日本財団公益コミュニティサイト CANPAN CANPANブログ:公益法人,NPO,CSR,社会貢献活動のための無料ブログ
四季折々
2011年12月
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
ナカバヤシ
第42話 加太越えのトンネル番 (11/14)
れな
荘川桜に会いに行く (09/01)
山崎 肇
司馬遼太郎記念館を見学して (12/11)
最新トラックバック
第51話 今日は70年前に日米開戦した日[2011年12月08日(木)]


 今から70年前の昭和16年12月8日は日米開戦の日であった。幼稚園に通園していた頃のことでこのころの記憶はほとんどない。

 いつの頃からか定かでないが、「真珠湾攻撃」とか、「リメンバー・パールハーバー」といった言葉はしっかり記憶している。

 この日の夕食時にたまたまやってきた中学1年生の孫2人に「真珠湾攻を知っているか」と知っているかと尋ねると、吹田の小学校を卒業した孫は「先生からそのことを教えてもたった」と応えたが、箕面の小学校を出た孫は「何だったかな!聞いたことがあるが思い出せない」という返事だった。

 つい先だって本箱の整理をしていて、たまたま目にとまった本で「教科書が教えない歴史」(産経新聞社:著者 藤岡信勝・自由主義史観研究会平成8年8月10日初版発行)を読んでいた。その41ページの「日本とアメリカ」の章で「開戦通告の遅れが悲劇を大きく」を読んだばかりだった。



 その冒頭には「小学校社会科教科書より」として、「1941年12月、日本軍は、イギリス領のマレー半島とハワイのアメリカ軍基地を攻撃し、アメリカ、イギリスとも戦争をはじめました(太平洋戦争)」という書き出しである。

 70年前の私は、小学校へ入学する2年前の5歳だったから、この日の記憶は全くないし、歴史の教科などで習った記憶もないが、新聞やラジオ、本などで応えることができる。

 上記の本の続きには「当時、ハワイのアメリカ軍基地は、真珠湾(パールハーバー)にありました。日本の小学校の教科書にはこのように、この湾の名前すら出てこないものもあります。しかし、アメリカ人は、戦後50年を過ぎた今でも『リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)』といって、多くのアメリカ人に語り継がれているのです。それほどアメリカ人の怒りはすごいものでした」と。


なぜアメリカ人はそれほどまでに怒っているのか

 この本によると、当時の国際社会では1分前に口頭でも宣戦布告をすれば合法的だったのに、宣戦布告前に真珠湾を攻撃してルールを破ったことに対してアメリカ人は今でも「真珠湾を忘れるな」と怒っているのだ。
 
 「教科書が教えない歴史」によると、最初からだまし討ちをしようと考えていたわけでなかったが、「日本政府は、開戦(真珠湾攻撃)25分前に宣戦布告するという考えで、連合艦隊司令長官の山本五十六や海軍軍令部総長の永野修身もそうするように言って、また事実そうした」という。

 ところが、「宣戦布告を出したその日。ワシントンの日本大使館は、人事異動による送別パーティーをしていた。大使館には、一人の宿直もいない。翌日大使館員が出勤してみると、日本の将来を左右する電報が、多くの電報に混じって入っていた。戦争前のこの当時、重要な電報はみんな暗号で、重要機密ということで、タイプライターの専門でない上級書記官が暗号を解読し、慣れぬ手つきでタイプを打ち上げた。当然、時間がかかり、ようやく打ち上がったタイプは、野村吉三郎大使がアメリカの国務省に持って行ったときには、時すでに遅く、野村大便が出かけた85分前に、真珠湾では爆弾が落ち、魚雷が発射されていた。これが日本の後世に残る悲劇の実態」と言う。

 こんな行き違いを知って唖然とした。風雲急を告げる事態に一人の宿直もいないとは! 

 歓迎会や送別会といったノミニケーションは日本人社会の通例だけでなく、どこの世界でもありうることだと思うのだが・・・・・・。

 今では送別パーティーに留守番などをおいて緊急時の連絡体制は整えられていると思う。

 ウィキペディア(フリー百科事典)の「真珠湾攻撃」にはこの辺に事情を詳しく解説している。 上記の「宣戦布告遅延問題」(この資料は外交史料館報 第8号で閲覧可能)は史実として記載されているが、「アメリカは事前に察知していた」と陰謀論について、肯定説、否定説や、さらに「アメリカが日本を誘い出した」との主張にも肯定説、否定説を書いている。

 「宣戦布告遅延問題」の項の最後に、「ただし留意しなければならないのは、宣戦布告が攻撃直前に行われた場合は同じように国際条約の違反になることである。なお、アメリカは第二次世界大戦後に参戦したベトナム戦争、パナマ侵攻などいずれの戦争において宣戦布告を行っていない」と書いている。

 おりしも、NHK連続テレビ小説「カーネーション」では、今朝は戦時中の話題で主人公の亭主が出征を見送る話題だった。


(平成23年12月8日)

第50話 アメリカ民謡・シェナンドーとセントルイス[2011年10月16日(日)]


 ずいぶん前に買ったCD「NHK名曲アルバム」シリーズ第7集「愛のロマンス」の中の8番目アメリカ民謡「シェンナンドール」を、何気なしに聞いていた。
 ゆったりとしていてなんとなく哀愁のこもったこの曲に聞きほれて何度も聞きながら、その解説を読んでみて20年前・1991年9月にこの地を訪れたことを思い巡らせた。


セントルイス

 CDの解説には、「アメリカ中部、大平原を南北に流れる大河ミシシッピー カナダ国境近くの水源地からメキシコ湾の河口まで3780キロ さらに支流ミズーリの源流からは河口まで6210キロ 世界有数の長い流れである」に続いて、「セントルイス ゲートウェイ・アーチ(西部への門)は市の象徴である。高さ192メートルのアーチの上から見たセントルイス。この町は1764年にフランス人・ラクルードが開いた。彼はインディアンとの毛皮交易のためミシシッピーを河口のニュー・オーリンズからさかのぼった」と紹介している。

 セントルイスの三大名物の一つゲートウェイ・アーチは、ミシシッピー川沿いのジェファーソン国立エキスパンションメモリアル公園内にある。

 ちなみにセントルイスの三大名物を20年前のガイドの話では「1に『バッドワイザー』ブランドで知られる世界最大のビール会社アンホイザ・ブッシュ社の本社工場、2に西部の入口の象徴『ゲートウェイ・アーチ』、3番目は、『ユニオン・ステーションの再開発事業』」と教えてくれた。


 ゲートウェイ・アーチは西部への入口を象徴する記念碑で、高さは国内の記念碑の中で最高の192mある。セントルイスの空港から市街地に入って来ると、この高いアーチがまず目についた。



写真1 ミシシッピー川沿いから見たゲートウェイ・アーチ


アーチのてっぺんから見下ろすと!

 こんなアーチの頂上に上がれると言われても半信半疑だったが、地下の乗場から写真2(乗る前にもらったパンフレットをコピー)の小さくて狭い5人乗りのカプセルタイプのエレベーターが数台連結されていて、頂上までゆっくりとした速度で上がっていった。
 両方のアーチから運行しているが、上りか下りかどちらか一つしか出来ないので、たくさんの人数は運べない。




写真2 5人乗りカプセル型エレベーター


  狭い展望台の小窓からは、セントルイスの町並みがよく見えた。
 西の小窓からは、旧裁判所を中心に碁盤の日に区画された道路と高層ビルディングが立ち並んでいるのが見えた。




写真3 ミシシッピー川をはさんでイリノイ州を見る

 

 こんな高いところから四方を眺められたので、たくさん写した中から写真3の北東方向に広がるイリノイ州の平原を選んだ。


アンホイザ・ブッシュ社の本社工場

 ゲートウェイ・アーチのてっぺんからセントルイスの街並みを見下ろしたあと、「バッドワイザー」のブランドで知られる世界最大のビール会社アンホイザ・ブッシュ社の本社工場を見学した。試飲場へはバスで移動した。



写真4 バッドワイザーのビール工場


  「20分間に種類の違うビールを何回も飲んで良い」と記録写真に説明をつけていたが、何杯飲んだかは書いていなかった。

 パンプレットには「ニューヨーク・ワシントン・ホワイトハウスなどにこの馬車でビールを運んだ」と当時の写真が掲載されていたし、その馬車とそのビールを運んだ、足が短くてひずめの大きい馬の子孫がいた。


