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雨ニモマケズ 風ニモマケズ

- 災害系ボランティア情報 ブログ-


日本は台風・火山・地震と世界でもっとも自然災害の多い国です。

阪神・淡路大震災以降、大規模災害でのボランティアによる救援活動は、いまや被災地の復興には欠かせぬものとなり、その活動は被災者へのエールにもなっています。
雨にも負けず、風にも負けず、汗を流す災害ボランティアに対する各方面からの応援をよろしくお願い申し上げます。         


団体紹介【3】 [2006年12月22日(金)]
海に関連した環境団体JEANをご紹介します。

JEANは海辺に流れつくゴミ問題をテーマに活動しています。地球環境の問題は、温暖化や砂漠化、種の絶滅など多岐に渡っていますが、私たち人間が出すごみによる海の汚染もとても深刻です。環境問題は互いにつながりあっていますし、それは地球上のすべての生き物に関係のあることです。
(JEAN発行、SAVE the ocean Planetより)

JEANが加盟する、国際海岸クリーンアップ(ICC)で20年間に調査したゴミの総数トップ10です。

1位 タバコ・タバコフィルター(22.5%)
2位 ふた・キャップ(8.3%)
3位 袋類(8.2%)
4位 食品の包装・容器(7.9%)
5位 食器類(6.8%)
6位 飲料用プラボトル(4.7%)
7位 飲料缶(4.4%)
8位 飲料ガラスビン(4.2%)
9位 ストロー・マドラー(3.6%)
10位 ロープ・ひも(2.0%)

投棄されたゴミによる動物への被害
口輪のようにプラスチックがはまってしまったアザラシ

魚網に絡まったウミガメ
 
上記画像はJEANサイトより引用させていただきました


内陸部の水害でも河川を通って大量のゴミが海に流れ出すことも問題になっています。
2005年台風14号によって四万十川から流された大量の樹木が海岸に打ち寄せられました。
続続・海兵隊と復興隊 [2006年12月21日(木)]
本シリーズ、多少しつこいとの意見も出てきていますが・・・・

アメリカ海兵隊


豊岡復興隊
トイレ掃除をしながら [2006年12月20日(水)]
何年かぶりで福井県旧三国町でボランティア活動をしているNさんから電話がありました。ナホトカ号重流出事故での重油回収ボランティア作業で一緒に活動した仲間です。

旧三国町には有名な東尋坊があります。約1Kmにわたり断崖や奇岩が続くところで、眼下25mの大絶壁は、崖っぷちから見下ろすと目がくらむ。そんな所だけに実は自殺の名所とも・・・・。

このNさんはナホトカ号事故から10年間、東尋坊にあるトイレの掃除を毎日しながら、心の悩みを持って訪れた人を見分け、そんな人の聞き役にもなっている。

Nさんのこの地道な活動が、この10年の間多くの人を救ってきたと思う。本人曰く、俺はボランティア(重油ボランティア)に助けられたから恩返しだよが口癖。Nさんらしい照れ隠しの表現でしょう。

04年の福井の大水害。旧三国町の漁師の皆さんがバスで何度となく被害のあった山間地の美山町や一乗谷に来られたのを思い出す。「あん時は三国が世話になったで」と皆が口をそろえる。ナホトカ号から10年、被災地によそ者ボランティアが係る意義。また再確認できたように思う。


この東尋坊も重油で真っ黒。サーファーがボードに乗って重油の回収をしていました。
普段は風光明媚な東尋坊です。

Nさん、あなたも、雨ニモマケズ・・・・
丈夫ナカラダヲモチ欲ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテヰル 凄い人です
続・朝日山の謎 [2006年12月19日(火)]
全国の皆さん、朝日山頂上看板の謎の二組の手について沢山の情報をお寄せいただきありがとうございました。

寄せられたさまざまな情報を細かく分析した結果、記念写真などを嫌うシャイ?な職人的性格の人間の仕業ではないかという結論に達しました。とすると・・・・

若棟梁も確かに頂上隊に!伝説の名棟梁、父を越える日は・・・。

伝説の電設職人も確か頂上隊に


ということで、お騒がせしました!
史跡朝日山の看板類のほとんど、
材料の調達から修復まで若棟梁にお世話になりました
ボランティアもプロの技を見、勉強になりました

おまけ:
冬囲いを終えたその朝日山の頂上の便りが届いています。
うらがらの笑顔をどうぞ!

そこで一句、冬囲い 兵どもが 夢の跡
続・海兵隊と復興隊 [2006年12月18日(月)]
前回の海兵隊とボランティア、好評につき第二弾

アメリカ海兵隊

中越復興隊
朝日山の謎 [2006年12月17日(日)]
今年の春、小千谷浦柄の古戦場朝日山にて全国から多くのボランティアが参集され「朝日山復興春の陣」が行われました。

その折、第二日目、頂上隊の下山直前に修復された看板を前に記念撮影が行われましたが、その看板の上に二組の手のみが写っているのです。このことは関係者の間では古戦場だけに東西両軍兵士の亡霊説まで囁かれ、なぞが深まるばかりです。

当日の様々な状況、写真分析、関係者からの聞きとり調査などを行っていますが・・・いまだ・・・・


ちなみに記念写真におさまっている当日の頂上隊は、
浦柄地区の皆さん、旧04救援隊桑原隊長&ヤナ君、あかつきVNコバちゃん&タカちゃん、名城大3人組、会津JCさんの5名そして旧小千谷VC川ちゃんと中越会議の隆ちゃん。あの日あの時ほかに誰かいたのだろうか?


