CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

四季折々の雑記

 05年夏まで在籍したマスコミの世界は極力、主観を排した客観報道を原則とした。しかし真の意味で「客観」を実現するのは報道の現場に限らず難しい。ブログと言うには程遠いが、忘れない程度に自分の想い、時に意見をささやかに書いていくつもりです。


<< 2012年05月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
buy website traffic
インド体験記(下) 美の基準 (12/09)
TNF広報ファン
音禅法要 (05/31)
D.G. Internacional, S.A.
インド体験記(下) 美の基準 (04/17)
Bios Agriculture
ニュースから(4) (01/20)
ラックバック
「凌霜隊」の街を訪れて (12/29)
早川理恵子
日本文化、色濃く残すパラオ  (10/18)
麻生英明
インド体験記(下) 美の基準 (03/08)
kemukemu
映画「蟻の兵隊」の試写会に参加して (09/14)
最新トラックバック
陸山会事件控訴 [2012年05月11日(Fri)]
「小沢裁判」を政局にするな!
明日の日本こそ語るべき


資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐり民主党の小沢一郎元代表が政治資金規正法違反(虚偽記載)で強制起訴された事件で検察官役の指定弁護士は、元代表を無罪とした一審・東京地裁判決に「見過ごせない事実誤認がある」などとして控訴した。批判する声も出ているが、一審判決は小沢氏の故意(違法性の認識)の立証が不十分としたものの事実関係は指定弁護士側の主張を大筋で認めた。「控訴は当然あっていい選択」と考える。

IMG_7916 (1).jpg

故郷・岐阜の山河


その一方で、決着が控訴審に持ち越されたことにより「小沢裁判」が引き続き政局の焦点になると思うと、暗然たる気がする。東日本大震災の復興、原発、財政再建、安全保障など喫緊のテーマが山積する中、一国会議員の刑事裁判に政治が翻弄される現状はあまりにおかしい。小沢氏に対する批判がなお強いのも国の明日より政局を優先する政治姿勢にある。豪腕政治家として「国に対する最後のご奉公」を口にする以上、日本再生に向けた政策こそ語るべきである。

▼未整備

一審の無罪判決を機に検察審査会制度に対する批判や疑問があらためて指摘されている。検察審査会法は強制起訴における指定弁護士の役割を「事件を起訴し、公判の維持を行う」としているものの、強制起訴をした場合の補充捜査や上訴手続きどうあるべきか、さらに上限を120万円としている指定弁護士の報酬が果たして現実的か、未整備な点が多すぎる。

強制起訴の対象となるのは、もともと検察側が証拠の弱さ・不足を理由に起訴を見送った事件であり、同じ法律専門家として裁判官の証拠評価が検察官と大きく違うことはない。乱暴な言い方をすれば、検察が「力及ばず」で捨てた事件を有罪にするのは、指定弁護士が余程、新たな事実や証拠を発掘しない限り難しい。無罪判決が出る確率の方が当然高く、現実に無罪判決が出たからといって指定弁護士の力量や強制起訴制度そのものを問題視するのは筋違いである。それは本来、制度発足に先立って為されるべき論点であるからだ。

本件では陸山会が2004年秋に行った土地取得に伴う経理処理が問題となり、一審は元代表が提供した4億円について元秘書らが政治資金収支報告書に虚偽の記載をしたことを認定、小沢氏がその処理に関し元秘書から報告を受け了承した、ことも認めた。無罪理由は「04年分に計上しなければならないと認識していなかった可能性がある」、つまり小沢氏の違法性の認識(故意)に関する立証が不十分というわけだ。同様の点は贈収賄事件でもしばしば問題となる。政治家が現金を受け取ったことが立証されても、その金が「わいろ」であると認識していたことが立証されなければ収賄罪は成立しない。

▼審査会の意見反映を

控訴に当たり指定弁護士は「手持ちの証拠でも十分、控訴審を戦える」、「(控訴審の勝算は)5割を超える相当の確度」などと語っている。これら報道を見る限り、指定弁護士には新たな事実や証拠発掘にかける手応えがあるようにも思うが、最高裁は2月、一審判決を破棄するには「論理則、経験則に照らして一審の不合理な点を具体的に示す必要がある」との判断を示しており、有罪獲得は容易でないような気もする。

控訴は3人の指定弁護士の合議による結論のようだ。検察が控訴する場合は高検、最高検と協議し、控訴が決まれば担当検事も変わる。強制起訴が検察審査会の意見を受けて行われる以上、控訴に関しても審査会の意見を反映させる手立てがあってもいいのではないか。控訴期限が一審判決から2週間と時間的制約があるが、検察審査会制度はもともと例外的な手続きであり、控訴期限を別扱いとする手もあると思う。

▼国民の目線

一審判決に対し小沢氏の主任弁護人、弘中惇一郎弁護士は「基本的には完全無罪」と評価した。同弁護士はかつて「ロス疑惑」事件の故三浦和義氏の主任弁護人として、三浦氏がマスコミ相手に起こした数多くの名誉棄損訴訟の代理人も務めた。共同通信社の配信記事も訴訟対象となり、当時、共同通信の法務を担当していた関係で法廷や事務所で何度か顔を合わせた。印象は「言葉を厳格に選んで話す人」。完全無罪といった情緒的表現には「この人らしくない」といった違和感がある。マスコミや野党の「灰色無罪」を意識した言葉と思うが、判決には本来、有罪と無罪しかない。

一審判決は結論を別にすれば指定弁護士の主張を多く採用しており、小沢氏の法廷供述を「信用できない」とも述べている。小沢弁護団としても控訴審で争う争点はたくさんあるはずで、控訴審判決までに意外な時間を要する可能性もあろう。これによって、ただでさえ劣化している政治がこれ以上、低迷してはならない。日本財団の笹川陽平会長は3月、産経新聞の「正論」で小沢氏に対し「政局を離れて故郷に帰り、その剛腕を持って被災地復興の先頭に立つべきだ」と書いた。

