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四季折々の雑記

 05年夏まで在籍したマスコミの世界は極力、主観を排した客観報道を原則とした。しかし真の意味で「客観」を実現するのは報道の現場に限らず難しい。ブログと言うには程遠いが、忘れない程度に自分の想い、時に意見をささやかに書いていくつもりです。


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「養子の日」(4月4日)に思う [2015年04月23日(Thu)]

衝撃の生い立ち サヘル・ローズさん
特別養子縁組 SIBにも期待


 特別養子縁組の普及に向け4月に開催された企画で強く印象に残った点がふたつある。ひとつは「養子の日」の4月4日、日本財団などが東京・渋谷で開催したイベント「すべての赤ちゃんに温かい家庭を」でイラン出身の女優サヘル・ローズさんが語った「母と子」の壮烈な人生。もう一つはソーシャル・インパクト・ボンド(SIB)を活用して養子縁組の促進を目指す日本財団と神奈川県横須賀市のパイロット事業=4月15日に調印=に対する期待だ。

サヘル・ローズ1.jpg

「養子の日」のイベントで講演するサヘル・ローズさん

 まずサヘルさんの生い立ち。2008年に出版されたサヘルさんの自叙伝「戦場から女優へ」や多彩な女優・タレント活動をめぐるWeb上の関連記事などで「知る人ぞ知る」話のようだが、関連記事で本人が「もしかしたら、これは作り話じゃないの、と思われる方がいるかもしれない」と語っているように、初めて聞いた筆者には驚きであり衝撃であった。

▼母となる女性との奇跡の出会い

 当日の本人のスピーチなどを基に再現すると、サヘルさんの「これまで」は概略、以下のようになる。

 イラン・イラク戦争さなかの1989年、サヘルさんが住んでいたイラク国境近くの村はイラク軍の空爆を受け、土を塗り固めて乾燥させただけの生家は全壊、一緒に住んでいた両親と11人の兄姉は全員死亡し、瓦礫の下で奇跡的に生き延びたサヘルさんは爆撃から4日後、テヘランから駆け付けた救助隊に救出された。

瓦礫の中から、わずかにのぞくサヘルさんの小さな手に気付いたのが、救助隊にボランティアとして参加していたテヘラン大学生フローラ・ジャスミンさん、後にサヘルさんの母となる女性だった。4歳で孤児院へ。当時の名はナイゲス。孤児院では週1回、孤児たちが、きれいな服を着て一列に並び、大人の面接を受けた。「養子にするための一種のオーディション。皆がライバルで、取り残されるとペットショップで売れ残った心境だった」(サヘルさん)。

3年間、引き取り手がなかったが、7歳の時、孤児院のテレビコマーシャルに出演する機会があり、これを見たフローラさんがサヘルさんに気付き孤児院に。フローラさんに向かって「お母さん」と呼ぶサヘルさんを見て、引き取る決意を固めた。しかしフローラさんの実家は身分が高く「家柄に傷がつく」と勘当され、苦難の生活が始まる。

婚約者が日本にいたことからフローラさんは8歳になったサヘルさんを連れ日本に。しかし婚約者との生活は程なく破たんし二人は一時期ホームレスの生活も。赤貧の生活の中で試食コーナーの食べ歩き、サヘルさんは入学先の埼玉県の小学校でいじめも体験した。

見かねた小学校の給食担当の女性が食事の提供やアパートを紹介し、フローラさんもイラン人が経営するペルシャ絨毯の会社に職を得て苦しいながらも次第に生活も安定、サヘルさんも都立高校に進み、タレントとしてラジオやテレビでの活躍の場を広げた。

空爆で一人取り残されたサヘルさんに生年月日や本名の記憶はなく、「サヘル・ローズ」はフローラさんの命名、アラビア語で「砂漠のバラ」といった意味という。イランでは子供の引き取りを認める条件の一つに「子どもを産めない」の1項があり、フローラさんがサヘルさんの引き取りに当たり闇の病院で “子供を産めない体”になったことをサヘルさんは18歳になって初めて知る。

「私がいなかったら母は普通の結婚をして家族を持っただろう。母の人生を台無しにした」、「彼女のお陰で私の今がある」、「母と出会って夢を持つことができた」―講演のスピーチでもサヘルさんの口から「母」に対する感謝の言葉が何回も出た。

 当のフローラさんはその後、両親との関係も修復し、年に一度はイランにも帰国、「多くの人が助けてくれた日本で最期を迎えたい」とも語っているという。サヘルさんの夢はイランでの児童養護施設「サヘルの家」の建設とオスカー賞を受賞して母に手渡すことだという。

▼“お帰り”と言ってくれる人がいる幸せ

 一方、SIBは2010年に英国で開発され、民間投資を活用して社会課題に取り組み、一定の成果が挙がれば行政が投資家に利子を付けて事業費を償還する仕組み。現在、米国やカナダ、オーストラリア、韓国などで取り組まれているが、歴史が浅く、具体的な成果の報告例はまだないようだ。尽きるところ、民の活力を利用して良質なサービスを実現する一方で、国や自治体の負担の軽減を図る手法と理解する。

今回は日本財団が資金を提供し、養子縁組に取り組む一般社団法人が来春までに計4件の特別養子縁組の実現を目指す。現実にSIBの手法でこうした問題の解決が可能か、実験的に取り組むのが狙い。広く軌道に乗れば、「公」の財政が悪化する中、社会課題の新しい解決法になると期待する。

優良な投資家と事業の実施主体となる団体の確保がカギとなろうが、特に後者は近年、日本でも確実に活動団体が増えている。特別養子縁組に限って言えば、日本では乳児院と社会養護施設で3万人を超す子供が暮らし、一方で養子縁組を求める夫婦が1万組も存在する。

乳児院や児童養護施設の職員が日々、努力しているのは理解するが、子供が「母」の元で暮らすのが何よりも幸せであるのは言うまでもない。ましてサヘルさんが生まれた中東では複雑な政治情勢の中、サヘルさんと同様、あるいはそれ以上に過酷な運命に翻弄されている子供たちが多数いる。

 サヘルさんは「家に帰った時“お帰り”と言ってくれる母がいる幸せ」との表現で母の存在の大きさを語っている。サヘルさんの夢の実現とともに、特別養子縁組の分野でも、SIBの手法が確実に成果を上げる日を期待したい。(了)
フィリピン残留2世 国籍問題 [2015年03月29日(Sun)]
何故、国は動かないのか!
戦後70年、時間との戦い


