• もっと見る
アタマではわかっているけれど...
カラダがついていかない...ココロがとまどってしまう...

そんな、かつての自分のような若き人たちに

リスクと隣り合わせで波瀾万丈の人生を楽しむ
中小企業経営者 兼 明治大学起業論講師が
ココロをこめて「喝」を入れるメッセージ集

(近日出版予定)

« 目次 | Main | 第二章コミュニケーション編 »

<< 2008年08月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
やるべきことをつい先延ばしにしてしまう[2008年02月25日(Mon)]
Q:やるべきことほどつい先延ばしにしてしまう
A:背中を押してもらって「プチ修羅場」に跳び込む


 放っておいたら、どこまでも自分を甘やかす。
 やるべきことほど、いつまでも先送りにする。


 悲しいかな、これこそが「ヒトの行動様式の基本」なのかもしれません。まずはこうした「自分の心の弱さ」に気づき認めることから「見る前に飛ぶ」新しい習慣の体得は始まります。

 もちろん、私も例外ではありません。子供時代を振り返れば、親から二言目には「ものぐさで困る」と叱られていたのです。きっと「何もかもめんどくがって、なかなか行動を起こさない」タイプの子供だったのでしょう。

 今でこそ縁者からは「いつ寝るのか?」と聞かれるほど行動的になりました。社長業から大学講師、執筆、講演、社会貢献まで、日々忙しく幅広く活動しています。他人から見たら目まぐるしい暮らしも、今や私にとって当たり前の生活サイクルです。特に無理もなければ疲れも感じません。

 「ものぐさだった子供=私」の劇的な変化は、いつどんな形で起こったのでしょう?

 思い起こすと、残念ながら「自力」で獲得できたのではないことに気づきます。幸か不幸か、私の半生は、自分自身で今すぐやらざるを得ない「プチ修羅場」の連続でした。他人に背中を押されて突き出されて、やむなく動かされたというのが実感です。

 身も心も「なまくら学生」だった私は、今思えば「やればできる活動」の何分の一も動いていなかったのです。

 私の「ものぐさ」は、悲しいかな、大学にそのままエスカレータ式に進学できる付属高校に入ったことで磨きがかかりました。厄介なことに、学歴を盾に「裏付けのない自信」を秘めた「頭でっかち」になっていました。お受験が裏目に出たわけです。そのまま社会人になるまで「修羅場らしい修羅場」を味わったこともなければ、そこに近づこうともしなかったのです。

 しかし、創業間もないベンチャー「イマジニア株式会社」に入社して創業者の神蔵 孝之さんに出会って、突然、背中を押されることになります。新卒第一期で入社して、いきなり「プチ修羅場」に突き出されたのです。

 マニュアルも顧客リストも無いまま、おもちゃ屋さんにファミコンソフトの跳び込みセールスをすることになりました。ここでは、これまでの学歴も大学のゼミで学んだことも全く役に立ちません。門前払いに遭うか、売れ残ったソフトを前に罵倒される日々が続きました。しかし、逃げるわけにもいきません。創業期のソフト会社は「出すゲームが全て売れなければ存続も危うい」ので、なんとしてでも売って帰らねばなりません。

 やがて、社員が一人二人と抜け始めて人手が足りなくなり、昼は「跳び込みセールス」、夜は「ゲームのシナリオ製作」という二重生活まで強いられます。ほぼ毎日終電まで会社にいて、普通の新入社員の二倍は働いたと思います。もともと私は文系でゲームにも詳しくないにも関わらず、昼も夜も「不得手な仕事」に追い込まれたわけです。

 知識も経験もなければ、興味もなかった仕事。
 研修もマニュアルもなくて、ぶっつけ本番。
 目標が高い上、〆切りだけはしっかり決まっている。
 自分自身で解決し、行動しなければ何も始まらない。


 これぞ、言わば「プチ修羅場」そのものでした。もちろん、ものぐさでありながらプライドが高い私は、最初の半年ほどは毎日イヤでツラくて仕方がなかったのです。

 しかし、ある日、「プチ修羅場」の中で初めて見えた「風景」や「感覚」があることに気づきました。何より驚きだったのは、自分が「最もふさわしくないと思っていた場所」で、これまでにないほど「生き生きとしている自分」に気づいたことです。

 そして、いつしか「シンドイはずの二重の修羅場生活」も辛くなくなっていて驚きました。むしろ、自分からやるべきことを探して実行するようになっていました。もはや、誰かに背中を押してもらう必要もなくなっていたのです。

 もっと驚いたことに、次々に現れる「プチ修羅場」を楽しめるようにもなってきました。逆境に反応する自分に気づいたからです。自分も知らない新しい可能性を発見し、潜在能力を引き出し伸ばすのに役立つかもしれないと思いはじめていました。