政治には力が必要であり、「数こそ力」というのも恐らく正しい。しかし政治家にとって一番必要なのは国民の信頼と支持である。裁判とは別に、国難ともいえる難局に直面するこの国の明日に剛腕を発揮してこそ、小沢氏の名は後世に残る。(了)
世界が注目した壁新聞 [2012年04月27日(Fri)]
「地域の応援団に徹する」
手書きの壁新聞で注目 石巻日日新聞


東日本大震災で社屋が被災する中、手書きの壁新聞を発行した石巻日日(ひび)新聞に対し日本記者クラブ特別賞が贈られることになった。授賞理由は「報道史に残る壁新聞づくり」。壁新聞は米ワシントンの報道博物館「ニュージアム」にも永久保存されることが決まり、その活躍はテレビドラマにもなった。同社を訪ねると、常務取締役の武内宏之報道部長は「多くの市民が今ももがき苦しんでいる。有名になったとかドラマになったとかで喜んではいられない」、「地域の応援団に徹したい」と意欲を語った。

IMG_3182.jpg

被災地の桜も満開に

震災から1年、震災前に1万4000部を数えた発行部数は7800部と過半まで回復したものの広告は4割にとどまる。人口16万人の石巻市は死者・行方不明者約5800人、全壊家屋4万4000戸、市街地全域が津波に襲われ甚大な被害を受けた。町の中心部からヘドロ状の土砂やがれきは姿を消したものの、建物の建築が制限された海沿いの地域にはがれきや廃車が山と積まれ、荒涼とした風景の中に復興の兆しを見出すのは難しい。

IMG_3146.jpg

がれき処理は依然進んでいない

4月20日、日本財団の事業に関連して同社を訪れると、武内部長は1階輪転機室に案内してくれ「床上20aまで海水に浸かり、床に積んであった新聞ロール紙は使い物にならなくなった」、「輪転機は2年前に入れ替えたばかり。最大12n印刷可能の新鋭機だった」、「社員の大半が被災し取材用の車も流された」と被災直後の絶望的な状況を説明した。「大型車が木の葉のようにフワフワと流れる窓越しの光景に絶句した」とも。

そんな中、同社には物資が不足した戦時中、わら半紙で手書きの新聞を作った経験があり、上段に積んであったロール紙が無傷だったことも幸いして、壁新聞発行となった。3色の油性ペンで連日6部作成し、避難所など6カ所に張り出した。
「市民は食糧、水と同様、地域の情報も欲していた。しかし取材した写真や情報を入れるだけのスペースはない。それが悔しかった」(武内部長)

IMG_3172.jpg

石巻日日新聞報道部

震災8日目に電気が通じ、輪転機のボタンを押すと、奇跡的に動いた。4頁から新聞発行を再開し現在は6頁に。大津波で多くの読者が家を失い、仮設住宅なども訪ね歩き拡張活動を続けた。震災前の過半に達した現在の部数は社員28人の熱意と努力の結果である。80%が従来からの読者、20%は新規読者という。

編集を束ねる平井美智子・報道部課長は「被災地の状況を全国に知らせるのが全国紙とすれば、被災者が日々、必要とする情報を提供するのが地域紙」と石巻日日新聞の役割を語った。石巻日日新聞は100年前、石巻初の地域新聞として創刊され、創業者・山川清氏は「地域の回覧板たれ」との言葉を残した。武内部長も「地域あっての新聞。地域の応援団として新聞発行を続けるのが使命」と語るとともに、「読者が求めている情報は何か、そんな目線が震災前より強くなったような気がする」と付け加えた。(了)
「死刑制度」 [2012年04月04日(Wed)]
法相の個人の思いを持ち込むな
冷静な職責の遂行こそ議論の前提


3月末、1年8か月ぶりに3人の死刑が執行されたのをきっかけに死刑制度の是非をめぐる議論が再燃している。しかし刑の執行そのものを問題視した議論の立て方はおかしい。現に死刑制度があり、100人を超す確定死刑囚が存在しながら、1年8ヶ月もの間、4人の法務大臣が死刑執行命令書に署名することなく、執行ゼロが続いた状態こそ異常なのだ。

法相としての自覚

誤解を避けるために言えば、むやみに死刑の執行を求めるつもりはないし、個人的には死刑廃止に近い考えを持つ。死刑執行命令書への署名は気の重い職務であろうし、過去に署名をためらった法相すべてが死刑反対派だったわけでもない。刑の執行という重い職責に対する覚悟と度胸がなかったに過ぎない法相もいたと思う。しかし、それがどういう影響をもたらすか、もっと自覚されなければならない。

写真 (4).jpg

ようやく桜が咲いた

死刑廃止国は現在141カ国。ここ10年余で40カ国近く増え、2011年、実際に死刑が執行された国は20カ国にとどまる。法相といえども1個人としては当然、賛成、慎重、反対と様々な思いがあろう。しかし、法相に就任した以上、個人の考えを持ち込んではいけないのだ。個人の考えにとらわれ死刑執行命令書への署名をためらえば、法相としての職責を全うしないばかりか、法相自ら法の厳正な運用を曲げ、法の安定、法治主義そのものに対する信頼を裏切ることになりかねないからだ。

それでは失うものが大きすぎる。政府が実施する世論調査で死刑制度容認派が85%まで増えているのも、残虐な犯罪の増加もさることながら、こうした実態に対する国民のいら立ちを反映した結果ではないか。執行命令書への署名に当たり法相が検討すべきは、当該の確定死刑囚の執行に再審請求など個別具体的な問題があるか否かに限定されるべきである。

冷静な議論の妨げ

死刑制度の是非は法相の意見とは別に広く公論で決すべきで、法相の役割はそのための環境整備、受け皿づくりにとどまるべきだ。そういう覚悟と自覚もなく、職責を全うできないのなら、法相就任を辞退すべきである。自民党政権時代、就任早々「(死刑執行命令書には)サインしない」と言い切った法相がいた。民主党政権になっても法相から同様の発言が聞かれた。司法全体に対する国民の不信を考えれば無責任の極みであり、死刑問題に対する冷静な議論の妨げでしかない。

