第52話 おやじの置時計[2012年04月26日(Thu)]
「おやじの置時計」?!
どこかで聞いたフレーズだと思われた方もおられることと思う。そう「おじいさんの古時計」をもじってつけた題である。
1940年に、ミミー宮島の歌で、門田ゆたか作詞、仁木多喜雄編曲でとしてリリースした時は「お祖父さんの時計」であったが、1962年にNHKのテレビ番組『みんなのうた』で、保富康午(ほとみ こうご)の訳詞によって立川清登が歌ったときには「大きな古時計」の曲名で放送され、日本人の間に急速に浸透した。(フリー事典ウィキペディア)
2002年に歌手の平井堅がこの「大きな古時計」を歌って一世を風靡した。平井堅はこの曲で第53回NHK紅白歌合戦にも出場。2003年の第75回選抜高等学校野球大会開会式の入場行進曲に選ばれた。(フリー事典ウィキペディア)
この原曲は、19世紀に作曲されたアメリカ歌曲で、アメリカの作曲家ヘンリー・クレイ・ワーク作詞・作曲で、今から136年前の1876年に出版されている。
おやじの置時計の経緯
保富康午の歌詞は「おおきなのっぽの古時計 おじいさんの時計 百年 いつも動いていた ご自慢の時計さ……」というから縦長の振り子時計であろう。
ちなみに振り子時計は、ガリレオ・ガリレイが発見した振り子の等時性(一定の周期で揺れる性質)を応用した時計である。
1657年(完成度などにより1656年〜1658年の範囲で諸説あり)にクリスティアーン・ホイヘンスによって発明された。(フリー事典ウィキペディア)
さて、おやじの置時計は、写真1のように、置時計で70センチもあるので、住宅事情からすれば、置き場所は限定される。
裏側に
「贈 高橋克己君
昭和36年6月
日立造船株式会社櫻島工場有志一同」
と書いてある。
父が昭和47年4月に出版した自分史「牛歩40年」の年表には5月31日定年退職となっているから、昭和3(1928)年から33年間日立造船株式会社に勤め上げた記念に、工場有志から贈られた置時計である。
この置時計は父が亡くなった平成6(1994)年頃には「もう動かない その時計」だったようだ。99歳の母が平成22(2010)年に亡くなったときにも、千里山の家のサイドボードの上に置いてあり、「もう動かない置時計」であっても、部屋のバランスとしていい雰囲気を醸し出していた。
おやじの置時計の運命
我が家には、正確な時間を刻む電波時計やクォーツ時計を部屋に吊るし、結婚式の引き出物としてもらった置時計もあるので「もう動かない置時計」は少々邪魔者だった。
両親の遺品を整理していた昨年末に、月1回の小型不燃ごみを出す前日の夜、他の不燃ごみと一緒にゴミ集積場に出していた。
このことを聞きつけた子供たちは、「この堂々とした置時計はおじいちゃんの退職記念品で、部屋のアクセントにもなるから捨ててはだめだ」だと言い張り、約10キロ離れた千里山のゴミ集積場へ行き、双子の娘たちが我が家に持ってきた。
この時計を見た娘婿が、「動かなかった原因は長針とガラス蓋とが接触しているからだ」と簡単に動くようにしてくれた。おかげで時を刻み、15分おきにチャイムも鳴るようになった。
写真2 ガラスの蓋と時計の針
置時計はリビング内の、ステレオ機器とCDを収めた机の上に置いたところ、年代を経た風格があり、黒色の机ともマッチし、リビングの調度品としてアクセントになった。15分おきのチャイムの音色は少し濁っていたが、聞き慣れたメロディーで時を知らせていた。
「もう動かない この時計」
2月になって突然「もう動かない この時計」になってしまった。
大阪の大手百貨店ならゼンマイ式のアンティークな時計の修理をしてくれるだろうと電話をしてみたが、「ゼンマイ式の時計を修理してくれる時計屋はほとんどない。輸入品なら日本時計輸入協会に尋ねてみるとよい」と教えてくれた。
協会へ電話を入れると、「時計業界はクォーツ時計の発明、さらに1970年代以降のデジタル化へのシフトにより、スイスの時計産業は衰退し日本へとその主軸を移していった。スイスの時計製造会社はほとんど倒産していった」と話した後、「千葉県市川市新富の新正堂の木村さんがゼンマイ式時計の修理をしている」と紹介してくれた。
早速に電話を入れると木村さんは「ゼンマイ式なら修理ができる。1万5千円で出来るだろう。遠いところからも依頼がある」と言う返事をもらった。
