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宮 直史ブログ−“信はたていと、愛はよこ糸”

岡崎嘉平太記念館(岡山・吉備高原)で出会ったメッセージに深い感銘を受けました。
『信はたていと、愛はよこ糸、織り成せ 人の世を美しく』(岡崎嘉平太氏)
・・・私も、皆様方とともに世の中を美しく織りあげていくことを目指して、このブログを立ち上げました。よろしくお願いします。


こんにちは!宮です

宮 直史さんの画像
★経営のための会計★
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はじめてのウルトラ伴走でサプライズ♪ [2018年04月30日(Mon)]
昨日は、長居わーわーずの皆さんと、
先週日曜日(4/22)の水都大阪ウルトラマラニックの打ち上げるんるん

その席で、ウルトラ兄弟の仲間入りを果たすもゴールに忘れ物をした我らに対して、
心優しい仲間からご自身が100キロ完走でゲットしたメダルを
小山さんに「よく頑張ったで賞」のサプライズぴかぴか(新しい)
IMG_0212.jpg

IMG_0205.jpg

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そのメダルを小山さんから首にかけていただいて喜びを分かち合い、
伴走者冥利に尽きます。
IMG_0214.jpg

ご自身の汗と努力で勝ち取られたメダルを譲ってくださった植さん、ありがとうexclamation×2
高倉健さんのようなかっこいい男ぶりに惚れ惚れハートたち(複数ハート)

他者の苦しみを除き、喜びを与え、幸せを分かち合う、
素晴らしい仲間との出会いに心から感謝です。

私も、植さんのようにメッチャ男前なことができるよう、
走りも心も高めるぞ。やりまっせ!

この続きはまたいつか四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
長い距離を伴走するということ(3) [2018年04月27日(Fri)]
昨日の記事「長い距離を伴走するということ(2)」の続き――

先日の朝日新聞(4/21)、松井彰彦先生の「経済季評」から――
(…)
市場は、見知らぬ人同士が出会う場である。
しかし、いったん出会った後は、顔の見える人間関係が生まれる
顔の見える関係はありとあらゆるところで生まれ、育まれていく
そこでは、単なる私利ではなく、
信義に基づいた関係の構築が大切なことは言うまでもない。
そして、人間関係の基本は
相手の立場に立って、ものを見ることと言ってもよい
(…)
私たちは出会いの場としての市場の本質を見誤ることなく、
市場とうまくつき合っていかなくてはならない。
みなさんにも、よい出会いがありますように。

あの厳しい暑さの中を共に走る長居わーわーずの仲間とすれ違っては
力強くエールを交わして互いに励まし合い、
またエイドや沿道からは力強い声援をいただいて励まされ、
そしてゴールではみんなが待ってくれている、
そうでなかったら、自分に言い訳して諦め、走り続けていなかったでしょう。
心から感謝しています。ありがとうございました。
そして何より、初めての大切なレースの伴走者にこんな「木偶の坊」の私を選び、
それなりの伴走者として育ててくれた小山さんには心の底から感謝です。

長居わーわーずの仲間からスタート前にいただいた「完踏」のお守りぴかぴか(新しい)
IMG_0197.jpg

あの日のレース中、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が何度も頭をよぎり、
自らを奮い立たせました。自分のためならゴールまで走り続けていなかったでしょう。

――「雨ニモマケズ」の英訳はいくつかあるのですが、
そのどれもが「マケズ」をそのまま否定形で訳していて、
「ちょっと違うな」と思っていました。
だからぼくの訳は、Strong in the rainで始まっています。
「強い」という意味の“Strong”で、
よし、やるぞという感じを出したかったんです。
それは賢治の願望であり、祈りでもあったから。
ロジャー・パルバース「私の大好きな宮沢賢治」
/NHK『ラジオ深夜便』 2009年9月号

雨ニモマケズ        Strong in the rain
風ニモマケズ        Strong in the wind
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ  Strong against the summer heat and snow
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテイル

一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ

「忘己利他」己を忘れて他を利するは慈悲の極みなりひらめき

この続きはまたいつか四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
長い距離を伴走するということ(2) [2018年04月26日(Thu)]
昨日の記事「長い距離を伴走するということ(1)」の続き――

先日の朝日新聞(4/21)、松井彰彦先生の「経済季評」から――
(…)
市場は、見知らぬ人同士が出会う場である。
しかし、いったん出会った後は、顔の見える人間関係が生まれる
顔の見える関係はありとあらゆるところで生まれ、育まれていく
そこでは、単なる私利ではなく、
信義に基づいた関係の構築が大切なことは言うまでもない。
そして、人間関係の基本は
相手の立場に立って、ものを見ることと言ってもよい
(…)
私たちは出会いの場としての市場の本質を見誤ることなく、
市場とうまくつき合っていかなくてはならない。
みなさんにも、よい出会いがありますように。

走ることに出会って人生が変わり、伴走と出会ってさらに変わり、
そしてウルトラと出会って・・・、その他もろもろ素晴らしい出会いに心から感謝です。

水都大阪ウルトラマラニックの運営委員長の佐田さんのブログから――
長い距離を走るということ
(…)
自分のためならいくらでも諦められる
でも・・・きつい場面で思い浮かぶ人の顔が多ければ多いほど
諦められないですよね。
その時に、
ウルトラは走れたらそれでいいんじゃないなって思いました。
いかに日ごろから丁寧に生きているか
人間性そのものを問われているのが
ウルトラだなって思うようになりました。
人を裏切らず、丁寧に生きること
それが、きつい場面を乗越える力になると・・・
我慢強くなりました。
我慢強いことが、マイナスになることも正直多いですけど(笑)
(…)
でね、今回初めてウルトラに挑戦する人へ。
まずは、きついのは当然なんですよ。
私は、いつも笑顔で走っていたらしく、
「さたさん楽しそう!」って言われたのですが・・・
そんなねえ250キロとか48時間とか走って楽しいわけが無いのですよ。
でもね、笑っているんです・・・
めったとつらい顔をしたことはありません・・・
それってね、心配させたくない、一心かな。
だから、思うんです。
自分で辛い、しんどいにハマッてはいけない。
辛い中でも笑う努力。

応援ありがとー、エイドありがとー、ゴールで待っててくれてありがとー
そう頭の中で辛いより苦しいより、最優先に組み替えるんです。
ボランティアの方って、
本当にボランティアでまるまる一日支えてくれてるんですよね。
オリンピック選手でもプロでもない自分のために
無償でやってくれている
そういうところに意識を持っていけば
ふててる場合じゃ無い
ですよね。
(…)

共感です。
私にとってフルを越えるレースの出走は今回で3度目になります。
最初は一昨年のGWのユリカモメで70キロに挑むもDNF(Did Not Finish)、
二度目は一昨年9月の高野龍神スカイラインで50キロに挑んで制限時間内にゴール。
そして、今回は再び70キロに挑戦、
しかも私にとって「はじめてのウルトラ伴走」です。
そんな練習でもレースでもまだ70キロを走った経験のない私をガイドに選んでくれたのは、
昨年11月に「フル伴走デビュー」の機会を与えてくれた小山さんです。
小山さんもウルトラは初めての挑戦。
しかもロードでフルを走られたのも昨年11月の初挑戦の一度だけ。

走力も経験も乏しい者がペアを組んでどないすんねんというところですが、
お互い怖いもの知らず、向こう見ずに「初初ペア」で挑戦することになりました。

実は、小山さんと初めて出会ったのは、
2年前のこの水都大阪ウルトラマラニックの大会でした。
長居わーわーずの伴走練習会に参加したのも同じ頃だったようですが、
それまでご縁がなく、2年前のこの大会で
マッサージのボランティアをされる皆さんのお手伝いとして参加した時に、
ボランティアを終えて会場から帰るとき、
地下鉄の乗り換え駅までご一緒させていただきました。
自分たちとは別世界のレースにペアを組んで出るとは夢にも思わず、
運命の「出会い」に心から感謝です。

70キロを走るのは私にとっても未知の世界ですが、
自分ひとりでなく「伴走で出走するプレッシャー」を力に、
走る限りは「制限時間内の完走」を目指して、
互いに励まし合って、格別の達成感で喜びを分かち合いたい。
そんな思いで年明けから練習を始めましたが、
4月になっても自分たちが思い描いた成果は出ず、不安が募りました。

しかし、本番10日前(4/12)の午後に長居公園で伴走練習を行い、
2.8キロの周回コースを6周走って、
本番を想定して2周ごとに歩きながら水分補給し、
これらの時間も含めて17キロをキロ7分で走ることができました。

曇天で日差しこそありませんでしたが、走り終えた時点の気温は20.3度。
互いに伴走ロープを意識せずストレスなく走ることもでき、
レースでは前半40キロをキロ8分を想定していたので、
本番に向けて一緒に練習する最後の機会を
最高の形でしめくくることができたとお互い喜んだ、のですが・・・

結果は、制限時間の11時間をわずかにクリアできず、
完走メダルに手が届きませんでしたが、
ゴールを果たすことができました。
IMG_0195.JPG

が、64キロの毛馬エイドで休んだ後、
毛馬の堤防を下りてから大阪城公園に戻るまでの最後の走りは、
あの日一番の走りができただけに、
もうちょっと何とかならんかったのかと悔やまれます。
ランナーとしてガイドとして、わが身の力不足、経験不足を痛感しました。