今回、3人の死刑執行に踏み切った小川敏夫法相は法曹3者(検察官、裁判官、弁護士)の経験者であり、柳田稔―仙谷由人―江田五月―平岡秀夫と続いたそれ以前の4法相に比べると異質の存在かもしれない。恐らく今後も法相が変わるごとに死刑に対する考え、対応はくるくる変わり、あるべき冷静な議論を欠いたまま賛否両論が戦われることになろう。刑事訴訟法は死刑確定から6カ月以内の執行を定めているが、その通り執行されたケースは聞かないし、3人の執行直前の確定死刑囚は135人と戦後最大の数字となっていた。今後も増える可能性が高い。

新たに導入された裁判員裁判では既に13件の死刑判決が出ている。裁判員には死刑の存在を前提に苦しい決断を求め、その一方で司法行政のトップが職責を全うしないのでは責任逃れというより詐害行為に等しい。法相が変わるごとに気体と不安が交錯し、死刑囚の精神的動揺も倍加する。当然、凶悪犯罪の被害者の苛立ちも募る。

皮肉な結果を生む

前述したように、個人としては死刑廃止に近い立場をとる。死刑を「残虐」とする廃止派にも、「死刑囚が犯した犯罪はもっと残酷」という容認派にも理があり、それについてとやかく言うつもりはない。死刑が確定すれば、そのまま執行の恐怖にとらわれる。「近い」と言うのは、極刑であるにもかかわらず不安定で中途半端な運用しかできない現状を前に、いっそ廃止して終身刑を設け、懲役・禁固と同様、労働賦役を課す方が理にかなっているという消極的理由による。その方がわずかでも社会・被害者に還元できるし、本人の更生・贖罪が進む可能性も出てくる。

繰り返し言えば、法相によって運用が大きく異なる現状、とりわけ廃止派、慎重派の法相が死刑執行命令書への署名を拒否する姿は一見、死刑廃止につながるような期待を抱かせるが、その実、法の執行に対する不信・不満を助長し、死刑問題に対する死刑冷静な議論な議論を妨げ、死刑廃止の道を閉ざす皮肉な結果になっている。政治の混迷の一因として、「政治家の覚悟の欠如」がしばしば指摘される。死刑問題の現状を見るにつけ、改めてその思いを強くする。(了)
被災地復興 [2012年03月06日(Tue)]
瓦礫を被災地復興の糧に
有効活用する勇気を!


東日本大震災から間もなく1年、膨大な瓦礫処理が進まず、復興の大きな妨げになっている。放射性物質を不安視する住民の声を前に政府が呼び掛ける広域処理が進まないのが原因だ。放射能を恐れる気持ちはよく分かる。しかし、それ故に一切を拒否し、一方で「絆」、「つながり」を叫ぶのはどう見ても筋が通らないし被災者も救われない。いっそのこと、瓦礫を復興の糧として有効に活用する勇気を持つべきではないか、あらためてそんな思いを強くする。

写真 (1).jpg

▼さらに増加

環境省が公表した資料によると、がれきの推定量は岩手県が476万d、宮城県が1569万d。それぞれ一般廃棄物の11〜19年分の量で自力処理能力をはるかに超える。解体が必要な建物が大量に残され、大津波による塩害で立ち枯れた樹木の処理を含めると、瓦礫の量は確実に増える。原発事故を抱える福島県の場合は208万トンとされているが、除染に伴って発生する土砂も含めると先は見えない。

これに対し東京都、青森、山形両県が瓦礫処理を受け入れ、神奈川や埼玉、千葉、石川、静岡県などが前向きな姿勢を示しているが、放射性物質が一緒に持ち込まれるとする住民の反対で難航しており、環境省が目標とする2014年3月末までに瓦礫処理が完了するとはとても思えない。現在、放射性廃棄物を再利用する場合の基準は廃棄物1`当たり100ベクレル以下、焼却後の灰を使う場合は単位重量当たりの値が上昇するため1`当たり8000ベクレル以下。

日本財団が昨年9月、福島で開催した「放射線と健康リスク」に関する国際会議では「年20_シーベルト以下は危険な数字ではない」とする見解が国際放射線防護委員会(ICRP)など専門家の多くを占めた。しかし「これ以下は安全」とする“しきい値”は確定していない。一方で自然界には世界平均で2・4_シーベルトの放射能も存在する。目に見えない恐怖もありゼロを求める気持は理解するが、どこかで見切りをつけない限り、瓦礫や除染に伴う土砂の処分は進まない。

▼関東大震災の瓦礫活用―横浜・山下公園

目を転ずれば1995年の阪神淡路大震災では約2000万トンの瓦礫の半分が土地造成などにリサイクルされた。多くが焼失したこの震災と、巨大津波に原発事故が加わった東日本大震災では被害の様相も異なり一概に言うのは危険だが、古くは関東大震災(1923年)で出た大量のがれきや焼土を活用して横浜市の観光の中心「山下公園」が造成された例もある。植物生態学者として知られる宮脇昭・横浜国大名誉教授によると第2次大戦後のドイツ・ミュンヘンなどではレンガなど瓦礫ばかりか戦車の残骸なども埋め、廃墟となった街の公園整備など復興が進められたという。

写真 (2).jpg

ならば、今回も同様に瓦礫を震災復興の“資源”として活用する道はないのか。被災地では大震災に伴い地盤沈下した地域のカサ上げや高台の整備に材木やコンクリート塊、土砂はいくらあっても足りないはずだ。岩手県では既に瓦礫の9割が仮置き場に搬入されており、少なくとも国が再利用の際の基準と定める1`当たり100ベクレル以下の材木やコンクリート塊の選別は可能なはずだ。

▼住民の安らぎにも

除染に伴う土砂も基準値以下であれば、同様に埋め立てに使えないかー。このほかの策としては、対象となる土地を深く掘り下げ、表層と下層を入れ替える方法しか思いつかない。現実に事故が起きた以上、何らかの現実的な打開策を見つけない限り、被災地の復興は進まず、海外からから絶賛された忍耐強さや思いやりなど、この国の精神が荒廃することにもなりかねない。

