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1931年(昭和6年)海上巡回展覧会船”信濃丸”出帆! [2007年03月17日(Sat)]
信濃丸は,1931年(昭和6)7月19日、ここ函館西浜岸壁を出港し北東北地方に巡回の船旅にたった。
信濃丸は、1900年(明治33)イギリスの造船所で進水し、日本郵船の貨客船としてヨーロッパ向けの定期航路で活躍した。
その後、軍が徴用し、1906年(明治39)日露戦争が始まり仮装巡洋艦として日本海の監視にあたり、ロシアバルチック艦隊を発見したことで名をはせた。

1930年(昭和5)日魯漁業が、北洋のサケマス母船として購入した。

この船を翌年1931年に函館市が日魯漁業からチャーターし、市内の商店へ出品参加を求め寄航各地に函館の特産品紹介、販売、宣伝と函館からの海上の旅として観光客も乗船し、青森県の下風呂、大畑その他の県の宮古、大船渡、石巻、塩釜に寄航地元の熱烈歓迎を受けた。
1943年(昭和18年)には、シベリア抑留者の復員船として従事し、1951年(昭和26年)売却解体された。
ここに信濃丸は、船舶としてきわめて長い51年の船歴を閉じたのである。

                  【盛大な見送りを受け出港する信濃丸】


                   【欧州航路時代の信濃丸】


2007年3月16日”中空土偶=北の縄文ビーナス”が国宝に! [2007年03月17日(Sat)]
17日の道新の一面に”中空土偶 国宝に”の題字が眠いまなこを開眼させた。
”おめでとう”と一言。 何も携わらない私でさえうれしいのだから、関係者の喜びは大変だったと思います。
前のブログに記したよう、この土偶の発見と大船の大遺跡の発掘は、函館の歴史と文化を分厚いものにしました。
昨年の10月7日旧南茅部町で開かれた"縄文市民サミットinはこだて 2006縄文の道フォラム”に参加して、関係者達の南茅部の遺跡に対する想いが伝わる催しでした。この熱意が、すばらしい贈りものを生み出しましたね。
                    【発掘した当時の中空土偶】


                    【たくさんの土器も発掘されています】

           【昨年開催された南茅部町の会場前 エセ縄文人が火おこしをしています】

       【昼食に縄文食が出されました。 とてもヘルシイーな食事で好評でした】
 
            【全国各地から集まったサミット代表者】 

2007年3月11日"はこだて検定"900名が受験!! [2007年03月13日(Tue)]
港はこだてのブログ製作も一時中断し、函館商工会議所が主催する”函館歴史文化観光検定”の受験に応募しました。
この検定に当たって販売した公式テキストブックは3,000部が売れ、受験申込者は、1,000名を突破する一大ブームとなりました。
2007年3月11日に試験は実施されましたが、車の収容スペースが少ないためないため臨時バスによる運行も行うほどでした。
当日は、試験開始がAM10時30分、会場の入場は9時30分ということで、家を8時50分出て会場には9時10分に到着しましたがすでに満車のため付近の道路の路駐となりました。

テストの会場は人数の関係から分散して行われましたが、私の会場は大講義室で約200名が受験しており、ママスコミのカメラの放列の中テストが開始されました。

問題の1問目を読んだとき、正解が即座に回答できない難しい問題のため、その後の問題を想像し頭の中が真っ白になりました。
1問目は、函館市と1973年(昭和48)合併したのはどこかとの設問でした。
年代で問われてもなかなか理解できず、自分が生まれた年からX歳のときのことで、亀田町か亀田市であるが、亀田町を選択しました。

(テスト終了後調べてみたら正解は亀田市で、当時の新聞には、市同士の大型合併の題目が目に付きました。ちなみにその次の年の昭和49年、私たち夫婦は旧亀田市である「旧赤川通り町」現美原町に住まいを求め引越し現在も住んでいます。)

函館といえば”函館山の夜景とロマンチックな教会等の建物、そして旨い魚貝類”での観光都市がシンボルですが、今回の検定の応募した受験者は、函館の歴史が、近年厚みが増してきている事に気づくでしょう。

1975年(昭和50年)8月旧南茅部で発見された「中空土偶=北の縄文ビーナス」が国の指定文化財になり、世界各国にその華麗な姿を紹介し、さらに大船遺跡群のその後の発掘が続く中、平成16年の南茅部町と函館市の合併により、函館市の歴史が縄文時代を語らずして成り立たなくなりました。

今回の検定を受験した人数が900名を超えました。この検定は、今回がはじめてで、主催者である商工会議所も大変苦労したと思います。
しかし、これほど市民が関心もち話題を呼んだことは最近ありません。函館の歴史と文化を知り、未来の函館市を築き上げようとする市民意思の表れでもあります。
函館市民に栄光あれ!!

