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四季折々の雑記

 30年以上在籍したメディアでは「公」の動きを、その後10年以上は「民」の活動を中心に世の中を見てきた。先行き不透明な縮小社会に中にも、時に「民の活力」という、かすかな光明が見えてきた気もする。そんな思いを記したく思います。


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中国東北部で今も活用される日本建造物 [2019年10月01日(Tue)]

「残してこそ真実の歴史伝わる」の考えも
“日帝残滓”として解体進める韓国と対照


中国も韓国も日本との間に「歴史問題」を抱えている。しかし日本が戦前、現地に残した建造物に対する姿勢はかなり違う。中国では東北部(旧満州)を中心に日本ゆかりの建物の多くが「文物保護単位」(文化財)として保存・活用されており、「日帝残滓」(捨て去るべき廃棄物)として建物の解体を進める韓国と対照を見せている。他の旧址(史跡)と同様、歴史的、文化的価値に応じて「国家級」、「省級」、「市級」に分類され、表向き日本と関係が特に問題にされていることはないようだ。

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旧奉天中央郵便局

もちろん、国内の意見は「利用価値があれば当然使うべき」といった割り切った意見から、「侵略された歴史の証として残すべき」、さらには「忌まわしい過去について思い出したくない」といった声まで幅がある。そうした中で近年、残された建物を純粋に建築学の立場から再評価する動きや歴史の一断面として保存を目指す動きも出ているようで、中国の“懐の深さ”を垣間見る思いもする。

9月末、久し振りに訪れた遼寧省の省都・瀋陽市。人口830万人。旧満州時代、奉天と呼ばれ、日本人が多く住んだ旧大和区などを中心に外観が東京駅とそっくりな瀋陽駅や旧奉天中央郵便局、奉天警察署、横浜正金銀行奉天支店など多数の日本ゆかりの建造物が文化財として残され、公安局や銀行支店など当時と似た用途で利用されている。

このうちの一つ旧奉天ヤマトホテル。戦前の満州鉄道が大連や長春(新京)、ハルビンなどで経営した最高級ホテルチェーンのひとつで、白っぽいタイル仕上げの建物はほぼ当時のまま残され、現在は遼寧賓館として使われている。省級文物保護単位(文化財)に指定され、正面入り口には「遼寧省人民政府 2007年5月26日公布 大和旅館旧址」のプレートも。戦前は蒋介石、戦後は中華人民共和国の指導者、毛沢東やケ小平も訪れている。

今回の遼寧省訪問は、同市で開催された日本財団の日中医学交流事業関連のフォ−ラム取材が目的。一夜、遼寧賓館で懇談の機会があった。アール・デコ調の内装は格調が高く、たまたま結婚式の披露宴が行われていた大ホールには戦後、参院議員にもなった李香蘭(山口淑子)がロシア人歌手のリサイタルの前座を務め、奉天放送局がスカウト、俳優・歌手として活躍するきっかけとなった舞台(李香蘭・私の半生 新潮社)もそのまま残されていた。

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旧奉天ヤマトホテルに当時のまま残る大ホール舞台

瀋陽に先立って訪問した重慶市、雲南省昆明でも、日本ゆかりの建造物保存を話題にしてみた。一番多かったのは「建物が立派で利用価値があったから残った」という現実的な説明。次いで「歴史の一部だから残す。残さなければ歴史は失われる」といった指摘も目立った。金泳三大統領時代の1995年、爆破解体された朝鮮総督府を引き合いに「建物を壊したからといって支配されたという歴史は消えるものではない」、「後世に残してこそ真実の歴史を伝えることができる」といった声も聞かれた。

関連して友人に中国の若者の反応を聞いてもらうと、「どんな立派な建造物であろうと、日本人の統制下で強制的につくられた憎い歴史を思い出させる存在であることに変わりはない」といった返事も。その一方で、大連など瀋陽以外の都市も含め、建物の様式や技術、工法など純粋に建築学の分野から価値ある近代建築として、あるいは歴史的な古い建物群として保存する動きも出ているようだ。

確かに旧満州地域に残る日本ゆかりの建造物は、日本の若き建築家たちが、日本方式、中国方式にとらわれることなく全く新しい発想で、この地に合う石造り、鉄骨構造の洋風建築を目指したと言われる。都市開発や老朽化で古い住宅や関連の建物が姿を消す中、新しい保存の取り組みが、どう発展するかー。歴史問題は今も敏感なテーマであり、どう向き合うかは日本を含めそれぞれの国の問題である。軽々しく言うつもりはないが、そんな思いも込め今後の動きに注目したいと思う。

70年を経てなお語り継がれる不思議 [2019年09月11日(Wed)]

ビルマ・南機関とインド・藤原機関
独立に果たした役割を今も評価


日本人が忘れ去った存在について、外国で高い評価を聞き驚くことがある。旧日本軍の特務機関だった「南機関」と「F(藤原)機関」もその一つであろう。前者はミャンマー国軍の原点でもある「ビルマ独立義勇軍」(BIA)を育て、後者は「インド国民軍(INA)」の創設に尽力し、ともに両国が長い英国支配から脱する原動力となった。戦後70年以上経た現在もその貢献が語り継がれ、親日的な両国の対日観にも繫がっている。

以前、このコラムでも触れたが、8月末から9月上旬にかけ日本・ミャンマー将官級交流プログラム(日本財団主催)でタン・トゥン・ウー中将を団長とするミャンマー将官団10人が来日、8月26日に過去5回と同様、静岡県浜松市にある南機関の機関長・鈴木啓司大佐(当時)の墓を訪れたのを受け、改めて記しておきたいと思う。

南機関は1940年、中国・重慶の蒋介石政権に対する連合国からの軍事物資輸送ルート(援蒋ルート)のうち、ビルマルートの遮断を目的に大本営陸軍部が設置、鈴木大佐は後にビルマ国民に「建国の父」と仰がれるオンサン(アウンサン)将軍=アウンサン・スー・チー国家顧問の父=ら30人を海南島で訓練しBIAを結成した。組織はビルマ国防軍(BDA)、ビルマ国民軍(BNA)などに形を変えながら苦難の末、48年1月に独立を果たした。
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鈴木大佐の墓前で敬礼するミャンマー国軍将官団一行