宮脇教授は瓦礫を有用な地球資源として土とともに盛土状に埋め、その上にその土地本来の常緑広葉樹、被災地であればタブノキやシラカシ、モチノキなどを植え、15〜20年後には防潮林堤として完成させる遠大な構想を打ち出している。基準を超える濃度の瓦礫や土砂の扱いに問題が残るとしても、被災地全体でみれば広く活用する余地は十分あるはずだ。(了)
ミャンマー再訪 [2012年01月02日(Mon)]
悲しいほどに美しい夕陽
港町にビルマ戦線の跡


昨年末、2年ぶりにミャンマー(ビルマ)を訪問、ベンガル湾に接するラカイン州の州都シットウエーを訪ねた。ビルマ戦線では、世界の戦史の中でも「最悪」と評されるインパール作戦を中心に30万人を超す日本兵のうち6割以上が戦死、多くが銃弾、食料の補給もなく悲憤の中で散った。当時、アキャブと呼ばれたシットウエーでもインパール作戦に連動する形で日本軍と英印軍が激突、師団長の“狂気の作戦指導”に抗議して撤退した連隊長は戦後、自決した。カラダン川に沈む夕陽を見るうち、あまりの美しさに彼らの無念が伝わってくるような気がした。


カラダン川に沈む夕陽

狂気の作戦

シットウエーはヤンゴンから飛行機で約1時間。もともと英軍の基地だった空港を日本軍が激戦の末占領、インパール作戦の敗退まで基地として使用し加藤隼戦闘隊もこの空港を拠点に戦った。現地に詳しい日本財団メンバーによると、当時の日本軍が滑走路の強化に使った鉄板が市内の民家や公共施設の塀に今も使われているという。よく見ると鉄板には直径6、7ミリの穴が開いており、河口に近い空港の水はけを良くする工夫だという。


塀に利用される旧空港施設

フリー百科事典「ウィキペディア」などによると、インパール作戦は連合国側の軍需物資を蒋介石・国民政府に送る援蒋ルートの遮断を狙い1944年1月強行された。食糧も弾薬の補給もない無謀な作戦で8万6000人の日本将兵のうち3万2000人が死亡、戦病者も4万人に上り、日本陸軍瓦解の発端ともなった。この陽動作戦として南へ550`離れたシットウエーで同時期、発動されたのが第2次アキャブ作戦。インパール作戦と同様、弾薬・食糧が尽きる中、2年前に行われた第1次アキャブ作戦とは逆に日本軍が大敗、多数の日本兵が命を失った。


旧日本軍慰霊碑

外国人の立入りは長い間、禁止されていたが、10数年前、この地にも旧日本軍の慰霊碑が立てられた。碑は寺の境内にあり、表には「祖国の名誉の為にこの地に散った英霊よ安らかに 顕彰」、裏側には「平成11年(1999)2月8日 元33師団砲兵第33連隊 巡拝有志一同建立」とある。経を上げてくれた住職は、すぐ横の本堂の柱にある傷跡を指し示しながら、先輩の住職から聞いた話として「大戦末期、英国軍に追われた日本兵が数人、ここに逃げ込み、銃撃戦の末、全員死亡した。これがその時の銃弾の跡」と説明した。


銃弾の跡が残る柱

悲惨な退却

第33師団は第15、第31師団とともにインパール方面第15軍を編成した。インド、ミャンマー国境で展開された一連の戦争がいかに絶望的な戦いであったかー。資料は悲惨な退却の模様を「英印軍の追撃の中、一発の弾丸、一粒の米も補給されることなく、飢えと寒気で悲惨を極め、死体が横たわるジャングルの道は“白骨街道”と化した」と記している。

今回は、舟でカラダン川を上り、古都、ミャウーも訪問した。乾季とは言え水量は豊か。ベンガル湾に流れ込む河口部分を除けば舟も人影もまばら。岸辺で草を食む大きな角の水牛や船に向かって手を振る子供たち、さらに緑色のジャングルの彼方に金色に輝くパゴダが散見できた。古都の寺院のたたずまい、カラダン川の流れとも穏やか。川面にオレンジ色の光を投影しながら静かに沈む夕陽は美しく、日本兵たちは絶望的な闘いの中でこの光景をどんな思いで眺めたのかー。家族、故郷を想い、望郷の念にとらわれたかもしれない。彼らの無念さを思うと、国の名で行われるのが戦争とは言え、無謀な作戦を遂行した指揮官の個人責任は問われなければならない。

シットウエーに戻り港を見学すると、桟橋を挟んで一方は小船が野菜や穀物を運ぶ伝統的な風景、その反対側ではインド・タタ財閥資本による大掛かりな改修工事が進められていた。南方のチャウッピューでは中国資本によるガス田開発、さらにこの地から中国の雲南省昆明に至るパイプラインの建設も進められている。

内向き

インド、中国、さらにベンガル湾に接するミャンマーは昔も今も要衝の地にある。とりわけ中国にとって、雲南省からベンガル湾に至る流通路が確保できれば、アフリカや中東からの原油など資源輸入はマラッカ海峡経由に比べ大幅に短縮され、輸出品の積み出しも極めて便利となる。ミャンマーの豊富な鉱物資源、安い労働力には世界も注目する。


シットウエー港を行き交う小舟

テイン・セイン大統領は昨年、北部カチン州で中国が建設を進めていたミッソンダム水力発電計画を中止した。かつて英国の植民地として翻弄された国として、特定の国に偏することを嫌ったようにも見える。そのセイン大統領は今回の訪問で会談した日本財団の笹川陽平会長に対し「中国・韓国に比べ日本の動きはあまりに遅い」と日本の積極的な対応を求めた。

当の日本は大統領の民主化を評価、ODA(政府開発援助)を復活するものの、中韓両国に比べれば企業進出はゼロに等しい。米国の意向を意識するあまり独自の外交を展開できていない、といった批判もある。戦地に散った英霊たちが戦前の強気から一転して内向きとなった戦後の母国をどう見ているか、あらためて考えさせられる思いがする。(了)
箱根冬景色 [2011年12月11日(Sun)]
}これが樹氷か!?
花が咲いたように白く霞む箱根