ユニオン・ステーション

 この駅舎は1894年開業、駅本館は、ロマネスク様式の優雅な佇まいである。建築に要した鉄が136万トン、当時の物価で総工費650万ドルだった。最盛期には、1日10万人の乗降客があったといわれる。

 開業当時、ユニオン・ステーションの社長は、「各国の言葉が聞かれ、大変国際的な駅だ」と自慢したと伝えられているが、その後、自動車革命で鉄道事業も落ち目の日々となり、この駅も1978年10月が最後の列車となり、鉄道駅としての役割を完全に終えた。
 その前の1976年6月、連邦政府が、このユニオン・ステーションの駅本館(Head−house)とホ一ム、車庫(Train−Shed)を歴史的建造物に指定している。特にトレイン・シェドは土木工学記念建造物になっている。2,730トンの鉄骨とガラス窓が描く工学上の構成美が評価された。建物全体の広さが約91,500u、ホテルが約77,000u、専門店、飲食のテナント分が約15,000uである。そして、往時を偲ぶ記念物が各所に飾られている。
参考文献:矢作 弘著「町並み保存運動IN U・S・A・」学芸出版社

 1985年8月、ユニオン・ステーションの再開発事業として高級ホテルのある複合コマーシャルゾーンとして開業していて、この中のホテルに2泊した。

 セントルイスのユニオン・ステーションは、外壁部は粗削りの石灰岩ブロックの組構造で、屋根は赤タイル張り、高さ70メートルの三角帽の時計台がある。




写真5 ユニオン・ステーションの外観


 セントルイスの市街地は、夜は治安が悪いためユニオン・ステ一ションから外に出ないで欲しいといわれ、この中のレストランで食事をしたり、ショッピングをしたりしたが、専門店などは夜9時で閉店した。
 トレイン・シェド中央に人造湖「ユニオン・ステーション湖」があり、ここが再開発プロジェクト全体の中心にあたっていて、お祭り広場になっている。

 現在の駅は、ユニオン・ステーション駅から少し離れたところにあり、プラットホ−ムもなく、駅舎はプレハブ小屋といった感じだった。

 この駅からアムトラックで次の訪問地、カンザス・シティーまでは朝8時にアムトラック乗車して5時間の列車の旅だった。車内で知り合った大男と仲間4人で車内販売のビールを空にしてしまった。5年ほど彼と文通をしていたが、利用したカンザス・シティーまでは廃線になったと便りに書いていた。

 20年前のセントルイス訪問だったので、ネットの「Amtrak St.Louis」で2009年8月に再訪した人の記事には、改装された駅舎の跨線橋やプラットホームなどの写真が紹介されていた。


アメリカ民謡・シェナンドー

 CDの解説には、「多くの民謡と同じようにこの歌の起源はよくわからない。しかし、ミシシッピーや支流のミズーリを上下した毛皮交易の船の乗組員の歌と伝えられている」と書いている。
 ウィキペディアの「シェナンドー」を検索すると、「アメリカ合衆国バージニア州西部を流れる川」とか、バージニア州にある町とも書いている。

 日本民謡にも有名な舟歌があり、この記事を書きながら山形民謡「最上川舟歌」と聴き比べてみた。
 日本民謡の舟歌が小舟で「櫓」や「櫂」といった人力で漕いでいるといった感じで朗々と歌っていて、合いの手も入ってのんびり川を下っていく感じがする。

 同じ川の船乗りたちが歌う労働歌の「シェナンドー」では、東京フィルハーモニー交響楽団の演奏だからかもしれないが、20年前のセントルイスのミシシッピー川のほとりを歩きながら、蒸気船などで上り下りしている情景を思い出していた。

 上記の写真3に、ミシシッピー川に2つの橋が架かっていて、トラス橋の下流に焦げ茶色のアーチ橋が架かっている。

 1874年(明治6年)、世界で初の鋼鉄の大量使用(全部材ではないが)による固定ア−チ橋が、アメリカ・ミズ−リ州セントルイス市内のミシシッピー川を横断したイーズ橋(152.6m十158m+152.6m)の支間をもつ固定アーチである。

 一方、日本で最初の鉄橋は、長崎県に建設された「くろがね橋(1868年)」で、橋長が21.8mの錬鉄桁橋である。
「ハート・オブ・アメリカ」のど真ん中セントルイスに、こんなも大きな橋が架かっていて訪れたとき、驚いた記憶がある。いずれこのイーズ橋の話題をとりあげてみたい。


(平成23年10月16日)
第49話 卒業証書の変遷[2011年08月24日(水)]
 親の家を片付けていたら、卒業証書と共に母親の卒業証書が出てきた。母が高等女学校を卒業した昭和4年の卒業證書から、筆者が高等学校を卒業した昭和30年までの卒業証書を見つけた。
 これらの卒業証書を眺めていると戦前戦後の時代が見えてきた。


母の卒業證書

 母の卒業證書の様式は、昭和30年のそれと様式とほとんど変わらない。



写真1 昭和4年の卒業證書


 右端にその表題たる「卒業證書」のタイトルがある。その左に書いた名前は表題の字の大きさとほぼ同じだ。名前の右上に「兵庫縣平民」と身分を添えている。

 名前の左横の生年月日は、名前の字よりやや小さいが、身分の字の大きさと同じである。
名前の上に角印の学校印が押されているが、筆者が受けた卒業証書にも名前の上に学校印が、左端端の学校名を入れた校長の名前と校長印が押されているのも同じ様式である。
ただ、昭和4年の證書には、校長名の上に「正七位」という位階を書いているのが違った点である。

 ちなみに位階(いかい)とは官吏における個人の地位を表す序列・等級である。
 一番左端には「第一二三號」などと連番が書かれているのも今と全く変わりない。

 なお、戦前の卒業証書には、「證」の字が使われている。白川静の「常用字解(平凡社)」の「証(證)」によると、「證はもと徴(あかし、しるし)と通用する字であった・・・・・・證の常用漢字を証とするが、証は『説文』に『諌(いさ)むるなり』とあり、もとはいさめるという意味の別の字である」と解説している。


保育證書

 筆者は昭和16年9月から昭和18年3月まで幼稚園に通ったが、保育證書をもらっていた。
 戦前までは身分制度が厳然とし存在していたが、さすがに幼稚園の證書には「平民」とは書いていなかった。




写真2 保育證書


終戦直後の成績通知簿

 戦後アメリカ(GHQ)の指令で、6・3・3・4制などの教育改革が行われた。筆者より3年ほど上の上級生は旧制と新制制度とのはざまで、昭和23年(1948年)頃まで移行期間で複雑だった。

 卒業証書と共に成績票も出てきた。戦後すぐの通知簿は現在では見られない様式なので取り上げてみた。
 




写真3 国民学校の成績通知簿


 写真3は戦後すぐの昭和21年度の通知簿である。評価は優、良上、良、良下、可の5段階評価だったと思う。もっと昔には、甲・乙・丙・丁の4段階評価の時代があったとか聞いた。

 教科の枠も今とは異なっていて「国民科」に国語、国史、地理が、「理数科」に算数と理科、「体錬」は体操、「芸能科」に音楽、習字、図画、工作、裁縫に分類されていた。
この成績通知簿の左端に学校長名で「本校に於て初等科第四学年を修業さしことを証す」と左端に記載し校長印が押していた。

 太平洋戦争の終結が昭和20年8月15日だから、昭和21年度はまだ、国民学校だった。 この成績通知簿の裏面は「本年度武道寒稽古ニ皆勤セリ 依テ之ヲ賞ス」と書いた「賞状」の用紙を使っていた。

そ の2年後の昭和23年度の「通知票」の用紙は、今では見ることのできないような「わら半紙」の中でも、さらに品質の悪い紙で記入していた。

 写真3の紙質はまだ光沢が残っているから、この種の賞状の用紙をたくさん刷っていたために、戦後のどさくさで紙の不足のため裏面を利用したものと思われる。


小・中・高等学校の卒業証書

 昭和24年3月の小学校の卒業証書は、25.8cm×17.8cmの小さめの紙だったが、3年後の中学校では39cm×27cmと大きくなり、紙質も幾分良くなっているが、厚紙というほどではなかった。
 写真4は高等学校の卒業証書である。紙質も良く、今とほぼ変わらない厚紙になっていて、40cm×29.5cmの大きさだった。




