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神戸まちなか再発見ウォーク・六甲山麓リボンの道U[2010年03月12日(金)]


 3月に入って天候不順の日が続いているが、3月8日はうまく晴れ間の日になった。ちょうど1ヶ月前の2月8日に「大阪まちなか再発見ウォーク」を行ったが、その神戸版をハイキング仲間7人で歩いてきた。

 三宮に10時に集まり、まず北野の「風見鶏の館」などを通ったが、「異人館をいちいち見ていてはいくら時間があっても足りないし、今日はウォーキングに来ている」というリーダーの一声で先を急いだ。

 五宮神社を経て、祇園神社から烏原貯水場を経て氷室町、神戸電鉄・長田駅、蓮宮から鉄人28号の巨大モニュメントのある新長田まで約28,000歩のウォーキングだった。
神戸のまちなかの話題を拾ってみた。


五宮町祥福寺

 五宮神社のすぐ西隣の山裾に祥福寺がある。境内はきれいに掃き清められていて、背の低い松が白壁の塀に沿って植わっている。(写真1上段)
ひっそりと静まり返っていて人気がない。一人が本堂に上がったが「誰も居ない」と出てきた。

 「境内をきれいにしているのは禅宗だ」と言ったが、祥福寺は臨済宗・妙心寺派のお寺だった。
 境内を一巡して階段を降りきったところで、早朝から托鉢をしてきた修行僧が階段を登っていった。先頭の僧が階段を上がりきったところで4人揃って読経を始めた。(写真1下段)
ちょうど11時半だった。




写真1上段:祥福寺境内

下段:托鉢から帰ってきた修行僧


 平凡社の世界大百科事典や、ウキペディアで臨済宗を調べてみると、屋根付橋が3橋も架かっている東福寺は東福寺派、琵琶湖疏水が流れていてレンガ造りのアーチ橋で有名な水路閣がある南禅寺は南禅寺派、このほか天龍寺派、建仁寺派、大徳寺派など臨済宗14派に興聖寺派を加え、寺院総数5,800余寺、信徒数約300万人を数えている。このうち妙心寺派は、末寺3,400余か寺を持つ臨済宗最大の宗派だという。

勝海舟の寓居跡

 祥福寺から少し下って国道428号(有馬街道)へ抜ける道沿いに勝海舟の寓居跡がある。
軽自動車がやっと通れるほどの狭い道(写真2上段)に、「平野の史跡を守る会」が設置した案内板には、「中道古道 奥平野村当時のメインロードで矢部町一本松から有馬街道に通じる道」(写真2下段)と解説している。




写真2上段:「勝海舟寓居跡」前の道路

下段:「中道古道」の解説板


 石垣に瓦葺の白壁(写真3下段)の東側には「勝海舟寓居跡」として「1863年神戸海軍操練所を開設した勝海舟が寓居とした旧神戸村庄屋生島四郎太夫の別邸跡。塾頭の坂本竜馬も当地を訪れたといわれている」と書いてあった。

 その石垣の西側には、古風な小さな門がある(写真2上段)。扉を開けると、直ぐに閉まるようになっている。「入ってはいけないのかな」と思いながら、開けると扉の内側に鉄の錘が上がり下がりして自動的に門が閉まるようになっていた。

 通りからは寓居跡は見えなかったが、この門を入って階段を上がっていくと、「現在は立ち入れません」と標識が立っていて、「この平地に勝海舟の寓居がありましたが、昭和13年(1938 )の水害で流失しました。奥の母屋や庭は当時のまま(江戸時代後期)です」(写真3中段)と説明されていた。




写真3上段:生島四郎太夫の別邸跡前の中道古道

中段:水害で流失して平地の勝海舟寓居跡

下段:勝海舟寓居跡へ通じる門扉


勝海舟と西郷隆盛、坂本竜馬と神戸

 勝海舟は、明治維新の5年前の文久3年(1863)9月に神戸海軍操練所を開設し、神戸で住んでいたという。その塾頭が坂本竜馬である。
 あわただしく明治維新へ至るそのころの様子を「日本の歴史19 開国と攘夷」(小西 四郎 著 中央公論社)で拾い読みしてみる。

 「征長(第一次長州征伐)に際して西郷は、一躍、征長総督参謀という重要な地位につき、かれの意見が大きく時局収拾に影響することとなった。その西郷は、1864年9月たまたま大坂にきていた幕臣の軍艦奉行勝義邦(海舟)と会見している。かの有名な明治元年(1868)の江戸城あけ渡し交渉に先立つ約3年半前のことである。二人は初対面であったが、勝に会って西郷はすっかりほれこんでしまっている。

 勝はこのころ神戸に幕府の海軍操練所を経営しており、ここには坂本龍馬のような勤王派の浪人をもかかえており、時局に対する見透しのよさは、幕臣としての立場からはるかにぬきんでていた。したがって勝は幕府首脳からにらまれていた。

 勝は西郷に対し、『今は国内で争うときてはない。幕府はもはや天下を統一する力がないから、むしろ雄藩の尽力で国政を動かし、幕府第一主義の奸臣(邪悪な心を持った家来)らに一撃を加えて局面を打開し、共和政治(大名会議)をおこなうべし』と述べた。まさしく幕府の実力は、勝の判断程度のものといえよう。しかし幕臣でありながら、ズバリとこれだけのことを言いきる勝は、相当なものであり……」

 龍馬と神戸の関わりは「文久3年(1863)9月に勝海舟の「神戸海軍塾」が開設された頃に始まり、幕府に睨まれた勝が江戸に召還され、「神戸海軍操練所」が事実上の閉鎖に追い込まれた翌年の10月に終わる。

 年齢で言えば29〜30歳、わずか1年ほどの短い期間に過ぎない。その間、京では8月18日の政変や池田屋騒動、禁門の変、第一次長州征伐など幕末史を飾る大事件が続発。龍馬もそうした激動の最中で国事に奔走し、ゆっくり神戸に腰を落ち着ける暇はなかったようだ」と書いている。


鉄人28号モニュメント

 今回の「神戸まちなか再発見ウォーク」の終点はJR長田駅で、その近くの鉄人28号のモニュメント(写真4、5)に立ち寄ってみた。





 神戸市出身の漫画家、故横山光輝氏の代表作「鉄人28号」を再現した像である。
 阪神大震災で大きな被害を受けた長田区を元気づけようと、地元商店主らが設立した「KOBE鉄人PROJECT」が取り組み、駅の南側の若松公園に、周辺の木々を圧倒するがごとく力強く踏ん張っていた。
 
 字数制限等でこの稿では触れなかったが、平清盛が福原に構えた別荘「雪見御所旧跡碑」は、祇園神社から有馬街道を下った平野の湊山小学校にあった。
清盛は大輪田泊(兵庫港)を修築、神戸を拠点に日宋貿易を進めただけに、この地には未だ史跡がたくさんあり、再発見したい場所がある。別の機会に訪れたいと思っている。


(平成22年3月12日)


梅だより[2010年02月27日(土)]


 朝日新聞の夕刊の片隅に今年の「梅だより(JR西日本)」が掲載されだしたのは、2月はじめのころからだろうか。2月10日の新聞には、大阪万博公園、大阪城公園、道明寺天満宮、金熊寺盆梅庭園が「咲き始め」で「七分咲き」は暖かい和歌山県の南部梅林など、「満開」は長浜盆梅展などと掲載されていた。

 その2日前の2月8日に、大阪城西の丸庭園の梅林で数多く咲いたいろんな品種の梅を観賞してきた。

 2月25日には、全8回の「認知症予防プログラム」の最終回が万博公園内であった。折から自然文化園では「梅まつり」が開催されていて、たくさんの人が観梅に訪れていた。そこで、梅に関する話題をまとめてみた。


梅一厘


 写真1は、2月8日に「大阪まちなか再発見ウォーク」で大阪城西の丸庭園の梅林を訪れたとき、カメラの前に一輪だけ咲いている梅をアップで写したものである。
 25日にも万博公園でも一輪を撮ってみた。




写真1上段:大阪城公園の梅一輪(10年2月8日撮影)

下段:万博公園の梅林の一輪(10年2月25日撮影)

 一輪だけをアップした写真を眺めていて、数日前、尾川正二 著(筑摩書房)の文庫本「文章のかたちとこころ」に書いてあった、梅一厘の解釈は、句読点の位置によって解釈が異なると指摘されていることを思い出した。

 その中で、「『梅一輪一輪ほどの暖かさ』(嵐雪)という句がある。『梅。一輪一輪ほどの暖かさ』とすれば、〈季節を知っている梅の花が一輪咲き、また一輪咲く。その開くにつれて、ほんの少しずつ暖かくなり、春も本格的に訪れてくる〉意になる。一般に、そういう意味にとっている。『梅一輪。一輪ほどの暖かさ』とすれば、(寒中に咲いた梅一輸。そこにかすかに春の気配が動いているのが感じられる〉ということになる)」と句読点の打ち方の重要性を教えていた。

 この説明の前段に「『結局娘は芸大にはいれなかった』とあった。受験に合格したけれど『いれなかった』のか、受けたけれど『はいれなかった』のか。読点一つで、意味がはっきりする。『ここからはきものをぬいでください』という掲示も、読点の打ち方で妙なことになる。恐るべき、小さな点の働きである」という例が示されていている。

 「句読法は、論理性・情意性・リズムのうえから、大事な働きをする。一つの法則として習熟しなければならないのは、文法上打つべきものとして規定されている場合(論理性)である」と指摘されていて、文章作成上注意すべき点を学ぶことができた。


俳句に句読点!?