前日の受付をご一緒したNさんに、
明日は暑くなるので関門通過できたら昼寝してもいいよとアドバイスいただいたけど、
カメが昼寝してどうすると暑い日差しの中を歩き続けました。
関門通過時点で30分も余裕があったのだから、昼寝して休む勇気が私にあれば
もっと余裕をもって楽しいレース運びができたかもです。

また、レース前半は、我ら初初ペアの無謀な挑戦を
長居わーわーずのAちゃんが一緒に走って元気な声で力強くサポートしてくれたのですが、
関門通過後は別のサポートに回られたこともあって私自身の走りに余裕がなくなり、
小山さんに無用な負担をかけて体力を消耗させてしまいました。

が、しかし、お天気があんなに暑くなければ、
最後までサポートしていただきながら一緒に走れたら、
なんて「たられば」ではなく、
お天気が暑く「ても」、途中からサポートがなく「ても」、
そしてゴールの制限時間クリアが厳しいことはわかってい「ても」、
最後まであきらめずにゴールを目指して走り続けた自分たちを誇りに思い、
自分たちをほめたいと心の底から(負け惜しみでなく)思っています。

長居わーわーずの皆さんには
日頃から色々アドバイスいただくとともに
力強く応援していただき、励みになりました。ありがとうございます。

あの厳しい暑さの中を共に走るわーわーずの仲間とすれ違っては
力強くエールを交わして互いに励まし合い、
またエイドや沿道からは力強い声援をいただいて励まされ、
そしてゴールではみんなが待ってくれている、
そうでなかったら、自分に言い訳して諦め、走り続けていなかったでしょう。
心から感謝しています。ありがとうございました。

そして何より、初めての大切なレースの伴走者にこんな木偶の坊の私を選び、
それなりの伴走者として育ててくれた小山さんには心の底から感謝です。

長居わーわーずの仲間からスタート前にいただいた「完踏」のお守りぴかぴか(新しい)
IMG_0197.jpg

共に励まし合って完走を果たしたものの、ゴールに忘れ物をしました。
大事な忘れ物を引き取りに、自分を高めて再び挑戦します。

走ることと出会って人生が変わりましたが、
伴走と出会ってさらに変わりました。
伴走に支えられているのは私の方で、心から感謝です。
IMG_0051.jpg
精進して自分を高めていきますので、
引き続きのご指導、よろしくお願いします。

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
長い距離を伴走するということ(1) [2018年04月25日(Wed)]
昨日の記事「はじめてのウルトラ伴走♪」の続き――

先日の朝日新聞(4/21)、松井彰彦先生の「経済季評」から――
(…)
市場は、見知らぬ人同士が出会う場である。
しかし、いったん出会った後は、顔の見える人間関係が生まれる
顔の見える関係はありとあらゆるところで生まれ、育まれていく
そこでは、単なる私利ではなく、
信義に基づいた関係の構築が大切なことは言うまでもない。
そして、人間関係の基本は
相手の立場に立って、ものを見ることと言ってもよい
(…)
私たちは出会いの場としての市場の本質を見誤ることなく、
市場とうまくつき合っていかなくてはならない。
みなさんにも、よい出会いがありますように。

走ることに出会って人生が変わり、伴走と出会ってさらに変わり、
そしてウルトラと出会って・・・、その他もろもろ素晴らしい出会いに心から感謝です。

水都大阪ウルトラマラニックの運営委員長の佐田さんのブログから――
長い距離を走るということ
(…)
自分のためならいくらでも諦められる
でも・・・きつい場面で思い浮かぶ人の顔が多ければ多いほど
諦められないですよね。
その時に、
ウルトラは走れたらそれでいいんじゃないなって思いました。
いかに日ごろから丁寧に生きているか
人間性そのものを問われているのが
ウルトラだなって思うようになりました。
人を裏切らず、丁寧に生きること
それが、きつい場面を乗越える力になると・・・
我慢強くなりました。
我慢強いことが、マイナスになることも正直多いですけど(笑)
(…)

共感です。
私にとってフルを越えるレースの出走は二度目(前回は50キロ)で、
はじめてのウルトラ伴走でした。

あの暑さの中、単独走だったら、自分に言い訳してやめていたと思います。
実際、すっかり忘れていましたが(自分に都合の悪いことは忘れる?)
高野龍神スカイラインウルトラマラソン(2016/9)の前に、
武庫川ユリカモメ70キロウルトラマラソンに出走(2016/5)したものの、
フルを越えることができませんでした。

当時は、まだフルマラソンの完走も前年の秋の一度だけでした。
その後フルマラソン完走の回数は重ねていますが、
走る力としては今もさほど進歩していません(お恥ずかしい話ですが)。

当時(2016/5)のブログに書いた「敗戦の弁」です。
残念ながら目標を達成できませんでした。
【目標】制限時間内の完走
【課題】横や下を見ずに前を向き、にこにこペースで、意味を求めずただ走る

天気予報では午後から雨でしたが、心配された雨は降らず、
風は強かったものの曇天、、、お天気を途中棄権の言い訳にできません。

ウルトラマラソンをなめてました。
1周17.5キロ×4周の70キロを制限時間は8時間半ですから、
1周2時間ペースで走れば完走できるとソロバンを弾いていました。
関門閉鎖の56.5キロ(17.5キロ×3+南周回4キロ)の6時間50分も楽勝のはず...

甘かったです。
1周目(17.5キロ)は余裕でした。
2周目の南周回を終えてスタートポイントに戻るまで(21.5キロ)も快調でした。
が、その後、北上して宝塚に向かう段階でペースダウン
そして、北の折り返し(28.25キロ)からさらにペースダウン
なんとか足を止めずに2周目を終えたもののエイドで大休止(35キロ)。
でも、時間のソロバンを弾けばまだ間に合いそうだったので気を奮い立たせ、
3週目の南周回に向かったもののペースはまったく上がらずに失速、
再びスタートポイントに戻ったところで自分を勘弁(39キロ)。

フルマラソンを超えられず、ウルトラマラソン初挑戦は敗退!
「完走証」を受け取ることができず、とても残念です。

久しぶりに自分が書いた当時の記事を読んで感じたのは、
「自分」の走りのことしか頭にないということ。

あれから2年、今回のウルトラを走り終えて
私も「ウルトラは走れたらそれでいいんじゃないな」って思いました。

マラソンを人生にたとえる(人生をマラソンにたとえる)ことがよくありますが、
ウルトラマラソンは人生そのものと思いました(遍路や山歩きの縦走のように)。
走れたらそれでいいんじゃない、自分の生き方が問われる。

長居わーわーずの仲間からスタート前にいただいた「完踏」のお守りぴかぴか(新しい)
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フルマラソンなら「完走」なんでしょうが、
この「完踏」に込められた思いをウルトラの長い距離を走ることで共有しました。
走る距離や時間の長さの問題ではなさそうです。

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「人生即遍路」山頭火

「苦しみつつなお働け、安住を求めるな、人生は巡礼である」
高倉健さんが著書『旅の途中で』に引用された
山本周五郎さんが深い感銘を受けたストリンドペリーの言葉

松下幸之助『思うまま』より――
「歩一歩の歩み」足跡
人生においてはカメのような、歩一歩のあゆみが大切だと思う。
速度を多少速めるのはよいが、二歩三歩いっぺんに飛ぼうとすれば
往々にして失敗することにもなろう。
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旧豊郷小学校

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
はじめてのウルトラ伴走♪ [2018年04月24日(Tue)]
日曜日(4/22)、「水都大阪ウルトラマラニック」の70キロに挑戦るんるん
私にとってフルを越えるレースは
一昨年秋の高野龍神スカイラインウルトラマラソン以来2度目。
あの時は50キロでしたが、今回は70キロ
しかも、まだ70キロを単独で走り切ったこともないのに、いきなり伴走です。

前日(4/21)の受付会場にて、実行委員長の佐田さんからのメッセージ
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明日は暑いです。
吐き気・頭痛・めまいとか、おかしいぞと思ったら無茶しないでね。
元気で「ただいま!」ってお家に帰って、月よう働きに行けてこそ、
大人のウルトラランナーです。

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御堂筋線の車中から主戦場となる淀川上流に向かって合掌!

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長居わーわーずの仲間からいただいた「完踏」のお守りぴかぴか(新しい)

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足が揃ってるexclamation
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70キロ完踏を果たして達成感1000%exclamation×2

制限時間の11時間はわずかにクリアできず、完走メダルに手が届きませんでしたが、
自分たちの実力以上の結果に自分で自分をほめたいです。よく頑張りました!

