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第44話 ヒガンバナが満開[2010年10月01日(Fri)]


 この数日前から近くの公園などでヒガンバナが満開になっている。つい最近のニュースによると、今年は異常な猛暑で例年より1〜2週間ほど遅いそうだ。

 ネットのヒガンバナの開花情報で検索してみると、熊本国府高等学校PC同好会が2003年から毎年開花を調べている資料を見ると、「ヒガンバナの開花は日平均気温20〜25度が目安らしい」と書いていた。

 暑い夏が収束して「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、毎年秋分の頃から能勢辺りのハイキングに出かけているが、ヒガンバナはその時期に、田の畦や土手や墓地など人里付近で見かけるだけだった。
 ここ数年の間に、箕面市街地の田んぼの、あぜ道でもない、近所の公園でも見かけるようになった。

ネットには「ヒガンバナの球根は7〜8月にしか売られず、それ以外の時期では入手しにくいので注意が必要」と書いているので、これら近くの公園のこれらの花は球根を移植して増えていったのだろうか。

 近くの公園で咲いているヒガンバナの写真を撮ってきたので取り上げてみた。


ツバキの植樹帯にたった1本の花

 アートアベニューの遊歩道の一部はナンキンハゼの並木道になっている。

 そのナンキンハゼの高木の間に低木のツバキが密集して植わっている。そのツバキの葉っぱからたった1本だけのヒガンバナの花が顔を出していた(写真1)。     



写真1 ツバキの茂みから1本だけのヒガンバナ


 この辺りに数本のヒガンバナが密集して咲いているので、ツバキの茂みにまで球根が増えていったのだろう。

フェンスと側溝のわずかな隙間にびっしりと!

 写真2のフェンスの右側の斜面にはアジサイがたくさん植わっていて梅雨時期に大輪の花を見事に咲かせている。水遣りしている人を見かけることがあるので、花を愛する人が世話をされているのだろう。

 フェンスの左側は側溝になっているが、そのわずかな隙間に、ヒガンバナがびっしりと満開になって咲いていた。




写真2 側溝のわずかなスペースに満開のヒガンバナ


ヒガンバナにアゲハチョウが飛来して!

 この密集した花に2羽のアゲハチョウが飛来してきた。
 落ち着きなくあちこち動き回るので、狙い定めるのが難しかったが、ズームを使ってなんとか撮ることができた。

 燃えるような赤色のヒガンバナに黒白模様のアゲハチョウのコントラストが鮮やかにおさまった。




写真3 ヒガンバナにアゲハチョウが飛来して!


ヒガンバナを真上から見てみると?

 この首の長い花の写真を撮るとき、30cm〜50cmの細長い花茎に目線がいくので、茎を含めた全体に写すようになりがちだ(写真4)。



写真4 数本の群れで咲くヒガンバナ


 たまたま群生した花の中で一輪だけ離れていたのを見つけたので、真上から撮って見た。花火のように、思い切り火花が散ったような見事な模様が撮れた。



写真5 ヒガンバナを真上から撮る


 この花の詳しい説明ができないので、Yahoo百科辞典「ヒガンバナ」からその一部を引用してみると、「散状に緋紅(ひこう)色花を5、6個横向きに開く。花被(かひ)裂片は倒披針(とうひしん)形で長さ約4センチメートル、幅5〜6ミリメートル、強く反転し、基部に鱗片状の福花冠がある。雄しべ、雌しべともに花被裂片よりはるかに長く、弓状に上向きに曲がる」と説明している。


赤系の色

 上記に出てくる緋紅とは、どんな赤色なのかを調べてみた。三省堂大辞林に【▽朱/▼緋】(あけ)「(1)赤い色。緋色(ひいろ)・朱色・紅色などを含む」。【▼緋】(ひ)「濃く明るい赤色。深紅色」と説明している。



 今年の夏は、平成6年8月の12日間連続の記録を更新して、35℃を超える猛暑日が13日間連続猛暑日の記録となったが、9月中頃からようやく初秋らしくなってきた。

 1〜2週間遅れで咲き出したヒガンバナは、箕面の市街地では彼岸を過ぎて10月になって見ごろとなって秋らしくなってきた。



 暑い暑いと動き辛かった季節が去って1年で最も動きやすいなり、暑かった夏の遅れを取り戻すつもりで、大いに活動したいと思っている。


(平成22年10月1日)
第43話 「第18回メキシコ文化の夕べ」箕面2010に参加[2010年09月26日(Sun)]



 近所の教授(千里ロータリークラブ会員)から、メールで「メキシコ文化の夕べ」の案内チラシを受け取った。
「箕面市NPOメキシコ友の会」のこの催しに参加するのは、昨年・一昨年に続いて3回目になる。
 今までは箕面市メイプル大ホールが会場だったが、今年は9月22日に「箕面観光ホテル」で開催された。


昨年は日本とメキシコの交流400周年

 昨年(2009年)は日本とメキシコの交流400周年という記念すべき年だった。
 「日本・メキシコ400周年記念」を外務省のホームページで見てみると、「1609年9月、フィリピン諸島総督ロドリゴ・デ・ビベロを長とする一団の船は、ヌエバ・エスパーニャ(当時のスペイン領メキシコ)への帰国途中、千葉県御宿沖で遭難し、村人の献身的な救助により、乗組員317人が救出されました。

 ビベロ一行は地元城主や村人からの暖かい歓迎を受け、その後、徳川秀忠及び徳川家康に謁見しました。翌年、徳川家康がビベロ帰国のため造らせた船はメキシコに向けて出航。ビベロと共に渡航した京の商人田中勝介他20数名の日本人は、メキシコを訪問した最初の日本人となりました。
 我が国の時の為政者とメキシコからの政府高官が対面し、初めての会談が行われた意義は大きく、2009年はそれから400年目にあたります」と紹介されている。


箕面市とメキシコとの交流

 400年前に千葉県御宿町沖で遭難したメキシコの乗組員を、村人の献身的な救助がきっかけだから、地元千葉県との国際交流ならわかるが、箕面市とメキシコのクエルナバカ市とはどんなきっかけかは知らなかった。

 入口でもらった「箕面メキシコ友の会のプロフィール」によると、箕面市国際交流協会が1992年からメキシコ・クエルナバカ市にあるモレロス大学で日本語を学ぶ学生たちを、毎年箕面での日本語学習のため受け入れてきたことに始まるという。このプログラムを生活面で支えるホストファミリーから、「箕面メキシコ友の会」を作って発展してきた。

 メキシコの国土は196万4375平方キロメートルというから、日本の国土面積37万8千平方キロメートルの5倍強もある。国土の大部分は山地と広大な高原からなるが、クエルナバカ市は、首都メキシコ・シティーの南方のモレロス州の州都である。
 そのモレロス大学で日本語と日本文化の教鞭をとられていた深原先生が箕面市在住で、大阪外語大学が箕面市にあるという好条件がきっかけで、今日に至っているという。


とにかく情熱的でにぎやかな夕べ!

 開演は6時半から始まったが、30分ほど遅れて行ったときには、第1部の「メキシコ ラサイエ大学音楽隊」の演奏が始まっていて、ラテン音楽でよく耳にする「ラ バンバ」を演奏していた。



写真1 ラサイエ大学音楽隊の演奏


 いつもは市民参加のダンスパーティーはプログラムの最後なのだが、第1部のラスト曲「もうお別れ」の演奏が始まると、舞台の前に出て来日したメキシコ人、在日メキシコ人に日本人の老いも若きも、幼い子までが加わって踊り始めた。隣りに座っていた年配の女性も促されると、すんなりと立って踊りに加わっていた。

老人の踊り

 前回、前々回の時の民族舞踊では、民族衣装を着た男女が、メキシコ音楽に合わせて踊る演目だったのだが、今回は今までと踊りと違っていた。

 写真2でわかるように、老人のお面をつけ、腰を曲げた4人がゆったりした単調な音楽に合わせて舞台を回る踊りで、リズムに合わせて歩調をとる風変わりな民族舞踊だった。途中でだんだんとテンポが早くなっていき、最後は舞台で転ぶ年寄りの姿がなんともユーモラスだった。お面を取ったら、モレロス大学箕面研修生の若者で、女性の学生一人が加わっていた。




写真2 民族舞踊「老人の踊り」


「マリアチ アガベ」の演奏

 「マリアチ アガベ」の6人のメンバーは、昨年と同じ顔ぶれだった。つばの広い帽子を被って、それぞれに違った楽器を奏でながら、声量のある歌を聞かせてくれた。

 曲目紹介はスペイン語だが、日本語も交えて話してくれて、昨年より日本語で話す言葉の数が多くなっていた。
 「ラ・マラゲーニャ」「シェリト・リンド」といった馴染みのメキシコ音楽に加えて、美空ひばりが歌っていた「川の流れのように」もスペイン語に加えて日本語の歌詞でも歌っていた。              




