第47話 奈良盆地の「北・山の辺の道」を歩く[2010年11月14日(Sun)]
めっきり朝夕は冷え込んできた錦秋のこの時期に、奈良「北・山の辺の道」を11月9日にいつものハイキング仲間13人で歩いてきた。
この日は風が強く、2時過ぎに20分ほど時雨れてきたが、ハイキングにはさほどの支障なく歩けた。今までに奈良市内を含む周辺を歩く機会は何度もあったが、奈良盆地の東部に発達する丘陵地帯を中心とした大和青垣国定公園を歩くのは初めてだった。
近鉄奈良駅から20分ほどの下山バス停で下車し、北の方の春日大社や興福寺の市内中心地に向けて歩き始めた。
まず、大和三門跡と称される格式の高い尼寺の円照寺に向かって歩いた。境内は非公開なので、まっぷの表示にしたがって竹やぶに入ったが柵で行き止まりになっていた。
引き返して円照寺入り口のアスファルトの道に出て、北に向かって進んだ。進行方向右手の東側は、雑木林や竹やぶが密集したせいぜい50mほどの高さの山が連なっていて、その山裾を歩いていった。
左手の西の方はところどころで民家で遮られたりはするが、前方の景色を見下ろす感じで、平野が広がり、その先に生駒山(標高642m)のテレビ塔のアンテナがかすかに見えていた。約9キロの山道のハイキングコースだったが、そのほとんどは生駒山が見え隠れしていた。このハイキングは「奈良盆地の東側のお盆の底の縁を歩いているのだな」と感じた。奈良盆地 今回歩いてきたコースは、近鉄の「てくてくまっぷ 北・山の辺の道コース@」を利用したが、奈良盆地が一望できるコースという印象が強かったので、念のために「新編中学校社会科地図(帝国書院編)」の京都・奈良から奈良盆地を中心にトリミングしてみた。図 奈良盆地と周辺の山地
東には笠置山地(大和高原)が控えている。
文献に見える日本最古の道「山の辺の道」は、石上神宮を起点に北の奈良へ延びるルートを「山の辺の道(北)ルート」、南の桜井へ延びるルートを「山の辺の道(南)ルート」と呼んでいて、春日断層崖の裾を南北に延びていて、現在は東海自然歩道がそのルートに設定されている。(天理市観光協会)
西には生駒・金剛山地があり、東西約13kmを囲んでいる。南北は約30kmあり、北は奈良山丘陵、南は竜門山地によって周辺が囲んだ面積約300平方キロメートルが奈良盆地である。
奈良県域が約3700平方キロメートル弱だから、奈良盆地は県域の約1/10だが、奈良市のほか橿原市、大和郡山市、天理市、大和高田市、桜井市、御所市など主要都市域の大部分が含まれ、人口の集中が著しい。
盆地底は南端にある大和三山(天香久山、畝傍山、耳成山)以外は標高40〜80mとほぼ平たんで、中央部へごく緩やかに傾斜しており、河合町川合付近で佐保川、富雄川、秋篠川、竜田川、飛鳥川、曾我川、葛城川と初瀬川などの河川が合流し、大和川となって大阪平野に流れ出る。
かつて盆地中央部には奈良湖とでも称すべき湖沼地が広がっていたと推定されるが、洪積世以来河川の堆積作用によって埋積され陸化した。多くの河川があるにもかかわらずいずれも小規模なうえ、年降水量1400mm内外の寡雨地域のため灌漑用水を十分まかなえず、1万以上に及ぶ溜池や多くの横井戸、かくし井戸などがつくられてきた。円照寺から白毫寺へ 円照寺から崇道天皇陵を経て嶋田神社から白山比刀iしらやまひめ)神社で昼食にした。
崇道天皇陵に差し掛かる手前に「前池」があったが、かつて水不足に悩まされてきた灌漑用水のため池のなごりだろうか。
1950年代以降,吉野熊野特定地域総合開発事業の一環としての吉野川分水事業の完成(1984)によって、盆地の大部分の範囲で水不足は解消されつつあるようだ。
白山比盗_社から西方向は展望がきく眺めの良いところだった。写真1 白山比盗_社から西方向を望む
東海自然歩道白毫寺・柳生への標識から山道に差し掛かる。まっぷにはかなり大きく「平尾池」が書いてあったが、先を急いでいて気がつかなかった。八阪神社の社の手前にも池があった。
30分ほど歩くと、右手に高い山が見えてくる。地図に「高円山」と書いているが、2つ連なっていたので、地元の人に聞いて北寄りの山だとわかった。
民家が出来るだけ入らないようにして何枚か撮ったが、白毫寺に近づくと急斜面に張り付く住宅などで、高円山を望むことはできなかった。写真2 高円山山頂を望む
高円山は、頂上が展望に優れ、万葉集に多く詠まれており、聖武(しょうむ)天皇の離宮尾上宮(おのうえのみや)があった所と伝えられる標高432メートルの雑木林に覆われた山である。
広い道路に出て白毫寺バス停があり、すぐ近くだろうと思っていたが、狭い参道と険しい階段を登らなければならなかった。その両側にはびっしりと萩が植わっていたが、9月中旬から10月上旬が見ごろで、関西花の寺第18番「萩の寺・白毫寺」に咲きっぷりは見られなかったが、境内を入ったすぐのところに、わずかに白くて小さい萩の花が残っていた。
白毫寺に境内には万葉集(巻2・231笠金村「かさのかなむら」)霊亀元年(715年)秋9月、志貴皇子の逝去されし時作れる挽歌(巻2・230)に対する反歌「高円(たかまど)の 野辺の秋萩 いたずらに 咲きか散るらむ 見る人なしに」の万葉歌碑がある。
