センダンと栴檀木橋[2010年03月21日(Sun)]
今年の1月19日、京都の社寺巡りをしたとき、伏見稲荷神社境内の社務所の横に黄色く色づいた実だけの木の、その見事さに思わず見上げてカメラに収めた。
一緒に歩いていたHさんが「おそらくセンダンの木だろう」と教えてくれたが、念のために社務所で聞いてみた。
この枝いっぱいに実をつけた木を見て、名前を尋ねに来る人が多いのだろう。「栴檀」と書いた紙を差し出して見せた。
Hさんは宮崎県の学校の校庭に植わっていたから知っていたのだそうだ。
伏見稲荷でセンダンの実をアップで撮ろうとしたが、ズームができないデジカメでは無理だった。
たまたま1月28日の「認知症予防プログラム」を受講した時、講義室の横の自然観察学習館で「冬の自然展」に展示してあったセンダンの実(写真2下段)を撮ることができた。

写真1上段:伏見稲荷の栴檀の木(10年1月19日撮影)
下段:センダンの実(10年1月28日撮影)
センダンは、ムクロジ目・センダン科の植物の一種。西日本を含むアジア各地の熱帯・亜熱帯域に自生する落葉高木である。果実は長径1.5-2cmほどの楕円形の核果で、10-12月頃に黄褐色に熟す。秋が深まり落葉してもしばらくは梢に果実が残る。果実は果肉が少なく核が大きい。
センダンの木といえば、大阪市中央公会堂の南側の土佐堀川に架かる「栴檀木橋(せんだんのきばし)」のことを思い出したので、大阪に出たついでにこの橋の写真を撮りに行った。
栴檀木橋
栴檀木橋は土佐堀川に架かっている橋で、中之島の大阪府立中之島図書館の東隣りの大阪市中央公会堂前と北浜2丁目の交差点を結んでいる。
栴檀木橋を北浜2丁目の交差点からみると、写真2上段で分かるように、橋の東側に枝振りの良い木が2車線道路に覆いかぶさるように広げている。伏見稲荷でみた黄色い実がたわわにぶら下がっているので、センダンの木だと直ぐに判断できた。

写真2上段:栴檀木橋と橋南詰のセンダン
下段:センダンの木のレリーフが施された高欄
このセンダンの木は、昭和51年に地元の寄付で植えられ、その際に橋の由来碑が設置されたそうである。
それによると、「栴檀木橋は江戸時代の初期中之島にあった蔵屋敷へ行き来するために架けられたと考えられ、その昔、橋筋に栴檀の大木があったところからその名がつけられたという。
当時市中と中之島を結ぶ橋上からは生駒連山を背景に大阪城を望み、天満・天神・難波の三大橋を眺めることができた。
明治18年、淀川大洪水が発生し、この橋をはじめ、中之島に架かる多くの橋が流された。栴檀木橋が再び姿を見せたのは大正3年のことで、以降、昭和13年に架け替えられ中之島公園とともに、広く市民に親しまれてきた。
この度の架け替えにあたっては、高欄に栴檀の模様を配し、橋詰の整備も行って、この由緒ある橋の歴史を検証することにした。昭和60年9月 大阪市」。
蔵屋敷が立ち並んだ江戸時代
文献に載った古い地図をみると、中之島は、江戸時代には難波橋にも届いていなかった。
大阪府立中之島図書館の「中之島今昔」によると、「この中之島を開発したのは材木商で淀屋の元祖の淀屋常安であるといわれます。彼は大阪落城のあとの元和年間(1615〜1624)に、あしの茂っていた中之島を切り開き、後の蔵屋敷建設の基礎を作りました。
江戸時代の中之島には諸藩大名の蔵屋敷が建ち並び、延享年間(1744〜1748)に大阪にあった主要蔵屋敷89のうち36が水運の便に恵まれた中之島にありました。
当時の中之島の東端は現在の中央公会堂あたりまでしかなく、その付近に備中成羽藩の山崎氏の蔵屋敷が建っていたのでこの中之島の東端は『山崎の鼻』と呼ばれていました」と書いている。
大阪府の歴史・県史シリーズ27(藤本 篤著、山川出版社)に、元禄年間の大阪(地図1)をみると、上記の説明の通りで、地図1の難波橋の左横の堂島川と土佐堀川に分岐したところが「山崎の鼻」で、土佐堀川に橋名は書いていないが、栴檀木橋である。

地図1:元禄年間の大阪
この橋は江戸時代の相当早い時期に架けられたようである。橋の規模は橋長48間1尺5寸(95m)で、幅員2間(3.9m)と土佐堀川では最大規模を持っていた(「松村 博著・大阪の橋」鰹シ籟社)。
大阪古地図物語(発行所:毎日新聞社)の文化3(1806)年図には、栴檀木橋と書かれている。
明治9年ごろになってようやく中之島の先端が土砂の堆積によって難波橋に届いた。
明治・大正・昭和の栴檀木橋
江戸時代に中之島の蔵屋敷との行き来に使われた栴檀木橋が、明治になってから架け替えられずに使用されていたのかどうか定かではないが、明治18年の淀川大洪水で渡辺橋など30余の橋が落ちたという。
栴檀木橋の由来碑の横の明治、大正、昭和の橋を撮ってきたので3枚を並べてみた。

写真3 明治、大正、昭和初期の栴檀木橋
明治に入って蔵屋敷がなくなり、明治6年に現在の市役所あたりに裁判所に刑務所が併設されていた。
明治の写真で高い塔は明治16年に西南戦争での戦没者を弔うための明治記念標である。この写真は明治16年以降、明治18年に流失する間に撮られたと判断できる。
明治18年の流失後、再び架けられたのは大正3年で、下部は木製であったが、上部は鋼桁が用いられていたようである。
大正時代の写真では、左手の建物は大正7年に建った大阪市立中央公会堂だろう。
その当時中之島に建っていた建築群には、日本銀行大阪支店は明治36年に、大阪府立図書館が明治37年に完成している。大阪市役所が大正10年に完成しるし、大正7年に北浜の相場師・岩本栄之助の寄付百万円で建った中之島公会堂と、中之島を代表する名建築が大正時代にはそろって建っている。
中之島公園は、明治24 年(1891 年)に大阪市で初めて誕生した公園であり、これら建物群の景観にふさわしい栴檀木橋は昭和13年に架け替えられた。ゲルバー式鋼鈑桁で桁高約1bの5径間スレンダーな橋である。
昭和初期の写真では遠くに大阪城が写っているから上流方向を見て写している。
昭和60年に架け替えられた栴檀木橋
昭和13年に架け替えられてから約50年経った昭和60年に、耐震対策等のために従来のコンクリート床版から軽量化した鋼床版5径間連続桁に架け替えられて現在に至っている。
センダンの木の方に気が向いていたために、残念ながら土佐堀川の流れを入れた橋の側面からの写真を撮るのを失念してしまった。手元にあった「街とともに−阪神高速道路の風景(阪神高速道路公団、平成4年4月発行)」の中之島上空からの写真をコピーしてみた。

この記事を書くに際しては、以下の書籍を参考にさせていただきました。
大阪まち物語 なにわ物語研究会編 創元社
大阪古地図物語 矢内 昭、矢守一彦、原田伴彦 著 毎日新聞社
大阪の橋 松村 博 著 鰹シ籟社
大阪府の歴史(県史シリーズ27) 藤本 篤 著 山川出版社
街とともに−阪神高速道路の風景 阪神高速道路公団
(平成22年3月21日)




