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高須元国連大使が被災地へ: Day2 [2011年08月06日(Sat)]

RQでは朝6時半から朝食です。ちょうど歌津から戻ったいのり師匠(太鼓の先生)と歌津の祭やお囃子の笛の音の話で盛り上がりました。高須先生も地域にとっての祭の重要性を強調されていたので意気投合。


7時過ぎには登米本部を出発して気仙沼へ向かい、気仙沼市教育委員会で白幡教育長と及川指導主事(兼学校教育課副惨事)より震災直後からの学校の役割等についてお話を伺いました。途中からは加藤副市長も顔をだして下さいました。

高須氏:「すべての人が命と生活が保障されているだけではなく、人間の尊厳を守れるような活動が必要。」

白幡氏:「震災直後は逃げた先が避難所になり、120カ所、2万1千人の避難所ができ、その中で大きな割合を占めたのが学校だった。それぞれの学校でギリギリの脱出劇があった。そして、保護者への引き渡しの判断も迫られた。子どもを連れ帰るために親が殺到したが、津波警報が出ており高台にある学校の方が安全という状況だった。また、完全な準備を整えてからの再開は無理だと早い段階で判断したので、かなり無理をして災害の中で4月21日に学校再開をした。」

及川氏:「気仙沼は無縁社会とは無縁のコミュニティ。集落の単位で結束して動く。子どもたちを守る、地域住民と一緒に避難所運営をすることに教育委員会も現場の先生達も取り組んだ。バラバラに避難してどんなに遠い避難所にいても子ども達は元の学校に行きたがったのでスクールバス手配に奔走した。」

白幡氏:「最初のスクールバスが避難所を出る時に親達が涙を流して手を振っていた。この時、学校に子どもを通わせるということがどんなに大変なことだったか・・・子ども達もみんな我慢をしていた。給食の手配も大変だったが親が弁当を用意できる環境ではなかったので確保しなければならなかった。」

白幡氏:「誇りや自尊心がない復興はあり得ない。文化を含め誇りが持てるというのは重要。例えば、食べ物だけではなく避難所ではまず図書館を復興させるため、各避難所に本を読むコーナーを作った。」


気仙沼から本吉経由で歌津の仮設住宅や隣接する青空カフェに立寄り、RQ歌津ボランティアセンターで、元禄6年(1693年)から続く伊里前地区の結(ゆい)組織「契約会」の小野寺前会長のお話をお伺いしました。契約会77軒の中の数件が所有する山を提供して新しい町を作り、契約会メンバーを含めた約400世帯が家を建てることができる土地を確保しており、土地整備などを国レベルにやってもらえるよう調整しているとのこと。住民主導で頑張ってきたからこそ実現が近づいているようです。

小野寺氏:「みんなうちを建ててはじめて復興だと言ってますから」
高須氏:「区画はどうしますか?」
小野寺氏:「今の町割りをそのまま山に持って行くだけ。」

この地区の町割りは伊達家が行なったと言い伝えられており、400年前から町並みが変わっていないそうです。つまり、お隣は400年前からお隣だったってこと!
途中からは蜘蛛研究のスパイダーさんが加わり、歌津地元の祭の復興に向けての話で盛り上がりました。祭に必要な道具全てを流されてしまっていて、なんとか残っていたビデオの記録や人々の記憶から衣装等の再現を試みなければならないこと。今こそ祭がこの土地に必要とされているのかも。


次に、志津川中瀬町の仮設住宅に佐藤区長さんを訪ねました。佐藤区長さんは震災直後4日間、ご家族と連絡が取れないまま、区民の安否確認のために津波跡の現場や避難所を訪ね歩きました。度重なる行政との折衝、決裂、絶対に区民を路頭に迷わせない全員揃って新しい町に戻るんだという強い決意。優れた統率力と絶大な信頼で皆さんを引っ張ってこられましたが並大抵の重責ではありません。いつも区長さんの話を聞いていると体が震えます。


志津川から登米に戻り、大網の「RQ被災地女性支援センター」拠点のブースにもお越し頂き、南方の仮設住宅を通って、最後に避難所に立ち寄りました。仮設住宅への引越が決まったおばあちゃん達と話す私の横でそれまでおばあちゃんの一人が作っていた七夕飾りの輪っか作りを黙々と手伝っておられました。

「ぼくは彼女の先生だからね、ちゃんとボランティアやってるか見にきたんだよ」と茶目っ気たっぷりにおばあちゃん達にさりげない自己紹介。肩書きは一切なし。おばあちゃん達に何かを質問したりもしません。引っ越し荷物の移動に困ってるというおばあちゃん達を手伝うことになったのですが、「大丈夫、めぐちゃんに任せておけば!」とおばあちゃん達を安心させる言葉だけさりげなく口にされてました。

最後にくりこま高原駅でお別れです。



被災地で、復興過程で、人間の尊厳を大切にしなければならないという高須先生の明確なメッセージは地元の方達にしっかり伝わっていました。地元の方の憤り「国レベル、県レベルでベーシックなところが決まっていないのでとにかく見通しが立たない。支援をしないならしないとはっきり言って欲しい。」にも頷いていました。

女性支援については、女性への配慮や支援は人間の安全保障においても重要な部分なので、目の前の活動にもしっかりその視点を考えていかなければ・・・と大先生のお陰で背筋が伸びました!
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