 俳句に句読点が要るのかどうか、インターネットで検索してみると、奈良日日新聞の悠言録:7年8月23日のコラムに面白い記事を見つけた。

 夏の甲子園のも勝利校の校歌のアナウンスがひと昔前は、確か「校歌斉唱裡(り)に…」だったのが、今では「○○高校の栄誉をたたえ、同校の校歌を斉唱して、校旗の掲揚を行います」と平易な表現を心掛ける風潮の現代、あえて古めかしい言い回しをする必要はないだろうが、何となく間の抜けた語調であることは確かだと指摘したうえで、同じような現象が、古文の現代語訳や俳句、短歌にも起こるという。

 「原因のひとつは、句読点だろう。『古池や。蛙とび込む水の音』『あかねさす紫野ゆき、標野ゆき、野守は見ずや。君が袖ふる。』いずれも折口信夫の句読点付けである▼本来、句点は一種の注釈であったが、明治以降は西洋の本の影響で句読点を付けるようになった。これには文意を明確にする利点がある半面、歌の持っている重層性、厚みを自ら限定してしまう恐れがある▼その証拠に、折口も『万葉集』はうまくいったものの『古今集』『新古今集』には苦労したらしい。そんな折口も、色紙に揮毫(ごう)する際には句読点を書かなかったというから面白い」と書いていた。

 そういえば、たしか古文書には句読点が付いていないと思う。句読点の起源については「横書きの句読点について」
(www.remus.dti.ne.jp/~ddt-miz/think/comma.html)に詳しく調べられている。


「花だより」の判定は基準木で決める

 「梅」のことを書き始めたのに、句読点で横道にそれてしまった。

 本題に戻すと、2月8日の大阪城公園の梅林ではすでに満開の梅もあり、「五分咲きくらいかな」と判断していたのに、「咲き始め」となっていて、「その判断はどうしているのか」をJR西日本に問い合わせると、「基準木で判断している」ということだった。




写真2上段:大阪城公園の梅林(10年2月8日撮影)

中段:大阪城公園の盆梅(10年2月8日撮影)

下段:大阪城公園のロウバイ(10年2月8日撮影)


 大阪城公園梅林で黄色い花をつけた鉢植えには、7万円の値札に満月ロウバイと書いてあったので調べてみると、「ロウバイ(蝋梅、蠟梅、臘梅、唐梅)は名前に梅がついているためバラ科サクラ属と誤解されやすいが、ロウバイ科ロウバイ属の落葉低木」と説明してあった。(出典:ウキペディア)

 桜の開花予想や、開花状況は基準木とその周辺のサクラの木々と大きな差がないから、基準木というのは理解できるが、ウメの場合は木の種類で梅林全体の開花状況と一致していないのではないかと思った。

 万博公園の「カワセミだより(2007年2月号)『梅林』とウメ」によると、「梅は品種により咲き始めの時期が大きくちがい、1月から3月中旬までと品種により開きがあります」と解説されているから、基準木を決めるのは2月頃に咲く花を基準にしているのだろうか。




写真3:品種によって満開の梅の花(10年2月25日撮影)


 桜の開花予想はソメイヨシノが基準となる。標本木(基準木)が5〜6輪咲いた時、開花宣言をすることになっているようだ。

 桜はバラ科サクラ属サクラ亜属に属する落葉性の樹木桜の品種の数は、400以上といわれている。梅はバラ科サクラ属の落葉広葉樹で、約300種といわれている。


源平の枝垂梅(しだれうめ)

万博公園内には、自然文化園の梅林に81品種と、日本庭園の梅林をあわせて100品種が植わっている。
 
 上記「カワセミだより」の説明の中に「特徴ある梅の一例」として、

桃山:梅林では万博公園の梅林にしかないとされている品種。(まだ木は小さい)
黄金梅:梅にはめずらしい黄色い花。
茶筅:花弁が退化ししべ咲きになったもので茶筅に似ています。
源平の枝垂れ梅:1本の木に紅白の花を咲き分けます。
思いの儘:1輪の花が紅白に咲き分けます。
香篆(こうてん):枝がくねくねと曲がっています。
見驚(けんきょう):淡紅色から白に変わっていく大輪で派手な感じの花。
月影:枝も萼も緑色で青白い清楚な花。
楊貴妃:薄紅色のあでやかな花
武蔵野:紅色八重咲きで梅花中最も大輪の花
大盃:濃い紅色の一重で大輪、しべも紅色





写真4:源平の枝垂梅


 これらの花をじっくり観察できなかったが、「源平の枝垂梅」は東屋のすぐ横だったので、見つけることが出来たが、未だ咲き始めで紅の方が先行して咲いていた。その横に「平安時代後期、源氏は白旗を、平氏は赤旗を用いました。そこから白と赤の対になるものを源平というならわしが生まれ、1本の木に紅白の花を咲き分けるウメも源平の枝垂梅と呼ばれています。元々、このような性質の木ではなく、白梅の木に紅梅の枝を接いで作られています」と解説板があった。

百花の魁(さきがけ)

 この言葉を辞書で引くと、「花の中で春もっとも早く咲くことから梅の花のこと」と説明しているが、十数年前に新島襄の「寒梅」という五言絶句の漢詩を唸っていたことを思い出した。 「庭上一寒梅 笑侵風雪開 不争又不力 自占百花魁」

 確かに梅は春咲く花で最も早いのだろうが、帰りがけにメタセコイヤの木に「メタセコイヤの花が咲いているよ!」解説板が取り付けてあった。




写真5:メタセコイアの雄花


 「メタセコイヤの木を見上げてみると、何か枝のようなものが垂れ下がっているように見えます。これはメタセコイヤの雄花の集まりなのです。サクラのようにきれいな花びらがあるわけでもないので、花が咲いているようには見えませんが、この時期(2月〜3月頃)一斉に咲き出します。雌花は枝の先に1つずつ咲くため、下からは確認しづらいのですが、横に残っている実を小さくしたようなもの(緑色)が付いています」と解説してあった。

 目立たない木にも花が咲いていて、春の準備が整いつつある。



(2010年2月27日)


大阪まちなか再発見ウォーク・渡辺橋の今昔[2010年02月18日(木)]


 昨年末の「大阪まちなか再発見ウォーク」はあいにくの雨で断念したが、まずまずの天気になった2月8日にその企画を実行した。

 JR大阪駅を10時半に出発し、渡辺橋、魚の棚筋を取って北浜の適塾や大阪証券取引所、谷町4丁目の舎蜜局跡などを訪ねた後、難波宮跡史跡から大阪城公園・西の丸庭園の梅林を経て天満橋まで歩いた。西の丸庭園の梅は、ぼちぼち花が開き始めだったが、場所によって満開になっている木もあって観梅を楽しむことができた。

 梅の話題は別の機会に譲って、大阪中ノ島ビジネス街の堂島川に架かる渡辺橋の今昔をまとめてみた。


昔の渡辺橋

 昔の渡辺橋を知る手掛かりは、橋の南詰め東側のたもと(写真1上段)に明治21年に鉄橋になった当時の写真とともに説明されている。



写真1上段:南東角に設置の渡辺橋の橋名表示・説明板

下段:明治41年の渡辺橋


 その文面によると、「渡辺橋・肥後橋は江戸期、明治期を通じて大名屋敷や米市場とともに中ノ島や堂島地区の繁栄を支えてきた。渡辺橋の由来は、現在の天満、天神橋の上町台地北端部あたりの渡辺の津と呼ばれていた地名のようである・・・・・・明治18年の大洪水によってこれまでの木橋が流され、明治21年に両橋ともイギリスから輸入した鉄橋に架け替えられた。
 
 その後、渡辺橋・肥後橋は市電の第二期建設(明治41年)にともなって架け替えられ、明治以降4代目の橋は、第一次都市計画事業(昭和初期)によって架け替えられた優美なアーチ橋であった。現在の橋は昭和41年に高潮対策事業と地下鉄建設に合わせて架け替えられた。この橋の隣にある碑は昭和41年に架け替えられた時のものである。平成5年9月 大阪市」と説明されている。


渡辺橋の由来の渡辺の津

 上記「まちなか再発見ウォーク」で難波宮跡史跡へ向かう途中、天満橋近くに永田屋昆布本店という明治時代からある老舗の昆布屋さんに立ち寄った(写真2上段)。

 店の左手際に「八軒家舩着場の跡(写真2上段)」の石碑と昭和45年5月・牧村史陽氏の説明文と安藤広重画いた浪花名所図絵「八軒家船着場の図」が張り付けられている。また、店先に「八軒家の今昔」(非売品)の冊子を置いてあり、無料でいただける。
 安藤広重の浪花名所絵図は店先で展示されている写真を撮ったが、フラッシュで良い写真でなかったので冊子から引用させてもらった(写真2中段)。