宅配業者に長い置時計だけを持ち込んだら、パソコンなどの機器を収めるダンボール箱にすっぽり収めてくれた。
送っていた時計を見た新正堂の木村さんから「何とか直してみましょう。部品がないかもしれないし、少し時間はかかるが……」と言う返事だった。
1ヶ月半ほど経って戻ってきた時計は、衝撃がかからないように、ビニールを張った緩衝材やプチプチ梱包材で包んであった。腫れ物でも触るような丁寧な扱いに感激した。
早速にアクセントの無かったリビングの机に鎮座させた。
写真3 リビングに鎮座した「おやじの置時計」
機嫌よく動き出した置時計に感激した家内が木村さんに電話を入れると「チャイムの鳴るところにクッションを入れている。この時計は50年以上経っても、修理できたのはゼンマイ式だったからで、クォーツだと錆びてしまって修理は出来なかっただろう」というコメントだった。
輸送に丸1日はかかったと思われるが、開封した時にも正確な時間を刻んでいたので、丁寧な梱包のお陰だろうと思った。分解掃除で50年近くのほこりが取り払われたのだろう。澄んだ音色になっていた。
チャイムは校内放送でよく聞く単純なメロディーだが、音階で表せないので、ピアノを習っていた子供たちに書いてもらった。
ハ調だと「@ドミレソAソレミドBミドレソCソレミド」、ト調では「@ソシラレAレラシソBシソラレCレラシソ」で、正時から15分は@だけ、30分には@+Aが鳴り、45分後に@+A+Bと3倍になり、一回りすると、@+A+B+Cが鳴った後に、そのときの正時の時刻だけの数を打ち鳴らしてくれる。
4月初旬の花見の席でこの時計の話題をした時、「むかし、この時計が流行った」と大きさや、15分おきにチャイムが鳴ることなど良く知っている人がいた。
「ゼンマイ式の時計を修理するために、無い部品でも手作りしてでも直してくれる人だ」と話していた。
その後銀行に入金があったと木村さんから電話があって、その後の時計の調子を尋ねてこられた。
大きなノッポの古時計の誕生秘話(大きな古時計特集www.worldfolksong.comから)
「おじいさんの古時計」をもじって書いた「おやじの置時計」であるが、アメリカ民謡の「大きな古時計」」には実話がある。
作詞・作曲したヘンリー・ワークは、1874年劇場公演のツアーに加わるためイギリスに渡っていた。ホテルは、ダーラム州の川沿いの小さな民宿「ジョージ・ホテル」。
宿の玄関をくぐった彼は、ホテルに置かれていた、動いてもいない古びた時計(ロングケース・クロック)に、目が留まった。なぜなら、わざわざ目立つ玄関ロビーに置かれていたからで、ホテルの主人がこの時計のエピソードを静かに語り始めた。
「ヘンリー・ワークが訪れる数年前まで、ジョージ・ホテルはジェンキンズという二人の兄弟が所有するホテルだった。彼らは生涯独身だったが、地元の人々からの信頼も厚く、人付き合いのいい兄弟だったという。
ジョージ・ホテルのロビーには、2mを超える大きな木製の時計が置かれていた。それは、ジェンキンズ兄弟の兄が生まれた日に購入されたもので、ホテルの顔となっていた。
この大きな時計の正確さには定評があり、宿泊客が馬車の出発の時刻を知るのにとても役に立っていたという。時間がずれたりすることは一日もなく、一年中正確な時を刻み続けていたそうだ。
ある日、ジェンキンズ兄弟の弟が病に倒れ、そのまま亡くなってしまう。すると、今まで正確に動いていた大きな時計の時間が急に遅れ始めた。最初はほんの数分程度の遅れだったが、弟の葬儀が済む頃になると、修理士が注意して管理していたのにもかかわらず、大きな時計は徐々に遅れの度合いを増し始め、ついには一日に15分も遅れるようになってしまった。
弟の死から1年以上経過したある日、後を追うように今度はジェンキンズ兄弟の兄が亡くなった。彼の死を聞きつけてホテルのロビーに集まった友人たちは、大きな時計を見て騒然としたという。というのも、時計の針は「11時05分」、すなわち彼の死の瞬間の時刻を指し、動いていたはずの振り子もその動きをまったく止めてしまったのだから」。
ジョージ・ホテルのオーナーから聞いた大きな時計のエピソードは、ヘンリー・ワークに強いインスピレーションを与え、強い創作意欲に掻き立てられ、その日一晩中寝ずにこの逸話についての曲を書き上げた。
これが私たちの知っているアメリカ歌曲「大きな古時計」の誕生秘話である。
大きな古時計がガラクタ扱いで売られてゆく!