南機関は旧日本軍(南方軍および第15軍)と意見対立しながらも最後までビルマ独立運動を支援したといわれ、ビルマ政府は81年、鈴木大佐未亡人ら南機関関係者7人にアウンサン勲章を贈っている。旧日本軍の影響はミャンマー国軍に今も色濃く残り、3月の国軍記念日には軍艦マーチが演奏されるほか、日本語の訓練用語も多く使われている。

ミャンマー将官団が訪れた鈴木大佐の墓は、「ビルマゆかりの碑」とともに浜名湖を一望する舘山寺大草山の頂上にあり、鈴木大佐やオンサンらがこの地でビルマ独立の秘策を練ったと伝えられる。一行が来日した際、東京都内のホテルで行われた歓迎レセプションで将官の一人に感想を求めると、「われわれは昔も今も(南機関に)恩を感じ、国民の多くも日本の協力に好感を持っている」と語った。

一方のF機関は1940年、陸軍参謀本部がマレー半島の情報収集を目的に設置。機関長だった藤原岩市少佐(当時)による「F機関-アジア解放を夢みた特務機関長の手記-」(出版社・バジリコ)などによると、日本軍の進撃で取り残されたインド兵などを中心にINAが組織され、シンガポールが陥落した42年2月には、英軍部隊に所属していたインド兵約5万人を前に藤原少佐が大演説を行い、自らの力で自由と独立を戦い取るよう呼び掛け、インド兵に熱狂と感動を呼んだ、とされている。

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藤原少佐が暮らしたコヒマ近郊の民家

藤原少佐は同4月に南方戦線を離れるが、44年3月に始まったインパール作戦では、ビルマ方面軍第15軍、31師団が進攻したインド・ナガランド州の州都コヒマの近郊に約1000人の部隊と布陣、作戦にはインド独立の英雄チャンドラ・ボース率いるINAも参加したが圧倒的な装備を誇る英軍の前に大敗した。しかし独立運動は終戦後さらに勢いを増し、インドは47年、独立を勝ち取った。

日本財団の支援で完成したインパール平和資料館の開館式が行われた6月末、藤原少佐らが展開したコヒマ郊外の村を訪ねると、古老が「日本がわれわれを解放してくれると信じた。メイジャー・フジワラ(藤原少佐)は村人と気さくに話し誰もが好感を持った」と語り、出てきた子供も「コンニチワ」と日本語であいさつした。親から教えてもらったそうで、「われわれが今あるのは日本のお陰」と繰り返し、藤原少佐が地元女性と暮らした古い民家にも案内してくれた。

南機関、藤原機関の活動は英国に勝つための諜報工作であり、そのまま肯定的に評価するのは難しい。ただし、軍の方針に反してまで独立運動を支援した鈴木大佐やインド兵を熱狂させた藤原少佐の大演説を見ると、二人にはミャンマー、インドの独立に向けた強い信念と情熱があったように思う。ともすれば内向きが指摘される戦後外交を前にすると、あの時期にどうして、このような動きが可能だったのか、不思議な気さえする。
パラリンピック 中国のメダル何故多い! [2019年08月07日(Wed)]

厳しい競争「メダル獲得こそ生きる道」
日本でも高まる競技性 東京の結果は?


2020年の東京・パラリンピックまで残すところ1年余、テレビCMに毎日のように登場するパラアスリートを見ながら、前回リオ・パラリンピックで中国と日本のメダル獲得数のあまりの違いに驚いたことを思い出した。金メダルで見ると中国は107個、22競技528種目のうち5分の1を占めたのに対し日本はゼロ。ことさらメダル数にこだわるつもりはないが、両国の取り組みのどこに、これだけの差が生まれる原因があるのか、にわかに信じ難い思いもあった。

参考までに、前回2016年のリオ五輪での中国のメダル数は金26、銀18、銅26(計70)。米、英両国に次いで全体の3位。日本は金12、銀8、銅21(計41)で6位だった。ところがパラリンピックの結果となると、中国は金107、銀81、銅51(計239)と金メダル数、全体数とも圧倒的なトップ。対する日本は銀10、銅14、金メダル数を優先したランキングでは全体の64位。2004年のアテネ大会の金17、銀16、銅20(計53)をピークに減少傾向にある。

中国の強さについて思いつくまま何人かに聞くと、人口13億人のこの国の障害者スポーツ人口の多さ、国が選手を選抜して育成するステート・アマの伝統、障害者用大型トレーニングセンターの整備など様々な要因とともに、メダリストに対する報奨金の多さを指摘する声も多かった。

報奨金は多くの国が導入しており、前回リオ・パラリンピックで日本は金メダル150万円、銀100万円、銅70万円を「日本障がい者スポーツ協会」(JPSA)が支給、自国開催の2020年は金300万円、銀200万円、銅100万円に増額する予定という。ちなみにリオ五輪のメダリストに日本オリンピック委員会(JOC)が支給した報奨金は、金が200万円アップの500万円、銀200万円、銅100万円。2020年には、さらに上乗せも検討されているという。

各種資料によると、リオ五輪の報奨金はシンガポールの金メダル7530万円を筆頭に、台湾6400万円、マレーシア6000万円などが上位に並ぶ。パラリンピックに関し中国の報奨金を関係者に調べてもらうと、リオ大会では金メダルが20万元(約301万円)。2000年のシドニー大会の15万元から毎回増額され、2012年のロンドン大会では50万元になったが、リオ大会で半分以下に減額されたという。中国は報奨金額などを公表しておらず、額、理由とも今一つはっきりしないが、数字を見る限り、中国の強さを支える要因はむしろ報奨金以外にありそうだ。

