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日本ブランドは高品質のシンボル。お客様は、日本の仕事といえば、最後の最後の細かい点まで気が配られていると受け止めています [2019年01月28日(Mon)]
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モスクワ南部で新築マンション「LIFE ワルシャフスカヤ」の販売が始まり、売れ行き好調だ。

このプロジェクトは、日本の設計事務所「日建設計」と、モスクワの大手デベロッパー「ピオネール」による協力事業の第二弾で、かつての工業団地を再開発したものだ。

スプートニク日本 2019/1/28

2015年に始まった両者の共同プロジェクト第一弾である「LIFE ボタニーチェスキー・サード(植物公園)」も、もともとは工業団地。

日本式の設計やプロジェクトのコンセプトが評価され、売れ行きは予想を大幅に上回った。現在も建設が続いており、総戸数の6割が売約済みだ。

ロシアのテレビ局の取材を受ける亀井社長

日建設計・亀井社長「モスクワは都市デザインのやりがいがある街」

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「ピオネール」社のマーケティング総責任者、ユーリー・コーガン氏は第一弾のプロジェクトを振り返り「日建設計との協力は本当に素晴らしいものでした。

このプロジェクトによって、工業地域を、都市生活に適した場所に生まれ変わらせることが可能だと証明しました。

わが社としても特に成功した事業の一つであり、大変満足しています」と話している。

新プロジェクト「LIFE ワルシャフスカヤ」も、単にマンション建設にとどまらず、地域全体をリニューアルするという壮大なコンセプトのもとに進んでいる。

敷地内には高層・低層あわせて18棟のマンションと、カフェやショップが立ち並ぶ並木道、幼稚園、小学校、大型スーパーなど、生活に必要なものが全て揃う予定だ。

新築住宅を建てるというよりは、一つの町を作るような大規模なものだ。

日建設計は居住スペースに留まらず、ランドスケープデザイン、ファサードデザインなど、テリトリー全体の設計を手がけた。

まだ建設は始まったばかりで、全てが完成するのは2024年の予定だ。規模が壮大なので、通常の住宅建設に比べ倍の工事期間を想定している。

モスクワにある新たな広場

国交省、モスクワでジャパンスマートシティフォーラムを開催

「LIFE ワルシャフスカヤ」は地下鉄駅「ワルシャフスカヤ」の真横だ。

この駅は、モスクワで建設中の第二環状線の一部をなしており、2021年から2022年にかけて全線開通する予定だ。

地下鉄に加え鉄道も通っていて、モスクワの三大空港のひとつ、JALの直行便が乗り入れているドモジェドボ空港まで乗り換えなしで行くことができる。

慢性的な渋滞に悩むモスクワでは、公共交通機関を中心にしたまちづくりが特に求められている。
「LIFE ワルシャフスカヤ」の総責任者、セルゲイ・アリャビエフ氏は言う。

「日建設計は、戦略的なコンセプト作りにおいて、プロジェクトのスローガン『灰色から緑へ』に完全にマッチするよう、旧工業団地の隠されたポテンシャルを引き出してくれました。

そして我々は、それを非常に正しく現実化できました。正直なところ、日建設計のコンセプトは非常に難しい課題から成るものでした。

土地の制限や役所との折衝など色々ありましたからね。例えばテリトリーの中心となる並木道ですが、これは絶対作らないとダメでした。

我々はそれを実現するためにあらゆる策を探して、講じなければいけませんでした。

この仕事は大変でしたが、日本のパートナーが、より良いものを作ろうというモチベーションと刺激を与えてくれました。

スマートシティというのが単に机上の言葉だけでなく、限られた予算の中で実現できたことに満足しています」

「LIFE ワルシャフスカヤ」はワンルームマンションが日本円で1100万円程度と、市内の新築マンションとしては良心的な価格帯だ。

コーガン氏は「日本ブランドは高品質のシンボル。お客様は、日本の仕事といえば、最後の最後の細かい点まで気が配られていると受け止めています」と話し、今回のプロジェクトはより広い所得層に受け入れられるだろうと期待を見せた。

