組の分野でも、SIBの手法が確実に成果を上げる日を期待したい。(了)
フィリピン残留2世 国籍問題 [2015年03月29日(Sun)]
何故、国は動かないのか!
戦後70年、時間との戦い


何故、解決に向け国が動かないのか、理解し難い戦後処理問題のひとつにフィリピン残留2世の国籍問題がある。新聞、雑誌も含め、これまで何度か書いてきたが、3月30日には「日本・フィリピン友好議員連盟」(小坂憲次会長)が親族対面で来日中の残留2世から話を聞く場も設けられている。あらためて国に前向きの対応を求めたい。

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(チェリーさんの身元判明の手掛かりとなった両親の結婚写真。父親の戸籍にチェリーさんの名はなく、日本国籍取得には就籍手続きが必要となる)

残留2世の国籍問題は、慰安婦問題や南京事件のように“真実”をめぐる争いがあるわけではなく、2世が本来的に日本国籍を持つのもはっきりしている。しかし父親の日本戸籍に2世の名前が登載されているような場合を除き、日本国籍を取得できるのは、家庭裁判所に新たに戸籍をつくる「就籍」の審判を申し立て、これが認められた場合に限られる。仮に父親の身元が判明しても、審判では親子関係を裏付ける客観的証拠がなければ認められない。

フィリピン政府と協議を

戦後、現地に取り残された2世と母は「敵国人の妻」、「敵国人の子」として時にゲリラの襲撃目標にもなり、逃亡生活の中で夫婦関係や親子関係を裏付ける結婚証明書や出生証明書を自ら捨て去ってきた経過もある。戦後半世紀以上も“忘れ去られた存在”であった2世たちに戦後70年を経た現在、新しい証拠の提出を求めるのは無理の強制にほかならない。

参考となる解決法として、敗戦の混乱の中で同様に現地に取り残された「中国残留孤児」のケースがある。政府は日中国交回復の高まりを受けた1974年、孤児問題の早期解決に向け中国政府と口上書を交わすとともに「中国残留邦人支援法」などを整備、就籍の申し立てを受けた家庭裁判所も中国政府が作成した孤児名簿に登載された孤児の就籍に前向きに取り組み、既に1300人余の孤児が日本国籍を取得している。

残留2世の場合も近年、フィリピン政府が現地日系人会の調査などを通じ父親が日本人と確認された2世について「認証証書」を発行している。残留2世に関しても支援法を整備するなり、政府がフィリピン政府と協議して認証証書を活用し就籍を加速させる方法が当然、検討される必要がある。

国が何故、そこに踏み込まないのか。一部には中国残留孤児と残留2世の違いを指摘する向きもある。前者が満蒙開拓団など国策によって旧満州地域(中国東北部)に渡った両親ともに日本人の子供であるのに対し、後者は自由意志でフィリピンに移住した日本人男性と現地女性の間にできた子供であり、同列には論じられないというわけだ。

しかし、ともに戦争が生んだ悲劇であり、当時、日本、フィリピンとも国籍法は父系主義を採っており、父親が日本人である以上、その子は当然、日本国籍を持つ。フィリピンは7000を超す島からなり実態把握が遅れたといった面もあるようだが、外務省が最初の調査に乗り出したのは1993年、既に終戦から48年も経ており、当然、資料も散逸し記憶も風化している。

▼3500人の名簿

国籍取得を支援する「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(PNLSC)の最新の調査結果によると、これまでに残留2世と確認されたのは3545人。既に1599人は死亡しており、生存は809人、残る1137人の生死は不明で現在も調査中だ。

2664人の身元が判明しているが、881人が未判明。父親の戸籍に名前があった2世や東京家裁で就籍が認められた147人を含め計1058人が日本国籍を取得、2283人は父親の名前などが分かったものの戸籍に本人の名前はなく国籍は得られていない。残る204人は父親が日本人と判っているが、その手掛かりは得られていないという。

