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第52話 おやじの置時計[2012年04月26日(Thu)]
  「おやじの置時計」?!
 
 どこかで聞いたフレーズだと思われた方もおられることと思う。そう「おじいさんの古時計」をもじってつけた題である。

 1940年に、ミミー宮島の歌で、門田ゆたか作詞、仁木多喜雄編曲でとしてリリースした時は「お祖父さんの時計」であったが、1962年にNHKのテレビ番組『みんなのうた』で、保富康午(ほとみ こうご)の訳詞によって立川清登が歌ったときには「大きな古時計」の曲名で放送され、日本人の間に急速に浸透した。(フリー事典ウィキペディア)

 2002年に歌手の平井堅がこの「大きな古時計」を歌って一世を風靡した。平井堅はこの曲で第53回NHK紅白歌合戦にも出場。2003年の第75回選抜高等学校野球大会開会式の入場行進曲に選ばれた。(フリー事典ウィキペディア)

 この原曲は、19世紀に作曲されたアメリカ歌曲で、アメリカの作曲家ヘンリー・クレイ・ワーク作詞・作曲で、今から136年前の1876年に出版されている。


おやじの置時計の経緯

 保富康午の歌詞は「おおきなのっぽの古時計 おじいさんの時計 百年 いつも動いていた ご自慢の時計さ……」というから縦長の振り子時計であろう。

 ちなみに振り子時計は、ガリレオ・ガリレイが発見した振り子の等時性(一定の周期で揺れる性質)を応用した時計である。
 1657年(完成度などにより1656年〜1658年の範囲で諸説あり)にクリスティアーン・ホイヘンスによって発明された。(フリー事典ウィキペディア)

 さて、おやじの置時計は、写真1のように、置時計で70センチもあるので、住宅事情からすれば、置き場所は限定される。


IMG_4310.jpg


写真1 70センチのおやじの置時計


 裏側に
     「贈 高橋克己君 
          昭和36年6月 
             日立造船株式会社櫻島工場有志一同」

 と書いてある。


 父が昭和47年4月に出版した自分史「牛歩40年」の年表には5月31日定年退職となっているから、昭和3(1928)年から33年間日立造船株式会社に勤め上げた記念に、工場有志から贈られた置時計である。
 この置時計は父が亡くなった平成6(1994)年頃には「もう動かない その時計」だったようだ。99歳の母が平成22(2010)年に亡くなったときにも、千里山の家のサイドボードの上に置いてあり、「もう動かない置時計」であっても、部屋のバランスとしていい雰囲気を醸し出していた。


おやじの置時計の運命

 我が家には、正確な時間を刻む電波時計やクォーツ時計を部屋に吊るし、結婚式の引き出物としてもらった置時計もあるので「もう動かない置時計」は少々邪魔者だった。

 両親の遺品を整理していた昨年末に、月1回の小型不燃ごみを出す前日の夜、他の不燃ごみと一緒にゴミ集積場に出していた。
 このことを聞きつけた子供たちは、「この堂々とした置時計はおじいちゃんの退職記念品で、部屋のアクセントにもなるから捨ててはだめだ」だと言い張り、約10キロ離れた千里山のゴミ集積場へ行き、双子の娘たちが我が家に持ってきた。

 この時計を見た娘婿が、「動かなかった原因は長針とガラス蓋とが接触しているからだ」と簡単に動くようにしてくれた。おかげで時を刻み、15分おきにチャイムも鳴るようになった。


IMG_4307.jpg


写真2 ガラスの蓋と時計の針

 置時計はリビング内の、ステレオ機器とCDを収めた机の上に置いたところ、年代を経た風格があり、黒色の机ともマッチし、リビングの調度品としてアクセントになった。15分おきのチャイムの音色は少し濁っていたが、聞き慣れたメロディーで時を知らせていた。

「もう動かない この時計」

 2月になって突然「もう動かない この時計」になってしまった。
 大阪の大手百貨店ならゼンマイ式のアンティークな時計の修理をしてくれるだろうと電話をしてみたが、「ゼンマイ式の時計を修理してくれる時計屋はほとんどない。輸入品なら日本時計輸入協会に尋ねてみるとよい」と教えてくれた。

 協会へ電話を入れると、「時計業界はクォーツ時計の発明、さらに1970年代以降のデジタル化へのシフトにより、スイスの時計産業は衰退し日本へとその主軸を移していった。スイスの時計製造会社はほとんど倒産していった」と話した後、「千葉県市川市新富の新正堂の木村さんがゼンマイ式時計の修理をしている」と紹介してくれた。

  早速に電話を入れると木村さんは「ゼンマイ式なら修理ができる。1万5千円で出来るだろう。遠いところからも依頼がある」と言う返事をもらった。
宅配業者に長い置時計だけを持ち込んだら、パソコンなどの機器を収めるダンボール箱にすっぽり収めてくれた。

 送っていた時計を見た新正堂の木村さんから「何とか直してみましょう。部品がないかもしれないし、少し時間はかかるが……」と言う返事だった。

 1ヶ月半ほど経って戻ってきた時計は、衝撃がかからないように、ビニールを張った緩衝材やプチプチ梱包材で包んであった。腫れ物でも触るような丁寧な扱いに感激した。

 早速にアクセントの無かったリビングの机に鎮座させた。


IMG_4316.jpg


写真3 リビングに鎮座した「おやじの置時計」


 機嫌よく動き出した置時計に感激した家内が木村さんに電話を入れると「チャイムの鳴るところにクッションを入れている。この時計は50年以上経っても、修理できたのはゼンマイ式だったからで、クォーツだと錆びてしまって修理は出来なかっただろう」というコメントだった。

 輸送に丸1日はかかったと思われるが、開封した時にも正確な時間を刻んでいたので、丁寧な梱包のお陰だろうと思った。分解掃除で50年近くのほこりが取り払われたのだろう。澄んだ音色になっていた。

 チャイムは校内放送でよく聞く単純なメロディーだが、音階で表せないので、ピアノを習っていた子供たちに書いてもらった。
 ハ調だと「@ドミレソAソレミドBミドレソCソレミド」、ト調では「@ソシラレAレラシソBシソラレCレラシソ」で、正時から15分は@だけ、30分には@+Aが鳴り、45分後に@+A+Bと3倍になり、一回りすると、@+A+B+Cが鳴った後に、そのときの正時の時刻だけの数を打ち鳴らしてくれる。