大会の主催者やボランティアの皆さん、沿道で応援してくださった皆さん、
多くの方々に支えていただいたおかげです。本当にありがとうございました。
そして、長居わーわーずの皆さんには日頃から色々アドバイスいただくとともに
力強く応援していただき、励みになりました。ご縁に心から感謝です。

あの厳しい暑さの中を共に走るわーわーずの仲間とすれ違っては声を掛け合い、
またエイドや沿道からは力強い声援をいただいて励まされ、
ゴールではみんなが待ってくれてる、
そうでなかったら走り続けられなかったでしょう。ありがたい限りです。

毛馬の堤防を下りてから大阪城公園に戻るまでの最後の走りは、あの日一番でした。
ゴールでわーわーずの仲間が待ってくれていると思えばこその走りで
われわれの限界を越えていたと思います。ほんま、ありがとうございました。

ゴールした後、わーわーずの仲間にマッサージしてもらったおかげで、
昨日もそして今朝も足腰の筋肉痛は思ったほどなく、普通に暮らせています。
ただ疲れはだいぶ残っているのか、突然の睡魔が・・・

先日の朝日新聞(4/21)、松井彰彦先生の「経済季評」から――
(…)
市場は、見知らぬ人同士が出会う場である。
しかし、いったん出会った後は、顔の見える人間関係が生まれる。
顔の見える関係はありとあらゆるところで生まれ、育まれていく。
そこでは、単なる私利ではなく、
信義に基づいた関係の構築が大切なことは言うまでもない。
そして、人間関係の基本は、
相手の立場に立って、ものを見ることと言ってもよい。
(…)
私たちは出会いの場としての市場の本質を見誤ることなく、
市場とうまくつき合っていかなくてはならない。
みなさんにも、よい出会いがありますように。

はい、素晴らしい出会いのおかげで人生が変わりましたひらめき
心から感謝です。

松下幸之助『思うまま』より――
「歩一歩の歩み」足跡
人生においてはカメのような、歩一歩のあゆみが大切だと思う。
速度を多少速めるのはよいが、二歩三歩いっぺんに飛ぼうとすれば
往々にして失敗することにもなろう。
P1010032.JPG
旧豊郷小学校

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
真剣勝負のつもりで日々にのぞむ [2018年04月21日(Sat)]
昨日の記事「そこに人間の働き方の進歩がある」の続き――

いままでよりも一時間少なく働いて、
今ままで以上の成果をあげる
ことも、また尊い。
そこに人間の働き方の進歩があるのではなかろうか。
怠けろというのではない。楽をするくふうをしろというのである。
楽々働いて、なおすばらしい成果があげられる働き方を
おたがいにもっとくふうしたいというのである。
そこから社会の繁栄も生まれてくるであろう。
松下幸之助『続・道をひらく』

松下幸之助『道をひらく』より――
「仕事というものは」
仕事というものは勝負である。一刻一瞬が勝負である。
だがおたがいに、勝負する気迫をもって、
日々の仕事をすすめているかどうか。

まず普通の仕事ならば、
ちょっとした怠りや失敗があったとしても、
別に命を失うというほどのことはない。
それでも、ともかく日は暮れて、その日の仕事はまず終わる。
だから、つい気がゆるむ。油断する。
きょうはきのうのくりかえし、
あすもまた同じで、別段とくに変わったこともなし。


しかし、これではいい知恵はうかばない
創意も生まれなければ、くふうも生まれない
そして何の緊張もないかわりに、何の喜びもないということになる。

平穏無事なときには、これでも日はすごせるが、
しかしいつもそうはまいらない。
わが国の情勢は、世界の動きとともに今や刻々と変わりつつある
一刻の油断もならぬ状態におかれている。
このときにこそ、
勝負する大勇気をもって仕事にあたらねば、
それこそ真の繁栄は生まれない
であろう。
仕事を勝負と心得る人と心得ない人とのちがいが
ハッキリとあらわれてくるときではなかろうか。

IMG_0023.jpg

松下幸之助発言集・第7巻の「誇りうる仕事の達人になろう」より――
「自分で自分をほめられるか」
私は、今も覚えておりますが、
ちょうど5、6人で仕事をしておりました時分に、
夏でしたから、仕事を終わって行水をいたします。
風呂もないことはありませんが、その当時は湯を沸かしまして、
たらいで行水をするということが、広い習慣になっておりました。
私は日いっぱい働いて、それから行水で汗を流すわけです。
その行水をしたときにふっと
きょうは、朝から自分ながらよくやったな
という感じがしたことを覚えておりますが、
そのときには非常に満ち足りた気分を味わったように思います。
私はそのときに
「ああ、きょうは自分ながらよくやったなあ」と、
自分で自分の仕事をたたえるような気分になって行水をつかっておった
そのときの心持ちというものは、
今も忘れることのできないうれしいもの
です。

人から評価してもらうということも、
むろんそれによっていろいろ感慨もありますけれども、
それよりも
自分で自分をほめるとでも言いますか、
そういうような心境がずっと続いたならば
その人はいわゆる世の成功者であるという感じがいたします。
仕事の量ですとか、そういうものは第二にいたしまして、
どんな仕事でありましても、
私はそういう心境のもてる人は、
必ずその仕事に、
小は小なりに大は大なりに
立派な成果があがる
ものだと思います。ひらめき

大切な一生である。尊い人生である。
今からでも決しておそくはない。
おたがいに心を新たにして、
真剣勝負のつもりで、日々にのぞみたい
ものである。

「真剣勝負」/松下幸之助『道をひらく』

今日一日が真剣勝負であり、
毎日が瀬戸際の気持ちで自分を追い込んでいく。
そうすれば自分のやるべきことが必ず見えてきます。

そして、自分の能力いっぱいの力を尽くして、結果として転んでしまったら、
反省してまた挑戦すればいい。後悔することはありません。
本気で仕事に取り組み、挑戦する人にはまた必ずチャンスが到来します。
鈴木敏文『朝礼暮改の発想』

この続きはまた来週四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
そこに人間の働き方の進歩がある [2018年04月20日(Fri)]
昨日の記事「「なぜ」と問うタネは随所にある」の続き――

「日に新た」であるためには、
いつも「なぜ」と問わねばならぬ。
そしてその答を、自分でも考え、また他にも教えを求める。
素直で私心なく、熱心で一生懸命ならば、
「なぜ」と問うタネは随所にある。

それを見失って、
きょうはきのうの如く、あすもきょうの如く、
十年一日の如き形式に堕したとき、
その人の進歩はとまる。社会の進歩もとまる。
繁栄は「なぜ」と問うところから生まれてくるのである。
松下幸之助『続・道をひらく』

M長一彦『やめるを決める』より――
社長の質問攻めは毎日続いた。
そのたびに、社長はいったい何を言おうとしているのかを
考え続けざるを得なくなった。(マイナス11より)

私は太郎社長から繰り返し浴びせられる問いかけに、
今まで何を考えてきたか、一つ一つ話して聞かせた。そして、
やはり我々は変わらなければならないこと、
それにはこれまで常識だと思ってやってきたことを疑ってみて
どうしたら変わることができるのかを考え直す必要がある
と話した。(マイナス9より)

「私たちは選択と集中を実行するのです。
でも、選択と集中とよく言われますが、
その本当の意味を君たちはわかっていません。
優先順位をつけ、優先すべきことに集中することではありません。
集中と言いながら結局多くを選択して、経営資源を分散化させてしまう
その結果、本当は集中させなければならない最重要課題に
力を十分注ぐことができなくなってしまう
んです。
それを防ぎ、目標から外れることなく、戦略を確実に実行するには、
どうすればいいのか ―― やめることを決めることです」
選択と集中が単なるスローガンに終わってしまっては意味がない
改革のスピードをアップさせるためには
メンバーがぶれずに目標に到達するプロセスを示さなければならない
「選択と集中」の本当の意味(やめるを決める)が理解できた。
同時に、その言葉の持つ意味の厳しさに体が震えた(マイナス6より)
20141222.jpg
章立ては、マイナス12から始まり、
±0を経て、プラス10にレベルアップ

松下幸之助『道をひらく』より――
「働き方のくふう」
(ひたい)に汗して働く姿は尊い。
だがいつまでも額に汗して働くのは知恵のない話である。
それは東海道を、汽車にも乗らず、
やはり昔と同じようにテクテク歩いている姿に等しい。
東海道五十三次も徒歩から駕籠へ、駕籠から汽車へ、
そして汽車から飛行機へと、日を追って進みつつある。
それは、日とともに、人の額の汗が少なくなる姿である。
そしてそこに、人間生活の進歩の跡が見られるのではあるまいか

人より一時間、よけいに働くことは尊い。努力である。勤勉である。
だが、いままでよりも一時間少なく働いて、
今ままで以上の成果をあげる
ことも、また尊い。
そこに人間の働き方の進歩があるのではなかろうか

それは創意がなくてはできない。くふうがなくてはできない。
働くことは尊いが、その働きにくふうがほしいのである。
創意がほしいのである。
額に汗することを称(たた)えるのもいいが、
額に汗のない涼しい姿も称えるべきであろう。
怠けろというのではない。
楽をするくふうをしろというのである。

楽々働いて、なおすばらしい成果があげられる働き方を
おたがいにもっとくふうしたいというのである。
そこから社会の繁栄も生まれてくるであろう。

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安易な考え方では、
責任ある経営は決してできない。

高橋荒太郎『語り継ぐ松下経営』
この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
「なぜ」と問うタネは随所にある [2018年04月19日(Thu)]
昨日の記事「今まで通りに安住してはいけない」の続き――

昨日の考えは、きょうは一新されていなければならないし、
きょうのやり方は、明日にはもう一変していなければならない。
刻々に新しい考えを生み出し、刻々に新しいやり方で事に処していく。
それが自然の理法に則した生成発展への道というものであり、
そこに人間としての真の歓喜というものがある。
松下幸之助『続・道をひらく』

正しい経営理念をもつと同時に、
それにもとづく具体的な方針、方策が 
その時々にふさわしい日に新たなものでなくてはならない。
この「日に新た」ということがあってこそ、
正しい経営理念もほんとうに永遠の命をもって生きてくる。
松下幸之助『実践経営哲学』

好むと好まざるとにかかわらず、世の中は刻々と変わる。
変化に適応し、むしろ一歩先んじていかなくてはならない。
それには、きのうよりきょう、きょうよりあすへと、
常に、よりよきものを「生み出していく」。
きのうは是とされたことが
きょうそのままで通用するかどうかは分からない。「日に新た」