 この「プチ修羅場」は、思い返せばわずか1年ほどにすぎませんでした。たった1年、いや半年ほどガマンして続けただけでした。後戻りできない「非日常体験」の中で、「頭を使う前に行動する」ことを毎日強いられました。そのおかげで「自分」が変わりはじめたのです。本来の「自分」を取り戻す「道」に戻ったといった方がいいかもしれません。

 なぜ、そうなるのかはわかりません。プチ修羅場に身を置いて、悩む間もなく忙しくしていた結果、「眠っていた自分が反応しはじめた」のかもしれません。

 若い社会人や学生と話をしていると「自分らしさ」という言葉が良く出ることがあります。しかし、「やるべきことを先送り」して「ものぐさ」している人に、真の「自分らしさ」などわかるはずもありません。かといって、そんな人は、自分の力だけで変えることもままなりません。「頭でっかち」で「行動が停滞」しているからです。

 だからこそ、まずは、あえて誰かに背中を押してもらって、あえて「自分らしくないプチ修羅場」に「自分を跳び込ませる」ことが必要なのです。

 私の場合は、某コンサルタント会社に内定が決まっていたにも関わらず、神蔵社長(現会長)に出会って人生が変わりました。「馬には乗ってみよ」と言われて、厳しい現場に放り出されました。

 今思えば神蔵社長にとっては、私以上に辛い日々が続いていたはずでしょう。しかし、松下政経塾で松下幸之助翁の「大忍」の教えを学んだからでしょう。「死んでさえいなければ、やり直せる」と繰り返し教えてくださいました。失敗にもめげない前向きな態度を目の当たりにして、言葉以上に学ぶところが大きかったのです。
 
 だからこそ、特に10代20代に、これはという達人=師匠に出会ったら、教わろうとしてはいけません。背中を押してもらって「プチ修羅場」に跳び込んで、自分で解決するのです。それでこそ「本当の自分の一端」に出会いたいものです。

 自分自身が想定しなかったような、むしろ「ふさわしくない」とさえ思えるような、そして多くの人が近づきたがらないような

 1)会社や団体に就職する
 2)職種を希望する
 3)勉強会のメンバーになる
 4)社会貢献活動をする
 5)道を極める稽古事を始める


ことが、人生を変える転機になるでしょう。

 いきなり仕事を変えることは難しくても、「プチ修羅場」を作ることはできるのです。仕事が忙しいから....と言い訳をするのは簡単です。しかし、「時間がない中で新しい挑戦を始めること」そのものが自分を磨く「プチ修羅場」になるのです。やがて「修羅場」と思っていた一大事が、10年後は「プチ修羅場」にさえなかったことに気づくでしょう。自分を一番甘やかしていたのは自分であることに気づくはずです。

 世に出回る自己啓発本や時間管理本でテクニックを学ぶ前に、「プチ修羅場」に跳び込みましょう。「安住の地」や「中途半端なストレス」の元で、いくら自己発見や自己啓発を試みても、何も始まらないのです。1年間、本を読む間もなくがむしゃらに実践して、自分の体質と気質が変えることこそが大切なのです。

Posted by 久米 信行 at 09:46 | 第一章ルーティン編 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

もう間に合わないと諦めてしまう[2008年03月04日(Tue)]
Q:もう間に合わないと諦めてしまう
A:「セカンドウインド」「ワーカーズハイ」まで続けてみる


 もう間に合わないと不安がよぎった時は、人生の小さな分岐点に立っているのです。ここで諦めてしまうか、何とかやりとげてしまうかが分かれ目となります。その積み重ねが、やがて大きな差となって現れます。

 その差は、単に技量や能力だけの問題とも思えません。本人の気質や性格の問題として片付けるのも乱暴すぎます。むしろ「ある特別な『身心』の状態」になれるかどうか、それまで「自分を信じて続けてみる習慣」があるかないかの問題に思えます。

 あえて「心身」ではなく「身心」と書いたのは、心(あたま)よりも身(からだ)の方が大切だと考えているからです。「禅」でも、同じ意味を込めて「身心」と書くように教えています。

 ところが、現代人は、とかく「からだ」よりも「あたま」の方が大切だと考えがちです。「からだ」が悲鳴を上げる前に、「あたま」が悲鳴を上げてしまいます。運動部で練習に耐えたことがある方なら「肉体的な限界」よりも「精神的な限界」の方が先に感じられることを体感しているでしょう。「あたま」でっかちの人ほど、「からだ」が動かず、行動が停滞しがちになるのも同じ理由に思えます。

 間に合わないと諦めてしまう状態も、まさに「頭でっかち」の人によく見られる症状でしょう。まずは、考える前に行動して持続する習慣と、持続して成し遂げた体験に欠けているのです。