写真3 マリアチ アガベの演奏


 マリアッチはメキシコを代表する楽団の様式である。マリアッチは7ないし12名で編成される楽団である(ただし、人数に上限は無い)。ビウエラ、ギター、ギタロン、バイオリン、トランペットは欠かせない楽器とされ、これらにフルートやアルパが加わる事もある。アコーディオンは本来マリアッチに使われる楽器ではないが、メキシコ以外ではしばしば用いられている(フリー百科事典「ウィキペディア」)。

 「マリアチ アガベ」では、左からアコーディオン、ヴイオリン、トランペットと、右端のギターはなじみの楽器だから直ぐにわかったが、右から2番目と3番目はギターのようでもあるが、大きさがちょっと違っていたので、検索して調べてみた。

 右から2番目のギターより少し小さい楽器は、ビウエラだろう。スペインの古楽器でビウエラはビオラと同じ語源で、ネックの付いた弦楽器の幅広い総称でもある。だからビウエラと呼ばれる楽器は古来よりいろんな形状がある(「私家版楽器辞典/楽器の種類」引用)。
 メキシコの楽団、マリアッチで使われているビウエラは5弦または6弦でギターを小さくしたような楽器だ。
 3番目のギタロンで、「ギターを大きくしたような楽器である。ギターよりも低い音(5度下の調弦)を有する」とわかり、マリアッチのことが少し勉強できた。


市民参加交流 ダンスパーティー

 第1部から第3部までの演奏や民族舞踊も楽しいが、最後に会場いっぱいに繰り広げられるダンスパーティーを楽しみに参加している人たちも多いと思う。

 盆踊りのように、手拍子や振り付けがあるわけでなく。陽気なメキシコ音楽の演奏に合わせて腰を振り振りしたり、手を上げ下げしたりで難しくないから、年配のおじいちゃんも輪に加わって楽しんでいた。 




写真4 市民参加のダンスパーティー

 箕面市とメキシコ・クエルナバカ市とは平成15年10月に国際友好都市を締結していてお互いの市民間交流も盛んで、来春にメキシコ旅行が計画されているという。

 スペイン語で話されるとほとんどの参加者はチンプンカンプンだろうが、馴染みのラテンの曲の生演奏と陽気な踊りで、年寄りから幼い子まで陽気になって気持ちよく過ごせたのではないだろうか。


(平成22年9月26日)
第42話 加太越えのトンネル番[2010年09月19日(Sun)]


 小学生だった昭和20年代、通学路に阪急電車の踏切を渡る箇所があった。電車が通過する前に警報機が鳴って、人や車を遮断して電車を優先して通過させるために遮断機が下りてきて電車の通過を待った。
 今ではセンサー技術が発展しているから、電車が通過する前に警報機が鳴るとともに、自動的に遮断機が下りてくるが、当時遮断機は人力で回転装置のワイヤーを回して上げ下げしていた。遮断機の際に小屋があって踏切番のおじさんが常駐していた。
踏切番は踏切の安全を確保するための番人だが、トンネルの番をするトンネル番という職業があったのを知ったのは今から7年前だった。


碓氷峠の「アプト式」

  平成15年の初夏、土木工学を学んだ同級生4人で、信越本線廃線の「アプトの道」を歩いてきた。
 写真1はアプトの道の中でも代表的な構造物である、通称「めがね橋」と呼ばれるレンガつくりの鉄道アーチ橋で、国内最大級の規模を誇り、廃線となって今日でも昔の面影を残した観光名所になっている。




写真1新緑映える「めがね橋」(03年5月19日撮影)


 「アプト式」とは、線路の中央にぎざぎざのついたレール(ラックレール)を敷き、これと機関車の歯車を噛み合わせて急勾配を登っていく方式である。この方式で信越本線の横川〜軽井沢間11.2kmを最急勾配66.7‰(水平距離1000mに対し66.7m登る勾配)で碓氷峠を越すことにより、京浜地区と裏日本を最初に連絡することが出来た。
 この区間には長短26のトンネルがあり、明治26年4月に開業してから明治45年5月に電化されるまでの間は、この急勾配をもうもうと煙を吐き出す蒸気機関車が走っていた。


碓氷峠のトンネル番

 旧信越本線の碓氷峠の廃線跡「アプトの道」を歩いたのがきっかけで、近代化を急いだ明治政府が鉄道馬車時代を経て、この険しい山岳地帯にどのようにして鉄道ルートを選定したのか、などの資料を調べて「アプトの道をゆく」を約20ページにまとめた。

 資料には「横川を出た機関車はみんなものすげぇ煙をだすべぇの。あれはな、火夫が、石炭をカマにぼこぼこほりこんでるからなんさ。カマをがんがん焚いて、蒸気の圧力を目いっぱい上げるんだ。そうやって全力をふりしぼって峠にかからなきゃあ、この峠を越すことはできゃしねえんだ」1)とトンネル番親子の会話が出てくる。

 トンネル内でも機関車は黒煙を吐きつづけるため、トンネル内では大量の煤煙と排気蒸気の熱気で一杯になってしまう。加えて、トンネル内では、空気が低いところから高いところへ流れるので、峠の坂を登るときは、煙突の中を走り抜ける状態になってしまう。
 日本一急勾配の碓氷峠を越えるこのアプト式蒸気機関車による登坂では凄まじい煤煙と熱に乗務員も乗客も苦しめられ、乗務員の窒息失神事故も発生した。

 当時の記録には「列車ガ一旦随道内ニ入ルヤ、車輪ノ軌音ハ排気ノ音響ト合シテ轟々ト耳ヲ聾シ、黒煙ハ蒸気ト混ジテ濛々トシテ息ヲ圧シ、旅客ノ苦痛不便ハ言フニ忍ビズ、殊ニ灼煙セル汽缶ノ前ニテ蒸気ト悪ガス裡に従事スル乗務員ノ吐血、又ハ窒息の惨事モソノ例ニ乏シカラズ・・・・・・」2)と書いている。




写真2 アプト式中尾橋より17号隧道へ進入の景(明治35年頃)3)


 機関士は顔を低く下げ、タオルで口や鼻を覆い、煙を避けながら運転した。だから、熊の平駅で列車から降りてしまって乗車を拒んだり、煤煙に苦しめられるよりは歩いたほうがましと熊野平から軽井沢まで徒歩を選んだ乗客もいたという。

 鉄道庁では、トンネル内での煤煙が乗客にまで危険が及ぶ恐れがあるため、排煙幕を設置した。これはトンネル入り口に隧道(トンネル)番を配置して列車がトンネル内に入りきると、すかさず大きな布でトンネルを遮断してトンネル内に外気が侵入しないようにした。布幕で入り口を防ぐことにより、列車の最後尾の空間が真空に近い状態になり、煤煙はそこに滞留する仕組みである。
 トンネル内に空気が吸い込まれないから、煙は列車の前へ流れにくくなり、列車は煙より先を走ることになり、実際に効果があったようである。列車がトンネルをぬけた頃に幕をあけて、煙を外に出して次の列車にそなえた。
 排煙幕が設置されたのは26のトンネルの内20箇所、トンネル入り口に官舎が建てられた。そこに隧道番とその家族が住み込んだ。トンネル1箇所に2名が配置され、1日交代で1人1昼夜勤務の体制だった。
 当時官営鉄道で働くことは庶民の憧れであったというが、仕事は相当過酷なものだったようだ。昼夜ぶっ通しの勤務に交代要員が病気だったりすると、何日も1人で幕引きをしなければならなかった。
 幕引き自体もかなり難しい作業で、列車の最後尾が入ったと同時に幕を引かなければ、列車の風圧で幕が吸い込まれてしまったり、引きずられてトンネル番が宙づりにされてしまうこともあったらしい。さらに冬になると雪で幕が凍りつき、閉まらなくなったこともしばしばあったという。




写真3 碓氷第一トンネル入口に立つトンネル番(交通博物館所蔵)3)
写真3のトンネル入口右側の際に制服を着たトンネル番の立っている姿が見える。

 写真3にはトンネル入口右側の際に制服を着たトンネル番の立っている姿が見える。

加太越えのトンネル番

 「アプトの道をゆく」をまとめていたとき、昭和30年から4年間名古屋から大阪へ帰省するとき利用していた関西本線でも、25‰の加太越えにトンネル番がついていることを知った。

 「加太トンネルの貫通は明治22年(1889)10月7日である。開業は前述のように同年12月25日だが、蒸気機関車の煙が、乗務員や乗客を苦しめた。そこで、列車がトンネルに入った直後坑口を幕で塞ぎ、煙が列車の進行方向へ流れないようにする『幕引き』が行われた。碓氷峠でも使われた方法である。

