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第183話 ダム湖に再び水が溜まる[2013年06月29日(Sat)]
 6月の活動日の第4土曜日22日は、九州から近畿・東海にかけて台風4号が接近すると予報が出ていたが、21日朝に温帯低気圧に変わった。
 き続き前線の活動が活発なことから、気象庁は22日にかけて大雨が続くとみられていたが、ここ大阪北部の箕面あたりでは、雨も止んで梅雨時期にしては蒸し暑くならずに過ごしやすい活動日になった。

 その前日までは、西日本から東日本にかけてのびる梅雨前線と沖縄付近を北上中の台風4号の影響で、20日午前は西日本を中心に大雨となった。
 中国地方や近畿地方、北陸地方を中心に24時間の降水量が100ミリを超え、島根県益田市で227・5ミリ、山口県萩市で310.5ミリと観測史上最大の値を更新したという。

ダム湖の水面が回復

 
 22日10時前に、箕面体験学習の森の豚汁広場について、ダム湖の方を見たとき、砂防堰堤上部本体中央部に少し切り込んだ「水通し」と呼ばれる越流部が設けられているが、そこから越流しているのが見えた。間違いなく、湖面には水が溜まっていることを意味していてホッとした。


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 写真1 水通しから越流しているダム湖


 すぐに上流部に駆け上がって、ダム湖を見渡すと、1か月前に見た湖面に戻っていた。 


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 写真2 元に戻ったダム湖の水面


 6日前の16日にはモリアオガエルの産卵を確認していたので、水面が元に戻っていなくても心配してはしていなかったが、台風4号が梅雨前線を刺激して19日から21日の前日まで降り続いた雨で、モリアオガエルにとっても恵みの雨になったことだろう。

モリアオガエルの卵塊14個見つける

 16日に見つけた卵塊は先の雨で溶けていて、水面に近い砂利の上に落ちた卵塊を見つけた。

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 写真3 水面近くに落ちていた卵塊


 オタマジャクシになるには、水の中で過ごさねばならないと、そっとすくって水の中へ入れてやった。

 今年は木の枝や葉っぱが少ないのか、直下に水たまりがなかったのか、今年は杉の葉っぱにも卵塊(写真4)を産み付けていた。

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 写真4 杉の葉に産み付けた卵塊


 16日にはタニウツギの直下には全く水がなかったが、ダム湖の水面が回復し、この木の枝下にも水が溜まって4個の卵塊を見つけることができた。

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写真5 タニウツギノ直下にも水が溜まり卵塊が4個


 このタニウツギは、葉っぱが生い茂り、枝も垂れ下がり気味でモリアオガエルにとっては絶好の産卵場所なのだろうか。先週まで咲いていたタニウツギの花は殆んど散ってしまっていた。

 この花の咲くころに、産卵にやってくるこの小動物にとっては、季節感を忘れずに「夏は来ぬ」なのだろう。

 小学校時代に歌った「卯の花の匂う垣根に卯(う)の花の、匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ……」(「夏は来ぬ」:佐々木信綱 作詞 小山作之助 作曲)の「卯の花」とは、ウツギのことだと教えてもらったのは、この山で活動を始めたころだった。

 そういえば箕面市街地の近くの林で、ホトトギスはテッペンカケタカ(特許許可局 などと表現されることもある)、とよく聞こえてくる。

ヌルデの葉っぱが食い荒らされる

 今年のモリアオガエルの観察をしていて気になったのは、上記のダム湖の水が枯れてしまって直下に水面が少なっていたことのほかに、直下に水面があるヌルデの葉っぱが虫にむさぼるように食い荒らされていて、ヌルデには卵塊が少なかったことだ。

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 写真6 食べつくされつつあるヌルデの葉っぱ


 緑色の葉っぱに黄緑色の虫はなかなか見つけづらかったが、ズームで撮ってみると「いるわ!いるわ!」かなり大きな毛虫だが、仲間は天然の蚕で、「天蚕(てんさん)」と話していた。

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写真7 葉っぱを食いつくす天蚕?


 ネットによると「天蚕(ヤママユガ)は わが国在来の代表的な野蚕で、クタギ、コナラ、カシワ、シラカシなどの葉を食物として全国の山野に生息しているが、一部の地方では飼育もなされており、なかでも長野県穂高町の有明地方は天明(1781〜1789)の昔から天蚕の飼育が連めんと続けられている地域として著名である」という。

 天蚕の写真を撮っていたら、枯れ枝の先にシオカラトンボが飛んできてじっと羽を休めていたので、近寄らずにズームでとらえた。

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写真8 ダム湖に飛んでいるシオカラトンボ


 身近なところで、自然の変化を感じる。

 最近家の近くではトンボを見る機会がほとんどない。


 ところが先のブログでMさんの指摘で少なくなったといわれるスズメは「チュンチュン」とそのさえずりや公園で餌をついばんでいるのを見る機会が多くなった。 
 
(平成25年6月29日)


第182話 久しぶりに恵みの雨が降る[2013年06月19日(Wed)]
 毎年6月の中旬ころには、「箕面市体験学習の森」にモリアオガエルが産卵にやってくる。昭和60年度大阪府治山事業で建設した砂防堰堤で出来たダム湖の水面にそのオタマジャクシを観察できるのが楽しみの一つである。

 今年は前々回のブログ「第180話 ダム湖の水が抜けて干上がる」で、ダム湖の水のほとんどが抜けてしまって、産卵場所が少なくなり心配していることを書き、前回の「第181話 日照りがこんなにも長く続くと!」では、わずかに残った水のたまり場に、トノサマカエルが2匹とこげ茶色の蝶が異状発生しているなどのことを書いた。

 6月13、14日ころには台風3号が接近してきて恵みの雨になるかもしれないと思っていたが、東海から関東地方へそれてしまった。

 6月13日には、箕面市に隣接の豊中市では37.9度という全国最高気温を記録した。
空梅雨で猛暑が続いていた西日本各地で15日、久しぶりに降雨が観測された。箕面市では午後から夕方にかけてまとまった雨が降った。同日午後4時までの24時間雨量は、東隣の茨木市で43ミリになったという。

6月16日のダム湖


 15日の恵みの雨でダム湖の水位は回復しているかと翌日16日にデジカメをぶら下げて出かけたが、写真1のように、相変わらず干上がった状態だった。

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写真1 干上がったダム湖(2013年6月16日撮影)


 6月1日の活動日にわずかに残った流れを堰きとめた水面の上の枝に、モリアオガエルが産卵した大きな泡状の塊(写真2)を見つけることができてホッとした。

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写真2 モリアオガエルの卵塊(2013年6月16日撮影)


 ダム湖の水が十分にあった昨年までは、木の枝の直下が水面になっていて、流れが少なく淀んだ場所を見つけて産卵して20個近くは見つけることができた。

 残念ながら、写真1のようにダム湖が形成されていない状態では、木の枝の直下に流れの少ない水面が限られてしまったが、幸いに7個の卵塊を見つけることができた。

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写真3 産卵場所は直下が流れの少ない水面


 生態に詳しいNさんは、「厳しい自然の中で生きてきているから、直下が水面の木の枝を見つけてきて産卵するから心配はない」と言っていたが、そういう場所が少なくなってきている。

 フリー事典(ウィキペディア)の「モリアオガエル:人間との関係」によると、「モリアオガエルは各地で生息数を減らしている。おもな理由は生息地の森林などに人の手が入り、環境が変化したことによる。産卵のためには水面上に木の枝がせり出すような湖沼が必要だが、このような場所も少なくなった。

 福島県双葉郡川内村平伏沼(へぶすぬま)の繁殖地、また岩手県八幡平市の大揚沼モリアオガエルおよびその繁殖地[5]が国指定の天然記念物と指定されている他、各自治体レベルでの天然記念物指定は数多い。愛知県新城市の市のカエルの指定を受けている」という。


モリアオガエルの生態

 繁殖期になると、まずオスが産卵場所に集まり、鳴きながらメスを待つ。メスが産卵場所にやってくるとオスが背中にしがみつき、産卵行動が始まるが、卵塊の形成が進むに連れて1匹のメスに数匹のオスが群がる場合が多い。

 今日6月19日の午後から大阪府内でも本格的に雨が降り出してきた。更に台風4号が接近してきて21日頃まで大雨が降り続くという予報が出ている。

 21011年6月25日に撮ったモリアオガエルの卵塊では、卵が孵化しオタマジャクシになっていて、雨を待って下の水面に落下していた。

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写真4 卵塊がとけてしまった状況(2011年6月25日撮影)


 今日午後からの雨で卵塊はとけて孵化したオタマジャクシは無事水面に落下することができるだろう。

 前回はこのダム湖にトノサマカエルが生息していたので、少し詳しく書いた。

 モリアオガエルを実際に見たことがないので、「世界と日本のカエル大図鑑(PHP研究所)」からモリアオガエルの写真をスキャナさせてもらった。
 「背中にまだら模様があるものやまったくないものまで、個体差がかなりある。ひとみのまわりが赤いのが特徴」と解説していた。