山は花が咲いたように白一色


12月2日、箱根の山頂を通ると道路両側の樹木が淡い花が咲いたように白く霞んでいた。よく見るとびっしりと氷が付き、これが樹氷かとも思ったが、写真で見る蔵王などの樹氷とはだいぶ違う。似た言葉として霧氷もある。





枝にはびっしりと氷


Webで調べると、霧氷は「水蒸気や霧が氷点下で冷やされ樹皮などに凍りついたもの。生成条件によって樹霜、樹氷、粗氷などがある」とある。ちなみに樹氷は「霧氷の一種。過冷却した微小な水滴が木の枝などに付いて凍ってできた白色のもろい氷。木に花が咲いたように美しい」との説明。



拡大するとこんな感じ




山頂付近は曇り模様


樹霜、樹氷、粗氷のいずれに当たるか分からないが、当日は横浜から小田原厚木道路を得てターンパイクの入り口・早川料金所に着いたのが正午前。「つい先ほど通行禁止が解除された」とのことで、そのままターンパイクを進むとほぼ山頂の鞍掛料金所手前から木々の枝が花が咲いたように白くなっていた。



霞がかかった春景色を見ている錯覚も覚えた


既に溶け始め水滴を滴らせる枝も多く早朝はもっと白色だったと思われる。その後、熱海峠を経て亀石峠まで伊豆スカイラインを進んだが、気温は熱海峠付近が1度。その後も厚い雲の下、強い風が吹き、普段温かい亀石峠も2度。山頂付近は依然、満開の桜を遠方から見たように霞んだように淡く白く見えた。料金所で確認すると樹氷としたうえ「箱根で樹氷が出るのは珍しい」との答え。通行止めだったせいか、通行車両もほとんどなく、得がたい幸運に感謝した。(了)
新たな開国 [2011年11月22日(Tue)]
異次元の不思議な空間
龍馬一色の高知


11月初め、高知市を訪れた。街は坂本龍馬の誕生日(11月15日)を前に龍馬一色、取材先では龍馬、勝海舟、ジョン万次郎の子孫にお会いする機会もあった。関係者はこの国の将来について龍馬に熱い思いを託す。土佐を愛した司馬遼太郎は「歴史も人間風土もいまに連続していると感じられるのは、日本にあっては京都と土佐のみである」(エッセイ・歴史と小説)と書いた。龍馬ならTPP(環太平洋経済連携協定)にどう臨むかー。そんなことを考えるうち時代を超えた異次元の空間に迷い込んだような不思議な感慨を覚えた。


桂浜に立つ龍馬像


高知訪問は坂本龍馬記念館が10月、ハワイとニューヨークで行った米国フォーラムの報告会の取材が目的。フォーラムは記念館が開館20周年を記念して2009年から実施している「風になった龍馬」の関連企画として計画された。。ハワイ、ニューヨークとも大きな反響を呼び、5日は記念館での打ち合わせの後、高知県立美術館ホールで報告会を開催。フォーラム参加者が壇上に並び、森健志郎館長の司会でフォーラムの感想や今後の抱負を語った。

龍馬、海舟、万次郎の子孫

壇上にはフォーラムに参加した高校生や記念館関係者とともに坂本家9代目当主の坂本登さん、勝海舟の玄孫に当たる高山(こうやま)みな子さん、中濱万次郎直系5代目の中濱京さんの姿も。坂本登さんは龍馬の兄・権平の直系で現在、東京都小平市に住む。高山さんは鎌倉市在住のフリーライター。仕事の関係で米国フォーラムに参加できなかったという中濱さんはこの日、名古屋から駆け付けた。

報告会に先立ち、桂浜の近くにある記念館=同市浦戸=で開催中の「風になった龍馬展」の展示資料を見ながら“龍馬人気”の感想を求めると「これからは国の壁を超えて世界の平和を考える時。藩を乗り越えて活動した龍馬の姿がこれに通じるのではないでしょうか」と坂本さん。フォーラムで「勝は人の命を奪わずに国を守ることが正義と考えた」と語った高山さんは、その力の源を「下級武士として上に対する反発もあったのではないかと思う」と語った。


高知城


維新に大きな影響を与えた3人だが、関係者によると龍馬と万次郎が直接会ったことを裏付ける資料はないのだという。この点について中濱さんは「長崎などで2人の足跡が重なっている時期がある。必ずどこかで会っていると思う」と述べ、TBSのワシントン特派員も務めた万次郎研究家の北代淳二さんは「日本にとって万次郎が米国の民主主義を持ち帰った意味は極めて大きかった」と語った。

桔梗の紋


客席では龍馬の一番上の姉・千鶴の家系に当たる柳原一雄さんと、たまたま隣り合わせになった。坂本家の家紋が明智光秀と同じ桔梗紋であることを話題にすると、本能寺の変後、光秀が山崎の合戦で秀吉に敗れ近江国・坂本城が落城した際、土佐に逃れた明智左馬之助光春の子、太郎五郎が土佐に逃れ坂本性を名乗ったのがルーツ、と家系図を手帳に書いて説明してくれた。江戸時代、“反逆者”光秀に対する評価は極めて厳しかった。坂本家にはそうしたレッテルを気にしない大らかさがあったような気もする。

この間、壇上では「龍馬の手紙を読む」と題する朗読・コンサートを続けている女優の小林綾子さんが「風になった龍馬」を披露。会場からは自然に合唱が起こり、小林さんが乙女姉さんになり変わり「龍馬!おんしがやらんで だれがやる」「のう龍馬!今は明日が見えんぜよ」との語りを入れると大きな拍手が沸いた。

翌日、空港までの空き時間を利用して「日曜市」に。市内を東西に走る追手筋沿いに約1・3`、高地城前までびっしりと店が並び、野菜、果物から干物など海産物、手作りの寿司や煮物、さらに草花、骨董品まであらゆる産品が並び、観光客や市民で大変なにぎわい。10個入り800円の特大の柚子を3個に減らしてもらい300円払うとオバさんが150円釣りをくれた。怪訝な顔をすると「遠くから来てもらったけん」と笑った。