 碓氷峠では、大正時代に全列車が電気機関車牽引に切り換えられた際、この方式は必要なくなり廃止されたが、加太トンネルでは、蒸気機関車が全廃された昭和47年(1972)まで続いた。なお、最後の頃は、幕は電動式になり、作業は昔に比べれば楽になっていたようだが、人家が他にまったくない山中の小屋に1人で泊まり込み、黙々と幕の操作をする仕事も、精神的にはかなりきつかっただろうと想像している」4)と書いていた。
初めて関西本線に乗ったころの昭和30年弟には、当然機関士や乗客を煤煙から少しでも守るために、トンネル番が張り付いていたのである。




写真4 加太越えを走る(10年8月31日気動車から撮影)


 8月末に青春18キップを使っての車内で、古参の車掌に加太越えのトンネル番のことを尋ねたが、中在家信号場は話してくれたが、トンネル番のことは知らなかったようだ。

 気動車の最後尾から、トンネル番の痕跡はないかとデジカメで撮ってパソコンで拡大してみたが判らなかった。

 上記加太越えトンネル番で引用した「鉄道考古学を歩く」にトンネルの垂れ幕の痕跡の写真が掲載されていた。




写真5 加太越えのトンネルに残っている垂れ幕を上下させるモーター5)


 俳人・中村草田男さんの「降る雪や明治は遠くのなりにけり」という俳句があるが、信越本線碓氷峠のトンネル番は、明治45年の電化でその職業は消えていって遠い存在となったが、未だに単線で電化されていない加茂〜亀山までは1973年9月30日、無煙化になるまでトンネル番という職業が存在していた。

 堀地和夫写真集「関西本線のSL」で見るデゴイチ(D51形蒸気機関車)が真っ黒な煙をはいて加太越えをしている勇壮な写真を見ていると、関西本線では「トンネル番 デゴイチとともに消えて行き」と、蒸気機関車が走らなるまで、世間ではあまり知られていないトンネル番の職業があった。

 鉄道の歴史の中でも、橋梁番、トンネル番、踏切番といった職業は、技術の進展にともないなくなっていった。

参考資料
1) インターネットより「碓氷線『鉄路 峠を越える』より(隧道番の家族)」
2)「碓氷峠の歴史物語」小林 收1997年8月 株式会社 櫟(いちい)
3)「信越本線横川駅周辺鉄道文化財調査報告書」平成2年3月(交通博物館所蔵)
4)「絵葉書にみる懐かしの鉄道―上越・中央線編」白土 貞夫著、ほおずき書籍
5)Can Book 「鉄道考古学を歩く」浅野明彦 1998年4月 JTB
6)イロネBOOKS 011「峠の鉄道物語箱根&碓氷越え」 きむらけん著 
7)土木学会誌付録「土木モニュメント見て歩き」土木学会誌1991年12月発行
8)「碓氷線 アプトの道」 浦野 護編 1998年8月発行 あかぎ出版
 9)インターネットより「碓氷線概史―66.7の軌跡」


(平成22年9月19日)


第41話 関西本線の思い出[2010年09月15日(Wed)]


 8月30日から1泊で、ハイキング仲間11人と青春18キップを利用して、鳥羽の答志島へ行ってきた。行き帰りとも大阪・亀山間は関西本線を利用した。亀山から紀勢本線に乗換え、多気からは参宮線の終点、鳥羽までのローカル線の旅だった。

 かつて関西本線というと、国鉄時代には名古屋まで行くのに東海道本線と関西本線とではあまり時間差がなく利用してきた。
 東海道本線のバイパスとして機能した時代もあり、東京から湊町(JR難波駅の旧称)直通急行「大和」なども走っていた。

 国鉄民営化以降、今では亀山でJR東海とJR西日本に分割されたためだろうか、関西本線の湊町(現在はJR難波)から名古屋までの直通電車は1本もなく、ローカル線になってしまった。

 今回の関西本線の乗車区間は天王寺から亀山までで、加茂までは複線で電化されていたが、加茂からは2両連結の気動車(ディーゼルカー)だった。




写真1 加茂駅で電車から2両の気動車へ乗換え


 加茂から亀山まで最後尾の車掌室横の窓からこの単線区間の線路や景色を眺めながら、初めて乗った関西本線のことを思い出していた。

昭和30年3月に初めて乗った関西本線

 昭和30年は戦後のどさくさからようやく立ち直りかけた高度成長期に向けての助走の年だったが、大学受検のときに米を持参したのか、米穀通帳を提出したのか定かに覚えていないが、とにかく未だ食糧難だった。
 宮城マリ子の「ガード下の靴みがき」や林伊佐緒の「高原の宿」、青木光一の「小島通いの郵便船」が流行っていた頃だ。

 戦後の食糧難で毎年夏休みと冬休みに一人で、父の故郷の福知山へ食いのばしで出かけていたが、昭和20年代後半になると、列車もようやく落ち着きを取り戻したころだった。

 今から55年前の昭和30年の3月末に、初めて関西本線に父と一緒に乗った。4月からの名古屋での下宿生活を送るに当たって、下宿のおばさんへの挨拶を兼ねた旅だった。

 昭和25年10月1日改正の時刻表をみると、名古屋を午前6時に出た急行(後の「大和」)は9時27分に湊町に到着していて、名古屋・大阪間を関西本線の急行の所用時間は3時間27分だった。1日3往復していた準急は3時間37分だった1)。
 ちなみに、鈍行列車では5時間15分を要したから、昭和30年に初めて乗った列車は準急だったのだろう。

 列車内では父は仕事で全国各地に出かけていて、旅なれていたので乗車後直ぐに眼鏡にハンカチをかけて寝てしまった。
 初めて行く名古屋で生活を始めるための旅で興奮していたのであろうか。トンネルに入ると蒸気機関車からの煙が窓のすき間からもくもくと侵入してきた列車内の様子を今でも鮮明に覚えている。

 その後の4年間は、大阪へ帰省するとき行きは東海道線を、名古屋へ戻るときは関西本線を利用した周遊券を使うことが多かった。

 関西本線の蒸気機関車の写真がないかと探していたら、堀地和夫写真集「関西本線のSL−1972年―」をみつけた。




写真2 大河原駅―月ヶ瀬口駅間(関西本線のSLから)2)


関西本線の歴史

 関西本線の歴史を見ると、「関西本線のルーツを探ると二つの私鉄、関西鉄道と大阪鉄道であった。関西鉄道は明治22年12月、まず草津−三雲間が開業し、28年11月名古屋まで全通した。その後柘植から奈良方面へ線路を延長し32年5月開通した。

 一方大阪鉄道は明治22年5月まず湊町−柏原間が開業し、25年5月奈良まで全通した。関西鉄道は大阪鉄道を買収し、明治40年10月国有化され、関西線となる。
 関西本線の電化は昭和48年奈良−湊町間、57年名古屋−亀山間、59年木津−奈良間が完成している」3)と書いている。

 関西線が滋賀県の琵琶湖に臨む草津からスタートしたのは、「この鉄道の発起人が滋賀県の人々で、もともとは大津と名古屋を結ぶ鉄道として計画されたものだからである。
 東海道線全通は22年7月1日のことで、官設鉄道と競合するにもかかわらず免許が下りた理由は、三重県や滋賀県の地域交通としても必要な路線であることが認められたからであった」4)と書いている。


柘植から関までの急勾配

 関西本線JR難波〜名古屋まで営業キロ175.1kmのほぼ半分、名古屋から79.9kmが柘植である。
 東海道線草津から貴生川を経て柘植に至る草津線は101.7kmの営業キロで電化されている。

 関西本線で私たちが乗っている気動車が柘植駅に到着した時、草津線から湘南電車(濃いオレンジ色に濃い緑色のツートンカラー)の電車が入ってきた。




写真3 柘植駅に入ってきた草津線の湘南電車


 湘南電車というと、昭和31年(1956)11月に東海道線全線が電化され、名古屋から大阪までこ電車に乗って帰省したことも記憶に残っている。

 柘植から中在家信号場まで25‰(パーミル)の急勾配を登っていく。

 車掌が教育のためか、新人と古参がいたので、「加太の急勾配で蒸気機関車の煤煙対策でトンネル番がいたというが……?」と聞いてみた。

 中在家信号場には急勾配対策として現在は使われなくなったが、スイッチバックの線路がある」と聞くことができた。




写真4 中在家信号場の急勾配区間


 「加太越え」と呼ばれる関西本線の難所は伊勢と伊賀・甲賀の境に位置し、急勾配区間は、鈴鹿山脈と布引山地の間にある。



写真5 鈴鹿山脈の急勾配の加太越えを走る


 中在家信号場のスイッチバックやトンネル番のことは次回に書くことにした。




参考文献
1)全国鉄道と時刻表「5近畿 北陸 山陰」、新人物往来社
2)堀地和夫写真集「関西本線のSL−1972年―」、文芸社
3)日本鉄道名所6 勾配・曲線の旅 北陸線・関西線・紀勢線」、鰹ャ学館
4)浅野昭彦著「鉄道考古学を歩く」JTB Can Books