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 写真5 瞳の周りが赤いのが特徴のモリアオガエル


 今週末第4土曜日の活動日(6月22日)には例年通り、モリアオガエルの卵塊は孵化してオタマジャクシが観察されることだろう。

 モリアオガエルの寿命はどのくらいかと調べてみたが、両生類の年齢と寿命(草野 保)によると、「われわれに身近なカエルたちの寿命はせいぜい4、5年といったところでしょうか」と書いている。

 写真5を手掛かりに、成長したモリアオガエルに出会ってみたいと思っている。

(2013年6月19日)



第70話 コスモアイル羽咋を尋ねて[2013年05月26日(Sun)]
 今年のゴールデンウィークは、双子姉妹の家族8人に家内を加えた10人がそろって、荘川桜(岐阜県)、五箇山(富山県)の合掌造りの里を訪ね、片山津温泉で泊まった。翌日は、早朝に輪島(石川県)の朝市まで足を伸ばし、帰り道能登半島の付け根に近い羽咋市のコスモアイルに立ち寄った。

 荘川桜や五箇山の合掌造りの観光地は、数年前に訪れたこともあるので、孫たちに是非見せておきたいと思っていたが、輪島からの途中で能登半島の付け根あたりの辺鄙な街のコスモアイルへ立ち寄るとは思いもよらなかった。
 入り口でもらったリーフレットには「能登半島にこんなすごい施設があるんです」と書いてあり、NASA特別協力施設で、本物に遭える宇宙科学博物館と紹介していた。

ウォストーク1号・宇宙から帰還

 2階の展示室に入館してすぐ目の前に球形の宇宙船が目に飛び込んできて旧ソ連が世界最初の有人衛星船ウォストーク1号を打ち上げ、帰還した宇宙船だと直ぐに判った。

 展示室では簡単な説明書きだけだったので、当時のことを思い出すために、朝日クロニクル「週刊20世紀」(朝日新聞創刊120周年記念出版)を参照にしながら振り返ってみた。

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写真1 ウォストーク帰還用宇宙カプセル


 昭和36年(1961年)4月12日、ユーリ・ガガーリン空軍少佐を乗せた中央アジアのバイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、約1時間半で地球を一周して宇宙から帰還した。
 人類で最初に宇宙から地球を眺めたガガーリン少佐が「地球は青かった」との言葉が 強烈な印象だったことを今でも覚えている。

 NASAの日本人飛行士と友人の友だちから宇宙船から地球をみた球形の地球の写真を見せてもらったが、青い光の地球は神々しいまでに美しく光り輝いていた。

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写真2 宇宙ステーッションから見た地球


 相手からの写真使用の了解が難しいので、写真2はその写真の一部を切り取った地球の姿である。

 フルシチョフ時代には国民的英雄になったガガーリン少佐は、翌1962年5月21日に日本を訪れている。これほどの英雄もブレジネフ時代になると、広告塔の役目を与えられなくなり、ソ連崩壊後、宇宙船がガガーリンの地上帰還直前に異状回転を起こしたばかりか、地上7キロで宇宙船から脱出、パラシュートで降下したことも明らかにしている。

 1967年4月23日のソユーズ1号では、コマロフの交代要員だったが、打ち上げは失敗に終わり、コマロフは死亡している。ソユーズに欠陥があることを打つ上げ以前に知ったガガーリンは、ブレジネフ大統領に面会を断られた。無力感からジェットパイロットに戻ったが、宇宙飛行に成功した7年後に34歳の若さで、ジェット機訓練中の事故で亡くなった。

 人類最初に宇宙から地球を見た英雄ガガーリン少佐の成功の陰に、こんな悲惨なドラマがあったことを知ることができた。

ルナ/マーズ・ローバー(アメリカ)
宇宙で活躍してきた探査のための車両かと思ってみてきたが、「月面や火星上で移動や資材の運搬のためにNASA(で設計試作された実験用のプロトタイプ(基本形、模範)の車両で無人での遠隔操作が可能になっている」と解説している。

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写真3 ルナ/マーズ・ローバー


 このルナ/ マーズ・ローバーは羽咋市の職員が交渉してNASAから借りてきたという。

ルナ24号

 ルナ24号とは、1976年にソ連が打ち上げた無人月探査機である。月ルナ計画は、1959年1月2日に月へ向かう軌道に探査機を投入することに成功、1966年4月3日にルナ10号が世界初の月周回探査機となった。
 1976年8月にルナ24号が月の土壌170gを地球に送り届け、これをもってルナ計画は終了した(ウィキペディアから)。

 旧ソ連の「ルナ24号月面着陸船」は、実際に月へ行った機体のバックアップ用として作られていた実物で、「本番用の機体になにかトラブルがあればすぐそのまま打ち上げられる、本物です!」だという。

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写真4 ルナ24号


アポロ11号月着陸に成功

 1961年に旧ソ連の有人衛星船ウォストーク1号を打ち上げの成功以来、アメリカは宇宙開発戦争でソ連に負け続けだった。

 この年の5月25日にケネディ大統領は「緊急の国家的必要」と題する特別教書を議会で演説している。
「いまこそ前進するときだ。新たな大いなる国家的事業に乗り出すときだ。米国は宇宙開発において明確に指導的役割を果たすべきである。……60年代のうちに月に人を着陸させ、無事に地球に回収するという目的達成のために、米国は邁進すべきであると私は信じる。これほど人類にとって輝かしい、またこれほど重大な宇宙計画はないであろう」と、第2の就任演説と言われるほどの高揚したものだったという。

 この演説から8年後の1969年7月21日、故ジョン・F・ケネディ大統領が60年代のうちに月に人を着陸させるという公約したとおり、3人乗りのアポロ11号を打ち上げ、着陸船(イーグル)で月面着陸を実現させた。

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写真5 アポロ11号月面着陸船


人類初の月面着陸の思い出

 この人類初の快挙を昼休みの休憩室のテレビで食い入るように見たことが思い出される。

 平成12年7月に書いた「昼寝の効用」の中で、「私が昼寝の習慣を持つようになったとはっきり記憶にあるのは、今から31年前(1969年)である。いつもなら昼寝に入りかけている時間に、アポロ11号宇宙船から出て宇宙服に身を包んだアームストロング、オルドリン両飛行士が、月面に降り立つ瞬間を衛星中継した時だ。休憩室ではいつもは暗くして昼寝をしていた連中が月面に降り立った瞬間を、固唾を呑んで見守っていた。20世紀のビッグニュースは『人類、ここに月を踏む』という見出しの下に『予定の時間を早め午前11時56分20秒』と、昭和44年7月21日夕刊の第一面全部を使って写真入で報じている」と書いている。

 月面に立った宇宙飛行士

 「週刊20世紀・1969」の「人類、月に立つ」の中で、アームストロング船長が月面での第一声を書いている。「一人の人間のほんの小さな一歩だが、人類にとっては偉大なる跳躍の第一歩だ」である。
 また、「惑星地球からの人間、ここに月第一歩を印す。西暦1969年7月。我々は全人類の代表として平和にやってきた」と月面に置いてきた金属板に書いてあるという。

 月面着陸船の前に宇宙服を着た人形が展示されている。

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写真6 展示されている宇宙服を着た人形



 上記「週刊20世紀・1969」には、月面に立てた星条旗の前でポーズをとるオルドリン飛行士の写真が掲載されている
 その解説には、「大気がないため、宇宙服がふくれあがっている。背負った生命維持装置の重みのため前傾姿勢になってバランスをとっている。二人の月面での活動時間は約2時間半。太陽風測定器や地震計などを据え付け、石の採取と写真撮影を行った」と書いていて、この展示室で宇宙服を着た人形とは、やや異なっている。

EXPO‘70に展示された月の石

 2人の月面での活動は約2時間半で、太陽風測定器や地震計を据え付け、石の採取を行ったそうで、この採取した月の石は1970年大阪の千里丘陵で行われた「日本万国博覧会・人類の進歩と調和」のアメリカ館で展示された。

 会場のすぐ近くに住んでいたこともあって7、8回は訪れている。当然「月の石」もかなり長時間並んで観覧したが、43年も前のことでまったく記憶にない。

 国際情報社発行の「日本万国博覧会・下巻」に掲載されていた。長時間並んで素通りして見ていたので、印刷物であるが、「月の石」を見直すことができた。

 今あらためて「月の石」を眺めてみると、2年前の5月に登った阿蘇高岳の火砕流の跡の岩石のように見えた。

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 写真7 阿蘇高岳頂上付近の岩石


 「日本万国博覧会・下巻」には、「月の石」の写真が掲載されているが、著作権等に抵触しそうなのでコピーを断念した。

 実際の月面は阿蘇高岳の表面と比べてどうなのだろうか。
写真7の一部をトリミングして月の石によく似た石は写真8の右端の大きな岩石のようだった。

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写真8 月の石に似た高岳の岩石


 NASAが莫大な費用をかけ、アメリカの威信にかけて採取してきた「月の石」を阿蘇・高岳の岩石と並べられては失礼と言うほかないが、イメージ的には、月の石は火山弾の中でも、マグマの破片がまだやわらかい状態で火口から放出され、空中を飛んでいる間に、丸みを帯びた表面になっていて、凸凹していてごつごつした感じで、灰色系統の色合いであった。

