神戸まちなか再発見ウォーク・六甲山麓リボンの道U[2010年03月12日(金)]
3月に入って天候不順の日が続いているが、3月8日はうまく晴れ間の日になった。ちょうど1ヶ月前の2月8日に「大阪まちなか再発見ウォーク」を行ったが、その神戸版をハイキング仲間7人で歩いてきた。
三宮に10時に集まり、まず北野の「風見鶏の館」などを通ったが、「異人館をいちいち見ていてはいくら時間があっても足りないし、今日はウォーキングに来ている」というリーダーの一声で先を急いだ。
五宮神社を経て、祇園神社から烏原貯水場を経て氷室町、神戸電鉄・長田駅、蓮宮から鉄人28号の巨大モニュメントのある新長田まで約28,000歩のウォーキングだった。
神戸のまちなかの話題を拾ってみた。
五宮町祥福寺
五宮神社のすぐ西隣の山裾に祥福寺がある。境内はきれいに掃き清められていて、背の低い松が白壁の塀に沿って植わっている。(写真1上段)
ひっそりと静まり返っていて人気がない。一人が本堂に上がったが「誰も居ない」と出てきた。
「境内をきれいにしているのは禅宗だ」と言ったが、祥福寺は臨済宗・妙心寺派のお寺だった。
境内を一巡して階段を降りきったところで、早朝から托鉢をしてきた修行僧が階段を登っていった。先頭の僧が階段を上がりきったところで4人揃って読経を始めた。(写真1下段)
ちょうど11時半だった。

写真1上段:祥福寺境内
下段:托鉢から帰ってきた修行僧
平凡社の世界大百科事典や、ウキペディアで臨済宗を調べてみると、屋根付橋が3橋も架かっている東福寺は東福寺派、琵琶湖疏水が流れていてレンガ造りのアーチ橋で有名な水路閣がある南禅寺は南禅寺派、このほか天龍寺派、建仁寺派、大徳寺派など臨済宗14派に興聖寺派を加え、寺院総数5,800余寺、信徒数約300万人を数えている。このうち妙心寺派は、末寺3,400余か寺を持つ臨済宗最大の宗派だという。
勝海舟の寓居跡
祥福寺から少し下って国道428号(有馬街道)へ抜ける道沿いに勝海舟の寓居跡がある。
軽自動車がやっと通れるほどの狭い道(写真2上段)に、「平野の史跡を守る会」が設置した案内板には、「中道古道 奥平野村当時のメインロードで矢部町一本松から有馬街道に通じる道」(写真2下段)と解説している。

写真2上段:「勝海舟寓居跡」前の道路
下段:「中道古道」の解説板
石垣に瓦葺の白壁(写真3下段)の東側には「勝海舟寓居跡」として「1863年神戸海軍操練所を開設した勝海舟が寓居とした旧神戸村庄屋生島四郎太夫の別邸跡。塾頭の坂本竜馬も当地を訪れたといわれている」と書いてあった。
その石垣の西側には、古風な小さな門がある(写真2上段)。扉を開けると、直ぐに閉まるようになっている。「入ってはいけないのかな」と思いながら、開けると扉の内側に鉄の錘が上がり下がりして自動的に門が閉まるようになっていた。
通りからは寓居跡は見えなかったが、この門を入って階段を上がっていくと、「現在は立ち入れません」と標識が立っていて、「この平地に勝海舟の寓居がありましたが、昭和13年(1938 )の水害で流失しました。奥の母屋や庭は当時のまま(江戸時代後期)です」(写真3中段)と説明されていた。

写真3上段:生島四郎太夫の別邸跡前の中道古道
中段:水害で流失して平地の勝海舟寓居跡
下段:勝海舟寓居跡へ通じる門扉
勝海舟と西郷隆盛、坂本竜馬と神戸
勝海舟は、明治維新の5年前の文久3年(1863)9月に神戸海軍操練所を開設し、神戸で住んでいたという。その塾頭が坂本竜馬である。
あわただしく明治維新へ至るそのころの様子を「日本の歴史19 開国と攘夷」(小西 四郎 著 中央公論社)で拾い読みしてみる。
「征長(第一次長州征伐)に際して西郷は、一躍、征長総督参謀という重要な地位につき、かれの意見が大きく時局収拾に影響することとなった。その西郷は、1864年9月たまたま大坂にきていた幕臣の軍艦奉行勝義邦(海舟)と会見している。かの有名な明治元年(1868)の江戸城あけ渡し交渉に先立つ約3年半前のことである。二人は初対面であったが、勝に会って西郷はすっかりほれこんでしまっている。
勝はこのころ神戸に幕府の海軍操練所を経営しており、ここには坂本龍馬のような勤王派の浪人をもかかえており、時局に対する見透しのよさは、幕臣としての立場からはるかにぬきんでていた。したがって勝は幕府首脳からにらまれていた。
勝は西郷に対し、『今は国内で争うときてはない。幕府はもはや天下を統一する力がないから、むしろ雄藩の尽力で国政を動かし、幕府第一主義の奸臣(邪悪な心を持った家来)らに一撃を加えて局面を打開し、共和政治(大名会議)をおこなうべし』と述べた。まさしく幕府の実力は、勝の判断程度のものといえよう。しかし幕臣でありながら、ズバリとこれだけのことを言いきる勝は、相当なものであり……」
龍馬と神戸の関わりは「文久3年(1863)9月に勝海舟の「神戸海軍塾」が開設された頃に始まり、幕府に睨まれた勝が江戸に召還され、「神戸海軍操練所」が事実上の閉鎖に追い込まれた翌年の10月に終わる。
年齢で言えば29〜30歳、わずか1年ほどの短い期間に過ぎない。その間、京では8月18日の政変や池田屋騒動、禁門の変、第一次長州征伐など幕末史を飾る大事件が続発。龍馬もそうした激動の最中で国事に奔走し、ゆっくり神戸に腰を落ち着ける暇はなかったようだ」と書いている。
鉄人28号モニュメント
今回の「神戸まちなか再発見ウォーク」の終点はJR長田駅で、その近くの鉄人28号のモニュメント(写真4、5)に立ち寄ってみた。


神戸市出身の漫画家、故横山光輝氏の代表作「鉄人28号」を再現した像である。
阪神大震災で大きな被害を受けた長田区を元気づけようと、地元商店主らが設立した「KOBE鉄人PROJECT」が取り組み、駅の南側の若松公園に、周辺の木々を圧倒するがごとく力強く踏ん張っていた。
字数制限等でこの稿では触れなかったが、平清盛が福原に構えた別荘「雪見御所旧跡碑」は、祇園神社から有馬街道を下った平野の湊山小学校にあった。
清盛は大輪田泊(兵庫港)を修築、神戸を拠点に日宋貿易を進めただけに、この地には未だ史跡がたくさんあり、再発見したい場所がある。別の機会に訪れたいと思っている。
(平成22年3月12日)