(平成22年9月15日)
第40話 2010年夏・千畳敷カールを周遊する[2010年08月20日(Fri)]
 連日の猛暑でエアコンなしでは過ごせない日々を過ごしている。8月も後半に入ったというのに、ここ大阪でも一昨日の最高気温は37.3℃で、平熱の体温より高いのだからソファにじっと耐えて横たえて、眠くなればテレビを見ながら寝入ってしまっている。

 この暑さでブログを書くにもなかなか気合が入らないが、2010年の夏を振り返って2900mの真夏の別天地・中央アルプス宝剣・木曽駒ケ岳の麓に広がる千畳敷カールでの散策を振り返ってみた。

 長野県中央アルプスの木曾駒ヶ岳へは、8月4日・5日にかけて、マイクロバスでハイキング仲間15人と出かけた。そのうち10人は木曾駒ヶ岳(2956m)山頂近くの山荘に泊まって翌朝・ご来光を仰いだあと、岐阜県側の木曽福島の「寝覚めの床」付近へ8時間かけて下山してきたが、筆者を含む残り5人は観光組で、千畳敷カールの周遊と木曽福島付近を楽しんだ。
 ちなみに、5日早朝4時半に木曽駒ヶ岳から岐阜県側の登山口「アルプス山荘」に予定より1時間強遅れて12時半に下山してきたパーティーは我々の仲間10人だけだった。険しいので、下山してくるパーティーは少ないようだ。


駒ヶ岳ロープウェイ

 中央道の駒ヶ根インターチェンジから菅の台バスセンターへ着いたのは8月4日の12時半だった。
 直ぐにマイクロバスから専用の山岳バスに乗り換えてしらび平(駒ヶ根ロープウェイ乗り場)へはほぼ計画通りだったが、日本一高い眺望絶佳のロープウェイは、9分間隔の臨時運行でも約1時間待たされた。

 乗り場の起点であるしらび平が標高1,661mで、終点の千畳敷が2,611.5mと、一気に950mも引き上げてくれるから、赤ちゃんを抱っこした奥さんも杖をついたおばあさんも行列の中で待っていた。
 上昇していくにつれて下界の駒ヶ根市街や南アルプスが広がり、急斜面では滝が見えていた。




写真1 駒ヶ根ロープウェイ(10年8月4日撮影)


 ロープウェイはゆっくり動いているようだが、中間点で反対の車両とすれ違いはあっという間で、秒速7mのスピードが実感できた。7分30秒で千畳敷駅に着いた。
 駅に架けてあった温度計は20℃だった。

 この記事をまとめるにあたって、千畳敷カールを検索してみると、駒ヶ根ロープウェイを運営している「中央アルプス観光株式会社」のホームページに、8月8日(日)ご来場のみなさまへとして「電気系統のトラブルによって運行を見合わせた旨」のお詫びが掲載されていた。


千畳敷カール

 2008年8月31日にこの地を訪れているので、この地に立つのは2回目だが、霧や雲のかかり具合が変化していている。眼前に切り立った岩肌は2度目の訪れても圧倒された。



写真2上段:急峻なカール壁(10年8月4日撮影)

下段:急峻なカール壁(08年8月31日撮影)


 カールはドイツ語のKarで、山地の斜面をまるでスプーンでえぐったような地形であり、高山の山稜直下などに見られる。氷河が成長と共に山肌を削り、上からみると半円状ないし馬蹄形状の谷となる(ウィキペディア「圏谷(けんこく)参照」。

 北面には眼前に急峻なカール壁(写真2)が行く手を阻むようにそそり立っている。

 南面には雲に遮られながらも、南アルプスの山並みが広がっていて、その下に駒ヶ根市街地が見えている(写真3)。




写真3上段:南アルプの山並みと駒ヶ根市街地

下段:カール底の氷河湖・剣ヶ池


 終点のホテル千畳敷前から右手の急な坂道を下りていくと、カール底に氷河湖・剣ヶ池が見えてくる(写真3下段)。

 周遊コースを散策していると、宝剣岳周辺に霧がかかったり、晴れたり変化していてそのチャンスを見計らってデジカメのシャッターを切るのに忙しかった。剣ヶ池も見る位置や霧のかかり具合で池の色が変化して見えた。


宝剣岳

 眼前の宝剣岳は2931mあり、ロープウェイで2611mまで連れてきてもらっているから、320mも登れば頂上に到達できるが、険しい岩場をよじ登っていかなければならない。

 2年前には、駒ヶ根市で宿泊していて早朝から登頂する心構えで望んだが、後期高齢者を目前にして今はその元気は出てこない。

 2年前に登頂した時の写真を取り出してみて、いまさらながら険しい山だったと思う。ごつごつした岩場で足を置く位置や鎖を使ってよじ登るなどしてやっと登頂できた。




写真4 宝剣岳への登山道


 駒ヶ岳神社から極楽平まではジグザグの道で比較的登りやすかったが、極楽平から頂上までは、写真4のような岩場を慎重によじ登って登頂できた。下りも踏み外さないように一歩、一歩と下山していった。

高山植物のお花畑

 千畳敷カールを散策していると、高山植物をたくさん見ることができた。
 2年前のときには、8月末だったので、千畳敷カールでは、花はすでに散っていて宝剣岳の岩肌に紫色の花が僅かに見られたが、今回は8月初旬だったので、いろんな花が咲いていた。

 残念ながら、花の名前は皆目わからなかったが、接近してカメラを構えていた人が「クロユリだ」と話をしていたので、写真5上段だけはクロユリの名前を知ることができた。




 写真5 千畳敷カールで撮った高山植物(10年8月4日撮影)


 中学生の頃だったろうか、織井茂子が歌っていた「黒百合は 恋の花 愛する人に 捧げれば 二人は いつかは 結びつく あああ・・・あああ この花ニシパに あげようか あたしはニシパが 大好きさ」(菊田一夫作詩、古関祐而作曲)と歌を思い出したが、高山植物でこんなに小さい花で、真っ黒な黒色ではないことを初めて知った。

 10種類ほどの高山植物を撮ってきたが、花が小さく、こぢんまりと咲いているという印象だった。
 花の名前はわからなかったので、高山植物を検索してみて、ウィキペディアで以下のことを知った。

 高山植物(こうざんしょくぶつ)とは、一般には森林限界より高い高山帯に生えている植物のことを指す。広義には高山帯だけではなく、亜高山帯に生育する植物も含める。
高山植物の生育環境は、冬季の積雪と平均気温の低さ、一日の最高気温と最低気温の温度差が大きいこと、風が強いこと、貧弱な養分の土壌、陽射しが強く特に紫外線が多いこと、など多くの点で植物の生育には厳しいことが多い。

 よってその環境に応じた様々な特徴をそなえている。たとえば、地下茎や根が発達している割に茎や葉が小さく、樹木であっても、ほとんど草並の背丈で、地表に密着してクッション状に成長する。成長が可能な期間が短いため、一年草は少なく、多年生の草本が多い。また、全体に毛が多いものもよくある。

 これは、植物体表面を寒気から遮断することや、強い日差しから本体を守る役割があると見られる。また、植物体に比して花が大きく、派手なものが多い。植物の活動が夏に限られるため、ほとんど全種が同じ時期に花をつけ、一面に花が並ぶようすをお花畑とよぶ。


(平成22年8月20日)


第39話 今年もダンボールキャンプに参加[2010年08月03日(Tue)]


 毎年夏休みに入る前に「みのおエコクラブ」から、ダンボールキャンプの開催通知のメールで入ってくる。
 例年は「箕面まつり」が行われる7月最終の土曜日から日曜日にかけて行われてきたが、今年は参議院選挙の日程が不確定だったので、7月18日の日曜日から19日の「海の日」の祭日に、箕面スパーガーデン及び第2駐車場で行われた。

 今年で7回目となるそうで、「みのおエコクラブ」代表の佐藤譲さんが主催している。

 佐藤さんは箕面市内の小学校の生徒に約千人に課外実習などの指導をしている中で、「最近の子供たちはまとまって遊ぶことを知らない」ことに気がついたという。
そこで、ダンボールキャンプを行うことで、年齢の違う子供たちが一緒になって遊びながらみんなで共通の楽しさやマナーを教えることを始めたそうだ。

 保護者として親も参加するので、親子で満天の星空の下で、ダンボールで作ったマイハウスで一夜を明かすことになる。翌朝は、夕食や泊まった場所を、「来たときよりきれいに片づけをすること」を徹底して片づけをしている。

 箕面観光ホテルでの朝食は、みんなで「いただきます」「ごちそうさま」をその時のリーダーのもとで行う。
 昼食は恒例の「ソーメン流し」をしたあと、スパーガーデンで汗を流して解散するスケジュールは同じだ。