写真2上段:天満橋近くの八軒家舩着場跡

中段:安藤広重の浪花名所絵図

下段:熊野かいどう起点の石碑


 その冊子の「難波津」について、「このあたりは、上町台地の先端で、縄文時代は台地より東側は生駒山麓まで(河内潟)と呼ばれた内海で、(チヌの海)と呼ばれた大阪湾とは上町台地の先端でつながり、潮の流れが速く、ここから(浪速)の呼び名が生まれたといわれる。
弥生時代には海退と淀川と大和川の堆積で(河内潟)は〈河内湖〉から(河内平野〉になり、仁徳天皇が淀川と大和川の合流地溝改修しこのあたりは(難波堀江)と呼ばれた。古代威国際交流の港(難波津)の発祥地である。

 飛鳥、奈良時代には国際交易も盛んで(難波堀江)の両岸には寺や貴族の荘が集まり、倉が建ち並び、また外国使節のための客館(難波館)の施設があった。行基がかけた(難波ノ橋)もこの辺りにあった。

 平安時代には(渡辺ノ津)と呼ばれ、紀州熊野詣での上陸地であった。

 豊臣時代に天神橋・天満橋がかけられた。

 江戸時代には(八軒家)と呼ばれ、淀川を上り下りの三十石船の発着場で賑わった所である」と説明している。




図:5世紀頃の河内潟「八軒家の今昔」(大阪平野のおいたち)から孫引き


 この説明のとおり、平安時代にはこの天満橋付近が渡辺橋の名前の由来となった渡辺ノ津が使われいる。

 この昆布屋さんのすぐ近くには熊野詣の上陸地で、写真2下段に示すように、「熊野かいどう」の説明の石碑がある。

 その説明文に「熊野街道は、このあたり(渡辺津、窪津)を起点にして、熊野三山に至る道である」と書いていて、このあたりが渡辺津又は窪津と呼ばれていた。その熊野詣には道中に99もあるという王子社の、その第一番目の窪津王子がこの近くにある。


明治18年の洪水では30橋余も落橋した

 国土交通省淀川河川工事事務所の「洪水の記録・明治18年」によると、「6月上旬より続いた降雨に加え、15日には北朝鮮北部に現れた低気圧に、17日には瀬戸内海西部に現れた低気圧が、相次いで大阪付近を襲った。

 2度にわたる低気圧で降り続いた雨は15日夜半から豪雨となり、17日夜半までに淀川(大阪付近にて観測)で計183.3mmに達する雨量となった。さらに雨は6月25日頃から再び降り始め、29日から本格的となり、7月1日には暴風も加わって、淀川の水位上昇に追い打ちをかけるかたちとなった」と当時の天気概況を説明している。

 洪水の被害状況では、「さきの低気圧による洪水では、茨田郡全部(北河内郡)と讃良郡7カ村、東成郡27カ村(城東区・旭区・都島区)に濁水が溢れ、計113カ町村、戸数約9,900、反別約4,452.6haが水中に没した。さらに再び襲った暴風雨により被害は拡大、大阪市街の浸水町数は東区28、南区46、西区174、北区92の各町で計340町におよび、大阪城〜天王寺間の一部高台地域を除くほとんどの低地部が水害を受け、被災人口は276,049人にも達した。

 また、808橋といわれた大阪の橋は30余橋が次々に落ち、橋によって通行の要衝を連絡していた市内の交通は完全にマヒ、市民生活は困難を極めた」とあり、このときに渡辺橋など30余の橋が流された。


昭和40年頃の渡辺橋

 写真4上段は阪神高速道路公団が発刊していたPR誌「阪神ハイウェイ」の表紙で、昭和40年頃、中ノ島界隈を上空から撮影したものである。

 中ノ島には関西電力ビルや1958年に建った新朝日ビルディングの屋上にヘリポートが写っている。その手前の低い建物は朝日新聞大阪本社の建物で高速道路がビルの中を抜ける工事にあわせて、ビルが立替え中だった。




写真4上段:昭和40年頃の中ノ島(阪神ハイウェイ表紙)
中段:昭和40年頃の渡辺橋(上流側を見る)

下段:昭和40年頃の渡辺橋(下流側を見る)


 阪神高速道路は土佐堀川から中ノ島のビルディング内を縫うように、S字カーブの高架橋の鋼床版デッキが見える。堂島川では上流側の北浜方面へ向けて橋脚が出来上がったばかりだ。

 渡辺橋の北東角には白い8階建ての大和銀行ビル(写真では写っていない)があった。正面の白い大きなビルは新ダイビルである。

 渡辺橋では写真4中段(上流側を望む)圧気潜函工事の工事用三脚クレーンが林立している。工事期間中は仮橋で歩道と車道は分離していた。

 写真4下段は手前の渡辺橋の歩道用仮橋の先に帝国ホテル、昭和8年に建った中ノ島三井ビルディング、関電ビル、右端の黒く写っているビルは、大正14年に竣工した大阪ビルヂングと思われる。


渡辺橋付界隈の現在・未来

 写真5の3枚はいずれも渡辺橋界隈の最近写したもので、上段は堂島川右岸(北側)で、40年以上経った現在では昔のビルはほとんど建て変わっている。
 
 中段は南西の朝日ビルとそのビルの中を抜く高速道路が写っている。

 下段は四ツ橋筋から北東方向を写したが、その3棟は以前建っていた大和銀行ビルなどを解体して建て変わったビル郡である。




写真5上段:渡辺橋から北東方向を見る

中段:渡辺橋から南西方向を見る

下段:四ツ橋筋から北東方向を見る


 いま、渡辺橋南東に立っていたフェスティバルホールなどが入った新朝日ビルは解体されてしまった。
 
 朝日新聞の記事によると、四ツ橋筋の大通りを東西から挟むように建てる高さ200bのツインタワーを建設中で、東側は2013年に、西地区は2018年に完成予定だという。

 1958年に建った新朝日ビルは、50年強で建てかえられることになった。

 1966年に架け替えられた渡辺橋は、ツインタワー完成の2018年には、この橋も満52歳になる。
 
 高度成長時代に建設された周辺のビル群が次々と建て替えられていく昨今、いずれ耐用年数で架け替えられる時期が来るだろう。どんな橋に架け替えられるのだろうか。


(平成22年2月18日)



万博公園・自然文化園の春の息吹[2010年02月05日(金)]


 一昨日は「季節を分ける」節分、昨日は立春で、厳しい寒さの中で迎えた。

 先週1月28日の「統合医療による生活習慣病の予防」プログラムの森林浴では、午前中雨が降っていたが、森林浴で園内を散策した時には、幸いに雨が上がった。芝生などはたっぷり水を含んでいて歩きにくかったものの、訪れる人もほとんどなく、春の息吹を感じながら散策することができた。もうそこまできた春の足音をお届けする。


梅三輪が1月3日に咲いた!

 上記プログラムで同じ机のSさんは、「万博公園内・梅園の梅の花が最初に咲くのはいつか」を毎日観察に出かけたところ、1月3日に3輪が咲いたと話してくれた。
 
 その後、厳しい寒さでしぼんだりもしたらしいが、1月28日には、全体的には写真1上段のように、つぼみが膨らんでいて2月上旬には見ごろを迎えることだろう。
数多く植わっているなかには、写真1下段のようにちらほらと花を咲かせている枝も見られた。




写真1上段:梅園の梅の花は全体的に未だつぼみ

            下段:品種によって梅の花は開花していた

  牧野新日本植物図鑑によると、「梅は支那原産の落葉高木、恐らく古代に日本に渡来したものであろう。早春に葉よりも早く殆んど無柄の花を開き、前年の枚の葉腋に1〜3個生じて芳香を放つ。花は通常白色であるが、紅色、淡紅色のもの、また一重賂八重咲きのものがある」と解説している。

「水すましの池」付近

  「水すましの池」にはマガモとコサギが餌をついばんでいた。この池にはザリガニなどがいるので、ザリガニを探しているのだろうか。



写真2上段:「水すましの池」のコサギとマガモ

中段:葉っぱが落ちて美しい木々の枝振り

下段:池の先の西大路のプラタナスの並木


 一緒に散策していた仲間が「白鷺がいる」というと、万博記念機構のIさんが、「シラサギは白いサギ類の総称で、日本ではダイサギ・チュウサギ・コサギ・カラシラサギを指すが、この池にいるのはコサギです」と説明してくれた。コサギに近づいてアップで撮ろうとしたら、飛び立ってしまった。「シマッタ!(写真2上段)」

 この近くの木々はすっかり葉っぱを落としていて、その枝振りだけが美しいシルエットになっていて、雨上がりのどんよりした空に静かな佇まいをかもし出していた(写真2中段)。

 池の向こうには西大路のプラタナスの並木がかすんで見えた。(写真2下段)


蕾(つぼみ)もみんな ふくらんで

  「水すまし池」の近くで、万博記念機構のIさんが、「水仙が見ごろですと」と案内してくれた(写真3上段)。



写真3上段:水仙はちょうど見ごろ

中段:つぼみが膨らんだコブシ

下段:シダレザクラの芽は未だ堅い


  その少し先に小さな花がちらほら咲いていた「梅でもない、桜だろうか」と近づいて「この木何の木?」の解説をめくってみると「ジュウガツザクラ(バラ科・十月桜)バラ科のサクラの仲間で、コヒガンに由来した秋咲きの園芸品種で、春にも咲きます。花は小ぶりで花弁は5〜15枚と変化があります」と書いてあった。

 「水鳥の池」のこんもりした森の前面にコブシが植わっていた。コブシは写真3上段のように、花芽をしっかりと膨らませていた。3月には白い花を咲かせることだろう。花芽を観ただけでは、樹種は分からなかったが、名前を書いた札を見て「コブシ」だと知った。

 「コブシ」というと、口をついて出てくるのが、千昌夫が歌っている「こぶし咲く あの丘 北国の ああ 北国の春」である。

 昔の人はこの花の開花時期から農作業のタイミングを判断したり、花の向きから 豊作になるか否かを占ったりしたという。

 すぐ近くには、シダレザクラの芽は堅いながら、芽吹いていた。


ハクモクレンの木にキノコが!