中国の障害者アスリートは訓練中に負傷した元軍人らも含め200万人を超すともいわれる。国として障害者支援を内外にアピールする狙いもあり、日本に比べ訓練施設も整っている。メダリストになれば報奨金だけでなく、日本と同様、競技団体などからの賞金、報奨金が上乗せされるケースも多い。コーチ就任やコマーシャル出演の機会も増え、勤務先の給与が上がれば最終的に年金にも跳ね返る。すそ野が広い分、生き残り競争は激しく、「メダル獲得こそ生きる道」といった厳しい競争原理が、多分に強い選手が育つ環境を作り出している気がする。

中国の人口は約13億人。都市戸籍を持つ4億人と農民戸籍の9億人に分かれる。急速な経済成長で発展した沿岸部の大都市と内陸部の農村都市では所得、教育、医療福祉に大きな差がある。裕福な上位10%が全国の総資産の60・9%を保有する、といったデータがあるように、格差は一層拡大しており、日本と同様、急速な高齢化で現役世代の保険料負担だけで年金支給額を賄えない時代を迎えつつある。

それだけ障害のある人たちの生き残りは厳しい。関係者の一人は「中国ではパラリンピックのメダル獲得が多い分、日本のようにメダリストが新聞やテレビで取り上げられる機会は少ないが、日本より厳しい環境の中で勝ち残り競争を戦っている。2020年の東京でもいい成績を上げるのではないか」と語る。

当の日本ではインクルーシブな社会の建設に向け道路のバリアフリーや駅のエレベーター設置など障害者や高齢者に配慮したハード面の整備が進んでいるが、障害者スポーツへの対応は遅れ気味。昨年6月、東京都品川区東八潮に日本在財団パラアリーナが完成しているが練習施設も限られている。

しかし、パラスポーツの競技性の高まりを受け2014年以降、障害者スポーツ事業の所管が厚生労働省から文部科学省に移管し、国の補助金も増えつつある。関係者からは「東京・パラリンピックはかなりのメダル獲得が期待できるのでは・・」といった声も聞かれる。果たして各国、とりわけ中国、日本のメダル数がどうなるか、注目したい。

「海の日」はやはり固定すべき! [2019年07月26日(Fri)]

ハッピーマンデーの現状に違和感
海洋プラごみで高まる国際連帯

「海の日」は、わが国が世界で唯一設けている国民の祝日である。3連休を増やすためのハッピーマンデー制度で昨年は7月16日、今年は7月15日、いずれも月曜日だった。観光振興を否定する気はないが、海水温の上昇や酸性化、漁業資源の枯渇など危機に瀕する海を前にすると、海の日をハッピーマンデーとする現状には違和感がある。

海の劣化に対する国際社会の取り組みはこれまで、温暖化防止に対する先進国と途上国の対立など足並みの乱れが目立った。ところが急増する海洋プラスチックごみ対策を軸に連帯の輪が急速に広がりつつある。先進国、途上国を問わず誰もが日常的に接する問題だけに、国際社会が足並みをそろえる格好のテーマとなった形。2016年には世界フォーラムの年次総会・ダボス会議が「放置すれば2050年にはプラごみが魚の量をしのぐ」と各国の迅速な対応を求めた。

プラスチック製品の製造・使用制限から植物を原料としたバイオマスプラスチックの開発、多くの市民が参加するごみ拾いまで様々な活動が拡大しており、6月に開催された主要20カ国・地域(G20)首脳会議ではプラごみによる新たな海洋汚染を2050年までにゼロにする「大阪ブルー・オーシャン・ビジョン」も打ち出された。

海の日は1996年の施行以来7年間、7月20日に固定されたが、ハッピーマンデー制度の導入に伴い2003年から7月の第3月曜日に変更された。来年は、東京五輪開会式(7月24日)前後を4連休とする特例措置で7月23日の木曜日となる。再度、固定するには「国民の祝日に関する法律」の改正が必要。超党派の国会議員でつくる「海事振興連盟」は21年以降の固定化を求め改正案の国会提出を目指し、観光業界は経済的損失が大きいとして、こうした動きを牽制している。

昨年5月、観光5団体が行った記者会見で田川博己・日本旅行業協会会長は「連休と3連休は海外旅行に行くかどうかの境目となる」とした上で、海の日を固定化すると関連業界の売り上げを含めた経済波及効果が2000億円以上減少する、と語った。詳しい数字は手元にないが、ハッピーマンデーが観光振興に一定の効果を挙げているのは間違いない事実だろう。

年間16日の「国民の祝日」のうち現在、海の日のほか、成人の日、敬老の日、体育の日がハッピーマンデー制度の対象となっている。「山の恩恵に感謝する」と、海の日とほぼ同じ趣旨で16年に始まった「山の日」は8月11日 (20年に限り8月10日)に固定されている。盆休みとの関係などが考慮されたと聞くが、扱いの違いはバランス感を欠く。

そうでなくとも、法律で「国民の祝日」と定める以上、その趣旨や期日は明確にされる必要がある。3連休を増やすため、年によって「その日」が変わる現状は感心しない。観光政策を否定するつもりはないが、3連休とすることで飲食業界やタクシー業界など他のサービス業にどのような影響が出ているのか、高齢者や急病で医療機関を利用する人に不都合が出ていないのか、検証してみる必要もあろう。

人類による野放図な利用が危機を招き、これ以上の猶予が許されない海の現状を前にすると、海の日と観光振興に伴う経済効果を同列に論ずる段階は過ぎた気もする。海に関連する事業に幅広く取り組む日本財団の笹川陽平会長ら海の日固定を求める民間の声も多い。海の恩恵を受け、海洋国家として発展してきた日本が、海洋プラごみ対策で世界の先頭に立つためにも、海の日は再度、当初の「7月20日」に固定するのが相当と考える。

「日本兵の勇気に目覚め独立できた」 [2019年07月03日(Wed)]