 今年は「10年後の暮らし」という題でお絵かきが加わった。
 佐藤さんから誘いを受けて今回で4回参加している。ダンボールキャンプでの話題をまとめてみた。


ダンボールで作った家でキャンプ

 キャンプとは、野外で宿泊することで、屋根のない場合でもキャンプというそうだ。一般的にテントを張って野営することが多いが、ダンボールであってもなんら差し支えない。

 10時に参加者全員が集合する。野営する場所での説明、班編成などのあと、早速に親子でマイハウスの作りに取り掛かる。スーパーやホームセンターでもらってきたダンボールは、大きなものはなく、商品を詰めた箱を広げたものだから、折り目もあって思い通りの家はなかなか出来ない。




写真1 箱を開けてダンボールで家つくり


 今年あたりから、若い男性が加わって今までと違ったダンボールハウスが出来た。

 写真2は大型ダンボールをもらってきたそうで、窓を作り、立っても歩ける家が出来上がったが、午後から風が出てきたときには安定感がなく、横移動したようだった。




写真2 立体的にできたダンボールの家


スイカ割り

 スイカ割りは、日本の夏の風物詩で海水浴場などの砂浜で見かけたものだが、割ったとき砂が混じったりするのをみて、砂浜では「良くないな」と感じていた。
 ダンボールキャンプでは毎回昼前に、冷やしたスイカを3つ並べて行っている。駐車場で行っているので、砂が混じる心配はない。




写真3 3班に分かれてスイカ割り


 子供たちは3班に分かれて幼い順に並ぶ。目隠しをしてひと回りしてから目標のスイカに向かっていく。
 親が「右だ、まっすぐだ」との声を頼りに進んでいく。2歳の幼い子も目隠しをしてスイカ割りに参加していたが、こんな体験は初めてだろう。
 細い竹の棒で叩き割るし、目隠しされているから力強くたたいても思い通りに割れないが、高学年の子らがうまく割ってくれた。割れたらゲームは終了で、鈍く割れたスイカを包丁で切ってみんなで冷えたスイカにかぶりついて食べた。




ソーメン流し

 ソーメン流しも日本の夏の風物詩では欠かせない行事で、ダンボールキャンプでも毎回行っている。
 現地で太目の孟宗竹を切り出し、節を取りソーメンが流れるように加工する。




写真4 ソーメンを流す竹を加工中


 のこぎりや鉈(ナタ)、鉋(カンナ)などの小道具一式も揃っているので手際よくソーメンを流す準備を前日に終えた。

 準備不足だった4年ほど前は、ソーメンをゆがく湯が間に合わなくて、団子状になって大失敗だったことがある。 




写真5 ソーメン流し
 

 今では大なべに湯をどんどん沸かしておき、中鍋でソーメンをゆがく。ぬめりを水でさらしたあと笊(ざる)で受けて、ホテルで予約していた氷水で締める。歯ごたえのあるソーメンを竹の樋で流す。薬味にゴマや刻んだネギ、茗荷などもそろえていて美味しいソーメン流しを味わった。


 ダンボールキャンプでは、例年夕食はカレーライスだが、ご飯は飯盒炊爨(はんごうすいさん)である。アルミ製の携帯用炊飯器具に研いだ米を入れて下から薪で燃やして炊く。
 4年前の時には中学生時代の昭和20年代に経験して以来、飯盒で飯を炊くことなどやっていなかったので、うまく焚けなかった。今ではU字側溝を利用して火加減など経験してきたノウハウが蓄積されてきたので、美味しいご飯が出来上がっている。

 日常の便利な生活から離れて、薪で飯を作り、布団でなくダンボールの家で一夜を明かす。2歳の幼児から、高校生までが参加して世代間をかけ離れていろんな遊びを学ぶ。箕面エコクラブの佐藤代表が目指す主旨そのものである。集まりは50人ほどで小さいがその意義は大きい。

 今年は都合で参加できなかったが、近隣の大阪大学の学生が参加してくれて、手作りの  笛で南米の音楽を演奏してくれたりして盛り上がったこともある。

 参加した幼い子たちが、いろんな面で活躍している人たちを見て、良い刺激になったことと思う。


(平成22年8月3日)


第38話 でんでんむしむし かたつむり[2010年07月05日(Mon)]


 7月に入って梅雨も後半で、今朝からきつい雨が降っている。
先週の土曜日、6月26日も雨だったが、今朝に比べればきつい雨ではなかった。雨の中を犬の散歩で近くの公園(写真1)に連れ出した。





写真1 南の杜公園(10年6月26日撮影)


 この「南の杜公園」では、毎月第二、第四の土曜日の9時から約1時間半、「公園をきれいにしよう」と近所の仲間で清掃や草刈りなどの活動をしているが、この日は雨で中止になった。

 その公園の奥には、公衆トイレとその横に東屋があって手ごろな休憩場所になっている。
その側のコンクリート壁にぴったりと吸い付いているかたつむりを2匹見つけた。比較的大きいかたつむりだった(写真2)。




写真2 大きなかたつむり(10年6月26日撮影)


 天気の良いにはどこに潜んでいるのか見かけることはなかった。
乾燥が最大の恐怖であるかたつむりは、外敵の少ない夜間に活動する夜行性といわれているが、雨でじとじとした昼間にのこのこ顔を出したようだ。


かたつむり

 かたつむりというと、「でんでん虫(むし)虫 かたつむり お前(まえ)のあたまは どこにある 角(つの)だせ 槍(やり)だせ あたま出せ」という唱歌がつい口をついて出てくる。幼いころから口ずさんでいたので、学校で正規に習ったという記憶はない。
 文部省唱歌で明治44年の尋常小学唱歌上で掲載されたというから、今でもその名残で歌い継がれてきて幼い子たちもよく知っている歌なのだろう。

 かたつむりには、呼び方にいろんな方言がある。「でんでんむし」は「出よ、出よ、虫」。「マイマイ」は殻を巻いていることから、あるいは左右のつの(大触角)を、のばしたり、ちぢめたりする姿が舞の姿に似ているからとか、かたつむりは「潟(陸)の巻貝」のなまったものだ、などと言われている……遠くに移動することはほとんどなく、したがって、山脈や川を隔てると、別種のかたつむりが地方ごとに種類が変わることがよくあり、かたつむりには広く分布する種が少ない。(乾 実 著「子ども科学図書館のろりとろりカタツムリ」、大日本図書)

 カタツムリ(フリー辞典ウィキぺディア)によると、「『カタツムリ』という語は日常語であって、生物学的な分類では多くの科にまたがるため厳密な定義はない。陸貝(陸に生息する腹足類)のうち、殻のないものを大雑把に「ナメクジ」、殻を持つものを「カタツムリ」「デンデンムシ」などと呼ぶ。一般にカタツムリは蓋をもたず触角の先に目を持つ有肺類の陸貝、中でも球型や饅頭型の殻を持つものを指す。
 殻に蓋をもつヤマタニシ、または細長い殻をもつキセルガイなどは通常カタツムリとは呼ばれない。陸にすむ巻貝を総称してカタツムリという。日本列島には800種(しゅ)以上が生息している」。


方言周圏論(ほうげんしゅうけんろん)

 上記フリー辞典の後半に「人との関わり、名称に関して」の項に、「日本におけるカタツムリの別称はデンデンムシ・マイマイ・蝸牛(かぎゅう)などがある。柳田國男はカタツムリの方言(デデムシ、マイマイ、カタツムリ、ツブリ、ナメクジ)の分布の考察を通して、『蝸牛考』において方言というものは、時代に応じて京都で使われていた語形が地方に向かって同心円状に伝播していった結果として形成されたものなのではないかとする『方言周圏論』を展開した」という興味ある話を見つけた。

 さらに、毎週金曜日の夜11時20分からの「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送)の番組内での調査で、「馬鹿」「阿呆」などに相当する表現の方言の分布状況がやはり同心円状に広がっていることが判明しているという。


ナメクジに塩

 「ナメクジに塩」ということわざがある。「苦手なものを前に、萎縮してしまうことのたとえ」に使われている。
 ナメクジは漢字で蛞蝓と書くが、パソコンで変換できるから読めるが、その逆だととても読めない。

 梅雨に入ったころの雨の日に、玄関のコンクリート壁に植木鉢のあたりから何匹も登っていくので片っ端から退治した。スコップで触ると長い体を丸めるので、片方のスコップへばりついたのを無理やり落とし、もう一つのスコップで受けたのを、地面で踏みつけて退治してきた。その成果か、カタツムリを下旬には全く見なくなった。