松下幸之助『道をひらく』より「なぜ」――
こどもの心は素直である。
だからわからぬことがあればすぐに問う。「なぜ、なぜ」と。
こどもは一生懸命である。熱心である。
だから与えられた答えを、自分でも懸命に考える
考えて納得がゆかなければ、どこまでも問いかえす。「なぜ、なぜ」と。
こどもの心には私心がないとらわれがない
いいものはいいし、わるいものはわるい。
だから思わぬものごとの本質をつくことがしばしばある。
こどもはこうして成長する。
「なぜ」と問うて、それを教えられて
その教えを素直に自分で考えて、さらに「なぜ」と問いかえして
そして日一日と成長してゆくのである。

大人もまた同じである。
日に新たであるためには
いつも「なぜ」と問わねばならぬ
そしてその答を、自分でも考え、また他にも教えを求める
素直で私心なく、熱心で一生懸命ならば、
「なぜ」と問うタネは随所にある。

それを見失って、
きょうはきのうの如く、あすもきょうの如く、
十年一日の如き形式に堕したとき、
その人の進歩はとまる。社会の進歩もとまる。
繁栄は「なぜ」と問うところから生まれてくるのである。

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才能がハシゴをつくるのではない。やはり熱意である。
経営とは、仕事とは、たとえばこんなものである。
不思議なこの経営を、この仕事を、
おたがいに熱意をもって、懸命に考えぬきたい。やりぬきたい。
「熱意をもって」/松下幸之助『道をひらく』

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
今まで通りに安住してはいけない [2018年04月18日(Wed)]
松下幸之助『実践経営哲学』の「時代の変化に適応すること」より――
(…)
この社会はあらゆる面で絶えず変化し、移り変わっていく
だから、その中で発展していくには、
企業も社会の変化に適応し
むしろ一歩先んじていかなくてはならない
それには、
きのうよりきょう、きょうよりあすへと、
常によりよきものを生み出していく
ことである。
きのうは是とされたことが
きょうそのままで通用するかどうかは分からない
情勢の変化によって、
それはもう好ましくないということが
往々にしてある
わけである。

よく、長い歴史と伝統をもった老舗といわれるところが
経営の行きづまりに陥ることがある
そういうところは、
正しい経営理念をもたないかというと決してそうではない。
むしろ、どこにも負けないような創業以来の立派な経営理念が
明確に存在しているのである。
しかし、
せっかくそうしたものをもちながら、
それを実際に適用していく方針なりやり方に、
今日の時代にそぐわないものがあるわけである。
かって成功した昔ながらのやり方を
十年一日のごとく守っているというような場合も少なくない。

もちろん、旧来のやり方でも好ましいものはそのまま続ければいいわけだが、
やはり時代とともに改めるべきは次々に改めていかなくてはならない
(…)
いかに立派な経営理念があっても、
実際の経営をただ十年一日のごとく、
過去のままにやっていたのでは成果はあがらない。

製品一つとっても、今日では次々と新しいものが求められる時代である。
だから正しい経営理念をもつと同時に
それにもとづく具体的な方針、方策が
その時々にふさわしい日に新たなものでなくてはならない

この「日に新た」ということがあってこそ、
正しい経営理念もほんとうに永遠の命をもって生きてくるのである。

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松下幸之助『続・道をひらく』より――
「転機」
今までの考え通りで、
今までのやり方通りで、
それで事がすむならばよいけれど、
天地は日に新たであり、
人の営みもまた日に新たである。

だからほんとうは、
昨日の考えは、きょうは一新されていなければならないし、
きょうのやり方は、明日にはもう一変していなければならない。


刻々に新しい考えを生み出し
刻々に新しいやり方で事に処していく
それが自然の理法に則した生成発展への道というものであり、
そこに人間としての真の歓喜というものがある。

その歓喜が失われたとき、
人の成長はとまり、
社会の生成発展もとまる。
とまるだけならよいけれど、
とまるということはジリジリと崩壊するということである。
人にとっても社会にとっても、まさに危機と言えよう。

今まで通りではいけないのである。
今まで通りに安住してはいけないのである。
思いを一新しなければならぬ
やり方を一変しなければならぬ
日本も世界も、今日ただいまはそういうときなのである。
そういうきびしい転機に立っているのである。

危機とは転機の自覚のないことをいうのである。

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
ぶらりススキの原 一の湯♪ [2018年04月17日(Tue)]
寛永7年(1630年)創業の箱根の老舗旅館「一の湯」さんが
昨年7月にオープンされた「ススキの原 一の湯」いい気分(温泉)
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昨年11月に仙石原のススキ草原を訪れた際に立ち寄って汗を流しましたが、
今回はお泊りしました(4/15)。
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(翌朝の撮影)
老舗の温泉旅館が経営する温泉旅館ですが、
下足番のお出迎えもなければ、女将のお見送りもありません。

フロントでチェックインを済ませて、浴衣はセルフサービスです。
大人子供それぞれに男性女性でSMLのサイズがあり、さらにLLもあるので、
深く考えずにLサイズを手にしたのですが、
横に釣り下げられた見本で確認するとLサイズでは大きいのでMサイズに変更。

あとで宿の案内を確認すると、身長1m80cmまではMサイズで、
1m80cm〜がLサイズ、さらに1m90cm〜がLLサイズと国際仕様?の浴衣です。
でかいサイズに感心していると、サイズ選択に迷っていると思われたのか、
フロントの女性が近寄ってさりげなくお声がけくださいました。

帯は部屋に人数分(私の場合は一人)が用意されていましたが、
リバーシブル(紺と朱)で長いフリーサイズなのも納得。よく考えられています。

とりあえずスマホを充電しようとコンセントを見ると、USB充電専用の差し込みあり。
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一昨年の2月に立ち寄ったロサンゼルス国際空港では
コンセントの横にUSB充電専用の差し込みが普通にありました(しかも点字表記つき)。

あれから2年が経過、私が日本で見たのは今回の一の湯さんが初めてです。

一方で、昨年秋の立ち寄り湯のタオルもそうでしたが、
タオルだけでなく、バスタオルやお風呂セットを入れる袋にも旅館名の印字ありません。

その一方で、部屋に備え付けの案内には色々と工夫がなされていて感心しました。
たとえば、持ち込みの飲み物の空き缶や空き瓶に対するメッセージ(英文表記もあり)
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考えてみれば、スーパーで買い物袋が有料なんだし、
持ち込みの処理料を払うのもお互いにとって良いことと共感しました。

部屋に備え付けの案内は英文でも記されていて、
海外からお越しのお客様への心温かい配慮が感じられます。
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ススキの原 一の湯はすべての客室に露天風呂があります。
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何度も浸かってまったりさせていただきましたが、
大浴場の露天風呂でも早朝からまったりさせていただきました。

そして何より、今回のお泊りで私が一番感心したのは、
基本的にフロントにはだれもおられないこと。
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もちろんボタンを押して呼べば直ぐに出て来られるし、対応は親身で丁寧です。
そして、働いている皆さんが若いのですが、その接客がまた素晴らしい。
一所懸命さが伝わってきますし、外国の方にも堂々と接客しておられました。

また、一の湯さんの公式サイトを拝見すると、
グループの中にはワンちゃん同伴で泊まれるお宿もあるようですし、
タトゥー(刺青)がある人も
「貸切のお風呂や、お風呂付きの客室がありますので、是非御利用下さいませ!!」
と記されてウエルカムです。

寛永7年(1630年)創業の箱根の老舗旅館の「おもてなし」に心惹かれ、
「人時生産性向上への取り組み」にますます興味津々です。

一の湯「生産性向上の取組み」ひらめき

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
ぶらり箱根旧街道♪ [2018年04月16日(Mon)]
昨日(4/15)、朝から新幹線で小田原へ新幹線
静岡駅でひかりからこだまに乗り継いだのですが、
在来線の興津〜熱海は大雨と強風のため運転見合わせのアナウンス
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大阪は雨も上がり、静岡も雨は上がっていたのですが・・・

小田原で箱根登山鉄道に乗り換え、箱根湯本で荷物をキャリーサービスに預けて
「箱根旧街道」を箱根湯本から元箱根に向かってウォーク足跡
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右側の一里塚
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左側の一里塚
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七曲りは車道で、歩く道はそれを横切る形で直登
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さかをこゆればくるしくて、どんぐりほどの涙こぼる
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最後の上り坂
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元箱根から芦ノ湖の湖畔を箱根関所へ
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雨は止んでいますが風が強く、遊覧船は欠航。
定期航路で関所跡から湖尻へ船

桃源台からバスで仙石原へ
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昨年11月に訪れた時は見事なススキ草原で多くの観光客で賑わっていましたが、
今はもうだれも〜♪です。

箱根の老舗旅館「一の湯」さんが昨年7月にオープンした「ススキの原 一の湯」
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昨年11月も立ち寄りましたが、今宵はお泊りです。

一の湯「生産性向上の取組み」ひらめき

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
働き方が変わるのか、働き方を変えるのか [2018年04月15日(Sun)]
昨日の記事「まず知らしむべし、依らしむべからず」の続きメモ

単に、安易な依存心で上司のいうまま、
命これに従うということではいけないのであって、
各人の自主責任による働きがぜひとも要求されてくる。
そのためには、やはりまず知らせることが必要なのである。
「まず知らしむべし、依らしむべからず」
松下幸之助『人事万華鏡』