何故、解決に向け国が動かないのか、理解し難い戦後処理問題のひとつにフィリピン残留2世の国籍問題がある。新聞、雑誌も含め、これまで何度か書いてきたが、3月30日には「日本・フィリピン友好議員連盟」(小坂憲次会長)が親族対面で来日中の残留2世から話を聞く場も設けられている。あらためて国に前向きの対応を求めたい。

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(チェリーさんの身元判明の手掛かりとなった両親の結婚写真。父親の戸籍にチェリーさんの名はなく、日本国籍取得には就籍手続きが必要となる)

残留2世の国籍問題は、慰安婦問題や南京事件のように“真実”をめぐる争いがあるわけではなく、2世が本来的に日本国籍を持つのもはっきりしている。しかし父親の日本戸籍に2世の名前が登載されているような場合を除き、日本国籍を取得できるのは、家庭裁判所に新たに戸籍をつくる「就籍」の審判を申し立て、これが認められた場合に限られる。仮に父親の身元が判明しても、審判では親子関係を裏付ける客観的証拠がなければ認められない。

フィリピン政府と協議を

戦後、現地に取り残された2世と母は「敵国人の妻」、「敵国人の子」として時にゲリラの襲撃目標にもなり、逃亡生活の中で夫婦関係や親子関係を裏付ける結婚証明書や出生証明書を自ら捨て去ってきた経過もある。戦後半世紀以上も“忘れ去られた存在”であった2世たちに戦後70年を経た現在、新しい証拠の提出を求めるのは無理の強制にほかならない。

参考となる解決法として、敗戦の混乱の中で同様に現地に取り残された「中国残留孤児」のケースがある。政府は日中国交回復の高まりを受けた1974年、孤児問題の早期解決に向け中国政府と口上書を交わすとともに「中国残留邦人支援法」などを整備、就籍の申し立てを受けた家庭裁判所も中国政府が作成した孤児名簿に登載された孤児の就籍に前向きに取り組み、既に1300人余の孤児が日本国籍を取得している。

残留2世の場合も近年、フィリピン政府が現地日系人会の調査などを通じ父親が日本人と確認された2世について「認証証書」を発行している。残留2世に関しても支援法を整備するなり、政府がフィリピン政府と協議して認証証書を活用し就籍を加速させる方法が当然、検討される必要がある。

国が何故、そこに踏み込まないのか。一部には中国残留孤児と残留2世の違いを指摘する向きもある。前者が満蒙開拓団など国策によって旧満州地域(中国東北部)に渡った両親ともに日本人の子供であるのに対し、後者は自由意志でフィリピンに移住した日本人男性と現地女性の間にできた子供であり、同列には論じられないというわけだ。

しかし、ともに戦争が生んだ悲劇であり、当時、日本、フィリピンとも国籍法は父系主義を採っており、父親が日本人である以上、その子は当然、日本国籍を持つ。フィリピンは7000を超す島からなり実態把握が遅れたといった面もあるようだが、外務省が最初の調査に乗り出したのは1993年、既に終戦から48年も経ており、当然、資料も散逸し記憶も風化している。

▼3500人の名簿

国籍取得を支援する「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(PNLSC)の最新の調査結果によると、これまでに残留2世と確認されたのは3545人。既に1599人は死亡しており、生存は809人、残る1137人の生死は不明で現在も調査中だ。

2664人の身元が判明しているが、881人が未判明。父親の戸籍に名前があった2世や東京家裁で就籍が認められた147人を含め計1058人が日本国籍を取得、2283人は父親の名前などが分かったものの戸籍に本人の名前はなく国籍は得られていない。残る204人は父親が日本人と判っているが、その手掛かりは得られていないという。

こうした状況からPNLSCでは当面、身元が判明しながら裏付け証拠がなく国籍が取得できていない917人と身元が全く分からない282人の調査を急ぐ必要があるとしている。しかし、このうちの140人とは連絡が取れていないのが現状で、全体的な情報不足が問題解決を遅らせてきた一因でもある。

加えて残留2世はフィリピン国籍も持たず無国籍状態。フィリピンでの生活は「非正規滞在」に当たり、日本国籍を取得できた場合は、それに対する罰金という新たな問題も発生する。こうした問題は国が前面に立ち、両政府間で解決するしかない。

3545人に関してはPNLSCが現地日系人会の協力などを得て「名簿」作成を進めている。日比両政府が中国残留孤児と同様、「名簿」登載者を残留2世と認め、その上で訪日調査など肉親探しを進めれば、問題解決も前進する。

この度、熊本市の親族と対面したチェリー・トゴウ(都甲)・ラフォルスさんは75歳。戦後70年を迎え残留2世は老境にあり、「日本人の証」を求める彼らの願いは時間との戦いになっている。

これまで2世の国籍回復は、PNLSCとこれを支援する日本財団を中心に民間で進められてきた。しかし、「民の力」には限りがある。問題の性質からも、国が前向きに取り組まない限り、2世たちの生存中の解決は難しいし、そうした理屈は誰が見ても明らかだ。仮に正面から取り組むことができないのなら、少なくとも、その理由は公的にも明らかにされなければならない。(了)


”薄幸”の女性と川端康成 [2015年02月26日(Thu)]
笹川良一との少年時代
ハンセン病がつなぐ不思議な運命

 東京都内で1月末に開催された講演会「文芸で見るハンセン病」を傍聴して気になっていたことがある。「川端康成に支えられた作家」のサブタイトルが付された講演会は、自身のハンセン病体験を基に「いのちの初夜」を書いた北條民雄とノーベル文学賞作家川端康成の関係がメーンテーマとなった。

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1月30日に開催された「文芸で見るハンセン病」パンフ

北條は「いのちの初夜」が雑誌「文学界」に発表された翌年(1937年)、24歳で夭逝するが、川端は文学界への発表だけでなく、北條の死後も全集の出版に奔走し、ノンフィクション「火花」で北條の生涯を描いた作家高山文彦氏は、川端の姿を「異常なまでの尽力」と表現した。

話はやや外れるが、川端康成と日本船舶振興会(現・日本財団)初代会長の笹川良一は大阪府三島郡豊川村(現在は箕面市と茨木市に分村合併)の尋常高等小学校の同級生だった。工藤美代子氏の「悪名の棺 笹川良一伝」(幻冬舎)などによると、川端は1899年、大阪府大阪市北区此花町に生まれた。2歳の時に開業医だった父・栄吉、3歳の時に母・ゲンが亡くなり、祖父・三八郎と祖母・カネとともに原籍地の大阪府三島郡豊川村に移り1906年、豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学した。