覚悟と決断

平行して位置する帯屋町一帯は市内随一の繁華街。11月は「竜馬月間」とかで至るところに「なりきり龍馬仮装コンテスト」、「龍馬生誕祝い」「龍馬ふるさと博」などの企画案内。昨年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で使われたセットを再現した龍馬の生家での企画も多数計画中という。


土佐の海 あいにく曇りだった


維新期のスーパーヒーロー龍馬は今、日本人に最も人気のある歴史上の人物である。観光、町興しが狙いであるのは間違いないが、人々の心の中に今も生身の人間として息づいている点で他に例を見ない。グローバル化が進む中、日本は新たな国づくりをこれ以上、先送りすれば国際社会の中に取り残され漂流する。今こそ政治に覚悟と決断が求められる。

TPPで龍馬は国を越えた自由経済圏確立の必要性を説くのだろうかー。賛否両論に2分された国論を一本化するには“薩長同盟”で龍馬が見せた大局観こそ必要であろう。今、日本に必要なのは沸騰するような幕末の熱気とそれぞれの覚悟であろう―。「東日本大震災のせいか、観光客が増えている」(タクシー運転手)という高知の街を歩きながら、そんな思いがした。

(追)龍馬暗殺と四国の覇者・長宗我部

土佐訪問は50年近くも前の高校の修学旅行以来。しかし、この地に関しては少々、気になる思いがあった。一つは共同通信社の大先輩、今井幸彦氏が書いた「坂本龍馬を斬った男」との関係。この中で今井氏は慶応3年(1867)11月15日、京都・近江屋で龍馬と中岡慎太郎が暗殺された事件について、旧幕臣だった祖父・今井信郎の告白を基に、実行したのは京都見廻組、祖父・信郎こそ竜馬を切った本人、との推測を展開している。柳原さんも「襲ったのが見回組みであったのは間違いないのではないか」と感想を語った。
 
もう一点はやはり共同通信の先輩、長宗我部友親氏がまとめた「長宗我部」。これによると長宗我部は秦の始皇帝を遠祖とする渡来人の家系で、友親氏は長宗我部中興の祖、元親の末弟、親房から17代目の当主に当たる。元親による四国統一から秀吉への屈服、忍従の徳川時代、幕末以降の家名復活まで栄光と挫折の歴史を詳細なノンフィクションにまとめている。この中で元親の正室は明智光秀の重臣、斎藤内蔵助利光の異父妹に当たると記されており、土佐と美濃、明智との関係が登場している。(了)
原発事故 [2011年09月19日(Mon)]
広がる不安「子供を産めない」
不毛の議論も 混乱と対策の立ち遅れ


東京電力福島第一原発事故に伴う「放射線と健康リスク」を議論する国際専門家会議が9月11、12両日、福島県立医科大で開催され、2日間にわたる研究報告・議論を聞いた。この中で14カ国から出席した専門家の多くは、1986年のチェルノブイリ事故と違い「福島の健康リスクは低い」「健康影響は心配ないレベル」とする見解を示した。


相馬市の学校では除染に向けた作業が進められていた


一方、会議後訪問した相馬市の立谷秀清市長は「福島県の女の子の多くは将来、子供を産めないと思っている」と行政トップとしての苦悩を語った。チェルノブイリ事故でも放射能を恐れるあまり全ヨーロッパで10万人を超す母親が胎児をおろした、との報道があった。低線量被ばくの影響について論ずるだけの知識はないが、自然放射能の存在を前提にすれば放射性物質ゼロの環境は有り得ず、不安を払拭するのは容易ではない。京都・大文字山焼きや愛知県日進市の花火大会のように被災地支援とはおよそ無縁の不毛の議論もある。

国際会議ではリスクインフォーメーションがひとつのテーマとなった。せめて「これ以下なら安全」と大筋が納得する基準が示せないものかー。そうでなければ「除染」ひとつとっても進まない。改めて対応の難しさと政治の低迷による対応の遅れを痛感する。

分かりにくさ

会議で基調講演を行った国際放射線防護委員会のアベル・ゴンザレス氏は放射線に関する諸単位が複雑で分かりにくく、食料品や工業品に関する消費財の基準が世界保健機関や国際原子力機関などの間でバラつきがあるのが、この問題の分かりにくさの一因となっている、と指摘した。資料を見ると、原発報道で盛んに登場するシーベルトは放射能が人体に影響を与える単位、放射性物質が持つ放射能の強さを表すのがベクレル、体外の放射性物質が出す放射線の影響を受けるのが外部被爆、体内に取り込んだ放射性物質の影響を受けるのが内部被爆―などとなっている。

単位ひとつをとっても、1シーベルト=1000ミリシーベルト、1ミリシーベルト=1000マイクロシーベルトとあり、0・5ミリシーベルトは500マイクロシーベルトのはずだが、漫然と聞いていると500マイクロシーベルトの方が0・5ミリシーベルトより大きいような錯覚すら覚える。放射性ヨウ素、セシウム、ウラン、プルトニウムに関しては飲料水や魚、肉などについて個別の暫定基準値が設けられているが、こちらの表示はベクレル。シーベルトに置き換える換算式も記載されているが、これも自分のような素人には実に分かりにくい。


生い茂る夏草 前方の福祉施設には7bの大津波が押し寄せた=相馬市で


加えてそれぞれの1時間値、年間値、生涯値も登場し、さらに日常生活の中では年間2・4ミリシーベルトの自然放射能を浴びていると言う。CTスキャンを一度受けると6ミリシーベルト、胸部X線撮影は0・05ミリシーベルト、東京―ニューヨークを飛行機で往復すれば0・19ミリシーベルトの放射線を浴びるともある。会議では「現在の被ばく量を知ることで、今後どう行動すべきか自分で判断できる」といった指摘もあったが、こうした点を考えただけでも自身の被ばく量を知り得る人はまずいまい。

県民健康調査に意義

その意味で、福島の健康リスクは低い、としつつも、福島県が全県民を対象に実施する大規模な健康調査を「極めて重要」と位置付けた会議の結論は納得できる。調査結果は現在も継続されている広島、長崎の被ばく調査と並び放射能汚染に関する最も貴重なデータとなるし、何よりも今回の事故で自分がどの程度の被爆をしたのか、目安になる。