写真4 高等学校の卒業証書(昭和30年)


 ちなみに、昨年(2010年)小学校を卒業した孫の卒業証書の大きさを尋ねると、38.5cm×22.5cmで、幼稚園は5mmほど小さい程度だそうだ。
 孫と同じ市の教育委員会だが、戦後はすべての物資が不足した時代だったので卒業証書の大きさや紙質までもが貧弱だった。

 高等学校を卒業した昭和30年というと、日本が高度成長期に差し掛かる助走の時代だった。地方都市の大学受験のために宿屋に泊まったが、主食の米が配給制度だった。宿で食事を出してもらうために、配給キップのようなチケットを持参していった記憶がある。

 家を片付けていてたまたま見つけた卒業証書だったが、卒業証書というと黒い筒にしまいこむのが一般的である。
 卒業して約60年以上の卒業証書を手元においておく人はそう多くないのではなかろうかと思ったりする。
 その学校を卒業したことを証明するための書類なら、学校へ行けば発行してくれる。黒い筒に入った卒業証書は長く家に保管しておいてどんな役目をするのだろうか。

 パソコン時代の今日、とりあえずA4版より大きい証書は縮尺コピーをしてパソコンのスキャナで取り込んで保管することにした。


(平成23年8月24日)



第48話 7月下旬は蝉噪(せんそう)[2011年07月29日(金)]


 今年の蝉の初鳴きは例年に比べて遅い。箕面だんだんクラブの団体ブログの「第148話今年も蝉が鳴きだした」と書いたのは7月15日である。今年の梅雨は昨年より9日も早く7月8日に明けたが、梅雨明けとともに蝉が鳴き始めるという季節感覚だと、1週間近く遅く、箕面市街地辺りでは7月15日だった。

 一昨日(7月28日)の早朝のテレビでも、「今年の蝉の鳴き始めは遅かった」と話題にしていて、その原因は「春先の気温が例年に比べて低かったからだ」と解説していた。

 7月下旬の今日この頃では午前中クマゼミの「シャシャシャ…」や「センセンセン…」と喧(やかま)しくて、噪(さわ)がしいほどの鳴き声が連日聞こえている。

 四字熟語に蛙鳴蝉噪(アメイセンソウ)があるが、「蛙が鳴き、蝉が噪(サワ)ぐ」ことをという。
 ちなみに、鳴いたり、噪(サワ)いだり、喧(やかま)しいは、部首が口編であるのに、「騒ぐ」は何故馬偏なのか調べてみた。馬偏の右の字は、蚤(のみ)だが、このちっぽけな虫にかまれて、かゆくて馬が騒ぐので「騒」という(白川 靜著〔常用字解〕平凡社)。


生物季節観測

 春先には「桜の開花前線」、秋には「カエデやイチョウの紅葉・黄葉前線」が話題になるが、植物だけでなく、ウグイスやヒバリの初鳴き、モンシロチョウやホタルの初見が気象庁の気象官署(気象台・測候所)で行われている。

 蝉ではヒグラシやアブラゼミが対象になっている。観測の目的は、気象が植物や動物に及ぼす影響を知るとともに、観測結果から季節の遅れや進み具合などを知ることにある。

 生物季節観測の値は、種目・地点別に収録(1953年〜2000年)されており、財団法人気象業務支援センターからで販売されている。


アブラゼミの写真を撮る

 男の孫たちは、例年近くの雑木林に行ってカブトムシやクワガタを捕まえてくるが、彼らも受検を控えて今年は未だに顔を出していない。
 彼らなら難なく蝉を見つけて捕らえてくるが、後期高齢者の範疇に入れられた筆者などは、蝉を捕まえることはおろか、写真を撮ることも難しくなった。




写真1 やっと見つけたアブラゼミ(千里北公園にて)


 9時過ぎに、アブラゼミをよく見かけた「千里北公園」へ蝉の写真を撮りに出かけた。数年前までは重なるようにいたアブラゼミはわずか1匹だけ見つけることができた。フェンスの外からだったので、ズームで何とかとることができた。

 このあたりの木々での「蝉噪」は、10時頃の時間帯ではクマゼミの鳴き声だけだった。もっとも、アブラゼミのオスがよく鳴くのは午後の日が傾いてきた時間帯から日没後の薄明までの時間帯だそうで時間差があるし、油を熱したときの「ジリジリ」という鳴き声では、クマゼミの「シャシャシャ…」ではかき消されてしまうだろう。


クマゼミの写真を撮る

 クマゼミを撮ろうと見渡すのだが、「声はすれども姿は見えず・・・・・・」で一向に蝉を見つけられない。どうも高い木の葉っぱの陰で鳴いているのだろうか。

 高い木と葉っぱの陰ではらちがあかないので、低い、葉っぱの少ない木のそばで待ち構えていた。
 時々飛び立って別の木にとまったが目の前だったので、やっととることができた。




写真2 やっと撮れたクマゼミ(千里北公園)




写真3 やっと撮れたクマゼミ(千里北公園)


蝉の生態

 平凡社発行「世界大百科事典」の蝉の項の生態には、「セミ成虫はふつう木に止まって樹液を吸い、幼虫は根から吸汁する。雄は雌を呼ぶために盛んに鳴き、鳴く時間帯(日周期性)は種によって異なることが多い。

 早朝と夕方に鳴くヒグラシ、午前中鳴くクマゼミ、午後7時15分から30分間しか鳴かないクロイワゼミなど、さまざまである。

 セミの生活史についてはまだ詳しく調べられてなく、幼虫期間さえ大部分の種で不明である。アブラゼミでは、卵期間が約300日、幼虫期間が5年である。すなわち6年かかって成虫になる。ミンミンゼミやクマゼミでも同じくらいの年数を要するらしい。ニイニイゼミでは、卵期間は約40日で、成虫まで約4年だという」。

 蝉は6年かけて成虫になるのだから、土から這い出してくる時期は、地上の気温や湿度を慎重に見極めているのだろう。


歳時記「蝉」

 松尾芭蕉の句で「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」という俳句は有名で、梅雨の晴れ間の静寂の中からニイニイゼミの澄んだ声が聞こえてくる情景を表している(上記世界百科事典)。
 
 また、「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」は、勢いよく鳴いている蝉から、一月ほどで地上から去っていくけしきは見えないと無常さを詠んでいるも芭蕉の句である

 手元の「雨月歳時記」の蝉の項12句から、「蝉鳴いて日本の国に夏がくる(堀井英子)」を見つけたが、分かりやすい句で気に入った。

 7月中旬の蝉の初鳴きで日本列島は夏本番となった。


 昨年11月14日に「第47話 奈良盆地の「北・山の辺の道」を歩く」を公開して以来のご無沙汰である。
 
 未曾有の東日本大震災が3月11日に発生して、ブログで何か元気付けられるような話題が出てこなかった。
 
 半年間の空白にも関わらず、個人ブログにも訪ねてくださる方々がおられることで礼を失していると思い、やっと重い腰を上げてみた。



(平成23年7月29日)
第47話 奈良盆地の「北・山の辺の道」を歩く[2010年11月14日(日)]


 めっきり朝夕は冷え込んできた錦秋のこの時期に、奈良「北・山の辺の道」を11月9日にいつものハイキング仲間13人で歩いてきた。
 この日は風が強く、2時過ぎに20分ほど時雨れてきたが、ハイキングにはさほどの支障なく歩けた。今までに奈良市内を含む周辺を歩く機会は何度もあったが、奈良盆地の東部に発達する丘陵地帯を中心とした大和青垣国定公園を歩くのは初めてだった。

 近鉄奈良駅から20分ほどの下山バス停で下車し、北の方の春日大社や興福寺の市内中心地に向けて歩き始めた。

 まず、大和三門跡と称される格式の高い尼寺の円照寺に向かって歩いた。境内は非公開なので、まっぷの表示にしたがって竹やぶに入ったが柵で行き止まりになっていた。
引き返して円照寺入り口のアスファルトの道に出て、北に向かって進んだ。進行方向右手の東側は、雑木林や竹やぶが密集したせいぜい50mほどの高さの山が連なっていて、その山裾を歩いていった。
 左手の西の方はところどころで民家で遮られたりはするが、前方の景色を見下ろす感じで、平野が広がり、その先に生駒山(標高642m)のテレビ塔のアンテナがかすかに見えていた。約9キロの山道のハイキングコースだったが、そのほとんどは生駒山が見え隠れしていた。このハイキングは「奈良盆地の東側のお盆の底の縁を歩いているのだな」と感じた。