 笹川家は豊川村の西に位置する小野原、川端家は東の宿久庄にあり、「両家の距離は約1里で、ほぼ中間に小学校があるという位置関係」(「悪名の棺」)だったが、良一の父・鶴吉と三八郎が碁敵として親交があり、笹川良一と川端康成も頻繁に行き来し、川端が旧制茨木中学校(現大阪府立茨木高校)を卒業するまで親しい関係が続いたようだ。

 ここで登場するのが笹川良一とハンセン病との出会い。3男の笹川陽平・日本財団会長は著書で以下のように記している。
「父は、生家の近くに住む、ある美しい娘さんに思いを寄せていた。父の初恋だったようだ。その娘さんがある日とつぜん、失踪してしまった。噂によれば、『ハンセン病にかかった』というのが失踪の理由であった」、「このことに、若き日の父は大きな衝撃と同時に、怒りを覚えたようだ。・・こうして、青年だった父の胸に『いつか、きっとハンセン病をやっつけてやる』という決心が生まれた」(幻冬舎「残心」)。

「父の子供時代、家の近くにライの患者がいる家がありました。その家には美しい娘さんがいましたが、好きな人と結婚できず、悲嘆にくれて行方不明になりました。それを見て父は、『大きくなったらライをやっつけなくてはならない』と決心したのです」(「知恵ある者は知恵で躓く」クレスト社)。

 「父の子供時代」というのが何歳の時で、当時「美しい娘さん」がどの程度の歳か、同じ話が記載されている他の著作を見てもはっきりしないが、「好きな人と結婚できず」の記述からも10歳ぐらいは歳上で、笹川良一が抱いていたのは「初恋」というより、美しい年上の女性に対する「憧れ」に近い想いだったのではないか。

 一方「美しい娘さん」と川端康成の関係は一切触れられていない。しかし川端康成と笹川良一との交遊や狭い地域社会を考えれば、川端もこの女性の存在を知っていたと考えるのが自然だ。川端康成は両親に続いて小学校時代に祖母、姉を亡くし、15歳の時には祖父三八郎も亡くなり“孤児”となった。

「ひよわで感受性の強い子どもだった」(佐藤誠三郎著「笹川良一研究」・中央公論社)川端康成が孤独な日々の中で美しい娘さんの“薄幸”に傷つき、その後も永く“悲しい思い出”として記憶の中に持ち続けたのではないか。

 川端康成は北條民雄の他にも多くの若手作家を育てており、一連の「尽力」はもちろん北條の才能にほれ込んだのが一番のきっかけであろう。しかし高山氏が言うように異常なまでの支援の裏には、そんな関係もあったような気がしてならない。

 となると「美しい娘さん」は、一方で笹川良一を世界のハンセン病の制圧に走らせ、他方で川端康成を通じハンセン病作家・北條民雄を大成させたことになり、3者の関係に不思議な運命さえ感じる。

 笹川良一と川端康成は高等小学校卒業後、別々の道を歩み離れ離なれとなるが、戦後、交流を復活、「残心」には「(二人の間で)ハンセン病に関することや、・・ひょっとしたら、なつかしい故郷の話とともに、とつぜん行方不明となった父の初恋の女性のことも話題になったであろう」と記されている。

 「美しい娘さん」に対する川端康成の思いはあくまで筆者の想像である。しかし十分にあり得た話と考えている。(了)
ハンセン病差別を思う [2015年01月31日(Sat)]
今や“多くの病気の中のひとつ”
ハンセン病 差別を後世の教訓に


 「世界ハンセン病の日」(1月最終日曜日・25日)に合わせ、国際シンポジウムや写真展、街頭キャンペーンなど多彩な催しが展開された。今回は偏見・差別の撤廃を訴える10回目のグローバル・アピールが東京で発表されたこともあって国内の関心も高く、天皇、皇后両陛下も28日、アピール宣言式典に出席した内外の回復者を御所に招き懇談されるなど異例の対応をされた。

▼両陛下、回復者とご懇談

 進行すると末梢神経や皮膚が冒され、手足の指や顔面が変形するハンセン病は有史以来、「業病」などとして恐れられてきた。しかし1980年代、3つの薬を併用する新しい治療法(MDT)が開発されたことで、「不治の病」から「治る病気」となり、世界で約1600万人の患者が回復、現在の患者数は20万人前後と推定されている。日本では全国13カ所の国立療養所で1750人前後の回復者が暮らすが、新たな患者の報告例はないようだ。

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       立ハンセン病療養所、大島青松園(香川県)=「世界ハンセン病の日」関連企画、
       富永夏子写真展「ハンセン病を考えることは人間を考えること」から。「あの島か
       ら出ることが許されないとしたら、あなたはどうしますか?」のコメントを付し、
       偏見・差別の実態を問い掛けている。

 早期に発見すれば完全に治癒し、その限りでハンセン病は今や「多くの病気の中のひとつ」に過ぎない。にもかかわらず、回復後も「元患者」として引き続き差別続くところにハンセン病の特殊性があり、患者が最も多いインドでは回復者やその家族が結婚や教育、就職などで依然、深刻な差別を受けている。

 ハンセン病は長い時間をかけて症状が進行し、指や顔に変形をもたらし、視力を奪う。MDTの開発まで有効な治療法はなく、有史以来、染み付いた恐怖に加え、近世、各国が採った隔離政策が余計、偏見を加速した。明治時代に隔離政策が始まった日本は大正初期にハンセン病患者への優生手術、いわゆる断種も始まり、昭和に入っても「無らい県運動」の名の下、人口中絶の対象にハンセン病を明記した優生保護法が成立するなど、1996年に「らい予防法」が廃止されるまで徹底した根絶策がとられた。

 「治る病気」、「多くの病気の中のひとつ」となった現在も深刻な差別が続く現状は、人類が引き継いできた「負の遺産」の根深さを示す。ハンセン病に対する偏見・差別は、社会のあらゆるところに存在する偏見・差別の原点でもある。患者・回復者が受けてきた悲惨な歴史は、あらゆる差別をなくすための教訓として人々に共有され、後世に引き継がれた時、ようやく意義を持つ。

 式典関連のシンポジウムでも「悲惨な歴史は人類が持つ偏見をなくすための財産」、「ウネスコの世界記憶遺産として広く後世に伝えるべきだ」といった声が出席者から出された。その通りだと思う。未知の病気は今後も必ず登場し、治療法が確立しなければ人類はパニックに陥り、新たな差別を生む。最近のエボラ熱騒ぎも、そのひとつであろう。何千年にも及んだハンセン病差別から、人類が学ぶべき教訓は多い。