 「カタツムリの生活」(大垣内 宏 著 築地書館)の「ナメクジ」の項に、「都市やその近郊で見られるナメクジは“コウラナメクジ”“チャコウラナメクジ”“ニワコウラナメクジ”“ノコウラナメクジ”などいろいろな種類が混棲しているといわれています。
 台所に出没したナメクジに塩をふりかけて退治をする話しを聞いたことがあるでしょう。
 このとき,ナメクジは溶けてなくなってしまうと信じている人もいるようですが、ナメクジは塩(食塩NaCl)では溶けません。ナメクジの皮膚を半透膜として、体の外の塩分濃度が高くなったことから、体の中の水分が浸透圧の作用によって外へ出てしまい、水分がなくなったナメクジはだんだんちぢんでしまうために、いかにも溶けていくように思えるのですが、水分以外の組織は体積こそ小さくなりますがそのまま残っているのです」と書いている。
ナメクジの退治には、「ビールの飲み残しを小さな容器に入れて置いておくと誘引されるので捕殺できる」と聞いて実行したこともあったが、たいていはビールを飲み残すことはなかったからその成果は分からない。

 上記で触れたように、「殻のないものを大雑把に『ナメクジ』、殻を持つものを『カタツムリ』」というから、同じ仲間でもカタツムリの方は、「角だせ、槍だせ、目玉だせ」と殻からこれらを出してもなんとなく愛くるしいが、殻のないナメクジでは不気味でさえある。
早い時期にカタツムリのことを調べていれば、ついでにナメクジもデジカメに収めていただろうが、今となっては遅きに失してしまった。


蝸牛の庵

 高校2年生のとき、担任の先生からの提出物に、最寄りの駅から自宅までの地図を書いて提出したことがある。その中に自宅を矢印で示して、「蝸牛の庵」と書いた同級生がいた。担任はその言葉に痛く感心してクラス会で話したことを思い出した。
カタツムリがせせこましい殻の住まいであるように、「ささやかな住まい」という意味だが、うまい表現である。

 今ではネットで「蝸牛の庵」で検索すると、夏目漱石の「我輩は猫である」の中で使われて、「私は生来(しょうらい)騒々しい所が嫌いですから、わざと便利な市内を避けて、人跡稀(じんせきまれ)な寒村の百姓家にしばらく蝸牛(かぎゅう)の庵(ささやかな住まい)を結んでいたのです……」
「『人跡の稀な』はあんまりおおげさだね」と主人が抗議を申しこむと「『蝸牛の庵』もぎょうさんだよ。『床の間なしの四畳半』くらいにしておく方が写生的でおもしろい」と迷亭君も苦情を持ち出した」という風に容易に調べることができる。

 高校2年生のときの自宅から最寄り駅までの地図は自分自身で書いたが、「蝸牛の庵」と書いた同級生は、夏目漱石の「我輩は猫である」を読んでいてその言葉を思い出して使ったのだろうか。


紫陽花とカタツムリ

 梅雨時期に咲く紫陽花は、雨に濡れて映えて見える。
 ネットで公開されているカタツムリの写真には、紫陽花の葉っぱにカタツムリが写っている画面がけっこうある。

 南の杜公園の南側の北斜面には写真3のように、紫陽花の花がちょうど見ごろである。




写真3 南の杜公園の紫陽花は見ごろ(10年6月26日撮影)


 紫陽花の花が色あせる頃には、梅雨空晴れて、南からの熱風の夏風が吹いてくる。今年の梅雨明けはもうすぐで、夏空のカンカン照りの暑い暑い真夏がやってくる。

(平成22年7月4日)
第37話 近江中山道を歩く(醒井宿)[2010年06月13日(Sun)]


 今年の4月6日に青春18キップを利用して関が原宿から醒井宿までを歩いたのは桜が咲き始めたころだった。これまでに関が原宿、今須宿、柏原宿までは、ゆっくりしたペースながら3つの宿の話題を個人ブログでまとめてきた。

 「近江中山道を歩く」では醒井宿だけになったが、すでに2ヶ月を過ぎてしまった。
一緒に歩いたKさんから「いつになったら醒井宿をまとめるの」と催促されてしまった。
この間に団体ブログの方の記事を2つ書いていて忙しくしていたが、いい訳にはならない。記憶が忘却の彼方に行かないうちにまとめることにした。


柏原から醒井へ

 柏原宿を出ると、左側に名神高速道路、右に国道21号沿いの平坦な歩道を歩いて一色集落を過ぎて米原市醒井に入った。 

 右手に東海道本線、左手の山手の方ではすぐ近くを名神高速道路が走っていて、鉄道と高速道路に挟まれたわずかな隙間に中山道が通っていた。

 中山道の起源は古く、古代から中世にかけてすでに西国と東国を結ぶ重要な街道として整備されている。それに比し、東海道本線・JR醒ヶ井駅は1900(明治33年)の開業であるし、名神高速道路の西宮・小牧間は1965年(昭和40年)に開通しているので、中山道の醒井宿付近は、これら新参者の鉄道と高速道路が、この狭い地区にあとから入り込んできて母屋を取ってしまった感がある。




写真1上段:中山道 醒井宿の石碑

下段:分間延絵図・醒井宿


 醒井宿の入口には、石碑と分間延絵図の碑(写真1上段)が街道沿いに立っていた。
分間延絵図・醒井宿(写真1下段)の上側の山並みの際の川は天野川だろう。
 絵図の街道の下側には山並みが迫っているので、昔から中山道・醒井宿あたりは、両側に山が迫り、山間を天野川が流れている、谷間の狭いところに街道が整備されたのだろう。

 米原市のホームページ・「水中花『梅花藻』ゆらぐ湧水の里 まいばら」によると、「米原町(現米原市の一部)は、霊仙山(1,084m)の北嶺から湧き出た丹生川が、一級河川天野川に注いで扇状地を形成し、琵琶湖に流れ込むという、変化に富んだ地形の上に位置しています。源流部にあたる醒井地域は、日本武尊の命を救った伝説の湧水『居醒の清水』がある湧水の里です。この居醒の清水を源流とする『地蔵川』には、梅の花に似た小さな可愛らしい五弁の花を咲かせるキンポウゲ科の水中多年草『梅花藻』(ばいかも)が咲きます。年間を通じて水温が14℃前後に保たれる清流に咲く貴重な『湧水の妖精』です」と書いている。

 JR米原駅から東京方面へ進むと左手に伊吹山が見えてくるが、霊仙山(りょうぜんざん)は、反対側の東海道線JR醒ヶ井駅から南に4キロほどの鈴鹿山脈の北端に位置していた。
地図には、うるしが滝、屏風岩、醒井渓谷が丹生川になっている。上丹生には、1878年(明治11)、ビワマス増殖のために開設された施設があり、3万uの場内に、ニジマス・アマゴ・イワナなどの稚魚池や釣り池がある。


枡形道

 先に公開した第34話「近江中山道を歩く(今須宿)」の中の宿場町の章に、世界大百科事典の「中山道馬籠宿推定景観復元図」を引用した時、枡形が書いてあったが、なんとなく見過ごしていた。
 
 上記写真1の醒井宿の石碑が立っていたところから、「居醒の清水」の名水がこんこんと湧き出ている「加茂神社」まではわずかな距離だが、街道がクランク状に曲がっているのが気になった(写真2)。




写真2 醒井宿の東側の入口はクランク状


 このクランク状に曲がった道は、枡形道と言われている。街道をクランク状に曲げ、見通しが利かないようにして防備を図るもので、城へ入るときに一の門から二の門へ進む時、枡状の四角い広場を作り、兵の勢い止めるように作られた枡形の形状が宿場町で応用されている。

地蔵川沿いを歩く

 宿場はちょうど樹形道から左に出た所から始まっていたが、天保14年の記録によると宿場規模は本陣1、脇本陣1、旅籠屋1軒と小さかった。

 醒井宿は、東山道の宿駅として古くから栄え、昔の書物には「佐目伽井」と書かれていることもあるが、「三水四石」と呼ばれる名所があることで有名だった。
三水とは、「居醒の清水」、「十王水」、「西行水」を指し、四石とは「日本武尊腰掛け石」、「日本武尊鞍掛け石」、「蟹石」、「影向(ようこう)石」をこのように呼んでいた。(出典:日殿 言成著、「誰でも歩ける中山道六十九次」)

 左側の上の方を名神高速道路が走っているが、そのすぐ下に「加茂神社」がある。この神社の石垣の間からこんこんと清水が湧き出ている。地図を拡大してみてみると、この加茂神社の湧き水が水源になって地蔵川が街道沿いに平行して流れている。

 JR関が原駅を出たのが11時過ぎだったが、地蔵川の清流のほとりで一息ついたときには4時を過ぎていた。

 醒井の地蔵川には、清流でしか育たない梅花藻(バイカモ)が梅の花に似た白い小花が咲くというが、時期が7月から8月なので、4月の季節では清流に流されている緑色の葉っぱだけだった。(写真3)