インパール作戦の激戦地コヒマ
“無謀な作戦”にもう一つの評価


「進攻してきた日本軍は迎え撃つ英軍に比べ食料も弾薬も圧倒的に乏しかった。それでも多くの住民が日本軍の勝利を望んだ。日本人が英国の支配から解放してくれると信じたからだ。残念ながら敗れたが、日本兵は実に勇敢に戦い、規律も正しかった。われわれは、その姿に目を覚まされ独立することができた。だから今も日本に感謝している」

本欄で前回、触れたインパール平和資料館が日本財団の支援で完成し、6月22日の開館式に出席した後、インパール市北方の激戦地コヒマに足を延ばし、インパール作戦当時を知る住民や彼らから聞き取り調査を続けてきた研究者から話を聞いた。上記はその印象である。

インドの独立を含め、現在の平和は日本兵をはじめ多くの犠牲に上に成り立っている。インパール作戦が「無謀な作戦」であった事実は動かないが、戦闘から75年を経た現地には別の目線でこの戦争の記録を後世に残す動きも出ている。わが国でも、もっと幅広い視点でその姿が論じられるべきではないかー。限られた人数とはいえ、コヒマの人々の話を聞きながら、そんな思いを強くした。

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               山また山が続く激戦地コヒマ

コヒマはインパール市から北へ約110キロ。マニプール州の北隣ナガランド州の州都で現在の人口は11万5000人。1944年3月に始まったインパール作戦では、ビルマ方面軍・第15軍の第31師団約1万5000人がビルマ(現ミャンマー)からチンドウィン河、さらにアラカン山系を越えて進攻した。補給がないまま食料、弾薬が尽き、佐藤幸徳師団長(中将)は5月末、第15軍・牟田口廉也司令官(中将)の命令を無視して撤退を決意。一部任務を宮崎繁三郎・歩兵団長(少将)が指揮する支隊に託し、コヒマからインパール方向、さらにチンドウィン河を経てビルマ方向に撤退した。戦車、飛行機も交え圧倒的な装備を誇る英軍の追尾は厳しく、多くの兵士が倒れた撤退路は「白骨街道」とも呼ばれた。

▼敵弾より病気が怖かった

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                インパール作戦を語る佐藤哲雄さん

インパールを訪れる前、31師団歩兵58連隊に所属、コヒマの闘いに参加した佐藤哲雄さんを新潟県村上市の自宅に訪ねた。迫撃砲の破片が左足に食い込み、いったん後方の野戦病院で治療を受け所属部隊に合流する直前に部隊が敵の砲陣地へ総攻撃をかけ全滅した。その後、ビルマでの抑留を経て47年5月復員した。9月で100歳。耳がやや遠くなったが、記憶は鮮明で、軍靴の底に隠して持ち帰った自らの軍歴調書を見ながら当時を振り返ってくれた。以下は佐藤さんが語った悲惨な戦地の模様である。

[装備] 陣地の構築一つとっても日本軍は銃剣や円匙、敵はブルドーザーやトラックを使い、明らかに差があった。上空を飛ぶのは連合軍の飛行機ばかりで、補給路を遮断しても大量の物資が空輸され、日本軍にはこれを攻撃する砲もなかった。
[撤退] 食料も弾薬もなく、マラリアや赤痢で多くの仲間が命を失った。夜間はヒョウなど猛獣にも襲われ、動けなくなれば死しかない。だから敵弾よりも病気が何よりも怖かった。
[仲間の死] 戦争である以上、命令に従うしかない。しかし、多くの兵士が敵との戦いより飢えや病気、さらに増水したチンドウィン河を渡りきれず命を落とした。無念だったと思う。
[地元民] 最初は歓迎された。軍票と引き換えに食料も提供してくれた。しかし戦局が悪化するにつれ軍票は通用しなくなった。

▼日本語学校も開設された

コヒマは平地がほとんどなく車で回ると「山を下って、また上る」といった具合。山また山の地形で6月に雨季が始まる。滞在した3日間は散発的なにわか雨程度だったが、地元関係者によると、インパール作戦のあった1944年は記録的な豪雨だったという。これが退却戦を一層、悲惨にした。

こんな中、コヒマの教会牧師として聞き取り調査などを進めるサヴィト・ナギ氏と日本兵の遺骨収集にも協力するアジャノ・ベルホさんの案内で、当時を知る人を訪ねた。いずれも
90歳を超える高齢ながら驚くほど元気。佐藤師団長の食事を担当した男性は「日本兵は7、8人の小グループに分かれ村に散在し、食糧を買いに来た」と話し、引き換えに受け取った軍票を見せてくれた。

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           「大日本帝国政府」発行の2分の1ルピー軍票


インド国民軍(INA)を率いた独立運動家スバス・チャンドラ・ボースが戦闘指令所に佐藤師団長を訪ねてきたのを目撃したという男性は「ネタージ(ボースの敬称)は『英国人は、顔は白いが腹は黒い』とわれわれに戦いを呼び掛けた」と語った。またINAの創設に関わったF機関の藤原岩一中佐が現地の女性と暮らした住居跡を案内してくれた男性は「1000人近い日本部隊が村に駐留したが戦闘がないまま6月末には姿を消した」と説明した。

現地にはコヒマ進攻に先立ち日本軍が設けた日本学校の木造校舎も残る。17歳のころ、この学校で学んだという男性は「4月から日本軍が撤退する6月ごろまで村の若者が日本語などを学んだ。教えてくれた日本人教師には肉や米を届けた」とした上で、「長い間、使っていないので」と断りながら「日の丸の歌」などを歌ってくれた。

最後にコヒマの元教育大臣に、75年前のインパール作戦が現在のコヒマに与えた影響を問うと、「すべてがいい結果になっている。悪いところは何もない」と言い切り、「ナガランド州には地下資源や観光資源が豊富にある」と今後の期待を語った。