 コスモアイル羽咋には、地球に落ちてきた隕石が展示されていて、ガラスケースに開けた穴に手を入れてその重さを感じることができた。 
 展示している大きさから見て、意外と重たいと感じた。隕石の方は、黒っぽく、隕鉄と呼ばれる部類だそうだ。

 ここまで書き終えて晩酌をしながら、プロ野球セ・パ交流戦阪神タイガース対日本ハムファイターズを見ていると、時たま折から満月を大きく映し出されていた。

 日本では、餅つきをするウサギとして、そのシルエットがテレビの映像からはっきり見えたので、一眼レフを取り出して、5月25日の満月をズームで南東の空の写してみた。三脚を立てていなかったので、手振れで写真9を記録として撮るだけだった。

 月面は、「約30億年前には月の地質活動はほぼ終えたとみてよい」(Yahoo!百科事典)というから、2年前登った阿蘇高岳近くの中岳は噴煙を上げていた。写真7の高岳頂上付近とは違ってもっと荒涼とした月面であろうと思う。       

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 写真9 2013年5月25日の満月


 コスモアイル羽咋に立ち寄ったのがきっかけで、宇宙開発の思い出などをあれこれ書いてみたが、この辺でこの稿を収めることにした。   

 (平成25年5月26日)   



第69話 花がいっせいに咲き始めた[2013年03月18日(Mon)]
 厳しい寒さだった今年の冬が、彼岸にようやく暖かくなってきた。近くの公園ではユキヤナギ(写真1)が咲き始めた。

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写真1 ユキヤナギの花が咲き始めた(2013年3月15日撮影)


 あと数日すれば、枝が弓状に湾曲した真っ白な花をいっせいに咲かせることだろう。

 このユキヤナギが植わっている植樹帯を少し下っていくと、椿の花が数輪ポロンと転がっていた。
アレ?こんなところに椿が植わっているなと、見上げてみると、茂った葉っぱに隠れてひっそりと赤く大きく開いた花やつぼみ(写真2)を見つけることができた。

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写真2 葉陰に隠れて咲いた椿の花


 椿の花が首からぽとりと落ちることを、武士はこの花の首が落ちるのを連想するという理由で嫌うのだと聞いたことがあり、通路に落ちていた椿の花を見て思い出して調べてみた。

 「明治時代以降の流言であり、江戸時代に忌み花とされた記述は見付からない。競馬では大本命のタカツバキが、スタート直後に落馬で競走中止するというアクシデントを起こして以降、ほとんど付けられることがなくなったとされている」と椿の花の流言を、ウィキペッディアで知ることができた。

アーモンドの並木道

 ハイキング仲間から「第5回澤の鶴蔵開き」が3月16日の昼前に開門に合わせて参加することにして、それまでの3時間ほどを灘の酒蔵を歩くことにした。

 ネットで検索してみると、3月23日に神戸市東水環境センター「水辺の遊歩道・うおざき」で、「アーモンド並木と春の音楽会」が開催される。1週間前では、満開とまではいかないまでも、この花を見たことがなく是非に立ち寄ることにした。

 阪神電車青木駅に9時10分前の集合に仲間14人が集まっていた。青木駅から15分ほどで東水環境センターに着いた。

 阪神大震災の被害からの復旧にあたり「市民とともに歩む下水道」を掲げ、地域に開かれた処理場づくりを進めてきたという。
 
 阪神大震災のときに損傷を受けた構造物などの破片が陳列されていたが、未だ早かったのか、見学できる雰囲気でもなかったので、魚崎運河沿いの水辺の遊歩道へ急いだ。

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写真3 アーモンドの花が咲き始めた遊歩道


 次の週の23日に、「アーモンド並木と春の音楽祭」が開催されるが、7日ほどで満開になるだろうか、まだちらほら咲きだった。

 100本ほど植わっているそうだが、大きな木は少なく、低い木に桜に似たピンクがかった白い可愛い花(写真4)をつけていた。

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写真4 アーモンドの花


 並木道を歩いていて、ざくろの実のような木(写真5)があった。「ざくろだろう」と仲間が話していて、その場を通り過ぎた。

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写真5 アーモンドの果実


 ウィキペディアによると、「7月から8月にかけてアーモンドの果実は、皮、果肉、核、仁からなる。このうち食用に供しているのは仁の部分である。アンズ、モモやウメの近縁種だが果肉は薄く、食用にならない」と書いているし、この並木道に異種の木を植えているとは考えにくい。おそらく、アーモンドの実だろうと思われる。

ざくろの果実

 そういえば、ざくろなら、3年ほど前の奈良盆地の北・山の辺の道を歩いていて写真を撮っていたのを思い出した。
 記録をたどると、平成22年11月9日に、大和三門跡と称される格式の高い尼寺の円照寺から、白毫寺へと歩いていて、土塀からはみ出るようにざくろの果実がなっていた。

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写真6 ざくろの果実


 たくさんの果実の中には、熟して赤く硬い外皮が不規則に裂け、赤く透明な多汁性の果肉(写真7)の粒が無数に現れていたのを塀越しにデジカメで撮っていた。

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写真8 熟したざくろ(2010年11月9日撮影)


 ネットの「アーモンドの四季」には、「8月末から10月にかけて、枝もたわわに結実したアーモンドの果皮がはじけ始めると、農園は収穫期を迎えます。アーモンドの実は熟しきっても枝についたまま、自然に落果しません。そこでツリー・シェイカーという機械で木を揺すってやります。一斉に枝から落ちる様子がちょうどシャワーのように見えるところから“アーモンド・シャワー”と呼ばれています」と書いていて容易に落果しないアーモンドの果実が、上記写真5で見るように、残っていることが分かった。


灘の酒蔵を歩く


 今日の目的地、灘の酒蔵「澤の鶴」の蔵開きの会場に向けて、神戸市内にある灘五郷のうちの魚崎郷(写真9)、御影郷、西郷を歩いた。

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 写真9 魚崎郷の表示


 運河や埋立地間を連絡する道路として、阪神高速道路湾岸線やハーバーハイウェイが近くを通っているため大型橋梁(写真10)が架かっていていた。

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写真10 阪神高速道路湾岸線とハーバーハイウェイ


 神戸製鋼所の灘浜サイエンススクエアに立ち寄るため、臨海道路に沿って歩いたため、トレーラーや、大型トラックが行き交っていて歩きにくかった。

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写真9 六甲アイランドのビル群を望む


 わが家の庭のモクレンは未だつぼみが固いというのに、高速道路沿いの緑地帯のモクレンの花(写真10)がちらほら開花しかけていた。

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 写真10 開花し始めたモクレンの花


 菜の花まつり

 10時半過ぎに灘浜サイエンススクエアに着いたが、すぐ横の緑地でにぎやかに「菜の花まつり」が開催されていて、大勢の人だかりで吸い寄せられるように足が向いていった。

 会場の受付で、「第12回菜の花まつり」の案内リーフレットもらったので、「菜の花は?」と聞くと、確かに菜の花が植わっていて満開だった、が、すぐ側に桜がここではすでに満開(写真10)だった。

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写真10 灘浜緑地では桜が満開


 菜の花まつりと言うよりは、満開の桜を見ていると、「さくらまつり」と見間違うほどだった。

 澤の鶴の蔵開きには、このイベントと協賛した「菜の花まつり」に来ていた人が開門時にどっと入って、イベントのステージは満員だった。人ごみで動きにくい上に福袋で買った酒のビンが重くて早々に退散した。

 
 今年の桜(ソメイヨシノ)の開花予想は、3月の上旬に季節外れの暖かさになった日があり、この暖かさが大きく影響し、九州から関東甲信地方では開花と満開は平年より早く、1週間以上早い所もあると気象庁の発表があった。日当たりのよい灘浜緑地では早くも満開になっていたが、大阪では3月24日が開花予想日である。

 日本では見ることが少ないアーモンドの花を見ることができた。実をつける8月ころに再度この水辺の並木道を訪れてみたいと思っている。


(平成25年3月18日)


第68話 あまり歩かずに奈良市内を満喫(続き)[2013年03月13日(Wed)]
 東大寺北河原公敬別当の法話を聞くまでの3時間余りを市内の近場を散策した。奈良ホテルを訪ねたあと、県庁近くで昼前になった。