こうした状況からPNLSCでは当面、身元が判明しながら裏付け証拠がなく国籍が取得できていない917人と身元が全く分からない282人の調査を急ぐ必要があるとしている。しかし、このうちの140人とは連絡が取れていないのが現状で、全体的な情報不足が問題解決を遅らせてきた一因でもある。

加えて残留2世はフィリピン国籍も持たず無国籍状態。フィリピンでの生活は「非正規滞在」に当たり、日本国籍を取得できた場合は、それに対する罰金という新たな問題も発生する。こうした問題は国が前面に立ち、両政府間で解決するしかない。

3545人に関してはPNLSCが現地日系人会の協力などを得て「名簿」作成を進めている。日比両政府が中国残留孤児と同様、「名簿」登載者を残留2世と認め、その上で訪日調査など肉親探しを進めれば、問題解決も前進する。

この度、熊本市の親族と対面したチェリー・トゴウ(都甲)・ラフォルスさんは75歳。戦後70年を迎え残留2世は老境にあり、「日本人の証」を求める彼らの願いは時間との戦いになっている。

これまで2世の国籍回復は、PNLSCとこれを支援する日本財団を中心に民間で進められてきた。しかし、「民の力」には限りがある。問題の性質からも、国が前向きに取り組まない限り、2世たちの生存中の解決は難しいし、そうした理屈は誰が見ても明らかだ。仮に正面から取り組むことができないのなら、少なくとも、その理由は公的にも明らかにされなければならない。(了)


”薄幸”の女性と川端康成 [2015年02月26日(Thu)]
笹川良一との少年時代
ハンセン病がつなぐ不思議な運命

 東京都内で1月末に開催された講演会「文芸で見るハンセン病」を傍聴して気になっていたことがある。「川端康成に支えられた作家」のサブタイトルが付された講演会は、自身のハンセン病体験を基に「いのちの初夜」を書いた北條民雄とノーベル文学賞作家川端康成の関係がメーンテーマとなった。

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1月30日に開催された「文芸で見るハンセン病」パンフ

北條は「いのちの初夜」が雑誌「文学界」に発表された翌年(1937年)、24歳で夭逝するが、川端は文学界への発表だけでなく、北條の死後も全集の出版に奔走し、ノンフィクション「火花」で北條の生涯を描いた作家高山文彦氏は、川端の姿を「異常なまでの尽力」と表現した。

話はやや外れるが、川端康成と日本船舶振興会(現・日本財団)初代会長の笹川良一は大阪府三島郡豊川村(現在は箕面市と茨木市に分村合併)の尋常高等小学校の同級生だった。工藤美代子氏の「悪名の棺 笹川良一伝」(幻冬舎)などによると、川端は1899年、大阪府大阪市北区此花町に生まれた。2歳の時に開業医だった父・栄吉、3歳の時に母・ゲンが亡くなり、祖父・三八郎と祖母・カネとともに原籍地の大阪府三島郡豊川村に移り1906年、豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学した。

 笹川家は豊川村の西に位置する小野原、川端家は東の宿久庄にあり、「両家の距離は約1里で、ほぼ中間に小学校があるという位置関係」(「悪名の棺」)だったが、良一の父・鶴吉と三八郎が碁敵として親交があり、笹川良一と川端康成も頻繁に行き来し、川端が旧制茨木中学校(現大阪府立茨木高校)を卒業するまで親しい関係が続いたようだ。

 ここで登場するのが笹川良一とハンセン病との出会い。3男の笹川陽平・日本財団会長は著書で以下のように記している。
「父は、生家の近くに住む、ある美しい娘さんに思いを寄せていた。父の初恋だったようだ。その娘さんがある日とつぜん、失踪してしまった。噂によれば、『ハンセン病にかかった』というのが失踪の理由であった」、「このことに、若き日の父は大きな衝撃と同時に、怒りを覚えたようだ。・・こうして、青年だった父の胸に『いつか、きっとハンセン病をやっつけてやる』という決心が生まれた」(幻冬舎「残心」)。

