パキスタン地震情報【6】
[2005年10月25日(Tue)]
【ヒューマンシールド神戸・吉村氏からの報告を掲載します】
谷間の村で
「壊滅」という言葉があてはまるバラコット村から川の左手を上ってゆく。各地からのNGOは、街中にいくつか来ているが、少し上流に行くだけで、その姿は見えない。
亀裂や土砂崩れが起きている道を、軍隊や支援物資、山盛りの人を載せたジープが行き交う中で、谷間に小さな集落を見つける。パトラン集落だ。上から見ると、被災状況が見えず、唯一の軽トラ道は、崩壊しており、徒歩かロバによる荷降ろしの方法しかない。
フォトにも出したが、この周辺の家は、コンクリートや土ブロックで壁を作り、その壁の上に15×30cm×長さ6mほどの太い柱を渡して、その上に木やワラを編むように乗せ、30cmほどの盛土を乗せる方法だ。日中の暑さを和らげ、寒さへの保温性には、この家は適している。しかし、47世帯の家は全て潰されたように壊れ、家の中にあるものは、遺体以外取り出せていないのだ。
谷上から見たときには、その土屋根が地面と一緒に見えたので、被害の様子は分からなかった。おびえてすぐに泣いてしまう子ども達や、視線が不安定な女性、ただ立ち尽くす老人の姿が目についた。この集落内でも、場所によって物資の入りも違っているのだ。それは、「何かをもらえても、もらえなくても神が与えてくれることだから」とこの地震についても「私たちに試練を与えている」と津波被害のインドネシアアチェ州で聞いた言葉とダブって聴こえた。
テントや毛布、飲み水、食料を村人と一緒に担ぎ下ろして、特に混乱は起きなかったが、とうもろこしの幹と葉っぱで作っていたテントには驚いた。数日前の雨は、大変だったろうに・・・
そして、この集落の奥に、ヒジを20cmぐらい怪我をしている少女に出会い、なんとかお母さんを説得し、車で救援テントまで来てもらうことが出来た。その傷は、かなり化膿していて、処置をしないと大変なことになると、日本人看護師は痛がる少女の手当てを暗くなるまでに済ませた。来る前の、お母さんの不安そうな顔が少し安心してくれたのが分かった。
夜になると、満点の夜空に星が輝き、どれがオリオン座か分からないほど埋め尽くしている。
その横を、羊飼いの群れがのんびりと山を降りて行く。
そろそろ冬がそこまで来ているのがわかる。
現地からの画像T ※トップ画像右が吉村氏(オレンジTシャツ)
現地がらの画像U
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