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雨ニモマケズ 風ニモマケズ

- 災害系ボランティア情報 ブログ-

日本は台風・火山・地震と世界でもっとも自然災害の多い国です。

阪神・淡路大震災以降、大規模災害でのボランティアによる救援活動は、いまや被災地の復興には欠かせぬものとなり、その活動は被災者へのエールにもなっています。
雨にも負けず、風にも負けず、汗を流す災害ボランティアに対する各方面からの応援をよろしくお願い申し上げます。         


レイテ島地滑り災害【1】 [2006年02月28日(Tue)]
フィリピンのレイテ島で起きた大地滑り関連情報

ヒューマンシールド神戸

CODE海外災害援助市民センター
義を彰かに! [2006年02月26日(Sun)]
先日他界した義父の位牌をいただきに菩提寺に。上野天王寺の柱に残る彰義隊と薩長との激戦の刃アト。雪が消え始める頃、小千谷市の朝日山など中越地震で被害のあった北越戦争の史跡の修復が開始されます。永年に亘り薩長の供養を行ってきた小千谷市民の皆様の義に、その修復作業に鹿児島・山口からも暖かい支援をお願い申し上げます。



レイテ島 [2006年02月25日(Sat)]
フィリピン中部のレイテ島で起きた大規模な地滑りは死者・行方不明者が3千人を超える可能性が出てきた。被災地周辺は断続的に雨が降り救援活動も難航している。その真っ只中、中央では深刻なクーデター騒ぎも起きている。

いずれこの大災害を引き起こした原因の調査も行われるだろうが、違法伐採により森林の保水力がなくなったことが有力だろう。1991年にレイテ島でやはり大規模な土砂災害で7千人以上、2004年のルソン島では1800人の死者を出した。いずれも違法伐採によって誘発された災害といわれている。とくに1991年に起きた災害の違法伐採木材の輸出先はバブル期全盛だった日本だ。いまや経済成長目覚しい中国は木材の輸入も盛んで、実は日本も中国への輸出国になっている。日本は地球の財産である熱帯やタイガからの外国木材を伐採・輸入し、価値ある国内産スギ・ヒノキを輸出。国の森林愚策には呆れるばかりだ。

しかし、このフィリピンで起きていることは日本の森林でも起きている。日本の場合は違法伐採ではなく、その逆で伐採されずに管理放棄の問題だ。異常気象の原因ともいわれる熱帯雨林の伐採。まずは木材の地産地消から考え直せば熱帯雨林の砂漠化にも歯止めがかけられることになるのだが。

参考:自然災害と森林整備

私たち風゜(ぷー)の災害救援のパートナーのHS神戸の吉村さん もフィリピンに入り、原因の確認と被災者の救援活動を開始する。

◆活動カンパの募金のお願い
郵便振替00980−7−264796
「ヒューマンシールド神戸」まで



画像:asahi.com
被災地責任 [2006年02月23日(Thu)]
2004年は10個の台風が日本列島に上陸した。とりわけ最後に上陸した23号は強大で広域に爪痕を残した。兵庫県但馬地区でも未曾有の被害を及ぼした。先日、その時に豊岡市で助役をされていたOさんに東京で再会することができた。(Oさんは当時総務省から豊岡市に出向され、現在は東京にある公益法人に勤務)

発災当時、行政の中枢におられただけに苦労話など興味深く聞くことができた。このような災害は初めての経験でとても勉強になったとも。特に印象に残るのは、地域外からやってきた災害ボランティアの活躍が、市民にどれほど精神的力を与えたかを盛んに強調されていた。

私達はそのことを常に実感しながら災害現場と関ってるので、場合によっては半ば強引に災害ボランティアが被災地に流れ込む仕組みを作ることもある。そして災害ボランティアが安全に輝いて活動できるよう様々な工夫をこらした舞台設定をするのである。