 4月初旬の花見の席でこの時計の話題をした時、「むかし、この時計が流行った」と大きさや、15分おきにチャイムが鳴ることなど良く知っている人がいた。
 「ゼンマイ式の時計を修理するために、無い部品でも手作りしてでも直してくれる人だ」と話していた。

 その後銀行に入金があったと木村さんから電話があって、その後の時計の調子を尋ねてこられた。

大きなノッポの古時計の誕生秘話(大きな古時計特集www.worldfolksong.comから)

 「おじいさんの古時計」をもじって書いた「おやじの置時計」であるが、アメリカ民謡の「大きな古時計」」には実話がある。

 作詞・作曲したヘンリー・ワークは、1874年劇場公演のツアーに加わるためイギリスに渡っていた。ホテルは、ダーラム州の川沿いの小さな民宿「ジョージ・ホテル」。
宿の玄関をくぐった彼は、ホテルに置かれていた、動いてもいない古びた時計(ロングケース・クロック)に、目が留まった。なぜなら、わざわざ目立つ玄関ロビーに置かれていたからで、ホテルの主人がこの時計のエピソードを静かに語り始めた。

 「ヘンリー・ワークが訪れる数年前まで、ジョージ・ホテルはジェンキンズという二人の兄弟が所有するホテルだった。彼らは生涯独身だったが、地元の人々からの信頼も厚く、人付き合いのいい兄弟だったという。
 ジョージ・ホテルのロビーには、2mを超える大きな木製の時計が置かれていた。それは、ジェンキンズ兄弟の兄が生まれた日に購入されたもので、ホテルの顔となっていた。
 
 この大きな時計の正確さには定評があり、宿泊客が馬車の出発の時刻を知るのにとても役に立っていたという。時間がずれたりすることは一日もなく、一年中正確な時を刻み続けていたそうだ。
ある日、ジェンキンズ兄弟の弟が病に倒れ、そのまま亡くなってしまう。すると、今まで正確に動いていた大きな時計の時間が急に遅れ始めた。最初はほんの数分程度の遅れだったが、弟の葬儀が済む頃になると、修理士が注意して管理していたのにもかかわらず、大きな時計は徐々に遅れの度合いを増し始め、ついには一日に15分も遅れるようになってしまった。

 弟の死から1年以上経過したある日、後を追うように今度はジェンキンズ兄弟の兄が亡くなった。彼の死を聞きつけてホテルのロビーに集まった友人たちは、大きな時計を見て騒然としたという。というのも、時計の針は「11時05分」、すなわち彼の死の瞬間の時刻を指し、動いていたはずの振り子もその動きをまったく止めてしまったのだから」。

 ジョージ・ホテルのオーナーから聞いた大きな時計のエピソードは、ヘンリー・ワークに強いインスピレーションを与え、強い創作意欲に掻き立てられ、その日一晩中寝ずにこの逸話についての曲を書き上げた。
これが私たちの知っているアメリカ歌曲「大きな古時計」の誕生秘話である。


大きな古時計がガラクタ扱いで売られてゆく!

 『大きな古時計・続編』では、おじいさんが生前大切にしていたあの大きな古時計が、なんとガラクタ扱いで売り払われ、バラバラに解体されてしまうというショッキングなストーリーが展開される。
 その様子を見ていたおじいさんの孫は、ただただ嘆くばかり。家には新しい小型の掛け時計もやってきた」という。


 さて、わが家のリビングに鎮座した「おやじの置時計」は、「大きな古時計」の誕生秘話の続編のようにガラクタのゴミになるのを辛うじて免れるとともに、千葉県の時計屋木村さんの手で生き返らせることができた。

 このブログを子供たちや孫たちに読ませるので、当分は大切に扱ってくれることだろう。ただ、ゼンマイ式の時計を修理したり、分解掃除をしてくれる職人さんが、この伝統技術をいつまで伝えてくれるのだろうか。


 「竹炭作り」の団体ブログは、CANPANのシステムのリニューアルの後、設定・管理が不具合で2月から1月間以上入力できないでいた。やっと公開できるようになったが、以前と使勝手が理解できない状態である。
 個人ブログ「四季折々」は昨年12月以来ご無沙汰していたが、体調も徐々に回復しつつあるので、やっと重い腰を上げることにした。

 今後ともご指導のほどお願いします。


(平成24年4月26日)
第162話 「箕面市体験学習の森」の冬景色[2012年03月16日(Fri)]
 3月中旬の今日3月15日に、見出しの表題の記事は、季節のずれた話題をいまさらと思われるだろう。
実はこの話題は2月11日の「箕面だんだんクラブ」の活動などを、2月24日に公開しかけたが、日本財団CANPANのリニューアルで3月1日まで入力できないでいた。

 システムが復旧した3月1日に入力を試みたが、「ログインID及びパスワードが正しいにも関わらず『ログインする』。ボタンをクリックするとトップページに戻ってしまう。ログイン後、『管理・設定』が表示されない」というトラブルで今日まで入力できなかった。

 日本財団の方へ問い合わせて、今日15日やっと入力が可能となったので、いささか季節はずれではあるが、公開することにした。
したがって、以下の記事は2月下旬にまとめたものである。


第162話 「箕面市体験学習の森」の冬景色

今年の冬は特段寒い。
今年になって初めて2月11日の活動日に、冬景色を撮る目的で森林ボランティアに参加した。竹炭やきと作業用階段つくりで20名強の会員が参加していた。

この日は比較的暖かくなるとの予報だったが、薄ら寒い曇がちの天気だった。
材料置き場に取り付けている温度計を見ると、10℃を示していたが、そんな気温ではない底冷えだった。どうも壊れているようだ。

竹炭やきで煙突口の温度を計測しているから、レンジを変えて温度計測すればすぐ太気温も簡単に測定できたが、帰り道の豊中・亀岡線(勝尾寺街道)の路側の温度表示は、やはり4℃だった。


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  写真2 竹炭やきの様子
 

 この道路では冬季間積雪や凍結があり、「路面凍結注意」と標識や融氷剤が道路わきに置いてあった。
豚汁広場から少し登った日陰では写真1のように、まだところどころに雪が残っていた。