 一昨年夏休みに孫3人を連れて山口県庁にいったとき、県庁内の食堂を気軽に利用できたことを思い出して、奈良県庁6階の食堂に入った。
一般の人もけっこう利用していた。食券販売機には、人気No.1と表示した700円の定食を食べた。

屋上から見る奈良の景色

 県庁のエレベーター前には「屋上から奈良が一望できます」と書いて気軽に利用できるようだった。

 屋上の出入り口は南に面しているので、興福寺・五重塔(写真1) が目の前に飛び込んできた。奈良盆地が一望できるので、時計と反対に一回りした。

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 写真1 屋上から見る興福寺・五重塔


 屋上に黄色い花が咲き始めていたが、蝋梅(写真2)だとHさんが教えてくれた。完全に開いた蝋梅は見たことがあるが、つぼみでは分からなかった。

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写真2 開花し始めた蝋梅


 東西南北それぞれに写真を撮ったが、屋上から更に登れる階段があり、屋上ギャラリーでは、北方領土のパネルが展示されていた。

 この屋上階からも展望できたが、庇が出ていてデジカメはズームで引きつけて五重塔(写真3)を撮った。

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写真3 屋上階から見た五重塔


 屋上よりも5mほど高い場所から見下ろすと、五重塔や、奈良盆地を囲む山々が、さらによく見えた。

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写真4 南方向の説明用絵図

 
 東西南北から見る景色に説明用の絵(写真4)がついている。五重塔の左端に薄っすら見えるのは三輪山で、大神(おおみわ)神社は、三輪山そのものを神体とする標高467.1mの円錐形の山である。

 写真4の中央に白く見える若草山(標高342m)である。

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写真5 正面に若草山を望む


 奈良といえば、大仏さん(盧舎那仏像)。像の高さ約14.7メートルがおさまっている大仏殿(写真6)は、建物の高さが50mほどあるから、周辺の木立から大きく際立って見えた。

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写真6 東大寺大仏殿


 西方向には、東大阪市と奈良県生駒市との県境の生駒山地が横たわっている。

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写真7 遠くに生駒山地を見る


 子規の庭

 県庁から15分ほど歩いて、1時半には天平倶楽部に着いた。

 この建物の右隅の垣根に、「子規の庭」の案内(写真8)が出ていた。

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写真8 子規の庭の案内板


 天平倶楽部があるあたりに、江戸末期〜大正時代にかけて、『對山楼角定 (たいざんろうかどさだ)』と言う旅館があり、山岡鉄舟の命名といわれ、伊藤博文、 山県有朋、大山巌、正岡子規、岡倉天心、滝廉太郎などが宿泊した老舗旅館であったという。

 「なかでも俳人正岡子規は、明治28年10月26日から4日間滞在。この近辺を散策し、多くの句を残した。その一句2を伊予青石に刻んだ句碑(写真9)を建立し、当時子規が眺めたであろう柿の古木の元に彼が好んだ草花を配した小庭を作庭した」とその由来を書いていた。

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写真9 子規の句碑


 句碑には「秋暮るる 奈良の旅籠や 柿の味」で、子規の故郷の青石を使った石組だと紹介していた。

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写真10には、上記の句は、「子規が宿泊した對山楼の部屋は、この近辺にあったと思われ、夕食後月ヶ瀬出身の色白で美しい16歳の女中に剥いてもらった御所柿を食べていると、東大寺の鐘が聞こえてきた」と書いている。
その情景の余韻が、その後に立ち寄った法隆寺まで尾を引いて、子規の代表作の句「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」に結実したと解説している。

 この辺の経緯が通路に「子規と奈良」で張り出されていて、對山楼に泊まったときの様子を「くだものー御所柿を食ひし事」と題して「ホトトギス」第4巻第7号に回想した随筆が掲載されていた。

 「三日ほど奈良に滞留の間は幸に病気も強くならんので余は面白く見る事が出来た。この時は柿が盛(さかん)になっておる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいえない趣であった。柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見離されておるもので、殊に奈良に柿を配合するというような事は思いもよらなかった事である。余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという……

 この女は年は十六、七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた……

 やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。

 彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという……」        
        
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 写真11 樹齢百数十年のトヨカ柿


 写真11には「正岡子規が、この地を訪れた1895年(明治28年)に現存した柿と思われ、子規はこの柿を食し、『柿食えば』の句を作ったかもしれない。この柿は樹上で渋柿から甘柿に変化する『不完全甘柿』という特殊な柿である」と解説してあった。

 子規の庭に立ち寄ったあと、東大寺北河原別当の法話「不退の行法、東大寺修二会(お水取り)」では、不退の行法として、一度も止むことなく1262回を数えるという。平重衡の兵火、戦国時代・松永・三好の兵火による焼失、第二次世界大戦後の食糧難などの危機にも絶えることなく続けられているという貴重な話を聞くことができた。

 「うたごえの会」では、声楽家の耕 善一郎先生、ピアノ演奏家のアマデウス大西先生の指導のもとに、童謡・唱歌を中心に楽しく歌うことができた。

 夕食は天平倶楽部が地産の食材を活用した新・大和料理に、お酒も飲むことができた。奇遇にも、この会をまとめている人が、前に勤めていた会社の女性だと知り、20数年ぶりの再会もあって、大いに満足して帰宅した。       

(平成25年3月13日)


第67話 あまり歩かずに奈良市内を満喫[2013年02月26日(Tue)]
 今東大寺・二月堂では、修二会(しゅにえ)行われている。そうしたおり、2月22日午後2時から天平倶楽部で北河原公敬東大寺別当の法話を聞く機会があった。
ハイキング仲間の4人が参加した。10時半に近鉄奈良駅で集合したので、法話を聞くまでの3時間あまり、市内を散策した。

 冬の奈良は観光客もまばらで、中国人らしい若者4、5人が旅行バッグを引きずりながら出会ったくらいだった。
 観光案内所で3時間くらいのコースとして興福寺から春日大社を経て二月堂のコースを推薦してもらっていた。
 猿沢池から浮見堂を目指していたら、途中で奈良ホテルの方へ入ってしまった。

奈良ホテル
 奈良へは何度も来たことがあるのに、この老舗のホテル近くには、行ったこともなかった。坂道を上がっていくとホテル前に出た。

 2階建ての木造建築(写真1)に、庭木の消毒している横を通って玄関前まで来たとき、Kさんがアセビの花が咲いていると教えてくれた。

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写真1 二階建て木造建築の奈良ホテル


 アセビを漢字で馬酔木と書くというのは知っていたが、実物(写真2)を見るのは初めてだった。

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写真2 玄関前に咲いていたアセビの花


 歴史のあるホテルの玄関になぜアセビが植わっているのか不思議に思ったのでネットで見ると、「馬が葉を食べれば苦しむという所からついた名前であるという。多くの草食哺乳類は食べるのを避け、食べ残される。そのため、草食動物の多い地域では、この木が目立って多くなることがある。たとえば、奈良公園では、シカが他の木を食べ、この木を食べないため、アセビが相対的に多くなっている」(ウィキペディア)と書いていた。

 奈良新聞2012年7月18日に、「奈良の鹿愛護会は17日、奈良公園一帯で行った鹿の頭数調査の結果を発表した。鹿苑収容を含む総頭数は1370頭で、昨年より17頭少ない」と書いていた。天然記念物に指定されている鹿がこれほど多くいれば、アセビが多くなることが理解できた。

 ホテルの玄関ドアは自動開閉ではなく、「古色蒼然とした建物だ!」と話しながら中に入っていくと、「104年の歴史があります」とホテルの人が返事をしてくれた。

奈良ホテルとアインシュタイン博士
 ソファのある部屋に入ると、古めかしいピアノが置いてあり、アインシュタインがこのピアノを弾いた写真と説明がされていた。

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写真2 アインシュタインがピアノを弾いている写真


  1922年(大正11年)の 12月17日から2泊3日で、国際的物理学者アルベルト・アインシュタイン博士が、このホテルに滞在されたという。

 奈良ホテルのホームページの「アインシュタイン博士が弾いたピアノ2日間限定イベント2012.12/17(月)、18(火)」に、「日本へ向かう船上でノーベル物理学賞受賞の知らせを受けたこともあり、日本では熱狂的な歓迎を受けた。ホテルには大勢の学生らが集まり、アインシュタインも忙しい合間に趣味のピアノ演奏を楽しんだ……戦後すぐに大阪鉄道管理局庁舎に持ち出され、1992年に庁舎が解体される際に見つけられ……2009年の奈良ホテル創業100周年を機に、ホテルスタッフの地道な追跡調査の結果、奈良ホテルでアインシュタイン博士が弾かれたピアノであることであることが確認でき、里帰りを果たすことができた」と紹介されていた。


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写真3 アインシュタイン博士が弾いたピアノ


 アインシュタインが日本で相対性理論の講演で日本各地を回っていたとき、京都での案内を19歳の学生だった西堀栄三郎がしたことを知ったのは、NHKのプロジェクトXだったろうか。