『大きな古時計・続編』では、おじいさんが生前大切にしていたあの大きな古時計が、なんとガラクタ扱いで売り払われ、バラバラに解体されてしまうというショッキングなストーリーが展開される。
その様子を見ていたおじいさんの孫は、ただただ嘆くばかり。家には新しい小型の掛け時計もやってきた」という。
さて、わが家のリビングに鎮座した「おやじの置時計」は、「大きな古時計」の誕生秘話の続編のようにガラクタのゴミになるのを辛うじて免れるとともに、千葉県の時計屋木村さんの手で生き返らせることができた。
このブログを子供たちや孫たちに読ませるので、当分は大切に扱ってくれることだろう。ただ、ゼンマイ式の時計を修理したり、分解掃除をしてくれる職人さんが、この伝統技術をいつまで伝えてくれるのだろうか。
「竹炭作り」の団体ブログは、CANPANのシステムのリニューアルの後、設定・管理が不具合で2月から1月間以上入力できないでいた。やっと公開できるようになったが、以前と使勝手が理解できない状態である。
個人ブログ「四季折々」は昨年12月以来ご無沙汰していたが、体調も徐々に回復しつつあるので、やっと重い腰を上げることにした。
今後ともご指導のほどお願いします。
(平成24年4月26日)
どこかで聞いたフレーズだと思われた方もおられることと思う。そう「おじいさんの古時計」をもじってつけた題である。
1940年に、ミミー宮島の歌で、門田ゆたか作詞、仁木多喜雄編曲でとしてリリースした時は「お祖父さんの時計」であったが、1962年にNHKのテレビ番組『みんなのうた』で、保富康午(ほとみ こうご)の訳詞によって立川清登が歌ったときには「大きな古時計」の曲名で放送され、日本人の間に急速に浸透した。(フリー事典ウィキペディア)
2002年に歌手の平井堅がこの「大きな古時計」を歌って一世を風靡した。平井堅はこの曲で第53回NHK紅白歌合戦にも出場。2003年の第75回選抜高等学校野球大会開会式の入場行進曲に選ばれた。(フリー事典ウィキペディア)
この原曲は、19世紀に作曲されたアメリカ歌曲で、アメリカの作曲家ヘンリー・クレイ・ワーク作詞・作曲で、今から136年前の1876年に出版されている。
おやじの置時計の経緯
保富康午の歌詞は「おおきなのっぽの古時計 おじいさんの時計 百年 いつも動いていた ご自慢の時計さ……」というから縦長の振り子時計であろう。
ちなみに振り子時計は、ガリレオ・ガリレイが発見した振り子の等時性(一定の周期で揺れる性質)を応用した時計である。
1657年(完成度などにより1656年〜1658年の範囲で諸説あり)にクリスティアーン・ホイヘンスによって発明された。(フリー事典ウィキペディア)
さて、おやじの置時計は、写真1のように、置時計で70センチもあるので、住宅事情からすれば、置き場所は限定される。
写真1 70センチのおやじの置時計
裏側に
「贈 高橋克己君
昭和36年6月
日立造船株式会社櫻島工場有志一同」
と書いてある。
父が昭和47年4月に出版した自分史「牛歩40年」の年表には5月31日定年退職となっているから、昭和3(1928)年から33年間日立造船株式会社に勤め上げた記念に、工場有志から贈られた置時計である。
この置時計は父が亡くなった平成6(1994)年頃には「もう動かない その時計」だったようだ。99歳の母が平成22(2010)年に亡くなったときにも、千里山の家のサイドボードの上に置いてあり、「もう動かない置時計」であっても、部屋のバランスとしていい雰囲気を醸し出していた。
おやじの置時計の運命
我が家には、正確な時間を刻む電波時計やクォーツ時計を部屋に吊るし、結婚式の引き出物としてもらった置時計もあるので「もう動かない置時計」は少々邪魔者だった。