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写真1 関電坂辺りの残雪


勝尾寺街道の積雪時の交通手段

 豚汁広場の机上に置いてあった回覧用のファイルを見ると、Fさんが今年1月5日と2月4日に、A4版に引き伸ばしたこの森の雪景色の写真が10枚ほどあった。
 彼によると、1月5日は特に積雪が多かったようだ。
彼は活動日にはふだん原付第1種50ccのバイクで来るので、「そんな積雪の日にバイクでは来られないだろう」と聞いてみた。

 「阪急バスで来たが、勝尾寺回りでは通れなかったので、茨木回りになった。途中から小型の業務用自動車に乗り換えてきた」と話していた。
クリーンセンターは市民のゴミ処理作業で勤務する人もいて、「公共交通機関のバスはよほどでない限り、走らさなければならないのだろう」と思った。

注)西田橋から東へは原付第1種50cc以下は、通行禁止になっているので所轄の警察署に申請して『通行禁止道路通行許可証』が必要である。


体験学習の森の雪景色

 Fさんからメールで送ってもらった写真から3枚を選んでみた。筆者も数年前にこの山の雪景色を撮ったことがあるが、彼の写真はバスが迂回ルートでしか動かないような日だったから、迫力が違っていた。

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長野県栄村・中条橋の崩落

 北摂山地の麓に位置する箕面市内では、山なみでもこの程度の積雪であるが、長野県や新潟県などの積雪地域では新聞やテレビによると、今年の大雪は平成18年以来で、屋根の雪下ろしなどで死亡者が出ていると報じている。特に気になったのは長野県栄村の「積雪により崩落したとみられる中条橋」である。

 1月30日のことで、その日の新聞が見当たらなかったので、ネットで産経ニュースを見ると「昨年3月に震度6強の地震があった長野県栄村で、村道に架かるコンクリート製の中条橋(長さ約95メートル)が崩落したことが30日、村への取材で分かった。橋は地震で一部損壊したため通行止めになっており、けが人はなかった。同村によると、29日午後7時40分ごろ、住民がドーンという音を聞いた。30日朝に村職員が、中央部分から真っ二つに折れ、橋げたが川底に落ちているのを確認した。3メートルを超える積雪があり、雪の重みなどが原因とみられる」と報道していた。

 橋梁工学を学んでいた頃、群集荷重で落橋したことをきいたことがある。花火大会だったように記憶しているが、ネットで検索してみると、「土木学会図書館|旧蔵写真館 10.御幸(みゆき)橋」が見つかった。

 それによると、「愛知川トラス橋は1891(明治24)年10月24日の開通式当日に南側から第三連目のトラスが落橋し死者3名、重軽傷者200余の惨事となった。当日は知事などが出席した盛大な開通式を観るべく、数万の人が集まったといわれる。式終わり橋の通行が開始されると、その群集が押し寄せたために、橋途中で通行を制限すると、第三連目の径間に群集が集中する結果となり落橋した」と書いていた。

 ちなみに、「橋の崩落 積雪荷重」で検索してみると、「長野県栄村の中条橋の積雪による崩落について」が最初に出てきた。

 この記事は、1999年まで信州大学工学部土木工学科の教授だった長 尚先生が書かれたもので、この橋2011年3月12日に発生した地震で被害を受け、交通止めになっていた橋であることを踏まえて、
「@地震で傾いていた右岸側の橋脚が壊れたA鉛直荷重を支える橋脚の支承とトラス橋側の支承が地震でずれていたために、積雪による異常な力がトラスの部材の一部に加わり壊れた。可能性が高いのは@であろうが、Aもあり得るように思う」と書いておられる。
詳しくは「長野県栄村の中条橋の積雪による崩落について」改訂版(2012.2.7)(www.avis.ne.jp/~cho/nank.html)で公開されている。


もうすぐ春ですねぇ!

 今日(2月24日)昼前、犬の散歩で公園に出てみると、春の柔らかな日差しなので「もうすぐ春ですねえ ちょっと気どってみませんか……」とキャンディーズの歌っていた歌詞が口をついて出てきた。

 南北の街路に出てみると、やや冷たい風が頬を吹きぬけてきた。「春は名のみの風の寒さや……」と、続いてわが愛唱歌・「早春賦」が出てきた。

 夕方ジムで、万博公園自然文化園で食堂に勤めている友人の話によると「今年は未だに梅が咲かずにさっぱりだ。かなり開花が遅れている」と話していた。
明日は天気が崩れるとか、日曜はまた冬型に戻るとか言っていたが、三寒四温である。あと半月ほどで、東北大震災の1周年を迎える。


(平成24年2月24日)



第51話 今日は70年前に日米開戦した日[2011年12月08日(Thu)]


 今から70年前の昭和16年12月8日は日米開戦の日であった。幼稚園に通園していた頃のことでこのころの記憶はほとんどない。

 いつの頃からか定かでないが、「真珠湾攻撃」とか、「リメンバー・パールハーバー」といった言葉はしっかり記憶している。

 この日の夕食時にたまたまやってきた中学1年生の孫2人に「真珠湾攻を知っているか」と知っているかと尋ねると、吹田の小学校を卒業した孫は「先生からそのことを教えてもたった」と応えたが、箕面の小学校を出た孫は「何だったかな!聞いたことがあるが思い出せない」という返事だった。

 つい先だって本箱の整理をしていて、たまたま目にとまった本で「教科書が教えない歴史」(産経新聞社:著者 藤岡信勝・自由主義史観研究会平成8年8月10日初版発行)を読んでいた。その41ページの「日本とアメリカ」の章で「開戦通告の遅れが悲劇を大きく」を読んだばかりだった。



 その冒頭には「小学校社会科教科書より」として、「1941年12月、日本軍は、イギリス領のマレー半島とハワイのアメリカ軍基地を攻撃し、アメリカ、イギリスとも戦争をはじめました(太平洋戦争)」という書き出しである。

