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第75話 元山上口駅から千光寺を経て暗峠を下る[2014年06月22日(Sun)]
 今年の梅雨入りは早かった。平年差に比べて3日早く6月4日ごろだという。その6月4日にいつものハイキング仲間7人が元山上口で集合し、近鉄の「てくてくまっぷ・千光寺・鳴川峠コース」を歩いてきた。
 午後から雨の予報が出ていたので、皆が早く集合していて予定時間より30分も早く出発できた。

 集合場所の「元山上口駅」には、幹事からの案内に「もとさんじょうぐち」とひらがなでも書いてくれていて助かった。
 駅を出たところに「役行者御旧跡女人山上道 元山上 千光寺」(写真1)があり、役行者にゆかりの道だと知った。

IMG_2801.JPG


写真1 女人山上道の道標


 女人山上道のいわれ

 千光寺で自伝を読むと「役行者(小角)は、今から1380年前の舒明天皇6年(634)に、大和国葛木上郡茅原の郷に生まれたというから、蘇我氏が滅び、大化の改新が始まって頃の時代である。660年頃、生駒明神に参詣のとき、ご神託により役小角は鳴川の里に入り、小さな草堂を建て、漆の木で千手観音を刻み、日夜 荒行に励まれたとのこと。その小角の身を案じた自専女(母)は、従者と共に鳴川の里に登り、小角と共に修行していたが、小角が多くの山々の中に不思議な光を放つ山を見て霊威を感じ、母を鳴川に残して熊野から大峰山系に入り 山上ケ嶽に登りここを修行根本道場と定めた。役行者の母・自専女は鳴川の里に残り修行を続けられ、後世の人々が鳴川千光寺を“元の山上”と呼び、“女人山上”と称し、女人の修行道場として栄えた」という。

檪(イチ)原川沿いを登っていく

 木篇に楽と書いた比較的簡単な文字だのに読めなかったので、畑仕事をしていた老人に尋ねると「イチ」と応えてくれたが、「木の名前に『イチ』なんてあったかな?」と首をかしげるばかりだった。

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写真2 檪原川沿いを歩く


 シャッターと景色を見ながらデジカメのシャッターを押しながら歩くだけだったが、一休みの時老眼鏡でマップを見て檪原川沿いに流へ登って行っていることがわかった。
 この山上道の周辺には竹藪がはびこっているが、ほとんど放置された竹林になっていた(写真3)。

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写真3 放置された竹林


 だんだんと道幅が狭くなってきた。頭上に谷間を跨いだコンクリート橋が見えた。
 こんな山中の谷間に比較的長いスパンのPC橋が架かっていて幹線道路のルートでもあるまいと思いつつ、帰宅して調べてみた。信貴生駒スカイラインだった。生駒山地を南北に貫く峠道で、昭和30年代に開通している有料道路である。

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檪原川の谷間を横過するPC橋


 谷間を跨ぐ橋の下をくぐった先で前方から来た女性に出会った。
「千光寺はまだ先ですか」と尋ねると「この先に清滝石仏群の磨崖仏があり、きれいなところですよ。そこからもう少しで千光寺です」と教えてくれた。

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写真5 谷間を跨ぐ橋の下あたりは狭い山道


 狭い山道(写真5)の先に、清流に架かった小さな橋が見えた(写真6)。「渡ることができるな」と思うほど細い鋼鉄製の太鼓橋で床の板は腐食しているものの、渡れないことはなかった。

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写真6 渓流に架かった橋


清滝仏像群とゆるぎ地蔵

 橋の前方に磨崖仏(露出した岩層面に彫刻された石仏)で、浮彫の仏像が見えた。(写真7)。
 大きな石の中央の四辺形の中に、5体の小さな仏像が彫られていた。

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 写真6 橋の前方に浮彫りの五尊仏


 以前、剣尾山(能勢町と亀岡市)に登ったとき、線刻の磨崖仏をみていたので、あたりを見回すと、線刻の磨崖仏もあった。(写真7)

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写真7 線刻の磨崖仏


 これらの磨崖仏は平群町指定文化財・清滝石仏群で、そのホームページによると、中心となる線刻地蔵立像(写真7)は、「八尺地蔵と呼ばれるが、実際はさらに大きく、総高3.37m、仏身が2.9m あり、頭光月輪径は1.0mを計る。蓮華座上に立ち、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ姿で、頭部は薄肉彫りで、他を線刻で表現している。銘はないが、その意 匠から鎌倉中期の優品である」と紹介している。

 千光寺に近づくと、狭い谷間に瓦屋根の比較的新しい民家の集落が広がっていた。(写真8)

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写真8 千光寺近くの集落


 曲り角に「平群町指定文化財ゆるぎ地蔵」とあり、デジカメに記録しておいた。(写真9)