 長距離走を楽しむランナーなら、「セカンドウインド」という言葉をよくご存知のはずです。走り始めてしばらくは呼吸が苦しく、とても長くは走れないと感じます。しかし、「長距離のランニングで、走りだして15分ぐらいたつと心搏(しんぱく)数や血圧が安定して楽になる状態(小学館「大辞泉」より)に至るのです。「酸素の需要量と供給量のバランスがとれた状態」になれば「快適にランニングなどを継続することができる(三省堂「大辞林」より)」わけです。

 つまり、「からだ」がその気になるには一定の時間がかかり、そこまでは辛いのが常なのです。しかし、しばらく「からだ」を動かしているうちに、あるところからは、その気になった「からだ」が自然に動いてくれるようになるのです。

 似たようなスポーツ用語で、「ランナーズハイ」という言葉もあります。これは「長時間のランニングなどの際に経験される陶酔状態(大辞泉)」「ランニングの途中で、苦しさが消え、爽快な気分になる現象(大辞林)」を表わします。

 「からだ」がその気になれば、不思議と「こころ」までが爽快になり、ますます長く続けられる。どうやら、私たちの「からだ」と「こころ」は、とてもシンプルで合理的な仕組みで、設計されているようです。

 何より素晴らしいことには、時間や程度の差こそあれ、走り続けさえすれば、誰にでも「セカンドウインド」や「ランナーズハイ」は訪れるということです。そして、その喜びを知れば、さらに走り続けることができますし、さらに爽快な気分も味わえる、楽しいスパイラル効果が生まれるのです。

 これは、もちろん、締め切りのある仕事やライフワークにも通じる話でしょう。「ランナーズハイ」転じて「ワーカーズハイ」と呼んでも良さそうです。

 間に合わないと諦めている人は、「セカンドウインド」や「ランナーズハイ」の状態を知る前に「走るのをやめてしまったランナー」のように見えます。あと5分続けて走るだけで=もう一踏ん張り仕事を続けるだけで、これまで味わったことの無い感覚を知ることができたかもしれないのに、本当にもったいないことです。

 しかし、「ランナーズハイ」を知らない「万年途中リタイアのランナー」が「ランニングの達人」を見れば、「何が楽しくて毎日ランニングしているんだ」としか思えないでしょう。これは「ワーカーズハイ」を知らない人が「仕事の達人」を見れば、「何が楽しくて毎日仕事を繰返しているんだ」と思うのに似ています。

 一方、「ランナーズハイ」を知っている達人から見れば、なぜ「こんなに気持ちが良いのに、毎日走らないでよく我慢をしているな」と、途中リタイア組を可哀想に思っているはずです。

 私が尊敬する縁者には、まさに「仕事が道楽」で毎日楽しくてしょうがないという人生の達人がたくさんいらっしゃいます。いつも、楽しそうに仕事をしていて、いつ寝ているんだと不思議に思うほどです。そして、ここぞという時には、休みもとらず、一晩や二晩の徹夜だって平気です。

 この状態こそ「ワーカーズハイ」です。

 残念ながら「この感覚」は、いくら達人が言葉で伝えたところで伝わりません。本人が「見る前に跳ぶ」感覚で目の前のレースに参加し、最初は苦しくとも、たとえマイペースでも、とにかく「続けること」で初めて実感できるのです。その爽快感や、完走した時の達成感を、「からだ」で実感できれば、途中で諦めてしまう「もったいなさ」を「あたま」も理解することでしょう。


Posted by 久米 信行 at 10:41 | 第一章ルーティン編 | この記事のURL | コメント(1) | トラックバック(0)

ここぞという時にアイディアが浮かばない[2008年03月06日(Thu)]
Q:ここぞという時にアイディアが浮かばない
A:課題をインプットしたら忘れる。人に会う


 国際競争が厳しくなる中、これからの日本では「創造性や独自性を問われる仕事」が重要視されます。業種や職種を問わず、「できる人財」には、独創的なアイディアを次々に生み出すことが求められるでしょう。

 しかし、手帳やTO DO LISTにいくら予定を入れたところで発想は生まれません。単純な反復作業やトレーニングなら、毎日少しずつ行えば、それに比例して効果が出るでしょう。しかし、知性や感性を総動員する独創的な仕事では、ただ毎日同じ時間に机に座っているだけではダメなのです。まじめたからといって、必ずしも良い成果が生まれるわけではないのです。

 私も、毎日のように独創的な発想を求められています。本業の経営においても、月間十数本の連載においても、斬新な着想を練り続けなければなりません。

 もちろん、経営計画や原稿を書く時間は予定に入れてあります。しかし、そこに書く題材や内容をひらめく時間まで予定しておくことは難しいのです。むしろ、決めていた作業時間や仕事場以外でひらめくことの方が多いのです。