▼将来目標に温度差 「日本軍への感謝」は共通

ナガランド州は19世紀末、英国が支配下に置くまで、多民族の集合体といった形で、マニプール州を中心にしたマニプール王国と対立関係にあった。インド独立後、両州ともインド政府に自治権の拡大を求めているが、ナガランド州にはインドからの独立を目指す動きもあり、温度差があるようだ。しかし、日本に対する評価はともに好意的。現地には独立派が建てた日本軍の慰霊碑もあり、毎年、慰霊祭も実施されているという。付加すれば、同じモンゴル系として顔かたちが似る日本人に親近感もあるようで、どの人も恐縮するぐらい親切だった。

インパール作戦を多角的に語り継ぐ! [2019年05月21日(Tue)]

インド独立への影響含め現地目線で
激戦の地に6月、平和資料館オープン

旧日本軍が75年前、インド北東部で展開し「史上、最悪の作戦」の代名詞ともなってきたインパール作戦。日本軍が目指したインド・マニプール州の州都インパール市を中心に、戦いの歴史を後世に伝える動きが広がり、日本財団の支援で「平和資料館」も完成、6月22日に開所式が行われることになった。

補給を軽視した戦いが「戦史上、例のない無謀な作戦」であった事実は今後も動かないが、インド独立などに微妙な影響を与えたのも事実。飢餓と病で非業の死を遂げた多くの兵士のためにも、インパール作戦とは何だったのか、新たな側面を含め、現地目線で多角的に後世に伝えられるよう望みたい。

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「レッドヒル」の麓に完成した平和資料館

インパール作戦は1944年3月、日本がビルマ(現ミャンマー)の防衛と中国・蒋介石政権に対する連合国軍の補給路「援蒋ルート」を断つ目的で開始した。英国からの独立を目指すインド国民軍(INA)約6千人も加わり日本軍は約9万人、対する連合国軍は英軍に豪軍、英国傘下のインド志願兵も含め約15万人。太平洋戦争で最も激しかった戦争の一つとされている。

資料によると、第31師団が北方からマニプール州の隣ナガランド州の州都コヒマ、第15師団と33師団が東方と南方から駐留英軍の拠点だったインパールを目指した。コヒマには到達したものの、食料や武器・弾薬の補給が確保できないままインパールを目前に7月3日、大本営が作戦中止を決定。航空機や火器など圧倒的な装備を誇る連合国軍の追撃の中、雨季を迎えた山岳地を退却し、最終的に3万人が戦死、4万人が戦病死したとされる。

資料館は、インパール市の南西約20キロの「レッドヒル」と呼ばれる小高い丘の麓に建設された。すぐ近くに1994年、旧厚生省(現厚生労働省)が建立したインド平和記念碑がある。44年5月末に子の丘で激しい攻防が行われ、双方合わせ約550人が戦死した。レッドヒルの名は、赤土が多い丘の地質に由来するが、地元関係者は「多数の兵士の血で丘が血で赤く染まり、この名が付いた」とも語る。

10年ほど前から地元の若者ら有志が塹壕の発掘など戦跡を調査、兵士の遺品や資料を集めて私設の資料館を開設し、5年前には駐印日本大使らも出席して70周年記念式典が開催された。こうした機運を受け地元の観光協会を中心に資料館建設計画が進み、日本財団が5000万円を支援、展示スペースや中央ホールなどを備えた8角形の平屋建て資料館が完成した。開所式には地元や日英の関係者、遺族会関係者も出席し記念植樹も行われる。

開館を前に4月上旬、現地を訪れると、「日本兵は食料も弾薬も不足する中、実に勇敢に戦った」、「規律正しく礼儀正しかった」、「強かった」など好意的な声が多く聞かれた。大半が戦いを目撃した高齢者からの言い伝えで、戦後75年を経て当時を知る住民が急速に減ってきたことから、資料館を建設し証言や資料を残すことになった。

戦いの舞台となったインド北東部は、ミャンマーや中国、バングラデシュと国境を接し、インド全体から見ると民族も歴史もやや異なる。マニプール州など計8州には400を超す少数民族を中心に約5千万人が住み、かつて、この地に栄えたマニプール王国はミャンマーにまたがる広大な地域を支配した。しかし英国がインドを植民地とした1880年以降、インドに統合され、1947年のインド独立後、一時的に自治権を回復したが2年後、インドに併合され、その後、独立や自治権の拡大を求める戦いが続いた。

インパール作戦は地元で「Japan War(日本の戦争)」と呼ばれる。インド全体と同様、「英国からの独立の引き金となった」と評価する声が強いものの、複雑な歴史もあって、全体とはやや異なる雰囲気も残しているようだ。直接の戦場となったことで戦いが残した傷跡も大きい。作戦開始1年前には住民8人が死亡する日本軍の爆撃もあった。

資料館計画を進めるマニプール観光協会のハオバム・ジョイレンバ事務局長にこうした点を質すと「戦争である以上、それは仕方がなかったし、戦争を境にこの地も大きく変わり始めた」とした上で、「当時を知る人の証言や資料を少しでも多く集めたい。今、それをしないと民族の歴史を後世に正しく伝える機会を失う」と語った。

戦後75年を経て、残された証言や資料は少なく、特に日本側の資料が不足しているという。戦いを目撃し日本兵と接した体験を持つ住民も急速に減っている。作戦に参加した日本兵、さらにその遺族関係者も既に老境にある。インパール作戦の全体像を後世に多角的に伝えるためにも、少しでも多くの資料が提供されるよう望みたい。
中国 結婚できない「光棍児」 [2019年04月16日(Tue)]

「一人っ子政策」が生んだ男余り
親が奔走する「お見合い広場」



最近、日本でも知られるようになった中国の言葉に「光棍児」がある。結婚したくとも、できない男性を指す。日本でも結婚しない男性が増えているが、中国の場合は背景に1979年から2015年まで36年間続いた「一人っ子政策」が生んだいびつな「男余り」がある。結果、中国では数千人規模のお見合い大会やお見合い番組が花盛り。高価なマンションや高級車の所有など女性が求める結婚条件も厳しさを増しているという。