「西暦715年、天智天皇の第7皇子である志貴皇子の没後、天皇の勅願によって皇子の山荘跡を寺としたのに始まると伝えられる」というから由緒ある古寺である。宝蔵に写された阿弥陀如来坐像などの重要文化財7座を拝むことが出来た。 境内は標高120mの高台にあり、東側は急斜面の山が迫っているから、西側には奈良盆地が一望できると共に、生駒山をくっきりと望めた。写真3 白毫寺境内から奈良盆地を望む
春日大社から興福寺へ 白毫寺の急な階段と坂道を下ってからは、新薬師寺の門前をすっと通り過ぎていくので「何故中に入って拝観しないのか」と一番後ろからゆっくり歩きながら、多少不満に思っていたら、Kさんが「猿沢池の亀に出会いたくないか」と話しかけてきた。
昨年10月末にKさんら今日歩いている仲間8人で西大寺から興福寺から猿沢池までを歩いたときの話題をブログで公開している。猿沢池の亀の上に鳩が乗っても一向に「かめへん」という様子や鹿せんべいを亀が噛めないことをみて「カメヘン」と書いていたので、それを気にして聞いてきたと思っていた。そのために急いでいるのだろうとしぶしぶ納得した。
興福寺近くには3つの池があったが、どの池にも亀などの姿は見えず、美しい紅葉を水面に映し出していた。写真4 興福寺近くの池の周りの紅葉
亀はこのところの冷え込みで、水面に出て甲羅干しをしないのだそうだ。亀には出会わなかったが、思わぬ人に出会った。
3時には興福寺前に出た。すると、奈良近郊に住んでいる昔一緒に仕事をしていてハイキングにもときどき参加しているS氏さんとNさんが3時前から待っていた。
彼ら2人は、北・山の辺の道を歩いてきたハイキング仲間13人と合流して飲み会だけに参加するために猿沢池で待ち合わせていたのだそうだ。どうりで待ち合わせの時間のために急いでいることがわかった。
11時頃から歩き始めて急ぎ足で約4時間歩いたのだが、奈良市の中心街で3時から飲める場所で、餃子とビールで1時間飲んだあと、4時から開店する魚料理の店でさらに杯を重ねることとなった。
久しぶりに15人の仲間と愉快な雰囲気の中で晩秋の一日を、適度な運動と程よい酔い心地で過ごすことができた。
ここまで書いてみてやはり奈良盆地のことで、日本国土の中で何故に奈良盆地底に、平城宮址、藤原宮址が出来たのかなどをもう少し調べてみたいと思っている。
参考資料:平凡社「世界大百科事典」
:インターネットなど(平成22年11月14日)
第37話 近江中山道を歩く(醒井宿)[2010年06月13日(Sun)]
今年の4月6日に青春18キップを利用して関が原宿から醒井宿までを歩いたのは桜が咲き始めたころだった。これまでに関が原宿、今須宿、柏原宿までは、ゆっくりしたペースながら3つの宿の話題を個人ブログでまとめてきた。
「近江中山道を歩く」では醒井宿だけになったが、すでに2ヶ月を過ぎてしまった。
一緒に歩いたKさんから「いつになったら醒井宿をまとめるの」と催促されてしまった。
この間に団体ブログの方の記事を2つ書いていて忙しくしていたが、いい訳にはならない。記憶が忘却の彼方に行かないうちにまとめることにした。柏原から醒井へ 柏原宿を出ると、左側に名神高速道路、右に国道21号沿いの平坦な歩道を歩いて一色集落を過ぎて米原市醒井に入った。
右手に東海道本線、左手の山手の方ではすぐ近くを名神高速道路が走っていて、鉄道と高速道路に挟まれたわずかな隙間に中山道が通っていた。
中山道の起源は古く、古代から中世にかけてすでに西国と東国を結ぶ重要な街道として整備されている。それに比し、東海道本線・JR醒ヶ井駅は1900(明治33年)の開業であるし、名神高速道路の西宮・小牧間は1965年(昭和40年)に開通しているので、中山道の醒井宿付近は、これら新参者の鉄道と高速道路が、この狭い地区にあとから入り込んできて母屋を取ってしまった感がある。写真1上段:中山道 醒井宿の石碑
下段:分間延絵図・醒井宿
醒井宿の入口には、石碑と分間延絵図の碑(写真1上段)が街道沿いに立っていた。
分間延絵図・醒井宿(写真1下段)の上側の山並みの際の川は天野川だろう。
絵図の街道の下側には山並みが迫っているので、昔から中山道・醒井宿あたりは、両側に山が迫り、山間を天野川が流れている、谷間の狭いところに街道が整備されたのだろう。
米原市のホームページ・「水中花『梅花藻』ゆらぐ湧水の里 まいばら」によると、「米原町(現米原市の一部)は、霊仙山(1,084m)の北嶺から湧き出た丹生川が、一級河川天野川に注いで扇状地を形成し、琵琶湖に流れ込むという、変化に富んだ地形の上に位置しています。源流部にあたる醒井地域は、日本武尊の命を救った伝説の湧水『居醒の清水』がある湧水の里です。この居醒の清水を源流とする『地蔵川』には、梅の花に似た小さな可愛らしい五弁の花を咲かせるキンポウゲ科の水中多年草『梅花藻』(ばいかも)が咲きます。年間を通じて水温が14℃前後に保たれる清流に咲く貴重な『湧水の妖精』です」と書いている。
JR米原駅から東京方面へ進むと左手に伊吹山が見えてくるが、霊仙山(りょうぜんざん)は、反対側の東海道線JR醒ヶ井駅から南に4キロほどの鈴鹿山脈の北端に位置していた。