 70年前の私は、小学校へ入学する2年前の5歳だったから、この日の記憶は全くないし、歴史の教科などで習った記憶もないが、新聞やラジオ、本などで応えることができる。

 上記の本の続きには「当時、ハワイのアメリカ軍基地は、真珠湾(パールハーバー)にありました。日本の小学校の教科書にはこのように、この湾の名前すら出てこないものもあります。しかし、アメリカ人は、戦後50年を過ぎた今でも『リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)』といって、多くのアメリカ人に語り継がれているのです。それほどアメリカ人の怒りはすごいものでした」と。


なぜアメリカ人はそれほどまでに怒っているのか

 この本によると、当時の国際社会では1分前に口頭でも宣戦布告をすれば合法的だったのに、宣戦布告前に真珠湾を攻撃してルールを破ったことに対してアメリカ人は今でも「真珠湾を忘れるな」と怒っているのだ。
 
 「教科書が教えない歴史」によると、最初からだまし討ちをしようと考えていたわけでなかったが、「日本政府は、開戦(真珠湾攻撃)25分前に宣戦布告するという考えで、連合艦隊司令長官の山本五十六や海軍軍令部総長の永野修身もそうするように言って、また事実そうした」という。

 ところが、「宣戦布告を出したその日。ワシントンの日本大使館は、人事異動による送別パーティーをしていた。大使館には、一人の宿直もいない。翌日大使館員が出勤してみると、日本の将来を左右する電報が、多くの電報に混じって入っていた。戦争前のこの当時、重要な電報はみんな暗号で、重要機密ということで、タイプライターの専門でない上級書記官が暗号を解読し、慣れぬ手つきでタイプを打ち上げた。当然、時間がかかり、ようやく打ち上がったタイプは、野村吉三郎大使がアメリカの国務省に持って行ったときには、時すでに遅く、野村大便が出かけた85分前に、真珠湾では爆弾が落ち、魚雷が発射されていた。これが日本の後世に残る悲劇の実態」と言う。

 こんな行き違いを知って唖然とした。風雲急を告げる事態に一人の宿直もいないとは! 

 歓迎会や送別会といったノミニケーションは日本人社会の通例だけでなく、どこの世界でもありうることだと思うのだが・・・・・・。

 今では送別パーティーに留守番などをおいて緊急時の連絡体制は整えられていると思う。

 ウィキペディア(フリー百科事典)の「真珠湾攻撃」にはこの辺に事情を詳しく解説している。 上記の「宣戦布告遅延問題」(この資料は外交史料館報 第8号で閲覧可能)は史実として記載されているが、「アメリカは事前に察知していた」と陰謀論について、肯定説、否定説や、さらに「アメリカが日本を誘い出した」との主張にも肯定説、否定説を書いている。

 「宣戦布告遅延問題」の項の最後に、「ただし留意しなければならないのは、宣戦布告が攻撃直前に行われた場合は同じように国際条約の違反になることである。なお、アメリカは第二次世界大戦後に参戦したベトナム戦争、パナマ侵攻などいずれの戦争において宣戦布告を行っていない」と書いている。

 おりしも、NHK連続テレビ小説「カーネーション」では、今朝は戦時中の話題で主人公の亭主が出征を見送る話題だった。


(平成23年12月8日)

第49話 卒業証書の変遷[2011年08月24日(Wed)]
 親の家を片付けていたら、卒業証書と共に母親の卒業証書が出てきた。母が高等女学校を卒業した昭和4年の卒業證書から、筆者が高等学校を卒業した昭和30年までの卒業証書を見つけた。
 これらの卒業証書を眺めていると戦前戦後の時代が見えてきた。


母の卒業證書

 母の卒業證書の様式は、昭和30年のそれと様式とほとんど変わらない。



写真1 昭和4年の卒業證書


 右端にその表題たる「卒業證書」のタイトルがある。その左に書いた名前は表題の字の大きさとほぼ同じだ。名前の右上に「兵庫縣平民」と身分を添えている。

 名前の左横の生年月日は、名前の字よりやや小さいが、身分の字の大きさと同じである。
名前の上に角印の学校印が押されているが、筆者が受けた卒業証書にも名前の上に学校印が、左端端の学校名を入れた校長の名前と校長印が押されているのも同じ様式である。
ただ、昭和4年の證書には、校長名の上に「正七位」という位階を書いているのが違った点である。

 ちなみに位階(いかい)とは官吏における個人の地位を表す序列・等級である。
 一番左端には「第一二三號」などと連番が書かれているのも今と全く変わりない。

 なお、戦前の卒業証書には、「證」の字が使われている。白川静の「常用字解(平凡社)」の「証(證)」によると、「證はもと徴(あかし、しるし)と通用する字であった・・・・・・證の常用漢字を証とするが、証は『説文』に『諌(いさ)むるなり』とあり、もとはいさめるという意味の別の字である」と解説している。


保育證書

 筆者は昭和16年9月から昭和18年3月まで幼稚園に通ったが、保育證書をもらっていた。
 戦前までは身分制度が厳然とし存在していたが、さすがに幼稚園の證書には「平民」とは書いていなかった。




写真2 保育證書


終戦直後の成績通知簿

 戦後アメリカ(GHQ)の指令で、6・3・3・4制などの教育改革が行われた。筆者より3年ほど上の上級生は旧制と新制制度とのはざまで、昭和23年(1948年)頃まで移行期間で複雑だった。

 卒業証書と共に成績票も出てきた。戦後すぐの通知簿は現在では見られない様式なので取り上げてみた。
 




写真3 国民学校の成績通知簿


 写真3は戦後すぐの昭和21年度の通知簿である。評価は優、良上、良、良下、可の5段階評価だったと思う。もっと昔には、甲・乙・丙・丁の4段階評価の時代があったとか聞いた。

 教科の枠も今とは異なっていて「国民科」に国語、国史、地理が、「理数科」に算数と理科、「体錬」は体操、「芸能科」に音楽、習字、図画、工作、裁縫に分類されていた。
この成績通知簿の左端に学校長名で「本校に於て初等科第四学年を修業さしことを証す」と左端に記載し校長印が押していた。

 太平洋戦争の終結が昭和20年8月15日だから、昭和21年度はまだ、国民学校だった。 この成績通知簿の裏面は「本年度武道寒稽古ニ皆勤セリ 依テ之ヲ賞ス」と書いた「賞状」の用紙を使っていた。