両親の遺品を整理していた昨年末に、月1回の小型不燃ごみを出す前日の夜、他の不燃ごみと一緒にゴミ集積場に出していた。
このことを聞きつけた子供たちは、「この堂々とした置時計はおじいちゃんの退職記念品で、部屋のアクセントにもなるから捨ててはだめだ」だと言い張り、約10キロ離れた千里山のゴミ集積場へ行き、双子の娘たちが我が家に持ってきた。
この時計を見た娘婿が、「動かなかった原因は長針とガラス蓋とが接触しているからだ」と簡単に動くようにしてくれた。おかげで時を刻み、15分おきにチャイムも鳴るようになった。
写真2 ガラスの蓋と時計の針
置時計はリビング内の、ステレオ機器とCDを収めた机の上に置いたところ、年代を経た風格があり、黒色の机ともマッチし、リビングの調度品としてアクセントになった。15分おきのチャイムの音色は少し濁っていたが、聞き慣れたメロディーで時を知らせていた。
「もう動かない この時計」
2月になって突然「もう動かない この時計」になってしまった。
大阪の大手百貨店ならゼンマイ式のアンティークな時計の修理をしてくれるだろうと電話をしてみたが、「ゼンマイ式の時計を修理してくれる時計屋はほとんどない。輸入品なら日本時計輸入協会に尋ねてみるとよい」と教えてくれた。
協会へ電話を入れると、「時計業界はクォーツ時計の発明、さらに1970年代以降のデジタル化へのシフトにより、スイスの時計産業は衰退し日本へとその主軸を移していった。スイスの時計製造会社はほとんど倒産していった」と話した後、「千葉県市川市新富の新正堂の木村さんがゼンマイ式時計の修理をしている」と紹介してくれた。
早速に電話を入れると木村さんは「ゼンマイ式なら修理ができる。1万5千円で出来るだろう。遠いところからも依頼がある」と言う返事をもらった。
宅配業者に長い置時計だけを持ち込んだら、パソコンなどの機器を収めるダンボール箱にすっぽり収めてくれた。
送っていた時計を見た新正堂の木村さんから「何とか直してみましょう。部品がないかもしれないし、少し時間はかかるが……」と言う返事だった。
1ヶ月半ほど経って戻ってきた時計は、衝撃がかからないように、ビニールを張った緩衝材やプチプチ梱包材で包んであった。腫れ物でも触るような丁寧な扱いに感激した。
早速にアクセントの無かったリビングの机に鎮座させた。
写真3 リビングに鎮座した「おやじの置時計」
機嫌よく動き出した置時計に感激した家内が木村さんに電話を入れると「チャイムの鳴るところにクッションを入れている。この時計は50年以上経っても、修理できたのはゼンマイ式だったからで、クォーツだと錆びてしまって修理は出来なかっただろう」というコメントだった。
輸送に丸1日はかかったと思われるが、開封した時にも正確な時間を刻んでいたので、丁寧な梱包のお陰だろうと思った。分解掃除で50年近くのほこりが取り払われたのだろう。澄んだ音色になっていた。
チャイムは校内放送でよく聞く単純なメロディーだが、音階で表せないので、ピアノを習っていた子供たちに書いてもらった。
ハ調だと「@ドミレソAソレミドBミドレソCソレミド」、ト調では「@ソシラレAレラシソBシソラレCレラシソ」で、正時から15分は@だけ、30分には@+Aが鳴り、45分後に@+A+Bと3倍になり、一回りすると、@+A+B+Cが鳴った後に、そのときの正時の時刻だけの数を打ち鳴らしてくれる。
4月初旬の花見の席でこの時計の話題をした時、「むかし、この時計が流行った」と大きさや、15分おきにチャイムが鳴ることなど良く知っている人がいた。
「ゼンマイ式の時計を修理するために、無い部品でも手作りしてでも直してくれる人だ」と話していた。
その後銀行に入金があったと木村さんから電話があって、その後の時計の調子を尋ねてこられた。