 そのプロジェクトXの第一次南極観測隊南極観測隊の副隊長兼越冬隊長で、越冬中に北村隊員が観察中に火災を起こして観察器具を消失した時、西堀越冬隊長が「北村を手ぶらで帰すわけにはいかんなぁ」と言って手製の器具を渡したというエピソードを話していたが、出演していた北村隊員が思わず男泣きした映像を思い出した。

奈良ホテルの周辺を散策する
 奈良ホテルの南側には「名勝 旧大乗院庭園(写真4)」を見下ろすことができた。
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写真4 名勝旧大乗院庭園


 古風な屋根付の解説板(写真5)には、「興福寺領内にあり、庭園は平安時代、1114年ころに造営された後、室町時代中期に当時の造園第一人者の善阿弥に浄土教の思想を反映させた『浄土庭園』に改善し、昭和33年に名勝に指定された庭園」で、2010年4月から一般公開したという。
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写真5  「名勝旧大乗院」の解説板


 奈良ホテルは高台に建っていて、その北側には、大きなため池・荒池があった。
 そこから見る興福寺五重塔などの風景(写真6)は、古都奈良に調和した風景になっていた。

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写真6 荒池を挟んでみる興福寺五重塔


奈良県庁に入る
 玄関前に奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」(写真7)が、右手を差し出して迎えてくれた。

 2010年に平城遷都1300年記念事業で奈良をイメージして鹿の角の生えた童子で、今は奈良県のマスコットキャラクターに栄転したようだ。
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写真7 奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」


 1階の受付横には、樹齢570年余りの春日杉が展示されていた(写真7)。

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写真7 樹齢570年余の春日杉


 春日山一帯に生育する杉を春日杉という。あざやかな色と美しい木目で、貴重な銘木として知られている。

 展示の春日杉は、昭和36年(1961年)の第二室戸台風で倒伏したそうで、樹齢570年余りといえば、1390年の足利時代の三代義満将軍の頃だ。

 今年2月1日の朝日新聞夕刊「ニッポン人脈記・邪馬台国を求めて7」に、「欧米で盛んになった年輪年代学を80年代に日本に持ち込んだのが、奈良文化財研究所で環境考古学を担当する光谷拓実さんだった」と読んでいたので、特に興味があった。

 展示の春日杉の左側の白い線上に、「1709年東大寺大仏殿再建」、「1867年(慶応3年)明治天皇即位 王政復古」などの出来事が示されている。光谷さんは100分の1ミリ単位で読み取っていたが、機材が進化で、デジタルカメラとコンピューターで自動計測もできるようになったという。

 県庁での昼食後、屋上から奈良市内を展望したこと、1時半に天平倶楽部の「子規の庭」のことを書くことにしているが、長くなりすぎたので次回に回すことにした。


(平成25年2月26日)


第66話 長良川鉄道の旅(その5)[2012年12月10日(Mon)]
 郡上八幡の民宿での一泊は、珍味などの手料理とカッポ酒、骨酒を、気持ちよく飲んだのでぐっすり眠ることができた。お陰で二日酔いにもならず、6時過ぎには起床し8時半には宿の主人に八幡城まで送ってもらった。

郡上八幡の通りを車で走る

 城へ行く通りは、まだ商店街が開店前で、車も少なく途中ところどころでゆっくり走って解説してもらった。
郡上八幡といえば「盆踊り」が有名で、「会場がひと晩に1カ所ずつで、
町内あちこちでの縁日祭りにちなんでおこなわれる」と聞いた。

 7月中旬から行われ、33日間の日本一ロングランの盆踊りだそうだ。

 今は盆踊りのにぎわいはなく、通りに盆踊りとお城をあしらった飾り(写真1)があるので、この土地ならでのモニュメントだと思った。

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写真1 郡上八幡新町通のモニュメント


 吉田川に差し掛かって、「上流の橋(新橋)から子供たちが飛び込む場所です」と教えられ、急いでシャッターを切った。

 八幡城の紅葉を満喫した後、城下町を散策して郡上八幡駅へ行く途中で吉田川を渡ったとき、上流に架かる新橋をあらためて撮ることができた。

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写真2 橋から川へ飛び込む名所・新橋


錦秋の郡上八幡城
 八幡城の駐車場には9時10分前に着いた。朝霧がかかっていて未だ日差しはなく、せっかくの紅葉もくすんだような色合いだった。

 眼下には東海北陸自動車道の構造物がかすかに見えていた。

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写真3 朝霧に霞んだ郡上の街


 人気のないので、お城の周りをゆっくり散策することができた。

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写真4 紅葉に映えた郡上八幡城


 写真4で撮った周辺は、お城を見上げるベストポジションなのだろう。観光協会から送ってもらった「もみじまつり」の写真とほぼ同じアングルだった。

 霧に包まれていた城の周辺は、15分ほどのうちに、日差しを浴びだし、紅葉した木々は一段と映えてきた。

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写真5 陽に映えて鮮やかな紅葉


 お城への道は、一方通行になっていて、車で登ってきた道をゆっくり歩いて下っていった。

 15分ほどで城下町のみやげ物を売っている平地に降りてきた。

 山内一豊の横に、千代がへそくり10両で買ったという馬と千代の銅像があり、両側の茂みの先に城が小さく見えていて、銅像の横の解説板・「山内一豊の妻 千代と郡上」には、「NHK大河ドラマでも取り上げられた山内一豊夫人、千代は、ドラマの中では原作に従って近江の出身と描かれましたが、初代郡上八幡城主 遠藤盛数の娘が山内対馬守室(一豊の妻)とする系図が各所に残されてきました。

 近年には郡上説を裏付ける高知県からの家系図、陣立図も発見されています。また、昭和60年には市民の有志によって『山内一豊夫人顕彰会』が設立され、この銅像を建立したほか……」と書いてあった。

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写真6 山内一豊と千代の銅像


 山内一豊と千代の銅像の前で、折から観光に来ていた女性に、4人そろって記念撮影のシャッターを押してもらった。

風情あふれる城下町を散策


 城下町には、地図1(郡上市総合観光パンフレットから)の古い町並みを通って宗祇水(そうぎすい)を目指して歩いていった。

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地図1 風情あふれる城下町


 道路の脇には水路(写真7)が流れていて、近隣の人だろう、この水路の掃除をしているところだった。

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写真7 道路の脇を流れる水路


 名水百選第1号に指定された宗祇水は、郡上八幡の観光スポットになっていて、私たちの後から旗を持った観光客の団体がやってきた。

 「郡上八幡地域は年間2,800mmの降雨量がある豊かな水源林に涵養され、縄文鍾乳洞に代表されるカルスト地形の石灰岩に浸透し、八幡市街に数多く湧出する」(ウィキペディアから)と書いているように、この宗祇水は地域の人たちの飲用水、生活用水として利用してきている。

 宗祇水の区分けした洗い場の写真より情緒ある橋からの眺めの写真を選んだ。

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写真8 橋の向こう側の柳の下が宗祇水


 郡上八幡駅へは、新町通を歩いていったが、道路の両側に水路が流れている。今は車社会になって水路は、コンクリート板の蓋でかぶさっているが、かつてはその水路に蓋がなく利用されていたのではなかろうか。

 その水の流れを見ることはできなかったが、結構豊富な水量だろうと思う。

 その新町通を右折れすると小粋な路地があった。

 写真9で見るように、石畳の際に柳が植わっている。路地の入り口に「やなか みずのこみち」と彫ったちいさな石柱があった。

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写真9 情緒ある「やなか みずのこみち」


どっちが本物?

 宗祇水から吉田川を見学して土産物屋に立ち寄った先で、声をかけられて入ったら、食品サンプルを作っている「さんぷる工房」だった。

 食品のサンプルの需要は多いと思う。食堂へ入るとき何を食べようかとショーケース(陳列棚)を見て選ぶことが多いが、本物を陳列することはまずないだろう。本物だったら美味しいものでも、時間の経過とともに変化していくので、やっかいだ。

 食べ物屋の大半は、模造品で陳列されているから、その店の特色を出したメニューを、いかに美味しく見せるかが、集客力につながるだろうと思う。

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写真10 食品サンプルの一例

サツマイモやみかんなど、本物そっくりに作られていた。

 むいた切れ端のみかんを、土産に買った。

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写真11 本物と模造品のみかん


 本物(左)と土産の模造品をデジカメで撮った写真11から判断するのは難しいのではないだろうか。
 
 ネットの検索によると、「食品サンプル発祥の地といわれ、全国の食品サンプルの大半を作る郡上八幡……。その地にある食品サンプル創作館さんぷる工房は、築150年の町家を改造した観光施設です」と紹介されていた。