そ の2年後の昭和23年度の「通知票」の用紙は、今では見ることのできないような「わら半紙」の中でも、さらに品質の悪い紙で記入していた。

 写真3の紙質はまだ光沢が残っているから、この種の賞状の用紙をたくさん刷っていたために、戦後のどさくさで紙の不足のため裏面を利用したものと思われる。


小・中・高等学校の卒業証書

 昭和24年3月の小学校の卒業証書は、25.8cm×17.8cmの小さめの紙だったが、3年後の中学校では39cm×27cmと大きくなり、紙質も幾分良くなっているが、厚紙というほどではなかった。
 写真4は高等学校の卒業証書である。紙質も良く、今とほぼ変わらない厚紙になっていて、40cm×29.5cmの大きさだった。




写真4 高等学校の卒業証書(昭和30年)


 ちなみに、昨年(2010年)小学校を卒業した孫の卒業証書の大きさを尋ねると、38.5cm×22.5cmで、幼稚園は5mmほど小さい程度だそうだ。
 孫と同じ市の教育委員会だが、戦後はすべての物資が不足した時代だったので卒業証書の大きさや紙質までもが貧弱だった。

 高等学校を卒業した昭和30年というと、日本が高度成長期に差し掛かる助走の時代だった。地方都市の大学受験のために宿屋に泊まったが、主食の米が配給制度だった。宿で食事を出してもらうために、配給キップのようなチケットを持参していった記憶がある。

 家を片付けていてたまたま見つけた卒業証書だったが、卒業証書というと黒い筒にしまいこむのが一般的である。
 卒業して約60年以上の卒業証書を手元においておく人はそう多くないのではなかろうかと思ったりする。
 その学校を卒業したことを証明するための書類なら、学校へ行けば発行してくれる。黒い筒に入った卒業証書は長く家に保管しておいてどんな役目をするのだろうか。

 パソコン時代の今日、とりあえずA4版より大きい証書は縮尺コピーをしてパソコンのスキャナで取り込んで保管することにした。


(平成23年8月24日)



第44話 ヒガンバナが満開[2010年10月01日(Fri)]


 この数日前から近くの公園などでヒガンバナが満開になっている。つい最近のニュースによると、今年は異常な猛暑で例年より1〜2週間ほど遅いそうだ。

 ネットのヒガンバナの開花情報で検索してみると、熊本国府高等学校PC同好会が2003年から毎年開花を調べている資料を見ると、「ヒガンバナの開花は日平均気温20〜25度が目安らしい」と書いていた。

 暑い夏が収束して「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、毎年秋分の頃から能勢辺りのハイキングに出かけているが、ヒガンバナはその時期に、田の畦や土手や墓地など人里付近で見かけるだけだった。
 ここ数年の間に、箕面市街地の田んぼの、あぜ道でもない、近所の公園でも見かけるようになった。

ネットには「ヒガンバナの球根は7〜8月にしか売られず、それ以外の時期では入手しにくいので注意が必要」と書いているので、これら近くの公園のこれらの花は球根を移植して増えていったのだろうか。

 近くの公園で咲いているヒガンバナの写真を撮ってきたので取り上げてみた。


ツバキの植樹帯にたった1本の花

 アートアベニューの遊歩道の一部はナンキンハゼの並木道になっている。

 そのナンキンハゼの高木の間に低木のツバキが密集して植わっている。そのツバキの葉っぱからたった1本だけのヒガンバナの花が顔を出していた(写真1)。     



写真1 ツバキの茂みから1本だけのヒガンバナ


 この辺りに数本のヒガンバナが密集して咲いているので、ツバキの茂みにまで球根が増えていったのだろう。

フェンスと側溝のわずかな隙間にびっしりと!

 写真2のフェンスの右側の斜面にはアジサイがたくさん植わっていて梅雨時期に大輪の花を見事に咲かせている。水遣りしている人を見かけることがあるので、花を愛する人が世話をされているのだろう。

 フェンスの左側は側溝になっているが、そのわずかな隙間に、ヒガンバナがびっしりと満開になって咲いていた。




写真2 側溝のわずかなスペースに満開のヒガンバナ


ヒガンバナにアゲハチョウが飛来して!

 この密集した花に2羽のアゲハチョウが飛来してきた。
 落ち着きなくあちこち動き回るので、狙い定めるのが難しかったが、ズームを使ってなんとか撮ることができた。

 燃えるような赤色のヒガンバナに黒白模様のアゲハチョウのコントラストが鮮やかにおさまった。




写真3 ヒガンバナにアゲハチョウが飛来して!


ヒガンバナを真上から見てみると?

 この首の長い花の写真を撮るとき、30cm〜50cmの細長い花茎に目線がいくので、茎を含めた全体に写すようになりがちだ(写真4)。



写真4 数本の群れで咲くヒガンバナ


 たまたま群生した花の中で一輪だけ離れていたのを見つけたので、真上から撮って見た。花火のように、思い切り火花が散ったような見事な模様が撮れた。



写真5 ヒガンバナを真上から撮る


 この花の詳しい説明ができないので、Yahoo百科辞典「ヒガンバナ」からその一部を引用してみると、「散状に緋紅(ひこう)色花を5、6個横向きに開く。花被(かひ)裂片は倒披針(とうひしん)形で長さ約4センチメートル、幅5〜6ミリメートル、強く反転し、基部に鱗片状の福花冠がある。雄しべ、雌しべともに花被裂片よりはるかに長く、弓状に上向きに曲がる」と説明している。


赤系の色

 上記に出てくる緋紅とは、どんな赤色なのかを調べてみた。三省堂大辞林に【▽朱/▼緋】(あけ)「(1)赤い色。緋色(ひいろ)・朱色・紅色などを含む」。【▼緋】(ひ)「濃く明るい赤色。深紅色」と説明している。



 今年の夏は、平成6年8月の12日間連続の記録を更新して、35℃を超える猛暑日が13日間連続猛暑日の記録となったが、9月中頃からようやく初秋らしくなってきた。

 1〜2週間遅れで咲き出したヒガンバナは、箕面の市街地では彼岸を過ぎて10月になって見ごろとなって秋らしくなってきた。



 暑い暑いと動き辛かった季節が去って1年で最も動きやすいなり、暑かった夏の遅れを取り戻すつもりで、大いに活動したいと思っている。


(平成22年10月1日)
第43話 「第18回メキシコ文化の夕べ」箕面2010に参加[2010年09月26日(Sun)]