 それにしても両陛下の手厚いご対応は関係者にも驚きだったようだ。両陛下はこれまでも全国立療養所を訪問されるなどハンセン病に強い関心を持たれ、世界ハンセン病の日に先立つ13日には、WHO(世界保健機関)のハンセン病制圧大使を務め、今回のグローバル・アピール宣言式典を主催した笹川陽平日本財団会長から直接、ハンセン病の現状などについて、ご進講を受けられた。

 28日には国内や米国、フィリッピン、インドネシアなどから式典に出席した内外の回復者8人を御所に招かれ、一人ひとりと握手し、励ましの言葉を掛けられた。全員が「前向きに生きていく力をいただいた」、「自分の国では有り得ない事態」などと感動を語り、インドのハンセン病回復者協会(APAL)のヴァガヴァタリ・ナルサッパ会長は「これまで家族からも社会からも手を握られることはなかった。両陛下から握手してもらった瞬間、すべての痛みが消えた」と感激の表情を浮かべた。

 筆者は記者時代も皇室を担当した経験はなく、近年の皇室情勢にも疎い。しかし今回は、皇室が持つ重みとでもいうのだろうか、形容しがたい存在感を垣間見る思いがした。(了)

江戸の香り [2014年12月26日(Fri)]
全国に意義が共有されてこそ!
勢いづく江戸城天主再建


 江戸城天守再建を目指す動きが2020年の東京五輪開催決定で勢いづいている。アドバイザーをしている日本財団の笹川陽平会長が4年ほど前、産経新聞の「正論」で同じ提案をした経過があり、筆者も本ブログでロマンあふれる計画として歓迎する意見を述べたことがある。

そんな経過もあって今月、東京都内で開かれた会合で認定NPO法人「江戸城天守を再建する会」の太田資暁会長と同席する機会があり、建設の意義を広く全国で共有するためにも、「観光大国を目指す日本の新しいシンボル」のほかに「新しい時代を切り開く伝統技術の集大成」を前面に押し出し、完成目標も2020年にこだわることなく“東京五輪後の新しい国家目標“とするのは如何か、個人の意見としてお伝えした。

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江戸城天主再建について語る太田資暁会長
(12月20日、都内で開催された「探見」読者望年会で)

世界の大都市には英国のバッキンガム宮殿、パリのルーブル美術館、北京の紫禁城など国のシンボルとなる歴史的建造物があり、ベルリンでも第2次大戦中の空爆で廃墟となった王宮の復元工事が始まっている。江戸城天守閣が再建されれば日本を代表する観光資源になるのは間違いない。

 しかし日本は今、1000兆円を超す借金に伴う国家財政の悪化、世界に先駆けた超高齢化社会への移行に伴う医療・社会保障費の急増、少子化による人口減少といった難問を抱え、ともすれば国全体が内向き、縮み思考にある。

とりわけ地域社会崩壊の危機に直面する地方からはかねて「公共投資やインフラ整備が首都圏に偏重している」といった不満が出ており、江戸城天守閣の再建に対しても “またしても東京か”といった反発が出かねない。国のシンボルとするには、地方もその利益を実感できる何かが必要だ。

再建する会の構想では、3代将軍家光が1638年に完成させた5層6階の「寛永度天守」を木造で忠実に再現するとしている。戦後、各地に再建された鉄筋コンクリート造りの城の劣化が問題となる中、法隆寺など伝統建造物を見るまでもなく、木造建築の耐用年数が鉄筋より優れているのは間違いないようで、この選択は正しい。

東日本大震災で深刻な被害が出た各地の神社仏閣の修復で明らかになったように伝統建築の技術を伝える匠は急速に減っており、天守閣再建となれば全国から専門家が集まり、結果的に最高の技術が集約される。外壁から内装までさまざまな工芸技術も当然、保存対象となる。

資源枯渇時代を迎え、社会は均質な商品の大量生産から個性を持った商品が尊重される時代に移る。高度な日本の伝統技術は間違いなく新しい時代を支える力となる。江戸城天守閣の再建は未来を切り拓く意味を持ち、その利益は全国に及ぶ。観光のシンボルとしての価値も上がり、国際的な学術会議の格好な場所にもなる。楽天的といわれるかもしれないが、江戸城再建にそんな夢を託している。

このほか天守閣建設が予定される皇居東御苑の台座(天守台)の大きさや歴史文化財としての扱い、皇居西ノ丸との位置関係、木造建築について3階建てまでしか認めていない建築基準法との調整など課題は多い。特に1657年の明暦の大火で寛永度天守が焼失した後、加賀藩が修復したとされる現在の台座は高さ11b、東西41b、南北45bの大きさで、城の設計図ともいえる建地割図に「高さ14b」と記述されていることなどから「この上に果たして45bの巨城が建てられるのか」といった声もある。

多くの専門家が研究されており、そうした議論を通じて天守閣再建に対する関心が一層、高まるよう期待する。再建する会では「建設費350億円、東京五輪開催に合わせ完成」を目標とされているようだが、伝統文化の集大成として完成させるには恐らく1000億円は掛かる。趣旨からいって建設費は浄財(寄付)で賄われるべきで、完成目標ももう少し遅らせ「東 京五輪後の新しい国民の目標」と位置付ける選択肢もあるのではないか。

国際社会は今、世界に先駆けて超高齢化社会が深化する日本がどのような新しい社会をつくるか注目している。江戸城天守閣の再建は、運びように行っては新しい時代の社会モデルを担う一つとなるような気さえしている。(了)

冷え込む日中関係の中で [2014年11月28日(Fri)]
冷静で多様な意見こそ将来の財産
冷え込む日中関係の陰で


 中国・北京のアジア太平洋経済協力会議(APEC)で実現した安倍晋三首相と習近平国家主席の初の首脳会談で習国家主席が見せた不愛想な表情がひとしきり話題となった。日本国民は不快感を覚え、国際社会も慣行を無視した会議主催国の態度に「?」を付けた。

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団体戦で優勝した洛陽外国語学院チーム

 二人の相性が悪かった可能性もあるが、安倍首相を「危険な軍国主義者」などと批判して会談を拒否してきた習国家主席としては、「気が進まないが会談」であることを最大限、国民向けに演出する必要があったのだろう。

各種調査で「嫌中」、「反日」ばかりが目立ち極限まで冷え込んだ日中関係も、尽きるところは、こうした政治の現実が集積した結果であろう。しかし言論NPOが9月に公表した日中共同世論調査結果で日本人の8割、中国人の7割は現状を「望ましくない」、「改善が必要」と指摘した。政治とは別に冷静な意見が存在するのも間違いのない現実である。

