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第80話 弥山登山と縞枯れ[2015年02月10日(Tue)]
 今年1月下旬にNHK・BSプレミアム「日本百名山完全人力一筆書き踏破」を見ていて、プロアドベンチャーレーサーの田中陽希さんが、大峰山へ登る途中の弥山頂上付近で、木々が白く枯れた状態を「縞枯れ」と話していた。

 弥山には、2008年(平成20年)10月7日に、日帰りで友人ら4人と出かけたとき、頂上付近の木々が白く枯れたような状態を見て、なぜこんな風景が出現するのか不思議に思った記憶がある。番組でその現象が「縞枯れ」と話していたので、当時の写真を見ながら、弥山への登山の思い出と「縞枯れ」について調べてみた。

熊野古道の思い出

 本箱から「吉野・大峰の古道を歩く(山と渓谷社)」の「歩く旅シリーズ街道・古道」の「弥山と八経ケ岳」を開けると、トンネル〜奥駈道〜聖宝八丁〜弥山〜八経ケ岳(往復)は、2008年10月7日に登ったルートと同じだった。

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地図 弥山へのルート(上記山と渓谷社の本からコピー)


 この地図の右上に大普賢岳が、左下には釈迦ケ岳があり、同じ仲間と登っている。いずれも奥駈道を連続して歩いたのではなく、それぞれの山を単独で登った。
この奥駈道を含めて熊野古道は2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産における「遺跡および文化的景観」)として登録された。

 熊野古道に関心を持って歩き始めたのは、2000年(平成12年)からである。中辺路はすでに5回以上歩いているが、伊勢路、小辺路、高野山の町石道、大辺路の一部なども歩いていて、次は奥駈道を歩くことにしていた。
 中辺路や伊勢路を一緒に歩いてきた後輩は、奥駈道を修験者と一緒に前鬼まで歩いてきた強者だが、その厳しい道中を聞くほどにそんな勇気は出なかった。
こうした経緯から、熊野古道の中でも最も過酷な奥駈道は、それぞれの山を登山としての歩くことにしたのである。

 熊野古道の中辺路を最初に歩いた2000年10月下旬には8人で歩いたが、そのうちの4人がこの弥山・八経ケ岳の登山に挑戦した。


 弥山と八経ケ岳へ登る


 阪神高速道路梅田入口を7時20分に入り、南阪奈道路から御所を経て下市口から国道309号に入り、行者還トンネルへは予定より30分遅く10時着き、車を置いて直ちに弥山登山道に踏み入れた。いきなり険しい崖道で面食らった。

 帰りも同じ崖道を下っていったが、下山途中でふくらはぎが痙攣してしまった苦い経験が思い出される。このこむら返りの為にリュックに入れておいた自然塩が大いに役立った。
 自然塩を少し口にいれたくらいでは痙攣が治まらないのに業を煮やした運転のSさんが、「もっとガッバッと口に入れろ」と言われて思いきり口に放り込んで何とか治まった。

 車を置いている行者還トンネル西口を四時半には、出発しないと国道309号とは言え、渓流沿いの狭い道で暗くなってからでは危険極まりないからだ。

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 写真1 奥駈道までの険しい崖道
 

 急坂だったが、約1時間でなだらかで歩きやすい奥駈道出合に出た。(写真2)

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写真2 弥山への案内標識



 行者還トンネル西口弥山への登山道の標高が1100mで、写真3の弁天の森が標高1600なので、標高差500mを登ってきたことになる。写真3で遠くに見える山なみは行者還岳(1536m)辺りだろうか

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 写真3 弁天の森から北方向の山並みを望む


 写真1辺りの急坂では紅葉が始まったばかりだったが、弁天の森辺りではブナ林の美しい紅葉が見られた。(写真4)

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 写真4  弁天の森のブナ林の紅葉


聖宝(しょうぼう)の銅像


 弁天の森から40分程歩くと、ブナ林の歩きやすい道を少し上ったところに、ブナ林に囲まれた山中に忽然と座像が現われた。(写真5)

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 写真5 聖宝の銅像


 そこで一息入れたが、今思えば弥山、標高1895mへ登るための格好の休憩場所であった。

 聖宝をコトババンクでみると、「[832〜909]平安初期の真言宗の僧。大和の人。諸国を遊歴して修行し、後世、修験道の中興と称された」と説明している。
 聖宝座像は第55行所聖宝宿跡で、ネットで検索すると「大峰山七十五靡(なびき)図」に、「吉野・熊野間の大峯山中に祀られ、神仏が宿るとされた道沿いの拝所・行所が靡(なびき)。古くは宿と呼ばれ、120宿あったという。近世には、75の靡に減少した」と説明している。

 1番が「本宮証誠殿」、2番が那智山で、75番は「柳の宿」・辻堂(役行者像)である。
玉置山の第10番、釈迦ケ岳の40番の靡で、2005年(平成17年)7月19日〜20日の1泊で今回の仲間で登っている。

 それより以前に和佐又山から大普賢岳に登った時の途中にあった「笙の窟」は第62番である。その当時奥駈道のことなどにあまり関心がなかった時で、「山中の岩陰に仏が祀っている。こんな厳しい場所になぜ仏が祀られているのか」と不思議に思った記憶がある。

 一息ついて弥山までは聖宝八丁と呼ばれる急登と呼ばれると本には書いているが、紀伊山地の山並み(写真6)や紅葉を見ながら歩いていたのと、駐車してからの最初の急坂の印象が強かったので、苦にならず登れたようだった。
 
 第55行所聖宝宿跡で休憩した後、50分程歩くと紀伊山地の山並みが一望できた。(写真6)

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 写真6 弥山に近い紀伊山地の山並みを一望


 弥山の頂上付近にくると、針葉樹の葉の緑色に交じって枯れたように白い幹が目立つようになってきた。(写真7)

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 写真7 弥山頂上近くの針葉樹


 10時に登り始めて3時間半ほどで弥山小屋にたどり着いた。(写真8) 

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 写真8 弥山小屋付近

 弥山の山頂

 弥山の山頂には天河弁財天の奥社が祀られていた。役行者が弁財天を勧請したのは弥山山頂であることから、大峰本宮ともよばれる天河弁財天の起源とされる。(「吉野・大峰の古道を歩く」から引用)。

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  写真9 天河弁財天の奥社


 弥山山頂から南を見ると、八経ケ岳(1915m)が間近に望めたが、体力的に無理だと判断して私は先に下山して聖宝の銅像のところで待った。

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写真10 弥山山頂から八経ケ岳を望む


 弥山の縞枯れ

 「縞枯れ」のことを書くのに、延々と弥山へ登る話題に手間取ってしまった。
 弥山頂上の天河弁財天へお参りする道で見たこの異様な枯れた木々が縞枯れ(写真11)である。

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 写真11 弥山山頂の縞枯れ


 弥山小屋近くに来ると、木の幹が灰白色になっていて気になっていたが、白く立枯れの木々をみてその異様さに驚いた。立ち枯れにしても山の斜面にこれほど多く、枯れた木にはあまりにも白かった。
 それでも縞枯れの斜面には緑の草があり、遠くには緑の高い木も見られた。

 「縞枯れ」をネットで検索した中で、「ならの生きたち・県民だより・平成24年8月号」に、「絶滅寸前種、シラビソ(シラベ)種子植物マツ科」の中で、シラビソが絶滅に近いことを紹介していた。

 かつて「みのお森の学校」の講義の中で、講師から「シラビソ」と言葉が出てきて、「それは何ですか」と、講義の後で質問したことがある。そのとき、初めて耳にした樹種・シラビソをその後調べることをしていなかった。

上記「ならの生きたち」に、「シラビソが、奈良県は本州南限の生育地なの。未来に残していきたいね」として、Q&A形式で解説していたので引用してみた。

:どんな植物なの
:日本固有の常緑針葉樹で、高さは約 25m、幹の直径は約80cmになるわ。
葉はクリスマスツリーに使うモミの木に似ているけど、樹皮はなめらかで灰白色なの。大峰山系の弥山・八経ヶ岳などの標高1700m以上に生えていて、一部は天然記念物にも指定されているのよ。
:特徴は?
:樹木としてはわりと寿命が短く、同一地域のシラビソが一斉に枯れては稚樹が一斉に生長するというサイクルを繰り返しているのよ。森が白い枯れ木と緑の樹木とで縞模様になるため、「縞枯(しまが)れ」と呼ばれているわ。
:どうして減ってきているの?
:樹皮や稚樹がニホンジカに食べられているのがおもな原因と言われているの
:何か対策があるの?
A:ニホンジカよけの柵を設置することなどを考えているわ。

 世界大百科事典(兜ス凡社)でシラビソ⇒トドマツで調べるようになっていた。
 「トドマツ」の文中後半に、「近縁のシラビソは高さ40mに達し、球果は暗育紫色でやや小さく、球果上部の苞鱗のみ超出する。福島県吾妻山以南の関東・中部地方太平洋側と紀伊半島大峰山系および四国脊梁山系の亜高山帯に分布し、富士山や八ヶ岳には広大な純林もみられる.北八ヶ岳縞枯山では一斉林型の純林が樹齢100年ほどで帯状の集団をなして枯れ、この縞枯れはその中の椎樹の生長に伴って移動する。似た現象は各地のシラビソ林にみられる」と解説している。
 世界大百科事典の「縞枯山」には、同じ様な解説と共に、「八ケ岳山系と奥秩父山系と、西部であって八ケ岳北部に縞枯山という固有名詞もある」という。

 亜高山針葉樹林を代表する「シラビソ」である。かつて志賀高原を訪れたとき当然見ているはずだが、「ああ、そうか、これがシラビソか」と思い出すため、弥山小屋近くで撮った常緑の樹をトリミングしてみた。  

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写真12 弥山小屋付近の常緑のシラビソ


 弥山のシラビソの縞枯れ更新劣化については、ネットで論文等を検索できたが、ここでは、上記「ならの生きものたち」を引用だけにとどめた。

 弥山を無事下山できたことの感謝と反省

 弥山の登頂はしたものの、目の前に見えている八経ケ岳は、近畿、中国地方の最高峰1915mだけに、その足跡を残しておきたかったが、聖宝の銅像で30分ほど待って八経ケ岳へ登ってきた3人を待って下山した。

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 写真13 急いで下山した奥駈道



 先に書いたように、体力温存の状態で下山したつもりだったのに、4時半には駐車場に急ぎ足で下山し、途中でこむら返りを起こしてしまったが、自然塩をがっぽりなめて無事予定通り4時半に国道309号を走ることができた。

 この記事をまとめるに当たり、ネットで国道309号の写真を見てみて、今さらながら「こんな狭い片側交互通行の道を事故なく走っていたのだな」と、運転してくれたSさんに感謝するとともに、8年前は71歳でまだまだお互いに若かった時代だったから登れたのだろうと思う。弥山へ無事登頂でき、こむら返りにも対処できたことなど、満足と感謝がいっぱいの弥山登山だったとこの記事を書きながらも鮮明に覚えていた。

 兵庫県の川西方面へ帰るSさんに、千里中央で無理に降ろしてもらいNさんと意気投合して二人で反省会をした。いつも一緒に飲んでいる仲間なのに、Sさんを出し抜いて二人だけの反省会となった。それほどに、無事下山でき、素晴らしい弥山の魅力に取りつかれたからであろう。今思い出してもSさんに申し訳ないことをしたと思っている。
 飲酒運転がまかり通らない時代だし、Sさんに迷惑をかけたこともあり、それ以降日帰りのハイキングでは車で出かけることをしなくなった。

(平成27年2月10日)