 近所の教授(千里ロータリークラブ会員)から、メールで「メキシコ文化の夕べ」の案内チラシを受け取った。
「箕面市NPOメキシコ友の会」のこの催しに参加するのは、昨年・一昨年に続いて3回目になる。
 今までは箕面市メイプル大ホールが会場だったが、今年は9月22日に「箕面観光ホテル」で開催された。


昨年は日本とメキシコの交流400周年

 昨年(2009年)は日本とメキシコの交流400周年という記念すべき年だった。
 「日本・メキシコ400周年記念」を外務省のホームページで見てみると、「1609年9月、フィリピン諸島総督ロドリゴ・デ・ビベロを長とする一団の船は、ヌエバ・エスパーニャ(当時のスペイン領メキシコ)への帰国途中、千葉県御宿沖で遭難し、村人の献身的な救助により、乗組員317人が救出されました。

 ビベロ一行は地元城主や村人からの暖かい歓迎を受け、その後、徳川秀忠及び徳川家康に謁見しました。翌年、徳川家康がビベロ帰国のため造らせた船はメキシコに向けて出航。ビベロと共に渡航した京の商人田中勝介他20数名の日本人は、メキシコを訪問した最初の日本人となりました。
 我が国の時の為政者とメキシコからの政府高官が対面し、初めての会談が行われた意義は大きく、2009年はそれから400年目にあたります」と紹介されている。


箕面市とメキシコとの交流

 400年前に千葉県御宿町沖で遭難したメキシコの乗組員を、村人の献身的な救助がきっかけだから、地元千葉県との国際交流ならわかるが、箕面市とメキシコのクエルナバカ市とはどんなきっかけかは知らなかった。

 入口でもらった「箕面メキシコ友の会のプロフィール」によると、箕面市国際交流協会が1992年からメキシコ・クエルナバカ市にあるモレロス大学で日本語を学ぶ学生たちを、毎年箕面での日本語学習のため受け入れてきたことに始まるという。このプログラムを生活面で支えるホストファミリーから、「箕面メキシコ友の会」を作って発展してきた。

 メキシコの国土は196万4375平方キロメートルというから、日本の国土面積37万8千平方キロメートルの5倍強もある。国土の大部分は山地と広大な高原からなるが、クエルナバカ市は、首都メキシコ・シティーの南方のモレロス州の州都である。
 そのモレロス大学で日本語と日本文化の教鞭をとられていた深原先生が箕面市在住で、大阪外語大学が箕面市にあるという好条件がきっかけで、今日に至っているという。


とにかく情熱的でにぎやかな夕べ!

 開演は6時半から始まったが、30分ほど遅れて行ったときには、第1部の「メキシコ ラサイエ大学音楽隊」の演奏が始まっていて、ラテン音楽でよく耳にする「ラ バンバ」を演奏していた。



写真1 ラサイエ大学音楽隊の演奏


 いつもは市民参加のダンスパーティーはプログラムの最後なのだが、第1部のラスト曲「もうお別れ」の演奏が始まると、舞台の前に出て来日したメキシコ人、在日メキシコ人に日本人の老いも若きも、幼い子までが加わって踊り始めた。隣りに座っていた年配の女性も促されると、すんなりと立って踊りに加わっていた。

老人の踊り

 前回、前々回の時の民族舞踊では、民族衣装を着た男女が、メキシコ音楽に合わせて踊る演目だったのだが、今回は今までと踊りと違っていた。

 写真2でわかるように、老人のお面をつけ、腰を曲げた4人がゆったりした単調な音楽に合わせて舞台を回る踊りで、リズムに合わせて歩調をとる風変わりな民族舞踊だった。途中でだんだんとテンポが早くなっていき、最後は舞台で転ぶ年寄りの姿がなんともユーモラスだった。お面を取ったら、モレロス大学箕面研修生の若者で、女性の学生一人が加わっていた。




写真2 民族舞踊「老人の踊り」


「マリアチ アガベ」の演奏

 「マリアチ アガベ」の6人のメンバーは、昨年と同じ顔ぶれだった。つばの広い帽子を被って、それぞれに違った楽器を奏でながら、声量のある歌を聞かせてくれた。

 曲目紹介はスペイン語だが、日本語も交えて話してくれて、昨年より日本語で話す言葉の数が多くなっていた。
 「ラ・マラゲーニャ」「シェリト・リンド」といった馴染みのメキシコ音楽に加えて、美空ひばりが歌っていた「川の流れのように」もスペイン語に加えて日本語の歌詞でも歌っていた。              




写真3 マリアチ アガベの演奏


 マリアッチはメキシコを代表する楽団の様式である。マリアッチは7ないし12名で編成される楽団である(ただし、人数に上限は無い)。ビウエラ、ギター、ギタロン、バイオリン、トランペットは欠かせない楽器とされ、これらにフルートやアルパが加わる事もある。アコーディオンは本来マリアッチに使われる楽器ではないが、メキシコ以外ではしばしば用いられている(フリー百科事典「ウィキペディア」)。

 「マリアチ アガベ」では、左からアコーディオン、ヴイオリン、トランペットと、右端のギターはなじみの楽器だから直ぐにわかったが、右から2番目と3番目はギターのようでもあるが、大きさがちょっと違っていたので、検索して調べてみた。

 右から2番目のギターより少し小さい楽器は、ビウエラだろう。スペインの古楽器でビウエラはビオラと同じ語源で、ネックの付いた弦楽器の幅広い総称でもある。だからビウエラと呼ばれる楽器は古来よりいろんな形状がある(「私家版楽器辞典/楽器の種類」引用)。
 メキシコの楽団、マリアッチで使われているビウエラは5弦または6弦でギターを小さくしたような楽器だ。
 3番目のギタロンで、「ギターを大きくしたような楽器である。ギターよりも低い音(5度下の調弦)を有する」とわかり、マリアッチのことが少し勉強できた。


市民参加交流 ダンスパーティー

 第1部から第3部までの演奏や民族舞踊も楽しいが、最後に会場いっぱいに繰り広げられるダンスパーティーを楽しみに参加している人たちも多いと思う。

 盆踊りのように、手拍子や振り付けがあるわけでなく。陽気なメキシコ音楽の演奏に合わせて腰を振り振りしたり、手を上げ下げしたりで難しくないから、年配のおじいちゃんも輪に加わって楽しんでいた。 