▼盛り上がる高倉健さん追悼
 
11月下旬、北京を訪れ、俳優・高倉健さんの訃報に対する異例とも言える追悼報道や22、23の両日、北京大学で開催された日本知識クイズ大会での日本に対する中国の若者の強い関心を見るにつけ、あらためてそんな思いを強くした。
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2日間にわたって予選、決勝を行った

 高倉さんの訃報は11月18日、国営テレビが速報し、テレビが追悼番組を組んだほか、10ページ近い大特集を組んだ新聞もあり、中国版ツイッターには「友情を持って中国に接した」、「神様のような男性だった」などの書き込みが溢れ、中国外交部の報道官も記者会見で「日中の文化交流に重要な貢献をした」と死を悼んだ。

 1970年代に大ヒットした高倉さん主演の「君よ憤怒の河を渡れ」は文化大革命後、中国で初めて公開された外国映画。高倉さんは改革開放初期世代のアイドル的存在となり、当時、この映画を見た人は「女性にとっても男性にとっても理想の人物像だった」と語り、APやAFPの北京電もこうした中国の反応を驚きを持って伝えた。

▼日本知識大会に89大学参加

 一方、クイズ大会は1999年から中国の大学への日本図書寄贈プロジャクトに取り組んでいる「日本科学協会」(大島美恵子会長)が中国青年報社などの協賛を得て各大学と共催しており正式名称は笹川杯全国大学日本知識大会。10回目に当たる今回は、これまで最多の89大学が参加、日本の歴史や地理、文化、芸能など幅広い分野の知識を争った。

 日本の森林率や皇族の選挙権など難問が多く、図書寄贈プロジェクトで最多の36万冊の寄贈を受け、5000人が日本語を学ぶ旧満州・遼寧省の大連外国語大学では、学内にクイズ大会に備えた研究会もある。学生にとって日本知識を身に付けることは、大連に進出している日本企業に就職する近道でもあるようだ。

 大会を見学した韓国・延世大学の金基正、金世振両教授も「韓国でこうした大会を実施するのは難しい」としながらも、“知日家”を育てるには「Good Ideaだ」と企画に関心を示した。会場の学生からも「政治とは別に若い世代で民間交流を進めたい」、「小さい時からアニメを通じて日本に親しみを持っている」、「友好こそ互いの国の利益になる」など前向きの声が多く聞かれた。

 中国には全体で約2300を超す4年制以上の本科大学と3年制以下の専科大学があり、506大学に日本語学科が設けられており、24万人が日本語を専攻する。専門学校や課外活動も含めると日本語を学ぶ若者は世界でも断トツの約68万人に上る。

 現在の大学生は1990年代に強化された反日愛国教育の影響を色濃く受ける。国と国の関係が政治・外交の大きな影響を受けるのは、どの時代も同じで、グローバル化がその動きを加速している。

そうした中で両国関係を冷静に見つめる多様な意見、もちろん日本にもそうした目線を持った若者は多数いる。こうした“財産”をじっくり育てていく以外、両国の友好に道を拓く方法はないのではないかー。北京を訪れ、そんな思いを強くした。(了)
産経前支局長に起訴を想う [2014年10月15日(Wed)]
「日本だから起訴は許される」?
理解に苦しむソウル前支局長在宅起訴


 産経新聞の前ソウル支局長が同社のウェブサイトに掲載したコラムで朴槿恵・韓国大統領の名誉を毀損したとして10月8日、情報通信網法違反の罪でソウル中央地検から在宅起訴された。「報道の自由の侵害」とする国際社会の反発など、どう見ても失う部分が大きく、大統領や大統領府、さらには韓国の検察当局にどのような判断があったのか、理解に苦しむ。問題点は多岐にわたるが、この一点に絞り感想を述べたい。

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ススキの彼方に初冠雪した富士山がかすんで見えた(於:中央高速・双葉SA)

情報通信網法の内容を把握していないが、名誉棄損罪の扱いは日韓でかなり違うようだ。日本の場合は親告罪であり、本人の告訴がなければ公訴を提起できない。本人の意思と無関係に訴追した場合、本人の名誉が一層、傷つく事態が起こり得るのと、告訴の有無にかかわらず起訴可能となれば名誉棄損罪そのものが恣意的に運用される危険性が出てくるーなどを考慮した結果と思われる。

これに対し韓国では第3者の告発でも捜査・起訴は可能で、今回も市民団体の告発を受ける形で捜査が始まった。もちろん本人の意に反した起訴は難しく、朴大統領が「処罰を望まない」と意思表示すれば起訴はなかったと思われるが、結果を見れば、そうした事実はなかったことになる。

名誉棄損でまず問題となるのは記事の公益性。コラムは前支局長が、セウォル号転覆事故当日(4月16日)の朴槿恵大統領の“空白の7時間”について、朝鮮日報に掲載されたコラムを引用する形で日本の読者向けに日本語で書いた。

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安曇野の道の駅では見事な菊の鉢植えが店頭に並んでいた

大統領は国民投票で選ばれた公人であり、国のリーダーとして大きな権限を持つ。その判断・言動はその国の明日を左右し、その分、プライバシーも制約される。日本の新聞が、首相の動静を分刻みで掲載するのも、こうした判断だ。まして今回は大事故の当日、どのような経過で大統領に報告が上がり、それによって事態がどう動いたのか、大惨事を解明する焦点の一つであり、記事には当然、公益性がある。

加えて国際社会は近年、名誉棄損の処罰規定を規制・廃止する方向にある。起訴に踏み切れば内外から強い反発・批判が出ることは、大統領府や検察当局も十分、想定していたはずだ。しかし結果を見ると、この点をどう判断したのか、現在もはっきりしない。

「政治的案件であり、起訴するかどうかの判断は検察の手を離れた」、「韓国の検察当局が大統領のメンツを立てる政治的判断をした」といった一連の報道を見ると、起訴は大統領本人あるいは大統領府の強い意向と見るのが自然のようでもある。

この場合、日本新聞協会や日本ペンクラブ、日本政府、さらには国際NGO「国境なき記者団」(本部・パリ)、韓国に取材拠点を多く「ソウル外信記者クラブ」の批判は当然、想定内として、国連や米国政府が「報道の自由を尊重する側に立つ」として韓国政府に批判的立場をとるのも冷静に考えれば予想できたはずだ。

表現・報道の自由は民主主義社会の基本的価値であり、もともと大統領の個人的名誉と同列に論ずる性格のものではないからだ。当の韓国国内からも「名誉棄損を免責する流れに逆行する」、「時代的錯誤による世論統制の試み」、「国際的恥辱」といった厳しい反応が出ている。これも、ある意味、予想の範囲内だったと思う。