 平群町のホームページによると、「紀年銘から元寇・弘安の役(1281年)に際して国家的危機を回避するために立てられた尊像と考えられる。その後、造立の意味が忘れられ、信心すると病気などの痛みが揺るぐ(消える)との身近な信仰が生まれ、今日の呼び名となっている」と書いていて、このお地蔵さんは、今から730年ほど前に立てられたようである。

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写真9 平群町指定文化財・ゆるぎ地蔵


 ゆるぎ地蔵あたりは平群町鳴川集落の最奥にある。
 千光寺は、女性も修行ができる“女人山上”として栄えたという。のちに天武天皇12年(683)、勅願により伽藍を建て、千光寺と改め、かつては多くの塔頭があったが、室町時代の1540年頃(天文年間)兵火にかかって、1580年頃(天正年間)松永久秀に寺領を没収され、自然に伽藍も衰退していった。

 千光寺境内

 元山上駅を10時に出発して11時過ぎに千光寺山門(写真10)に着いた。

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 写真10 千光寺の山門


 山門への階段の両側には同じ姿の寄進された座像がびっしりと並んでいた。(写真11)

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写真11 階段の両側に寄進された役行者の座像


 おそらく役行者の像だろうと思い、図書館で「修験同の開祖・役行者その足跡に迫る(伊藤松雄著・文芸社)の表紙と同じ姿だった。
 平凡社の世界大百科事典によると、「役行者の画像や彫刻は数多く作られたが、その姿は僧衣に袈裟をまとい、長いひげをたくわえ、手には錫杖を持ち……」とあり、上記本の裏表紙(写真12)に模した座像が、50体はあろうかと思われた。

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写真12 役行者座像(文芸社の本の表紙から)

 役行者について

 関西の身近なハイキングコースを歩いていると、役行者が修業した場所とか、ゆかりのある寺に遭遇する。

 身近なところでは、箕面大滝の道すがらの瀧安寺は、上記「修験道の開祖・役行者(伊藤松雄著・文芸社)によると、「斉明天皇4年(658)、役行者は大滝の下で苦修練行をし、弁財天の助法を受けて、ついに悟道し、そこで、役行者は報恩のために滝のそばに堂を建て、弁財天を祀り、箕面寺と称したのがこの寺の起源で、開基は役行者である」という。

 千光寺を訪れたのを機会に、世界大百科事典(平凡社)から引用してみると、「7世紀末に大和国の葛城(木)山を中心に活動した呪術(神や精霊などの超自然的力や神秘的な力に働きかけ、種々の願望をかなえようとする行為、および信念)者、生没年不詳。役小角、役君(えんのきみ)などとも呼ばれ、後に修験道の開祖として尊崇される。
〈続日本紀〉によると、699年(文武3)朝廷は役君小角を伊豆国に流した。葛城山に住む小角は、鬼神を使役して水を汲ませ、薪を集めさせるなどし、その命令に従わなければ呪術によって縛るという神通力の持主として知られていたが、弟子の韓国連広足(カラクニノムラジヒロタリ)が師の能力をねたみ、小角が妖術を使って世人を惑わしていると朝廷に讒訴(ザンソ:他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること)したために、流罪が行われたという。

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 絵 北斎漫画に描かれた役行者と前鬼と後鬼(世界百科事典引用)


 葛城山一帯には、古くから一言主神をまつる努勢力が蟠踞(バンキョ:その地方一帯に勢力を張っていること)し、大和朝廷に対して微妙な関係にあったと考えられるが、役小角はその葛城山に住む呪術師であり、韓国連広足はその名から考えて、外来の呪術を伝える者であったと想像される。
〈続日本紀〉編纂当時、役小角の名は世間に知られていたようであるが、少しおくれて平安時代前期に書かれた〈日本霊異記〉には、まとまりのある役小角の説話が収められている。

 平安時代中期以降、役小角の説話は《三宝絵詞》〈本朝神仙伝〉〈今昔物語集〉などに収められ、鎌倉時代に入っては《古今百因縁集》《私聚百因縁集》《元亨釈書》などに、くわしく記されるようになった。それらの説話の中で役小角は、役行者と呼ばれて修験道と深く結びつけられるようになり、その修行地は生駒山、信貴山、熊野などにひろがり、やがて全国各地の修験道の山が、役行者の聖跡とされるようになった」以下略。


 今回のハイキングでは、「てくてくまっぷ」に沿って鳴川峠(標高450m)から平岡神社へ行く予定であったが、暗峠の方が歴史的に魅力的に思われ、このルートで下山した。近鉄額田駅には2時過ぎに着いた。
 生駒駅前の飲食店街での反省会で2時間ほど喉を潤おした。その飲食店街にツバメの巣があり、壁や天井に渡された棒にとまっていた。最近近くでツバメを見る機会が少なかったので、電車を1台乗り過ごして撮った。(写真13)

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写真14 生駒駅の飲食店街のツバメ


 長くなりすぎたので、暗峠のことなどは次回に回すことにした。

(平成26年6月22日)



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