 シダレザクラの木のすぐ近くで、きょろきょろと見つめていたら、木の幹にキノコが生えていた。
 「この木何の木?」の答えには、「ハクモクレン、モクレン科白木蓮、葉が出る前に、枝先いっぱいに白い花が咲き、よい香りが漂います。中国から渡ってきた木で、モクレンとは違い大木になります」と解説しているが、キノコが生えているから枯れてしまっているのだろうか。
 自然観察学習館の職員の方が、「よく見つけましたね」と言ってくれた。




写真4上段:ハクモクレンの木

中段:ハクモクレンの木にキノコが!

下段:ミズナラの枯れ木にナメタケ(近江坂古道)


 2年前に近江坂古道の奥深い山中でミズナラが枯れていて、ナメタケがびっしり生えていたことを覚えていたから直ぐに見つけられた。

 近江坂古道ではミズナラが枯れてしまっていて、天然のナメタケ(写真4下段)ができたのだ。採取してなめこ汁や炊き込みご飯にして舌鼓を鳴らしたことが思い出される。

 滋賀県の山中ではナラ枯れが問題になっていて、ハイキングで歩いた近江坂古道はその昔、馬道として馬を引きながら、近江今津の酒波(さなみ)寺と福井県の闇見(くらみ)神社を峠越えで歩いたというが、今ではナラ枯れで葉っぱが落ちてしまって、山の保水力がなくなってしまい、岩肌が露出していて歩きにくい古道になってしまっていた。

 ナラ枯れの犯人は、米粒ほどの体長4、5ミリの甲虫カシノナガキクイムシ(カシナガ)で、いま高槻まで迫ってきているとか、箕面の山もナラ枯れは時間の問題かもしれない。


ツバキ咲く春

 ツバキは日本を代表する花木である。

 箕面の山には野生のヤブツバキが数多く自生している常緑高木だが、密集して光を求めて枝葉を四方に広げていて森を暗くしている。
 山道などで日当たりの良い明るい場所は別にして、密集した林内では、下草が生えてくるように積極的に間伐して陽の光が入るようにしている。




写真5 つばきの森に咲く「祝いの盃」


 自然文化園の「ツバキの森」には、およそ100種のツバキ、サザンカ類が植えられている。 万博公園自然観察学習館・2009年2月作成の「つばきの森『品種リスト』」には99種が掲載されている。そのなかに「一名花かどうかは別にして一ちょっと気になる名前のツバキ」として、

@婆の木(ばあのき):「婆」の字が気になります
A白逆さ富士:ツバキの森で富士見物できる?
B祝いの盃:縁起よさそうで、是非出会いたい
C碁石(ごいし):碁石のイメージをさがしてみなければ‥
D百合金魚椿(ゆりきんぎょつばき):金魚はどこに?
E虞美人(ぐびじん):是非あやかりたい
F舟木赤ヤブ5号:農林試験場生まれ?

 つばきの森では、未だ咲いている品種は少なく、縁起のよい「祝いの盃」はほぼ咲きそろっていて撮ってきたので、写真5に載せてみた。

 平凡社の「世界大百科事典」の「ツバキの花ことば」によると、「ツバキは16世紀ごろポルトガル人によってヨーロッパに伝えられ、イギリスへは18世紀初頭に渡った。

 あでやかで異国的なツバキは『日本のバラ』と呼ばれ,花木の貴族とたたえられた。フランスでも19世紀には『椿姫』の大流行でわかるように、紅白のツバキのコサージュや花束が、夜会のアクセサリーとしてもてはやされ、パリジェンヌたちの胸をときめかした。

 ツバキの花ことばは、このような熱狂的な背景もあって、紅ツバキには『気どらない優美』、白ツバキには『完全な愛らしさ』という最上級の賛辞が与えられたのである」と書いている。

 この記事を書いているこの2、3日の寒さはことのほか厳しく、「春は名のみの風の寒さや・・・・・・」と吉丸一昌作詞・中田章作曲の「早春賦」が口をついて歌っていた。


(平成22年2月5日)
東福寺の屋根付橋[2010年01月26日(火)]


 1月20日は二十四節気の一つ「大寒」。1年で寒さが最も厳しくなるころとされるが、天気予報ではぽかぽか陽気になるというので、19日にハイキング仲間3人で京都の社寺を巡ってきた。

 JR京都駅に10時に出発して東寺の境内を一巡りした後、東寺から400メートルほど西の羅城門跡を訪ねた。桓武天皇時代の794年に平安京に奠都したときの都の正門が羅城門である。この門を守護する東西の位置に東寺、西寺が置かれ、そのうち東寺は現代まで残っている。西寺跡へ歩きかけたが石碑だけだというので、東福寺に方向転換した。

 幹線道路から少し入ると、東福寺関連の寺院や幼稚園などの施設が立ち並んでおいて広大な寺域だなと思った。


臥雲橋は「単車・自転車は下車通行」

 付近の案内板の地図で確認して本町通(伏見街道)の1筋東側の道を歩いた。寺院の長い土塀(写真1上段)を南方向へ進んでいくと、写真1中段のように道の真ん中に屋根が載っていて道幅が狭くなっていた。
 この屋根のある道の中ほどで、下をのぞいてみると、切り込んだ渓谷に小さい川が流れているので橋だとわかった。
 橋を渡りきった道路際の立て看板に「重要文化財・臥雲橋保護のため単車・自転車は下車通行 車イスの方は、右側通行 周辺『火の要心』 大本山東福寺(写真1中段)」と書いていた。
 途中の道は自動車も走っていたので市道と思っていたが、境内でもらったリーフレットの地図を見て東福寺の中の私道だとわかった。




写真1上段 寺院の土塀が続く東福寺寺域

中段 屋根つき橋・臥雲橋

下段 臥雲橋から通天橋を見る


  臥雲橋がいつごろ架けられたかを、「古寺巡礼 京都18東福寺(著者:大岡 信/福島俊翁樺W交社発行)の年表で調べてみたが、他の2橋は載っているものの、この橋の記述はなかった。
 インターネットの「日本の屋根付橋」に、「相当古くから架けられていたようで、雪舟(1420〜1506年)作と伝えられている東福寺の伽藍図にも描かれているが、現在のものがいつ建てられたものかはよくわからない」という。


東福寺三名橋

 そのリーフレットの「もっと知りたい東福寺」の中の「東福寺三名橋とは」に、「広大に境内に北谷、中谷、南谷の三つの渓谷を巧みに取り入れている東福寺。通天橋からの中谷にあたり、ここからかかる三つの歩廊橋は上流から偃月橋(重文)、通天橋、臥雲橋。これを『東福寺三名橋』と呼びます」と説明している。

 写真1下段は、臥雲橋から上流側の通天橋を撮ってみたが、木々に隠れてその全貌は分かり難かった。文章だけでは三つの橋と寺院や広大な寺域を理解しにくいので、リーフレットから絵図だけを切り取ってみたのが、図−東福寺全体図である。




図−東福寺全体図


通天橋

 境内で買い求めたガイドブック「東福寺(臨済宗大本山東福寺発行)」の通天橋には、「法堂から開山堂(常楽庵)に至る渓谷(洗玉澗:せんぎょくかん)に架けられた橋廊です。1380(天授6)年、春屋妙葩(しゅんおくみょうは:普明国師)が谷を渡る苦労から僧を救うため架けたとつたえられ、歩廊入口には同国師の筆に成る『通天橋』の扁額をかかげます。南宋径山(きんざん)の橋を模し、聖一国師が名付けました。

 その後、第四十三住持、性海霊見が修造し、長廊を架したともいわれますが、その後も幾度か架け替えられ、現在のものは、1959(昭和34)年、台風によって倒壊したものを1961(同36)年、再建したものです」と説明している。




写真2上段:通天橋を接近して撮影

中段:下流側から少し離れて通天橋を見る

下段:上流側から臥雲橋を見る


 写真2上段は通天橋に近づいて写した。通天橋は橋の前後も屋根のついた長い歩廊(2列の柱の間につくった通路。回廊−大辞泉)が続いていた。

偃月(えんげつ)橋

  ガイドブックには「偃月橋は本坊より塔頭、龍吟、即宗両院に至る三ノ橋渓谷に架かる木造橋廊です。桁行十一間、梁間一間、単層切妻造りの屋根は桟瓦葺。1603(慶長8)年につくられ・・・・・・」と解説している。

 上記年表には「慶長八(1603)年六月十二日、惟杏永哲示寂、十月、偃月橋を改架する」と書いているから、渓谷を渡る苦労救うために通天橋、臥雲橋と相前後して架けられていたのかもしれない。