韓国には「大統領に対する冒涜」を「大統領を選んだ国民に対する冒涜」と捉える意見があると聞く。確かに自国のリーダーが外国から悪く言われるのは気分がいいものではない。しかし、そうした考えは結局、政権に対する国内批判の封じ込めを正当化する危険性を持つ。

日韓関係は冷え込む中、前支局長起訴の背後に「相手が日本だから許される」といった読みがあったとすれば、日韓双方にとってこれ以上の “不幸”はない。そろそろ冷静に話し合う時ではないかー。あらためて、そんな思いを強くする。(了)
揺れる朝日 誤報の取り消しと撤回 [2014年09月15日(Mon)]
やはり重い朝日の責任

訂正の遅れ―世論の分裂と右傾化招く


8月5、6日の慰安婦報道検証記事の掲載以降、激しい批判にさらされていた朝日新聞社が9月11日、新たに福島原発事故に関連して政府事故調査・検証委員会が故吉田昌郎・第一原発所長に対し行った聴取結果書(吉田調書)に関する記事も撤回し、木村伊量社長が謝罪した。メディアは普段、社会の問題点を指摘し、私人、公人、法人を問わず厳しく批判する。しかし逆に受け身になった場合は、極めて弱い。それは筆者が在籍した共同通信をはじめマスコミ各社に間違いなく共通する。それにしても今回の“朝日の混乱”は度を越しているのではないかー。

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20数年振りのソウルの街並みは大きく変わっていた

双方の記事の問題点はともかく、一連の流れを見て際立つのは、一貫性のなさというか、振幅の大きさだ。慰安婦報道の検証では「慰安婦を強制連行した」とする故吉田清治氏の証言(以下、吉田証言)を取り消したが、この証言が韓国による日本攻撃を加速させ、日本が世界の批判を招くきっかけとなったのは間違いない。20年以上放置し、「虚偽」であったとして関係記事16本を取り消すとしながら、具体的にどの記事か明らかにせず、謝罪も釈明もしないのでは通らない。

強い批判が当然、予想され、事前にあらゆる事態を想定し、可能な限り備えるのがリスクマネージメントのイロハであり、朝日の関係者は当然そんなことは知っている。そうでなくとも過去の報道を取り消すのは、自らに“死を宣言”するに等しく、関係者内部で激しい議論が戦わされたはずである。しかし、検証記事を掲載した8月5、6両日から、しばらくの対応を見ていると、そうした気配は不思議なほど感じられない。

検証作業は事の性格上、「少数のトップグループ」により進められたと想像され、遅すぎたとはいえ、検証実施・公表を決めた木村社長の決断は評価されていい。しかし週刊誌の広告掲載拒否、批判記事を載せた他紙や雑誌への抗議、池上彰氏の連載コラム「新聞ななめ読み」の掲載見送りなど当初の強気の対応と、一転して抗議取り下げ、謝罪、コラム掲載と続いたその後の対応は、あまりに振幅が大きすぎる。内部に大きな意見割れがあったことをうかがわせる。

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いつの間にかベランダには秋の花が

世論の反発を過小に評価していた可能性もある。撤回された吉田調書に関する「誤報」も、かつて英紙タイムズが「フクシマの50人」としてメルトダウンに立ち向かう勇気と責任感が讃えた原発所員が、「9割が命令に違反して撤退した」との誤報されたことで一転して「恥ずべき物語」(英紙タイムズ)、「日本版セウォル号」(ソウル新聞)と非難される結果となった。「朝日は日本を貶めた」とする批判と怒りが噴出したのは自然の成り行きと言っていい。

個人的な感想を言えば、一連の誤報の背景には、朝日の恣意というより、民主国家の報道原則である「客観報道」、「権力を監視・チェックするのがメディアの役割」といった気負い、さらには先の大戦の反省から、戦争や軍隊だけでなく、ともすれば「国益」といった言葉や「戦前」をすべて否定的にとらえる戦後マスコミの風潮もあるようにも思う。

客観報道を例にとれば、読者に客観的事実を提供し、その是非、さらには何が真実なのか、最終的な判断を読者に委ねるのを原則とする。しかし事件や事故、政局、外交にしろ、今回のような報告書にしろ、膨大な事実・データのうち、どの部分を中心に伝えるか、その選択は記者の判断で行われる。客観報道というものの現実には主観が記事を大きく左右する。

撤回された吉田調書の報道では、記者に反原発の意識が多分にあり、これが調書の読み取りを狂わせた可能性もあるが、記事に盛り込む事実を選択する過程で、記者には記事をより面白く、見出しを少しでも大きくしたい、という意識が働く。それが“優秀な記者”の尺度にもなっている。

乱暴に言えば同じ事案について結論・イメージが正反対の記事を作るのも可能で、仮に「記事に問題あり」とされた場合も、数字や固有名詞など明らかな事実に反する場合は別として、メディアが容易に訂正に応じないのも、こうした点にある。訂正は当然、「真実の報道」を看板に掲げるメディアの信用低下にもつながる。まして今回のような記事の取り消し、撤回は“自らの死”を招く恐れすらある。この辺りにも朝日の対応が遅れた一因があり、半面、朝日のような事態に落ち込む危険性は、どの社にも内在している。

最後に記事内容に関し、ひと言。慰安婦問題に関し朝日は吉田証言取り消し後も「慰安婦問題は消すことのできない歴史的事実」としている。個人的にその点は異存がない。しかし、朝日が吉田証言を取り上げ、長期間、放置したことで、本来どの戦争でも存在したであろう慰安婦問題が、こと日本に関する限り、国の関与という際立った悪質性を帯びることになり、慰安婦像が建設される結果にもなっている。

筆者はもともと慰安婦問題が戦争に伴う「女性の悲劇」、「女性の人権に対する侵害」である以上、それを防ぐためには戦争を防止するしかなく、先の大戦を起こし、平和憲法を持つ日本には、その先頭に立つ責任と資格がある、と考えてきた。しかし朝日の慰安婦報道により議論が「国の関与」の有無に特化され、これを巡る対立がともすれば世論の分裂、右傾化を引き起こし、本来あるべき議論が片隅に追いやられる結果になったのは残念でならない。その意味でも吉田証言の取り消しを長く怠った朝日の責任はやはり重いと言わざるを得ない。(了)
日本の現状を憂う [2014年08月16日(Sat)]
すべき反論を為さない危険性
不要なナショナリズムを高揚させる