奈良盆地

 今回歩いてきたコースは、近鉄の「てくてくまっぷ 北・山の辺の道コース@」を利用したが、奈良盆地が一望できるコースという印象が強かったので、念のために「新編中学校社会科地図(帝国書院編)」の京都・奈良から奈良盆地を中心にトリミングしてみた。



図 奈良盆地と周辺の山地


 東には笠置山地(大和高原)が控えている。
 文献に見える日本最古の道「山の辺の道」は、石上神宮を起点に北の奈良へ延びるルートを「山の辺の道(北)ルート」、南の桜井へ延びるルートを「山の辺の道(南)ルート」と呼んでいて、春日断層崖の裾を南北に延びていて、現在は東海自然歩道がそのルートに設定されている。(天理市観光協会)

 西には生駒・金剛山地があり、東西約13kmを囲んでいる。南北は約30kmあり、北は奈良山丘陵、南は竜門山地によって周辺が囲んだ面積約300平方キロメートルが奈良盆地である。
 奈良県域が約3700平方キロメートル弱だから、奈良盆地は県域の約1/10だが、奈良市のほか橿原市、大和郡山市、天理市、大和高田市、桜井市、御所市など主要都市域の大部分が含まれ、人口の集中が著しい。

 盆地底は南端にある大和三山(天香久山、畝傍山、耳成山)以外は標高40〜80mとほぼ平たんで、中央部へごく緩やかに傾斜しており、河合町川合付近で佐保川、富雄川、秋篠川、竜田川、飛鳥川、曾我川、葛城川と初瀬川などの河川が合流し、大和川となって大阪平野に流れ出る。

 かつて盆地中央部には奈良湖とでも称すべき湖沼地が広がっていたと推定されるが、洪積世以来河川の堆積作用によって埋積され陸化した。多くの河川があるにもかかわらずいずれも小規模なうえ、年降水量1400mm内外の寡雨地域のため灌漑用水を十分まかなえず、1万以上に及ぶ溜池や多くの横井戸、かくし井戸などがつくられてきた。


円照寺から白毫寺へ

 円照寺から崇道天皇陵を経て嶋田神社から白山比刀iしらやまひめ)神社で昼食にした。
崇道天皇陵に差し掛かる手前に「前池」があったが、かつて水不足に悩まされてきた灌漑用水のため池のなごりだろうか。

 1950年代以降,吉野熊野特定地域総合開発事業の一環としての吉野川分水事業の完成(1984)によって、盆地の大部分の範囲で水不足は解消されつつあるようだ。
白山比盗_社から西方向は展望がきく眺めの良いところだった。




写真1 白山比盗_社から西方向を望む


 東海自然歩道白毫寺・柳生への標識から山道に差し掛かる。まっぷにはかなり大きく「平尾池」が書いてあったが、先を急いでいて気がつかなかった。八阪神社の社の手前にも池があった。
 30分ほど歩くと、右手に高い山が見えてくる。地図に「高円山」と書いているが、2つ連なっていたので、地元の人に聞いて北寄りの山だとわかった。
 民家が出来るだけ入らないようにして何枚か撮ったが、白毫寺に近づくと急斜面に張り付く住宅などで、高円山を望むことはできなかった。




写真2 高円山山頂を望む


 高円山は、頂上が展望に優れ、万葉集に多く詠まれており、聖武(しょうむ)天皇の離宮尾上宮(おのうえのみや)があった所と伝えられる標高432メートルの雑木林に覆われた山である。

 広い道路に出て白毫寺バス停があり、すぐ近くだろうと思っていたが、狭い参道と険しい階段を登らなければならなかった。その両側にはびっしりと萩が植わっていたが、9月中旬から10月上旬が見ごろで、関西花の寺第18番「萩の寺・白毫寺」に咲きっぷりは見られなかったが、境内を入ったすぐのところに、わずかに白くて小さい萩の花が残っていた。

 白毫寺に境内には万葉集(巻2・231笠金村「かさのかなむら」)霊亀元年(715年)秋9月、志貴皇子の逝去されし時作れる挽歌(巻2・230)に対する反歌「高円(たかまど)の 野辺の秋萩 いたずらに 咲きか散るらむ 見る人なしに」の万葉歌碑がある。
 「西暦715年、天智天皇の第7皇子である志貴皇子の没後、天皇の勅願によって皇子の山荘跡を寺としたのに始まると伝えられる」というから由緒ある古寺である。宝蔵に写された阿弥陀如来坐像などの重要文化財7座を拝むことが出来た。


 境内は標高120mの高台にあり、東側は急斜面の山が迫っているから、西側には奈良盆地が一望できると共に、生駒山をくっきりと望めた。



写真3 白毫寺境内から奈良盆地を望む


春日大社から興福寺へ

 白毫寺の急な階段と坂道を下ってからは、新薬師寺の門前をすっと通り過ぎていくので「何故中に入って拝観しないのか」と一番後ろからゆっくり歩きながら、多少不満に思っていたら、Kさんが「猿沢池の亀に出会いたくないか」と話しかけてきた。

 昨年10月末にKさんら今日歩いている仲間8人で西大寺から興福寺から猿沢池までを歩いたときの話題をブログで公開している。猿沢池の亀の上に鳩が乗っても一向に「かめへん」という様子や鹿せんべいを亀が噛めないことをみて「カメヘン」と書いていたので、それを気にして聞いてきたと思っていた。そのために急いでいるのだろうとしぶしぶ納得した。

 興福寺近くには3つの池があったが、どの池にも亀などの姿は見えず、美しい紅葉を水面に映し出していた。




写真4 興福寺近くの池の周りの紅葉


 亀はこのところの冷え込みで、水面に出て甲羅干しをしないのだそうだ。亀には出会わなかったが、思わぬ人に出会った。

 3時には興福寺前に出た。すると、奈良近郊に住んでいる昔一緒に仕事をしていてハイキングにもときどき参加しているS氏さんとNさんが3時前から待っていた。
 彼ら2人は、北・山の辺の道を歩いてきたハイキング仲間13人と合流して飲み会だけに参加するために猿沢池で待ち合わせていたのだそうだ。どうりで待ち合わせの時間のために急いでいることがわかった。

 11時頃から歩き始めて急ぎ足で約4時間歩いたのだが、奈良市の中心街で3時から飲める場所で、餃子とビールで1時間飲んだあと、4時から開店する魚料理の店でさらに杯を重ねることとなった。
 久しぶりに15人の仲間と愉快な雰囲気の中で晩秋の一日を、適度な運動と程よい酔い心地で過ごすことができた。

 ここまで書いてみてやはり奈良盆地のことで、日本国土の中で何故に奈良盆地底に、平城宮址、藤原宮址が出来たのかなどをもう少し調べてみたいと思っている。

参考資料:平凡社「世界大百科事典」
    :インターネットなど


(平成22年11月14日)


第46話 近江今津の淡海湖を訪れて[2010年11月04日(木)]


 10月7日から一泊二日で近江坂古道22.5キロを踏破した時の道すがら「撮り鉄」、「撮り鳥」の人たちに出会った話題を「第45話近江坂古道の撮り鉄・撮り鳥」としてまとめた。
3週間後にまたぞろ近江今津の「家族旅行村ビラデスト今津」に別の仲間5人と一泊二日のハイキングに出かけた。
 
 酒波寺からビラデスト今津までの約4キロは今回で4回目となったが、ほぼ半分ほど登った休憩所で雨がひどくなって途中で断念した。
翌朝は前日の雨で洗われた大気は澄み切って爽やかな秋晴れになった。


ビラデスト今津から見る琵琶湖

 二日酔いだったが、5時半頃には寝床周辺の動きにつられて起き上がる羽目になった。
 10月8日にもベランダに出て琵琶湖の先の山並みからの日の出を撮ったが、今回は伊吹山や、竹生島がくっきり見えた。写真1の枝の張った大きな横の背の低い木の間に伊吹山が写っている。




写真1 ビラデスト今津から見る日の出


 平池から淡海湖へ

 ビラデスト今津から少し下ったところに平(だいら)池がある。毎年5月末から6月上旬にかけて、あたり一面にカキツバタの可憐な花が咲く。高島ガイドには、約1万本のカキツバタが自生していて、紫色に白色が入った花の群生している写真を紹介している。