第79話 箕面の滝道は紅葉狩りで大渋滞[2014年11月30日(Sun)]
 今年の11月の3連休は、3日の「文化の日」と23日の「勤労感謝の日」の祝日の前後に2回もあったとはいうものの、毎日が連休の後期高齢者の私には縁がない。
 サラリーマンで忙しくしている息子たちが連休初日にやってきて飲み過ぎてしまった。そこで、連休中日の23日に運動不足解消を兼ねて紅葉真っ盛りの箕面滝道のハイキングに子供や孫たち6人で出かけた。

 滝道へ行く周辺は大渋滞

 我が家から箕面駅までは車で約20分もあれば行けるのだが、箕面市役所の辺りから南北の通りは大渋滞になっていた。市営駐車場で誘導していた係りの人は、「今日は今までで最も多い人出になっている」と話していた。

 箕面駅から滝道へ入った土産物店では、名物のもみじの天ぷらが「本日の分は売り切れました」の張り紙と空っぽのざるが置いてあり、店では明日売るための天ぷらを盛んにあげていた。

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地図1 箕面公園散策マップ(公式サイトから)


 滝道の土産物店を過ぎて、見事な紅葉が見え始めてホッとしたのもつかの間、夫婦橋付近では左側通行で夫婦橋休憩所の方へ下って行く群衆と、森秀次像の方から登ってくる群衆とが交わり、整理員がロープで「下山の人は右側2列で、滝へ行く人は左側4列で」と誘導していたが、このわずか数百メートル進むのに約30分も費やしてしまった。

 昆虫館から瀧安寺付近でやっと歩きやすくなった。龍安寺と本堂と対岸の鳳凰閣に架かる朱塗りの太鼓橋はビューポイントとしていつも撮影ポイントにしているが、写真1で見ると、橋の欄干の色と薄紅色の紅葉とが重なっていた。この朱塗りの橋を入れた写真は新緑の色合いの方がバランスはいいなと思った

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 写真1 龍安寺付近の紅葉


 大混雑だったので、地図1に示す中央やや下の森秀次像には見ることもできなかったが、この滝道を通るときには是非知っておきたい銅像だと思う。森秀次は明治28年(1985)40歳で大阪府会議員のとき、箕面山の公園化に尽くした人である。

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 写真2 滝道沿いに建つ森秀次像

ネットの森秀次像にその経緯を書いていたので、引用してみる。
(www.k4.dion.ne.jp/~nobk/minoh/morihideji.htm)

「箕面の滝やその周辺は、もともとは瀧安寺の寺領であったが、観瀑賞楓の景勝地として、江戸時代以前から天下に知られ、秋ともなると、大阪の商家の町人たちのみならず、広く世の風流子の訪れる地となっていた。

 このため、明治4年、新政府が社寺上地令によって全国の社寺が所有する森林原野をことごとく 国有とした時も、箕面山周辺は公園地と類別され、明治8年には「勝地」の名で分類された。

 その間においても、大阪の人々に、行楽の地として愛し続けられ、 明治19年には、地元の人たちが奉仕によって、一の橋と瀧安寺の間の川沿いに、400間の新たな道路を作った。このような情勢下、箕面山を大阪府の公園と すべしと要望する声が高くなる。この声を受けて、その実現に奔走したのが森秀次である」と書いている。

森秀次像と濱口雄幸の書

 蛇足ながら、今年2月13日に公開した「第73話 濱口雄幸と雄幸橋」の中で、この銅像の題字の筆跡(写真2)が濱口雄幸であるや濱口雄幸の人物像に触れた。 

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 写真3 森秀次像の題字は濱口雄幸の書


 濱口雄幸は大蔵官僚から、内務大臣や大蔵大臣の後、立憲民主党総裁として第27代の昭和4年(1929年)ころの内閣総理大臣になっている。

 上記ネットから抜粋すると、森秀次は明治28年に大阪府議員から明治36年に立憲民主党から衆議院議員になり、大正15年(1926)に死没している。
箕面山の大阪府の公園化に奔走した森秀次の功績が昭和5年に建てられた時の総理大臣濱口雄幸が、同じ党に所属していた森秀次をたたえた銅像の裏面に揮毫した。

 濱口雄幸はこの題字を揮毫してしばらく後の昭和5年11月に東京駅頭で右翼の凶弾を受け、「男子の本懐なり」の言葉を残して翌年世を去っている。

箕面の大滝へ

 龍安寺近くを過ぎたころ、一緒に歩いていた次女が「箕面の滝までもっと近いと思っていたのに、あとどのくらいかかるの?」と聞いてきた。「その先に中間点があるから、未だ半分も歩いていない!」と応えた。

 箕面川に沿って結構きつい坂があるが、息がはずむころには緩やかになりホッとする滝道である。やがて渓流沿いに「滝まで1.4キロ、駅まで1.4キロ」の表示が出てきて、中間点まで歩いてきたことを確認できた。

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写真4 山の尾根付近までが紅葉


 今回の紅葉狩りでは、もう少し早く出発すれば勝尾寺への旧参道から滝道に出るコースを考えていた。勝尾寺から「政の茶屋園地」を経て大滝へ下るルートの右手に見える山なみはいろんな彩りの紅葉が山一面に広がっていて見応えがある。写真4では渓流沿いの紅葉に遮られて山の頂上付近までの紅葉が紹介できない。

 数年前に政の茶屋園地から下っていく道すがらの山一面の紅葉が強く印象に残っているだけに、もう少し早く出発していれば今秋の紅葉をもっと愛でることができただろうと思うと残念であった。

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写真5 大滝への狭い道は大混雑


 これだけ多くに人が紅葉狩りに出かけるのは、箕面駅から約2.8キロと近くて、木々に囲まれた渓流沿いを歩けるからであろう。また、箕面駅の標高が83m、滝にもっとも近い滝見橋の標高が約200mで、標高差が約120mとあまりきつい坂道がないことが老いも若きも歩けるからだろう。その大渋滞の人の中に外国人も結構歩いていた。

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写真6 箕面大滝の紅葉



箕面の市街地は北摂山地と千里丘陵に挟まれた地溝帯

 箕面滝道ガイド
(www.k4.dion.ne.jp/~nobk/minoh/guide.htm )
の「箕面大滝」に、「箕面大滝は数十万年前に滝道の入口の近くに出来たが、次第に岩石が浸食されて後退してゆき、輝緑凝灰岩(緑色岩)と云う固い岩に行き着いて、ここで後退が止まっているのである」と書いていた。

 また、箕面の社会地理学
(www.k4.dion.ne.jp/~nobk/minoh/shakai-chiri.htm)
の箕面の地理的条件に、「箕面の主市域は南北2つの山地に挟まれた谷筋であり、しかも、東と西へ流れる川の分水嶺の部分に当たる。すなわち、北摂山地と千里丘陵との間 に、有馬高槻断層群によって形成された狭い帯状の地溝帯である箕面平野をその主市域とするが、その平野は、その中央辺り、今宮と外院を結ぶ線のあたりを峠の稜線として、東と西へ緩傾斜し、東は安威川水系、西は猪名川水系となっている。箕面平野はその分水嶺である」と書いていた。

 箕面市内に住んで26年になるが、時々ドーンと一瞬強く揺れることがある。長く続かないし、テレビの地震情報では震度1か、2程度などから判断して近くを走る有馬高槻構造線上が震源だと判断している。

 地溝帯のことを調べたのは、2012年8月13日の「第57話 能登半島をゆく」で口能登に邑知潟(おうちがた)地溝帯が奥能登丘陵と並行に走り、半島最大の平野をなす」と書いていて、断層と地溝帯のことを初めて知った。

 その地溝帯とは、「ほぼ平行に位置する断層によって区切られ、峡谷の形状をなしている地塊および地形のことである。侵食によってできた谷とは異なり、基本的に正断層の活動によって形成される」。
 
 長年住んでいる箕面の市街地が千里丘陵と北摂山地に挟まれた平野部ともいえる谷間の地溝帯であり、猪名川と安威川との分水嶺だと言うことを初めて知った。

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地図2 箕面市内は地溝帯の中にある



 平凡社の世界大百科辞典「日本地図」からその一部に北に北摂山地、南に千里丘陵を、東に安威川を、西に猪名川を入れてなるほどと納得できた。

 上記ネットの続きに「西の猪名川水系も、東の安威川水系も、それぞれに下流に広い平野を持っている。このようにして、細長い箕面平野は、西の猪名川下流平野と東の安威川下流平野を結んだ回廊地帯(細い帯紐、砂時計のくびれた頸)である」とも書いていた。

 今回のブログで、紅葉狩りのことを書いていたら、脱線して箕面滝道の成り立ちなどを検索していて、私が住んでいる土地の興味ある話題を見つけることができた。
 予期していなかった箕面市内の地形や地質など興味ある話題を、今後もう少し調べてみたいと思っている。

(平成26年11月30日)


第78話 昭和27年中学校卒業の同期会に参加して[2014年11月03日(Mon)]
 昭和27(1952)年に吹田市立の中学校を卒業した同期会が10月25日の土曜日の午後1時から、御堂筋線江坂駅近くのホテルであった。今年で第11回目の出席者は44人で今までで最も少なかった。

 第1回は、今から20年前の平成6年(1994年)で、還暦前でみんな元気な頃だったから、同期で卒業した422人のうち、約2割強の95人が参加したころから見れば、参加者がどんどん減っている。
 同期の卒業生は、昭和11年か、12年の早生まれ人だから、今年77歳か、78歳と平均寿命に近い年齢である。

 ちなみに、厚生労働省が今年7月31日に発表した「簡易生命表」によると、「日本人男性の平均寿命が初めて80歳を超えた。2013年の平均寿命が前年を0.27歳上回り、80.21歳となった。女性は前年より0.2歳上がって過去最高の86.61歳となり、2年連続の世界一だった」という。

 卒業した年が昭和27年は昭和20年の終戦から7年が経っていたが、貧しい時代であった。入学した昭和24年は、旧制の中学校があったころで、十分な教室がなく、午後から授業が始まるなどの2部制の混乱期に入学している。

終戦前後の思い出


 同期会があった2日後の10月27日に近所の親しい人たちとの懇親会があった。飲み会では「終戦があった昭和20年8月15日はどうしていたか」という話題が出た。
 7人のうち、昭和1桁代が二人いて軍事教練などを経験していた。
 私は3年生の1年間を父の里の福知山へ縁故疎開して過ごした。終戦の前日8月14日に、福知山の石原飛行場へ友人と見に行った。

 ネットの福知山航空基地(石原飛行場)跡地:空港散策・3:So-netブログからその一部を引用すると、耕地復旧碑に「突如我等農村民の生命の糧であり経済生活の根源である美し田ふくよかに繁る枽園何れも飛行場になるといふ事実が眼の前に展開されるに至り殆ど之が完成したのは昭和二十年六月の頃ほ■てあつた斯くして耕作地の殆んどは飛行場となり将来の生活に大きな暗い影を投じたのであつたが……」と書いてあった。

 飛行場へ行ったことだけはしっかり覚えているが、その前後の経緯は全く記憶にない。夏休みで暇を持て余してだかけたのだろうか。その翌日の昼過ぎに、村から2キロほど歩いて由良川に架かる音無瀬橋を渡って広小路の散髪屋へ出かけた。店の人から「日本が戦争に負けた」と話していて戦争が終わったことを知った。
 家に帰って母親にそのことを告げると「そういえば重大放送があると言っていたね」とそうびっくりした様子でもなかったと記憶している。