...
Posted by メディカルゆう  ゆう東洋医学研究所 at 10:36 | 旅のすすめ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
天平金山を訪ねて 国道108号線を走る。 [2018年09月04日(Tue)]
天平金山を訪ねて 国道108号線を走る。
国道108号線は宮城県石巻市から秋田県由利本庄市を結ぶ国道である。

石巻から涌谷・小牛田を通過して大崎市古川に抜ける。古川から鳴子温泉を横目に見ながら山奥に分け入り長いトンネルを2つ抜けて湯沢市雄勝に至る。そして由利本庄市に到達する。

この国道108号線の涌谷町と河南町は、鎌倉時代は小田保(おだのほ)と言われていた。この小田保の成立は産金地として、再開発を目的としたものであった。

鎌倉時代の歴史書,吾妻鏡によれば,文治・建久(1185−11989は小田氏の支配にあったと書いてある。

合わせて仁治2年(1241)に小田保の支配をめぐって小田氏と紀伊氏が争論したという。

小田氏というのは、藤原北家の流れを組む、八田知家の長男の系統が茨城県南部【現つくば市】を収めていた大名であった。

八田知家は、奥州高野郡(現在、矢祭町、大子・依上保)も領有しており、依上保は古来より八溝金山があり、その地を知家の八男時家に治めさせた。時家は高野時家と称していた。

この八田知家は源頼朝より、2つの金山を任されるという非常に高い信頼を得ていたということである。

財政を支えるのはやはり金であったろうから金山を領有するということは、それだけ鎌倉幕府の中で権力を持っていたということである。

ちなみに、この小田保のちに小田郡の隣の遠田郡は現在の小牛田町、田尻町に当たるがここは和田義盛の領地であった。

和田一族が北条氏によって滅ぼされると、この遠田郡は建歴3年(1213)北条氏の支配下にはいっている。

そしていつの間にか小田保・小田郡の名は消え、遠田郡に組み込まれ北条氏の支配下に入った。

余目記録という古文書によると遠田郡は北条の領地であって、毎年砂金が年貢として送られてくると記載されている。1241年以降に北条氏の支配になったということだろう。

八田知家は早く隠居しているが、その長男(小田氏)の時代以降徐々に北条氏に領地を奪われていった。特に金山は北条氏からすれば抑えておきたいところであったろう。

鎌倉時代は武士の時代の始まりであるのでもっと研究すべき分野であろうと思う。

小生も、涌谷町と天平金山が鎌倉時代に小田保と呼ばれ茨城県南部の小田氏の支配下にあったことは知らなかった。

この地域は豊かな田園で水田が広がっている。しかも金山があったという重要な要地であった。

しかし、八田知家はその息子を派遣していない。美濃国の伊志良には次男を送り,伊志良氏を名乗り、奥州高野郡には8男時家を派遣し高野時家をなのっている。

どうやら奥州小田保は長男小田氏の直轄であったのであろう。
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Posted by メディカルゆう  ゆう東洋医学研究所 at 21:31 | 旅のすすめ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
国道118号線(水戸―会津若松市間)を走り、矢祭町に行く [2018年08月30日(Thu)]
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この国道は会津若松市までの国道であるが、今回は久慈川沿いの大子―矢祭町まで走った。隣接して鉄道が走っていて水郡線という名で水戸と郡山駅を結んでいる。

この鉄道は全線単線で駅数は45あり、久慈川に沿って走っている。奥久慈清流ラインと言われているが1時間に1本という運行数であるそうだ。

この旅は、高野時家の歴史を探訪するために、矢祭町の高野を訪ねるものであった。

その高野は今は東白川郡と言われているが、鎌倉時代には高野郡と言われていた地域である。

昔は常陸の国という範囲は広く、東電福島原発あたりまでが常陸の国と言われていたそうで南福島は常陸の国ということもあったようだ。

その高野郡には、矢祭町高野,依上保大子が含まれていたようである。

矢祭町には高野という地名が残っているが、現在も豊かな自然が残っている田園地帯であった。

小田川が久慈川に流れ込んでいるので、その周辺は鎌倉時代から水田が広がっていたのであろう。高野郡という郡名は矢祭町高野に由来しているのかもしれない。
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高野時家の役宅がおそらく高野にあったであろうが、役人を置いていたのではなかろうかと思う。
現在の矢祭町は、茨木街道という349号線と118号線が交差し、そこから1本になり棚倉につながっている要衝である。茨木街道は棚倉道ともいわれている。