写真4 市民参加のダンスパーティー

 箕面市とメキシコ・クエルナバカ市とは平成15年10月に国際友好都市を締結していてお互いの市民間交流も盛んで、来春にメキシコ旅行が計画されているという。

 スペイン語で話されるとほとんどの参加者はチンプンカンプンだろうが、馴染みのラテンの曲の生演奏と陽気な踊りで、年寄りから幼い子まで陽気になって気持ちよく過ごせたのではないだろうか。


(平成22年9月26日)
第39話 今年もダンボールキャンプに参加[2010年08月03日(Tue)]


 毎年夏休みに入る前に「みのおエコクラブ」から、ダンボールキャンプの開催通知のメールで入ってくる。
 例年は「箕面まつり」が行われる7月最終の土曜日から日曜日にかけて行われてきたが、今年は参議院選挙の日程が不確定だったので、7月18日の日曜日から19日の「海の日」の祭日に、箕面スパーガーデン及び第2駐車場で行われた。

 今年で7回目となるそうで、「みのおエコクラブ」代表の佐藤譲さんが主催している。

 佐藤さんは箕面市内の小学校の生徒に約千人に課外実習などの指導をしている中で、「最近の子供たちはまとまって遊ぶことを知らない」ことに気がついたという。
そこで、ダンボールキャンプを行うことで、年齢の違う子供たちが一緒になって遊びながらみんなで共通の楽しさやマナーを教えることを始めたそうだ。

 保護者として親も参加するので、親子で満天の星空の下で、ダンボールで作ったマイハウスで一夜を明かすことになる。翌朝は、夕食や泊まった場所を、「来たときよりきれいに片づけをすること」を徹底して片づけをしている。

 箕面観光ホテルでの朝食は、みんなで「いただきます」「ごちそうさま」をその時のリーダーのもとで行う。
 昼食は恒例の「ソーメン流し」をしたあと、スパーガーデンで汗を流して解散するスケジュールは同じだ。

 今年は「10年後の暮らし」という題でお絵かきが加わった。
 佐藤さんから誘いを受けて今回で4回参加している。ダンボールキャンプでの話題をまとめてみた。


ダンボールで作った家でキャンプ

 キャンプとは、野外で宿泊することで、屋根のない場合でもキャンプというそうだ。一般的にテントを張って野営することが多いが、ダンボールであってもなんら差し支えない。

 10時に参加者全員が集合する。野営する場所での説明、班編成などのあと、早速に親子でマイハウスの作りに取り掛かる。スーパーやホームセンターでもらってきたダンボールは、大きなものはなく、商品を詰めた箱を広げたものだから、折り目もあって思い通りの家はなかなか出来ない。




写真1 箱を開けてダンボールで家つくり


 今年あたりから、若い男性が加わって今までと違ったダンボールハウスが出来た。

 写真2は大型ダンボールをもらってきたそうで、窓を作り、立っても歩ける家が出来上がったが、午後から風が出てきたときには安定感がなく、横移動したようだった。




写真2 立体的にできたダンボールの家


スイカ割り

 スイカ割りは、日本の夏の風物詩で海水浴場などの砂浜で見かけたものだが、割ったとき砂が混じったりするのをみて、砂浜では「良くないな」と感じていた。
 ダンボールキャンプでは毎回昼前に、冷やしたスイカを3つ並べて行っている。駐車場で行っているので、砂が混じる心配はない。




写真3 3班に分かれてスイカ割り


 子供たちは3班に分かれて幼い順に並ぶ。目隠しをしてひと回りしてから目標のスイカに向かっていく。
 親が「右だ、まっすぐだ」との声を頼りに進んでいく。2歳の幼い子も目隠しをしてスイカ割りに参加していたが、こんな体験は初めてだろう。
 細い竹の棒で叩き割るし、目隠しされているから力強くたたいても思い通りに割れないが、高学年の子らがうまく割ってくれた。割れたらゲームは終了で、鈍く割れたスイカを包丁で切ってみんなで冷えたスイカにかぶりついて食べた。




ソーメン流し

 ソーメン流しも日本の夏の風物詩では欠かせない行事で、ダンボールキャンプでも毎回行っている。
 現地で太目の孟宗竹を切り出し、節を取りソーメンが流れるように加工する。




写真4 ソーメンを流す竹を加工中


 のこぎりや鉈(ナタ)、鉋(カンナ)などの小道具一式も揃っているので手際よくソーメンを流す準備を前日に終えた。

 準備不足だった4年ほど前は、ソーメンをゆがく湯が間に合わなくて、団子状になって大失敗だったことがある。 




写真5 ソーメン流し
 

 今では大なべに湯をどんどん沸かしておき、中鍋でソーメンをゆがく。ぬめりを水でさらしたあと笊(ざる)で受けて、ホテルで予約していた氷水で締める。歯ごたえのあるソーメンを竹の樋で流す。薬味にゴマや刻んだネギ、茗荷などもそろえていて美味しいソーメン流しを味わった。


 ダンボールキャンプでは、例年夕食はカレーライスだが、ご飯は飯盒炊爨(はんごうすいさん)である。アルミ製の携帯用炊飯器具に研いだ米を入れて下から薪で燃やして炊く。
 4年前の時には中学生時代の昭和20年代に経験して以来、飯盒で飯を炊くことなどやっていなかったので、うまく焚けなかった。今ではU字側溝を利用して火加減など経験してきたノウハウが蓄積されてきたので、美味しいご飯が出来上がっている。

 日常の便利な生活から離れて、薪で飯を作り、布団でなくダンボールの家で一夜を明かす。2歳の幼児から、高校生までが参加して世代間をかけ離れていろんな遊びを学ぶ。箕面エコクラブの佐藤代表が目指す主旨そのものである。集まりは50人ほどで小さいがその意義は大きい。

 今年は都合で参加できなかったが、近隣の大阪大学の学生が参加してくれて、手作りの  笛で南米の音楽を演奏してくれたりして盛り上がったこともある。

 参加した幼い子たちが、いろんな面で活躍している人たちを見て、良い刺激になったことと思う。


(平成22年8月3日)