 昭和20年度の1年間を福知山の小学校で過ごした後、吹田の学校へ戻った。学校に入学昭和18年は国民学校だったが、卒業した昭和24年には小学校になっていた。

 朝日クロニクル「週刊20世紀・1946(闇市と民主主義)」で当時の写真から、思い出す写真を引用してみた。

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写真1 食料配給の様子(朝日クロニクルから)


 写真1には「食料配給は滞りがち。その配給には、さすがに笑顔もでる。『進駐軍ご好意のカルフォルニア米放出』との張り紙が出ているので特配だったようだ」と説明している。

 学校給食が始まったのは昭和22年の5年生からだったと記憶しているが、4年生の時は弁当を持って行った。米粒などはとても持って行けるような状況ではなかった。家で焼いた米ぬかを混ぜたパンを持って行かされていたが、弁当箱を開けたら空っぽだったことがある。当時はそんなパンでも食べられない人が居たほどにひもじい生活だった。

 もう1枚は「DDT強制散布」(写真2)である。

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写真2 DDT強制散布(朝日クロニクルから)


 解説には「シラミが媒介する発疹チフスが大流行し、この年全国の患者3万人以上、約3350人が死亡した」と書いていて、吹田の小学校でも頭や背中に白い粉の薬を散布されたのは、昭和21年であった。

 昭和27年・中学校卒業の頃

 中学校は、3つの小学校が集まって一つの中学校になっていた。1クラスが50人以上で1学年8クラスの編成だった。
 
 戦後7年の日本は平和条約発効でようやく国際社会に復帰し、ヘルシンキ五輪で体操が活躍した年である。「血のメーデー」と言われ、吹田操車場を襲った吹田事件など各地で乱闘があった。その日、高校へは国鉄吹田駅から茨木まで通学していて、1台遅い電車に乗っていたらその乱闘に巻き込まれるところだった。
 また、アメリカが水爆実験を成功させている。また戦後の1番機として前年に就航した旅客機「もく星」号が三原山に墜落した。

 写真3には「小学校の児童数は増える一方で、教室の数が追い付かない。教室をつい立てで仕切って2クラスが使ったり、児童たちが午前と午後に分かれて登校する2部授業を余儀なくされる学校が多かった」と解説している。
 私たちの中学校では昭和24年に入学した当初は午前と午後に登校する2部授業だったが、しばらくしてその後解消している。 

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写真3 2部授業の様子(朝日クロニクルから)


 小学校同級生Sさんのこと

 今回の同期会の少し前の6月に、小学校6年生の同窓会があったが、共通の話題だけで終わってしまった。今回の会場では8人ほどの椅子席が8テーブルセットされていて、宴たけなわのころには、お互いに話し相手の椅子に移動できたので、小学校6年の同窓だったが、その後話す機会がなかったSさんと語り合うことができた。

 戦後の物資のなかった時代で中学入学当時通学かばんなど手に入らなかったのだろう。父がごわごわした灰色の硬い布地を手に入れて、洋裁店を営んでいたSさんの店で作ってもらったことがある。父が勤めていた造船会社では給料の遅配があったし、世界音楽全集という分厚い本が消えてなくなった。古本で換金したのだろうが、貧しい時代だった。

 中学校から高等学校へ進学したのは半分ほどだった。素晴らしい頭脳のSさんは中学校だけで進学しなかった。そのことを彼に尋ねてみた。その時のM校長は北野高校の卒業なのでその辺の事情からか、Sさんに「北野の夜間へ通い、昼間は新聞社の小僧から働いて将来新聞記者を目指したら?」と勧めていたそうだ。担任の先生でなく、校長からそんなアドバイスを受けたほどに優秀な生徒だった。
 彼は松下電器(現パナソニック)に決まっていたようで、父親から「松下幸之助さんは小学校しか出ていなかったが、会社を経営するまでになっている会社だから、頑張れば学歴は関係ない」と言われて中学校を卒業してすぐに会社勤めを選んだ。

 会社での仕事のことは詳しく聞けなかったが、学卒の人と十分に議論ができる実力を発揮できたという。そして、それ相応のポストにいたとき、中国へ進出する提案をしたら、「提案した君が社長で行け」と言われて、中国に進出した新しい会社の社長として勤め上げたという。戦後の混乱期で進学することが難しかった時代だったが、それにもめげずに頑張ってきたSさんの話に感動した。
 
100通りのことば「技術スル事ニ深イ喜ビヲ」

 昭和27年(1952年)に吹田市立の中学校を卒業したので、今年で62年を過ぎた。十年一昔で言えば、その6倍以上の十年六昔である。

 上記の写真で引用した「週刊20世紀」の1952には、その年を代表する「100通りのことば」が紹介している。1952年は、辰野和男さんの「技術スル事ニ深イ喜ビヲ」で、ホンダの創業者・本田宗一郎とソニーの創業者・井深大のことを書いている。
 当時の日本が世界に羽ばたく助走の時代だったと思う。そうした時代に中学校から進学する者、社会へ羽ばたいていった時代を振り返って辰野和男さんの文章を引用してみた。

 「この年、二人の男が別々に渡米している。一人はホンダの本田宗一郎で、一人はソニーの井深大である。共に戦後、オンボロ工場から出発し、日本を代表する企業に成長させた起業家だ。このときの渡米こそ、ホンダとソニーの礎をつくるものだった。
 アメリカの技術力に驚嘆した本田は帰国後、ミカン箱の上に立って社員に演説した。『世界一だ、世界一をめざすんだ』
 『夢と若さ』が大好きだった本田は、初の本格的オートバイを世に送った時も『ドリーム号』と名づけた。54年、『マン島・Tレース優勝へ』を宣言して社員を唖然とさせたことは有名だが、そういう不可能を夢見る力がホンダを大きくした。

 井深もやはり、ニューヨークの豊かさと活気に圧倒された。やがて、ウエスタン・エレクトリック社がトランジスタの特許を望む会社を求めているという情報をつかんで、これにしがみつく。無茶だ、時期尚早だといわれながらも、井深と盛田昭夫は技術者たちと共に渾身の仕事を続け、日本初のトランジスタラジオを完成させるのだ。

 本田は社員にスパナを投げつけながら現場で油にまみれ、『作って喜ぶ』ことを生きがいにした。井深もまた、ソニーの前身である東京通信工業の設立の辞に『技術スル事ニ深イ喜ビヲ感ジ』と書いた。作ることの喜びを謳歌した二人には、焼け跡から出発した技術者の颯爽とした心意気がある。同じ年に別々に渡米した二人は後に生涯の友となる。何かの因縁か」と書いている。戦後の日本の先陣を切った偉大な経営者のすごい眼力だろう。

学校の讃歌を合唱して散会

 私たちが卒業した時代に校歌はなかったが、音楽を教えてもらったN先生の作曲による讃歌があり、同期会では必ずこれを全員で合唱することにしている。
 宴会の最後に全員起立して「……ひかげよき 千里の山に 寥々の風は 身を吹く さらば友よ 学びやの名を ほがらかに ひとしくずせん……」と60年前に習った讃歌をみんな忘れずにしっかりと歌っていた。「学びや」は、学校、校舎を意味する言葉で「学び舎」と書く。

 この「学び舎」はいつの間にか、移転してしまって昔の面影は無くなってしまった。現在は新しく建て替えられてスーパーになっている。

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写真4 思い出がいっぱい詰まった学び舎


 この思い出の詰まった学び舎をなつかしい写真で思い出している。同期会は平成25年の第10回から毎年実施している。あと何年続けられるか分からないが、同じ学び舎で戦後の混乱期に過ごした仲間に出会えるのは楽しみである。

 (平成26年11月3日)


第77話 運動会の風景[2014年09月30日(Tue)]
 雲一つない好天に恵まれた9月27日の土曜日、箕面市内の各小学校では運動会が開催されていた。孫が同じ小学校の5年生と6年生で、時々我が家に来ては団体演技のソーラン節や、組体操の練習をしていたので、その成果を是非見たいと出かけた。

 昨年までは、運動場横の駐輪場が解放されていたが、学校の前の道路は、カラーコーンが並べられていて駐車できないようになっていた。自転車事故が多発していて駐車禁止の横断幕が張られていて、周辺には駐輪している自転車などは見られなかった。
 65年以上前に体験してきた私の運動会を思い出しながら、今の運動会の風景を探訪してきた。
運動会プログラムには、種別として徒競走、団体競技、団体演技、その他として、全学年の体操、3〜6年生の紅白対抗リレー、PTA参加の玉入れの24の種目が組まれていた。

応援風景


 8時50分に開会だったが、8時過ぎにはシートを持っていく人を見掛けた。

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写真1 木陰にシートを敷いて応援時に前へ移動


 早くに観覧席にシートを敷いた人は、写真2のように日差しの強い炎天下で帽子などを被ってビデオカメラをセットしていた。
 後ろの方では簡易の脚立やカメラ用三脚でベストショットを撮るべく構えていた人も可なり見られた。

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 写真2 炎天下じっくり観戦する人たち


 生徒たちも、赤組、白組に分かれて、応援合戦を繰り広げていた。
 写真3 旗と白や赤のビニールひもを割いてはたきのようなリボンを振りかざしていた。

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写真3 生徒たちの応援風景


徒競走の風景

 徒競走は運動会のプログラムの中ではメイン中のメインで各学年が、校庭で定距離を走る速さを競う競技である。各学年とも「徒走」として、1年生は「かけっこ大スキ151」、2年生は「ダッシュ!ダッシュ!!ダッシュ!!!」、3年生は「力いっぱい走ろうYO」、4年生は「全力疾走80m」、5年生は「走RUN」、6年生は「Runnner!!」とタイトルが付けている。   

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 写真4 低学年の徒競走   
 

 低学年には走る距離が書いていないが、30メートルくらいだろうか。
 4年生は全力疾走80メートルと書いている。

 真5は5年生の「走RUN」である。小学5年の孫に、「背の高い人、低い人などバラバラだが、早い人と遅い人の組み合わせは、どうしているのか」と聞くと、タイムがほぼ同じ人を組み合わせていると言っていた。
 80メートルではカーブ区間が入るので、スタート地点でコーナーの内側と外側では、追い抜くとき外側では不利になるだろうと思ったが、運動場の大きさや、全力疾走を競っていてタイムを競うのではないから、やむをえないのだろうと思った。

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写真5 5年生の徒競走「走RUN」


団体競技の風景

 団体競技では、徒競走と共に、紅白の対抗で得点種目になっているから、力が入っていた。1年生には「玉入れ」、3年生には「まわって まわってジャンプしYO!」がある。

 私の時代でも、騎馬戦という団体競技があった。
 4人で組んだ騎馬で帽子を奪い合う競技で、運動会の花形である。プログラムには「天下分け目 小野原の戦い」とあり、6年生の団体競技である。

 ネットの必勝法によると、「腕のリーチが長い人が有利ではなく、大切なのは高さである。騎馬を4人でつくるときは、いかに高さを確保できるかを一番に考えて」と書いていた。たまたまシャッターを切った写真6では、ネットのアドバイスどおり、騎馬の高さが断然有利であると思った。

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写真6 帽子を奪い合う団体競技・騎馬戦


「綱引き」も昔からある競技で、テレビ中継などで全国規模の団体競技で行われている。4年生の団体競技で、左右交替しても白組が勝利した。

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写真7 4年生のつなひき合戦


 団体競技の中で目を引いたのは、2年生の「キャタピラリレー」であった。
 キャタピラーと言えば、土木工事のブルドーザーなどの重機で使っている無限軌道である。

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写真8 2年生のキャタピラリレー


 写真8で分かるように、段ボールだろうか、その中に2年生2人が入ってリレーする団体競技である。キャタピラーは、本来芋虫を意味しているが、段ボールの輪は芋虫のように見えた。中に入っている二人は前が見えないから、リレー相手の方から外れてしまって先生が時々軌道修正をしていた。