 少し行ったところで、小学生が釣り糸を垂れていた。まさか絶滅危惧種の一種のハリヨを釣っているかと尋ねてみたら、「鱒を釣っている」と応えた。ハリヨはトゲウオ科の魚で体長は4〜5cm、生息分布は滋賀県の東北部、岐阜県の西部、三重県東北部に限られている。




写真3上段:加茂神社

中段:清流の地蔵川に三石がある

下段:地蔵川清流の梅花藻の葉っぱ


 写真1下段では水面が緑色しているだが、流れが結構早く、うまくとらえられなかった。

 7月のころあいを見て梅花藻の花を見て、養鱒場で鱒料理を食する企画を検討中で、ジムの仲間とハイキングを兼ねて訪れることにしている。


宿場の中心

 加茂神社を出て地蔵川に沿って歩けば宿場の中心地だが、JR醒ヶ井駅までのわずかな距離の間に、本陣跡、醒井問屋場跡、醒井郵便局、十王水、明治天皇御駐輦所碑、醤油「ヤマキ」などがあった。



写真4上段:醒井問屋場跡(旧川口家住宅)

   
下段:旧醒井郵便局局舎


 醒井宿問屋(写真4上段)は、「醒井宿で問屋を営んでいた川口家住宅で、現在、宿場に問屋が残されているところはほとんどない。建築年代が17世紀中〜後半と推定される貴重な建物」と解説板で紹介している。
 写真4下段は、旧醒井郵便局局舎(国登録)で、1915(大正4)年、ウイリアム・メルレ・ヴォーリスの設計によって建てられた木造2階建の擬洋風建築である。

 ヴォーリスの名は、数年前に近江八幡市内を散策した時に、彼が手掛けた建物と共に、メンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家でもあることを思い出した。

 アメリカ合衆国に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家であり、1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは、華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。「米来留」とは米国より来りて留まるという洒落である。
 近江商人発祥地である滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点に精力的に活動したことから、「青い目の近江商人」と称された。また太平洋戦争終戦直後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される(出典:ウィキぺディア)。


十王水

 醒井の名所「三水四石」のうち、「十王」と彫った「石灯籠」が川中にあった。ここも昔から名水の湧く場所として有名だった。
 十王(じゅうおう)とは、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う10尊の、いわゆる裁判官的な尊格である(出典:ウィキぺディア)。




写真5 川の中に十王と書いた石灯篭


 この先の旧道に、残りの三水で岩の間から清水となって湧き出ている「西行水」があったが立ち寄らなかった。そこで、西行にまつわる話を、上記「誰でも歩ける中山道六十九次」から引用してみた。
 
 「西行法師は東遊の途中、この付近を通り、泉の湧く近くにあった茶屋で休憩したという。ところが、茶屋の娘が西行に恋してしまい、西行が飲み残した茶の泡を飲んだところ不思議にも懐妊し、男の子を生んだという。その後、西行が再び関東の帰りにここに立ち寄ってその話を娘から聞き、「もしわが子ならば元の泡にかえれ」と唱えたという。
すると子供はあっという間に泡となって消え去ってしまったと言い伝えられているのだ。その後、西行は泡子のためにここに供養塔を建立し、ここは西行水と呼ばれるようになったという」。

 5時過ぎの電車でJR醒ヶ井駅から帰路についたが、「醒井水の宿駅」で汲んできた名水をウイスキーの水割りで車中のひとときの反省会とし、大阪駅構内でさらに杯を重ねて今回のウォーキングの余韻を味わった。       


(平成22年6月13日)
第36話 近江中山道を歩く(柏原宿)[2010年05月18日(Tue)]

 柏原宿は、中山道69次のうち、1番目の板橋宿から数えて60番目の宿で、一つ手前の59次今須宿から柏原宿までは約4.0キロある。

 中山道の日本橋から京都までの距離は約540キロあり、70区間の宿場間の平均距離は7.6キロなので、今須宿・柏原間は、1里(約4キロ)と近接している。
 ちなみに、宿場間で最も離れているのは28次の上和田と下諏訪間の5里18町(約21.6キロ)で、最も短い宿場間は、23次の塩名田と八幡間27町(約3キロ)である。

 今須宿から長久寺集落を抜けて楓並木を歩いていく。江戸時代は松並木だったのが明治時代になって楓並木になったという。
 なだらかな坂道の山道に入ると、長比(たけくらべ)城跡登り口の道標や旧東山道の石碑が右手に見えた。

 長比城跡の解説板によると、「織田信長が浅井長政を討つべく元亀元年(1570)に浅井、朝倉勢が守るこの城と苅安城を攻めた」と書いているから、今から440年前の話だ。

 柏原宿の入り口に、中山道分間延(ぶんけんのべ)絵図と略史が掲示されていた。
 柏原宿は、鎌倉時代に「柏原弥三郎の柏原城跡に佐々木京極氏が館・徳源院・墓所を設置。
 室町の初め、京極高氏の命で箕浦次郎右衛門、柏原代官所設置。室町時代、箕浦代官二百数十年。 関が原合戦時には柏原宿は戸数五百の、大きな中世宿場に成熟」、
 
 江戸後期には「亀屋左京六代目七兵衛 柏原宿を『もぐさの里』と全国的に売り出す」、
 明治時代では「明治になりもぐさ屋で宿場役人の山根為家が柏原銀行を創業」などと書いていた。


中山道分間延絵図

  柏原宿と次の醒井宿で写真1に示す街道の絵図を描いた「中山道分間延絵図」が掲示されていた。その掲示された絵図は柏原宿の東側部分だったので、柏原歴史館のリーフレットを利用させてもらった。



図1 中山道分間延絵図・柏原宿


 辞書には、「分間(ぶんけん)とは、山野の遠近・高低・距離などを測量すること。また、それを記した図」と書いている。

 国交省横浜国道事務所の「よここくNAVI」には、「分間延絵図は江戸幕府が街道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図で、東海道の他に、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中の五街道と、それらに付属する街道地図も同時期に作成している。それらを含めて「五街道分間延絵図」と呼んでいる。「五街道分間延絵図」作成の命が出されたのは寛政年中(1789〜1801)のことで、文化3年(1806)に完成している。絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが丹念に描かれている。また一里塚、道標、橋、高札なども描かれている。

 縮尺は、実際の1里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれており、道の曲がりの急なところは、そのまま描いてしまうと地図の天地が長くなってしまうので、実際にはゆるい曲がりにし、そのわきにたとえば北に何分と記して、本来の曲がり具合を示している」と説明している。

 こうした街道沿いの内陸部の地図に対して、江戸時代後期の測量家伊能忠敬(1745〜1818)が中心となって作製された日本全土の実測地図が、文政4年(1821年)に完成している。


柏原宿

 柏原宿は中山道でも比較的大きな宿場で、宿の長さが13町(約1.4km)と、近江8宿でいちばん長く、1843(天保14)年には戸数344軒、本陣・脇本陣が各1、問屋5軒・旅龍22軒があったと記録されている。

 柏原宿の街道沿いには、昔の屋号を記した看板(写真2)があちこちに取り付けてあったので、通りがかった学生に「この家は今でも蝋燭を売っているのか」と思わず野暮な質問をしてみた。「知らない」とそっけない返事だったが、江戸時代なら蝋燭の需要があっただろうが、今日では蝋燭だけの商売は成り立つわけがない。




写真2 街道沿いの民家に昔の屋号の看板


伊吹もぐさ

 柏原宿は伊吹山の南麓にあり、上記で触れたように「もぐさの里」である。
 その原料の「よもぎ」は伊吹山の8合目あたりに自生していて、よもぎの背丈は3、4尺〜6、7尺と、江戸期の「近江国輿地志略」から引用していて、司馬遼太郎は、街道ゆく・近江散歩の中で書いている。

 よもぎは、近くの公園でもよく見かけるが、こんなに背丈は高くない。セイタカアワダチソウと同様に地下茎などから他の植物の発芽を抑制する物質を分泌するので、ヨモギだけが密集している。
 よもぎは、お餅や草団子に入っているので馴染みの草だが、やいとは今ではあまり聞かれなくなった。

 幼少期にいたずらをしては、母親に押さえつけられて背中にお灸(やいと)をすえられ、小学校時代にお灸の跡形の丸くなってケロイド化したところを触ってからかわれたことが思い出される。

 事前に調べた「山と渓谷社・近江中山道」に、「福助人形が店先に座る伊吹堂亀屋」に大きな福助人形の写真が掲載されていたので、現地で写真は撮れるものと思っていた。
 亀屋の店先のすだれのすき間から見たKさんが「大きな福助人形が見える」と誘ったので、戸を開けて「見学できますか」と聞くと、店番のおばあさんが、手を左右に振って写真を撮ることができなかった。
 商いをしている店だから、誰もが「写真を撮らせてくれ」では商売に支障が出るからだろう。
「亀Qというもぐさ1200円〜や、薬草を使った百草という入浴剤1100円が売れ筋」だと言うから、お土産を買いながら、話してみれば撮らせてもらえたのかもしれない。