「父の子供時代、家の近くにライの患者がいる家がありました。その家には美しい娘さんがいましたが、好きな人と結婚できず、悲嘆にくれて行方不明になりました。それを見て父は、『大きくなったらライをやっつけなくてはならない』と決心したのです」(「知恵ある者は知恵で躓く」クレスト社)。

 「父の子供時代」というのが何歳の時で、当時「美しい娘さん」がどの程度の歳か、同じ話が記載されている他の著作を見てもはっきりしないが、「好きな人と結婚できず」の記述からも10歳ぐらいは歳上で、笹川良一が抱いていたのは「初恋」というより、美しい年上の女性に対する「憧れ」に近い想いだったのではないか。

 一方「美しい娘さん」と川端康成の関係は一切触れられていない。しかし川端康成と笹川良一との交遊や狭い地域社会を考えれば、川端もこの女性の存在を知っていたと考えるのが自然だ。川端康成は両親に続いて小学校時代に祖母、姉を亡くし、15歳の時には祖父三八郎も亡くなり“孤児”となった。

「ひよわで感受性の強い子どもだった」(佐藤誠三郎著「笹川良一研究」・中央公論社)川端康成が孤独な日々の中で美しい娘さんの“薄幸”に傷つき、その後も永く“悲しい思い出”として記憶の中に持ち続けたのではないか。

 川端康成は北條民雄の他にも多くの若手作家を育てており、一連の「尽力」はもちろん北條の才能にほれ込んだのが一番のきっかけであろう。しかし高山氏が言うように異常なまでの支援の裏には、そんな関係もあったような気がしてならない。

 となると「美しい娘さん」は、一方で笹川良一を世界のハンセン病の制圧に走らせ、他方で川端康成を通じハンセン病作家・北條民雄を大成させたことになり、3者の関係に不思議な運命さえ感じる。

 笹川良一と川端康成は高等小学校卒業後、別々の道を歩み離れ離なれとなるが、戦後、交流を復活、「残心」には「(二人の間で)ハンセン病に関することや、・・ひょっとしたら、なつかしい故郷の話とともに、とつぜん行方不明となった父の初恋の女性のことも話題になったであろう」と記されている。

 「美しい娘さん」に対する川端康成の思いはあくまで筆者の想像である。しかし十分にあり得た話と考えている。(了)
ハンセン病差別を思う [2015年01月31日(Sat)]
今や“多くの病気の中のひとつ”
ハンセン病 差別を後世の教訓に


 「世界ハンセン病の日」(1月最終日曜日・25日)に合わせ、国際シンポジウムや写真展、街頭キャンペーンなど多彩な催しが展開された。今回は偏見・差別の撤廃を訴える10回目のグローバル・アピールが東京で発表されたこともあって国内の関心も高く、天皇、皇后両陛下も28日、アピール宣言式典に出席した内外の回復者を御所に招き懇談されるなど異例の対応をされた。

▼両陛下、回復者とご懇談

 進行すると末梢神経や皮膚が冒され、手足の指や顔面が変形するハンセン病は有史以来、「業病」などとして恐れられてきた。しかし1980年代、3つの薬を併用する新しい治療法(MDT)が開発されたことで、「不治の病」から「治る病気」となり、世界で約1600万人の患者が回復、現在の患者数は20万人前後と推定されている。日本では全国13カ所の国立療養所で1750人前後の回復者が暮らすが、新たな患者の報告例はないようだ。

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       立ハンセン病療養所、大島青松園(香川県)=「世界ハンセン病の日」関連企画、
       富永夏子写真展「ハンセン病を考えることは人間を考えること」から。「あの島か
       ら出ることが許されないとしたら、あなたはどうしますか?」のコメントを付し、
       偏見・差別の実態を問い掛けている。