団体演技の風景

 徒競走と共に、団体演技は各学年とも組み込まれている。1年生は「はっぴぃ祭り151」、2年生は「レッツ!ダンス!ダンス!!ダンス!!!」では、手にビニールのひらひらを操りながら、曲に合わせて踊っていた。

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写真9 手にビニールの飾りを振って踊る2年生


 5年生の孫は、我が家で1年先輩の孫からスマートフォンでソーラン節を奏でながら踊りを練習していたから、例年5年生はソーラン節なのだろう。背中にそれぞれ想いの漢字1字を白色のペイントでかきこんだ黒色の法被を着て踊っていた。孫は「祭」と書いていたが、「絆」「花」「希」などいろいろ見られた。

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写真10 黒の法被を着て躍る5年生


 「ソーラン節」が午前の部の最後なら、6年生の団体演技「信じる そして つながる」の組体操は午後の部の最後で見せ場を作っていた。6年生は4クラスで146人が参加している。孫は練習中にねんざをしたと言ってテーピングをしていたが、医者に行くと、『休め』といわれるかもしれないから、運動会が終わるまでは行かないと張り切っていた。

 戦後間もない食糧事情の厳しい時期でも運動会の中で組体操があり、体の大きい私はピラミッドの一番下で上の人を支えていた。この時、笛の合図で高かったピラミッドは前に倒れて平べったくなったことを思い出していた。


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写真11 ウェーブを入れた組体操から


 今回見た演技では写真11のように、ウェーブをする変化をつけていた。静かな音楽が流れていて、演技の中の変わり目は先生の笛の合図が聞こえた。

 組体操の最後の演技は7段のピラミッドである。掛け声は「セイノー」と笛でどんどん高くなっていく。組み上がっていく毎に、目立たない位置で先生が目配りしていた。

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写真12 最後の見せ場6年生のピラミッド


 この団体演技で写真を撮った時間だけでも20分であった。入退場を入れると30分程の熱演だった。
 私は後頭部をカンカン照りの日射しに退散したため、退場の場面は見られなかったが、完璧な演技に生徒たちも観覧席からも涙をぬぐう様子が見られたという。

 運動会(ウィキペディア)の歴史を見ると、「日本で最初に行われた運動会は定説によれば,1874年3月21日、海軍兵学校で行われた競闘遊戯会であるとされる(イギリス人英語教師フレデリック・ウィリアム・ストレンジの指導によって行われた)とされている。今から140年前である。

 それから今日も、今後も学校の重要な行事として脈々と運動会は続けられていくだろう。私が経験した65年前とは演技などに動的な動作を入れるなど見ごたえのあるものになっている。久し振りに、若かったころを思い出しながら楽しむことができた。

(平成26年9月30日)


第76話 第30回全国高等学校カヌー選手権大会を観戦して[2014年08月14日(Thu)]
 残暑お見舞い申し上げます。

 毎年8月初旬には、インターハイ・カヌー選手権大会に孫の応援に出かけている。2年前の石川県小松市木場潟カヌー競技場で行われた大会では、カヌー競技を初めて観戦したので、第56話として平成24年8月10日に公開した。
 昨年は大分県豊後高田市で開催された時には、大阪から約700キロを車で高速道路を利用して観戦してきた。
 今年は8月6日から5日間、富士五湖の一つ精進湖で第30回大会(写真1)が開催された。

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写真1 大テント内の大会の案内板

 カヌー競技を開催できる場所は限られている。過去30回の開催場所のうち、21回がここ精進湖で開催されてきた。
 孫が3年間継続して漕いでくれたお陰で毎年観戦することができた。高校3年生での出場なので、今回が最後の観戦となった。

 パドルも軽やかに!

 8月6日の開会式は競技がないので、6日夜11時ころ、名神高速道路豊中ICから、精進湖に向けて出発した。
 6時過ぎには精進湖に着いたが、コンビニでパンとコーヒーを買うには7時まで待たなければならなかった。

 湖を囲む湖畔道路は、北側に精進山(標高1409m)や五湖山が迫っていて、その裾と湖の間の狭い道路が走っている。南にはどっかりとそびえ立つ富士山、その裾野に広がる富士山原生林、湖の東側に青木ケ原樹海に囲まれていて、富士五湖の中では最も小さな湖である。
 民宿辺りに僅かに店があった。初めて見た精進湖は、早朝はわずかに頭が見える程度だった。

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図1 精進湖(精進湖観光協会のパンフレットから)


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写真2 富士山を背景に練習風景(8時前撮影)


 折から先月29日にマリアナ諸島付近で発生した台風11号が、次第に勢力を強めながら西日本に近づき、その影響だろうか、富士山にかかる雲の動きが早く、昼には雲が取れてくっきりとその山容を見ることができた。

 昼食で精進湖畔の他手合浜(たてごうはま)の前のレストランに入った。富士山を眺めた時に、大きな富士山の手前に小さな山が重なって見えた。店員に「富士山の前に見える低い山は?」と聞くと「富士山が子どもを抱いているように見えることから『子抱き富士』と名付けられている」と教えてくれた。

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写真3 富士山のもと、パドルも軽やかに!


 こっぴと 漕ぐじゃん!!いいさょ

 応援に駆け付けている人たちのTシャツを見ると、どこから来たのか分かることがある。
写真4のTシャツを見て、今朝ドラでTV視聴率ランキング1位の「花子とアン」で、甲府出身の主人公ハナがよく使う「こっぴと」などの方言を入れている。「こっぴと」は、「しっかりと」と意味する甲州弁だ。

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写真4 「こっぴと 漕ぐじゃん!!」のTシャツを着た応援隊


 今回は精進湖から30分程の河口湖湖畔のコテージに宿泊したが、管理人が7月31日〜8月3日までここ河口湖でインターハイ・ボート競技があったと話していた。
 6日夜からの深夜に大阪から富士山までやってきて7日の夜は早めに就寝したおかげで、6時前に湖畔を散策することができた。
早朝にもかかわらずペアかシングルのボートを練習をしていた。(写真5)

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 写真5 河口湖で早朝からボート競技の練習


 河口湖から精進湖へ向かう途中、ボート競技のコースを車窓から見ることができた。

 精進湖カヌー競技のコース

 全国1都1道2府43県のチームが参加する高等学校選手権大会カヌー競技では、500メートルに、9レーンのカヌー用コースが必要である。

 一昨年小松市木場潟カヌー競技場での開催された時、宮城県から来たカヌー競技の役員と話す機会があったとき、「学校からそう遠くない鳴瀬川のダム湖のコースです」と話していた。
 今回の精進湖のコース(写真6)は、富士五湖では最も小さい湖とはいえ、十分な面積と他手合浜の砂場があって大会本部や観覧席(写真7)などがとれるスペースがあり、今までに70%もこの精進湖で開催されてきた理由だろうと思った。

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写真6 精進湖のカヌー競技のコース


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 写真7 他手合浜の会場の全景


 スタート台

 精進湖のカヌー競技のコースでは、写真6の手前のスタートラインから、ゴールのある山の方に向って漕いで行く。インターハイの競技では、距離は500メートルと200メートルがあり、シングル(1人乗り)、ペア(2人乗り)、フォア(4人乗り)である。

 使用するパドルの違いによって「カナディアンカヌー」と「カヤック」の競技に区分される。カナディアンカヌーは、シングル・ブレードパドルといって、水を漕ぐブレードが片方だけに付いたパドルが使用され、 艇は通常オープンデッキになっている。カヤックは左右にブレードが付いたダブル・ブレードパドルが使用されている。

 精進湖のスタートライン(写真8)は、富士山の裾野に広がる青木ケ原樹海側にあり、地形から近くで見ることができなかった。

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 写真8 青木ケ原樹海側の出発台


 一昨年の小松市木場潟コースの時は、スタート地点を間近で見ることができた

 写真9の2つの赤い浮きの間に、黄色い器具に先端を突っ込んでそろえる。
 スターターが「出艇1分前」の合図があって、「レディー、セット」でパドルを構えて、「ゴー」の合図で漕ピストルとは違うだろうが、「バーン」と合図音が也、いっせいに漕ぎ始める。選手に聞いた話では、「バーン」と鳴ると、先端で止めていた浮き(黄色)のようなものが、取り除かれて漕ぎ出すと教えてくれた。(写真9)

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写真9 先端を揃えている浮き


 スタート台は写真8では鮮明でないが、木場潟で撮ったスタート台と同じようなものであろう。(写真10)

 写真10 カヌー競技のスタート台


スタート台の転覆
 8月9日からの競技は、500mから200mにスタート地点をゴールへ近づけて8時半から開始された。台風11号の影響を考慮して、10日の決勝などは9日に繰り上げて9日に大会を終わらせるために、時間などが繰り上げられ、表彰式等は省略された。
 天候は曇りだったが、昼過ぎに僅かに雨が降りかけたが、終了まで雨に降られることはなかった。
 競技の合間に、気象条件が発表されていたが、9日の10時過ぎだったか、湿度65%、気温22℃、風速3m/sec と言っていた。 その前日までの風速が1.5m/secと言っていたから、台風11号が近づいているようだった。そんな最中にレースが40分も中断してしまった。ズームアップして見ると、スタート台が転覆しているのが見えた。(写真11)

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 写真11 転覆したスタート台


 話によると、スタート台に人が乗りすぎたのが原因だそうだ。 30回もの会を重ねてのトラブルで、どう対処するのか、今日中に終えなければならないのに、役員さんらは、ボートであわただしく動いていた。

 40分の遅れで、「スタートはフリーで行う」とアナウンスがあった。上記のような器具と電気的、機械的なスタートが開発されていない時代に戻った形であった。多少の不公平さは免れないが、競技とはそんな形から出発したことを思えば、適切な処置だったと思う。
 そのうち、500メートル地点のスタート台の装置を移動してきたようで、合理的なスタートに戻っていた。

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写真12 朝9時前のレース風景


 白熱するレース

 朝のうちは雲の切れ目から見えていた富士山(写真12)も、午後2時ころの準決勝のときには雲に覆われたままの白熱したレースになり、艇が沈没してしまったり、コースを外れたりする事態もあった。

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  写真13 レースの途中で艇の沈没


 数あるレースの中でも、4人乗りのカナディアンカヌーは、立て膝の姿勢で(写真14)、片側のみをパドルで操作して艇を進める力強く漕ぐ、迫力ある動に対して、バックに見える富士山は、悠然と構えた姿をレースを見下しているかのようだ。何とも対照的な情景に満足感を覚えた。

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  写真14 立て膝の4人が力強く漕ぐカナディアンレース


 台風11号は10日午前6時過ぎに高知県安芸市付近に上陸し、近畿地方を縦断して日本各地に大きな被害をもたらした。
 幸いに第30回インターハイ・カヌー競技は9日の夕方に終え、帰りは第二名神の一部で通行止めはあったものの、関ヶ原・米原の名神高速道路は、帰省ラッシュに巻き込まれることもなく、土砂降りの雨にもあわずに、10日の午前1時半に帰宅することができた。

 (平成26年8月14日)



第75話 元山上口駅から千光寺を経て暗峠を下る[2014年06月22日(Sun)]
 今年の梅雨入りは早かった。平年差に比べて3日早く6月4日ごろだという。その6月4日にいつものハイキング仲間7人が元山上口で集合し、近鉄の「てくてくまっぷ・千光寺・鳴川峠コース」を歩いてきた。
 午後から雨の予報が出ていたので、皆が早く集合していて予定時間より30分も早く出発できた。