地図には、うるしが滝、屏風岩、醒井渓谷が丹生川になっている。上丹生には、1878年(明治11)、ビワマス増殖のために開設された施設があり、3万uの場内に、ニジマス・アマゴ・イワナなどの稚魚池や釣り池がある。枡形道 先に公開した第34話「近江中山道を歩く(今須宿)」の中の宿場町の章に、世界大百科事典の「中山道馬籠宿推定景観復元図」を引用した時、枡形が書いてあったが、なんとなく見過ごしていた。
上記写真1の醒井宿の石碑が立っていたところから、「居醒の清水」の名水がこんこんと湧き出ている「加茂神社」まではわずかな距離だが、街道がクランク状に曲がっているのが気になった(写真2)。写真2 醒井宿の東側の入口はクランク状
このクランク状に曲がった道は、枡形道と言われている。街道をクランク状に曲げ、見通しが利かないようにして防備を図るもので、城へ入るときに一の門から二の門へ進む時、枡状の四角い広場を作り、兵の勢い止めるように作られた枡形の形状が宿場町で応用されている。地蔵川沿いを歩く 宿場はちょうど樹形道から左に出た所から始まっていたが、天保14年の記録によると宿場規模は本陣1、脇本陣1、旅籠屋1軒と小さかった。
醒井宿は、東山道の宿駅として古くから栄え、昔の書物には「佐目伽井」と書かれていることもあるが、「三水四石」と呼ばれる名所があることで有名だった。
三水とは、「居醒の清水」、「十王水」、「西行水」を指し、四石とは「日本武尊腰掛け石」、「日本武尊鞍掛け石」、「蟹石」、「影向(ようこう)石」をこのように呼んでいた。(出典:日殿 言成著、「誰でも歩ける中山道六十九次」)
左側の上の方を名神高速道路が走っているが、そのすぐ下に「加茂神社」がある。この神社の石垣の間からこんこんと清水が湧き出ている。地図を拡大してみてみると、この加茂神社の湧き水が水源になって地蔵川が街道沿いに平行して流れている。
JR関が原駅を出たのが11時過ぎだったが、地蔵川の清流のほとりで一息ついたときには4時を過ぎていた。
醒井の地蔵川には、清流でしか育たない梅花藻(バイカモ)が梅の花に似た白い小花が咲くというが、時期が7月から8月なので、4月の季節では清流に流されている緑色の葉っぱだけだった。(写真3)
少し行ったところで、小学生が釣り糸を垂れていた。まさか絶滅危惧種の一種のハリヨを釣っているかと尋ねてみたら、「鱒を釣っている」と応えた。ハリヨはトゲウオ科の魚で体長は4〜5cm、生息分布は滋賀県の東北部、岐阜県の西部、三重県東北部に限られている。写真3上段:加茂神社
中段:清流の地蔵川に三石がある
下段:地蔵川清流の梅花藻の葉っぱ
写真1下段では水面が緑色しているだが、流れが結構早く、うまくとらえられなかった。
7月のころあいを見て梅花藻の花を見て、養鱒場で鱒料理を食する企画を検討中で、ジムの仲間とハイキングを兼ねて訪れることにしている。宿場の中心 加茂神社を出て地蔵川に沿って歩けば宿場の中心地だが、JR醒ヶ井駅までのわずかな距離の間に、本陣跡、醒井問屋場跡、醒井郵便局、十王水、明治天皇御駐輦所碑、醤油「ヤマキ」などがあった。写真4上段:醒井問屋場跡(旧川口家住宅)
下段:旧醒井郵便局局舎
醒井宿問屋(写真4上段)は、「醒井宿で問屋を営んでいた川口家住宅で、現在、宿場に問屋が残されているところはほとんどない。建築年代が17世紀中〜後半と推定される貴重な建物」と解説板で紹介している。
写真4下段は、旧醒井郵便局局舎(国登録)で、1915(大正4)年、ウイリアム・メルレ・ヴォーリスの設計によって建てられた木造2階建の擬洋風建築である。
ヴォーリスの名は、数年前に近江八幡市内を散策した時に、彼が手掛けた建物と共に、メンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家でもあることを思い出した。
アメリカ合衆国に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家であり、1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは、華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。「米来留」とは米国より来りて留まるという洒落である。
近江商人発祥地である滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点に精力的に活動したことから、「青い目の近江商人」と称された。また太平洋戦争終戦直後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される(出典:ウィキぺディア)。十王水 醒井の名所「三水四石」のうち、「十王」と彫った「石灯籠」が川中にあった。ここも昔から名水の湧く場所として有名だった。
十王(じゅうおう)とは、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う10尊の、いわゆる裁判官的な尊格である(出典:ウィキぺディア)。写真5 川の中に十王と書いた石灯篭