「働き方改革」
 ―― 働き方が変わるのか、働き方を変えるのか
だれが変えるのか、自分が変えるのか、自分以外の誰かが変えるのか
だれの働き方を変えるのか、自分の働き方か、自分以外の誰かの働き方か

主語は「働き方」なのか、それとも「人」なのか
「人」が主語なら、主人公はだれか
―― 自分が自分の働き方を変えるひらめき

変えてどうする(改革することが目標なのか)
―― 自分の働きの価値を高めるひらめき

What(なにを)や How(どのように)の前に、Whyから始めるひらめき
―― なぜ、自分が自分の働き方を変えて「自分の働きの価値を高める」のか
・自分や自分の家族のため
・共に働く仲間と幸せを分かち合うため
・お客様にご満足いただいて喜んでいただくため
・社会のため(一人の社会人として社会的責任を果たすため)

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この続きはまたいつか四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
まず知らしむべし、依らしむべからず [2018年04月14日(Sat)]
昨日の記事「経営の分かる人を育てる」の続きメモ

人を育てるというのは、結局、
経営の分かる人、どんな小さな仕事でも
経営的な感覚をもってできる人を育てる
ことである。
そのためには、
何でもあれこれ命令してやらせるのではいけない。
それでは言われたことしかしない人ばかりになってしまう。
やはり仕事は思い切って任せることである。
そうすることによって、
その人は自分でいろいろ考え工夫するようになり、
そのもてる力が十分発揮されて、それたけ成長もしてくる。
松下幸之助『実践経営哲学』

松下幸之助『人事万華鏡』の「ガラス張りの経営」より――
私が事業を始めた当初は、個人経営であった。
けれども私は、ごくはじめのころから自分個人の会計と、
会社というか店の会計とは全く別にしていた。
月々一定のものを個人の会計としてとり、
店の会計を個人の用に使うということは一切しなかった。
そして、毎月店の決算をした
のである。

そういうことを、10人ぐらい人を使っているころからずっとやった
そして、その月々の決算を、
当時店員≠ニ呼んでいた従業員みんなに毎月発表した。
いわば末端の小僧さんにいたるまで公開したわけである。

決算というものは、株式会社であれば公開しなければいけないだろうが、
個人経営の間は別に公開しなくてもかまわない。
税務署さえ通れば、それでいいわけである。
けれども私は、それを社内に公開した
「今月はこれだけ売れたぞ。そしてこれだけ利益があがったぞ」
というように発表した。
その利益は、個人経営だから幾かは個人の生計にあて、
あとは店の資産として蓄積していく、
そういうことを、非常に公明正大にやった

そうすると、店員はみんな非常に明るい感じを持つようになった
これは面白いところだと思う。
別に店が儲かったからといって、10人前後の人が相寄ってやっているのだから、
それがそのまま自分のフトコロに入ることはもともとないだろう。
けれども、やはりそこにひとつの喜びというか
働き甲斐といったものを感じるのである。
それが店全体としての利益であっても、
自分の働きの結果、それだけ儲かったということはうれしいわけである。

そういうことがわからないと、なんとなく張り合いがない
「いくら儲かっているのか知らないが、ずいぶんこき使うな」
といった不満もでてくることになる。
まあ、このごろであれば、すぐに
「それだけ儲かったのなら、もっと給料を増やしてくれ」
ということになるのかもしれないが、その時分はあまりそういうこともなく、
店の発展に一つの精神的な喜びを覚えるという姿であった。
(…)
このことは会社全体だけでなく、
それぞれの部署においても同じことである。
一つの部なら部員全体、一つの課なら課員全体が、
自分の部署の方針なり仕事の実態を知ってこそ、
各人の自主的な力強い働きも期待できる。

だから、上に立つ人はつねにそういう心構えを持たなくてはならない。

昔の中国の賢人が「依らしむべし、知らしむべからず」ということを
いわれたそうである。
たしかに封建時代のように、権力者が独裁的に人民を支配している時であれば、
人民にいろいろと政治上のわずらわしいことなどは知らせずに、
自分のいうとおりにせよ、ということでも、
それなりにうまくいくということも考えられないではない。
しかし、今は民主主義の時代であり、
企業経営も民主的な姿において真に力強いものとなり得るのである。
単に、安易な依存心で上司のいうまま、
命これに従うということではいけないのであって、
各人の自主責任による働きがぜひとも要求されてくる。

そのためには、やはりまず知らせることが必要なのである
だから、今日の時代の企業経営においては
まず知らしむべし、依らしむべからず
といい直す必要があるのではないかと思う。

「特別にこれという理由があったわけではないが、
自分はただ、一緒に松下電器で苦労をしてくれる従業員の人たちに、
一カ月一生懸命働いてくれた成果がどうなったのか. を知らせるのは、
従業員の人たちに対する経営者としての礼儀やと思ったんや」

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『稲盛和夫の実学』より抜書き――
ところが日本では、それほど重要な会計というものが
経営者や経営幹部の方々から軽視されている
会計と言えば、
事業をしていく過程で発生したお金やモノにまつわる伝票処理を行い、集計をする、
後追いの仕事(処理、作業)でしかないと考えているのである。

会計というものは、
経営の結果をあとから追いかけるためだけのものであってはならない。
いかに正確な決算処理がなされたとしても、遅すぎては何の手も打てなくなる。
会計データは、現在の経営状態を
シンプルにまたリアルタイムで伝える
ものでなければ、
経営者にとっては何の意味もないのである。

企業の会計にとって
自社の採算向上を支えることは、もっとも重大な使命である。
採算を向上させていくためには、
売上を増やしていくことはもちろんであるが、
それと同時に製品やサービスの付加価値を高めていかなければならない
付加価値を向上させるということは、
市場において価値の高いものをより少ない資源でつくり出すということである。
また、それは、事業活動により従業員の生活を向上させていくと同時に、
社会の発展に貢献するための前提条件となるもの
でもある。

こで私は、われわれが日常働く中で生み出しているこの付加価値を
できるだけわかりやすく表現するために、
単位時間当りの付加価値を計算して「時間当り」と呼び、
付加価値生産性を高めていくための指標とした。
そして、「時間当り採算表」を管理部門に毎月作成してもらい、
現場で作業している従業員にも採算が簡単に理解できるようにしたのである。

まず大事なことは、経営は幹部から一般の社員に対してまで
「透明」なものでなければならない
ということである。
つまり、経営トップだけが自社の現状が手にとるようにわかるようなものではなく
社員も自社の状況やトップが何をしているのかもよく見えるような
ガラス張りのものにすべき
なのである。
会社は、決して経営者の私的な利益を追求する道具ではない。
会社の使命は、そこに働く従業員一人一人に物心両面の幸福をもたらすと同時に、
人類、社会の発展に貢献することである。
当然、経営者は率先垂範して、この会社の目的を達成するために
最大限の努力をしなくてはならない。
透明な経営を実践すれば、
この使命達成にトップが先頭に立って奮闘していることが、
社員の目からも一目瞭然になってくる

また、逆に(…)
透明な経営を行うためには、まず、経営者自身が、自らを厳しく律し、
誰から見てもフェアな行動をとっていなければならない。


社員が会社全体の状況やめざしている方向と目標、
また遭遇している困難な状況や経営上の課題について知らされていることは、
社内のモラルを高めるためにも、
また社員のベクトル(進むべき方向)を合わせていくためにも不可欠
なことである。
社員の力が集積されたものが会社の力なのであり、
社員の力が結集できなければ、
目標を達成することも、困難を乗り切っていくこともできない。
そのためには、トップに対してだけでなく、社員に対しても、
経営を限りなく透明にすることが最低限の条件
となる。

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
経営の分かる人を育てる [2018年04月13日(Fri)]
昨日の記事「自分が経営者の心意気で仕事に取り組む」の続きメモ

サラリーマンであっても、自分に与えられた仕事に関しては、
自分が経営者であるという考えに立って
みずからの仕事に処していったらいかがかと思う。
みずから独立心をもってその仕事に打ち込んでいる人でなければ、
自分も喜び、人にも喜びを与える人にはなれない。

松下幸之助『人間としての成功』

われわれはわれわれの仕事を、
いずれも一つの経営と考えねばならない。
どのような小さな仕事も
それを一つの経営なりと考える
ときには、
そこにいろいろ改良工夫をめぐらすべき点が発見され、
したがって、その仕事の上に新しい発見が生まれるものである。
『松下幸之助・経営の真髄』

松下幸之助『実践経営哲学』の「人をつくること」より――
それとともに大事なのは、
思い切って仕事を任せ、自分の責任と権限において
自主性をもった仕事ができるようにしていく
ことである。
人を育てるというのは、結局、
経営の分かる人、
どんな小さな仕事でも経営的な感覚をもってできる人を育てる
ことである。
そのためには、
何でもあれこれ命令してやらせるのではいけない
それでは言われたことしかしない人ばかりになってしまう
やはり仕事は思い切って任せることである
そうすることによって、
その人は自分でいろいろ考え工夫するようになり、
そのもてる力が十分発揮されて、それたけ成長もしてくる。

私どもの事業部制は
いわばそういうことを一つの制度化したものであり、
それによって人が育つという大きな長所があることを
私は経験から感じている。
事業部という一つの経営体だけでなく、
その中の個々の仕事、いいかえればすべての仕事について、
そのような考えをもち、それを訴えてきたのが私の経営である