 集合場所の「元山上口駅」には、幹事からの案内に「もとさんじょうぐち」とひらがなでも書いてくれていて助かった。
 駅を出たところに「役行者御旧跡女人山上道 元山上 千光寺」(写真1)があり、役行者にゆかりの道だと知った。

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写真1 女人山上道の道標


 女人山上道のいわれ

 千光寺で自伝を読むと「役行者(小角)は、今から1380年前の舒明天皇6年(634)に、大和国葛木上郡茅原の郷に生まれたというから、蘇我氏が滅び、大化の改新が始まって頃の時代である。660年頃、生駒明神に参詣のとき、ご神託により役小角は鳴川の里に入り、小さな草堂を建て、漆の木で千手観音を刻み、日夜 荒行に励まれたとのこと。その小角の身を案じた自専女(母)は、従者と共に鳴川の里に登り、小角と共に修行していたが、小角が多くの山々の中に不思議な光を放つ山を見て霊威を感じ、母を鳴川に残して熊野から大峰山系に入り 山上ケ嶽に登りここを修行根本道場と定めた。役行者の母・自専女は鳴川の里に残り修行を続けられ、後世の人々が鳴川千光寺を“元の山上”と呼び、“女人山上”と称し、女人の修行道場として栄えた」という。

檪(イチ)原川沿いを登っていく

 木篇に楽と書いた比較的簡単な文字だのに読めなかったので、畑仕事をしていた老人に尋ねると「イチ」と応えてくれたが、「木の名前に『イチ』なんてあったかな?」と首をかしげるばかりだった。

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写真2 檪原川沿いを歩く


 シャッターと景色を見ながらデジカメのシャッターを押しながら歩くだけだったが、一休みの時老眼鏡でマップを見て檪原川沿いに流へ登って行っていることがわかった。
 この山上道の周辺には竹藪がはびこっているが、ほとんど放置された竹林になっていた(写真3)。

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写真3 放置された竹林


 だんだんと道幅が狭くなってきた。頭上に谷間を跨いだコンクリート橋が見えた。
 こんな山中の谷間に比較的長いスパンのPC橋が架かっていて幹線道路のルートでもあるまいと思いつつ、帰宅して調べてみた。信貴生駒スカイラインだった。生駒山地を南北に貫く峠道で、昭和30年代に開通している有料道路である。

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檪原川の谷間を横過するPC橋


 谷間を跨ぐ橋の下をくぐった先で前方から来た女性に出会った。
「千光寺はまだ先ですか」と尋ねると「この先に清滝石仏群の磨崖仏があり、きれいなところですよ。そこからもう少しで千光寺です」と教えてくれた。

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写真5 谷間を跨ぐ橋の下あたりは狭い山道


 狭い山道(写真5)の先に、清流に架かった小さな橋が見えた(写真6)。「渡ることができるな」と思うほど細い鋼鉄製の太鼓橋で床の板は腐食しているものの、渡れないことはなかった。

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写真6 渓流に架かった橋


清滝仏像群とゆるぎ地蔵

 橋の前方に磨崖仏(露出した岩層面に彫刻された石仏)で、浮彫の仏像が見えた。(写真7)。
 大きな石の中央の四辺形の中に、5体の小さな仏像が彫られていた。

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 写真6 橋の前方に浮彫りの五尊仏


 以前、剣尾山(能勢町と亀岡市)に登ったとき、線刻の磨崖仏をみていたので、あたりを見回すと、線刻の磨崖仏もあった。(写真7)

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写真7 線刻の磨崖仏


 これらの磨崖仏は平群町指定文化財・清滝石仏群で、そのホームページによると、中心となる線刻地蔵立像(写真7)は、「八尺地蔵と呼ばれるが、実際はさらに大きく、総高3.37m、仏身が2.9m あり、頭光月輪径は1.0mを計る。蓮華座上に立ち、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ姿で、頭部は薄肉彫りで、他を線刻で表現している。銘はないが、その意 匠から鎌倉中期の優品である」と紹介している。

 千光寺に近づくと、狭い谷間に瓦屋根の比較的新しい民家の集落が広がっていた。(写真8)

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写真8 千光寺近くの集落


 曲り角に「平群町指定文化財ゆるぎ地蔵」とあり、デジカメに記録しておいた。(写真9)

 平群町のホームページによると、「紀年銘から元寇・弘安の役(1281年)に際して国家的危機を回避するために立てられた尊像と考えられる。その後、造立の意味が忘れられ、信心すると病気などの痛みが揺るぐ(消える)との身近な信仰が生まれ、今日の呼び名となっている」と書いていて、このお地蔵さんは、今から730年ほど前に立てられたようである。

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写真9 平群町指定文化財・ゆるぎ地蔵


 ゆるぎ地蔵あたりは平群町鳴川集落の最奥にある。
 千光寺は、女性も修行ができる“女人山上”として栄えたという。のちに天武天皇12年(683)、勅願により伽藍を建て、千光寺と改め、かつては多くの塔頭があったが、室町時代の1540年頃(天文年間)兵火にかかって、1580年頃(天正年間)松永久秀に寺領を没収され、自然に伽藍も衰退していった。

 千光寺境内

 元山上駅を10時に出発して11時過ぎに千光寺山門(写真10)に着いた。

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 写真10 千光寺の山門


 山門への階段の両側には同じ姿の寄進された座像がびっしりと並んでいた。(写真11)

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写真11 階段の両側に寄進された役行者の座像


 おそらく役行者の像だろうと思い、図書館で「修験同の開祖・役行者その足跡に迫る(伊藤松雄著・文芸社)の表紙と同じ姿だった。
 平凡社の世界大百科事典によると、「役行者の画像や彫刻は数多く作られたが、その姿は僧衣に袈裟をまとい、長いひげをたくわえ、手には錫杖を持ち……」とあり、上記本の裏表紙(写真12)に模した座像が、50体はあろうかと思われた。

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写真12 役行者座像(文芸社の本の表紙から)

 役行者について

 関西の身近なハイキングコースを歩いていると、役行者が修業した場所とか、ゆかりのある寺に遭遇する。

 身近なところでは、箕面大滝の道すがらの瀧安寺は、上記「修験道の開祖・役行者(伊藤松雄著・文芸社)によると、「斉明天皇4年(658)、役行者は大滝の下で苦修練行をし、弁財天の助法を受けて、ついに悟道し、そこで、役行者は報恩のために滝のそばに堂を建て、弁財天を祀り、箕面寺と称したのがこの寺の起源で、開基は役行者である」という。

 千光寺を訪れたのを機会に、世界大百科事典(平凡社)から引用してみると、「7世紀末に大和国の葛城(木)山を中心に活動した呪術(神や精霊などの超自然的力や神秘的な力に働きかけ、種々の願望をかなえようとする行為、および信念)者、生没年不詳。役小角、役君(えんのきみ)などとも呼ばれ、後に修験道の開祖として尊崇される。
〈続日本紀〉によると、699年(文武3)朝廷は役君小角を伊豆国に流した。葛城山に住む小角は、鬼神を使役して水を汲ませ、薪を集めさせるなどし、その命令に従わなければ呪術によって縛るという神通力の持主として知られていたが、弟子の韓国連広足(カラクニノムラジヒロタリ)が師の能力をねたみ、小角が妖術を使って世人を惑わしていると朝廷に讒訴(ザンソ:他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること)したために、流罪が行われたという。

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 絵 北斎漫画に描かれた役行者と前鬼と後鬼(世界百科事典引用)


 葛城山一帯には、古くから一言主神をまつる努勢力が蟠踞(バンキョ:その地方一帯に勢力を張っていること)し、大和朝廷に対して微妙な関係にあったと考えられるが、役小角はその葛城山に住む呪術師であり、韓国連広足はその名から考えて、外来の呪術を伝える者であったと想像される。
〈続日本紀〉編纂当時、役小角の名は世間に知られていたようであるが、少しおくれて平安時代前期に書かれた〈日本霊異記〉には、まとまりのある役小角の説話が収められている。

 平安時代中期以降、役小角の説話は《三宝絵詞》〈本朝神仙伝〉〈今昔物語集〉などに収められ、鎌倉時代に入っては《古今百因縁集》《私聚百因縁集》《元亨釈書》などに、くわしく記されるようになった。それらの説話の中で役小角は、役行者と呼ばれて修験道と深く結びつけられるようになり、その修行地は生駒山、信貴山、熊野などにひろがり、やがて全国各地の修験道の山が、役行者の聖跡とされるようになった」以下略。


 今回のハイキングでは、「てくてくまっぷ」に沿って鳴川峠(標高450m)から平岡神社へ行く予定であったが、暗峠の方が歴史的に魅力的に思われ、このルートで下山した。近鉄額田駅には2時過ぎに着いた。
 生駒駅前の飲食店街での反省会で2時間ほど喉を潤おした。その飲食店街にツバメの巣があり、壁や天井に渡された棒にとまっていた。最近近くでツバメを見る機会が少なかったので、電車を1台乗り過ごして撮った。(写真13)

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写真14 生駒駅の飲食店街のツバメ


 長くなりすぎたので、暗峠のことなどは次回に回すことにした。

(平成26年6月22日)



第74話 鞍馬から大原を歩く[2014年05月20日(Tue)]
 ゴールデンウィークが過ぎて、本格的なハイキングシーズンに入った5月12日、東海自然歩道の鞍馬から静原を経て大原までのコースを11人の仲間と歩いてきた。
 午後から雨に降られるかもしれないという予報だったが、幸い降られず気持ちの良いハイキングになった。

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 図−1 東海自然歩道案内図(静原付近)


 エー電車に乗って鞍馬へ

 10時半・出町柳に集合し、10時40分発の鞍馬寺行きに乗った。待ち合わせていた時間帯には通常の乗合電車だったのに、窓向きシートになっていた。(写真1)

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 写真1 窓向き座席に座って風景を楽しむ


 「エー電車に座れる!」という声に、すかさず「だから、エイデン(叡電)と言うんや」のダジャレも飛び出して、窓向き座席に座った。

 たまたま乗り合わせた「エー電車」は、叡山電鉄デオ900型で「きらら」の愛称がついている。

 この沿線の紅葉シーズンにはもみじのトンネルの中を走っていて人気があるそうだが、新緑のシーズンの窓の景色も楽しめた。(写真2)

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写真2 新緑が映える窓の景色


 窓から顔は出せないようになっているから問題はないが、電車は枝が擦れるほどに窓際すれすれに走っていた。

 大原御幸ならぬ年寄の大原散策


 帰宅して昭和56年9月20日第1版第8刷「東海自然歩道(読売テレビ・編者)」のコースガイドに、平家物語の大原御幸と同じコースであることを知った。

 後白河法皇は大原・寂光院で余生を送っている平清盛の次女である徳子を慰めるためにお忍びで行幸された。後白河法皇の実父・高倉天皇は徳子の中宮で、幼い安徳帝の母親である。後白河法皇は平家追討の院宣を下し平家一門は西海に滅んだ。

 安徳天皇は、「最期を覚悟し祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられ、『波の下にも都がございます』と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4ヶ月、6年124日)で崩御した。母の建礼門院(平徳子)も入水するが、熊手に髪をかけられ引き上げられ(ウィキペディアから引用)、源氏の助けによって寂光院で余生を送ることになった。

 そのコースが、鞍馬街道から静原、江文(エブミ)峠から寂光院への道のりである。
 後白河法皇(1127年〜1192年)が輿にのり、お忍びで出かけたのが文治2年(1187年)だから60歳の時である。827年後の2014年5月12日に大原御幸の道のりを歩いた年寄11人は、81歳から70歳、平均年齢75歳が大原散策をしたことになる。