水郡線の駅は東舘駅というが、1時間に1本しかない駅なので静かなたたずまいであった。駅前の食堂が閉められていたから乗降客は限られるのであろう。

人口は約7000人で町並みは118号線に沿って街道型の長細い街のつくりであった。

久慈川の両岸に水田が広がりそれに沿って鉄道と国道118号線が走っているが、その先が福島空港につながっているのであるがこのルートを利用する人は少ないようだ。
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矢祭町の手前に大子町がある。ここは近くに温泉もあり、道の駅もあり鉄道駅も広く使われていた。水戸への通勤圏の北限に当たるのであろうか。駅前に汽車が展示されていた。

大子はしゃも料理が有名であるが、現在は2件だけになっているそうだ。当日は休みで翌日出直して、昼食を食した。有名なだけにうまいと思った。

しゃもを飼育している人が少なくそれだけ店も少なくなったということのようである。

久慈郡大子町は、昔は依上保と呼ばれ、独立した地域であった。金を産出するから要衝の地であった。

鎌倉時代、初期は八田知家とその8男時家(高野時家)所領であったが、のちに北条氏が抑え、白川結城氏と佐竹氏との争奪の土地で、最後は佐竹氏が八溝山の金山を押さえた。

佐竹氏が強かったのはこの金山により財政的に豊かであったということであった。
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Posted by メディカルゆう  ゆう東洋医学研究所 at 09:53 | 旅のすすめ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
奥久慈一人旅 矢祭町について 高野時家を探す旅 [2018年08月29日(Wed)]
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奥久慈 矢祭町について
6月に縁があって、福島県矢祭町に鎌倉から出かけた。

東海道を北上し、水戸街道に入り土浦で1泊した。土浦駅の真ん前が市役所になっている。

昔、デパートがはいっていたのだが、郊外にスーパーができて、撤退してしまった。長いこと空き家のままだったが、市役所が移転してきたものである。

その近くにホテルがあり、そこに投宿した。

翌日、水戸街道をさらに北上し水戸市に入りそこから188号線により内陸にはいって大子町の温泉に入った。矢祭町はさらにその先にある。

久慈川添いに沿って山の中に入っていくと矢祭町にたどり着く。かなり遠いという印象であった。矢祭町に高野という集落がありそこが目的地であった。

小田川という川が久慈川に注いでいてその周辺が豊かな水田が広がっていた。おそらく鎌倉時代から変わらぬ姿であろう。
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高野という地名に関心があったのは、鎌倉時代の初期、藤原北家の系統の宇都宮宗綱の次男が八田知家といい、頼朝の御家人として鎌倉で活躍していた。

その長男の系統が4代後から小田氏を名乗り戦国大名として茨城県南部を地盤としていた。

その八田知家の8男時家が高野の地名をとり高野を名乗り、高野時家と称した。

常陸の国八郷に柿岡城を築城している。現在は、その城跡は柿岡小学校となっている。

そして、その高野時家が、矢祭町のあたりをいう高野郡を知行地として与えられていた。

高野郡というのは、白川郡の南半分を高野郡として独立させたもので、高野、依上などを含む地域であった。現在は矢祭町は福島県東白川郡、依上郡太子町は茨城県となっている。

水田としては、久慈川沿いのみで大した領地ではないが、八溝山周辺の金山があり、ここから鎌倉以前から金を産出していた重要な地域であった。

八溝黄金神社他、金沢とか胴坂など八溝川沿いから金を産出していたのである。

高野時家は御家人として鎌倉幕府でも重要な役職についていたようで、その子孫は六波羅探題での役人として活躍して、室町時代は将軍家の官僚として仕えて発展していたといわれる。