もちろん、大幅に仕事を任せるといっても、
基本の方針というものはビシッと押さえておかなくてはいけない。
それなしに任せたのでは、それぞれが勝手にやるということになって、
全体がバラバラになってしまう。
あくまで一定の方針にもとづいて権限を与えるのである。
したがって、ここでもやはり、
その会社としての基本の考え、経営理念というものが
きわめて大切になってくるわけである。
その経営理念に即して、各人が自主的に仕事をしていくということであり、
そういうものがあってはじめて成り立つことだといえよう。

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君が言うような数値目標を与えてアウト、セーフ等と言うのは
管理とは言わん。
そう言う行為は日本語では『監視』と言うんだ。
そういうくだらん事をせんでも
皆が目標に向かって
自発的に走るように仕組んでいく事が
管理の本質だ
。わかるか。

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
自分が経営者の心意気で仕事に取り組む [2018年04月12日(Thu)]
昨日の記事「給料以上の働きで社会に貢献する」の続きメモ

もし10万円の給料をもらっている人が100万円の働きをしたとすれば、
その人が自分の月給以上に働いた90万円というものは、結局いろいろな形で、
自分と会社をも含めて、広く国家国民に配分されていく。
もしその人が10万円の月給に対して10万円の働きしかしなかったら、
会社にも国家国民に対しても何らのプラスをもたらさない、ということになる。

「給料以上の仕事」/松下幸之助『人生談義』

松下幸之助『人間としての成功』の「社員稼業」より――
今日は「スピード時代」だといわれています。
すべての面でテンポが早くなってきました。
事業にしても発展が急であるとともに、うっかりしていると衰退も早いわけです
ですから、このような時代には、だれもが適切にして敏速な判断が要求されます
昔のように「命これに従う」といったやり方では
大勢におくれをとることになるでしょう。
もちろん組織をもって仕事をする以上、
命令にいちいち従っていくということは必要ではありますが、
他方では個人の自主的な素早い判断が要請される時代であるともいえるでしょう。
そう考えれば、
今日はますます一人ひとりが自分の仕事に責任をもってあたるというか、
自分はお山の大将なんだ、独立した経営者なんだという心意気をもって
仕事に臨む
ことが必要なのではないでしょうか。

たとえば会計係であるならば、自分は
会社のフトコロをあずかるという一つの独立した会計業をやっている
のであって、
自分はその経営者だと考えるわけです。
そのように考え、
この職務は自分の力で経営するのだという信念をもって
日々の仕事を進めてゆく
わけです。
そうすれば、
その仕事に真剣に取り組むという態度がおのずと生まれてくるでしょうし、
その結果、仕事の能率も高まるでしょう。
もちろん、そうなれば周囲にも喜ばれ、感謝されるということにもなってきます。
そしていっそう仕事に張りあいも出てき、
面白味も加わってくるということにもなるのではないでしょうか。
またそのように仕事の成果があがるというばかりでなく、
そういう体験を通して人間としても磨きがかかり、
成長をとげていくのだと思います。

そういうことで、私はサラリーマンであっても、
自分に与えられた仕事に関しては、自分が経営者であるという考えに立って
みずからの仕事に処していったらいかがかと思います。
またそのようにみずから独立心をもってその仕事に打ち込んでいる人でなければ、
自分も喜び、人にも喜びを与える人にはなれないと思うのです。


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われわれはわれわれの仕事を、
いずれも一つの経営と考えねばならない。

どのような小さな仕事もそれを一つの経営なりと考えるときには、
そこにいろいろ改良工夫をめぐらすべき点が発見され、
したがって、その仕事の上に新しい発見が生まれるものである。

世間すべての人々が同じように努力しながら、
成功する人はまれであるのは、
いま言うところの経営の観念に欠け、何らの検討工夫をなさず
ただ仕事に精出しているにすぎないからである。
本所(法人改組前の松下電気器具製作所)
かくのごとき(経営の観念を欠く)人々の集団であるときは、
その将来も危ぶまれる次第である。
一人で世間へ放り出しても立派に独立独歩し、
何をしても一人前にやっていける人びとの集まりとなってこそ、
所期の目的が達せられるわけであり、
かつ、かく経営者たるの修養を積むことによって、
諸君各自の将来も、いかに力強きものがあるかを考えねばならない
と痛感する次第である。
「一人一人が自分の仕事を一つの経営と考える」
/『松下幸之助・経営の真髄』

もし社員稼業に徹するならば、
命じられただけの範囲で仕事を済ませるということはできない
松下幸之助『社員稼業』

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
給料以上の働きで社会に貢献する [2018年04月11日(Wed)]
昨日の記事「自分の働きを自問自答し、日々高めていく」の続きメモ

お互いに毎日一生懸命に仕事をしている。
しかし、ただなんとなく一生懸命やっていればそれでよい、というわけではない
その働きの結果が、何らかの成果として現われ、会社にプラスし、
社会に貢献しているということであってはじめて、
その働きが働きとしての価値をもつ。

それができているか、日々自問自答しつつ、他人にも評価を求め、
自分の働きを高めていく努力を心がけていきたい。
松下幸之助『社員心得帖』

松下幸之助『社員心得帖』の「身につまされて価値を知る」より――
私はだいぶ前のことですが、
フッと次のようなことを感じたのです。
自分はいま社長である。社長で月給はいくらもらっている。そうすると、
そのもらっている少なくとも10倍は、
私一人ででも、会社を儲けさせなければならない

もしそれができなければ、社長を辞めないといけないということです。

2万円の月給をとって、
1万円の知恵すらも出さなければ、働きをしなければ、
会社は損です。それでは会社は成り立ちません。

10倍も儲けさせなさいとは要求しませんが、
少なくとも5倍は儲けさせなければなりません
3万円もらったら、15万円は完全に会社に儲けさせる、
という確信に立ってもらわなければなりません。
自分はこれだけ月給をもらっているが、
どれほど会社に利益(売上でなく利益)を与えているかということです。

それは、会社の決算をみたら簡単にわかるじゃないか、という人もあるでしょう。
総収益からいったら、そういうことになります。

しかし、ほんとうは、そう簡単なものではありません
もし人の足を引っぱるような働きをしている人がいなければ、
実際はもっと儲かるものかもしれません。

もっと利益があがります。そうすると国が喜びます。税金がたくさんとれるから。
その税金で困った人を助けるということになる。
結局、諸君が困った人を助ける、ということになります。
そういうことを考えたことがあるのかどうかということです。

大学へ一人いくのには、国立大学の場合一人卒業するのには、
在学中の4年間に国が何百万円も使っています。
だれが出しているのか。
みなさんが、いまいったように1万円月給をもらって2万円、3万円の働きをする
その3万円の働きのうちの一部分が税金となり、それが大学へいっているのです。
大学生はそれを知らないから、みなさんにお辞儀もしません。
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けれどもほんとうは、われわれの汗と脂によってできた収益の半分は、
政府へ行く。そのうちの一部が大学の教育に使われている
のです。
われわれが出しているのです。
それを受けるのはだれであるか、というと大学生である
やがて国のためになってもらう、やがて社会のためになってもらう、
やがて会社に入って立派な社員になってもらう、ということの責任において、
われわれが出しているわけです。みなさんが出しているわけです。
そう思ったら愉快じゃありませんか。心の中でそう思っていたらいいのです
あの人は大学へ行ってるけれども、
ぽくが行かしてあげているのだ、と思っていればいいわけです

それを思うと、2万円の月給をもらうためには、
やっぱり10万円の働きをしなければならないということになるでしょう。
みなさんがもし、何か自分で事業をした場合に、
社員を一人か二人雇ったら、必ずそう考えると思います。

この人に月給を2万円あげるけれども、どのくらい働いてくれるか、と案ずる
すぐに計算する。みなさんでもそう計算するでしょう。
それて働かなければ心配する
あの人はどうも具合が悪いな、と思うでしょう。
それがこれだけ大きな会社にいると、そんなことはわからないのです。
月給が安いとか、高いとかいっていますけれども、
身につまされてみると、よくわかるのです。

これは何でもないことですが、非常に大事なことです。
価値判断ができるというのは、こういうことでしょう。
身につまされる立場に立ってみると初めて価値判断ができる
人にもらったのでは、価値判断はできません
自分が金を出して買ってみると、
これは30円で買ったのだ、なるほどこれは30円ぐらいするな、と頭に入る。
価値判断ができるわけです。タダでもらったのではわからない。
それといっしょです。そういうことの累積によって、
その人の経済観といいますか、経済知識といいますか、
価値判断というものが、ほんとうに生まれてくると思うのです。
それなくして、生まれっこありません
生まれたときには、非常に似て非なるものが生まれると思います。
そういう見方を、みなさん自身ですることが、
また非常におもしろいと思うのです。

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松下幸之助『道をひらく』より――
「同じ金でも」
同じ金でも、他人からポンともらった金ならば、
ついつい気軽に使ってしまって、いつのまにか雲散霧消。
金が生きない。金の値打ちも光らない

同じ金でも、アセ水たらして得た金ならば、
そうたやすくは使えない。
使うにしても真剣である。慎重である。
だから金の値打ちがそのまま光る

金は天下のまわりもの。
自分の金のといっても、たまたまその時、自分が持っているというだけで、
所詮は天下国家の金である。その金を値打ちもなしに使うということは、
いわば天下国家の財宝を意義なく失ったに等しい。

金の値打ちを生かして使うということは、
国家社会に対するおたがい社会人の一つの大きな責任である。義務である。
そのためには、金はやはり、自分のあせ水をたらして、
自分の働きでもうけねばならぬ