大きなノッポの古時計の誕生秘話(大きな古時計特集www.worldfolksong.comから)
「おじいさんの古時計」をもじって書いた「おやじの置時計」であるが、アメリカ民謡の「大きな古時計」」には実話がある。
作詞・作曲したヘンリー・ワークは、1874年劇場公演のツアーに加わるためイギリスに渡っていた。ホテルは、ダーラム州の川沿いの小さな民宿「ジョージ・ホテル」。
宿の玄関をくぐった彼は、ホテルに置かれていた、動いてもいない古びた時計(ロングケース・クロック)に、目が留まった。なぜなら、わざわざ目立つ玄関ロビーに置かれていたからで、ホテルの主人がこの時計のエピソードを静かに語り始めた。
「ヘンリー・ワークが訪れる数年前まで、ジョージ・ホテルはジェンキンズという二人の兄弟が所有するホテルだった。彼らは生涯独身だったが、地元の人々からの信頼も厚く、人付き合いのいい兄弟だったという。
ジョージ・ホテルのロビーには、2mを超える大きな木製の時計が置かれていた。それは、ジェンキンズ兄弟の兄が生まれた日に購入されたもので、ホテルの顔となっていた。
この大きな時計の正確さには定評があり、宿泊客が馬車の出発の時刻を知るのにとても役に立っていたという。時間がずれたりすることは一日もなく、一年中正確な時を刻み続けていたそうだ。
ある日、ジェンキンズ兄弟の弟が病に倒れ、そのまま亡くなってしまう。すると、今まで正確に動いていた大きな時計の時間が急に遅れ始めた。最初はほんの数分程度の遅れだったが、弟の葬儀が済む頃になると、修理士が注意して管理していたのにもかかわらず、大きな時計は徐々に遅れの度合いを増し始め、ついには一日に15分も遅れるようになってしまった。
弟の死から1年以上経過したある日、後を追うように今度はジェンキンズ兄弟の兄が亡くなった。彼の死を聞きつけてホテルのロビーに集まった友人たちは、大きな時計を見て騒然としたという。というのも、時計の針は「11時05分」、すなわち彼の死の瞬間の時刻を指し、動いていたはずの振り子もその動きをまったく止めてしまったのだから」。
ジョージ・ホテルのオーナーから聞いた大きな時計のエピソードは、ヘンリー・ワークに強いインスピレーションを与え、強い創作意欲に掻き立てられ、その日一晩中寝ずにこの逸話についての曲を書き上げた。
これが私たちの知っているアメリカ歌曲「大きな古時計」の誕生秘話である。
大きな古時計がガラクタ扱いで売られてゆく!
『大きな古時計・続編』では、おじいさんが生前大切にしていたあの大きな古時計が、なんとガラクタ扱いで売り払われ、バラバラに解体されてしまうというショッキングなストーリーが展開される。
その様子を見ていたおじいさんの孫は、ただただ嘆くばかり。家には新しい小型の掛け時計もやってきた」という。
さて、わが家のリビングに鎮座した「おやじの置時計」は、「大きな古時計」の誕生秘話の続編のようにガラクタのゴミになるのを辛うじて免れるとともに、千葉県の時計屋木村さんの手で生き返らせることができた。
このブログを子供たちや孫たちに読ませるので、当分は大切に扱ってくれることだろう。ただ、ゼンマイ式の時計を修理したり、分解掃除をしてくれる職人さんが、この伝統技術をいつまで伝えてくれるのだろうか。
「竹炭作り」の団体ブログは、CANPANのシステムのリニューアルの後、設定・管理が不具合で2月から1月間以上入力できないでいた。やっと公開できるようになったが、以前と使勝手が理解できない状態である。
個人ブログ「四季折々」は昨年12月以来ご無沙汰していたが、体調も徐々に回復しつつあるので、やっと重い腰を上げることにした。
今後ともご指導のほどお願いします。
(平成24年4月26日)
