旅行記を閉じるにあたって

 あれこれと脱線しながら、「長良川鉄道の旅」を(その5)まで書いてしまった。持って行ったデジカメが「みなみ子宝温泉」で電池切れになってしまった。

 がっかりしていたとき、同行のKさんが自身を犠牲にして貸してくれたおかげで写真を見ながらまとめることができた。

 「里の風景満喫」のハイキングは、道案内があまりにも少なくて道に迷うことが多々あったが、日本三大清流の一つ、蛇行の多い長良川沿いを歩いてみてその景色を見て満喫できたのは収穫の一つだった。

 さらに、郡上八幡の民宿は、ネットの検索で多くの民宿から適当に選んだ宿だった。その後Kさんと出会ったとき、旅で泊まった民宿は「一日一組」で、「食は命なり、奥美濃の山河の恵み、旬の食材を伝統とオリジナルな活用でマクロビオテックな季節の膳をご用意してまいります」と、ネットに掲載されていると教えてもらった次第である。

 一昨日(12月9日)、中山寺奥ノ院ハイキングで、19人の仲間に、長良川鉄道の旅で一緒に歩いた4人組も参加していた。そのあとの忘年会であらためて、郡上八幡の民宿の料理などを満喫できたことを話し合った。

 長良川鉄道の旅では、郡上八幡市内の散策を終え、11時18分発で美濃市へ向かった。美濃紙と「うだつ」で有名な町並みを散策したが、長くなるので割愛した。

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写真12 線路は続くよ、長良川鉄道


「線路は続くよ、どこまでも……楽しい度の夢つないでる」というアメリカ民謡の唱歌ではないが、「楽しい旅の夢」をつないだ今回の旅を、運転席の近くで撮った長良川鉄道の風景を載せて締めくくりとする。

(平成24年12月10日)


第65話 長良川鉄道の旅(その4)[2012年12月05日(Wed)]
 11月12日11時54分にJR美濃太田駅に着いた。乗換えの長良川鉄道は、隣のホームで乗車・降車のホームの最後尾にキップ売り場があり、女性駅員が一人で業務をこなしていた。ちょうど11時に関行きの出発直前だったので、発車後までキップを買うのを待った。

一日郡上八幡クーポン
 発車して直ぐ女性駅員に、この鉄道の「ウォーキングの旅」のイベント「いつでもレール&ウォーキング・コース4・里の風景満喫の旅」で、赤池駅から深戸駅までハイキングして郡上八幡へ行くと話し、「郡上八幡まで買うと途中下車ができるか」と尋ねた。
「途中下車ができ、往復乗車券と郡上八幡城と博覧館の入場券とセットになったキップがある」という説明に納得し4人そろって買った。

 赤池駅から「神の御杖杉」などを巡って3時間ほど費やした。予め決めていた15時27分深戸駅発にぎりぎりで乗車できた。

 深戸駅で乗る直前になってNさんが、「このキップ(写真1)は当日しか使えない」と言い出し、お互いに考えこんだ。

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写真1 一日郡上八幡クーポン


 車中で一日乗車券の解釈を考えた。「ハイキングをして八幡城や博覧館を巡って泊まらずに日帰りができることなど無理な行程だから、スタンプで押した『一日クーポン』を、『二日クーポン』と押し間違えたのかもしれない」などと解釈をして、16時頃その日の宿泊地・郡上八幡駅に着いた。

 改札口で駅員に聞くと、「一日のクーポンだから翌日は使えない」とつれない返事なので、「鉄道を利用したウォーキングのイベントに参加したのだから、一日では完結はできないし、今からお城へも行けない」と反論したが、「買った美濃太田駅で話してくれ」と解決できないままに民宿の車で宿に入った。

珍しい手づくりの郷土料理に舌鼓を打つ
 郡上市は岐阜県のほぼ中央に位置し、飛騨高地の南にある山岳丘陵地帯にある。晩秋の奥美濃の中心の郡上の町の日の暮れは早い。クーポンを利用して八幡城巡りなどの観光は時間的に無理だった。

 一日クーポン券の解釈の違いは、美濃太田駅に電話を入れて話した結果、翌日使えなくなったキップを美濃太田駅まで持っていくことになった。

 一風呂浴びて、大相撲九州場所のテレビ観戦をして寛ぎ、食事は6時から一階で囲炉裏を囲みながらだった。

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写真2 囲炉裏を囲んで食事


 囲炉裏の前に、膳(一人ずつ食器と食物を載せる台)が置かれているので、並べる料理は食べる具合を見計らって順次おかみさんが載せてくれた。

 郡上市内のホテルや宿屋が、どんな料理を出しているのか知らないが、一般的な宿で出る料理とは少し違っていた。

 小さな器に白い小粒の食べ物があったので聞いて見ると、「クロスズメバチの幼虫」だという。土地の言葉で「ヘボ」と言っていた。自分たちで獲ってきたとも言っていた。

 日頃食べることが少ないが「ムカゴ」は見て直ぐにわかったが、白い衣の天ぷらが「ドジョウ」だったとは、朝食のときに、夕食で食べた料理を聞いて知った。
 かぶら蒸しや、のぼり鮎の甘露煮(チチコだとか)もあった。

カッポ酒、骨酒に大満足
 最初の一杯はビールを飲んだが、出てくる珍味に舌鼓を打ちながら、地酒の「母情」を出してもらった。囲炉裏の火を利用して青竹の筒に酒を入れて燗酒にしたカッポ酒で、一口飲んでみると、辛く感じたので「辛口の酒ですね」と聞くと、おかみさんが肯いていた。

 辛口と感じたのは最初の一杯だけで、珍しい料理と燗酒が微妙にマッチして、なんとも言いようがないほどに良い飲み心地になってきた。

 何回お代わりしても程よい燗が出てくるので、聞いてみると「竹筒から出てくるわずかな湯気から判断して出している」という心遣いだった。

 おかみさんが座を外したとき、「囲炉裏の縁にある焼き魚(写真3)はどうして食べるのだろう。人数分には足らないし?」とYさんが切り出したが、「さあ……?」と、半分ずつに分けるのだろうくらいに考えていた。

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写真3 囲炉裏の隅の焼き魚3匹


 カッポ酒で酔いが回ってきたころ、「この焼き魚の食べ方は?」と尋ねてみて、この焼き魚を写真4の器に入れてアルミ箔を被せて燗酒にする骨酒だということを初めて知った。

 囲炉裏の隅の焼き魚は岩魚(イワナ)だった。

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写真4 魚の形の器に岩魚を入れた骨酒


 ふぐ料理には、ふぐのヒレをあぶって熱燗で飲むヒレ酒があるが、焼き魚をヒレ酒と同じように飲むには、焼き魚と言っても魚の臭みがあるのではないかと、ちょっとためらいがあった。

 飲んでみると、まろやかな味わいで飲むほどにペースが上がっていった。

 骨酒をネットで検索すると「焼き魚で肉をとったあとの骨や鰭(ひれ)などをふたたび火にかけてあぶり、少し焦がしてコップなどに入れ、熱燗の酒をこれにそそぐことで日本酒に独特の香味を付けて味わうことができる。
岐阜県など中部地方では焼いた魚をそのまま燗酒に浸して賞味する。使うのはイワナ、アユなどの川魚。一種スープのような味わいで、口当たりが良い」(ウィキペディア)と説明していた。

 日ごろは手術をして酒は控え目のYさんだったが、お酒はいつもよりペースが上がっていた。骨酒を飲むころには、3人は膳の料理はきれいに平らげていた。

 私の若い頃の飲み方は、まずつまみである程度腹の中を満たしてからペースを上げていく方だったが、馬齢を重ねるごとに酒を味わって飲み方に変わっていった。
 飲むほどに陽気になり、ノミニケーッションを楽しむことが多く、今夜も一人だけ未だ膳の料理が残っていた。

 最初にコップ一杯程ビールを飲んで直ぐ酒に切り替えたとき、いろんな酒のビンの横の棚に飾ってあった(写真5)盃から、好みの盃を選ぶように言われた。
 各地の有名な焼き物もあり、少し小さめの盃を選んだつもりだったが、料理より杯の方が忙しかったようだった。

 おかみさんは、自分で採ってきた木の実などで作った果実酒の説明をしながら、「自由に飲んでください」と言っていたが、囲炉裏で程よい加減のカップ酒と骨酒をしっかり飲んでいて、果実酒や焼酎を飲むほどの余裕はなくなっていた。

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写真5 果実酒や盃を並べた棚


 膳の料理をすっかり食べ終わったあとに、栗入りのおこわに吸い物と最後にフルーツが出てきた。
なお、写真2から写真5は、夕食時にデジカメを持っていかなかったので、朝食時に、夕食の雰囲気を少しでも伝えたいと、イワナと骨酒の器をセットしてもらった。