また、つくば市では高野姓が最も多く地元でも多くの子孫が残っている。

矢祭町史によれば,和泉守時知跡を白川結城氏に知行権を与えるとあるので、高野時家からそのあと高野(和泉守)時知まで高野4代目に当たる時代まで領有していたと推定される。

矢祭町史 中巻p133

“延元元年の高野郡知行権というのは、実質的には地頭権であって、翌延元2年のものは郡内の所領(和泉守時知跡)をえたことを意味する。”

歴史をたどり、自らのルーツを探訪するのもまたいいのではないだろうか。
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Posted by メディカルゆう  ゆう東洋医学研究所 at 13:30 | 旅のすすめ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
巨大石像「モアイ像」で知られる最果ての島、イースター島。 [2018年08月15日(Wed)]
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(CNN) 巨大石像「モアイ像」で知られる最果ての島、イースター島。

かつてこの島に住んでいた先住民は、内部の抗争や天然資源の枯渇によって自らの社会を自滅させたというのが長年の定説だった。

しかしその定説とは全く異なる説が、13日の学術誌に発表された。石像の製作に使われた石器を調べた結果、同島の先住民は高度かつ協調的な社会を形成していたことが分かったとしている。

論文の筆頭筆者でオーストラリア・クインズランド大学の研究者デール・シンプソン氏は、「イースター島の競争と崩壊に関する説は誇張だった可能性がある」と述べ、「石像彫刻産業は、家庭や工芸団体の間の協力関係を裏付ける確固たる証拠」だと指摘する。

データ
アメリカCNN 2018.8.15

Posted by メディカルゆう  ゆう東洋医学研究所 at 14:13 | 旅のすすめ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
小田原城と小田原祭り [2018年05月30日(Wed)]
小田原城と小田原祭りの写真
神輿は男も女も一緒にかついでいました。女性だけの神輿もあり小田原は粋な町ですね。

神輿は町中を練り歩き,商店の店頭で気勢を上げ、商売繁盛を祈念していました。
お店では、神輿にご祝儀をわたしていました。

小田原城は日本では珍しい市街地を含めて守るという城郭です。
外国では多いのですが、日本の城は戦闘員の武士がこもり城を守るというのが一般的です。

普通の城の構えは3000-5000人が籠れる作りです。
小田原の北条氏の城郭の創りの考え方を研究してみたいところです。
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Posted by メディカルゆう  ゆう東洋医学研究所 at 10:34 | 旅のすすめ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
常陸国 における高野氏 山本五十六は旧姓高野氏、山本家に養子に行く [2018年01月23日(Tue)]
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常陸国(茨城県)にも高野姓がある

全国で高野姓が多いのは、茨城県つくば市、行方市、石岡市、新潟県では長岡市、大分県の津久見市という。不思議な分布ではある。

古代の高野氏-高野朝臣新笠―桓武天皇の生母ーの末裔もあろう。

常陸の高野氏は、秀衡流藤原北家の宇都宮宗綱の子,知家が常陸国新治郡八田(下館市)にちなみ、八田氏を名乗った。

この八田知家が小田城を築いた。この子孫が小田氏と称した。
つくば市高野、小田城、八郷の柿岡城、土浦市の土浦城も近い位置にある。


八田知家の8男、時家が筑波郡高野(現つくば市高野)にちなみ、高野氏を名乗った。高野氏はこの高野が発祥である。

高野時家は石岡市の八郷に柿岡城を築いた。1271年という。
正式には高野十郎伊賀守時家といった。

茨城県は、西部の八田氏-小田氏、北部の佐竹氏、東部の結城氏により分割されていたが戦国時代は、争奪戦により城主はかなり入れ替わっていた。

城をとったり取られたりしていた乱世であった。小田氏の城はその攻防戦にあった。

なお、新潟県の高野氏は長岡藩士であり、山本五十六は、旧姓高野氏で、山本家に養子に行き、山本五十六といった。
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Posted by メディカルゆう  ゆう東洋医学研究所 at 14:05 | 旅のすすめ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
桓武天皇の生母は高野朝臣新笠(たかのあそみにいがさ)と言われる。 [2018年01月22日(Mon)]
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現天皇が平成13年12月18日に、高野新笠が桓武天皇の生母であるというご発言があった。