 69回目の終戦記念日を迎えた。世界は今、イスラム世界での紛争多発、ウクライナ領クリミアの編入に伴うロシアと欧米の対立など緊張が高まり、日本を取り巻く情勢も中国、韓国による歴史認識批判・攻撃が激しさを増している。

 
 世界に国境があり、民族、宗教、文化の違いがある限り、争いはなくならない。国が国としての求心力、まとまりを維持するためには緊張が欠かせず、それ故に政治家は平和よりも対立を演出することで自らの存在感を維持しようとするのかもしれない。

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赤坂から見た東京の夕暮れ ビルの左横にかすかに富士山が見えた

 中国、韓国の日本攻撃を見ていると、そんな気もする。安倍政権の集団的自衛権を「軍国主義の復活」、「右傾化の象徴」と批判するが、平和慣れしたこの国の国民、若者には安倍首相がどう笛を吹こうと、軍国主義を歓迎するような覚悟、気力はなく、そんなことは両国とも知っている。日本批判は多分に国内向けなのだ。

もちろん国際社会は非武装中立を唱えれば、「平和」が保たれるほど甘くはない。集団的自衛権など一連の動きも、安全保障に関し、せめて普通の国並みの“体裁”を整えたい、といった希望の現われと見た方が理解しやすく、現実にもそれ以上の意味は持たない。

それにしても、この国の戦後の“引きこもり現象”は戦前に対する反省なのか、それとも自信喪失なのかー。敗戦国として当然“けじめ”を付けるべき一連の戦後処理の不徹底も、一方的で根拠のない日本批判に対し為すべき反論をなし得ないのも、ともに自信のなさからくる不作為ではないのかー。

そんな思いで毎日フォーラム8月号の「視点」欄に「残された戦後処理を徹底し、国の尊厳と発言力を守れ」の一文を投稿した。国家の尊厳は、為すべき責任を果たし、すべき反論を毅然と行うことで初めて確立される。そうでなければ中国や韓国の日本攻撃はいたずらに加速し、結果、不要なナショナリズムが高揚するばかりか、周辺国との未来志向の関係も築けない、といった内容。以下が全文、一読いただけると幸いだ。

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比残留二世の国籍取得

残された戦後処理を徹底し国の尊厳と発言力を守れ


歴史問題に対する中国、韓国の対日攻撃が激しさを増し、「南京事件で30万人が虐殺された」、「20万人が従軍慰安婦として強制連行された」など“歴史的根拠が希薄な事実”が一人歩きしている。共闘体制を加速させる中韓両国に対する反発と、有効な反論をなし得ていない日本政府に対する不満が、国民のナショナリズムを高揚させる結果にもなっている。

なぜ、このような事態になったのか。中国、韓国の日本批判にくみするつもりは毛頭ないが、戦後70年近く経った現在も徹底を欠くこの国の戦後処理に一因があるような気がしてならない。8月5日、父親の手掛かりを求め7人が来日したフィリッピン残留二世の国籍問題を中心に現状を振り返る。

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戦後処理に関し、ここ二十数年間で目を引く動きが二つあった。一つは台湾人元日本兵に対する補償問題。政府は1987年、「台湾住民である戦没者遺族等に関する法律」を制定し、日本の軍人・軍属として戦没、あるいは戦傷病者となった台湾住民、遺族に対し1人200万円の弔慰金を支払った。もう一つは旧ソ連軍によるシベリア強制抑留問題。戦後65年も経た10年、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)がまとまり抑留された元日本兵らに対する補償にようやく手が付けられた。

いずれも元日本兵らが損害賠償などを求めた訴訟の判決で、東京高裁や京都地裁が請求を退ける一方で国に然るべき対応を促したのを受け、法律が制定され補償の道が開かれた。行政の対応には、根拠となる法律の存在が欠かせない。比残留二世と同様、戦争の混乱で肉親と離れ離れになった中国残留孤児も、家庭裁判所の許可を得て新たに戸籍を作る就籍手続きで日本国籍の取得を進めているが、法の有無が双方の現状に大きな差を生じさせる一因となっている。

中国残留孤児の場合は74年、日中国交回復の高まりを受け、日中両国政府が早期解決に向け口上書を交わし、円滑な帰国の促進や永住帰国後の自立支援などを内容とする「中国残留邦人支援法」など三つの法律を整備した。これを受け家庭裁判所も中国政府作成の名簿に登載された孤児の就籍に前向きに取り組み、既に約1300人が日本国籍を取得している。

対する比残留二世。日本政府が初めて実態調査に乗り出したのは終戦からほぼ半世紀経った93年。フィリピン日系人会などの協力で調査を進めた結果、全体で約3000人、うち900人は父親の身元が分からず日本国籍を取得できないまま無国籍状態にあり、500人近くが既に故人となっていた。

長らく“忘れられた存在”であり、就籍による国籍取得も04年のスタートと大幅に遅れた。数年 前、国籍取得を支援する日本財団やフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)の関係者と現地を訪れ、日系人会の幹部と話すうち「われわれは半世紀以上も棄民だった。何故だ」と問われ絶句した思い出がある。

フィリピン日系移民は1903年、道路建設に従事する契約労働者として3000人近い日本人が移住したのが始まり。第二次世界大戦直前には約3万人がフィリピンに住み、ミンダナオ島の港町ダバオには東洋最大、2万人の日本人町も形成され、多くが現地の女性と結婚し地域社会にも溶け込んでいた。

しかし41年の大戦勃発とともに軍人、軍属として応召され、戦死、あるいは捕虜として収容―強制送還され、二世は母とともに現地に取り残された。日本の敗戦が濃厚となる中、「敵国人の子」としてゲリラの襲撃対象となり、逃避行の中で父とのつながりを示す写真や出生証明書、両親の結婚証明書を自ら捨てた。教育を受ける機会もなく、今も多くの二世が極貧生活を余儀なくされている。

これまでに計209人が東京家裁に就籍の申し立てを行い、121人が認められた。現在、31人が係争中。PNLSCによると未把握の残留二世も含め、今後さらに300人近くが申し立てを行う見通しという。

就籍を促進するには、中国残留孤児と同様、法を整備し、司法が前向きに取り組める環境をつくるのが最も現実的だ。新法の整備や中国残留邦人支援法など関連法を一部改正して残留二世を新たな対象に加えるよう求める声が強く出されているが、実現していない。

満蒙開拓団など国策によって中国に渡り両親とも日本人である中国残留孤児と、個人の意思で移民した日本人男性の子である比残留2世は違う、といった指摘もある。しかし当時の国籍法は日本、フィリピンとも父系主義を採っており、日本人を父に持つ残留二世は当然、日本国籍を取得する権利を持ち、理のない指摘である。