 早期に発見すれば完全に治癒し、その限りでハンセン病は今や「多くの病気の中のひとつ」に過ぎない。にもかかわらず、回復後も「元患者」として引き続き差別続くところにハンセン病の特殊性があり、患者が最も多いインドでは回復者やその家族が結婚や教育、就職などで依然、深刻な差別を受けている。

 ハンセン病は長い時間をかけて症状が進行し、指や顔に変形をもたらし、視力を奪う。MDTの開発まで有効な治療法はなく、有史以来、染み付いた恐怖に加え、近世、各国が採った隔離政策が余計、偏見を加速した。明治時代に隔離政策が始まった日本は大正初期にハンセン病患者への優生手術、いわゆる断種も始まり、昭和に入っても「無らい県運動」の名の下、人口中絶の対象にハンセン病を明記した優生保護法が成立するなど、1996年に「らい予防法」が廃止されるまで徹底した根絶策がとられた。

 「治る病気」、「多くの病気の中のひとつ」となった現在も深刻な差別が続く現状は、人類が引き継いできた「負の遺産」の根深さを示す。ハンセン病に対する偏見・差別は、社会のあらゆるところに存在する偏見・差別の原点でもある。患者・回復者が受けてきた悲惨な歴史は、あらゆる差別をなくすための教訓として人々に共有され、後世に引き継がれた時、ようやく意義を持つ。

 式典関連のシンポジウムでも「悲惨な歴史は人類が持つ偏見をなくすための財産」、「ウネスコの世界記憶遺産として広く後世に伝えるべきだ」といった声が出席者から出された。その通りだと思う。未知の病気は今後も必ず登場し、治療法が確立しなければ人類はパニックに陥り、新たな差別を生む。最近のエボラ熱騒ぎも、そのひとつであろう。何千年にも及んだハンセン病差別から、人類が学ぶべき教訓は多い。

 それにしても両陛下の手厚いご対応は関係者にも驚きだったようだ。両陛下はこれまでも全国立療養所を訪問されるなどハンセン病に強い関心を持たれ、世界ハンセン病の日に先立つ13日には、WHO(世界保健機関)のハンセン病制圧大使を務め、今回のグローバル・アピール宣言式典を主催した笹川陽平日本財団会長から直接、ハンセン病の現状などについて、ご進講を受けられた。

 28日には国内や米国、フィリッピン、インドネシアなどから式典に出席した内外の回復者8人を御所に招かれ、一人ひとりと握手し、励ましの言葉を掛けられた。全員が「前向きに生きていく力をいただいた」、「自分の国では有り得ない事態」などと感動を語り、インドのハンセン病回復者協会(APAL)のヴァガヴァタリ・ナルサッパ会長は「これまで家族からも社会からも手を握られることはなかった。両陛下から握手してもらった瞬間、すべての痛みが消えた」と感激の表情を浮かべた。

 筆者は記者時代も皇室を担当した経験はなく、近年の皇室情勢にも疎い。しかし今回は、皇室が持つ重みとでもいうのだろうか、形容しがたい存在感を垣間見る思いがした。(了)

江戸の香り [2014年12月26日(Fri)]
全国に意義が共有されてこそ!
勢いづく江戸城天主再建


 江戸城天守再建を目指す動きが2020年の東京五輪開催決定で勢いづいている。アドバイザーをしている日本財団の笹川陽平会長が4年ほど前、産経新聞の「正論」で同じ提案をした経過があり、筆者も本ブログでロマンあふれる計画として歓迎する意見を述べたことがある。

そんな経過もあって今月、東京都内で開かれた会合で認定NPO法人「江戸城天守を再建する会」の太田資暁会長と同席する機会があり、建設の意義を広く全国で共有するためにも、「観光大国を目指す日本の新しいシンボル」のほかに「新しい時代を切り開く伝統技術の集大成」を前面に押し出し、完成目標も2020年にこだわることなく“東京五輪後の新しい国家目標“とするのは如何か、個人の意見としてお伝えした。