お話をお伺いするなかで最も嬉しかったことは、豊岡市長の中貝宗治さん が復興期の忙しい合間を見つけ「私たちはどのようにして台風災害と闘ったか」と題して講演を行っていることだ。2004年は全国で50か所以上のボランティアセンターが立ち上がった。つまり、50以上の自治体でボランティアを必要とするほどの大災害が起きたことになる。しかし、中貝さんのように成功したことも失敗したこともさらけ出し、豊岡と同じ辛さや悲しみを味わうことがないよう講演をされている首長さんはどれだけいるのだろうか?豊岡に滞在中、彼は豊岡の出身で郷土愛に満ちた方だと沢山の市民から聞いたことを思い出す。臨時に設営された災害ボランティアセンターへもボランティア激励のために何度となくお見えになった。

災害には被災地責任というワードがある。被災を受けたところが次の災害時に同じ失敗を繰り返さないよう多くの教訓を「発信する責任」という意味だ。

昨年、皇室も出席してのコウノトリの放鳥が行われた。その中で首長ながらも遠く控えめに微笑む中貝さんが印象的だった。

◇豊岡市民からボランティアへの感謝のメッセージ


豊岡市にも全国各地から災害ボランティアがやってきた!
もう一つの「掘るまいか」 [2006年02月22日(Wed)]
中越地震の被災地、小千谷に時々足を運んでいます。小千谷市の中山間地にあたる塩谷地区は地震によって大きな打撃を受け、地区の住人たちは平場にある仮設住宅に住んでいる。

小千谷入りの時に必ず立ち寄らせていただく家(仮設住宅)がある。塩谷の住人の星野武次郎さんです。武次郎さんと奥さんのヨリさんの話はとても興味深い。塩谷地区は小千谷市の中でも最も奥深いところにある。その奥深さ故に面白く興味深い話が多いのだ。先日は村の人たちが掘った素堀りのトンネルの話を聞いた。塩谷に入るにはトンネルを通らなければならないが、いまのトンネルは近代的な二車線のトンネルだが、この村には震災で有名になった旧山古志を舞台にした映画「掘るまいか」の中山隧道と同じ素掘りのトンネルがあったのだ。

昭和12年から18年まで6年間かかって掘ったトンネルの話。いろいろなエピソードが次から次へと聞くことが出来る。まだまだ聞き足りない。貫通した時、喜びに沸いた村の様子。新トンネルができてから封印されたこの素堀りトンネルだが、話を聞くたびに是非見てみたいと強く思うのである。

ツルハシ一本握り締め、村人が向かった岩盤を、パソコンゲームで遊んでいる今の子ども達に是非見てもらいたい。その隧道の中に入ればきっと何かを感じとってくれるだろう。

懐古主義ではない。日本国中すべての村は先人の苦労があって作られたことを忘れてはならないと思う。


この大きなトンネルのヨコに村人の血と汗と脂の隧道がある。
久々の中越入り [2006年02月20日(Mon)]
昨年暮れに雪囲いの手伝いをして以来、今年始めて中越入りをしてきました。また嬉しい事を沢山感じることが出来ました。そのことを徒然に書いてみました。

中越復興市民会議の皆さんが相変わらず熱心にパワフルに活動していた事。
◇地元の技大の学生さんと大阪大学の学生さんが真面目にいまでも活動していることに接することができた事。(久々に学生を前にオヤジの講釈を長々としてしまいました)
◇震災直後に子どものケアで活動していたAさんがいまでも新潟に通って活動している事。
◇そのAさんと一緒に水害被災地の中之島で頑張っているYさんと協働していた事。
◇浦柄で泥だらけになって活動していた女の子が大人の女性?に変身していた事。マジびっくり!
◇いつもながら塩谷の皆さんの強い絆に接することができた事。
新潟日報のT記者さんと中之島での思い出話が出来た事。
◇神戸のときからの仲間、静岡のMちゃんやTさんが雪堀りVに仲間と来てくれた事。
◇塩谷の働き者、武次郎さんとヨリさんにまた昔の話を聞けた事。
◇塩谷の皆さんが笑顔で声をかけてくれる事。
◇震災直後からのボランティア仲間に多く会えた事。
◇三人の子たちの慰霊碑が順調にいっているとの話を聞けた事。
鯉のいる村の映画を鯉のいる村の人達と一緒に見れた事。
◇S旅館の女将さんが元気に順調だった事(男の子?)
◇ヨリさんのおにぎりと鮟鱇鍋を食べれた事。
芒種庵の補修のための材料を集めてくれる力強い助っ人が現れた事。
◇その芒種庵の最後の住人、僚君が絆トレーナーを着て、屋根の雪落しに来ていた事(春から中学生)
◇もうそんなに雪は降らんだろうとみんなが言っていることを聞けた事。
◇暖かかったせいか、なんとなく春の息吹を感じることができた事。
◇そして、三人のお母さん達の笑顔に会えた事。