 それは、通勤中や商談中の時もあれば、食事中や入浴中の時もあります。誰かとさりげない会話を交わしている最中に、ふと思いつくこともあります。思いがけないご縁に恵まれて助言をいただき、自ずと目標が達成されてしまうことも少なくありません。

 ですから、独創性を問われる仕事で追いつめられた時には、あせり過ぎたり、あわて過ぎたりしてはいけません。過度なストレスは、良い発想の「敵」なのです。かといって、呑気に構えすぎても困ります。「適度なプレッシャー」がかかっていながら「ほどよくリラックス」している状態こそが最適です。それこそ、創造性に富む発想を生み出しやすい「境地」なのです。

 その境地に入る前準備として、まず課題を心の片隅にしっかりインプットしておくことが大切です。同時に、締め切りも意識しておきましょう。これが「適度なプレッシャー」です。

 その上で、ひとまずは忘れることが「ひらめきを育む下準備」になります。忘れるといっても、ただ休むことはお勧めできません。他の仕事、それも単純作業に没頭したり、趣味や運動などに集中すると良いでしょう。さらに、仕事場以外の場所に出かけ、多くの人に会うなど、発想のきっかけとして新たな刺激を浴びることも大切でしょう。

 こうした「やわらかく集中する=執着しない」境地にすっと入れるようになればしめたものです。思いがけない場所で思いがけない時に「ふとひらめく」独特の体験に恵まれやすくなるでしょう。

 ひらめく確率は「その境地」に入る体験を繰返すほどに高まって行くはずです。無意識のうちにひらめきを得られる体験は、決して偶然のたまものではないのです。反復練習をすればするほど、危機的状況の下でもひらめきを得られる潜在能力に自信が持てるようになるでしょう。

Posted by 久米 信行 at 00:21 | 第一章ルーティン編 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

元気で愛想の良いあいさつができない[2008年03月16日(Sun)]
問:元気で愛想の良いあいさつができない
答:見知らぬ人への「毎日あいさつレッスン」を10日間×100人


 初対面の方やご縁のまだ浅い方に「元気で愛想の良いあいさつができない人」が増えています。「親密な人づきあい」以前に「あいさつさえ苦手」なようでは、ビジネスの成功はおろか、心安らかで豊かな人生を送ることは難しいでしょう。

 家族でも地域でも「あいさつに始まり、あいさつに終わる」。そんなコミュニケーションの基本習慣が失われつつあることと、あいさつができない人が増えていることは無縁ではないでしょう。

 たとえ見知らぬ人であっても、目が合えば笑顔であいさつをして互いに微笑み合う。私が生まれ育った東京の下町では、それが当たり前でした。かつては日本中どこででも見られた風景かもしれません。

 しかし、今では、学校でも地域でも「危ないから知らない人にあいさつをするな」と教えていると聞きます。幼い頃から「あいさつの習慣」を身につけていなければ、積極的に話しかけて仲良くなるのが苦手な人が増えるのは当然です。

 そこで、明治大学商学部の私の講義では、「起立と礼」から始め「起立と礼」で終わることにしています。しかもお客様である学生からではなく、講師の私から「ようこそいらっしゃいました」とごあいさつをしてから、受講生に反復していただいています。

 この「大学では異例の光景」を、馬鹿馬鹿しく思う人もいるかもしれません。しかし、1年間の講義を終えた学生の感想では好評価なのです。「あいさつができるようになってよかった」「この講義に出た学生同士で顔を合わせるとあいさつするようになった」という声が目立つのです。

 たかが「あいさつ」と思うなかれ。あいさつは、まさに「体で覚えるコミュニケーション入門」の第一歩です。そして「見る前に跳ぶ」レッスンでもあるのです。

 しかし、面識がある人、既に親しい人にあいさつができても、それはレッスンにはなりません。ですから、私のおすすめは、「毎日顔を合わせるけれど、あいさつをしたことの無い人たち」に、元気にあいさつをしてみる練習です。

 交番のおまわりさんや新聞・牛乳配達のおにいさん。バスの運転手さんや駅員さん。警備員さんや清掃のおじさんおばさん。食堂やカフェの店員さん....。

 こうした方々にあいさつするのは、最初は恥ずかしく、ちょっとした勇気がいるかもしれません。しかも、相手がびっくりして当初は返事をしてくれない可能性もあります。

 しかし、それでも毎日あいさつをし続けることが大切です。返事が戻ってこなくとも、明るくあいさつを続けましょう。

 そうすれば、きっと10日もしないうちに効果は現れるでしょう。やがて、自然な笑顔であいさつを返してくれるようになるはずです。さらに、ちょっとした対話が弾むようになったら、これこそが小さな成功体験になります。

 この10日間の練習を、見知らぬ100人を目標に繰返すのです。

 100人というと大変に思えるかもしれません。しかし、毎日顔を合わせる人に必ずあいさつすることを1年も続ければ達成できるでしょう。そして、100人にあいさつをしたころには、あいさつが当たり前の習慣になっていることでしょう。