 平家物語の現代語訳には「春を過ごし、夏がきて、賀茂の祭りも終わり、後白河法皇は、夜を徹して、大原の奥へ御幸しました」という季節である。3日後には賀茂の祭(5月15日)なので、ほぼ同じ季節に歩いたことになる。

 鞍馬路を使い、後冷泉天皇皇居の小野皇太后宮などの旧跡を見物したあと、輿に乗ったとあるが、我々は鞍馬の門前町を過ぎ、鞍馬川の橋を渡ると、薬王坂(ヤッコウザカ)の急な上り坂を登っていった。(写真2)                

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 薬王坂の標高は377m、鞍馬側が141m、その差236mを0.6qで登るのでかなり急傾斜だった。

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図2 鞍馬〜大原標高図(もっと!阪急ハイキング引用)


 薬王坂へは30分程で峠に着いたが、静原へはガタガタの歩きにくい下り坂だった。静原の集落では、田植えの時期だった。

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写真4 静原では田植えの時期


 平家物語では、「遠くの山にかかる白い雲が散った花の形見に見えて、また、青葉の梢には春の名残が惜しまれました」と書いている。
 写真4の田園風景で、民家がなければ、今から800年以上前の平安末期と変わらぬ景色だったのだろうか。山裾に広がるのどかな田園風景であった。

  コースで見た植物
1)気根の下がったイチョウ


 薬王坂から1.4キロで静原神社に着いた。この神社の横の公園のベンチで昼食にした。由緒ある神社のようだが、公園の際のイチョウの木が気になった。

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写真5 こんもりしたイチョウの木


 イチョウと言えば御堂筋の並木を思い浮かべるので、こんもりした木を葉っぱで確認するまでわからなかった。この枝の下に、乳の如く垂れた不思議なものを見つけた。「気根」というと教えてくれたが見るのは初めてだった。

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写真6 大きな気根が下がったイチョウ


 「牧野・新日本植物図鑑(牧野富太郎著・竃k隆館)によると、「落葉性の大高木で時には高さ30m、径2mにもなる。時としでちち″といわれる大きな気根が下がることがある」と書いている。

2)ダイコンソウ

 一緒に歩いていたKさんが、「この花はよく見るが、何だったかな?」と話しかけてきたので、念のためにデジカメで1枚だけ撮って置いた。

 今朝食卓に「熊野古道 花の写真集・花と歩く旅(和歌山県本宮町)」の冊子が置いてあった。熊野古道スタンプラリーを3回完歩したときにその都度貰ったものだが、散らばっていた書類から家内が持ってきたものらしい。

 岩上王子から湯峰王子までの地図と花の咲いている場所ごとに、65種類の花が紹介された冊子である。湯川王子〜猪鼻王子付近にダイコンソウ(写真5)と静原付近で撮った花と同じではないだろうかと、見比べてみた。

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写真7 ダイコンソウ(熊野古道 花の写真集から)


 1枚しか撮らなかった花の名を同定するために、拡大して写真5と見比べたが、ぼやけて判別できなかったが、花弁が5枚であることや、名が根生葉がダイコンに似ている(Gakkenn日本の野草から引用)ことから、ダイコンソウだろう。

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写真8 静原で撮ったダイコンソウの花


3)アケビの花

 ハイキングではいつも最後尾である。腰痛と体力の衰えを理由にしないで、写真を撮るためだと言い訳をしながら歩いていたら、Nさんが待っていてくれて「アケビの花が咲いている」と教えてくれた。緑一面に生い茂った中にこじんまりと小さな花が咲いていた。

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写真9 アケビの花(静原付近で撮影)

 亀岡の山村で育ったNさんだから、季節の食べ物としてアケビの花が咲くころから、観察しているからわかるのである。

 箕面だんだんクラブの活動日に、秋になると昼食時に、アケビの実を採ってきて披露(写真10)してくれるが、実がなる状況も、ましてや花が咲いている様子等、全く知らなかった。

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写真10 アケビの実(2013年10月5日撮影)


 ちなみに、上記熊野古道花の写真集に淡い紫色の花(写真9)が紹介されていて、「甘い芳香を放つ。雄花と雌花があり、写真は雌花」と解説している。

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写真11 アケビの花(熊野古道・花の写真集から)


 このほか、ヤグルマソウを育てている農家の人と話ができた。また山道から村はずれに出て行く途中に「オオデマリ」が満開に咲いていた。

ハイキング三拍子

 毎回この種のハイキングでは、目的地まで歩いた後、必ず打ち上げと称して、その日歩いてきたことの話題などをネタに飲むことにしている。飲めない人はノンアルコールやウーロン茶で付き合ってくれる。
 飲み会の後は、それぞれ家路につくのだが、最近は飲み会の後に、数人で近くのカラオケに行くことが多くなった。まさに、歩く、飲む、唄うのハイキング三拍子になっている。

 野球の場合、投・攻・守の三拍子そろった素晴らしいチームなどと言うが、ハイキングに、歩く、飲む、唄うの三拍子そろったのは、ハイキング三拍子とでも言えるのかな?!
 カラオケの装置が1970年代中期に発売されてから、40年近く経っていて、どんどん進化している。
 「いきなり採点」で歌うと点数が甘くなると言う経験者がいて、「分析採点」をするとますます面白くなってくる。

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写真12 分析採点で「星影のワルツ」を唄う


 カラオケの採点をゲーム感覚で楽しんでいると疲れも吹っ飛んでしまった。

(平成26年5月20日)


第73話 浜口雄幸と雄幸橋[2014年02月13日(Thu)]
 古い資料パソコンで探していたら、2011年7月8日発売の「文芸春秋第89巻・第9号」で、作家の城山三郎が、1989年7月7日 奈良市史跡文化センターで講演録のコピーが出てきた。「浜口雄幸 死を賭して守った国民との約束」と題した講演である。

 城山三郎さんの小説では、唯一文官として絞首刑となった元首相・広田弘毅の生涯を描いた「落日燃ゆ」や「粗にして野だが卑ではない 石田禮助の生涯」」など感動して読んだことがある。

 この講演録を読んだとき、濱口雄幸の生きざまに感動し、多くの友人にそのコピーを渡した。2年ぶりに読み返してみて、その思いを更に深めた。そして、偉大な政治家の生家の近くに新設された高知臨港道路に架かる「雄幸橋」の開通式典に参列したことを思い出していた。

講演「死を賭して守った国民との約束」

 講演は、作家・城山三郎さんが奥さんとカナダ旅行で展望車に乗った時の個室の不具合の話題から始まって、浜口雄幸首相が昭和5年の11月14日に、東京駅から特急「つばめ」の展望車に乗り込もうとしたときに狙撃され、重傷を負う事件に話が進んでいく。

 城山さんは浜口首相が撃たれたときに呟いた「男子の本懐」を題名にして、昭和5年1月に、浜口雄幸首相と井上準之助大蔵大臣が多くの困難を克服しながら金解禁の政策を、生命を賭けて断行ことを書いている。その二人の生きざまを通して、人間の生きがいとは何かを問いかけた小説である。

 この小説を書いたことが縁で、昭和56年浜口雄幸の五十回忌に城山さんが招かれたことときの出来事が講演の主題になっている。
 50回忌の多数の出席希望をどうするか、遺族から城山さんへの相談で、当時の現職だった鈴木善幸総理大臣と渡辺美智雄大蔵大臣とが出席された。鈴木総理は急な所用で奥さんが代理で出席された。    

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写真1 ライオン宰相と恐れられた浜口首相


 写真1はアサヒクロニクル「週刊20世紀・067」からの孫引きで、浜口明子氏提供とあり、「政策実現にあたる厳しい姿勢から、政界では『ライオン宰相』と恐れられ、国民から半ば親しみを持たれた……写真のライオンは滋賀県の信楽民政クラブの贈り物(以下略)」と解説している。

布を靴の形に裁って足元に巻きつけ、それに墨を塗った靴

 この講演録を読みながら、思わず感動したのは、最後に遺族を代表して一人だけ生き残っておられる娘の富士子さんが話されたエピソードである。

 講演は、浜口雄幸と同じ一等展望車に乗っていた実業家の真珠王・御木本幸吉のことに触れ、二人の違った形の「緊縮」に触れながら、主題に迫っていく。以下講演録を書き出してみる。
「浜口さんは大手術をして少しよくなるが、また悪くなる、手術をする、その繰り返しで国会を欠席している。野党からは、右翼に撃たれてこうなったのは同情するが、総理大臣が国会に出ないのはけしからん、政権をゆずり渡せ、と攻撃されている。

 与党の側は、『もう少しで良くなるから、そのときは必ず出席する』と約束するわけですが、会期末の3月、また容態が悪くなり、絶対安静の状態のとき、富士子さんが枕元に呼ばれ手を取って、『お前に最後の頼みがあるから聞いてくれ。自分を国会に出させてくれ。医者も母もみんな反対。お前(富士子さん)が先生とお母さんを口説いてほしい。国会における約束は国民に対する約束である。総理たる者が国民との約束を守らなければ、国民はいったい、何を信頼して生きていけばいいというのか』と。

 父は目に涙を浮かべて頼んだという。私は父の涙を見たことがない富士子さんは、ほんとに父の最期の頼みなのだなと思い、医者と母を口説き落として、国会に行ってもらうことにしたが、靴を履かせても、靴が重くて歩けないと言う。
『仕方なく母と相談して、布を靴の形に裁って足元に巻きつけ、それに墨を塗って靴を履いているように見せかけました』と。

 浜口雄幸の生まれた高知市五台山

 城山三郎さんの「男子の本懐」によると、「浜口は、明治3年(1870年)4月1日、高知県長岡郡五台山村唐谷の水口家に生まれた。水口家は、代々、土佐藩のお山方、つまり山林見回りの小役人であり、雄幸の父胤平(たねひら)もまた、藩政時代はお山方。維新後も、山林宮と名前は変わったが、同じ役目を続けていた。十年一日の如く、機械的で地味な仕事であった……高知市南東にある五台山―名刺があり、眺めもよくて、いつも観光客でにぎわっている場所だが、それから先は、水田が続き、にわかにひなびた風景になる。

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写真2 雄幸橋のたもとに建つ生家の碑


 水田がひろがり、川があり、水田があって、低い丘陵地帯に至る。松や雑木が茂った山麓には、農家が数戸点在しているが、水口家は、そこからまたまた、小さな谷を奥へ分け入ったところに、一戸だけ離れて立っていた……

 浜口の名前の雄幸を、世間では「ゆうこう」と読む。字も音も勇壮で、いかにも浜口に似つかわしいのだが、実は、この名前、正確には「おさぢ」と呼ぶべきであった。
 男子の出生ばかり続いた彼の家では、娘を欲しがり、生まれてくる子に「お幸」という名を用意した。ところが、生まれたのは、またまた男の子。やむなく「雄幸」と書きかえた。土佐の発音では「おさち」でなく、「おさぢ」と濁る。

 この末男に対し、両親はそれでも娘を見るような目で接したためであろうか、雄幸は物静かで、気のやさしい子供であった。むしろ、臆病でさえあった。そうした名残が、少女のような笑い方ににじんでいた」。城山三郎著「男子の本懐」から引用。

高知新港臨港道路全線開通式典

 写真2の生家の碑のすぐ際に、雄幸橋が架設された。高知新港臨港道路の全線開通式典が、平成10年2月28日にこの橋の北入り口で開催された。

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写真3  平成10年2月に開通した雄幸橋


 新しく架設された橋には、くす玉、テープカット、渡り初めなどの式典がつきものだ。

 「くす玉」の起源は、古くは中国、後漢の前後頃、端午に五色の糸(赤青黄白黒)を肘にかけて魔よけまじないとした長命縷・続命縷という風習が伝わったもので、日本では「続日本後記」仁明天皇嘉祥2年(849)5月5日の項に“薬玉”とあるのが最初とされる。(ネットから引用)

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写真4 くす玉開披とテープカット


 テープカットはカタカナ表記からわかるように西洋から来たものだろう。
 
 和洋折衷の式典はいかにも日本らしい行事のさばき方だと思う。

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写真5 ブラスバンドで式典を盛り上げる
 ブラスバンドが行進曲を奏でながら、親子三世代が神主を先導に通り初めとなる。

 渡り初めの起源は定かでないが、江戸時代の絵図や書物に見られるという。「一家に三代の夫婦が顕在することは大変珍しく、おめでたいことから、これにあやかり『三代夫婦のように、橋も永続して欲しい』という願いが込められているのではないかという説がある」(ネットから引用)

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写真6 三世代の通り初め


浜口雄幸の題字が箕面の滝道に!