以下抜粋
平城京について、私は父祖の地として深いゆかりを感じます。

そして、平城京に在位した光仁天皇と結ばれ、次の桓武天皇の生母となった高野新笠は続日本記によれば百済の武寧王(ぶねいおう)を始祖とする渡来人の子孫とされています。

わが国には奈良時代以前から百済を始め、多くの国から渡来人が移住し、我が国の文化や技術の発展に大きく寄与してきました。

以下省略

高野新笠は渡来人ではあるが、百済の王族の出であり、その父和 乙継(やまと)までに8代経ているので、日本人になっていたといっていいのではないだろうか。

桓武天皇から朝臣を賜り、和(やまと)から高野(高野)朝臣を名乗るようになっている。
古代の高野(たかの)一族は天皇家に連なるといえる。
Posted by メディカルゆう  ゆう東洋医学研究所 at 10:29 | 旅のすすめ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
関東大震災は相模湾が震源地であったそうなので、関東も地震帯の上 そう遠くない昔、伊豆大島 三原山の噴火があった。 [2017年10月20日(Fri)]
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関東大震災は相模湾が震源地であったそうなので、関東も地震帯の上 にあり、いつ起こってもおかしくないということであろう。

三原山には展望台のところまで上った。残念ながら火口を覗くことは できなかったが、広い山頂付近の山の景色は望めた。

馬を放牧していたが、沖縄の与那国島の小型の馬であった。 何故そうなったのかは聞き漏らした。
沖縄といえば、源為朝が大島に流され、ここで勢力を作ったが破れ 島民の助けをかりて沖縄に逃れたそうである。

沖縄に源為朝の上陸地点 の記念碑が建てられているそうである。 その子孫が沖縄の王家を作ったという、大和と沖縄同源説がある。
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大島温泉観光ホテルで昼食をとった。高齢者が多いのか酒を飲む人が 少なかった。
そのあと、大島の植物園によった。

椿の花の木と紫陽花の花を 植えた美しい庭園であった。今では、椿より紫陽花の方が多いそうである。

めずらしい紫陽花の花があった。椿の木は島一面に自生しているようで、 椿の島と言われる所以であろう。
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Posted by メディカルゆう  ゆう東洋医学研究所 at 11:09 | 旅のすすめ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
片瀬江の島の湘南港からは船で一時間弱でついてしまった i伊豆大島岡田港 [2017年10月19日(Thu)]
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片瀬江の島の湘南港からは船で一時間弱でついてしまった。高速艇は やはり早い。揺れもほとんどなくさーっと大島の岡田港に入った。

岡田港と元町港とはその時の波や風によって入港を決めるのだそうだ。

岡田港は、山を切り開いて港を作ったのか港に近くには漁師がすむ 数十件の家並みが山に張り付くようにして建っていた。賑やかとは いえない風情であった。

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すぐ坂を上りトンネルを抜けると、道が走っており民家がぽつんぽつんと 立っている。最初は和太鼓の演奏と、三原山が噴火した時の映像を 見せられた。

1985年に三原山が噴火し、全島避難を余儀なくされ 1年以上島の人は帰れなかったということを聞いた。

火山の噴火はやはりすさまじい。地震も誘発したのであろう。

日本列島は火山列島でもあり絶えず地震と噴火そして津波と火事に 見舞われてきているが、大島が近いだけに火山の噴火と地震はいつも 覚悟しておかねばならない。
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Posted by メディカルゆう  ゆう東洋医学研究所 at 14:38 | 旅のすすめ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
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