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江戸城天主再建について語る太田資暁会長
(12月20日、都内で開催された「探見」読者望年会で)

世界の大都市には英国のバッキンガム宮殿、パリのルーブル美術館、北京の紫禁城など国のシンボルとなる歴史的建造物があり、ベルリンでも第2次大戦中の空爆で廃墟となった王宮の復元工事が始まっている。江戸城天守閣が再建されれば日本を代表する観光資源になるのは間違いない。

 しかし日本は今、1000兆円を超す借金に伴う国家財政の悪化、世界に先駆けた超高齢化社会への移行に伴う医療・社会保障費の急増、少子化による人口減少といった難問を抱え、ともすれば国全体が内向き、縮み思考にある。

とりわけ地域社会崩壊の危機に直面する地方からはかねて「公共投資やインフラ整備が首都圏に偏重している」といった不満が出ており、江戸城天守閣の再建に対しても “またしても東京か”といった反発が出かねない。国のシンボルとするには、地方もその利益を実感できる何かが必要だ。

再建する会の構想では、3代将軍家光が1638年に完成させた5層6階の「寛永度天守」を木造で忠実に再現するとしている。戦後、各地に再建された鉄筋コンクリート造りの城の劣化が問題となる中、法隆寺など伝統建造物を見るまでもなく、木造建築の耐用年数が鉄筋より優れているのは間違いないようで、この選択は正しい。

東日本大震災で深刻な被害が出た各地の神社仏閣の修復で明らかになったように伝統建築の技術を伝える匠は急速に減っており、天守閣再建となれば全国から専門家が集まり、結果的に最高の技術が集約される。外壁から内装までさまざまな工芸技術も当然、保存対象となる。

資源枯渇時代を迎え、社会は均質な商品の大量生産から個性を持った商品が尊重される時代に移る。高度な日本の伝統技術は間違いなく新しい時代を支える力となる。江戸城天守閣の再建は未来を切り拓く意味を持ち、その利益は全国に及ぶ。観光のシンボルとしての価値も上がり、国際的な学術会議の格好な場所にもなる。楽天的といわれるかもしれないが、江戸城再建にそんな夢を託している。

このほか天守閣建設が予定される皇居東御苑の台座(天守台)の大きさや歴史文化財としての扱い、皇居西ノ丸との位置関係、木造建築について3階建てまでしか認めていない建築基準法との調整など課題は多い。特に1657年の明暦の大火で寛永度天守が焼失した後、加賀藩が修復したとされる現在の台座は高さ11b、東西41b、南北45bの大きさで、城の設計図ともいえる建地割図に「高さ14b」と記述されていることなどから「この上に果たして45bの巨城が建てられるのか」といった声もある。

多くの専門家が研究されており、そうした議論を通じて天守閣再建に対する関心が一層、高まるよう期待する。再建する会では「建設費350億円、東京五輪開催に合わせ完成」を目標とされているようだが、伝統文化の集大成として完成させるには恐らく1000億円は掛かる。趣旨からいって建設費は浄財(寄付)で賄われるべきで、完成目標ももう少し遅らせ「東 京五輪後の新しい国民の目標」と位置付ける選択肢もあるのではないか。

国際社会は今、世界に先駆けて超高齢化社会が深化する日本がどのような新しい社会をつくるか注目している。江戸城天守閣の再建は、運びように行っては新しい時代の社会モデルを担う一つとなるような気さえしている。(了)

冷え込む日中関係の中で [2014年11月28日(Fri)]
冷静で多様な意見こそ将来の財産
冷え込む日中関係の陰で


 中国・北京のアジア太平洋経済協力会議(APEC)で実現した安倍晋三首相と習近平国家主席の初の首脳会談で習国家主席が見せた不愛想な表情がひとしきり話題となった。日本国民は不快感を覚え、国際社会も慣行を無視した会議主催国の態度に「?」を付けた。