この先の旧道に、残りの三水で岩の間から清水となって湧き出ている「西行水」があったが立ち寄らなかった。そこで、西行にまつわる話を、上記「誰でも歩ける中山道六十九次」から引用してみた。
「西行法師は東遊の途中、この付近を通り、泉の湧く近くにあった茶屋で休憩したという。ところが、茶屋の娘が西行に恋してしまい、西行が飲み残した茶の泡を飲んだところ不思議にも懐妊し、男の子を生んだという。その後、西行が再び関東の帰りにここに立ち寄ってその話を娘から聞き、「もしわが子ならば元の泡にかえれ」と唱えたという。
すると子供はあっという間に泡となって消え去ってしまったと言い伝えられているのだ。その後、西行は泡子のためにここに供養塔を建立し、ここは西行水と呼ばれるようになったという」。
5時過ぎの電車でJR醒ヶ井駅から帰路についたが、「醒井水の宿駅」で汲んできた名水をウイスキーの水割りで車中のひとときの反省会とし、大阪駅構内でさらに杯を重ねて今回のウォーキングの余韻を味わった。 (平成22年6月13日)
第36話 近江中山道を歩く(柏原宿)[2010年05月18日(Tue)]
柏原宿は、中山道69次のうち、1番目の板橋宿から数えて60番目の宿で、一つ手前の59次今須宿から柏原宿までは約4.0キロある。
中山道の日本橋から京都までの距離は約540キロあり、70区間の宿場間の平均距離は7.6キロなので、今須宿・柏原間は、1里(約4キロ)と近接している。
ちなみに、宿場間で最も離れているのは28次の上和田と下諏訪間の5里18町(約21.6キロ)で、最も短い宿場間は、23次の塩名田と八幡間27町(約3キロ)である。
今須宿から長久寺集落を抜けて楓並木を歩いていく。江戸時代は松並木だったのが明治時代になって楓並木になったという。
なだらかな坂道の山道に入ると、長比(たけくらべ)城跡登り口の道標や旧東山道の石碑が右手に見えた。
長比城跡の解説板によると、「織田信長が浅井長政を討つべく元亀元年(1570)に浅井、朝倉勢が守るこの城と苅安城を攻めた」と書いているから、今から440年前の話だ。
柏原宿の入り口に、中山道分間延(ぶんけんのべ)絵図と略史が掲示されていた。
柏原宿は、鎌倉時代に「柏原弥三郎の柏原城跡に佐々木京極氏が館・徳源院・墓所を設置。
室町の初め、京極高氏の命で箕浦次郎右衛門、柏原代官所設置。室町時代、箕浦代官二百数十年。 関が原合戦時には柏原宿は戸数五百の、大きな中世宿場に成熟」、
江戸後期には「亀屋左京六代目七兵衛 柏原宿を『もぐさの里』と全国的に売り出す」、
明治時代では「明治になりもぐさ屋で宿場役人の山根為家が柏原銀行を創業」などと書いていた。中山道分間延絵図 柏原宿と次の醒井宿で写真1に示す街道の絵図を描いた「中山道分間延絵図」が掲示されていた。その掲示された絵図は柏原宿の東側部分だったので、柏原歴史館のリーフレットを利用させてもらった。図1 中山道分間延絵図・柏原宿
辞書には、「分間(ぶんけん)とは、山野の遠近・高低・距離などを測量すること。また、それを記した図」と書いている。
国交省横浜国道事務所の「よここくNAVI」には、「分間延絵図は江戸幕府が街道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図で、東海道の他に、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中の五街道と、それらに付属する街道地図も同時期に作成している。それらを含めて「五街道分間延絵図」と呼んでいる。「五街道分間延絵図」作成の命が出されたのは寛政年中(1789〜1801)のことで、文化3年(1806)に完成している。絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが丹念に描かれている。また一里塚、道標、橋、高札なども描かれている。
縮尺は、実際の1里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれており、道の曲がりの急なところは、そのまま描いてしまうと地図の天地が長くなってしまうので、実際にはゆるい曲がりにし、そのわきにたとえば北に何分と記して、本来の曲がり具合を示している」と説明している。
こうした街道沿いの内陸部の地図に対して、江戸時代後期の測量家伊能忠敬(1745〜1818)が中心となって作製された日本全土の実測地図が、文政4年(1821年)に完成している。柏原宿 柏原宿は中山道でも比較的大きな宿場で、宿の長さが13町(約1.4km)と、近江8宿でいちばん長く、1843(天保14)年には戸数344軒、本陣・脇本陣が各1、問屋5軒・旅龍22軒があったと記録されている。
柏原宿の街道沿いには、昔の屋号を記した看板(写真2)があちこちに取り付けてあったので、通りがかった学生に「この家は今でも蝋燭を売っているのか」と思わず野暮な質問をしてみた。「知らない」とそっけない返事だったが、江戸時代なら蝋燭の需要があっただろうが、今日では蝋燭だけの商売は成り立つわけがない。写真2 街道沿いの民家に昔の屋号の看板
伊吹もぐさ 柏原宿は伊吹山の南麓にあり、上記で触れたように「もぐさの里」である。