それにしても素朴な疑問は尽きない。例えば、かつて米国、旧ソ連を中心に進められた核実験の影響。実験は全体で2000回を超えた。ピークとなった1960年代の大気の汚染状況を出席した専門家に聞くと、「今の福島の状況が最も近いのではないか」との返事。となると以後、半世紀の間に世界の人々は、程度はともかく、間違いなく健康への影響を受けたはずである。近年のガン発生率の上昇にこの点がどこまで影響しているのか、その検討を抜きにして今回の事故の影響を論ずるのは論理的に矛盾するような気がする。

盛んに議論されている低線量被ばくも然り。100ミリシーベルト以下が議論の中心と思うが、ここでも100ミリシーベルトを「年間」とする意見と「生涯」とする意見が入り乱れ、その一方で20〜1ミリシーベルトの間で安全性を模索する議論も進められ、百家争鳴の観すらある。放射性物質が遺伝子に傷を付け、修復ができなかった遺伝子が将来、突然変異を起こしガンに発展する、といわれ、今回の専門家会議でもチェルノブイリでの子供の甲状腺がんへの影響が報告された。被ばく量が増えればその危険性は高まるわけで、理屈だけで言えば、「被ばくの可能性ゼロの環境」が理想ということになる。

となるとリスクを低下させるためには福島を離れるか、福島の環境をより安全な数字に改善するしかない。後者は福島第一原発事故の一刻も早い収束は当然として、現実的な対策としては「除染」、その方法も濃度の高い地域の表土を削るしかないと思う。この場合、削った表土の受け入れ先を確保するのは極めて困難と思う。個人的には新たな津波対策用の盛り土堤防に活用するのがいいように思うが、具体案がなければ対象地域の土を掘り返し、表層と下層を入れ替えるしかない。

知識をひとつの声に

訪れた相馬市は福島第一原発から約45キロ。大地震の約40分後、7bを超す大津波が市を南北に縦貫する幹線道路まで押し寄せ、この地域の住民5千人のうち1割が犠牲となった。水田など低地に生い茂った1b近い夏草が大震災直後の荒々しいつめ跡を隠しているが、ところどころに小型漁船やボート、車が横たわり、国の方針が決まらないまま被災地の復旧・復興が遅れている現状を垣間見せている。

大震災後、原発の是非も含め、さまざまな議論が新聞、テレビ、雑誌で展開されている。「真理は中庸にあり」と言うが、多くは両極端に立った極論が多く、受けとる側は何を信ずるべきか分からないまま不安を強めている。ゴンザレス氏とともに基調講演を行った放射線医学総合研究所の明石真言理事は「専門家は科学的な知見に基づき、放射線から身を守るための知識をひとつの声として発信すべきだ」と問題提起した。臭いも色もない放射性物質による医学的、疫学的危険性と防御方法が分からないまま膨張する不安と動揺にどう対処するのか、会議を傍聴し、その難しさを改めて実感した。(了)
 
フィリピン残留2世国籍問題 [2011年08月29日(Mon)]
時間の経過に埋没させるな
比外務省の認証証書評価を


フィリピン残留日本人2世7人が8月、来日した。彼らは日本人を父に持ちながら、その身元が判明しないため日本国籍が取得できず、多くは無国籍状態で極貧の生活を余儀なくされている。しかし過去5回の訪日調査と同様、祖国に対する不満や注文は今回も出なかった。一方で戦後66年を経て“日本人の証”を手にしないまま故人となる2世も目立って増えた。このままでは問題は時間の経過の中に埋没する。国の名で行われた戦争に伴う犠牲は国の名で救済されなくてはならない。

焦点は日本側の評価

今回の訪日調査では、一行の一人、奥間パシータさんの父親・奥間萬蔵さんが沖縄県・伊是名島に健在であることが確認され、66年ぶりに喜びの対面をした。訪日調査で親子対面が実現したのは初めて。終戦時、31歳、働き盛りだった萬蔵さんは97歳、3歳の幼児だったパシータさんは69歳、歳月の長さをあらためて実感する対面となった。


比外務省の認証証書


今回の訪日調査では、もう一つ新たな“進展”があった。残留2世の父親が日本人であることを認めたフィリピン外務省の認証証書の発行である。認証は1995年から日本の外務省が進める実態調査の一環としてフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)やフィリピン日系人協会が現地で行った調査結果を基に「残留2世は日本人の父とフィリピン人の母の間に生まれた」などと記している。当時の国籍法は日比両国とも父系主義を採っており、これによりフィリピン外務省は理屈上、残留2世が「日本人」であることを追認した形となり、今後は日本の司法、行政がこれをどう評価するかがの焦点となる。

残留日本人2世は戦争がなければフィリピン社会で幸せな生活を築いていた。彼らは間違いなく戦争の犠牲者である。同様に終戦前後の混乱で両親と離ればなれになった中国残留孤児の場合は日中両国政府が口上書を交換、該当者に孤児証明書を発行することで就籍手続きは大きく前進し、既に1350人が日本国籍を取得している。

自己意思残留は酷な決め付け

これに比べフィリピン残留二世の国籍取得が遅々として進まない背景には、次のような両者の違いが指摘されている。中国残留孤児が両親とも日本人であるのに対し、残留2世は父親だけが日本人。現地に渡った理由も、前者は国が進めた満蒙開拓だったのに対し、後者は個人の自由意思。さらに日中間は1972年まで国交がなかったが、フィリピンとは戦後も国交があり音信、渡航も自由だった。従って残留2世が現地に残ったのは「自己意思残留」に当たる。


沖縄の空


さらに中国残留孤児対策を進める根拠となった「中国残留邦人等の円滑な帰国の支援及び永住帰国後の自立の支援に関する法律」(支援法)は対象を「旧満州、旧ソ連、樺太に取り残された両親が日本人の子」に限定しており、フィリピン残留2世は対象にならない、との説明もされている。行政は法律や法令の執行機関であり、残留2世問題に対応するには支援法の改定か残留2世の救済に向けた新たな法律が必要といった指摘もある。

