金のなる柿の木を根元から断ち切る
[2019年04月10日(Wed)]
井上ひさし『四千万歩の男(一)』の「星学者たち」より――
「そのなかでも忘れられないのは庭の柿の木のことで、
そう、ずいぶん大きな柿の木が庭の隅に生えておりましてね、
毎年、秋になるといい実がびっしりと生る。
その実がまたいい値で売れる、まさにわが家にとっては金のなる木だった。
しかし、実が生りだすとこっちはおちおち星の観測もできない。というのは、
近所の悪たれどもが夜になるとこの柿の実を狙ってこっそり忍び込んでくるからで、
毎夜、屋根に登っても、天文の勉強のために登るのやら
柿盗人を見張るために登るのやらわけがわからなくなってしまった。
(…)
ところがある日のこと、仕事から帰って庭をひょいとみると
柿の木が根元から切られて横倒しになっている。
『いったいだれが切ってしまったのだ』と訊くと、志勉がこう答えた。
『わたしが切らせました。
おかげでわたしはいま、こうやってどうやら天文学で身を立てることが
できるようになった。しかもそのいま、
志勉があんなにも希っていたことが実現したいま、
皮肉なことに当の志勉はこの世にいない。五人の子を生み身体をくたくたに疲れさせ、
一度も新しい着物に袖を通すというたのしみも知らず、
ただただわたしに気を配ってくれ、そして不意に逝ってしまった。
その志勉のことを憶うととても……」
毎年、秋になるといい実がびっしりと生る。
その実がまたいい値で売れる、まさにわが家にとっては金のなる木だった。
しかし、実が生りだすとこっちはおちおち星の観測もできない。というのは、
近所の悪たれどもが夜になるとこの柿の実を狙ってこっそり忍び込んでくるからで、
毎夜、屋根に登っても、天文の勉強のために登るのやら
柿盗人を見張るために登るのやらわけがわからなくなってしまった。
(…)
ところがある日のこと、仕事から帰って庭をひょいとみると
柿の木が根元から切られて横倒しになっている。
『いったいだれが切ってしまったのだ』と訊くと、志勉がこう答えた。
『わたしが切らせました。
あなたは学問をなさらなければならないお人ですのに、
あの柿の木を気になさってこのごろは柿の番人に堕ちてしまわれました。
たしかにあの柿の木はお金を生らせてくれます。
けれどそのようなお金よりもあなたの学問の方がよほど大切でございます。
差し出がましいことをしたとは思ってはおりますが、
どうか今夜からは心をお乱しになることなく、学問にお打ち込みくださいまし』
それからですよ、わたしが死にものぐるいで勉強をはじめたのは。あの柿の木を気になさってこのごろは柿の番人に堕ちてしまわれました。
たしかにあの柿の木はお金を生らせてくれます。
けれどそのようなお金よりもあなたの学問の方がよほど大切でございます。
差し出がましいことをしたとは思ってはおりますが、
どうか今夜からは心をお乱しになることなく、学問にお打ち込みくださいまし』
おかげでわたしはいま、こうやってどうやら天文学で身を立てることが
できるようになった。しかもそのいま、
志勉があんなにも希っていたことが実現したいま、
皮肉なことに当の志勉はこの世にいない。五人の子を生み身体をくたくたに疲れさせ、
一度も新しい着物に袖を通すというたのしみも知らず、
ただただわたしに気を配ってくれ、そして不意に逝ってしまった。
その志勉のことを憶うととても……」
(万歩)
人生においてはカメのような、歩一歩のあゆみが大切だと思う。
速度を多少速めるのはよいが、
二歩三歩いっぺんに飛ぼうとすれば往々にして失敗することにもなろう。
「歩一歩のあゆみ」/松下幸之助『思うまま』
旧豊郷小学校
速度を多少速めるのはよいが、
二歩三歩いっぺんに飛ぼうとすれば往々にして失敗することにもなろう。
「歩一歩のあゆみ」/松下幸之助『思うまま』
旧豊郷小学校
この続きはまた明日
会計は算術ではなく、思想である
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
会計は算術ではなく、思想である
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。