旅館と民宿
 今夏、ハイキング仲間と中土佐旅行の夕食では、鰹などいろんな料理が出てきたが、食べきれず残してしまったのに、と考えてみた。

 その宿はコテージ式とホテルを併設した温泉宿で、その日も満室だったらしく、多くの宿泊客を相手にした平均的な年齢層の料理を出さざるを得ないのだろう。

 一方、民宿では少人数分を準備し、客の年齢から判断して出す量は加減できるなど、臨機応変に対応できるなどの違いがあるだろうと思う。

 おかみさんに「今日の泊まりは私たち4人だけですか」と聞くと、「一組しかお客を取らないことにしています。3日前に11人の申込みだったが、少し減らしてくれませんか、とお願いしたほどです」と応えていた。

 今回の旅行では、4人とも後期高齢者である。料理の品数は多いが、高齢者には程よく適量に盛られていた。

 戦時中から戦後の食糧難の時代に育った4人の仲間は、「もったいない」が心の隅にあり、食べ残すことに多少の罪悪感が潜んでいるだけに、出された料理を残さず食べたので、調理をした人にも喜んでもらえたのではないだろうか。

 今回の旅では、赤池駅から深戸駅までのウォーキングでは道に迷うし、里の風景を満喫したとまではとても言えなかった。

 不評だったハイキングに比べて、インターネットで探して偶然に申し込んだ民宿だったが、気持ちのよいおもてなしと珍しい料理に舌鼓を打ったことで帳消しにしてもらった感じで、郡上八幡の宿でのおもてなしの心に大いに感じ入った。

 今までに3回も郡上八幡を訪れているKさんが「また訪ねてこの民宿に泊まりたい」と、話してくれたことは、この計画を誘ったものとして報われた感があった。

 
この稿の最後に、この宿に貼ってあった「つもりちがい十条・家庭生活」を載せて締めくくりとする。

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写真6 つもりちがい十条



 この旅の目的の一つ「錦秋の郡上八幡城」は、次回にまとめたい。

(平成24年12月5日)


第64話 長良川鉄道の旅(その3)[2012年12月03日(Mon)]
 長良川鉄道の「レール&ウォーキング」の「里の風景満喫の旅」のコースCを選んで、赤池駅を出発したのが12時半過ぎだったが、「神の御杖杉」に着いたのが14時15分ころで約1時間45分もかかっていた。
 「神の御杖杉」は、このコースで一番高い標高230mくらいで、深戸駅が標高約160mだから、その差70メートルをどんどん下っていけばよい。15時27分深戸発に間に合うよう先を急いだ。

 丸山ニュータウンと案内のある住宅地に入っていったが、ここでもどんどん登り道に上がりかけていて、「これはまずい」と慌てて引き返した。
 坂道を登ってくる車に手を上げて無理に停車してもらい、「深戸駅へ行きたい」と聞くと、「長良川鉄道に乗るなら、赤池駅の方が近いよ」といわれたが「ハイキングで赤池駅から歩いてきた」と応えて道順を教えてもらった。

長良川沿いを歩く
 丸山ニュータウンからどんどん下っていくと、長良川の遠景(写真1)が見え出した。

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写真1 遥か下に長良川が見え出す


 この稿を書いていて写真1の長良川に架かる橋梁で錆色した桁(無塗装橋梁か?)に平行した形でわずか見える水色の橋梁に気がついた。

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図1 長良川に架かる2つの橋


 郡上市観光連盟から取り寄せた「長良川鉄道 いつでもレール&ウォーキング」の図1には、四角い枠に長良川鉄道第三橋梁の解説で隠れているが、黄色の鉄道線は長良川を渡河している。第4橋梁であろう。

 写真1のブルーの桁橋とネットの検索による第4長良川橋梁の写真と比較してみてわかった。径間数が6つと書いているが、写真では判らない。

 第3橋梁は1928年(昭和3年)に架けられたトラス橋と鈑桁(プレートガーダー:鋼板をI形断面に溶接して組み、これを主桁とする橋。設計・製作が容易で鋼重も小さく経済的な形式)なので、第4長良川橋梁も6径間単純鈑桁かと思われる。

 深戸駅まであと40分ほどで着かなければならないから、長良川の右岸沿いの堤防を早足で歩いた。

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写真2 長良川堤防の右岸側を歩く



 写真を摂りながらよたよた歩いているので、元気な3人の快足に差をつけられていたが、写真2の建物辺りで立ち止まって見つめていたので、ようやくに追いついた。

 そこには、「平成16年10月20日台風23号 長良川氾濫最高水位」の表示板(写真3)が立っていた。

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写真3 長良川氾濫最高水位表示


 最高水位表示板とその先の建物の天井くらいの水位だったことがわかった。

平成16年10月の台風23号

 その台風23号について、フリー事典ウィキペディアによると「10月13日にマリアナ諸島近海で発生。宮古島の南東で超大型で強い台風となった(強風域の最大値は、南側1,100km、北側600km)。

 その後、上陸の1時間前に、勢力が少し衰え超大型から大型になったが、秋雨前線を巻き込んだ大型で強い勢力で10月20日12時に高知県土佐清水市に上陸。これは、四国に上陸した台風の中では上陸日が最も遅く、日本上陸台風では過去3番目に遅い上陸である。その後大阪府泉佐野市に再上陸。本州中部地方内陸を横断し、関東地方の東の太平洋へ抜けて温帯低気圧となった」と書いている。

 以前からつけているウィクリーダイアリーの2004年10月20日には「台風23号『トカゲ』近畿地方直撃。14時頃雨足強くなる、吹き返しの風強く23時頃まで続く」と記載していた。

 戦後の一時期台風の名前はジェーン台風、キャサリーン台風とかキティ台風といったアメリカ人の女性の名前をつけていたことを覚えているが、なぜに日記に「トカゲ」と書いたのか不明だが、この台風23号には、アジア名で「トカゲ〔Tokage、命名国:日本、意味:とかげ座〕」とフリー事典に載っていた。

 上記の検索で各県の被害のうち「岐阜県では、特に飛騨地方で宮川(神通川)流域を中心に土砂崩れ、浸水などの被害が目立ち、鉄道は高山本線の高山駅〜猪谷駅間で橋が流されるなどして、不通となった……また郡上市美並町では国道156号が陥没した。長良川鉄道も12月上旬まで美濃市―北濃間が運休となった」と書いていた。

大きく蛇行する長良川
 上記の地図1で長良川の流れを見ると、深戸駅から赤池駅までの鉄道の駅間距離が2.2キロしかないのに、S字でくねくねと大きく蛇行して流れている。

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写真4 下流側を見た長良川


 写真4を撮った場所から15分ほど歩いただけで写真5のように大きく蛇行して流れていた。

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写真5 大きく蛇行する長良川


 新美並橋近くに来て、カメかカエルが座っているような石があったのでパチリとシャッターを切った。

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写真6 カメかカエルの姿に似た石


 新美並橋を渡りながらアップして撮ったのが写真7である。

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写真7 カメかカエルに似た石


 この辺りまで来ると、道に迷うこともなかった。

 図1には「くじ集落」の解説と安楽寺が表示されていたが、時間が迫っていたので寄らなかった。

 このハイキングコースで売り文句は「里の風景満喫」と書いていたが、赤池から御杖杉間では、里の風景というよりは、山の麓の集落を歩いてきた感じだったし、丸山ニュータウンはこの山間の集落に、忽然と現れた新築の住宅団地だなと感じた。

 「くじ集落」の解説に、「村史には、左手の山中に史跡があると書かれている。山あいに民家が、県道沿いに田畑が並ぶ、静かな集落」と書いているから、時間が許せば、この辺りを散策すれば、里の風景が満喫できたのかもしれない。

 川の流れの中のカメかカエルに似た石を眺めながら、新美並橋を渡った先は、国道156号の交差点だった。

 振り返ってみると、鳥居があったので、この付近の集落の鎮守の森(写真8)だろうか。

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写真8 新美並橋近くの鎮守の森


 10月下旬に83歳の大工の棟梁が書いた「鎮守の森と生物多様性」の原稿を預かっていて、あちこちの鎮守の森を調べていたので、興味があった。

 地図には神社の名前は書いていないし、本来なら図1に示されているかもしれない神社の印も「座敷で食べられる洋食。……」の解説で隠れていた。

 車の往来が結構あって信号の変わるのを待ちながら、都会らしき場所に出てきたと思った。
 その先に長良川鉄道の踏み切りが見えた。赤色のランプが点滅していて列車が来るのかと心配したが、踏み切り横断のために常時点滅している注意信号だった。

 鉄道の踏切を渡らずに、そのまま鉄道敷きか国道を通ることもできたが、解説の「郡上街道の名残を感じる街並み」を歩いた。ただ、深戸駅へ急いだため、その街並みは1枚も撮っていなかった。

駅にはぎりぎりの5分ほど前に着いた。

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写真9 やっとたどり着いた深戸駅


 乗る前に美濃太田駅で、途中下車が可能な往復キップを買ってきたが、Nさんが「このキップには、乗車日の11月12に限りと書いてある」と気がつき、日帰りにしか使えないキップだと分かった。

 このつづきは次回に回すことにした。

(平成24年12月3日)