しかし、日本人の父から生まれた子供は日本国籍を有する、とした国籍法は残留2世問題が発生した終戦時に存在しており、支援法の制定はずっと後である。残留2世にとっては国籍法がすべてであったはずである。自己意思残留に至っては敗戦後、現地に残された2世が母親とともに「敵国人の子」として追われ、山野を逃避行する中で日本人の父との関係を裏付ける写真や婚姻証明書、出生証明書を捨てた悲惨な歴史を見れば、あまりに酷な決め付けである。

国としての正義

となればフィリピン外務省の認証証書を中国残留孤児の孤児証明書と同様に扱うことこそ問題を早期に解決する道である。日本政府が認証証書を公式に評価するなり、東京家裁が就籍の審判に積極的に認証証書を取り込む方法である。支援法の改正や新法の制定は、これまでも何度か指摘されたが本格的な議論にはならず、時間がかかり過ぎるからだ。日本の外務省も引き続き調査を支援する方針を明らかにしており、厚労省も終戦時、米軍施設に収容された軍人・軍属の名簿など手持ち証拠の提供など協力の姿勢と聞く。検討の余地は十分あるはずだ。

1995年の調査で残留2世と判明した約3000人のうち親の身元が未判明だったのは約900人。このうち64人が東京家裁で就籍が認められ、80人が係属中となっている。さらに約200人について日本財団の支援でPNLSCが就籍を申し立てるための調査票を整備する段取りだ。

残る約500人は既に故人となった。後は時間との戦いである。司法・行政の前向きの対応で残留二世が生あるうちに国籍を取得できるよう祈ってやまない。それが国としての正義と考える。(了)
大震災追想 [2011年07月13日(Wed)]
石柱に残る「海抜1b12a」
何故ここに学校が、悲劇の大川小


全校児童108人のうち74人、教職員13人のうち10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の市立大川小。報道によれば、地震発生後、校庭に集めた児童をどこに避難させるか迷った結果、行動が遅れ、近くの高台へ移動する途中に津波に襲われたという。教師の対応に問題がなかったか議論されているが、訪れてみれば北上川の堤防脇にあるこの学校は海抜1b12a。結果論と言われるかもしれないが、こういう場所を学校用地に選んだことが何よりも問題ではなかったのかー。


海抜1b12aと記された石柱


学校自体も地域の避難場所になっていた。教師や父兄、児童には「学校にいれば安全」との思いがあったはずで、大津波が到来した時「こんなはずはない」「話が違う」といった戸惑いと無念の思いがあったはずだ。自然の力を甘く見たとは言わない。しかし、人間は自然の圧倒的な力を知りながら、時に心の片隅に置き忘れることがある。無残に破壊された大川小を前に、そうした失敗を長く後世に伝える記念碑として校舎は残される必要がある、と感じた。

 6月25日、大川小から約4`先にある廃校の体育館に設けられた「災害取得物預かり所」を訪れた。床いっぱいに瓦礫の中から見つかったアルバムやランドセル、靴、ノートなど思い出の品が並べられ遺族の引取りを待つ。その一角に上空から見た大川小の全景図があった。屋根をオレンジ色に塗った鉄筋2階建の校舎がL字型に配され、丸型の校庭とプールが併設されている。2005年の平成の大合併で石巻市立となったが、それ以前は河北町立の小学校。建設年月日は把握できていないが、超モダンな建物にこの学校の将来にかけた設計者の強い意欲が感じられた。


大津波に襲われた大川小校舎


大川小では25日も自衛隊や宮城県警の行方不明者捜索作業が続き、校門があった辺りだろうか、道路沿いに花を供えた慰霊碑が建てられ、そのすぐ近くに長さ1・5bほどの石柱が倒れていた。大津波で根元から折れたと見られる石柱には大合併以前の河北町立大川第一小学校の「地球上の位置」として緯度、経度とともに「海抜1メートル12センチ」と記されていた。

石柱の存在を教えてくれた黒澤司氏は被災地のボランティアリーダーとして活躍する。自身のブログで大川小について「北上川は日本有数の大河。津波に限らず水害の危険性もおおいに懸念される場所に、この小学校は建っていた」と指摘した上で、今回の惨事について「行政が安全な立地選定を怠った結果による人災だと思う」と記している。


災害取得物預かり所にあった全景図


地元関係者によると、この付近は河口(海)から約4`、北上川沿いの低地であるにもかかわらず何故か津波体験が少なく、今回の津波は1000年に一度といわれる貞観津波(869年)以来ではないか、という人もいる。惨事の後、校舎南側の杉山への避難の可能性について、低学年の児童が激しい余震が続く急斜面を登れたのか議論になっているが、結果論との非難を承知で言えば、あらかじめ階段かスロープを設け、まさかの時は杉山に避難すると決めておけば、これほどの惨事は免れたのではないかー。

現実に2階建て校舎を上回る10b超の大津波が押し寄せ、教師や児童が避難しようとした学校西方の新北上大橋高台も津波に埋もれた。杉山も、その気になれば何とか登れる傾斜と見えるが、当日は地震で斜面が崩れ雪も残っていたとされ、教師がここに避難するのをためらったのも分かるような気がする。そうでなくとも校舎に最も近い杉山の裾は3b近い高さのコンクリート壁で固められており登ることはできない。「ここに階段でもあれば・・」。勝手な想像を繰り返せば、そんな思いがした。

東日本大震災では、東電福島第一原子力発電所事故について当初は、想像を上回る津波が原因と言われ、このブログでもそう書いた。しかしその後、同原発の安全策は過去の地震・津波実績に比べてあまりに過小であり、自然災害より人災の性格が強いことが明らかになりつつある。酷な言い方になるが、大川小の惨事の背景にも同様の問題点を感じる。自然の力を過小評価すれば、いつか大きな付けとなって跳ね返ってくることを永く記憶に留める必要がある。そうでなければ犠牲者は救われない。(了)
| 次へ
プロフィール

さんの画像
日本財団 宮崎
プロフィール
ブログ
リンク集
http://blog.canpan.info/miyazaki/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/miyazaki/index2_0.xml