写真3上段:桟瓦葺の偃月橋

下段:偃月橋の高欄と橋脚


 通天橋は上記のように、昭和34年の台風で倒壊して再建されたが、偃月橋は被害が出なかったのだろうか。
 この橋の屋根を支える柱には、シロアリが食い荒らした穴が多数見られたので、係りの人に聞くと、シロアリ以外に獣が爪で引っかいた傷跡もあると言っていた。
柱や高欄の傷を見ると、今から400年前の屋根つき橋が原形を保っているのだろうか。


東福寺三名橋を見て

 写真2下段は、臥雲橋を渓谷の上流側から撮ったもので、屋根つき橋の下部や高欄、屋根の構造が分かる。東福寺に架かるこれら3つの橋は同じ構造形式でラーメン(骨組)構造になっている。

 注)ラーメン(Rahmen)とは、構造形式のひとつで、主に長方形に組まれた骨組み(部材)の各接合箇所を剛接合したものを言う。同じ構造である。(出典*ウィキペディア)

 橋の構造に詳しいIさんが、川の流れに沿った2本の柱は筋交いが入っていて、この方向に来た地震波には耐震補強がなされているが、川の流れに直角(南北)方向=橋軸方向から来た地震波に対して十分に耐えられるか疑問である」と言っていた。

 一般に架かっている橋でも台風などの風に対しての安定計算は欠かせないが、屋根つき橋は、渓谷から吹き上げてくる風に屋根が吹き飛ぶことも心配である。昭和34年の台風といえば、伊勢湾台風だろうと思われる。


屋根付橋にした訳

 渓谷を上がったり降りたりする僧の苦労を救うという理由で橋を架けたのは理解できるが、屋根をつけた理由が通天橋を見ていて理由が分からなかった。

 偃月橋の際の受付の女性に聞くと、「秀吉の時代、北政所が橋を渡るときに雨に濡れないように屋根を付けた」と言っていたが、果たしてどうだろうか。

 上田 篤「橋と日本人」(岩波新書1984年)の屋形橋の中で、「屋根のある橋―というのが、意外に日本にはすくない。外国には、たとえばフィレンツェのボンテ・ベッキョや、ベネチアのリアルト橋などがある。ヨーロッパの中世の町の橋には、建物ののった家橋が多かった……

 中世のヨーロッパの都市の絵図をみると、屋根のある橋はいっぱいある。その理由は、たとえばスイスのルツエルンの町などをみるとよくわかる。要するに家橋は、防塁の延長なのである。川によって町が二つにわけられているとき、城壁は川によってさかれてしまうが、そのばあい、家橋が両方の城壁をつなぐように、川中に延々とつづいて、そのかわりをはたしている・・・・・・

 それにひきかえ、わが国の中・近世の都市では、城内町というのはほとんど発達しなかったから、城壁橋というのもあまりみかけない。ただ『甲陽軍艦』などによると、橋の上に廊下をもうけ左右に壁をつけ、狭間(さま)をきり、矢を防ぐようにした廊下橋はあったようだ。しかしそれも溝や堀をまたぐほんの短いもので、本格的に川の上にかかった橋かどうかわからない。
 
 こういう軍事上の橋は別にしても、雨の多い日本の風土をかんがえると、屋根のある橋がもっとあってもふしぎではない。ところが、そういう「屋形橋」は、庭園などにある廊下橋と、神社の参道にかかる鞘(さや)橋ぐらいのもので、前者は多く貴人が月や紅葉をめでるための建築であり、後者は人間というより橋を風雪からまもるための施設である。前者の例に京都の東福寺の通天橋があり、後者の代表に四国の金此羅神宮の鞘橋や、九州の宇佐八幡宮の呉橋などがある」と説明している。

 東福寺の屋根付き橋のことを調べている中で、たまたま所用で箕面市坊島のヴィソラに出かけた。新御堂筋を跨いで東西の商店街を結ぶ萱野三平橋には立派な屋根が取り付いていることに気がついた。




写真4上段 新御堂筋に架かった萱野三平橋

下段 鉄骨がむき出しの萱野三平橋の歩道面


 この道路を走っていると突然に異様な構造物が横切っていて周辺の景色と異質な感がある。屋根と言ってもところどころ明かり窓から雨が吹き込んでくる。どんな目的で屋根を付けたのだろうか。
 この橋から、別の屋根付橋を思い出した。いずれ調べてまとめたいと思っている。

 


(平成22年1月26日)
休日にトヨタの森で休息し、正月休みに「休」を考える[2010年01月09日(土)]


トヨタの森の木陰で人が立つ

 昨年11月23日、「勤労感謝の日」の休日、箕面山麓委員会による「トヨタの森見学会・バスツア」に参加した。これに関しては「みのお山なみネット掲示板」の、09年12月15日の山麓広報センターから投稿されているので省略する。

 この日、森の見学コースを1時間半ほど歩いてやや疲れたころ、インタープリターさんが、木陰にたたずんで見学者にクイズを出した。ヒントは漢字1字だと言うが、さっぱり検討がつかなかった。しばらくして一緒に歩いた仲間の一人が「きゅう」と答えたが、それでも気がつかなかった。
 インタープリターさんが木のそばに立っている。木の側に人が立っている姿が「休む」だと解説してくれた。
 そういわれれば、人が木陰で一服して姿は、休むという字にふさわしく釣り合っていて、漢字の成り立ちからしても不自然でないとは思ったが、「ほんまかいな?」と疑問を持ちながら帰った。




写真 トヨタの森(09年11月23日撮影)


 年末の忙しい時期に入って休む暇もなく、やれ忘年会だ、忘年ハイキングだ、大掃除だと休憩、休息する間もないうちに2010年を迎えてしまった。

 正月の連休中に「休」をまとめるつもりでいたら、風邪をこじらせて休養していたため、今日やっとこの問題に取り組むことが出来た。もっとも無職の身には毎日が「休み」の連続で、連休中ではあるが……。


インタープリター(interpreter)とは

 上記山麓広報センターの投稿記事の中で書いているインタープリターという言葉は初めて見た用語だったので検索してみた。

 EICネット環境用語のインタープリターには「自然観察、自然体験などの活動を通して、自然を保護する心を育て、自然にやさしい生活の実践を促すため、自然が発する様々な言葉を人間の言葉に翻訳して伝える人をいう(interpret=通訳)。

 一般的には植生や野生動物などの自然物だけでなく、地域の文化や歴史などを含めた対象の背後に潜む意味や関係性を読み解き、伝える活動を行なう人を総称していう。一般には、自然観察インストラクターなどと同義に用いられることも多い。なお、インタープリターの行なう活動をインタープリテーション(自然解説と訳されることも多い)という」と解説している。


そろそろ閑話休題(注)にして、「休」の漢字に話題をもどそう。


(注)閑話休題とは、文章で、余談をやめて、話を本題に戻すときに、接続詞的に用いる語。それはさておき。あだしごとはさておき。

漢和辞典で「休」を調べる

 手元にあった「高校漢文学習のための 旺文社高校基礎漢和辞典(赤塚 忠/大和田 顕/遠藤 哲夫/林 茂夫 編)では「休」
「形声(注)。人と音を表す木“キュウ”(樛「きゅう」の原字.誤って木に変わる)とで、人の受けるさいわい、転じて「休む」意に用いる。一説に、会意で、木かげに人のやすむさまともいう。


(注)形声:漢字の六書(りくしょ)の一。音声を表す文字と意味を表す文字を組み合わせて、新しい意味を表す漢字を作る方法。「銅」「江」「草」の類。諧声(かいせい)。象声(しょうせい)。

 角川新字源(小川 環樹、西田 太一郎、赤塚 忠 編)によると、「人と音符の木(木は誤った形。かばうの意→畜)とから成り、かばい、さいわい、転じて「やすみ」の意を表す」と書いていて「木(キュウ)」は、高校基礎漢和辞典では「樛」、角川新字源では「畜」と違っていた。


古代漢字学で著名な白川 静博士の「休」

 平成17年の文化勲章受章者で3年前になくなられて漢文学者・古代漢字学で著名な学者の白河 静博士の「常用字解(平凡社)」では以下のように書いている。

 「会意(注)人と木とを組み合わせた形。木は古い字形では禾の形で、禾は横木のついている柱。軍営の門の両脇に軍門の標木(目印の木)として禾を立て、両禾軍門といわれた。
そこで軍事的な誓いや平和交渉なども行われ、禾の前で講和することを和という。戦争で手柄をたてた人を表彰することを休といい、休は『さいわい、よい、めでたい、よろこび』というのがもとの意味であった。




図 文字資料(白川 静 著、常用字解から)


 休は木の下に人が休むの意味であるとか、麦畑で人が休むの意味であるという説明をされることがあったが、それは誤った解釈である。周王朝のとき、戦争以外での功績についても王や上官が表彰し、貴重な貝や馬などを褒美として与えることが行われているが、そのようなときに休暇(やすみ)が与えられることもあって、休は『やすむ』という意味に使われるようになったのであろう」。

(注)会意:漢字の六書(りくしょ)の一。二つ以上の漢字を組み合わせ、その意味を合成して独立した文字とするもの。例えば「人」と「言」を合わせて「信」、「木」を三つ合わせて「森」を作る類(大辞泉)。