第63話 長良川鉄道の旅(その2)[2012年11月30日(Fri)]
 長良川鉄道の旅の計画に当たっては、ネットで資料を収集するとともに、郡上市役所商工観光部観光課に電話を入れて「いつでもレール&ウォーキング」、「郡上満喫」などのパンフレットを4部揃えておいた。

長良川鉄道の出発駅・美濃太田から約1時間、12時半過ぎ赤池駅に着いた。降りてみると、自販機だけがぽつんとあるだけで、周辺には人っ子ひとりいなかった。

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写真1 列車をあとに赤池駅から歩き始めた


里の風景を見ながらハイキング

 取り寄せておいた「里の風景満喫の旅」の小さな地図を手掛かりに歩き出した。


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地図 赤池駅から深戸駅までのコース図


 駅の手前に長良川鉄道第三橋梁が見えた。橋梁を渡る気動車の写真ならもう少し風情のある景色になるのだろうが、次の気動車が走るまでに1時間以上の間隔はあるので先をいそいだ。

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写真2 里の風景に馴染んだ長良川第三橋梁


 たまたま昼休みで駐車場に出ていた人に「ネーブルみなみ館」への道順を尋ねたのは、このイベントに「郡上の特産品が毎月当たる」との宣伝文にのせられ、コース指定の施設で買い物をして領収書をもらうためだった。

 行く方向が定まらないままに、東海北陸道からどんどん離れて山の方へ登っていった。
民家がポツリ、ポツリと建っているだけで(写真3)、なんとなく道なりに歩を進めているといった感じだった。

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写真3 先が定まらない道を歩む


別れの一本杉?
 
 村はずれに背の高いノッポの木がぽつんと見えてきた(写真4)。

 待ち合わせなどの目印になる木かと思ったが、その昔、春日八郎が歌っていた「泣けた 泣けた こらえきれずに 泣けたっけ あの娘と別れた 悲しさに 山のかけすも 泣いていた 一本杉の 石の地蔵さんのよ 村はずれ」(作詞:高野公男、作曲:船村 徹)の歌詞がふと口をついて出てきた。
 あたりに、地蔵さんは見当たらなかったが……。

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 写真4 村はずれの背の高い木


 歩いている途中で、「風紀をみだします!着替えは目立たない所で」(写真5)と書いた看板が、このコースの中で2箇所は見つけた。

 「ハイキングの人たちが多いから、着替えをする人たちが多いからかな!」と思ったりしたが、何しろ歩いているのは私たち4人だけだし、農作業をしている人に対する注意喚起かなと思ったりした。

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写真5 風紀を乱します!」の立て看板


 農地では、日本全国のどこでも鹿の食害が問題になっているが、この村落でも被害が多いのだろう。野菜などが植わっている畑では、フェンスで囲っているだけでなく、そのフェンスに鹿の頭蓋骨を吊り下げている畑もあった。

「神の御杖(おつえ)杉」へ

 レール&ウォーク・コースCの見どころの一つは、樹齢1000年以上と言われる「神の御杖杉」だが、その途中の「ネーブルみなみ館」へ寄らなければならない。
 杉原集落へ入っていくにつれ、高速道路から外れていくので、やむを得ず民家の呼び鈴を押して尋ねた。

 ご夫婦が出てこられて、ハイウェイショップは、川沿いのこんもり繁った林の中の高速道路の際にあり、国指定特別記念物「神の御杖杉」は、遠くの山裾を指差して、際立って背の高い杉が目的地だと的確に教えてもらった。

 「ネーブルみなみ館」では、朴葉味噌などを買ったついでに、長良川鉄道イベントの「レール&ウォーク」のことを話してみたが、店員はチンプンカンプンで判らないようだった。

 「神の御杖杉」は、こんもりし繁った森の中の高い杉を目標にしたので迷わず行くことができた。

 近づいて見ると、なるほど、見事な杉だった(写真6)。

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写真6 「神の御杖杉」


 「御杖杉」の前にその由来の解説板があり、「この大杉は、応和元年(961)に紀州(和歌山県)熊野の比丘尼俊応が当地を訪れ夜の宿を頼み夢の告げによって小庵を結び、近くに滝の権現をまつったのが熊野神社のはじまりだという。

 袂に入れてきた小石が成長して弥勒石となり土中にさした杖が成長してお杖となったといわれる。

 昭和9年国の天然記念物に指定され枝がなんと下向きに伸びているのが特徴である。
周囲9.5m樹齢は約1000年とされている」と解説していた。

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写真7 枝が下向きに伸びた御杖杉


熊野の比丘尼(くまのびくに)って何?
 
 ハイキングなどで各地を歩いていると「こんな場所に熊野神社が祀られている」と、気が付くことがある。
「神の御杖杉」は、郡上市美並町山田という日本列島のほぼ真中の山中に植わっている。写真6でわかるように、大杉の手前でフェンスがあり、その奥に熊野神社が祀られていた。

 「フェンスの中に入ってお参りください」と書いてあったが、途中で道に迷って時間のロスが大きかったので諦めた。

 この稿を書いて、御杖杉の由来に出てくる熊野比丘尼(くまのびくに)を検索してみた。

「中世から近世にかけ、地獄極楽の絵解きをしながら、熊野三所権現勧進のため諸国を歩いた尼僧。小歌や俚謡をうたい物乞いをして歩いた。のちには、売色を業とする者もいた。歌比丘尼。勧進比丘尼」(大辞泉)で、全国に熊野信仰を流布していたことがわかる。

全国8万社の神社で、熊野神社はベスト5!

 たまたま朝日新聞の切抜きをしてきた中に、2007年2月22日の朝刊「神社分類」の記事に、「全国の神社に祭られている神様(祭神)で一番多いのは八幡で、次いで伊勢、天神、稲荷、熊野、諏訪……。約7万9千の神社を祭神に注目して分類し、分布を明らかにする研究を国学院大の岡田荘司教授(神道史)らのグループがまとめた。

 前例のない試みだとされ、地域による違いも浮上。身近な神社の歴史や背景を知る手がかりにもなりそうだ」と書いていて、一番多い八幡さんは、7,817社、お伊勢さん4,425社、天神さん3,953社、お稲荷さ2,970社で、熊野神社は2,693社」と書いていた。

 この記事の続きには、「岡田さんによると、日本では地域の共同体が祭る『氏神型信仰』が古代に始まる。平安時代以降は、力のある神を外から招く『勧請注)(かんじょう)型信仰』が広まった。地元と全国チェーンの神が共存しながら神社信仰は形成されてきたという。

 上位は全国チェーン型の神様たちで、上位4位だけで全体のほぼ4分の1を、10位までで約4割を占めている。最も数の多い八幡信仰は勧請型信仰の広がり方の典型例といえそうだ」という。

 岐阜県郡上市が属する東海地方では、八幡、伊勢、白山の信仰が多いそうで、「最も数の多い八幡信仰は勧請型信仰の広がり方の典型例といえそう」、「2位の伊勢信仰は国家鎮護の最高神とされる天照大神を祭るが、新潟は728、富山に679、愛知で599、岐阜に457あるのに、鳥取0、山口1、和歌山、島根と宮崎は2、大阪は4と偏る。鎌倉時代の伊勢神宮の所領の分布と合致する」と、「山岳信仰の白山信仰と浅間信仰(富士信仰)は、山が見える地域でのブロック型」と地域ごとに多い信仰神社も分析されている。

注)勧請(かんじょう)
[名](スル)1 神仏の来臨や神託を祈り願うこと。また、高僧などを懇請して迎えること。2 神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること。

 熊野詣の旅では、江戸中期享保元年、田辺の旅宿に泊まった参詣人は、6日間に4,776人、1日平均で800人というおびただしい人の数である。

 蟻のように群れてお参りするから「蟻の熊野詣」という大げさな表現で言われている。

 「紀伊山地の霊場と参詣道」は、平成16年(2004年)7月7日に世界遺産に登録されたが、その2年ほど前からハイキングゴースとして、中辺路、小辺路、伊勢路を歩いきた。

 その最終目的地の熊野本宮大社には、過去7、8回はお参りしているが、この神社の拝殿は撮影禁止の表示がある。

 今年の春休みに紀伊半島半周のドライブに出かけたとき、たまたま熊野本宮大社に立ち寄った。
その日はたまたま、「お白石持行事(写真8」」があり、たくさんの参拝客でごった返していた。

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写真8 熊野本宮大社の「お白石持行事」


 拝殿前で記念写真を撮っていて、係りの人に確かめて拝殿を撮影することができた。

 熊野神社で脱線してしまった。
 「神の御杖杉神社」の奥にある熊野神社の祭神である熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社熊野那智大社)のうち、熊野本宮大社の拝殿(写真9)を載せて、この稿の締めくくりとする。

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写真9 熊野本宮大社の拝殿


 このあとのハイキング道中などは次回に回すことにした。

(平成24年11月30日)


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