 10月下旬の平池は、ひっそりと静まっていて、池の中央のカキツバタは葉っぱが黄色に色づいているだけだった。
 近年シカの食害がひどく、この池の周りにも広がっていたカキツバタはすっかり鹿に食べられてしまって、シカが入って来られない池の中だけになってしまったと、ビラデストの担当者は話していた。    




写真2 静まり返った平池の秋(2010年10月27日撮影)


  この池から右手の北方向の林道へ入ると、近江坂古道の大御影山(標高950m)へ通じているが、左手、西方向の箱館山麓の淡海湖(処女湖とも呼ぶ)へ向かった。

 出発する前に「鳥居があるところまで行ったら引き返さないと、後に控えているソバ打ち体験に間に合わないですよ」とアドバイスを受けていたので、鳥居横から写真を撮ったのが写真3である。




写真3 周りを山に囲まれた淡海湖


  「真ん中の島の周りの石は自然に出来たものか、積み上げたものか」と話題になり、双眼鏡で眺めたが結論が出なかった。さらに島に祠(ほこら)があることも双眼鏡で確認できた。
ズームで祠を撮ったのが確認できるかと不安だったが、島の中央に僅かに祠が写っていた。(写真4)




写真4 淡海湖の島の真ん中の祠


淡海湖が「ため池100選」に!

  この稿をまとめるにあたって、「こんな山中に、きれいな湖がどうして出来たのか」を調べてみた。
 滋賀県のホームページに、「淡海湖(高島市今津町)が『ため池百選』に選ばれました!」との見出しで、「平成22年3月、全国から応募のあった600箇所を上回るため池から『ため池百選』が選定され、高島管内では淡海湖が……」に続いて「淡海湖の概要」「淡海湖の歴史」が書いてあった。

 上記の疑問は、ため池として人手によって作られた人造湖だから、島も当然に人手で積み上げられた石積みで出来ていることがわかった。
 
 ホームページから概要、歴史をピックアップしてみると、「県北西部に位置する淡海湖(別名 処女湖)は、人里から4km離れた標高450mの山中にある湖面12ha、貯水量132万トンの大規模なため池」である。
 
 その歴史は「水の便が悪かった酒波・伊井・平ケ崎・構地区の灌漑用として山中の石田川支流をせき止めて造られ、隧道(1223m)により酒波谷上流に引水されている。
 明治45年(1912)耕地整理組合が結成され大正2年(1913)築造が始まったが、工事は計画変更や資金難また世界大戦による物価の高騰などで難航をきわめ、大正12年10月およそ10年余の歳月をかけ完成した。湖の中央には弁財天が祀られ、川上祭の祭礼場のそばに竣工碑が建てられている。
 池の築造と平行して100haの耕地整理が行われ、痩せた桑畑が水田に変貌し、淡海湖が潤す農地は、現在では滋賀県の代表的な早場米地帯となっている」と書いている。

 また、別の資料には、「事業を主導した松本家(造り酒屋)は、親子2代にわたって組合長に就任したが、4箇所の崩落が起こった隧道工事は困難を極め、完成を見るまでに2人とも心労により他界している」とも書いていて、トンネル工事が未熟な時代の大正時代に10年の歳月で完成した淡海湖の苦難が偲ばれる。

 完成から87年後の平成22年の秋に見た淡海湖は、周りの山にすっかり溶け込んで素晴らしい景色をかもし出していた。


 ビラデスト今津へ戻って「ドングリ工房」から琵琶湖の望む絶景場所を案内してもらった。10月7日に出会った千葉県から来た若者「撮り鉄」の場所と同じような景色が見下ろせた。



写真5 ドングリ工房から琵琶湖を望む


 写真5では海津大崎の手前に広がる田園は少ししか写っていないが、撮り鉄さんの撮影場所では滋賀県西北部穀倉地帯が広がって見えている。

 上記滋賀県のホームページに書いているように、写真5で広がる琵琶湖西北部の田園地帯は、痩せた桑畑が水田に変貌し、淡海湖からの灌漑用水が滋賀県の代表的な早場米地帯になっているのだろう。


(平成22年11月4日)


第45話 近江坂古道の撮り鉄・撮る鳥[2010年10月13日(水)]


近江坂古道
 近江坂古道は近江の酒波(さなみ)寺(注1)と若狭の闇見神社(注2)間を人馬が往来した道である。
(注1)酒波寺:天平13年、西暦741年、聖武天皇御願、行基菩薩開創の寺院 
(注2)闇見神社:第9代、開化天皇の皇子で、日子坐(ひこますおう)の妃、沙本之大闇見戸売命(さほのおおくらみとめのみこと)と菅原道真公を祀る式内社

 この近江坂は一名馬道ともいう。馬が通った道だからである。というのは、この峠道は普通の峠道の役割もあっただろうが、若狭の坊さんが馬に乗って越してきた道だった。昔は能登越から三十三間山にかけてこのあたりの山は近江の山であり、酒波寺の寺領であった。
 10月7日〜8日にかけて、近江坂古道(全行程22.5km)を、家族旅行村ビラデストのスタッフと今津山上会の先導で踏破してきた。
この古道は今津山上会の方々が7年も前から整備をしてきて、2008年10月下旬に全通したとき初歩きに参加した。
以来昨年(2009年)の5月初旬にも同じ古道歩きに参加した。初日の4キロは好天に恵まれたが、2日目は雨が降り続いたので断念した。
今回の古道歩きは両日とも好天に恵まれ、比良山地、伊吹山地の山なみや、琵琶湖がところどころで遠望できた。


撮り鉄・撮り鳥

 このビラデスト今津周辺は3回も散策したことになるが、今年はハイキングでない人たちが来ていることに気がついた。鳥の観察をしながら、写真を撮っている趣味の人たちが目立つようになったのである。

 2時過ぎ酒波寺の住職の講話と道中の安全の祈願を受けた後入山し、休憩場所から見える琵琶湖の遠景が、徐々に見下ろすようになるのを実感しながら登っていった。
途中古道から林道へ出た僅かの区間で、鳥を撮ってきた人たちが連なって車で下りていくのに出会った。スタッフによると、最近バードウォッチングで鳥の写真を撮る人増えてきたそうで、「インターネットの時代なのでうわさが一気に広まった」と話していた。

 酒波寺から1時間ほど登って赤坂山手前の林道に出ると、右側の展望が開けていて琵琶湖が眼下に見えた。ここから眺める景色は素晴らしいので、3回ともデジカメを取り出すポイントである。

 道路わきに千葉県ナンバーの車が停まっていて、「撮り鉄」(大辞泉:列車や車両の撮影に熱中する鉄道ファン)の人に出会った。

 宿泊地のビラデスト今津の施設内の入ると、琵琶湖を望むグランドゴルフやストレッチ広場付近には、三脚に超望遠レンズをセットして鳥の写真を撮影している人たちを見かけた。
「撮り鉄」という言葉は報道で知っていたが、「撮り鳥」は聞いたことがない。辞書には載っていないので一般化した言葉ではないが、ネットで検索してみると、「撮り鳥」でたくさんの記事が見つかった。いずれ、「撮り鉄」という言葉と同じように、「撮り鳥」も辞書に載るほどに使われだすのではないだろうか。


琵琶湖と湖西線をのぞむ「撮り鉄」

 上記の展望が開けた場所で三脚を据えて望遠レンズでシャッターチャンスを待っている千葉から来た若者に尋ねてみた。
 このポイントはインターネットで調べたそうで、遠くに伊吹山が見え、その手前には琵琶湖が広がり、右手に竹生島がぽっかりと浮かんでいる。琵琶湖の湖岸に並木道が見えている。方向から行けば海津大崎辺りの桜並木かと思われる。桜並木の手前は田んぼが広がっていて、その中の灰色の線がJR湖西線である。

 デジカメで撮った写真1は灰色の1本線だが、彼が構えている望遠レンズでは雷鳥などの列車が疾走している写真が撮れるのだろう。

 列車の間近で写す「撮り鉄」は迫力があるが、この場所からは、山、湖、島、田園であり、その中を走ってくる列車はのどかな風景になるだろう。「こんな『撮り鉄』もあるのだな」と感心した。
              