 どんな人にでも、優しい笑顔で、親しみのある声であいさつを繰返せば、いずれ打ち解けることができる。そんな確信を持てるようになれば「見る前に跳ぶ」行動の基本になるはずです。

Posted by 久米 信行 at 07:35 | 第一章ルーティン編 | この記事のURL | コメント(1) | トラックバック(0)

うまく予定が立てられない[2008年03月16日(Sun)]
Q:うまく予定が立てられない
A:長期の夢が第一。企業の事業計画に習って立案する


 うまく予定が立てられない人は、まだ「予定を立てて遂行する楽しみ」や「予想を超えて実現する喜び」を実感したことがないのでしょう。

 一番の問題は「何のために予定を立て締め切りを守るのか」その本当の意味がわかっていないことです。予定は、「ノルマ達成のため」や「仕事を効率化するため」といった目先の小さな目的のためにあるだけではありません。もし、日々の短期目標達成だけが目的だとしたら「内なる元気」がわいてこないはずです。もっと長期的で大きな夢=人生の計画も合せてイメージしなくては、身心の奥底からわいてくるような本来の力を生かすことができないのです。

 個人が夢を描き長期的な人生の計画を立てる時には、企業が事業計画を作る時の手法が参考になります。

 企業にとって最も大切で真っ先に定めるべきは「経営理念」です。何のために企業が存在し、社会の中でいかに役割を果たすかという「経営理念」は、事業計画や行動規範を立案する時の基礎中の基礎になります。

 それは、個人で言えば「どんな人間になりたいか」「どんな社会的な役割を果たしたいか」という「夢」や「わが人生のモットー」にあたるでしょう。「夢」というと、「○○会社に入ること」「□□の職業につくこと」だと勘違いしがちですが、それは夢ではなく手段に過ぎません。

 企業は果たすべき「経営理念」があって初めて、5年10年という「中長期事業計画」が立てられます。そして「人事」「財務」「商品」「販売」「広報」などの具体的な戦略を組み合わせながら「中長期計画」が形になっていきます。

 これを個人に置き換えれば、「夢」や「わが人生のモットー」に従って、この5年10年の「働き方」や「生き方」を決めることにほかなりません。それは「どんな仕事につき」「どんなスキルを身につけ」「どんな縁を広げ」「どんな形で名を広め」「どんな資産を蓄積するか」....といった長期プランです。

 「中長期事業計画」ができた後は、今年一年の「事業計画書」いわば「戦術」が作られます。さらには「今月」「今週」の目標と「TO DO LIST=日々の戦闘リスト」に細分化されます。これも、企業と個人で相通じるところがあるはずです。

 企業が何を目指すかの「経営理念」が明確でなかったら、5年10年単位で目指すべき「中長期事業計画」も作れません。ただ、今年1年の「事業計画」、それも高い目標だけが示され、「日々のノルマ」に追われているとしたらどう感じるでしょうか? 

 おそらくは、自分の意志で予定を立てる気概も生まれないでしょう。自分が今どちらに向かっているかの方向感も、社会に役立っているかどうかの実感もないでしょう。ただ無意味に忙しく何かに追われている気分になるはずです。

 個人もそれは同じです。たとえ大まかにでも「夢」に向かい「人生のモットー」に添った10年単位の「働き方」や「生き方」をイメージすれば意気込みが変わってくるはずです。長期のゴールをイメージしながらそこに向かっている人と、どこに進むかも決めずに日々の仕事に忙殺されている人とでは、その暮らしぶりも生き甲斐も自然に変わってくるはずです。

 「すぐやる」と言っても、何の目標もなく「すぐに始めろ」というわけではないのです。

 何より大切な「自分だけの夢やモットー」を胸に、10年の先にある「ゴール」を明確にしてから行動するからこそ、目前の困難や数々の障害をものともしなくなります。「自発的」「戦略的」に計画して工夫ができるのです。10年後の自分をイメージできるからこそ、「TO DO LIST 」に高い目標を書き込み、日々の迷いやちっぽけなエゴやプライドを乗り越えて「すぐやる」ことができるのです。

 最初は、自分が決めた「夢」「長期計画」「TO DO LIST」を「一日一回眺めて声に出す」ことから始めましょう。これを毎日の繰返すうちに、身も心もその気になってくるはずです。こうして自分の生き方や方向が染み渡ればこそ、あれこれ考える前に「すぐやる」ことができるようになるのです。

Posted by 久米 信行 at 22:53 | 第一章ルーティン編 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

