ロシアのスプートニク日本が下記のような心温まる記事を載せているところが注目点であろう。
この時期に、こういう日本とロシアを友好の輪で結ぶことを報じることが大切なのである。
ロシア艦隊の函館訪問の折に合わせたのかもしれない。
日本軍は日露戦争の折に旅順など陸戦のときのロシア側の捕虜を、きちんと処遇している。
大東亜戦争(第二次世界大戦)の日本の敗戦の折、日本軍の捕虜虐待が大々的に報道され、日本人が残虐な民族であると宣伝されたが、それも見直す必要があろう。
たとえば、フイリピンにおいて、アメリカ軍捕虜を死の行軍をさせたと宣伝されたが、アメリカ兵は武装解除され身軽な状態で行軍したが、それを護衛する日本軍人は、完全武装で重装備(50kg)にて彼らと同等の行程を行軍している。どちらのほうが過重であったのであろうか。
以下引用
日露戦争の最中だった1905年5月28日、島根県江津市の和木真島沖で遭難したロシアのバルティック艦隊「イルティッシュ号」の乗組員265人を、地元・和木の住民が救助した。
海が荒れる中、敵国兵を命がけで救ったというエピソードは、これまでも紙芝居や小説、劇などを通して地域に伝えられてきた。
今年、このストーリーが初めて絵本になり、日本とロシアの友好に役立てようという動きが活発になっている。
スプートニク日本2018/10/10
当時、和木(江津市和木町)では交通通信機関が発達しておらず、新聞をとっていた家はわずか一軒で、その新聞さえも松江から3日遅れで配達されるという状態だった。
そのため村人らは、前日の対馬沖海戦で日本が勝利したことを知らず、イルティッシュ号が沖に現れたとき、ロシア軍艦が攻めて来たと思ったのだ。
実際のところイルティッシュ号は日本艦隊から砲弾を受け沈没寸前で、白旗を掲げて救助を求めていた。
イルティッシュ号の乗組員は6隻のボートに分譲し、海岸を目指して漕ぎ出したが、波が高くなかなか上陸できない。
最初は様子を見守っていた村人らもとうとう見かね、海中に飛び込みボートを引っ張ったり、ロシア兵を背負ったりして、救助活動を行った。ロシア兵の中には大怪我をしている人もいた。
この史実を記した絵本「こっちへこーい こっちへこーい〜イルティッシュ号の来た日〜」は、今年1月に出版された。
写真は10月10日、函館に寄港したロシアミサイル艦