2006年(平成18年)7月飛鳥U入港 [2007年03月07日(Wed)]
函館港は、青函連絡船が運行しているため、港湾の将来的に向けての対応が遅れ、連絡船廃止以後、大型客船が水深の浅さから寄航できないこともあったようだ。
平成14年水深-14mの港町埠頭が完成し、画像で見るような「飛鳥U」も入港できることになった。
観光地としてこのような大型客船が入れるようになり、「観光はこだて」の将来に期待したい。


【函館山が海を挟んで対岸に見えます】


1954年(昭和29)青函連絡船貨物船「北見丸」(V) [2007年03月07日(Wed)]
北見丸が沈没した地点は、函館港より一番遠い葛登支岬の沖合いであつた。
生存者が南西の風に流され着いた海岸は、函館山の裏の寒川の海岸であつた。
生存者は、海岸伝いに函館に戻る事は危険と判断し、函館山を裏から登り市街地にたどり着いたと言われている。
本船は、損傷が酷く復元を取りやめ廃船とし解体された。

【函館ドックに入渠した北見丸、車両甲板より上部がない】

1954年(昭和29)9月青函連絡貨物船「第十一青函丸沈没」(U) [2007年03月07日(Wed)]
昭和29年9月26日青函連絡船5隻が沈没した。5隻の中で第十一青函丸は、唯一乗組員に生存者がなく、全員が殉職した。
青函航路は、昭和20年7月14,15日の米軍の攻撃により連絡船は壊滅した。
本船はちょうど建造中であり工事を急ぐことにより昭和20年10月9日、終戦後2月足らずに就航している。
本船が果たした役割は、青函航路の数少ない隻数の中で,終戦後、物のない時代、物資輸送を通じて国民を飢えから解放される一翼を果たした。

【昭和29年6月に撮影 遭難する3月前の第十一青函丸】    

【船首部のみの残し水没している、船名が読み取れる】
1954年(昭和29)9月洞爺丸沈没【T】 [2007年03月06日(Tue)]
1954年(昭和29)9月26日道南を襲った台風15号は、青函連絡船客船洞爺丸、貨物船第11青函丸、北見丸、日高丸、十勝丸が遭難沈没、1、562名の尊い命を奪った。
台風が道南に向かっていという情報があったが、前日の午後4時から夕日が沈む頃までは、函館市内は異常な静けさと空全体が赤らんだ無風状態になった。
台風の眼とは気づかず台風が去ったと判断する市民もいた。しかし夜が深まるにつれて、吹き返しがひどくなり、深夜には、風速50mを超え、家々を揺るがした。
朝が明け市民が昨夜の恐怖を語る中、連絡船沈没の情報が流れ、興味本位で入舟町の浜辺に近づくと筵に包まれた遺体が、浜辺に打ち上げられていた。遺体は、どれも青白く救命胴衣を身に着けた姿が痛々しかった。
【三菱神戸造船所で進水式を向かえる洞爺丸昭和22年】

【函館港を出港する洞爺丸、遠くに市民公会堂が見える昭和27年ごろ】

【ドックに係留中の洞爺丸 昭和29年2月】
【転覆状態から横転状態にした洞爺丸】
1910年(明治43)函館駅先に木製大桟橋完成 [2007年03月05日(Mon)]
函館港内でも風の強い日は、小型蒸気船での乗客の運搬、はしけでの貨物の運搬は大変なこと。
この懸案を解決するには、函館駅の先に木製桟橋を造る建設であつた。この工事は、明治43年12月15日に完成し使用開始した。
この完成後長い桟橋横を汽車も通らせ、格段と、輸送力が増大した。
【この画像は大正4年の函館港左上方に木製桟橋が見える。この頃になると、汽車も平行して通っていた。】
【接岸した比羅夫丸】

【坂上田村麻呂から命名したとい言われる田村丸】
1908年(明治41年)青函連絡船比羅夫丸就航 [2007年03月05日(Mon)]
この年函館、青森の市民が熱望していた青函航路が、国の手で初めて発注し建造された「比羅夫丸」が3月函館に入港した。
本船は,英国の造船所に発注なれたタービン船である。
この時代物珍しさもあって参観者が連日にわたって後を絶えなかった。
続いて同年4月2日には、比羅夫丸の姉妹船「田村丸」も青森に入港し、津軽海峡をこの2隻の船が往来することになる。
【函館港に入港した比羅夫丸】
【一等室の豪華さ】
【三等室の蚕棚風】
【函館 東浜町の桟橋より小型船に乗り本船に乗船、この光景は木製桟橋ができるまで続いた】
【本船に乗る乗客、貨物は、はしけで運搬】
1974年(昭和49)12月港内に巨船出現! [2007年03月05日(Mon)]
函館ドックは、25万トンドックを造り、その第一船が、冬の12月 ドックより出て、艤装岸壁に移動する作業に入った。
船の長さ330メートル、タグボート4隻使用しても思うように行かない作業、函館港もこの巨船出現で狭く感じる。
【出渠するタンカー向かいは中央埠頭】

  

【右に見える船は、連絡船ですが小さく見えます】
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