いきなり電話がかけられない[2008年03月28日(Fri)]
問:いきなり電話がかけられない
答:最初の一言に心をこめて、成功率を上げよう


 見知らぬ方、ご縁のまだ浅い方=将来の大切なお客様に「いきなり電話がかけられない人」が増えています。たとえ電話をかけたとしても、ご縁を結ぼうという気概も感受性もなく、断られれればへこたれる人が多いようです。

 しかし、電話で見知らぬ方と面談の約束を取る経験がある先輩諸氏なら、お会いできる確率がきわめて低いことをご存知でしょう。業種や商品などによっても違うでしょうが、10件お電話をして1件お会いできれば良い方ではないでしょうか。

 言わば「電話を聞いてくれない、会ってくれないのが当たり前」なのです。ですから「電話の成功率」が低いことをわきまえて「むやみに落ち込み過ぎない」ことが大切です。その上で、成功率を上げるための心構えや方策を考えていけば良いでしょう。

 その心構えや方策とは「最初の一言」に心を込めることにつきます。心を込めるということは、単に精神的な問題だけではありません。具体的に3つの準備が必要になります。

1)事前調べてに電話の相手が喜ぶ話題を用意すること
2)相手が受けて気持ちのよい声と言葉を届けること
3)面談の要件=相手のメリットを短くわかりやすく伝えること

 実は、経営者である私のもとには、毎日のように面談希望や売り込み電話がかかってきます。私は秘書を置いていないので、言わば社長室長の立場で電話を取ることもあります。残念ながら、その多くは電話を受ける人の気持ちを無視した「不快な電話」です。

 私たちの会社のことも私のことも調べずに、ただリストを見て上から順番に電話をかけているようです。その繰り返し作業に飽き飽きしているのか、言葉には優しさも思いやりも感じられず、ロボットのようのです。しかも、営業だと言った瞬間に電話を切られそうなので、本当に売りたいものの情報を隠して、社長の知り合いのように騙した電話をかけてきます。

 こんな電話を繰返していては、その人の心はすさみ、コミュニケーション能力は失われ、会社の業績も落ちる一方でしょう。

 ですから、事前にネット検索でも良いので、会社と社長のことを調べた上で、こんな電話をかけて欲しいのです。

「貴社のホームページにありました(○○社長のブログにありました)□□の情報を拝見して感銘を受けました。」

「□□の拡販のために(□□のコストダウンのために)弊社の△△がきっとお役に立つと思い、資料を送らせていただいてよいか(ご面談いただけないか)営業のお電話をさせていただきました。」

 はきはきとして、まるで私まで元気をもらえそうな明るい声で、こんな直球ど真ん中の電話がかかってきたら、私だったら思わず合いたくなるでしょう!

Posted by 久米 信行 at 17:30 | 第一章ルーティン編 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

最初のメールをどう書けばよいかわからない[2008年03月29日(Sat)]
問:最初のメールをどう書けばよいかわからない
答:ググってウィキして、メールと面談


 「成功するかどうかは、事前準備で8割決まる」

 これは、私が尊敬する営業の達人、日興證券時代の元上司で現在は監査法人トーマツ顧問の要職にある笠 榮一さんの教えです。

 メールの決め手も事前準備です。特に、初めての相手に出す最初のメールでは事前準備が大切です。誰に出すのも同じコピー&ペーストの「やっつけ仕事」では、心を通わせることは難しいでしょう。

 誰かにメールを出す前、お会いする前に、まずやるべきことは「ネット検索」です。今は便利なことに、GoogleやYahooに、お客様の名前や会社名などを入れて検索するだけで、居ながらにして無料で情報収集をすることができるのです。

 会社のホームページはもちろんのこと、お客様の個人ブログ、紹介記事や口コミ情報まで見つかることもあるのです。ひょっとしたら、mixiなどのSNSでも名前が見つかるかもしれません。

 これらの貴重な情報を、ざっと斜め読みするのにかかる時間は、せいぜい10分前後でしょう。時間がなければ、プリントアウトしておいて、通勤途上などの空いた時間に読んでも構いません。

 こうしてネットで得た情報を読めば、自然に「こころ」と「あたま」が動き始めるはずです。

・まずはどんな話題から切り出せば話が弾みそうか?
・自分や会社のどの特長に共感してくださるか?
・どの商品やサービスに興味を持ってくださるか?
・どんな事例を説明したら納得してくださるか?
・どんな資料やサンプルをお渡ししたら喜んでくださるか?