休日にトヨタの森で休息し、正月休みに「休」を考える[2010年01月09日(Sat)]


トヨタの森の木陰で人が立つ

 昨年11月23日、「勤労感謝の日」の休日、箕面山麓委員会による「トヨタの森見学会・バスツア」に参加した。これに関しては「みのお山なみネット掲示板」の、09年12月15日の山麓広報センターから投稿されているので省略する。

 この日、森の見学コースを1時間半ほど歩いてやや疲れたころ、インタープリターさんが、木陰にたたずんで見学者にクイズを出した。ヒントは漢字1字だと言うが、さっぱり検討がつかなかった。しばらくして一緒に歩いた仲間の一人が「きゅう」と答えたが、それでも気がつかなかった。
 インタープリターさんが木のそばに立っている。木の側に人が立っている姿が「休む」だと解説してくれた。
 そういわれれば、人が木陰で一服して姿は、休むという字にふさわしく釣り合っていて、漢字の成り立ちからしても不自然でないとは思ったが、「ほんまかいな?」と疑問を持ちながら帰った。




写真 トヨタの森(09年11月23日撮影)


 年末の忙しい時期に入って休む暇もなく、やれ忘年会だ、忘年ハイキングだ、大掃除だと休憩、休息する間もないうちに2010年を迎えてしまった。

 正月の連休中に「休」をまとめるつもりでいたら、風邪をこじらせて休養していたため、今日やっとこの問題に取り組むことが出来た。もっとも無職の身には毎日が「休み」の連続で、連休中ではあるが……。


インタープリター(interpreter)とは

 上記山麓広報センターの投稿記事の中で書いているインタープリターという言葉は初めて見た用語だったので検索してみた。

 EICネット環境用語のインタープリターには「自然観察、自然体験などの活動を通して、自然を保護する心を育て、自然にやさしい生活の実践を促すため、自然が発する様々な言葉を人間の言葉に翻訳して伝える人をいう(interpret=通訳)。

 一般的には植生や野生動物などの自然物だけでなく、地域の文化や歴史などを含めた対象の背後に潜む意味や関係性を読み解き、伝える活動を行なう人を総称していう。一般には、自然観察インストラクターなどと同義に用いられることも多い。なお、インタープリターの行なう活動をインタープリテーション(自然解説と訳されることも多い)という」と解説している。


そろそろ閑話休題(注)にして、「休」の漢字に話題をもどそう。


(注)閑話休題とは、文章で、余談をやめて、話を本題に戻すときに、接続詞的に用いる語。それはさておき。あだしごとはさておき。

漢和辞典で「休」を調べる

 手元にあった「高校漢文学習のための 旺文社高校基礎漢和辞典(赤塚 忠/大和田 顕/遠藤 哲夫/林 茂夫 編)では「休」
「形声(注)。人と音を表す木“キュウ”(樛「きゅう」の原字.誤って木に変わる)とで、人の受けるさいわい、転じて「休む」意に用いる。一説に、会意で、木かげに人のやすむさまともいう。


(注)形声:漢字の六書(りくしょ)の一。音声を表す文字と意味を表す文字を組み合わせて、新しい意味を表す漢字を作る方法。「銅」「江」「草」の類。諧声(かいせい)。象声(しょうせい)。

 角川新字源(小川 環樹、西田 太一郎、赤塚 忠 編)によると、「人と音符の木(木は誤った形。かばうの意→畜)とから成り、かばい、さいわい、転じて「やすみ」の意を表す」と書いていて「木(キュウ)」は、高校基礎漢和辞典では「樛」、角川新字源では「畜」と違っていた。


古代漢字学で著名な白川 静博士の「休」

 平成17年の文化勲章受章者で3年前になくなられて漢文学者・古代漢字学で著名な学者の白河 静博士の「常用字解(平凡社)」では以下のように書いている。

 「会意(注)人と木とを組み合わせた形。木は古い字形では禾の形で、禾は横木のついている柱。軍営の門の両脇に軍門の標木(目印の木)として禾を立て、両禾軍門といわれた。
そこで軍事的な誓いや平和交渉なども行われ、禾の前で講和することを和という。戦争で手柄をたてた人を表彰することを休といい、休は『さいわい、よい、めでたい、よろこび』というのがもとの意味であった。




図 文字資料(白川 静 著、常用字解から)


 休は木の下に人が休むの意味であるとか、麦畑で人が休むの意味であるという説明をされることがあったが、それは誤った解釈である。周王朝のとき、戦争以外での功績についても王や上官が表彰し、貴重な貝や馬などを褒美として与えることが行われているが、そのようなときに休暇(やすみ)が与えられることもあって、休は『やすむ』という意味に使われるようになったのであろう」。

(注)会意:漢字の六書(りくしょ)の一。二つ以上の漢字を組み合わせ、その意味を合成して独立した文字とするもの。例えば「人」と「言」を合わせて「信」、「木」を三つ合わせて「森」を作る類(大辞泉)。

下手(へた)の考え休むに似たり
 
 このブログの締めくくりとして、「休」を使った四字熟語、成句辞典(竹田 晃著、講談社)を調べてみたが、意外と少なくて以下の3つを見つけた。

按甲休兵:
戦いをやめること。「按甲」はよろいを下におくこと、「休兵」は武器を休ませる意。

不眠不休:
眠らず休まず、一心につとめること。

休心息念:
仏教で、折にふれてわきおこる感情や欲念を断ち切ること。仏法にもとづく人間本来のあり方に徹して生きることをいう。

 ついでに、ネットで「休」を使った「ことわざ」を検索してみると、「下手の考え休むに似たり」が見つかった。下手な人(名案が浮かぶ筈のない人)がいくら考えても、時間を浪費するばかりで何の効果もない(大字泉)。

 下手な「ブログ」ももういいかげんにして「休め」ということだろう。こう耳元でささやかれては、「万事(ばんじ)休(きゅう)す」である。


新しい年を迎えても相変わらずの長いブログになってしまった。もっと簡潔に書かなければならないと心得ているつもりなので、細々とではあるが精進して「四季折々」の話題を書こうと思っている。

 本年もどうぞよろしくお願いします。


(平成22年1月9日)
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