日本―フィリピンの国交が56年に正常化しているのを受け「残留2世は自己意思で現地に残った」といった声もある。逃亡生活など過酷な環境を生き抜いてきた残留二世の厳しい現実を知らない無責任な見解と言うしかない。

同様の「自己意思残留」は、終戦直後、共産軍との内戦を前に国民党軍閥の働き掛けで約2500人が現地に残された山西省残留日本兵の恩給訴訟でも見られた。国は、既に戦争が終わっていたことを理由に「現地に残ったのは自己意思」と主張し、最終的に請求棄却の判決が確定したが、旧日本軍の鉄の規律からも国民党軍への参加が上官の“命令”であったのは容易に推察できる。時に“逃亡兵”の汚名さえ着せられた元日本兵の無念は察するに余りある。

日本の戦後処理対策は一義的に厚生省(現厚生労働省)の援護局に行った。かつて司法、厚生省記者クラブで戦後補償関連の訴訟や援護行政を取材した体験を踏まえれば、戦後処理という重大なテーマを前に、国は少なくとも「省」単位の大きな組織を立ち上げ、明確な対処方針を決めた上で総合的、体系的に取り組む姿勢が必要ではなかったかと思う。

台湾人元日本兵の補償ひとつ取っても、52年の日華平和条約で元日本兵は日本国籍を喪失しており、「受け身」の姿勢で処理するのは難しい。大局に立った国の判断こそ不可欠であった。軍人、軍属ら240万人が戦地に散り、半数弱の113万人分が未収用状態にある遺骨収集について最近、あらためて新法をつくり、「国の責務」で10年間かけ、集中的な取り組みを目指す動きが出ている。戦後処理は今もなお、途上にある。

比残留2世に関してもフィリピン政府が近年、父親が日本人と確認された2世に対する認証証書の発行に踏み切っている。日本政府もこうした動きを受け、前向きに対応するべきである。そうすれば就籍の審判にも弾みがつき、「日本人の証」を手にすることなく故人となった残留2世の名誉回復にもつながる。

 
今回来日した残留2世は男性5人、女性2人。この春、鹿児島出身の父の身元が判明し就籍が認められた男性1人を除く6人は父親の手掛かりを求める一方、東京家裁での調査官面接に臨む。年齢は平均73・3歳。日本国籍の取得は、時間との戦いでもある。

国の名によって行われた戦争の被害は国の名で救済されなければならない。それが国の求心力、尊厳を守り、国際社会に対し必要な主張を毅然行う姿勢にもつながる。(了)
文楽の保存に思う [2014年07月27日(Sun)]

古き芸能」と見るのは“食べず嫌い”か
 迫力満点の人形浄瑠璃文楽


過日、大阪の国立文楽劇場で文楽を見た。佐渡の人形芝居や淡路人形浄瑠璃を観た記憶はあるが、人形浄瑠璃文楽を直に観るのはこれが初めてのような気がする。演目は近松門左衛門作の世話物「女殺油地獄」。太夫と三味線、人形が一体となった“迫力”に圧倒され、“古き伝統芸能”と軽く考えてきたのは「食べず嫌い」だったかもしれないと考えさせられる思いがした。

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大阪城天守閣

劇場で舞い求めたハンドブックなどによると、文楽は太夫の語りと三味線、人形遣いの3業が心を合わせてひとつの舞台をつくる総合芸術で、江戸時代に大阪で生まれた。世界各国に伝わる人形劇の中でも極めて高い芸術性を持ち、2009年にはユネスコの世界無形文化遺産にも登録された。しかし近年、観客数が伸び悩み、橋下徹・大阪市長が公益財団法人文楽協会に対する補助金の見直しを打ち出すなど厳しい経営環境に直面しているーなどと解説されている。

訪れた日は国立文楽劇場開場30周年を記念した特別公演中で、午前は親子劇場、午後は名作劇場と銘打って西遊記や平家女護島などが上演され、女殺油地獄は午後6時開演のサマーレイトショーに組まれていた。全4段、途中15分の休憩を挟み2時間を超えた。

まず意外だったのは舞台の大きさ。昔見たテレビ中継の影響か、舞台も人形ももっと小型なイメージを持っていたが、ともに大きく、例えば三人遣いの人形が5体、登場すれば計15人が舞台で同時に演じることになるが、手狭な感じは全くなかった。200席程度でないと後方の観客には舞台がよく見えない、といった思いもあったが、753席ある国立文楽劇場の最後尾でも特段の支障はないようだった。

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堀も立派

次に義太夫。太くて低い三味線の音色と一体となった太夫の語りはテンポも速く迫力がある。開演に先立ち劇場1階の資料展示室で見た床本は江戸時代の言葉が毛筆で記され、義太夫を聞いても、どこまで意味が分かるか、疑問を感じたが、公演では舞台上段に字幕が表示されていたほかイヤホンガイドサービスもあり、これらを利用すれば中学生にも十分理解できると感じられた。

次いで人形。劇場でもらった冊子の座談会で桐竹勘十郎氏は「人間に出来て人形に出来ない動きはありません」と言い切っているが、人形の首(かしら)と右手を動かす主遣い、左手を担当する左遣い、足を動かす足遣いが一体となった動きは驚くほど滑らかで絶妙。演目の女殺油地獄の「豊島屋油店の段」では、河内屋の「与兵衛」が借金の申し入れを断った油屋のおかみ「お吉」を脇差で殺害するクライマックスシーンでは、二つの人形が血と油の中で激しく争う姿が迫力満点に演じられ目を見張った。

娯楽の多様化が能や狂言、文楽が苦境に立つ一因といわれるが、文楽の面白さは現代も十分通用する、とうのが率直な感想だ。古典芸能といった思い込みが強すぎ、観客が遠のいた結果、文楽そのものが”奥の院”に入り込み、観客がさらに減る悪循環に陥っているのではないか。後継者育成のための研修制度が実効を上げつつあるほか、驚いたことに漫才などと同様、新作も盛んに作られており、「古典」というより、現在もなお”大衆芸能”と位置付けた方が文楽の将来に発展性があるような気がする。

今回は、アドバイザーをしている日本財団が、ささやかでも何か支援できないか具体策を検討するということで、担当者に同行し劇場を訪れた。文楽は300年間、民に支えられ、庶民の娯楽として生き抜いてきた。今後も民の力で後世に伝えていく必要がある。誰もが気さくに楽しんだ本来の姿を確認できるような場の設営など、アイデアはいろいろあるような気がする(了)
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