写真1 伊吹山、竹生島、湖西線を望む撮影ポイント


 写真1では、「撮り鉄」のカメラも入れたかったので竹生島はカットしているが、この場所からは、竹生島、琵琶湖が視界に入る。前方の伊吹山は肉眼で少し見えてが霞んでいたが、「明日は天気が崩れそうだし、光線の加減もあって、今日で切り上げたい」と、若者は話していた。

ビラデスト今津施設内での「撮り鳥」

 宿泊する施設内の広場に出ると、5人ほどが未だ鳥の飛ぶ姿を追いながら、カメラのシャッターを盛んに切っていた。
 琵琶湖と反対の、5mほど先の小鳥を撮っていた2人の女性に話しかけると、「ノビタキを撮っている」と応えてくれた。




写真2 ノビタキを撮っている「撮り鳥」さん


 ノビタキを検索してみると、「ユーラシア大陸中部、西部で繁殖し、冬期は南方へ渡るスズメ族ツグミ科で、体長13cmほどの小鳥だった。

 琵琶湖を望む方では迷彩服を着た若者が、超望遠レンズにも迷彩色を被せた超望遠カメラで舞い上がる鳥たちを追ってシャッターを切っていた。




写真3 展望のよい琵琶湖を望んで「撮り鳥」の人たち

 風呂場で白髪交じりのあごひげの同年輩らしい人が話しかけてきた。
 2泊3日で鳥の写真を撮りに来たのだという。どこかの写真展に出すのでなく、全くの趣味だそうで、渡り鳥が南へ飛ぶこの2、3週間が勝負だそうだ。

 この付近は200から300羽で少ないが、人が少ないから良いようで、伊良湖岬の渡り鳥は1日に数千羽、多い日には1万羽を越えることもしばしばだというが、全国各地からたくさんの人が集まってくるのだそうだ。

 風呂場で話していた「撮り鳥」さんは、夕食時には奥さんと一緒だった。
 翌朝、8時前に平池(だいらいけ)の方へ歩きだしたら、風呂で出会った「撮り鳥」さんは、朝食もそっちのけで写真4のスタイルでカメラに向かっていた。




 
写真4 早朝からカメラに向かう「撮り鳥」さん


上昇気流に乗って舞い上がる鳥たち

 翌朝は8時前に出発した。2時間歩いて河内谷林道合流近くの展望のきく場所で休憩をしていたとき、大きな鳥2羽がゆっくり旋回しながら舞い上がっていると、誰かが知らせてくれた。急いでデジカメで2羽を狙ったが、2枚とも青空だけが写っていた。
 その少し前に、肉眼では琵琶湖だとわかる景色(写真5)を撮っていた。

 ここから約1時間で標高950mと大御影山に着くから、目の前で見た2羽の鳥は、標高850mほどの高さで見たことになる。
 「撮り鳥」の人たちは、こんなに高い山から琵琶湖の上昇気流に乗って舞い上がる様子を見れば「どんなにか喜ぶだろうな!」と話し合った。
高度を上げたあと、渡り鳥は省エネ飛行で一直線に南へ飛んでいくのだという。




写真5 サシバが舞い上がるのをみた山上から琵琶湖を望む


 この2羽は「サシバだろう」と言っていたので、ウィキペディア・フリー百科事典で調べてみると「全長は、雄はおよそ47cmで雌はおよそ51cm。翼開長105cm-115cm。鹿児島県佐多岬、徳之島、宮古群島、台湾、フィリピンのバタン諸島で休息を取ってフィリピン、インドネシアで越冬する。平均時速は約40キロ、一日の平均距離は480km前後である。朝の飛び立ちは6時ころ、その日の18時まではすべて休息地に入る」とその要点を抜書きしてみた。

 夕食時に「撮り鳥」の話が出たとき、先に宿について施設の周辺を散策していたKさんは、京都から3日も日帰りで「撮り鳥」を趣味としている人から、昨日撮ったプリントを見せてもらったという。「カケス」のイガがついたままの栗を加えて飛び立っていく写真で、撮影した人は自慢できる作品だったのだろう。

 「カケス」をフリー百科事典(ウィキペッディア)で調べると、「日本においては全国の平地、山地の森林に生息する。繁殖期は縄張りを形成する。食性は雑食で昆虫類が主食だが果実、種子等も食べる。他の小鳥のひなを食べることもある。また信州・美濃地方では「カシドリ」の異名もありカシ、ナラ、クリの実を地面や樹皮の間等の一定の場所に蓄える習性がある。冬は木の実が主食となり、蓄えたそれらの実を食べて冬を越す」と書いていた。


(平成22年10月13日)
第44話 ヒガンバナが満開[2010年10月01日(金)]


 この数日前から近くの公園などでヒガンバナが満開になっている。つい最近のニュースによると、今年は異常な猛暑で例年より1〜2週間ほど遅いそうだ。

 ネットのヒガンバナの開花情報で検索してみると、熊本国府高等学校PC同好会が2003年から毎年開花を調べている資料を見ると、「ヒガンバナの開花は日平均気温20〜25度が目安らしい」と書いていた。

 暑い夏が収束して「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、毎年秋分の頃から能勢辺りのハイキングに出かけているが、ヒガンバナはその時期に、田の畦や土手や墓地など人里付近で見かけるだけだった。
 ここ数年の間に、箕面市街地の田んぼの、あぜ道でもない、近所の公園でも見かけるようになった。

ネットには「ヒガンバナの球根は7〜8月にしか売られず、それ以外の時期では入手しにくいので注意が必要」と書いているので、これら近くの公園のこれらの花は球根を移植して増えていったのだろうか。

 近くの公園で咲いているヒガンバナの写真を撮ってきたので取り上げてみた。


ツバキの植樹帯にたった1本の花

 アートアベニューの遊歩道の一部はナンキンハゼの並木道になっている。

 そのナンキンハゼの高木の間に低木のツバキが密集して植わっている。そのツバキの葉っぱからたった1本だけのヒガンバナの花が顔を出していた(写真1)。     



写真1 ツバキの茂みから1本だけのヒガンバナ


 この辺りに数本のヒガンバナが密集して咲いているので、ツバキの茂みにまで球根が増えていったのだろう。

フェンスと側溝のわずかな隙間にびっしりと!

 写真2のフェンスの右側の斜面にはアジサイがたくさん植わっていて梅雨時期に大輪の花を見事に咲かせている。水遣りしている人を見かけることがあるので、花を愛する人が世話をされているのだろう。

 フェンスの左側は側溝になっているが、そのわずかな隙間に、ヒガンバナがびっしりと満開になって咲いていた。




写真2 側溝のわずかなスペースに満開のヒガンバナ


ヒガンバナにアゲハチョウが飛来して!

 この密集した花に2羽のアゲハチョウが飛来してきた。
 落ち着きなくあちこち動き回るので、狙い定めるのが難しかったが、ズームを使ってなんとか撮ることができた。

 燃えるような赤色のヒガンバナに黒白模様のアゲハチョウのコントラストが鮮やかにおさまった。




写真3 ヒガンバナにアゲハチョウが飛来して!


ヒガンバナを真上から見てみると?

 この首の長い花の写真を撮るとき、30cm〜50cmの細長い花茎に目線がいくので、茎を含めた全体に写すようになりがちだ(写真4)。



写真4 数本の群れで咲くヒガンバナ


 たまたま群生した花の中で一輪だけ離れていたのを見つけたので、真上から撮って見た。花火のように、思い切り火花が散ったような見事な模様が撮れた。



写真5 ヒガンバナを真上から撮る


 この花の詳しい説明ができないので、Yahoo百科辞典「ヒガンバナ」からその一部を引用してみると、「散状に緋紅(ひこう)色花を5、6個横向きに開く。花被(かひ)裂片は倒披針(とうひしん)形で長さ約4センチメートル、幅5〜6ミリメートル、強く反転し、基部に鱗片状の福花冠がある。雄しべ、雌しべともに花被裂片よりはるかに長く、弓状に上向きに曲がる」と説明している。


赤系の色

 上記に出てくる緋紅とは、どんな赤色なのかを調べてみた。三省堂大辞林に【▽朱/▼緋】(あけ)「(1)赤い色。緋色(ひいろ)・朱色・紅色などを含む」。【▼緋】(ひ)「濃く明るい赤色。深紅色」と説明している。