 おそらく、無意識のちに、過去の経験にも照らし合わせながら、メールの構成や、お会いする際のプランを考えている自分に気づくでしょう。

 もしわからない専門用語などがあれば、ウィキペディアなどのネット辞典で検索すれば、わかりやすく解説されているはずです。また、経験不足で良い提案が思いつかなければ、素直に上司に相談すれば良いでしょう。

 こうした簡単な事前準備で、メールの完読率や返信率が高まり、面談時にも話がはずんで深い話ができるようになるはずです。しかし、残念ながら、こんな簡単なことでさえ励行できていない、習慣化できていない方が多いようです。

 だからこそ徹底して習慣化すればチャンスは広がります。誰かにメールをする前やお会いする前には、その方の心情や信条にアクセスするために、ググってウィキして、メールを出し、それから会いに行きましょう。

Posted by 久米 信行 at 00:12 | 第一章ルーティン編 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

動く前から失敗する可能性が高いとあきらめてしまう[2008年03月31日(Mon)]
Q:動く前から失敗する可能性が高いとあきらめてしまう
A:失敗を重ねるべき時期がある。失敗するほど人生が深まる


 自ら好んで失敗する人はいないでしょう。しかし、若いうちは失敗の量や質を競うぐらいの気概が必要です。

 これまで私も「思い出すたびに赤面するような失敗」を繰返してきました。もちろん、今でも失敗することはあるのです。

 それでも、若いうちに「もっと思いきってチャレンジする機会」を増やして、もっと「数多くの失敗をすべきだった」と後悔しています。

 なぜなら、経験不足な中でも「最善を尽くした上での失敗」、しかも後日上司やお客様から「猛省させられた失敗」ほど、人生の糧になるものはないからです。

 若いうちだからこそ許される失敗もあります。まだ大きな仕事を任されていないから、失敗してもダメージは小さくて済みます。また「失敗も研修のうち」と組織も上司も割り切っているはずです。

 しかし、人生の折り返し点を過ぎて、責任も仕事の規模も大きくなってきますと、うかつに失敗を繰返すことはできません。

 つまり、長い人生の中で失敗を重ねるべき時期があるのです。それは、多くの人にとって、学生時代から社会人生活の前半にかけて、即ち10代から30代の間でしょう。

 失敗すべき時に失敗を重ねた人と、重ねてこなかった人とでは、人生の深みが変わってきます。成功した時の喜びもより大きく味わえる上、失敗した時の切なさとありがたみもしみじみわかります。失敗を味わった部下や同僚、さらにはパートナーの気持ちにも深く共感できるでしょう。こうした心の機微がわかるようになれば、年を重ねるごとに人望も支援者も集まり、「挑戦する勇気」も湧いてくることでしょう。

 もちろん、何か新しい企画を見た時にも、事前に様々な想像力が働くことになるはずです。みんなが良いと考える企画に潜む「思いがけないリスク」を見抜くことができるかもしれません。また、誰もが失敗しそうだと見向きもしない企画にこそ「思いがけない大成功」の可能性があることを察するでしょう。

 若いころの失敗の積み重ねのおかげで、成功するために必要な要素が、知らず知らずのうちに身に備わってくるのです。

 逆に、失敗を恐れて大過なく過ごしてきた「見かけ上の成功者」が、人生の折り返し点を過ぎて「要職」を任されたらどうでしょう。失敗に基づく経験と直感の不足で、リスクを見過ごして失敗してしまうかもしれません。その失敗も大きなものになりそうです。また、失敗した後も、経験したことのない「悲痛」に打ちのめされて立ち直れないかもしれません。

 だからこそ、「失敗体験でしか学べないこと」を、40代の働き盛りを迎える前に「蓄積」して、成功率を高め、したたかでしなやかな心を身につけて欲しいのです。

Posted by 久米 信行 at 14:18 | 第一章ルーティン編 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

効率性の低い成果の出ない仕事はやりたくない[2008年04月01日(Tue)]
Q:効率性の低い成果の出ない仕事はやりたくない
A:未来への種まきなくして、長期の効率追求と充実した人生なし


 「やる意味がない仕事はやりたくない」

 こんな生意気な言葉を、上司に入社一年目の私が言った「恥ずかしい思い出」があります。思い返せば、その当時の私は「やる意味がある仕事が何か」も理解していなかったのです。

 今になってわかるのは「やる意味がない仕事などない」ことです。例えば、かなりの経営者が「お掃除」を真剣にすることが人格を磨いて業績を上げる一助になると信じ、自ら実践して効果を上げていたりします。

 こうした「凡事徹底」が尊いという考え方は今に始まったことではありません。今から、約800年前に曹洞宗を開いた道元禅師は、修行中の中国で出会った老典座(てんぞ:食事係)に、食事の準備も、座禅やお経を読むのと変わらぬ大切な修行だと教わりました。ですから、今でも曹洞宗のお寺では、食事や掃除といった作務(さむ)も、単なる雑用と片付けずに「行」のひとつとして懸命に行われています。

 それから、一見「効率性の低い成果のでない仕事」ほど、若い時に「やる意味がある」ことも、今ならば理解できます。言い換えるなら、まだ経験が浅いうちに「効率性が高くて成果が出る」ような仕事は底が浅くて、「未来の自分の糧」とはならないのです。