その原料の「よもぎ」は伊吹山の8合目あたりに自生していて、よもぎの背丈は3、4尺〜6、7尺と、江戸期の「近江国輿地志略」から引用していて、司馬遼太郎は、街道ゆく・近江散歩の中で書いている。
よもぎは、近くの公園でもよく見かけるが、こんなに背丈は高くない。セイタカアワダチソウと同様に地下茎などから他の植物の発芽を抑制する物質を分泌するので、ヨモギだけが密集している。
よもぎは、お餅や草団子に入っているので馴染みの草だが、やいとは今ではあまり聞かれなくなった。
幼少期にいたずらをしては、母親に押さえつけられて背中にお灸(やいと)をすえられ、小学校時代にお灸の跡形の丸くなってケロイド化したところを触ってからかわれたことが思い出される。
事前に調べた「山と渓谷社・近江中山道」に、「福助人形が店先に座る伊吹堂亀屋」に大きな福助人形の写真が掲載されていたので、現地で写真は撮れるものと思っていた。
亀屋の店先のすだれのすき間から見たKさんが「大きな福助人形が見える」と誘ったので、戸を開けて「見学できますか」と聞くと、店番のおばあさんが、手を左右に振って写真を撮ることができなかった。
商いをしている店だから、誰もが「写真を撮らせてくれ」では商売に支障が出るからだろう。
「亀Qというもぐさ1200円〜や、薬草を使った百草という入浴剤1100円が売れ筋」だと言うから、お土産を買いながら、話してみれば撮らせてもらえたのかもしれない。写真3上段:伊吹堂亀屋(10年4月6日撮影)
中段:伊吹堂の福助人形(JTB「芭蕉を歩く」から引用)
下段:木曾街道69次 柏原 広重筆
写真3上段は現在の伊吹堂で、下段は安藤広重の木曽街道69次・柏原宿の浮世絵である。江戸時代は店が開放されていて「かめや」「亀屋」「薬艾」の字が見える。右隅奥に福助人形が鎮座している。伊吹堂亀屋の福助人形のいい写真を探していたら、JTBのCan Books「芭蕉を歩く」で見つけたので引用した。広重のとは少し違うが、現在の福助人形は2代目だそうである。福助とはこの店に実在した「番頭」で、働き者で知られ、店を繁昌させた功労者だという。
右側の「薬艾」の方では小僧が客の対応をしている。座っている客の後ろには伊吹山の模型が置いてある。店の左側は休憩所である。
司馬遼太郎の「街道をゆく・近江散歩」の「伊吹のもぐさ」には、この店の繁栄の基礎をつくったのは柏原の人で松浦七兵衛(亀屋左京)で、その出世話を詳しく書いている。
中でも七兵衛が江戸へ商いに出て、売り広めて利益が出ると、吉原で芸者を揚げて散財した挙句の潮時に、芸者に「江州柏原 伊吹山のふもと 亀屋左京のきりもぐさ」という簡単な歌を三味線に合わせて芸者に歌わせて宣伝したという。
広重の浮世絵に出ている左側には、客がこの待合から素晴らしい庭園をながめて旅の疲れを休めるようにしていたという。無料の休憩所で休んで「ついつい艾を買わざるを得ない」という工夫されていたそうだ。伊吹山の景色 東海道線で米原から関が原あたりを通るとき、車窓から間近に見える息吹山についつい見入ってしまう。走り去っていく車窓からカメラを向けるチャンスはなかったが、今年3月22日に、青春18キップでこのあたりを通過した時は、線路脇に生えた野草を取っていた老人が、線路を無理に横断して急停車し、10分ほど停車した。
このめったにないチャンスに、山頂から5合目あたりまで冠雪した息吹山を撮ることができた(写真4)。写真4 冠雪の伊吹山(10年3月22日撮影)
今回のウォーキングでは、JR関が原駅から中山道を西に向かって歩いてきて「いつ伊吹山が見えるか」と気にしながら歩いてきたが、柏原宿に入ってやっと写真4のように、満開の桜と共に見ることが出来た。写真5 柏原宿から眺めた伊吹山(10年4月6日撮影)
半月のうちに、冠雪もほとんど消えて、わずかに乳牛の斑点の白いまだら模様になっていた。
伊吹山は深田久弥選定の「日本百名山」の一座であり、登山者も多い。伊吹山の多彩な植物相は,伊吹山の石灰岩地質と特有の気象条件によって形成されたもので、伊吹山頂草原植物群落として国の天然記念物に指定されている。参考文献:街道をゆく 24(司馬遼太郎)、滋賀県の歴史散歩(滋賀県歴史散歩編集委員会編、山川出版社)、誰でも歩ける中山道六十九次(日殿 言成 著、文芸社)(平成22年5月18日)
第34話 近江中山道を歩く(今須宿)[2010年04月21日(Wed)]
前々回の近江中山道(関が原宿)の続きである。関が原宿から今須峠を越えて国道21号に合流して直ぐに左側の街道に入っていった。
「これより中山道」の案内が立っている。
「今須宿」に入ると、写真1に見るように、比較的道幅が広く、両側に張り付いている家屋などからみて江戸時代からの道幅のままのように感じた。写真1 今須宿の問屋場跡前付近
宿場町 関が原宿では宿場町というイメージは出なかったが、今須宿の街道筋を歩いてみると、「これが宿場町だな」と感じた。
中山道でもかつて歩いた馬籠宿や妻籠宿のような宿場町には、今でも当時のままの雰囲気が残っている。
図−1幕末期の馬籠宿の推定景観復元図で、平凡社の世界大百科事典・宿場町から引用してみた。