自分のヒタイのアセがにじみ出ていないような金は、
もらってはならぬ。借りてはならぬ

個人の生活然り。事業の経営然り。
そして国家の運営の上にも、この心がまえが大事であろう。

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
自分の働きを自問自答し、日々高めていく [2018年04月10日(Tue)]
昨日の記事「自分は社員稼業の主人公だ」の続きメモ

つねに仕事の主人公になれ。
人から言われることだけをやればよいというような、
安易かつ単純な考えではいけない。

自分は、社員稼業をしているのだ、独立経営体の大将なのだ、
という考えに徹すれば、
想像もできない大きな力と大きな成果が生まれてくる。
松下幸之助『松翁論語』

松下幸之助『社員心得帖』の「自分の働きと給料」より――
あるとき、若い社員の人たちに、大要つぎのような話をしたことがあります。
「ぼくは、皆さんご承知のように、
この会社の最高責任者として、いちばんたくさんの月給をもらっている。
それがいくらかということはここでは言わないが、
かりに100万円なら100万円とする。
その場合、ぼくが100万円の仕事をしていたのでは、会社に何らプラスしない。
ぼくの考えでは少なくとも1000万円の仕事をしなくては、
この会社は立っていかないだろうと思う。
あるいは1億円、2億円の仕事をしなくてはならないだろう。
そういう働きができているかどうかということを自問自答しつつ、
ぼくは自分なりに一生懸命努力しているわけだ。

皆さんについてもそれはいえることで、皆さんの月給がかりに10万円であれば、
10万円の仕事しかしなかったら、会社には何も残らない。
そうなれば会社は株主に配当もできないし、国に税金も納められない。
だから、自分の今月の働きが、はたしてどのくらいであったかということを、
常に自分に問うていく必要がある

もちろんどの程度の働きが妥当であり、望ましいかということは
いちがいにはいえないが、まあ常識的には、
10万円の人であれば少なくとも30万円の働きをしなくてはならないだろうし、
願わくば100万円やってほしい。
そういうふうに自分の働きを評価し、自問自答して自分の働きを高め、
さらに新しい境地をひらいていってもらいたい。

そういう姿が全部の社員に及んでいけば
そこに非常に力強いものが生まれてくると思うのだ」

このことは私は、きわめて大事なことだと思います
お互いに毎日一生懸命に仕事をしている。
しかし、ただなんとなく一生懸命やっていればそれでよい、
というわけではありません。

やはりその働きの結果が、何らかの成果として現われ、会社にプラスし
さらに進んでは、社会に貢献しているということであってはじめて
その働きが働きとしての価値をもつのだと思います。

もちろん世の中にはいろいろな仕事があり、
実際は仕事によっては具体的な金額で評価しにくいという場合もあるでしょう。
しかし、やはりそういうこと(自分の働きの貢献)を自問自答しつつ、
またときには他人にも教えを請うて、
そうした評価の目安を求め、
自分の働きを高めていく努力を、日々心がけていきたい
ものだと思います。

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お互いに毎日一生懸命に仕事をしている。
しかし、ただなんとなく一生懸命やっていればそれでよい、というわけではない
その働きの結果が、何らかの成果として現われ、会社にプラスし、
社会に貢献しているということであってはじめて、
その働きが働きとしての価値をもつ。

それができているか、日々自問自答しつつ、他人にも評価を求め、
自分の働きを高めていく努力を心がけていきたい。
松下幸之助『社員心得帖』

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
自分は社員稼業の主人公だ [2018年04月09日(Mon)]
昨日の記事「お互いの社会的責任(2)」の続きメモ

人と人とが相寄って暮らしているこの世の中、
どんなことに対しても、
自分は全く無関係、自分は全く無責任、そんなことはあり得ない。
一見何の関係もなさそうなことでも、まわりまわってわが身につながる
それぞれに深い自己反省と強い責任感が生まれなければならない
すべてを他人のせいにしてしまいたいのは、人間の常であろうけれども、
それは実は勇気なき姿である。心弱き姿である。
そんな人びとばかりの社会には、自他とも真の繁栄も真の平和も生まれない。
おたがいに一人前の社会人として、責任を知る深い反省心大きな勇気を持ちたい
「わが身につながる」/松下幸之助『道をひらく』

松下幸之助『社員稼業』の「序にかえて」より――
(…)
今日、独立した経営者は数多くあって、その経営ぶりはさまざまです。
それぞれの人の持ち味において、自主独立の形で経営が行なわれています。
うどん屋さんの主人公もそうです。そば屋さんの主人公もそうです。
夜なきうどんの主人公も独立しています。
その人たちは、いわばその仕事を自分一人でやっているのです。
自分一人で、独立経営体として、そこに精魂を打ち込み
おのが事業として物を見、物を判別し、そうして是非を判断しているのです。
しかし、会社勤めのいわゆるサラリーマン、社員という人たちは、
そこまでは徹していないでしょう。
徹している人があってもごく少数で、大部分は、会社の社員という立場において、
単なるサラリーマン根性というか、
要するに与えられた仕事を遂行しているといった心構えに終わっているのではないか
という感じがします。

それをもう一歩進めて、自分は、会社という一つの社会の中で、
社員稼業をしている独立経営体であると考える。
すなわち、みなさん一人ひとりが
自己の独立経営として、自分はこの会社の社員稼業をやっているんだと
こういうような心意気になって物を見、物を判断することが
はたしてできないものかどうか、また、そうすることは間違ったことなのかどうか、
ということを考えていただきたいのです。

もし、社員稼業に徹するならば、
たとえば命じられただけの範囲で仕事をすませるということはできない
と思います。
みずからの稼業が夜なきうどん屋の主人であったとしたならば、
自らすすんでうどんを売るというような心がけで仕事をしなければならないでしょうし、
川べりに屋台店を出して、お客さんに呼びかける必要があるでしょう。
また、きょうのおつゆの味わいはどうであるかと、みずから食べてみて、
少しからいとか、からくないとか、自分で味わい、考えるということもやるでしょう。
幸いにして、最初のお客さんが来たときに、
そのお客さんにうどんを渡し、まず第一に発する言葉は、
「きょうの味はいかがですか」ということだと思うのです。
自分はこれでいいと思うけれど、お客さんはどう感じているか、
これは当然きくべきことだと思います。
それを聞かない夜なきうどんの主人公であれば
それは非常に自分の商売を軽視していると思うのです。
ところが、自分の商売に非常に熱心ならば、
たきたての汁の味、うどんのぬくみというものが、どういうふうにできているか、
お客さんはどうこれを判定してくれるかをききたくなると思うのです。
そして、お客さんから「きょうの味はうまいよ」といってもらえることによって、
非常に安心だ、それではこのとおりやったらいい、ということになるでしょう。
そういうような努力の姿に、私は独立自営の花が咲くと思うのです。
すべて独立経営というものは、そんなものでしょう。
そしてこれは、
社員稼業の主人公であるみなさんとしても同じことがいえると思います。
みなさんが、みなさんの勤める会社の社員ということについて、
「これは自分の稼業なのだ。私はこの会社の社員稼業の主人公なのだ。
 これは私の家の事業でもあり、またこれいわば白分個人の事業なのだ。
 そういう意味でのこの会社の社員だ
こういうふう考えに徹したならば、みなさんの頭から何が生まれるかというと、
想像もできない偉大な力が生まれてくると思うのです。
(…)
そして、みなさんが社員稼業の店主、主人公であるとなれば、
みなさんの身近な人はみな、みなさんのお得意であり、お客さんということになります。
上役もお得意、同僚も後輩もみなお得意です。
今みなさんが町へ買い物に行くと、商店では、「毎度ありがとうございます、
これはいかがでしょうか」といって商品を見せるでしょう。
「勉強しております、まあここへおかけください」ともいうでしょう。
みなさんにとって後輩や同僚や上役がお得意であるということは
それと同じことをすべきだということなのです

会社に勤めるみなさんは、そういう立場に立ってはどうかと思うのです。
みなさんのやっている仕事というものは、
単に月給をもらって働くサラリーマンというのではなくして
それを自分が事業としてやっている、その事業によって報酬を得ているのだ
こう解釈すれば自分というものが浮かび上がってくると思います。

自分の創意工夫を次つぎに出して、
お得意である後輩であれ、同僚であれ、課長であれ、部長であれ、それを売り込む。
その売り込むにあたっては、
「これは非常にいい品物でして、あなたのためになります」という。
商売だったらそういいます。
「そんなにこれはいいか」
「必ず役に立ちます。ぜひお使いください」というような態度で、
まごころをもって後輩、同僚に接し、そして上役に接する。
「それではいっぺん使ってみようか」ということになって、自分の創意が用いられる。
自分の稼業はだんだん発展していく
その発展は自分だけではなく、社内全体に及んでいくわけです。
そしてさらには会社を通じ、大きく社会全体の発展に結びつくと思います。

みなさんがそういうような心境になったならば、
仕事に伴う苦痛というものはなくなり、
働く喜び、自分の稼業が繁栄していく姿の喜びに、
時のたつのも知らない、という状態になるのではないでしょうか。
そこまではいかなくても、
少なくとも、自分の仕事がおもしろくない、悩みがある、といった姿は
なくなるのではないかと思います。

会社に勤めるみなさんが、
この社員稼業ということについて改めて自問自答し、
自分は社員稼業の主人公だというような心境に到達できたなら、
非常に望ましい姿が生まれてくるに違いないと思うのです。