そしてやっぱり吉村さんは大地滑り災害のあったフィリピンレイテ島に行く決心をしていました。
地元学的地域づくり【3】 [2006年02月17日(Fri)]
廃村が決まって山をおりるとき、村人はカヤぶき屋根を解体した。残しても一冬の雪でつぶれてしまう運命だった。解体作業はなんともいえない光景だった。頼み込んで叔父の家をゆずってもらった。周囲のは当然反対だったが、仙台という都会をサラリーマンで生きてゆく自信がなかった。(中略)

だが都市に身を置きながら山奥の家を維持していくのは骨が折れる。冬は何度も雪おろしに通った。冬山登山のように終点のバス停から五時間も雪道をかきわけ、たどりついて三日間、ひとり黙々と雪をおろす。そのたびごとにこの村を何百年にもわたって生きてきた村人の厳しさと強さを思った。貧しさのゆえんを思った。

しかし、春になると廃村は輝いた。コゴミ、ゼンマイ、ウド、ワラビ・・・・山菜が次々にご馳走をもたらした。不思議なことに春になると、町におりたはずの老人たちが村にもどってきた。「町は何事もスピードが速くて神経が疲れる。ここに帰ってくるとホッとする」と、残した作業小屋に泊りこみ、畑を耕しはじめた。
[前掲の結城登美雄さんのことば]

地元学的地域づくり【2】 [2006年02月14日(Tue)]
住民とは人と人の関係に配慮して暮らす人々のことである。その相互関係によって成り立つ場所を地元という。それゆえ地元学は徹底して当事者に寄り添って行われるものをさす。たとえ専門的な知識がなくても、長年その土地に生きていれば喜怒哀楽はもちろんのこと、それなりの深い思いと考えを秘めている。

まずはお茶でも飲みながら、その心のうちに耳を傾けてみること。そこから地元学ははじまるのである。この町のこれからを考える前に、まずはこの地元をどう生きてきたのか。嬉しかったこと。つらかったこと。悔いること。努力しても果たせなかったたくさんのこと。そしてそれはなぜ達成されなかったのか。それをまず受け止める。地元学とはポツリポツリの会話の学である。お互いの経験をもちよる場をつくることである。そうすると将来ビジョンには寡黙だった人々が、この町のこれまでについては饒舌になってくる。そしてそれを語る顔がいきいきとしてくる。地元学とは、その土地を生きた人々から学ぶことを第一義とする。
[前掲の結城登美雄さんのことば]

地元学的地域づくり【1】 [2006年02月13日(Mon)]
足元の、あたりまえのすごさにきづく

地元学的地域づくりは経済活性化を必ずしも第一義とはみない。住んでいる人口が多いからといって優れた人間が多いわけではない。人が減ったからといって不幸な生活を送っているわけではない、というあたりまえのことに立脚する。

数字や金、外見を気にし、ダメからの地域づくりを主導するのは、たいてい行政である。これに出来の悪い学者たちが尻馬にのる。そして作られるのが町づくりプラン。希望的観測としての人口増加を前提に策定される長期総合計画と公共事業。現実と現場を無視した無理な計画がどれほどの借金をもたらしたか。小さいより大きいほうがよい。古いより新しい方がよい。ゆっくりより速い方がよい。すなわち彼らに共通しているのは単純なモノサシのモダニズム。なんのてらいもなく将来ビジョンを語り押しつける人間を有識者というのだろうか。
[前掲の結城登美雄さんのことば]

ムラが裂かれる【4】 [2006年02月10日(Fri)]
Familyという英語はラテン語のFamiliaから派生したもので、今は「家族」と訳されるこの言葉の語源をさかのぼっていけば、「一緒に耕す者たち」すなわちFarmerに通じているという。十数年前、初めてそのことを知ったときの、静かな感動は今も忘れがたい。
(民俗研究家・結城登美雄さんのことば)

新潟日報復興公論 第5回「将来」
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