街道に沿って参勤交代の大名などが宿泊する本陣、脇本陣がほぼ中央部に位置し、その前後に一般旅行者の利用する旅籠屋、茶屋、煮売屋、そして人足問屋、馬借問屋などが並び、さらに外側に諸商人、諸職人が配されている。
今須宿には、馬籠宿のようなそれを観光資源としたにぎやかさはないが、その片鱗が残っている。図―中山道馬籠宿推定景観復元図
宿場町は街道に沿って長く延びるのが特徴である。街道筋から町が開けていく様子は、その昔「いとしのクレメンタイン」のメロディで有名な西部劇の映画「荒野の決闘」の駅馬車が止まる宿場が、細長く伸びていく形態や構造は同じようだなと思った。
宿場内の街道幅は2〜4間(1間=1.812、3.6m〜7.2m)と比較的広い。「防火や人馬への給水のため道路中央、または道路際に流水路が設けられた。街道両側の敷地割は計画的に行われた短冊形のもので、奥行きはほぼ一定とし、間口に違いがあった。宿役人層を除けば、農業を兼ねるのが普通で、敷地裏側は菜園になっている場合が多い」(世界大百科事典宿場町)。問屋場 今須宿の本陣跡は小・中学校になっていて、何も残っていないが、写真1の古い家(山崎家)は、問屋場(とんばや)跡である。
この問屋場があった山崎家の前の解説板には、「江戸時代、人や馬の継ぎ立てなどを行った問屋が、当宿には一時7軒もあって全国的にも珍しいことでした。美濃16宿のうちで、当時のまま現存し、その威容を今に伝えているのはここ山崎家のみです。
縁起物の永楽通宝の軒丸瓦や、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄振りがうかがえます。関が原町」と説明していた。写真2上段:山崎家の問屋場跡
下段:縁起物の永楽通宝の軒丸瓦
国交省横浜国道工事事務所の「よここくナビ問屋場」を検索すると、「問屋場は宿場でもっとも重要な施設である。問屋場には大きく2つの仕事がある。一つは人馬の継立業務で、幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際に、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶというもの。
もう一つが幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務で、継飛脚(つぎびきゃく)という。これらの業務を円滑に運営するために、問屋場には宿場の最高責任者である問屋(といや)、問屋の補佐役である年寄(としより)、事務担当の帳付(ちょうづけ)が詰めていた」と説明している。寝物語の里 近江と美濃の国境は写真3に見られるように、今でもこの溝を挟んで滋賀県と岐阜県の境界になっている。ここは古くから「美濃」と「近江」との境で知られ、境はわずか数十センチの「溝」を隔てているだけだった。
ここでは隣同士「寝ながら他国の人と話し合えた」と言われ、寝物語りの里と呼ばれるようになったという。写真3 寝物語の里・美濃と近江の国境
美濃と近江の国境(くにさかい)が幅50センチほどの溝で隔てられているので、「坂の上の雲」などを書いた作家・司馬遼太郎さんは見過ごしたそうだ。
その理由の一つに「国境(くにさかい)の川」という先入観があって、「いかに『小溝』と書かれていても橋ぐらいあるだろうと予断していたのが良くなかった」と、「街道をゆく24近江散歩・奈良散歩」の中で書いている。
また、上記の本に、この寝物語の里の国境ついて江戸時代の方言と通貨について触れている。
近江膳所藩が編んだ『近江国輿地(よち)志略』(輿地とは、地理ということばの、明治以前の言い方)という本が、江戸期に出た。
その本に、「近江美濃両国の界(さかい)なり。と、戸数まで書かれている。家数25軒、5軒は美濃、20軒は近江の国地なり。と、戸数まで書かれている。さらに、この書によると、両国のさかいはわずかに小溝一筋をへだてているだけだ、という。25軒の家が、まさか壁一重を共有する長屋であろうはずもないが、しかし壁ごしで、美濃の人と近江の人とが寝物語する、というところからその地名ができた……
ちょっと話が外れるが、江戸時代の通貨制度では、江戸が『小判何両』というように金本位制で、京・大坂は『銀何匁(もんめ)』というように、銀本位制であった。この金銀の両立(りょうだて)制にあっては、近江は京・大坂圏の銀本位制で、美濃から東は江戸圏で、金本位だった。
『近江国輿地志略』のそのくだりによると、25軒のうち近江側の20軒が銀をつかい、美濃側の5軒が金をつかっていた、というのである。さらには20軒が近江弁で、5軒が美濃弁をつかっていた。方言と通貨に関するかぎり、日本国の東西の境界は、寝物語の里の小溝ひとすじであったともいえる」と。岐阜県と滋賀県の県境 県境がこんな小さな溝で決められたのはどうしてだろうかと、国土地理院の電子国土でこの溝の西側の長久寺から北へ、都・府・県界の記号の一点鎖線を追ってみた。伊吹山ドライブウェイに沿って伸びていて、伊吹山山頂(1377.3m)の東側を抜けて国見峠を通っている。
寝物語の里の溝より南側をたどると、東海道本線線と国道21号を越えると、名神高速道路のトンネル区間になり、今須川に閉口して尾根筋に県界がある。