 ネットで浜口雄幸のことを検索していたら、「箕面滝道こぼればなし第5集・森秀次像の題字は浜口雄幸の筆」が見つかった。この滝道へは年に数回はハイキングで出かけているが、そこまでは気が付かなかった。「こぼればなし第5集」を以下に引用してみた。

 「夫婦橋を渡った所に森秀次の銅像があります。彼は現在の和泉市に生まれ、現池田市の医師の養子に入った人で、明治28年40才で府会議員になるや、箕面山の府立公園化に奔走し、31年にそれを実現させました。その後明治36年には衆議院議員となり、大正9年まで政界で活躍し、大正15年に没しました。この銅像は昭和五年に、その功績と人徳を讃えて、ゆかりの地である箕面公園内に作られました。この銅像の題字が浜口雄幸の筆であることも注目されます。浜口は昭和五年当時の総理大臣ですが、これを書いてしばらく後に、凶弾に倒れたのでした」      
 
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写真7 箕面滝道に立つ森秀次の銅像 


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写真8 箕面滝道に浜口雄幸の筆跡


 城山三郎の講演録を読んだのは昨年11月頃だったと思う。読んでいて平成10年2月に高知臨港道路の開通式典に参列したことを思いだし、「濱口雄幸と雄幸橋」でブログにまとめることにした。 
「男子の本懐」を読むとともに、開通式典の写真を探し出すのに手間取った。
 
 ネットの検索では、政治家としてあまりにも偉大な浜口雄幸の名前を拝した橋にもかかわらず、この橋の写真を見つけることができなかった。橋梁としてはごく普通の形式ではあるが、「雄幸橋」はどんな橋かを知らせする意味もこめてまとめてみた次第である。

(平成26年2月13日)



第72話 久しぶりにカラオケで「港町ブルース」を唄う[2014年01月09日(Thu)]
 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 個人ブログ(箕面だんだんクラブ 四季折々)は、しばらくブログの公開が途絶えていました。喜寿を過ぎてなかなかエンジンの始動が億劫になりましたが、これからも興味ある話題を取り上げて行こうと思っています。団体ブログ(竹炭作り)共々よろしくお願いします。

 昨年12月17日、久しぶりに阪急石橋駅のカラオケ店に行った。忘年ハイキングの打ち上げで近くの餃子屋での一次会を5時過ぎに終え、二次会はカラオケといういつものコースである。
 私は音楽が好きでクラシックから演歌まで、CDプレーヤーかipadプレーヤーからシャッフルでいろんなジャンルの音楽を聞きながら、パソコンの操作をしていることが多い。

 レーザーディスクが流行っていた1990年代には、家でレーザーディスクのカラオケ用ソフトを使って歌うこともあった。
 この家庭用レーザーディスクは、リクエストした曲が同じ盤に入っていなければ、別の盤にディスクを交換に手間取るし、近所への騒音を考慮しなければならなのでいつの間にか使わなくなってしまった。
 最近は近くにあちこちにカラオケ店でき、しかも安価で気軽に利用できるので、その便利な方へ行くことになってしまった。

森進一の「港町ブルース」を唄う 

 忘年ハイキングには12人全員が一次会に参加したが、カラオケへは7人になった。いつもは積極的に歌うことはなく、歌う曲目は、小林旭の「北へ」か、三橋美智也の「竹田節」とお決まりの曲目だ。
 7人が二回りほどして、選曲で迷っていたとき、ふと気仙沼の地名を思い出した。歌詞の中に「……港 宮古 釜石 気仙沼」とあり、東日本大震災の被災地報道でよく出てくる地名から歌詞を思い出したのだろうか。今までにカラオケで「港町ブルース」を唄ったことはなかったが、歌えそうな気がした。

 同じ年代に育った昭和10年代の仲間たちは、私が1番の「……あなたにあげた 夜を帰して港、港 函館 通り雨」を唄いだすと、2番は誰とはなしに「……あなたの影をひきずりながら 港、宮古 釜石 気仙沼」と口ずさみだした。
 5番の「……海に涙の ああ愚痴ばかり 港、別府 長崎 枕崎」では、唄っているハイキング仲間らと、4年前に別府港から由布岳へ登ったこと、翌年も同じ港から阿蘇高岳に登ったこと、2年前の5月には枕崎で泊まり、翌日開聞岳の登山口で金冠日食を見たことなど、九州の旅を思い出していた。  
 歌い終わって、この「港町ブルース」を、発売された頃に演歌として初めてこのレコードを買ったことも思い出していた。

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写真1 暮れなずむ別府港(2010年4月3日撮影)


東日本大震災に見舞われた気仙沼


 「港町ブルース」を唄うきっかけとなった気仙沼をネットで検索してみた。
 サラリーマン時代には土木構造物の建設に携わっていたことから、岩手県田老町の「万里の長城」とまで言われ、建設に45年もかけた高さ10m、長さ2600mの防潮堤が、今回の震災による大津波で飲みこまれ、大被害をもたらしたことなどは、強烈な印象を持っていた。
 しかし、気仙沼だけの記憶はなかったが、大型漁船が港から市街地まで打ち上げられた写真を見て、「津波で市街地まで流されたあの大型漁船が気仙沼港に係留されていたんだ」ということを知った。

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写真2 大型漁船が津波で700mも市街地へ


 大型漁船が市街地に700mほど押し流され、モニュメントとして保存するかどうかで、最近まで議論され、解体が始まったことは報道で知っていたが、気仙沼とは結びついていなかった。
 この気仙沼の津波の被害の説明用に、ハフィントンポスト「第18共徳丸の解体始まる震災遺構を断念」の写真から引用させてもらった。

ドーナッツ盤 「港町ブルース」

「港町ブルース」が発売されたのは、昭和44年(1969年)である。この年母が北海道旅行に行っていて、訪れた観光地のあちこちでこの曲がかかっていたとか話していた。
その当時乗っていたマイカーは軽乗用車で、カーステレオなどはあこがれの的だったが、唯一の装備品、カーラジオからはリクエストで繰り返し流れていた。

 フリー辞典ウィキペディアの「港町ブルース」によると、「発売されて2週間余りでオリコンチャートのベストテンに初登場し、5週間にわたり第1位にランクされるなど、森進一のシングル盤では最高の売上を記録。ミリオンセラーとなった(売上250万枚との報道もある)。
 同年開催の『第11回日本レコード大賞』では最優秀歌唱賞・歌唱賞を、『第2回日本有線大賞』では大賞をそれぞれ受賞している。第20回NHK紅白歌合戦では2回目の出場にして白組のトリを務めた」と書いている。

 帰宅して30枚ほど持っている17センチのシングル盤のほとんどはクラシックだが、唯一の演歌である「港町ブルース」が出てきた。

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写真3「港町ブルース」のレコードジャケット


 その歌詞には、北は函館から、南の端枕崎まで、次々と港町が出てくる歌詞と、4分の4拍子の哀愁を帯びたブルースに、今までにない新鮮さからつい興味を引かれ、珍しく買っていたのだろうと思う。

 ジャケットの裏面の右端には、雑誌「平凡」募集歌、深津武志 詩、なかにし礼補作、猪俣公章曲、森岡堅一郎編曲とあって、歌詞が6コーラス(6番)までの歌詞がある。

 B面は、「女の四季」が入っているが、A面の大ヒットに押されたのか聞いたことがない。
 この当時、レコードは33回転のLP盤が主流だったが、回転数 が 45回転(r.p.m.)、直径 17cm(7インチ)、見た目の形状はLPと変わらないもの、大きな穴が空いたドーナッツ状や、直径だけは17cmのLP盤状のものまで複数ある。

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写真4 「港町ブルース」のドーナッツ盤


 ジャケットの右下に小さく「定価¥370」が入っている。
 発売された1969年の金銭出納簿を見てみると、月給が6万円で、ガソリンがリッターあたり50円前後、月刊誌文芸春秋が150円、週刊誌60円、散髪が200円などと記載していて、月給に占めるこのレコードが高価だったのだろうか。

 カラオケで「夜を変えた」

 朝日新聞の平成14年5月18日夕刊、噂のニッポンに「有名人カラオケで『夜を変えた』」で、「20世紀のアジアの20人」に西宮市の発明家井上大祐さんを選んだという記事をパソコンに残していた。米誌タイムが1999年に発表したもので、毛沢東やガンジー、孫文、ダライ・ラマなどアジアの偉人20人の1人に入っているというのだ。「世界の夜を一変させた男」と絶賛されている。
 
 そのコラムには日本人の死亡記事はめったに欧米紙に載らないそうで、ニューヨーク・タイムズの資料室にこもって調べた朝日新聞記者は、「第一面では三島由紀夫、昭和天皇、黒沢明くらいだったというから、井上さんの発明の功績を絶賛しているのがわかる」と書いていた。

 全国カラオケ事業者協会の歴史年表解説によると、「昭和46年(1971年)に井上大祐氏がスプリングエコー、コインタイマー内臓のマイク端子付きトラックプレーヤーを手作りで製作。弾き語りで録音した伴奏テープ10巻(40曲)をセットして店舗へレンタル提供した。店舗での使用料金は1曲5分間100円だったが、神戸市の酔客の人気を博し評判となる」と書いている。

 昭和45年5月から6年間ほど神戸・三宮近くが勤務地だった。管理職になった昭和47年(1972年)ころには、軽くガード下の安い店で飲んだ後、2次会で「ポプラ」の名前の飲み屋に行ったことを思い出す。そのころに店に試験的に8トラックの機器がセットされていて、1度は試したものの、その後は使ったという記憶はない。

 上記記事の「神戸市の酔客の人気を博し評判となる」と書いている酔客のひとりには違いないが、カラオケの初期段階だったし、ママさんも他のお客に遠慮への配慮、唄う方も他のお客さんに下手な歌を聞かす恥ずかしさなどから、店内が仲間内だけのときには大いに盛り上がったのではないかと思う。

レーザーディスクの盛衰

 ウィキペディアで「レーザーディスク」を検索すると、「初期のLDはメインとなった映画ソフトが7,000円 〜 1万円前後の価格設定で発売されていたが、1980年終盤からパイオニアLDCが中心となって……5,000円を切る価格帯で次々と人気ソフトを発売。

 やがて他社もこれに追随する価格帯の製品を増やし、加えてパイオニアの他、ソニー、松下電器産業、ケンウッドといった各社から『ロッキュッパモデル』と言われた69,000円台の安価なプレーヤーも次々と登場。LDは1990年代前半を最盛期としてユーザーを拡大……