 今年の夏は、平成6年8月の12日間連続の記録を更新して、35℃を超える猛暑日が13日間連続猛暑日の記録となったが、9月中頃からようやく初秋らしくなってきた。

 1〜2週間遅れで咲き出したヒガンバナは、箕面の市街地では彼岸を過ぎて10月になって見ごろとなって秋らしくなってきた。



 暑い暑いと動き辛かった季節が去って1年で最も動きやすいなり、暑かった夏の遅れを取り戻すつもりで、大いに活動したいと思っている。


(平成22年10月1日)
第43話 「第18回メキシコ文化の夕べ」箕面2010に参加[2010年09月26日(日)]



 近所の教授(千里ロータリークラブ会員)から、メールで「メキシコ文化の夕べ」の案内チラシを受け取った。
「箕面市NPOメキシコ友の会」のこの催しに参加するのは、昨年・一昨年に続いて3回目になる。
 今までは箕面市メイプル大ホールが会場だったが、今年は9月22日に「箕面観光ホテル」で開催された。


昨年は日本とメキシコの交流400周年

 昨年(2009年)は日本とメキシコの交流400周年という記念すべき年だった。
 「日本・メキシコ400周年記念」を外務省のホームページで見てみると、「1609年9月、フィリピン諸島総督ロドリゴ・デ・ビベロを長とする一団の船は、ヌエバ・エスパーニャ(当時のスペイン領メキシコ)への帰国途中、千葉県御宿沖で遭難し、村人の献身的な救助により、乗組員317人が救出されました。

 ビベロ一行は地元城主や村人からの暖かい歓迎を受け、その後、徳川秀忠及び徳川家康に謁見しました。翌年、徳川家康がビベロ帰国のため造らせた船はメキシコに向けて出航。ビベロと共に渡航した京の商人田中勝介他20数名の日本人は、メキシコを訪問した最初の日本人となりました。
 我が国の時の為政者とメキシコからの政府高官が対面し、初めての会談が行われた意義は大きく、2009年はそれから400年目にあたります」と紹介されている。


箕面市とメキシコとの交流

 400年前に千葉県御宿町沖で遭難したメキシコの乗組員を、村人の献身的な救助がきっかけだから、地元千葉県との国際交流ならわかるが、箕面市とメキシコのクエルナバカ市とはどんなきっかけかは知らなかった。

 入口でもらった「箕面メキシコ友の会のプロフィール」によると、箕面市国際交流協会が1992年からメキシコ・クエルナバカ市にあるモレロス大学で日本語を学ぶ学生たちを、毎年箕面での日本語学習のため受け入れてきたことに始まるという。このプログラムを生活面で支えるホストファミリーから、「箕面メキシコ友の会」を作って発展してきた。

 メキシコの国土は196万4375平方キロメートルというから、日本の国土面積37万8千平方キロメートルの5倍強もある。国土の大部分は山地と広大な高原からなるが、クエルナバカ市は、首都メキシコ・シティーの南方のモレロス州の州都である。
 そのモレロス大学で日本語と日本文化の教鞭をとられていた深原先生が箕面市在住で、大阪外語大学が箕面市にあるという好条件がきっかけで、今日に至っているという。


とにかく情熱的でにぎやかな夕べ!

 開演は6時半から始まったが、30分ほど遅れて行ったときには、第1部の「メキシコ ラサイエ大学音楽隊」の演奏が始まっていて、ラテン音楽でよく耳にする「ラ バンバ」を演奏していた。



写真1 ラサイエ大学音楽隊の演奏


 いつもは市民参加のダンスパーティーはプログラムの最後なのだが、第1部のラスト曲「もうお別れ」の演奏が始まると、舞台の前に出て来日したメキシコ人、在日メキシコ人に日本人の老いも若きも、幼い子までが加わって踊り始めた。隣りに座っていた年配の女性も促されると、すんなりと立って踊りに加わっていた。

老人の踊り

 前回、前々回の時の民族舞踊では、民族衣装を着た男女が、メキシコ音楽に合わせて踊る演目だったのだが、今回は今までと踊りと違っていた。

 写真2でわかるように、老人のお面をつけ、腰を曲げた4人がゆったりした単調な音楽に合わせて舞台を回る踊りで、リズムに合わせて歩調をとる風変わりな民族舞踊だった。途中でだんだんとテンポが早くなっていき、最後は舞台で転ぶ年寄りの姿がなんともユーモラスだった。お面を取ったら、モレロス大学箕面研修生の若者で、女性の学生一人が加わっていた。




写真2 民族舞踊「老人の踊り」


「マリアチ アガベ」の演奏

 「マリアチ アガベ」の6人のメンバーは、昨年と同じ顔ぶれだった。つばの広い帽子を被って、それぞれに違った楽器を奏でながら、声量のある歌を聞かせてくれた。

 曲目紹介はスペイン語だが、日本語も交えて話してくれて、昨年より日本語で話す言葉の数が多くなっていた。
 「ラ・マラゲーニャ」「シェリト・リンド」といった馴染みのメキシコ音楽に加えて、美空ひばりが歌っていた「川の流れのように」もスペイン語に加えて日本語の歌詞でも歌っていた。              




写真3 マリアチ アガベの演奏


 マリアッチはメキシコを代表する楽団の様式である。マリアッチは7ないし12名で編成される楽団である(ただし、人数に上限は無い)。ビウエラ、ギター、ギタロン、バイオリン、トランペットは欠かせない楽器とされ、これらにフルートやアルパが加わる事もある。アコーディオンは本来マリアッチに使われる楽器ではないが、メキシコ以外ではしばしば用いられている(フリー百科事典「ウィキペディア」)。

 「マリアチ アガベ」では、左からアコーディオン、ヴイオリン、トランペットと、右端のギターはなじみの楽器だから直ぐにわかったが、右から2番目と3番目はギターのようでもあるが、大きさがちょっと違っていたので、検索して調べてみた。

 右から2番目のギターより少し小さい楽器は、ビウエラだろう。スペインの古楽器でビウエラはビオラと同じ語源で、ネックの付いた弦楽器の幅広い総称でもある。だからビウエラと呼ばれる楽器は古来よりいろんな形状がある(「私家版楽器辞典/楽器の種類」引用)。
 メキシコの楽団、マリアッチで使われているビウエラは5弦または6弦でギターを小さくしたような楽器だ。
 3番目のギタロンで、「ギターを大きくしたような楽器である。ギターよりも低い音(5度下の調弦)を有する」とわかり、マリアッチのことが少し勉強できた。


市民参加交流 ダンスパーティー

 第1部から第3部までの演奏や民族舞踊も楽しいが、最後に会場いっぱいに繰り広げられるダンスパーティーを楽しみに参加している人たちも多いと思う。

 盆踊りのように、手拍子や振り付けがあるわけでなく。陽気なメキシコ音楽の演奏に合わせて腰を振り振りしたり、手を上げ下げしたりで難しくないから、年配のおじいちゃんも輪に加わって楽しんでいた。 




写真4 市民参加のダンスパーティー

 箕面市とメキシコ・クエルナバカ市とは平成15年10月に国際友好都市を締結していてお互いの市民間交流も盛んで、来春にメキシコ旅行が計画されているという。

 スペイン語で話されるとほとんどの参加者はチンプンカンプンだろうが、馴染みのラテンの曲の生演奏と陽気な踊りで、年寄りから幼い子まで陽気になって気持ちよく過ごせたのではないだろうか。


(平成22年9月26日)
第42話 加太越えのトンネル番[2010年09月19日(日)]


 小学生だった昭和20年代、通学路に阪急電車の踏切を渡る箇所があった。電車が通過する前に警報機が鳴って、人や車を遮断して電車を優先して通過させるために遮断機が下りてきて電車の通過を待った。
 今ではセンサー技術が発展しているから、電車が通過する前に警報機が鳴るとともに、自動的に遮断機が下りてくるが、当時遮断機は人力で回転装置のワイヤーを回して上げ下げしていた。遮断機の際に小屋があって踏切番のおじさんが常駐していた。
踏切番は踏切の安全を確保するための番人だが、トンネルの番をするトンネル番という職業があったのを知ったのは今から7年前だった。


碓氷峠の「アプト式」

  平成15年の初夏、土木工学を学んだ同級生4人で、信越本線廃線の「アプトの道」を歩いてきた。
 写真1はアプトの道の中でも代表的な構造物である、通称「めがね橋」と呼ばれるレンガつくりの鉄道アーチ橋で、国内最大級の規模を誇り、廃線となって今日でも昔の面影を残した観光名所になっている。