下手(へた)の考え休むに似たり
 
 このブログの締めくくりとして、「休」を使った四字熟語、成句辞典(竹田 晃著、講談社)を調べてみたが、意外と少なくて以下の3つを見つけた。

按甲休兵:
戦いをやめること。「按甲」はよろいを下におくこと、「休兵」は武器を休ませる意。

不眠不休:
眠らず休まず、一心につとめること。

休心息念:
仏教で、折にふれてわきおこる感情や欲念を断ち切ること。仏法にもとづく人間本来のあり方に徹して生きることをいう。

 ついでに、ネットで「休」を使った「ことわざ」を検索してみると、「下手の考え休むに似たり」が見つかった。下手な人(名案が浮かぶ筈のない人)がいくら考えても、時間を浪費するばかりで何の効果もない(大字泉)。

 下手な「ブログ」ももういいかげんにして「休め」ということだろう。こう耳元でささやかれては、「万事(ばんじ)休(きゅう)す」である。


新しい年を迎えても相変わらずの長いブログになってしまった。もっと簡潔に書かなければならないと心得ているつもりなので、細々とではあるが精進して「四季折々」の話題を書こうと思っている。

 本年もどうぞよろしくお願いします。


(平成22年1月9日)
万博公園自然文化園・冬の風物詩[2009年12月26日(土)]


 12月24日・第4木曜日の「認知症予防プログラム」は「万博公園の自然素材で作ろう・ナチュラルクリスマスリース」でリースつくりに挑戦した。

 前日が天皇誕生日の祝日だったため、公園内は振替の休園日だった。
その日は、イルミナイト万博2009」が12月20日から開催されていて最終日だったので、午後4時からは開園された。

 休園中の園内を散策する森林浴では、人の動きがほとんどなかったので、日頃は見られない風情を楽しむことが出来た。万博公園内の冬の風物詩をお届けする。


葉っぱのなくなったギンドロ

 春先から晩秋にかけて、他の木を圧倒するように20メートル以上に伸び、葉の裏面に銀白色の毛があって、風にひるがえると銀色に見えていたギンドロも写真1上段に見るとおり、すっかり葉っぱを落としてしまっていた。

 前回のブログ「たくましいギンドロ」の中で、「行事案内の看板を支える杭にギンドロの伐採した枝を使ったところ、その一本から芽が出て、葉が出て、枝が大きくなり成長を続けていた」という杭は、写真1下段のように葉っぱがなくなって枝だけが目立っていた。  




写真1上段:葉っぱのなくなったギンドロ(09.12.24撮影)

下段:杭に使ったギンドロに枝だけが目立つ(09.12.24撮影)


西大路のプラタナス並木

 自然文化園の中でも、西大路のプラタナス並木は見事だが、12月の下旬ともなると、すっかり葉っぱが落ちてしまっていた。

 葉っぱが落ちていても、両側に3列に植わっている並木は、枝振りだけでも見事な景観を保っている。

 プラタナス並木の下は、大きな葉っぱがびっしりと敷き詰められていて落葉のじゅうたんになっていた。

 1月にはこのプラタナス並木は、大型機械を使って枝の剪定を行うという。春には見事な葉っぱを出してくれることだろう。




写真2上段:葉っぱのなくなったプラタナス(09.12.24撮影)

写真2下段:プラタナス並木の落葉のじゅうたん


昆虫や爬虫類は冬眠中

 案内してくれた万博機構のYさんが写真3上段の「アキニレ」の木の説明板の裏をめくって見せてくれた。裏には写真3中段に見られるように、ヤモリが冬眠していた。

 プラタナスの幹の皮は少し浮いていて、はがしやすい。Yさんがめくって見せてくれたら、写真3下段のように白い平たい虫がいっぱい冬眠中だった。




写真3上段 樹種の説明板(アキニレ)

 中段 説明板裏面に冬眠中のヤモリ

下段 木の皮の裏にプラタナスグンバイ


 プラタナスと皮で検索してみると、「プラタナスグンバイ」のタイトルで、「プラタナス、スズカケノキとも。街路樹や公園でお馴染みの木ですが、今は葉を落としお休み中です。そんな木の幹の浮いている皮を少しはがしてみてください。

 長さが3〜4mmの白い平たい虫がいっぱい越冬しています。よく見るとお相撲で行司さんが使う『軍配』に似ているので『プラタナスグンバイ』という名前が付いています。

 数年前アメリカからやってきた虫で今や敵なし、葉っぱについて汁を吸い白くしてしまう被害が出ています」と写真入で説明があって、冬眠中の虫の名前を知ることができた。


橋の床に着いた白線はカワセミの糞

 森の表情を木と同じ高さまで立体的に観察できるソラード(「空の道(ロード)」をもじってつけた名前)の近くに、ビオトープの池がある。

 この池にはメダカなどが生息していて、メダカを餌にしているカワセミが飛来してくるので、鳥の写真のシャッターチャンスの良い場所としてカメラマンの集まってくる場所になっている
 
 Yさんが「木製の橋に付着いている白線(写真4中段)は何か」と尋ねた。
 この白線は池の先端で魚を捕らえようと虎視眈々と狙いを定めていたカワセミが飛び立つ瞬間、後方に糞を発射した軌跡だと説明してくれた。

 人が行き来しているふだんの園内では、カワセミがこのような低い橋の先端に留まっていることはないが、誰もいない池のすぐそばで魚を捕獲したときの痕跡なのだ。

 Yさんはその事実だけを説明してくれたが、餌に狙いを定めて飛び出すときのスピードからして、糞の噴射スピードはジェット噴射だったのではないだろうか。




写真4上段:ビオトープの池に架かった木製の橋

 下段:カワセミが飛び立つときに噴射した糞の痕跡


 唐沢孝一著、薮内正幸画 BLUE BACKSの「都市鳥ウォッチング:平凡な鳥たちの非凡な生活:轄u談社1992年4月20日発行」の「カワセミ」には、「この鳥は、からだの割合からして頭や嘴が大きい。水辺の杭、水の上につき出ている枝などにじっととまり、水中の魚にねらいをつけてダイビングし、水中で魚を捕らえ、ふたたびはばたいて元の止まり場に戻ってきて食べる。適当な止まり場所がないときには、空中でホバリング(ヘリコプターのように空中にとどまる飛翔)しながら水中の魚を狙うこともある。

 川や池の魚を、人が網や素手で捕まえようとしてみても、素早く逃げられてしまう。カワセミが水中に飛び込んで魚やエビなどを捕獲する行動は、人の目には一瞬のできごとでよく見えないが、そのスピードがいかに速く、しかも狙いが正確であるかが想像できよう」と、そのスピード振りを解説している。

 先月のプログラム「バードウォッチング」で双眼鏡を持ちながら歩いているとき、同じ机に座っているAさんが箕面川で見たカワセミのおしどり夫婦の話を聞かせてくれた。

 川で捕えて口にくわえた魚を石にたたきつけたのを雌鳥に与えている光景を見たという。周辺で観察していた人たちが思わず拍手喝采だったという。

 カワセミがオシドリのように仲の良い夫婦であるかどうか本には書いていなかったので分からなかった。雌だったのか、雛だったかもしれないが、唐沢孝一著「野鳥ガイド」(日本鳥学会常任評・新星出版社1998年6月20日発行)の「カワセミ」の項には「捕えた魚を石や枝に叩きつけてから食べる」と書いていた。

 先月のバードウォッチングでは、「水鳥の池」の木に止まっていたカワセミのオレンジ色の腹をした鮮やかな色を望遠鏡で見ることはできたが、その全体の姿を見ることができなかったので、上記の「野鳥ガイド」から「魚を捕えたカワセミ」の写真5を引用してみた。




写真5 魚を捕えたカワセミ(唐沢孝一著・野鳥ガイドから引用)


 また、「都市鳥ウォッチング」にはバードウォッチャーのあこがれの鳥としてカワセミのことを紹介していたので引用してみた。

 「大きさはスズメくらいであるが、色彩が実に美しい。頭や翼などの青緑色、あるいは、背から尾にかけてのコバルト色などが、光沢のあるメタリックな色彩で輝いている。胸から腹にかけては赤茶色の色彩もよく目立つ。しかも、光線の当たり具合によっては、ブルー、グリーン、ブラックなど、キラリと光る色彩の変化を楽しむことができる。カワセミは、漢字で翡翠(ひすい)″とも書き、空飛ぶ宝石″の別名もある」と。

 私たちが森林浴でビオトープの池に着いたのは4時を過ぎていた。
カワセミは人気がないのを幸いに、池の魚をたらふく食べて巣に戻ったのか、新しい糞の痕跡を残しただけで姿は見られなかった。

 池の反対側には、冬鳥として日本に飛来してくるジョウビダキが1匹だけ見ることができた。離れていたので、写したデジカメでは確認できなかった。


(平成21年12月26日)
たくましいギンドロ[2009年12月20日(日)]


 万博公園自然観察学習館「カワセミだより」NO.43(2009年10月号)の「自然観察雑記帳」に「たくましいギンドロの杭」の記事を見つけた。
 「行事案内の看板を支える杭にギンドロの伐採した枝を使ったところ、その一本から芽が出て、葉が出て、枝が大きくなり成長を続けています。地中では根も出ていることでしょう。この杭を打ったのは多分今年の4月頃のことだったと思います。生木だったのでしょうが、すごい生命力です・・・・・・」と、杭にまで気をつけなければと、紹介していた。

 この話題のずっと前に、万博公園の関係者からギンドロが大きくなりすぎて困っているということを聞いたこともあり、このたくましいギンドロについて調べてみた。




 
写真1上段:「カワセミたより」に掲載された写真(09.9.21)