 例えば、効率性が良くて成果が出るのは、会社の信用力や商品の魅力が十分にあったからかもしれません。宣伝広告や販売促進がうまくいっている場合もあるでしょう。前任者がお客様との関係や業務設計の基本を築いてくれていたら効率性が高いのは当たり前です。カタログや丸暗記すべきセールストークの完成度が高ければ、誰がやっても成果が上がるでしょう。

 これらを自分の実力だと勘違いしてはいけません。もしも、会社の研修通りの手法を繰返して成績を上げ続けたらどうなるでしょう。ただ受動的にノルマを達成するだけのマシーンになってしまうかもしれません。

 もちろん、それで良しとするのも「一つの人生」です。

 しかし「自分の可能性を追求し、人格を磨く、社会に役立つ」ことを目指す人たちにとっては、むしろ短期の効率を求めることは、人生の長きにおいては「効率的」ではないのです。自ら「見る前に跳ぶ」挑戦と失敗とを繰返すことは、決して「無駄な寄り道」ではありません。紆余曲折を経て、死ぬ直前に「自ら挑戦して成果を挙げたか」と自問自答した時に、「胸を張れないような人生」では寂しいでしょう。

 大学時代の恩師、平野絢子先生に「片方の目で目前の課題を、もう片方の目で未来の夢」を見つめるように教えられたことを、今もありがたく思い出します。同じように、目前の効率的に成果を上げられる仕事をこなしながらも、将来の夢を叶えるための種まきとなる地道な仕事や困難な挑戦を続けることが大切なのです。

Posted by 久米 信行 at 10:34 | 第一章ルーティン編 | この記事のURL | コメント(1) | トラックバック(0)

先輩や上司に聞かないと決断できない[2008年04月03日(Thu)]
Q:先輩や上司に聞かないと決断できない
A:自ら決断をした数だけしか前に進めない


 私が、明治大学で「好きなものをブログで勧める」起業論の講座を持って何より驚いたのは、「好きなものが見つけられない」と私に助言を求めた学生がいたことです。

 その上、大学生ならブログぐらい本やネットで調べて自力で立ち上げられると思ったら「なぜ教えてくれないのか」と文句を言ってきた学生もいました。

 おそらく「自らリスクを負って決断して行動する」機会が圧倒的に不足しているのでしょう。「君ならどうする?」と問い直すコーチングが脚光を浴びるのも、自分で考えない部下があまりに多いからに違いありません。

 自分で決断していない行動には「責任」が伴いません。失敗しても、親のせいや上司のせいにできるからです。しかも、決断する時や失敗した時の「心の痛み」もわからなければ、成功した時の「達成感」も味わえません。

 これでは、いくら仕事を続けたとしても成長は望めません。しかも恐ろしいことには、「自ら決断をして行動するまで、その大きな学びの違いには気づかない」のです。

 さらに恐ろしいことがあります。頼みの綱である「先輩や上司さえも、決断しようとしない」ケースが蔓延しつつあることです。

 社会に出て私が驚いたことの一つは、自分で決断をしない大人があまりに多いことでした。話し合うだけで、何も決まらない会議に参加して、どれだけ時間を浪費させられたでしょう。

 何も決まらない会議とは、即ち「いつまでに、誰が、何をやるか」が決まらずに終わる会議のことです。それどころか、組織全員が目指すべき「長期的なゴールと短期的な目標」も共有されていなければ、「各々の役割と権限」も自覚されていない場合さえありました。

 この集団無責任の場に慣らされて「問題先送りムード」「大多数に同調ムード」に流されていると、いつしか自分も「リスクを伴う決断をしない人」になってしまいます。適当にその場をしのいで「決断を避ける」ことが「習慣」になってしまいます。

 そうなるのが嫌なら、やるべきことはシンプルです。

1.どんな小さな決断でも「自分自身で行うのが原則」だと決意
2.食事やお店選びなど日常生活でも他人の眼を気にせず自分で決定
3.業務上、どこまで自分の決断でやって良いかを上司に確認
4.許可された範囲内では、上司の判断に頼らず、自らの責任で決断
5.上司の許可が必要な場合でも「私はこう考えます」とまず直言
6.失敗したら、どこが悪かったか真摯に考え、上司の意見も拝聴
7.成功したら、自分の決断が正しかったことを素直に喜ぶ

 こうした、小さな決断=実行=検証のサイクルを、20代、30代のうちに「どれだけ繰返せるかが勝負」です。それは、誰が助けてくれることでもありません。今日から自分の意志で始めるしかないのです。


 

Posted by 久米 信行 at 09:42 | 第一章ルーティン編 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

| 次へ

プロフィール

久米 信行さんの画像
久米 信行
プロフィール
ブログ
リンク集
https://blog.canpan.info/mirumaenitobu/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/mirumaenitobu/index2_0.xml