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つねに仕事の主人公になれ。
人から言われることだけをやればよいというような、
安易かつ単純な考えではいけない。

自分は、社員稼業をしているのだ、独立経営体の大将なのだ、
という考えに徹すれば、
想像もできない大きな力と大きな成果が生まれてくる。
松下幸之助『松翁論語』

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
お互いの社会的責任(2) [2018年04月08日(Sun)]
昨日の記事「お互いの社会的責任(1)」の続きメモ

企業のみならず、あらゆる個人、あらゆる組織、団体が 
それぞれに社会的責任をもっていて、
それぞれがその社会的責任を適正に果たしていくところに、
社会全体としての向上発展がある。
(…)
その各個人、各団体の社会的責任には二つあり、
その一つは、みずからの本業(本来の仕事)を通じて社会に貢献すること。
自主的にそれぞれの本業にいそしむということが、
基本の社会的責任であり、
それが社会生活を高め、
自他ともの幸せを生む基盤になる。

「お互いの社会的責任」/松下幸之助『人間としての成功』

全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、
人類、社会の進歩発展に貢献すること。
京セラ「経営理念」

松下幸之助『人間としての成功』より――
「お互いの社会的責任」
ところで、お互い社会人として、
もう一つの重要な社会的責任があるように思います。
それは何かといいますと、
本業以外の社会生活においても、
それぞれ一個の社会人、国民としての共通の社会的責任が課せられている
ということです。
たとえば、社会人として公衆道徳をキチンと守るとか、
互いに仲良く協調し合うとか、
主権者として政治に関心をもち、投票を大事にし、
政治をよりよくしていくといったこともあるわけです。
また、法を守り、税金をおさめ、子弟を教育するといった
社会人としての共通の責任もあるでしょう。
そのような社会的責任というものを、
個人といわず団体といわず
お互いにはっきりと自覚することが大切なのではないてしょうか

ところが昨今ではそうした一人ひとりの社会的責任は、
あるいは一つ一つの集団の社会的責任というものが、
必ずしも十分に認識されていないように思われます。

その結果、自分の社会的責任はタナにあげて、
他の責任だけをもっぱら追及するというような姿が
多くみられるのではないかと思うのです。
もちろん、他の責任を追及することが悪いというわけではありません。
人間というのは一面弱いもので、
他から追及されないと、
なかなか進んで自分の責任を全うしようとしない面ももっています。
ですから、
それぞれが自分の社会的責任をよりよく果たしていけるように、
お互いにある程度追及し、注意し合うことはそれなりに意義があると思います。
しかし、
まず自分の社会的責任を自覚し、それを遂行しつつ、
他の人が社会的責任をよりよく果たしていくように見守り追及する

というのであればいいですけれども、
いまはそれが反対になって
他の責任は声を大にして追及するけれども
自分のほうは怠っているという傾向があります
というより、
そういう社会的責任を自覚さえしていないという姿が
一面多いのではないかと思うのです。
しかしこれではお互いの共同生活はうまく運ぶはずはありません
ですから
お互いにそれぞれの社会的責任というものをまずしっかりと見つめ、
これを誠実に果たし合うように心がけたいものです。

そういうところから、よりよき社会が生まれてくるのではないでしょうか。

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何でもかんでも、わるいことはすべて他人のせいにしてしまったら
これほど気楽なことはないだろう。
すべて責任は相手にあり、都合のわるいことは知らぬ存ぜぬである。
だがしかし、みんながみんなこんな態度で、責任の押しつけ合いをしていたならば、
この世の中、はたしてどうなることか。

理屈はどうにでもたてられる。
責任をのがれる理屈は無数にあろう。
また法律上は、無関係、責任なしということもあり得ることである。
しかしこれは理屈や法律だけのこと。
人と人とが相寄って暮らしているこの世の中、
どんなことに対しても、
自分は全く無関係、自分は全く無責任、そんなことはあり得ない。
一見何の関係もなさそうなことでも、まわりまわってわが身につながる
つながるかぎり、
それぞれに深い自己反省と強い責任感が生まれなければならないであろう。

すべてを他人のせいにしてしまいたいのは、人間の常であろうけれども
それは実は勇気なき姿である。心弱き姿である
そんな人びとばかりの社会には、自他とも真の繁栄も真の平和も生まれない。
おたがいに一人前の社会人として、責任を知る深い反省心と大きな勇気を持ちたい
「わが身につながる」/松下幸之助『道をひらく』

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
お互いの社会的責任(1) [2018年04月07日(Sat)]
昨日の記事「何のために自己の向上に努めるのか」の続きメモ

自己の向上に努めることは、
ただ単に自分のためばかりではなく、
社会の一員としての自分の責任であり義務であり、
自分勝手な態度は許されない。
「自分を高める義務」/松下幸之助『社員心得帖』

松下幸之助『人間としての成功』より――
「お互いの社会的責任」
最近、企業の社会的責任ということがよく論じられています。
たとえば公害防除とか、品質の向上や価格の安定とか、
地域社会への奉仕活動といったことが求められているわけです。
たしかに企業というものは、社会があってのものですから、
当然そういった社会的責任を誠実に果たしていかなくてはならないと思います。
とりわけ今日では、企業というものが社会においてしめている役割は
非常に大きなものがあり、企業活動のあり方いかんによって、
国民生活に必要な物資の供給をはじめ、
いろいろな面で国民生活に影響を及ぼすところが少なくありません。
ですから、企業はその社会的責任を
誠心誠意果たしていくことがきわめて大切であることはいうまでもないでしょう。

ただ、ここで考えなければならないのは、
社会的責任というものは、ひとり企業だけが負っているのではないということです。
今日の民主主義社会においては、一人ひとりが権利をもつとともに、
義務、責任というものを同時に負っているわけですから、
あらゆる個人、あらゆる組織、団体が
それぞれに社会的責任をもっている
ということです。
そして、それぞれがその社会的責任を適正に果たしていくところに、
社会全体としての向上発展がある
のだと思うのです。

つまり企業はもちろんですが、
労働組合にも宗教団体にも、学校、政党、その他あらゆる団体に
それぞれの社会的責任があるということです。
また、各個人にもあります
政治家、経済人、教育家、学者、宗教家など
それぞれの職場なり立場なりに応じた社会的責任がありますし
家庭の主婦には主婦としての、学生には学生としての社会的責任がある
と考えられるわけです。
そこに、
お互いがともに生きていくうえでの一つの大事なポイントがある
といえましょう。

その各個人、各団体の社会的責任とはいったいどういうものでしょうか
考え方はいろいろありましょうが、
私は大きくいって二つあるのではないかと思います。

その一つは、みずからの本業というか、
本来の仕事を通じて社会に貢献する
ということです。

たとえば、レストランの経営者であれば、
その店の料理をいかにおいしくつくり、
適正な値段で提供してお客さまに 喜んでもらうかということです。
それがすなわちレストラン経営者の基本の社会的責任だと思います。
そのように会社の社員は社員として日々の働きにいそしみ、
教師は教師として青少年の育成に全力を傾ける。
また主婦は主婦として家庭を守り、子供の養育に心をこめる。
学生は学生として、いまは心身の学びに全力を尽くす。
政治家は政治家として、社会の安定発展を求めて政策を考え、
その実践をはかっていく。
そういったそれぞれがいま携わっている職業なり仕事において
みずからの最善を尽くし成果をあげていくということが、すなわち、
それぞれの基本の社会的責任を果たしていくことになるのではないかと思うのです。

もしそれぞれが互いに怠けて
レストランへ行ってもおいしくない料理を高く食べさせられる、
会社員もブラブラと遊んで働かず、
教師も青少年に大切なことを教えない、
家庭でも主婦が主婦としての役割を果たさない、
学生たちは勉強しないで遊ぶ一方である、
政治家もまた社会繁栄の方策を考えないで私利私欲に走る、
というようなことばかりでは、
決してのぞましい社会は生まれてこないでしょう。
それはひいてはその社会に住む一人ひとりにも
必ずはねかえってくる
と思います。
ですから、お互い社会人として、
自主的にそれぞれの本業にいそしむということが、基本の社会的責任であり
それが社会生活を高め、自他ともの幸せを生む基盤になると思うのです。

ところで、お互い社会人として、
もう一つの重要な社会的責任があるように思います。
それは何かといいますと、(この続きは明日)

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われわれの商売というものを考えてみますと、これはいうまでもなく本業です。
アマチュアでなく、プロなのです。
とすると、アマチュアの人が余技に打ちこむ以上に、
自分の本業に打ちこまなくてはウソだといえないでしょうか。
いささか厳しい言い方をすれば、
本業に全身全霊をささげて、
そこに喜びが湧いてこないというようなことでは、
その本業から去らなければならないという見方もできると思います。
能力の問題ではありません。
それに全身全霊を打ちこむ喜びをもつかもたないかの問題です。
力が及ばない、という人はたくさんあると思います。
しかし、及ばないなりに一心に打ちこむならば、
その姿はまことに立派なものがあると思うのです。
そういう姿が、人に感銘を与え、人を動かすことになります。
そこに知恵と力とが集まって、
成果を生むことができるようになってきます。
ところが、そういうものがなかったら、
いくら力があったとしても、
それだけにとどまって、大きな成果はあげられないと思います。
ですから、そういう意味で、本業に全身全霊を打ちこんで
なお興味が湧かないというのは許されないことだといえましょう。
「プロの自覚」/松下幸之助『経営心得帖』

この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
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