中国に詳しい知人によると、「光棍」は皮のない木の幹を指す。中国では親を木の幹、子どもを枝葉に例え、多くの子どもや孫に恵まれる状態を「枝繁茂叶」と表現する。皮のない幹(光棍)に枝葉は育たない、つまり子どもはできないということで、特に結婚できない男性独身者を光棍と表現するのだという。

中国・国家統計局が発表した人口動態統計によると、2018年の総人口は13億9500万人。内訳は男性が7億1300万人、女性が6億8200万人で男性が3100万人も多い。女性の平均寿命が男性を大きく上回ることから、いくつかの途上国を除くと、ほとんどの国では女性人口が男性人口を上回る。ちなみに18年、人口1億2640万人の日本は男性6150万人、女性6490万人。女性が340万人多い。

「一人っ子政策」は1970年代末に最高実力者となったケ小平氏の主導で進められた。「人口の多さが中国の経済発展の遅れにつながっている」との判断から、1組の夫婦が生む子どもを1人に制限し、99年の人口を12億人以内に抑えるのを目標とした。

84年秋だったと記憶するが、当時、厚生省担当だった筆者は、日本の無償資金援助で北京に完成した中日友好病院の取材で初めて中国を訪れた。夜、北京の釣魚台国賓館で渡部耕三厚生大臣(当時)ら日本側一行を歓迎する招宴があり、たまたま一人っ子政策が話題となった際、呉学謙外交部長(外相)が「遠い将来よりも明日の中国のためだ」といった趣旨の説明をしたのを記憶する。

30年以上一人っ子政策による厳しい産児制限が続いた結果、農村部を中心に後継ぎとなる男児を望む傾向が続き、胎児が女児と分かると中絶するケースも増えたと言われる。結果、男児の出生数は女児を大きく上回り、例えば今年10歳となる子供で見ると、女100に対し男は121・6と国連が正常値とする102〜107を大きく上回る。光棍児は少なくとも1000万人に上ると見られ、3000万人に上るとの推計もある。

こうした実態を反映して起きているのが大掛かりな「お見合い大会」。5000人近い男女が参加する大会も多く、週末に公園などで行われる「お見合い広場」も盛ん。親同士が子どもの学歴、年齢、身長、職歴、さらに家や車を持っているかなどデータを持ち寄り、互いが気に入れば日本のLINE に当たるWECHATで連絡先を交換し子供にお見合いをさせるのだという。中国に詳しい知人に、中国最大の検索エンジン「百度」で「お見合い番組」を検索してもらうと51番組も紹介され、お見合いが国民的関心事になっている。

一人っ子政策はその後、「一人っ子同士の夫婦に対する第2子の許可(02年)」など段階的な緩和措置を経て15年末に終了、16年から2人まで認める新たな“二人っ子政策”に切り替えられた。30歳以下が基本的に「一人っ子世代」であるせいか、2018年の出生率は1・24と日本の1・43(17年)より低い。第1子でないが故に戸籍を持たない無戸籍者も1300万人近くに上るという。

1人っ子政策を通じて特に女性の子育て感や生き方、価値観は大きく変わった。日本では50歳時点で一度の結婚歴もない生涯未婚率は男性23・4%、女性14・1%(15年の国勢調査)にも上っているが、光棍児の増加、女性の職場進出で中国でも未婚率は確実に増加し、晩婚化も進む。日中両国とも人口が維持される置き換え水準2・07を達成するのは至難の業である。

日本が一足早いとは言え、中国の少子高齢化も急速に進む。一人っ子政策は人口構造への影響などを検討した上で採用されたはずで、傍からとやかく言う話ではないが、国の政策で子ども数を厳しく規制するのはある程度可能かもしれないが、逆に子供を増やすのは、どの国にとっても簡単ではないということになる。
3割が自殺念慮、10人に1人が未遂経験 [2019年03月20日(Wed)]

主な原因に学校、家庭、健康問題
自殺と「いじめ」の関係、数字で裏付け


政府の自殺対策白書や警察庁の自殺統計によると、日本の自殺率(人口10万人当たりの自殺者数)は19・5(2016年)と世界のワースト6位を記録しており、中でも15〜44歳の男性、15〜29歳の女性の死因トップを自殺が占めるなどG7の中でも若者の自殺が目立っている。2018年の統計でも、全国の自殺者数は2万598人と9年連続で減少しているものの、未成年者(15〜19歳)は543人とこの10年間、ほぼ横ばい状態にあり、若者の自殺対策が急務となっている。

そうした中、2016年から「いのち支える自殺対策プロジェクト」に取り組む日本財団が、若年層(18〜22歳)を対象に自殺意識を調査したところ、30%(男性26%、女性34%)が「本気で自殺したいと考えたことがある(自殺念慮)」と答え、11%(男性9%、女性13%)は実際に自殺未遂を経験。その原因として双方とも半数弱が「いじめ」を中心にした学校問題や家族の不和など家庭問題を挙げていることが分かった。

学校、家庭問題とも若者の自殺念慮・未遂との関係が指摘されて久しいが、現実には今ひとつ、はっきりしない面があった。調査チームの高橋義明・アドバイザリーボードリーダーは特に自殺のいじめの関係について「『いじめ』を原因とする19歳以下の自殺に関してはこれまで『学校問題の1%程度』といったデータしかなく、まとまった傾向が数字で示されるのは初めてではないか」と指摘しており、今後の対策を進める上で重要なデータになると見られる。

調査は昨年11、12月、インターネットで行われ、18、19歳662人と20〜22歳2464人から有効回答を得た。内容は多岐にわたるが、原因に関しては自殺念慮と自殺未遂それぞれが回答を寄せ、いずれも学校問題、家庭問題、健康問題、男女問題が上位を占めている。例えば自殺念慮を持つ人では48%が学校問題を原因に挙げ、うち49%はその理由として「いじめ」経験を指摘している。単純計算すると4人に1人弱(23%)の自殺念慮に「いじめ」が影響したことになる。同様に自殺未遂をすることになった理由でも「いじめ」が26%を占めており、「いじめ」対策の強化が自殺対策の大きな要素であることを裏付けている。