 次々に発売して映画マニアを中心にユーザー層を厚くしていった……家庭用LDソフトは販売専用という戦略をとり、末期の一時期を除いてレンタルは全面禁止だった。

 当時の映像ソフトはレンタル向けが中心であり、個人が購入する例は少なく、LDソフトの低価格化も進まなかった。また録画ができないこともあり、普及率はビデオテープレコーダー)に遠く及ばなかった……1996年(平成8年)にCDと同じ12cmサイズのDVDビデオが登場」してレーザーディスクは平成19年(2007年)には終焉を迎えた。

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 写真5 家庭用レーザーディスク


レーザーディスクで「港町ブルース」を聞いてみる

 この稿を書いていて、レーザーディスクのソフトを探してみた。もともと我が家のレーザーディスクの機器は、親しい人から使わなくなったからと譲り受けたものである。

 世間ではすでに家庭でのカラオケは衰退の一途をたどっていて、使わなくなったものをジム仲間から貰ったものだ。その中に森進一の「襟裳岬」「冬のリビエラ」などの中に「港町ブルース」も含まれていた。

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写真6 「港町ブルース」が入ったカラオケソフトのカバー


 この機器は何回か故障して、メーカーのパイオニア江坂店で修理をしてもらったが、「修理は不可能」と宣告された頃には、レーザーディスクは終焉を迎えていて、今後生産はしないと言われて最後の機種を3万円強で平成16年1月に購入したものである。

 久し振りに、我が家の機器が健全に作動するのかの確認をしてみた。リモコンが行方不明で機器のボタン操作でしたが、開閉がわからず、説明書でやっと操作ができるようになった。

 試しに「港町ブルース」を回してみた。当たり前のことだが、歌声はなく、伴奏だけで「あれっ?伴奏だけでは味気がない!」と思った。

 我が家で盛んに使っていたころは、テレビでは音声が左右に分離できなかったこともあって、テレビの横の音響装置からステレオで右から伴奏のみ、左右両側のスピーカーから音が出る場合は、歌と伴奏が同時に聞けるようにしていた。マイクは無線で音響装置から出るようにしていた。
 現在はテレビと音響装置(ステレオ)とは断線になっているから、空(から)のオーケストラになっている。

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写真6 カラオケ装置で「港町ブルース」をかける


 ニコニコ大百科事典の「カラオケとは」によると、「カラオケとは、歌からボーカルトラックを抜いた音源、またそれに合わせて歌うこと、およびそのための装置などを提供するサービス」である。

 現在では、日本のみならず世界各地で、カラオケが歌えるパブや施設が設置されていて、英語など他の言語語でも『Karaoke』などと呼ばれる……

 時代の変遷と共にカラオケ楽曲の提供方式も進化し、当初は8トラックテープやカセットテープ、1890年代にレーザーディスク、そして1990年代後半以降は専用回線による配信を行う通信カラオケが一般的になった」と解説している。

 レーザーディスク(Laser Disc, LD)は、直径30cmのディスクに両面で最大2時間の映像が記録できる。

 発売当時は「絵の出るレコード」というキャッチコピーが使われたという。譲り受けた当初は、昔見た映画でもう一度見たい作品は、この媒体でしか見られなかったこともあって、「エデンの東(9,800円)」とか、ウォルト・ディズニーの「ファンタジア(7,300円)」、ジャン・ギャバンの「望郷(4,800円)」、ハンフリーボガード、イングリッド・バーグマンの「「カサブランカ(4,950円)」などを買っていた。

 その後のいつのころからか、カラオケソフトが出るようになり、一時はホームカラオケとして活用していた時代があった。

 それにしても、音響装置やカラオケ装置を見ても変革の速さには驚かされる。
 親の家にあった昭和初期に買った78回転のSPは、1枚当たりの録音時間が短く、しかも重い。 古い録音を聞きたいというマニアを対象に買い受けてくれる店を大阪市内で見つけて、タダ同然で引き取ってもらった。

 また、録音機器が開発されて間もない昭和40年代初めの頃、リール式でFM放送から録音したテープを大事に数多く持っていた。数年前にやっと踏ん切りをつけて機器と録音テープとも廃棄処分してしまった。

 今では音楽ソフトのCDやDVDは安く買えるようになり、レンタル店で安く借りることもできる。あの有名な長時間の映画「風と共に去りぬ」、西部劇「シェーン」なども400円程度で買った。

 若い頃に聞いていたLPレコードは処分できずにいて、CDより音域が広く、良質の音を再生できると聞いていてレコードプレーヤーでいつでも聞けるようにしている。

 今から30年ほど前には、「絵の出るレコード」としてもてはやされた装置も、今ではほとんど陳腐化してしまった。

 昭和30年代にリール式の録音装置は、カセットテープから、CDへ、iPadなどへ新しい機器が出現し、気軽にどこでも音楽や映像を楽しめるようになった。

 さて、我が家のレーザーディスクも私の時代で終焉を迎えることだろう。

(平成26年1月9日)



第71話 夏の名残のビヤガーデン[2013年09月19日(Thu)]
 先週9月11日の夕方、ジム仲間10人と近くのホテルのプールサイド・ビヤガーデンで夏の名残を楽しんできた。
 
 今夏は大阪では猛暑日は8月24日までの17日間連続で、ようやくストップになったが、気象庁が、「今夏は、高温や偏った雨、竜巻などで異常気象」と発表するほどに、暑い日々が続いた。
 9月に入ってようやく猛暑が収束しかけていて、11日の飲み会は「今さらビヤガーデンは涼しいのではないか」との意見もあったが、昼間は真夏日(日最高気温が30℃以上の日をいう)だった。
 陽が沈めはじめた5時半の開店時には、プールサイドに心地よい涼風が吹いていて絶好のビールを美味しく飲める宵になった。
 
 このビヤガーデンには何回か利用している。
今年の6月初旬にハイキングの帰りに梅田の百貨店屋上のビヤガーデンでもたっぷりと飲んできた。
 9月中旬を過ぎれば、ビヤガーデンも閉めるだろうから、今回の飲み会は「夏の名残のビヤガーデン」となった。

夏の名残のバラ

 アイルランド民謡「夏の名残のバラ」は、日本で「庭の千草」の曲名で知られている。里見義の訳詩では「庭の千草も 虫の音も 枯れて 寂しくなりにけり ああ しらぎく 嗚呼(ああ) 白菊 一人遅れて 咲きにけり」の歌詞で歌われている。
 「白菊」なら、もう少し後の10月頃の季節で、温室や電照菊といった育て方があるだろうが、原曲のアイランド民謡の歌詞からすれば少し季節がずれている。
 
 「夏の名残のバラ」をネットで検索してみると、「Tis the last rose of Summer,(それは夏の名残のバラ)Left blooming alone;(一輪だけ咲き残る)、All her lovely companions (同じ木に咲いた美しき仲間たちはすでに)、Are faded and gone;(色褪せ散っていった)、
No flower of her kindred,( ともに咲く同じ血筋の花もなく)、No rosebud is nigh,( 小さな蕾すらそばにいない)……」と、一輪だけ残った夏のバラには、仲間たちが色褪せ散って行った……」と哀愁が漂う歌詞になっている。

夏の名残のビヤガーデン

 この日は水曜日の平日だったが、我々年金生活者は開店の5時半過ぎには席に着いていた。飲み放題、食べ放題の均一料金の制度は、梅田と同じシステムだった。もっとも梅田では、トイレがガーデンの外にあって識別するため、腕に黄色い目印の腕章をつけさせられた。
 6時過ぎには若い人たちもどんどん入ってきてほぼ満席になった。
 
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写真1 ほぼ満席になったビヤガーデン


 プールサイドの際に陣取った10人は、少し離れた飲み物の置いてある所や料理のある場所まで取り行かねばならなかった。
 時々南側を走るモノレールは、音もなく通り過ぎていくのが見えた。南の方から涼風が流れていくので、酔い心地と相まって気持ちが良かった。

 背負ったビヤタンクで注いでもらう

 若者がビヤタンクを背負って移動しながらコップに注いでくれる宅配サービスがあった。

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 写真2 宅配で冷えたビールを担いで注ぐ若者


 同じビールなのに、目の前で注いでもらう方が美味しく思えた。
 甲子園球場でもビヤタンクのおねえさんが同じように観覧席を売り歩いているそうだ。

サンバのリズムにのって

 かつてこのビヤガーデンでは、仲間同士で飲むだけだったが、今日は7時半から約30分間3人の踊り子が、強烈なサンバのリズムにのって会場をぐるりと回ってくれた。

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写真3 派手な衣装でサンバを踊る



 始めのうちは、3人の踊り子に見入っていた中には、彼女の後ろにぞろぞろくっついて踊り始めた。

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写真4 踊り子について踊る人たち


 ビートのきいたリズムで踊られると、ついつい体を動かしたくなるものだ。強烈なリズムをボリュームいっぱいに響かせて、場内は一気に盛り上がった。

 今夏を振り返ってみると

 今年の夏は何と言っても、連日の猛暑の記録更新、高知県四万十市では観測史上最高の41.0℃を記録した。
 こうした結果、この夏(6月〜8月)に全国で、熱中症による救急搬送された人は5万5596人と2010年以降最多だったという(総務省消防庁調べ)。

 9月11日は平年を2〜3℃上回る気温で、マリアナ諸島近海の熱帯低気圧が小笠原諸島の南を西北西に進んでいたが、13日には台風18号になった。
 14日からの3連休の中日15日は、この台風の影響を受け始めた。
ここ大阪の北部地方でも、16日の未明には強烈な風雨になった。早朝のニュースでは、近畿地方の各地で避難指示や避難勧告が発令された。
 台風は愛知県豊橋市付近に上陸し、速度を速めて日本列島の太平洋側を駆け抜けて行った。台風が接近する前から大雨が降り続き、京都、滋賀、福井県に「特別警報」が発令された。
 8月30日から運用が始まった特別警報は「豪雨・豪雪や地震、津波、火山の噴火などで『数十年に1度しかないような災害』が予想され、直ちに命を守るための行動が必要な場合に気象庁が発表する」という、今までにあった注意報、警報の上に設けられたものだ。

 渡月橋で有名な嵐山の桂川が氾濫し、京都府福知山では、先月15日、ドッコイセ福知山花火大会開催中の由良川河川敷で、死傷者を伴う爆発事故が起きたばかりなのに、台風18号で由良川が氾濫して大被害になっているという。
 
 またこの台風が日本列島に接近、上陸した15日から16日かけて、各地で突風の被害が相次ぎ、和歌山・三重・栃木・埼玉・群馬の5つの県で発生した突風は、被害の痕跡などから竜巻によるものと断定され、近畿から関東地方にかけて10個の竜巻が発生していたという。

夏の名残
 大辞泉で名残をひくと、「ある事柄が過ぎ去ったあとに、なおその気配や影響が残っていること。また、その気配や影響」と書いている。

 「夏の名残のビヤ―ガーデン」では、心地よい涼風に浸りながら、宅配のビヤタンクで注いでもらった冷えたビールの飲み心地、サンバのリズムにのっての盛り上がりなど、夏夏の気配や影響が残っていてよい思い出になった。


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写真6 名残のビヤガーデンのフィナーレ


 16日の「敬老の日」を含む3連休では、台風18号が日本列島を襲撃して、夏の気配を持ち去って行ってしまった。台風一過で、日中は強い日射しで30度近い気温だが、湿度は低く、朝晩はしのぎやすくなった。
 1週間ほど前にはヒグラシや、ミンミンゼミが鳴いていたのに、コオロギなどの鳴き声に変っている。

 今宵は中秋の名月である。

(平成25年9月19日)


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