下段:杭から成長したギンドロ(09.11.26撮影)



  ギンドロは落葉樹なので、11月26日に撮ったときには、写真1下段のように葉っぱが大分落ちていた。

自然文化園のソラードから見たギンドロ

 万博記念公園内の自然文化園の森は、万博開催時、パビリオンの林立していたこの場所に、生態的に自立した森を再生するという先駆的な試みがなされ、100haの敷地に約260種60万本の樹木が植栽された。
 この豊かに成長した森の表情を木と同じ高さまで立体的に観察できるように、写真2のようなソラード(空の道ロード≠もじって名付けられた)という施設が万博30周年を記念して出来ている。




写真2 木と同じ高さで見られるソラード


 昨年4月にこのソラードを歩いていてギンドロという木の名を初めて知った。写真上段のように、木の名前と解説があって葉の裏が白く見えるのが目の前で観察できた。



写真3上段:ギンドロの解説板

下段:繁ったギンドロの葉っぱ


 ソラードの終点に約20メートルに展望台がある。
 
 その高い位置から見下して一段と高く繁った木々(写真4、5)が、ソラードの側で見たギンドロと同じだと知ったのは今年の10月に万博公園の関係者から聞いてからだ。




写真4 展望台から見下ろしたギンドロの木々(08.4.30撮影)




写真5 太陽の塔の手前にギンドロがこんもりと!(08.4.30撮影)


ギンドロの名前

 ギンドロは明治中期に渡来し、各地に植えられているそうだが、万博公園には成長が早いこの木の特徴を生かしてたくさん植えられたとか聞いた。

 ギンドロという名前は、木の名としてしっくりこないと思って調べてみた。

 辻井 達一著 「続・日本の樹木(山の木、里の木、都会の木):中公新書1834」によると、
 
 「ギンドロはドロノキ(P.maximowiczii)の仲間で、葉、ことにその裏面に銀白色の毛があって、風にひるがえると銀色に見えるのでその名がある。ドロとは北海道松前の方言でデロと言うことから出たそうだ。ポプラすなわちハコヤナギ属だから別名はウラジロハコヤナギ。これはきわめて説明的な名前である」と解説している。

 さらに、「今では日本中でいわば雑草化してどこでも生えているのが見られるが、元は中央アジアから地中海地方に分布したものが伝わった。乾燥にも強く、海岸の砂丘や河原などに平気で育つ。風で吹き折られても、伐られても、また芽を出し、枝を伸ばす強靭さを持っている。
 その性質を利用して海岸砂丘の砂止めや、道路の斜面などの崩落防止などに使われるが、なにしろ強い植物だけに、増えすぎると今度は根絶やしに手間暇がかかる。厄介なものではあるが、木のほうでは、人間の都合で植えておいて増えすぎると邪魔にするのは少し勝手すぎほしないかと言いたいのではないか。ギンドロの言い分もあるだろう。
 ギンドロはよく伸びれば高さ20メートル以上に、樹冠も大きく広がって10メートルあまりになるから、それが風でひるがえればかなり壮観だ。葉はそれこそ銀白色の毛が密生して長さ8センチから10センチになる」と書いてある。

 上記「カワセミだより」の結論に「庭などにうっかり植えると茂りすぎたり、あちこちに芽を出してはびこり困る樹々がありますが、杭にも気をつけないといけないとは……そろそろこの杭も撤去どきです」と書いてあるが、万博関係者もあまりにも高くなり過ぎたギンドロの管理も大変なようだ。


発酵食品や野菜に音楽ややさしい言葉を聴かせる

 辻井 達一著「続・日本の樹木」のギンドロの項の最後には「この木についてだけではないが、生物保護の運動をしている古くからの友人が、あるとき、植物虐待ということを言いだした。彼の意見というのは、たとえば街路や中央分離帯に植えられている植物は虐待されているのではないか、というもので、これには大いに驚いた。植物心理学という分野が考えられていて、優しい言葉をかけられたバラが美しく咲くとか、キャベツに電極を付けてオシログラフで見ると反応があるとかいう類である。こうなると庭や公園におちおち木も植えていられない。ギンドロなどを海岸、ましてや砂漠の砂止めになどとんでもないと言うかもしれない」と書いている。

 これに関連して思い出したが、10年ほど前に、日本酒や焼酎や味噌などの発酵食品や、野菜などにモーツアルトの音楽を聴かせて美味しい製品ができると聞いていろんな資料を集めたことがある。

 「植物は人間の言葉を理解できるのか」というテーマで調べてきたこととあわせて別の機会に話題を提供できればと思っている。


(平成21年12月20日)
万博記念公園・自然文化園の紅葉[2009年12月01日(火)]

 
  平成21年も残り1ヶ月で師走に入ってしまった。過ぎ行く秋を惜しんで今年の紅葉を振り返ってみた。
 先月11月26日の「2009年度万博記念公園における統合医療による認知症予防」は、森林療法と併せてバードウォッチングのプログラムだった。
 バードウォッチングの話題は別の機会に譲ることとして、万博記念公園の種々の紅葉をお見せすることにした。


水車茶屋付近


 中央口を入って西方向の自然観察学習館へ行く途中に「水車茶屋」がある。その休憩所の横に水車が回っている。少し奥まった場所なので分かりづらいかもしれない。
 この付近に植わっているモミジの紅葉は、水車が回っている景色と馴染んで見事だ。




写真1上段:水車茶屋付近のモミジの紅葉

 
  中段:水車茶屋付近

下段:モミジの実(写真右上の葉陰に黒い実が成っている)


 写真1はいずれも11月26日に撮影した。

自然観察学習館付近
  
 10月22日のプログラムでは、自然観察学習館前の木陰のベンチでドングリクッキーを作ったが、眼前には写真2上段のアメリカフウの紅葉が始まっていた。

 この木に「アメリカフウ(マンサク科)きたアメリカ原産の樹木で、葉がモミジに似ているので、モミジバフウと呼ばれています。秋には美しく紅葉します」と解説がつけてあった。

 昨年「万博記念公園における統合医療による生活習慣病の予防」のプログラムに参加して、自然観察学習館の付近に、写真2中段に見られるように木に丸い実がぶら下がっていて「この木何の木?」と樹種名の札を見てはじめてこの木を知った。
モミジもアメリカフウのどちらも紅葉するし、漢字では「楓」と書いて「カエデ」と読ませいて、葉も似ていて間違えられるようです。

 フウの実はぶら下がっているのに対し、モミジの実は果実の形が翼のついたプロペラ型で、実が風に乗って遠くまで飛んでいく。
写真1の下段にモミジの実を撮ったが、葉陰に隠れてアップでは撮ることができなかった。




写真2上段:アメリカフウの紅葉(09年10月22日撮影)

  中段:アメリカフウの実(08年4月2日撮影)

下段:メタセコイヤの紅葉(09年11月26日撮影)


 メタセコイアはウキペディアによると、「1939年に日本で常緑種のセコイアに似た、落葉種の植物遺体(化石の一種)が発見された。発見者の三木茂博士により『メタセコイア』と命名され、1941年に学会へ発表された。 
 当初、「化石」として発見されたために絶滅した種とされていたが、1945年に中国四川省磨刀渓村(現在は湖北省利川市)の「水杉(スイサ)」が同種とされ、現存することが確認されたことから「生きている化石」と呼ばれることも多い。
 その後、1949年に国と皇室がそれぞれメタセコイアの挿し木と種子を譲り受け、全国各地に植えられている」。

 今年5月初旬に近江坂古道のハイキングに出かけたが、雨にたたられ、マキノスキー場の温泉に立ち寄ったとき、延長2.4kmにわたってメタセコイア約500本が植わっている並木道を通ったことがある。紅葉の季節なら素晴らしい景色が見られたことだろうと思う。 


西大路のプラタナス

 自然文化園の中でも西大路のプラタナスの並木はみごとだ。
 10月8日未明に東海地方に上陸した台風18号で、近畿地方には強烈な北風が吹き荒れて、このプラタナスの並木では何本か倒れたという。

 25メートルほどの高さに伸び、左右3列ずつのプラタナスは、根が浅くて倒れやすく、6年前からアンカーで倒れないように補強をしているそうだ。

 10月22日のプログラムで訪れたときは、未だ葉っぱも繁っていて、所々に実が落ちていた。

 プラタナスは、スズカケノキ科スズカケノキ属Platanus に属する植物の総称。このプラタナスは名前の由来となった鈴懸けとは、「能楽で山伏の扮装に使われる篠懸(すずかけ)についている丸い房飾りのついた結袈裟(ゆいけさ)のことで、花や果実がひもの先にぶら下がる様を見立てている(ネットのプラタナスの今模様∴用」と由来が書いてあった。

 中学生の頃、灰田勝彦の歌が好きで「アルプスの牧場」や「新雪」などとともに、「友と語らん 鈴懸(スズカケ)の径(ミチ) 通いなれたる 学校(マナビヤ)の街」の歌詞(佐伯孝夫:作詞、作曲:灰田有紀彦)の「スズカケの径」を口ずさんだが、スズカケがプラタナスだとは、つい最近知った。

 先月26日にこの西大路を通ったときには、葉っぱの大半が落ちていて、周辺は落葉のじゅうたんになっていた。




写真3上段:西大路のプラタナス並木(09年10月22日撮影)