引き続き関係者からの情報をお待ちしています。
上記リンク先のページには角度が違えた集合写真があります。

おまけ:この看板を職人芸で完璧なまで修復した、あのあかつきVNの迷コンビですが、この時は数時間後このような怪事件?が起きることを予想もしなかったでしょう
仮設砂防工事 [2006年12月15日(金)]
長野水害で土石流災害のあった地区は、二次災害を防止することから仮設砂防工事が完了するまで避難指示が解けず、従ってボランティア活動も核心現場へは待機状態が続きました。後学のためその仮設砂防工事の一部をご紹介します。

1立米の土止め用フレコンに砕石を詰め、土石流にも耐えられるよう大口径の丸太を杭にして固定。なんとこの丸太は皮肉にも山から土石流と共に流れてきたものです。この適正技術に拍手!




防災エキスパート [2006年12月14日(木)]
防災エキスパートをご存知ですか?

防災エキスパートとは、公共土木施設等の整備、管理等についての専門的知識を持ち、地震、風水害等の大規模災害発生時または発生の恐れがある場合に公共土木施設の被災状況の情報収集等を、ボランティアとして自主的かつ無報酬で行う者として防災エキスパート制度に登録した人です。

防災エキスパート制度は、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災を契機に発足しました。

国土交通省傘下の全地方整備局、北海道開発局、沖縄総合事務局において約5千名の方々が防災エキスパートとして登録されています。自主性を重んじるのか、それぞれのブロックによって活動目的、活動内容、資格など若干異なります。

被災地では災害のプロフェッショナルとして行政と行動を共にするため、いわゆるボランティアセンターを中心とした支援活動上では、ほとんどこの皆さんに遭遇することはありません。まあ見かけても姿かたちも超行政チックなので見分けもつきませんが。
栗林中将決別電 [2006年12月12日(火)]
米軍上陸後、約1か月後の3月17日、壮絶な戦闘を続けてきた日本軍は、栗林中将から大本営に訣別の電文を打電されました。

戦局遂に最期の関頭に直面せり、十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を念願しつつ全員壮烈なる攻撃を敢行する。

敵来攻以来、想像に余る物量的優勢をもって陸海空より将兵の勇戦は真に鬼神をもなかしむるものがあり。しかれども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで倒れたためにご期待に反しこの要地を敵手にゆだねるやむなきに至れるは、まことに恐懼に堪えず幾重にもお詫び申しあぐ。今や弾丸尽き水枯れ、戦い残るもの全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、つくづく皇恩のかたじけなさを思い粉骨砕身また悔ゆるところにあらず。

ここに将兵とともに謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ、永久のお別れを申しあぐ。防備上に問題があるとすれば、それは米国との物量の絶対的な差で、結局、戦術も対策も施す余地なかりしことなり。

なお、父島、母島等に就いては同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも断こ破砕しうるを確信するもなにとぞよろしくお願い申し上げます。

終わりに駄作を御笑覧に供す。なにとぞ玉斧をこう。


  国のために重きつとめを果たし得で 
  矢弾尽き果て散るぞ悲しき
  仇討たで野辺に朽ちじ吾は又 
  七たび生まれて矛を報らむぞ
  醜草の島にはびこるその時の 
  国の行く手一途に思う  


この硫黄島の激戦で生き残った方がまだまだ元気で生きていらっしゃいます。あんな不幸が出来事があったこと、それほど昔にあったことではないのに・・・・
硫黄島将兵への朗詠 [2006年12月11日(月)]
映画「父親たちの星条旗」や「硫黄島からの手紙」で太平洋戦争の激戦地であった太平洋に浮かぶ孤島、玉砕の島「硫黄島」が話題となっています。この小さな島でなんと日米両軍合わせて28000人を越える将兵が戦死しました。お国のために玉砕された日本軍将兵がラジオにかじりつき最後にお聞きになった声が、故笹川鎮江先生の朗詠でした。生前、先生も一生のうちで最も悲しかった思い出と記されています。

そのことについて財団法人吟剣詩舞振興会の会報の中で振り返っておられました。その一部をご紹介させていただきます。

(以下抜粋)
戦争中には悲しく辛い思い出がたくさんございます。父、母を、兄弟姉妹を、そして妻を子をおもいやり、不帰のひととなるべく出撃していった気高く純真な精神を思うと、いまでも心がいたみ涙がこぼれてまいります。
20年3月NHKで朗詠しました放送は生涯、忘れることができません。
「南方で最後の戦闘に入るさい、西尾都長官の別れの辞についで、士官、兵士にきかせる朗詠をお願いしたい」とNHKからいってこられたのです。
心の準備はしていましたものの、当日になりますと、高まる緊張を抑えるのがたいへん難しゅうございました。
最後の戦闘とは、部隊の総員が敵に切り込んで果てる玉砕を意味します。当時この玉砕は「名誉の戦死」であり、大和男の本懐などと英雄視され、美化されていました。玉砕を悲しんだり、そう感じさせたりするのは非国民という風潮がありました。
その日、朗詠に際してわたされた和歌は六首でございました。次に、そのうちの二首をあげさせていただきます。
 
  南の 遠のみかどの 防人よ
  わが大君は たのみたまへり
             釈 迢空
  
  幼児も 小さきその手を 合わすなり
  硫黄の島の いくさ語れば
             佐々木 信綱


(中略)
当時、兵士は天皇の赤子ということになっていましたから「みかどの防人」として散華されるのは、ひとつの諦めのようなものもございましたが、「小さきその手を合わす」幼児を思いますと、その無常さをこらえて朗詠するのは、たいへんなことでございました。

同時に、この和歌の吟詠が、硫黄島の将兵の方々にとどき、そして最後のときにあたって、みなさまの心の平安にいささかでもお役に立てましたものなのかを考えていました。
この和歌の朗詠はわたしにとって最も悲しい思い出の一つになったのでございます。



※写真は鎮江先生9歳の時、筑前琵琶の天才少女と謳われた頃