写真3上段:伊吹堂亀屋(10年4月6日撮影)

中段:伊吹堂の福助人形(JTB「芭蕉を歩く」から引用)

下段:木曾街道69次 柏原 広重筆



 写真3上段は現在の伊吹堂で、下段は安藤広重の木曽街道69次・柏原宿の浮世絵である。江戸時代は店が開放されていて「かめや」「亀屋」「薬艾」の字が見える。右隅奥に福助人形が鎮座している。伊吹堂亀屋の福助人形のいい写真を探していたら、JTBのCan Books「芭蕉を歩く」で見つけたので引用した。広重のとは少し違うが、現在の福助人形は2代目だそうである。福助とはこの店に実在した「番頭」で、働き者で知られ、店を繁昌させた功労者だという。
 右側の「薬艾」の方では小僧が客の対応をしている。座っている客の後ろには伊吹山の模型が置いてある。店の左側は休憩所である。

 司馬遼太郎の「街道をゆく・近江散歩」の「伊吹のもぐさ」には、この店の繁栄の基礎をつくったのは柏原の人で松浦七兵衛(亀屋左京)で、その出世話を詳しく書いている。
中でも七兵衛が江戸へ商いに出て、売り広めて利益が出ると、吉原で芸者を揚げて散財した挙句の潮時に、芸者に「江州柏原 伊吹山のふもと 亀屋左京のきりもぐさ」という簡単な歌を三味線に合わせて芸者に歌わせて宣伝したという。

 広重の浮世絵に出ている左側には、客がこの待合から素晴らしい庭園をながめて旅の疲れを休めるようにしていたという。無料の休憩所で休んで「ついつい艾を買わざるを得ない」という工夫されていたそうだ。


伊吹山の景色

 東海道線で米原から関が原あたりを通るとき、車窓から間近に見える息吹山についつい見入ってしまう。走り去っていく車窓からカメラを向けるチャンスはなかったが、今年3月22日に、青春18キップでこのあたりを通過した時は、線路脇に生えた野草を取っていた老人が、線路を無理に横断して急停車し、10分ほど停車した。
 このめったにないチャンスに、山頂から5合目あたりまで冠雪した息吹山を撮ることができた(写真4)。




写真4 冠雪の伊吹山(10年3月22日撮影)


 今回のウォーキングでは、JR関が原駅から中山道を西に向かって歩いてきて「いつ伊吹山が見えるか」と気にしながら歩いてきたが、柏原宿に入ってやっと写真4のように、満開の桜と共に見ることが出来た。



写真5 柏原宿から眺めた伊吹山(10年4月6日撮影)


 半月のうちに、冠雪もほとんど消えて、わずかに乳牛の斑点の白いまだら模様になっていた。
 伊吹山は深田久弥選定の「日本百名山」の一座であり、登山者も多い。伊吹山の多彩な植物相は,伊吹山の石灰岩地質と特有の気象条件によって形成されたもので、伊吹山頂草原植物群落として国の天然記念物に指定されている。


参考文献:街道をゆく 24(司馬遼太郎)、滋賀県の歴史散歩(滋賀県歴史散歩編集委員会編、山川出版社)、誰でも歩ける中山道六十九次(日殿 言成 著、文芸社)

(平成22年5月18日)
第35話 晩春の「体験学習の森」[2010年05月02日(Sun)]


 久しぶりに「箕面だんだんクラブ」の活動地である「箕面市体験学習の森」に出かけた。市街地ではすでに桜は散ってしまって、ハナミズキやツツジが晩春から初夏にかけての彩りを添えているが、山中では今カスミサクラが見ごろだった。

 カスミザクラはこの森で活動を始めた1996年から3年ほど経ったころ、今から10年強前にクヌギなどと一緒に植樹したものだ。
 1ヶ月に第1、第2、第4の土曜日が主な活動日なので、カスミサクラが見ごろの時期と活動人が合致することはめったにないが、今年は4月中頃に急に冷え込んだ日が続いた結果、5月1日の活動日に見ごろになった。




写真1 ちょうど見ごろのカスミサザクラ


  命名の由来は遠くから見たこの樹の様子が霞のように見えることからきている。
 花柄(かへい)に短い毛が生えているためにケヤマザクラなどとも呼ばれるとNさんから説明があったので、近寄って撮ってみたのが写真2である。
 花柄とは、花や花序をつける枝をいうが、花にピントが合って分かりにくいが、毛が生えている。




写真2 カスミザクラ(10年5月1日撮影)


 豚汁広場のすぐ側のウワミズザクラも白い5弁の小花を長さ10cmの穂に多数総状につけて咲いていた。
 この森にはウワミズザクラがところどころに散らばって植わっているが、陽あたりの良い場所では小さな実がなりかけているところもあった。




写真3 見ごろのウワミズザクラ(10年5月1日撮影)


気になった鹿の食害

 写真1のカスミザクラのすぐ側の桜の木の幹は鹿が樹皮をはがした跡が見られた。
 数年前までは桜の幹の周りに細く割った竹で鹿の食害を防止していたが、硬くなった樹皮を剥ぎ取って中の軟らかい部分を食べたようである。
 この付近のササの葉っぱも食いちぎられていて、ササの枝だけが残っていた。




写真4 鹿による桜の樹皮の被害


  2009年2月14日付の「箕面だんだんクラブ・団体ブログ」の「第117話 シカはシャガの葉まで食べだした」を公開しているが、仲間の話によると、「今年はよほど鹿にとって食料難だったのか、シャガはしっかり食い荒らされ、ササの葉っぱも残らず食べてしまっている」と話していた。
 
 そこで、昼食後シャガが自生している「もりもり園地」へ出かけてみた。
 第117話でシャガの葉っぱを写したのは09年2月8日で食いちぎった無残な葉っぱだったが、5月になった今では写真5上段のようにわずかながら新たに葉っぱを出していた。
この周辺のササの葉っぱは、写真5下段のように鹿にきれいに食べつくされていた。




写真5上段:鹿に葉を食べられたシャガ

下段:ササの葉っぱも全滅


日本の森にオオカミの群れを放て!

 「鹿がこんなに増えたのは天敵の日本オオカミがいなくなったからだ」とはよく耳にする話だったので、平成16年4月10日付けの朝日新聞に小林照幸さんと読む「『日本の森にオオカミの群れを放て』吉家世洋(よしやくにひろ)著、丸山直樹監修」の記事を切り抜いておいた。

 ネットでこの本を検索してみると、東京農工大教授で、日本オオカミ協会の丸山直樹教授の監修で、「オオカミ復活プロジェクト進行中」とあって、内容に「シカやイノシシによる森林被害を食い止めるのはオオカミだ。最先端の生態学に基づいた合理的で壮大な自然の修復計画。海外では既に実施されているオオカミ復活、日本の有力候補地は、日光国立公園、吉野熊野国立公園、九州中央山地国定公園、対馬などがあがる。計画の内容は、自然界の意外な真実に満ちている」と書いている。

 また、井上 雅央 著、金森 弘樹 著「山と田畑をシカから守る」(出版 農山漁村文化協会)の中の「オオカミの放飼は有効か」に、「シカの個体数管理を担うハンターの数は、1970〜1980年頃には全国で約50万人であったが、その後しだいに減少し、2002年には約20万人にまで減った。また、80%のハンターが50〜60歳以上と高齢化が進行している。
 増え続けるシカを、高齢化し、減少していくハンターが半永久的に個体数を管理していくことなど、はたして可能であろうか?これは、かなり困難なことだと考えられるので、日本の森林生態系に明治時代までシカの捕食者であったオオカミを復活させようとの議論がある。アメリカのイエローストーン国立公園(ワイオミング州、アイダホ州、モンタナ州)では、オオカミ復活の試みが行なわれており、シカの仲間であるエルクの個体数をコントロールすることが期待されている」とも書いていた。

 シカの繁殖戦略の中で「鹿は満2歳で1頭の子を産む。イノシシも同じように、ふつう満2歳から出産する(早いものでは満1歳から出産するものもわずかにいる)が、1回に4〜5頭(ただし、このうち育つのは2〜3頭)の子を産むのにくらべれば、シカは1頭と少ない。しかし、ツキノワグマやニホンザルが5歳くらいになってやっと初産し、しかも2〜3年に1回しか子を産まないのにくらべれば、シカの繁殖力は高いといえる」そうである。

 繁殖力の高いシカに対して、天敵であるオオカミや、ハンターが激減しつつある現状からみれば、中国から移入してオオカミを復活させることを真剣に考えなければならないのかもしれない。


(平成22年5月2日)
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