写真1新緑映える「めがね橋」(03年5月19日撮影)


 「アプト式」とは、線路の中央にぎざぎざのついたレール(ラックレール)を敷き、これと機関車の歯車を噛み合わせて急勾配を登っていく方式である。この方式で信越本線の横川〜軽井沢間11.2kmを最急勾配66.7‰(水平距離1000mに対し66.7m登る勾配)で碓氷峠を越すことにより、京浜地区と裏日本を最初に連絡することが出来た。
 この区間には長短26のトンネルがあり、明治26年4月に開業してから明治45年5月に電化されるまでの間は、この急勾配をもうもうと煙を吐き出す蒸気機関車が走っていた。


碓氷峠のトンネル番

 旧信越本線の碓氷峠の廃線跡「アプトの道」を歩いたのがきっかけで、近代化を急いだ明治政府が鉄道馬車時代を経て、この険しい山岳地帯にどのようにして鉄道ルートを選定したのか、などの資料を調べて「アプトの道をゆく」を約20ページにまとめた。

 資料には「横川を出た機関車はみんなものすげぇ煙をだすべぇの。あれはな、火夫が、石炭をカマにぼこぼこほりこんでるからなんさ。カマをがんがん焚いて、蒸気の圧力を目いっぱい上げるんだ。そうやって全力をふりしぼって峠にかからなきゃあ、この峠を越すことはできゃしねえんだ」1)とトンネル番親子の会話が出てくる。

 トンネル内でも機関車は黒煙を吐きつづけるため、トンネル内では大量の煤煙と排気蒸気の熱気で一杯になってしまう。加えて、トンネル内では、空気が低いところから高いところへ流れるので、峠の坂を登るときは、煙突の中を走り抜ける状態になってしまう。
 日本一急勾配の碓氷峠を越えるこのアプト式蒸気機関車による登坂では凄まじい煤煙と熱に乗務員も乗客も苦しめられ、乗務員の窒息失神事故も発生した。

 当時の記録には「列車ガ一旦随道内ニ入ルヤ、車輪ノ軌音ハ排気ノ音響ト合シテ轟々ト耳ヲ聾シ、黒煙ハ蒸気ト混ジテ濛々トシテ息ヲ圧シ、旅客ノ苦痛不便ハ言フニ忍ビズ、殊ニ灼煙セル汽缶ノ前ニテ蒸気ト悪ガス裡に従事スル乗務員ノ吐血、又ハ窒息の惨事モソノ例ニ乏シカラズ・・・・・・」2)と書いている。




写真2 アプト式中尾橋より17号隧道へ進入の景(明治35年頃)3)


 機関士は顔を低く下げ、タオルで口や鼻を覆い、煙を避けながら運転した。だから、熊の平駅で列車から降りてしまって乗車を拒んだり、煤煙に苦しめられるよりは歩いたほうがましと熊野平から軽井沢まで徒歩を選んだ乗客もいたという。

 鉄道庁では、トンネル内での煤煙が乗客にまで危険が及ぶ恐れがあるため、排煙幕を設置した。これはトンネル入り口に隧道(トンネル)番を配置して列車がトンネル内に入りきると、すかさず大きな布でトンネルを遮断してトンネル内に外気が侵入しないようにした。布幕で入り口を防ぐことにより、列車の最後尾の空間が真空に近い状態になり、煤煙はそこに滞留する仕組みである。
 トンネル内に空気が吸い込まれないから、煙は列車の前へ流れにくくなり、列車は煙より先を走ることになり、実際に効果があったようである。列車がトンネルをぬけた頃に幕をあけて、煙を外に出して次の列車にそなえた。
 排煙幕が設置されたのは26のトンネルの内20箇所、トンネル入り口に官舎が建てられた。そこに隧道番とその家族が住み込んだ。トンネル1箇所に2名が配置され、1日交代で1人1昼夜勤務の体制だった。
 当時官営鉄道で働くことは庶民の憧れであったというが、仕事は相当過酷なものだったようだ。昼夜ぶっ通しの勤務に交代要員が病気だったりすると、何日も1人で幕引きをしなければならなかった。
 幕引き自体もかなり難しい作業で、列車の最後尾が入ったと同時に幕を引かなければ、列車の風圧で幕が吸い込まれてしまったり、引きずられてトンネル番が宙づりにされてしまうこともあったらしい。さらに冬になると雪で幕が凍りつき、閉まらなくなったこともしばしばあったという。




写真3 碓氷第一トンネル入口に立つトンネル番(交通博物館所蔵)3)
写真3のトンネル入口右側の際に制服を着たトンネル番の立っている姿が見える。

 写真3にはトンネル入口右側の際に制服を着たトンネル番の立っている姿が見える。

加太越えのトンネル番

 「アプトの道をゆく」をまとめていたとき、昭和30年から4年間名古屋から大阪へ帰省するとき利用していた関西本線でも、25‰の加太越えにトンネル番がついていることを知った。

 「加太トンネルの貫通は明治22年(1889)10月7日である。開業は前述のように同年12月25日だが、蒸気機関車の煙が、乗務員や乗客を苦しめた。そこで、列車がトンネルに入った直後坑口を幕で塞ぎ、煙が列車の進行方向へ流れないようにする『幕引き』が行われた。碓氷峠でも使われた方法である。

 碓氷峠では、大正時代に全列車が電気機関車牽引に切り換えられた際、この方式は必要なくなり廃止されたが、加太トンネルでは、蒸気機関車が全廃された昭和47年(1972)まで続いた。なお、最後の頃は、幕は電動式になり、作業は昔に比べれば楽になっていたようだが、人家が他にまったくない山中の小屋に1人で泊まり込み、黙々と幕の操作をする仕事も、精神的にはかなりきつかっただろうと想像している」4)と書いていた。
初めて関西本線に乗ったころの昭和30年弟には、当然機関士や乗客を煤煙から少しでも守るために、トンネル番が張り付いていたのである。




写真4 加太越えを走る(10年8月31日気動車から撮影)


 8月末に青春18キップを使っての車内で、古参の車掌に加太越えのトンネル番のことを尋ねたが、中在家信号場は話してくれたが、トンネル番のことは知らなかったようだ。

 気動車の最後尾から、トンネル番の痕跡はないかとデジカメで撮ってパソコンで拡大してみたが判らなかった。

 上記加太越えトンネル番で引用した「鉄道考古学を歩く」にトンネルの垂れ幕の痕跡の写真が掲載されていた。




写真5 加太越えのトンネルに残っている垂れ幕を上下させるモーター5)


 俳人・中村草田男さんの「降る雪や明治は遠くのなりにけり」という俳句があるが、信越本線碓氷峠のトンネル番は、明治45年の電化でその職業は消えていって遠い存在となったが、未だに単線で電化されていない加茂〜亀山までは1973年9月30日、無煙化になるまでトンネル番という職業が存在していた。

 堀地和夫写真集「関西本線のSL」で見るデゴイチ(D51形蒸気機関車)が真っ黒な煙をはいて加太越えをしている勇壮な写真を見ていると、関西本線では「トンネル番 デゴイチとともに消えて行き」と、蒸気機関車が走らなるまで、世間ではあまり知られていないトンネル番の職業があった。

 鉄道の歴史の中でも、橋梁番、トンネル番、踏切番といった職業は、技術の進展にともないなくなっていった。

参考資料
1) インターネットより「碓氷線『鉄路 峠を越える』より(隧道番の家族)」
2)「碓氷峠の歴史物語」小林 收1997年8月 株式会社 櫟(いちい)
3)「信越本線横川駅周辺鉄道文化財調査報告書」平成2年3月(交通博物館所蔵)
4)「絵葉書にみる懐かしの鉄道―上越・中央線編」白土 貞夫著、ほおずき書籍
5)Can Book 「鉄道考古学を歩く」浅野明彦 1998年4月 JTB
6)イロネBOOKS 011「峠の鉄道物語箱根&碓氷越え」 きむらけん著 
7)土木学会誌付録「土木モニュメント見て歩き」土木学会誌1991年12月発行
8)「碓氷線 アプトの道」 浦野 護編 1998年8月発行 あかぎ出版
 9)インターネットより「碓氷線概史―66.7の軌跡」


(平成22年9月19日)


| 次へ
プロフィール


箕面だんだんクラブ
プロフィール
バイオグラフィ
ブログ
リンク集
http://blog.canpan.info/masataka/index1_0.rdf