寝物語の里辺りだけが、平地になっていている。県界の線の全体をたどってみると、尾根や谷筋に設けられていて、たまたま寝物語の里あたりがたまたま平地という地理的条件で設定されたのではないかと思った。
このあたりを、物理学者で、随筆家・俳人でもある寺田寅彦(1878〜1935)さんは、「伊吹山の句について(大正13年2月・潮音)」と題する随筆(寺田寅彦随筆集第2巻小宮と豊隆編、岩波文庫)のなかで、「おりおりに伊吹を見てや冬ごもり」という芭蕉の句に特別な興味を感じて、伊吹山の地勢や気象状態に触れている。
東海道本線のこの区間に積雪が多いことに関連して、「冬季における伊吹山地方の気象状態を考える前には、まずこの地方の地勢を明らかにしておく必要がある。琵琶湖の東北の縁にほぼ平行して、南北に連なり、近江と美濃との国境となっている分水嶺が、伊吹山の南で、突然中断されて、そこに両側の平野の間の関門を形成している。
伊吹山はあたかもこの関所の番兵のようにそびえているわけである。大垣米原間の鉄道線路は、この顕著な『地殻の割れ目』を縫うて敷かれてある」と書いている。芭蕉の句碑 近江中山道を歩いていると、あちこちで芭蕉の句碑に出会う。写真4上段:芭蕉の「おくのほそ道」石碑
下段:「正月も美濃と近江や閏月」の石碑
写真4上段には「おくのほそ道 芭蕉道」と「ほくのほそ道」の細長い石碑とその右側には、「おくのほそ道」の序文「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。……」と長い文章のほかに「行春や鳥啼魚の目は泪」「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ 芭蕉」と俳句2句を含め、文字数の多い石碑が並んでいる。
写真4下段には「正月も美濃と近江や閏月」と彫られている。
芭蕉の句碑や寝物語の里を東へ歩を進めると、宿場町を外れて江戸時代には松並木だった街道は明治時代になってカエデ並木になったという。その中を通って柏原宿へ向かった。(平成22年4月21日)
近江中山道を歩く(関が原宿)[2010年04月12日(Mon)]
3月下旬に、青春18キップを使って中央線釜戸駅から「竜吟の滝と中山道大湫(おおくて)の宿」を歩いてきた。このコースは、JR東海の「さわやかウォーキング」のパンフレットから選んで、いつものハイキング仲間10人で、程よいウォーキングと列車の旅が楽しめた。
青春18キップはJRを利用して遠くまで旅が出来るので、同じ駅に乗車、下車ができる仲間が集まれば交通費が安くあがり、年金生活者には重宝なキップである。
その青春18キップは、1枚の乗車券で利用可能期間中5回(人)まで利用できるが、そのうち1回は使っていたので、残りの4回分を4人で4月6日に近江中山道のうち、関が原→今須→柏原→醒ヶ井の4つの宿を訪ねてきた。
JR関が原駅を降り立ったのが11時過ぎだった。家族連れなど数組はハイキングにこの駅を降りたが、関が原の合戦場を訪ねる人たちばかりで、醒ヶ井まで歩く人とは全く出会わなかった。関の藤川 関が原というと、「関ケ原の合戦」が行われた場所としての方が有名で、駅を降りて国道21号に沿った街道沿いには、「東首塚」、「西首塚」とか「福島正則陣跡」といった合戦跡が史跡として残っていて、その案内板が目についた。
関ケ原付近は京都に向かって右手に「伊吹山」が控え、左手には「鈴鹿山脈」に連なる山々が迫っていて、地形的に「自然の隘路」なっている。
駅から30分ほど歩いて、「不破の関跡」を通り過ぎた谷間に「関の藤川」が流れていた(写真1)。
この小さな川が、天下分け目の「関が原の戦い(1600年9月)」だけでなく、今から1338年前の「壬申の乱」(672)で「天武天皇」と「弘文天皇」が東西に分かれて覇権を争った場所だと、川の右岸側に植わっている満開の桜の際の解説板を読んで知った。 写真1 関の藤川(藤古川)の右岸は桜が満開
それによると、「この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れているところから、関の藤川と呼ばれていること。壬申の乱(672)では、両軍がこの川を挟んでの開戦。更に関が原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上要害の地だったこと」が記されている。
この壬申の乱の後に、藤古川を西限として西城門が、左岸の河岸段丘には不破の関など主要施設が築造されていた。川面と段丘上との高度差は約10〜20mの急な崖になっていて、またこの辺一帯は伊吹と養老・南宮山系に挟まれた狭隘な地で、自然の要害を巧みに利用したものである。
ここは古くから「東西を分ける」重要地点だったのである。不破関 この壬申の乱では東軍の天武天皇方が勝利をおさめたが、それからここは重要な場所として認められ、近くに「不破関」が設けられている。
天武天皇時代には、このほかに、越前に「愛発(あらち)の関」と、伊勢には「鈴鹿の関」を設けているが、「古代三関(さんげん)」という。写真2 不破関跡
天武天皇時代には、この関で通行人などを調べていたが、桓武天皇時代の延暦8年(789)に停廃されて後は関守がおかれた。