このほか22歳以下の男性の42・9%、女性の44・1%が今の社会に「希望が持てない」と回答、23歳以上の男性平均を10・2%、女性平均を7・3%上回っているほか、「自殺はしてはいけないとは思わない」とする回答も22歳以下では男女とも45%前後に上り、それぞれ23歳以上平均を14・7〜18・2%上回るなど、自殺に対する精神的な歯止めの弱さも浮き彫りにされている。

調査チームではこれらの点を踏まえ、若年層の高い自殺念慮・未遂の特徴として@「いざという時に何もしてくれない」、「希望が持てない」といった社会に対する悲観的イメージが高いA「自殺は個人の問題ではない」としながら、その一方で「自殺はしてはいけない」と考えていないB自分を価値ある存在として受け止める自己有用感が低いーいった点を指摘している。

年齢区分はやや異なるが自殺対策白書によると、わが国の20代男性の死因のうち50%、20代前半の女性の40%超を自殺が占める。若年層は高齢世代に比べ悪性新生物(がん)や心疾患、脳血管疾患など疾病が少なく、死因の中で自殺が相対的に高い数字を占めるのはそれなりに理解できる。しかし、今回の調査のように30%が本気で自殺を考え、11%が自殺未遂を経験したとなると尋常な数字とは思えない。

加えて2016年にスタートしたプロジェクト・本調査と比較すると、若年層の自殺念慮30%は本調査で対象となった20歳以上約4万人の平均値25・4%を5%近く上回る。さらに17、18両年の本調査で16年に自殺念慮を持つと答えた人を追跡調査したところ、67〜68%がその後の1年間に再び「本気で自殺を考えた」と答え、16年時点で1年以内に自殺未遂を経験した人の55%が17年、さらにそのうちの77%が18年に新たに自裁未遂を経験していた。

平和で比較的生活も安定している日本の若者に何故、こうした現象が起きるのか。個人の感想で言えば、若年層には自分が何を望み、何を目標にしたいのか、あるいは自分が社会の中でどこまで必要とされているのか(自己有用感)、実感できないまま、不安を共有する相談相手を持たないまま孤立感を深め、自殺念慮や自殺未遂を引き起こしている気がする。

相談相手として、男女とも「両親や祖父母」、「学校(時代)の友人」、「恋人」を挙げ、学校現場で進められる「スクールカウンセラー」が低い数字に留まっている点からも、まずは家族や友人、地域の人びとと気さくに話せる居場所づくりや、親子関係、友人関係の再生を通じ自己有用感の上昇を図る、などの対策が必要な気がする。

現実に実行可能で有効な対策となると思いつかないが、若者の「死にたい」という思いの裏には間違いなく「生きたい」という強い思いがある気がする。調査には詳細で膨大なデータが盛り込まれており、こうした点を含め専門家による本格的な分析と提案に期待したいと思う。

日韓関係 「出口なし」の危険領域に [2019年02月18日(Mon)]

あまりに不用意な国会議長発言
求められる「耳を傾け合う姿勢」


隣国関係、とりわけ日韓関係は難しい。韓国には歴史から来る怨念、あるいは被害者意識の裏返しとでも言うのだろうか、「反日」であれば何を言っても許されるといった風潮があり、日本側から見れば、その主張は常に独善的である。一方の日本には相次ぐ批判に対する苛立ち、“韓国疲れ”からくる「嫌韓」感情が蔓延し、両国関係は改善の糸口が見えないどころか、出口なしの危険な領域に落ち込みつつある。

こうした緊張状態の中では、いかなる発言も慎重でなければならない。その意味で慰安婦問題に関連して天皇陛下の謝罪が必要とした韓国国会・文喜相議長の発言は、国を代表する公人として、あまりに不用意と言わざるを得ない。日本側の反発以外に得るところはなく、日韓関係を一層、悪化させる以上の効果はないからだ。

文議長の発言は2月7日の米ブルームバーグのインタビューの中で行われ、天皇陛下を「戦争犯罪の主犯の息子」とした上で、「そのような方が一度、おばあさん(元慰安婦)の手を握り『本当に申し訳なかった』と一言いえば、(慰安婦問題は)すっかり解決するだろう」と述べたとされ、ブルームバーグはビデオも公開した。これに対し日本政府は「甚だしく不適切」と抗議、撤回を求める事態に発展している。

文議長は2004年から08年まで韓日議員連盟会長を務めた“知日派”とされ、その後の報道によると「重要な地位にある指導者の心からの謝罪を強調する流れで出た表現」と釈明、日本で反発が起きている点について「両国間の不必要な論争は好ましくなく、起きてもならない」と語った。前後して姜昌一・韓日議員連盟会長はソウルを訪問した額賀福志郎・日韓議員連盟会長に対し「文議長は韓日関係をうまく築いていこうという趣旨で述べた」と説明している。

天皇陛下の謝罪を求める発言は以前にも李明博元大統領が行い日本の反発を呼んだ。現実に謝罪が実現する事態は有り得ないが、仮に理屈の上で在り得たとしても、日本の世論の多くは過去の日韓交渉の経過からも「韓国側の日本批判、要求をエスカレートさせる以上の効果を持たない」と否定的に反応する。文議長は長い政治経験から、こうした点を十分に熟知しているはずで、いたずらに反発を煽るような表現とともに感心しない。

日韓関係は日本企業に賠償を命じた昨年10月の韓国大法院(最高裁)の徴用工訴訟判決以降、一段と冷え込み、日本側は日韓請求権・経済協力協定に基づく協議を求めているが韓国側の態度表明はなく、文在寅大統領が何を考えているかも分からない。大法院判決を受け原告団が韓国内で差し押さえた日本企業(新日鉄住金)資産を現金化する動きも始まっており、今年100周年を迎える3・1独立運動のイベントでは声高に反日が叫ばれることになろう。