下段:葉っぱが落ちたプラタナス(09年11月26日撮影)


 これだけ高いと木の剪定も大変だろう。休館日を利用して、電動剪定ばさみを大型化したような特別な機械を車で移動しながら剪定していると聞いた。

ドウダンツツジの紅葉

 先月24日にハイキング仲間6人で京都の東山トレイルを歩いてきたが、周辺のお寺ではモミジの紅葉が見ごろだった。そのモミジの紅葉に混じって東山山頂公園の展望台近くに背の低いが真っ赤に色づいた葉っぱを見つけた(写真4下段)。物知りのN氏がドウダンツツジだと教えてくれた。

 26日に万博記念公園の自然観策学習館近くに垣根として、真っ赤に色づいたドウダンツツジ(写真4上段)が植わっていた。
 先日に仕入れたばかりの知識だったので直ぐにそれと分かった




写真4 上段:ドウダンツツジの紅葉(万博記念公園)

下段:ドウダンツツジの紅葉(東山頂上公園)


紅葉の主役・モミジ

 万博記念公園・自然文化園の概要によると「全体260haの万国博記念公園の中心をなすのがこの自然文化園で、99haの敷地(甲子園球場の約25倍)のなかに、約260種、50万本の樹木が植栽されている」という。
 四季折々に種々の木々や草花の変化が楽しめるが、秋の紅葉も素晴らしい。

 「紅葉とは」をウキペディアで検索すると、「紅葉(こうよう、もみじ)は、落葉の前に葉の色が変わる現象。一般に落葉樹のものが有名であり、秋に一斉に紅葉する様は観光の対象ともされる。カエデ科のものをモミジと言うが、実際に紅葉の主役を務める木の代表である」と書いている。

 自然文化園には、人工的に造られた滝や池があり、その紅葉は見ごたえがある。

 最後に園内で多くの人がカメラに収めていた見事なモミジの紅葉を3枚お届けする。




 近所の公園や街路では、紅葉もそろそろ終わりで落葉が一杯積もっていて、師走の風で舞い上がっている。

 これからしばらく落葉の後始末が大変だ。


(平成21年12月1日)



司馬遼太郎記念館を見学して[2009年11月25日(水)]


 台風18号の影響で順延になった千里地区公民館主催の「司馬遼太郎記念館見学会」は、11月11日に行われた。
 当日阪急電車北千里駅に8時半に集合し、近鉄河内小阪駅に降りたのが10時過ぎだった。駅前のアーケード街入口には、この先600mの矢印と「司馬遼太郎記念館」の案内板が示されていた。

 アーケードを抜けて記念館までの途中の道筋にある公園内に「21世紀に生きる君たちへ」の文学碑が建てられていた。



 記念館に着くと、周りにはたくさんの木々に囲まれて、木の隙間から建築家・安藤忠雄さん設計の円形で総ガラス張りの2階建ての建物が見えた。



 庭は司馬さんが好きだった雑木林のイメージでつくられているという。クス、シイ、クヌギ、カエデ、ヤマモモ、ヤマボウシ、エゴノキなどの樹木、バラ、ボケ、ツバキ、モクレン、アシビ、クチナシなどの花木、ツユクサ、タンポポ、ナノハナ、ツワブキ、ホトトギス、ヤブランなどの草花が植わっている。


司馬さんが思索を練った書斎

 記念館に入る手前に司馬さんが原稿を書いていた書斎が見えた。
 


 自宅には自著本なども含めて6万冊ほどの本が収まっている。玄関、廊下、書斎、書庫と家の中は本でいっぱいだという。

 入口でもらったリーフレットには、「自宅にある蔵書は、司馬遼太郎の頭脳の延長上にあり、資料のメモ書き、付箋などのついた本は移動すべきではない、ということからそのまま保存することにしました」と書いているが、自宅の書斎は見学できないので、館内にはハイビジョンで自宅蔵書の様子を撮影した映像を2回以上見てしまった。

 記念館に入ってまずホールに案内され、15分ほどの「時空の旅人」の映像を見た後、上村洋行館長から概要と記念館のコンセプト(概念)を説明してもらった。

 リーフレットにも書いてあったが「来館された方々それぞれに何かを感じ取っていただけるような、あるいは司馬作品との対話、自分自身との対話などを通じて何かを考えることのできる、そんな空間でありたい」と話された。


「二十一世紀に生きる君たちへ」の原稿

 上村館長の話の中で、この司馬遼太郎記念館の基調になっている「21世紀に生きる君たちへ」は、地下1階の大書架の壁面にこの文章が印刷した額をかけていること、同題名の企画展を開いたすべての直筆原稿や校正原稿を展示したところ、多くの方が「直筆原稿をいつまでも座右に置くことができれば」「小学生だけでなく大人も読める本にしてほしい」と言われ、最初にこの文章を原稿用紙に書いた直筆の原稿と印刷製本した最終の文章が対比した本を製作した旨、紹介された。

 ホールを出てまずこの本を買い求めた。緑の色鉛筆で塗りつぶされた原稿用紙の中に、推敲に推敲を重ねて書く加えられた生の原稿である。

 この原稿を印刷文字にしてからも何度も校正されたと言う。その校正の経緯まではこの本では分からないが、司馬さんが「長編小説を書くほどのエネルギーがいりました」と大阪書籍の編集者に話されたそうだが、この生の原稿を見て、その凄さを再認識した。


推敲に推敲を重ねた原稿

 ちなみに、記念館に来る途中の文学碑の文章と原稿を見比べてみた。



 推敲を重ねた末の第1校では

 「さて、諸君自身のことである。
 諸君はいつの時代でもそうであるように、自己を確立せねばならない。
 聡明で、他人にやさしく、そして自分の道徳をしっかり持った自己をつくりあげなければなら ない。 二十一世紀においては、とくにそのことが重要である。
 二十一世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。科学・技術が、洪水のように 人間をのみこんでしまってはならない。
 川の水を正しく流すように、諸君のしっかりとした自己がこれを支配し、よい方向に持って行 ってほしいのである。

 最終稿で出来上がった文章は以下のようになっている。

 「さて、君たち自身のことである。
 君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。
 ―――自分に厳しく、相手にはやさしく。
 という自己を。
 そして、すなおでかしこい自己を。

 二十一世紀においては、特にそのことが重要である。
 二十一世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。科学・技術が、こう水のように 人間をのみこんでしまってはならない。
 川の水を正しく流すように、君たちのしっかりとした自己が科学と技術を文配し、よい方向に 持っていってほしいのである。

 編集者に手渡す前の初稿で、緑の色鉛筆で大きく手直しをしたうえで、黄や赤、青の色鉛筆の箇所が書き加えられている。
 「諸君」を「君たち」に用語を統一されている以外にも上記の下線で示すように推敲されている。
 
 緑の色鉛筆で塗りつぶされた箇所は、ところどころは判読できたが、司馬さんの推敲の前に書き起こした文章をさかのぼるのは難しかった。


司馬遼太郎記念館の書棚

 館内で配布されたリーフレットにも、高さ11メートルの壁面いっぱいに書棚がとりつけられ、2万余冊もの蔵書が大書架に入っている。

 館内の撮影は禁止だったので、絵葉書から本に圧倒されるこの大書架を紹介することにした。




 文芸春秋平成18年2月臨時増刊の「東西古書店主人が見た司馬遼太郎:岡崎武志(古本ライター)」によると、
 東の古書店では「いま東大阪市にある『司馬遼太郎記念館』に保存される2万余冊の蔵書のうち、6割を運びこんだと言われるのが、東京・神田神保町の老舗古書店『高山本店』。晩秋の一日、司馬さんとも親交深かった二代目当主・高山富三男さんに話をうかがう……『司馬さんの買い方の特徴は選ばれないということです。テーマが決まれば、それに関わるいかなる本でも買われる。『竜馬がゆく』のときだったか、一千万円分ほど車で大阪の御自宅まで運んだことがありますよ。運んだ本は、重複があろうと全て買われます。探し甲斐のある方でしたね』」と書いている。

 また、西の古書店では「産経新聞大阪本社勤務時代、おそらくもっとも頻繁に足を運んだと思われるのが『高尾書店』。大正期に日本橋筋に開業した大阪古書業界を代表する老舗で、現在は大阪駅前第一ビルで営業。昭和43年の同ビル竣工前、戦後まもなく、この地に移して以来、産経新聞社の至近にある店として司馬さんの姿を店内でよく見かけることができた。
『いちばんよくおいでになったのが、文化部の部長をされてた頃と違いますか。お昼休みなどに、ちょいちょいお見えになりました。とにかくいつもたくさん買って下さるいいお客さんでした。中腰でおじぎしながら‘やあ、高尾さん、どうもどうも’と入って来られる。人当たりがよくて肩の凝らない方でしたなあ』……」。

 大阪駅前第一ビル一階の国道2号に面した高尾書店へは、私もよく立ち寄った古書店だが、いまこの近辺にあった古書を扱う店がなくなってしまった。どこかへ移転されたのだろうか。

 司馬さんの大書架に集められたこれらの膨大な本から今月29日からNHKで放送される「坂の上の雲」などの執筆に使われ、今貴重な資料として保存されているのである。
 
(文中の司馬遼太郎記念館に関する文章は、リーフレットに書いてある文の一部引用しました)


(平成21年11月25日)
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