その後も重大事件が起きたときなどには何度か臨時の関が設けられ、鎌倉時代から戦国時代にかけて「関銭」が徴収されていたという記録が残っている。歌枕の「関の藤川」「不破の関守」 「関の藤川」の解説には、「この川は古来より歌枕として、多くの歌人に知られ、数知れないほどの詩歌が詠まれたことが、世に知られています」と書いていたので、「関の藤川」、「不破の関守」の歌枕を検索してみると、以下の三首が見つかった。
美濃の国 関の藤川 絶えずして君に仕へん よろづ代までに
古今集
葺き替へて月こそ漏らね 板びさし とく住みあらせ 不破の関守
みのの国 せきの藤河 たえずして 君に仕えん 万代までに
古今和歌集
黒血川、鶯の滝
藤古川から西へ15分ほど歩いて国道を横断して、関ヶ原町山中という集落に入ってくると、黒血川と解説板が目にとまった。
上記、壬申の乱(672)で、「この集落の山中の地では両軍初の衝突が起きて、このときの激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことからこの名が付いた」と、その時の凄い様子だったことを今に伝えている。それより以前はこの集落の名である山中川と呼ばれていたという。
黒血川を渡ってすぐ左手に「鶯の滝」の解説板の下を見ると、高さ5メートルほどの滝があった。
写真3 鶯の滝(関が原町・山中)
この集落は、中世(鎌倉・室町期)の山中は旅人も泊まる宿駅として栄えていたそうで、近世(江戸時代)なると、関が原・今須宿の間の村として、人足が駕籠や馬を止めて休息した立場や酒屋・餅菓子屋・果物屋・古手屋などが軒を連ね、活気を帯びていたという。
年中鶯が鳴くとも書いていたが、ここを通ったのが12時半では鶯も昼休みしていたのかもしれない。
今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれる恰好の場所だったとか書いていたが、今ではこの先の常盤御前の墓所と芭蕉の句碑のある公園が、一息つくには格好の場所で、ここで昼食をとった。
常盤御前の墓所と芭蕉句碑
常盤御前は当時「都一の美女」と言われ、16歳で「源義朝」の側室となった常盤御前は「今若、乙若、牛若」の三人の子供を生んだ。
しかし、義朝が「平治の乱」で破れると「平清盛」に捕われ、しかたなく清盛の側室になったという。
伝説では、鞍馬山で修行していた「牛若丸」(後の義経)が鞍馬山を降りて東国に下ったと知らされ、乳母の千種と共に義経の後を追ってきた常盤は、この付近で土賊に襲われ、無念にも息を引き取ってしまったと言われている。
その後、里人がその死を哀れんでここに葬ったと言われ、ここには五輪塔や常盤御前の墓と伝わる「(ほうきょういんとう)」が並んでいて、そばには「芭蕉句碑」も建立されている。
写真4 常盤御前の墓所と芭蕉句碑
「義朝の 心に似たり 秋の風」
今、ここに立つと秋風が吹きすさんでいるが、この感じはあの義朝が平治の乱で敗れ去り、最後は尾張で家人に殺されてしまった心とどこか似ているかもしれない、といった意味だという。
写真5 芭蕉句碑と化月坊の解説板
今須峠
常盤御前の墓所を出て、緩やかな山道に差し掛かった。鉄道の架線とトンネルが見えたが単線だったので、まさか東海道本線とは思えなかった。トンネルはレンガ造りで明治時代の構造物と推察できた。この区間が上下線分離しているわけを調べてみた。
長浜関ケ原線(homepage1.nifty.com/naro/haisen/nagahamasen.htm)によると、
「この路線は、伊吹山麓の地形や冬季の深雪による隘路であった。明治22年、米原から関ヶ原を経由する東海道線が開通した際、運輸営業を休止。明治33年、柏原駅が新設され、最大の難関である今須トンネルが完成し、複線化も実現、東海道線は現在線となる。明治33年2月、長浜・関ケ原間は廃止となる。線路が撤去された跡は、新しい北国街道が生まれ現在の国道365号線となる」と書いている。
明治33年に最大の難関の今須トンネルが完成して複線化するまで、10年強は単線区間であり、今でも上下線分離しているのはその名残なのだろう。
それにしても、「今須峠」を越えたという感覚はなかったが、この付近、日本海から直接季節風が吹き込んでくることが多く、伊吹などにぶつかって大雪になることが多いという。
今でもこの付近を通過する「東海道新幹線」にとっては難所の一つで、毎年冬になると積雪が多く、列車遅れの原因にもなっているし、上記の鉄道の歴史からも納得できた。
昔の人は「鶯の滝」あたりが、この峠を上り下りするのに一息つくのに恰好の場所だったわけも分かったが、季節の良い桜が咲いている時期に歩いたので、ただの坂道ぐらいにしか感じられなかった。
なお、この記事を書くに当たって、上記に記載したネットのほかに、「誰でも歩ける中山道六十九次(日殿 言成 著::文芸社)を参考にした。
近江中山道として、関が原から醒ヶ井までを一つにまとめて書くつもりだったが、調べていくうちに、関が原だけを書くことになってしまった。
次回は今須宿をまとめることにしたいと思っている。
(平成22年4月12日)