大法院判決について、文大統領は三権分立の原則からも尊重せざるを得ない、としている。大法院判決があるから動けないのか、大法院判決を理由に動きたくないのか、残念ながら知る立場にない。しかし、徴用工が新日鉄住金に未払い賃金の賠償を求めた訴訟はソウルに先立って米カリフォルニア州、続いて東京でも提起され、いずれも1965年の日韓請求権・経済協力協定で解決済みとして請求が棄却されている。司法判断を尊重するのであれば、これが日本の司法判断であり、日本も同様に動きが取れないことになる。

文議長発言をめぐっては2月15日、ドイツで行われた日韓外相会談で河野太郎外相が「不適切で遺憾」と伝えた、としている。これに対し、韓国側は「抗議を受けた事実はない」として、ここでも食い違いを見せ、徴用工判決と同様、日韓間の新たな火種になりつつある。河野外相が会談で何も触れなかったとは考えにくく、耳を傾け合う姿勢が希薄になっているのではないか。

近年、貿易額の低下など、日韓両国とも経済面での相手国の重みは相対的に低下しつつある。この辺りに両国が冷静に話し合う余地が生じて来るのではないか。隣国関係が難しいと言っても、一方的に対立するだけでは互いにマイナスでしかない。未来志向の関係を模索する動きは双方にある。今後の動きに注目したい。

両国関係を翻弄する政治の現実を憂慮する [2019年01月11日(Fri)]

「反日」、「嫌韓」緩和の兆しは十分にある
未来志向目指す以上、冷静な話し合いを



日韓間の懸案となっている元徴用工問題について韓国の文在寅大統領は10日の年頭会見で、朴槿恵前政権時代の韓国大法院(最高裁)が故意に徴用工訴訟の審理を引き延ばそうとしたとされる疑惑の捜査が行われている点を取り上げ、「もう少し(状況が)整理されるのを見守ってから判断しなければならない」と早期解決に消極的な姿勢を見せた。

これに伴い元徴用工への賠償を命じた昨年10月の大法院判決以降、深刻化している日韓関係の悪化が長期化する恐れが出てきた。ここ数年、慰安婦問題などで両国関係が冷え込む中でなお、日本を訪れる韓国人観光客が飛躍的に増え、落ち込んでいた韓国への日本人観光客も上向きに転ずるなど、民間レベルの「反日」、「嫌韓」に改善の兆しが見えていただけに残念であり、両国関係を翻弄する政治の現実を憂慮する。

会見で文大統領は、請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」と明記された日韓請求権・経済協力協定(1965年)について、「解決されていない問題が今も続いている」、「それは韓国政府が作り出した問題ではない。過去の不幸な歴史のために作られている問題だ」などとする一方、日本の政治家や指導者が「しきりに(徴用工問題を)政治争点化している」と批判、「日本政府はより謙虚な姿勢であるべきだ」と述べた。

日韓両国が新たな外交関係を樹立した日韓基本条約や日韓請求権・経済協力協定締結に至る過程は論点が多岐にわたり専門家の議論に委ねるが、その上であえて私見を述べれば、交渉の過程では日本による植民地支配の評価を含め日韓両国政府が激しく対立し、最終的に日本が無償3億ドル、借款2億ドルの経済援助をすることで決着したのは、ひとえに双方の“妥協の結果”であった。問題となっている個人請求権問題は無償3億ドルに含まれており、文大統領の先輩格に当たる廬武鉉政権も2005年、そうした結論を出している。

“交渉の果実”をどう活用するか、それはそれぞれの国の判断であり、時の朴正煕大統領は資金をダムや道路などインフラ整備に充て“漢江の奇跡”と呼ばれる経済成長を実現した。従って、まず問われるべきは、個人補償より国の発展を優先させた朴大統領の政策の是非であり、換言すれば韓国の国内問題である。

条約や協定を交わした以上、守られなければ国と国の関係は成り立たない。現に両国が批准する「条約法に関するウイーン条約」は「合意は守られなければならない」と明記し、日本国憲法も98条で締結した条約の誠実遵守を定めている。

個人的には、企業の出資で基金を設立して関係者に“和解金”を支払うような方法も有り得る思ったが、現実には日本政府の予算を基に元慰安婦への支援事業を行ってきた「和解・癒やし財団」を韓国政府が自ら解散したことで、この可能性が閉ざされる形となっている。その後、韓国海軍駆逐艦による火器管制レーダー照射問題、大法院判決を受けた新日鉄住銀の資産差し押さえも加わり両国関係はさらに緊張感を高め、傍でみる限り両国政府とも冷静さを欠いている。

一方で2017年、日本を訪れた韓国人観光客は5年前の約3倍、714万人と過去最高を記録、韓国を訪れる日本人観光客も231万人とピークの2012年の約65%に留まるものの16、17両年は増加に転じており、その後の公式数字は確認できていないが、少なくとも昨年夏まではこの流れが続いていた。

距離の近さや格安航空券の普及、在韓米軍のTHAAD(高高度防衛ミサイル)配備に伴う中韓関係の悪化など様々な要因が考えられるが、それにしても驚異的な増加で、韓国紙には「猟奇的な勢い」といったネットの書き込みが紹介されている。専門家の意見もまちまちだが、政権に近い韓国の知人の話などを総合すると、「慰安婦や徴用工など歴史問題に対する韓国人の関心が日本人の想像より低い」、「歴史や政治問題と観光は別と割り切り、日本観光を楽しむ韓国人が増えている」、「歴史問題とは切り離して現在の日本の姿を冷静に見る世代が増えている」の3点に大別される気がする。

受け取り方によっては、少数の強硬意見が韓国社会を主導する姿が見える気もするが、いずれにしても“政治”を離れれば両国関係が改善される受け皿は十分にあるということであろう。日韓両国とも「未来志向の両国関係」を目指すという。反目し合うことで、それが実現することは有り得ない。日本が日韓請求権・経済協力協定に基づき申し入れた2国間協議の場もある。忌憚のない意見交換を通じて冷静な解決策を目指すべきである。
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