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団体戦で優勝した洛陽外国語学院チーム

 二人の相性が悪かった可能性もあるが、安倍首相を「危険な軍国主義者」などと批判して会談を拒否してきた習国家主席としては、「気が進まないが会談」であることを最大限、国民向けに演出する必要があったのだろう。

各種調査で「嫌中」、「反日」ばかりが目立ち極限まで冷え込んだ日中関係も、尽きるところは、こうした政治の現実が集積した結果であろう。しかし言論NPOが9月に公表した日中共同世論調査結果で日本人の8割、中国人の7割は現状を「望ましくない」、「改善が必要」と指摘した。政治とは別に冷静な意見が存在するのも間違いのない現実である。

▼盛り上がる高倉健さん追悼
 
11月下旬、北京を訪れ、俳優・高倉健さんの訃報に対する異例とも言える追悼報道や22、23の両日、北京大学で開催された日本知識クイズ大会での日本に対する中国の若者の強い関心を見るにつけ、あらためてそんな思いを強くした。
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2日間にわたって予選、決勝を行った

 高倉さんの訃報は11月18日、国営テレビが速報し、テレビが追悼番組を組んだほか、10ページ近い大特集を組んだ新聞もあり、中国版ツイッターには「友情を持って中国に接した」、「神様のような男性だった」などの書き込みが溢れ、中国外交部の報道官も記者会見で「日中の文化交流に重要な貢献をした」と死を悼んだ。

 1970年代に大ヒットした高倉さん主演の「君よ憤怒の河を渡れ」は文化大革命後、中国で初めて公開された外国映画。高倉さんは改革開放初期世代のアイドル的存在となり、当時、この映画を見た人は「女性にとっても男性にとっても理想の人物像だった」と語り、APやAFPの北京電もこうした中国の反応を驚きを持って伝えた。

▼日本知識大会に89大学参加

 一方、クイズ大会は1999年から中国の大学への日本図書寄贈プロジャクトに取り組んでいる「日本科学協会」(大島美恵子会長)が中国青年報社などの協賛を得て各大学と共催しており正式名称は笹川杯全国大学日本知識大会。10回目に当たる今回は、これまで最多の89大学が参加、日本の歴史や地理、文化、芸能など幅広い分野の知識を争った。

 日本の森林率や皇族の選挙権など難問が多く、図書寄贈プロジェクトで最多の36万冊の寄贈を受け、5000人が日本語を学ぶ旧満州・遼寧省の大連外国語大学では、学内にクイズ大会に備えた研究会もある。学生にとって日本知識を身に付けることは、大連に進出している日本企業に就職する近道でもあるようだ。

 大会を見学した韓国・延世大学の金基正、金世振両教授も「韓国でこうした大会を実施するのは難しい」としながらも、“知日家”を育てるには「Good Ideaだ」と企画に関心を示した。会場の学生からも「政治とは別に若い世代で民間交流を進めたい」、「小さい時からアニメを通じて日本に親しみを持っている」、「友好こそ互いの国の利益になる」など前向きの声が多く聞かれた。

 中国には全体で約2300を超す4年制以上の本科大学と3年制以下の専科大学があり、506大学に日本語学科が設けられており、24万人が日本語を専攻する。専門学校や課外活動も含めると日本語を学ぶ若者は世界でも断トツの約68万人に上る。

 現在の大学生は1990年代に強化された反日愛国教育の影響を色濃く受ける。国と国の関係が政治・外交の大きな影響を受けるのは、どの時代も同じで、グローバル化がその動きを加速している。

そうした中で両国関係を冷静に見つめる多様な意見、もちろん日本にもそうした目線を持った若者は多数いる。こうした“財産”をじっくり育てていく以外、両国の友好に道を拓く方法はないのではないかー。北京を訪れ、そんな思いを強くした。(了)
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