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海洋汚染情報 −海の事件簿−
海上で起きた重大な汚染事件・事故について、独自の視点から鋭くメスを入れ、分析・解説する”海の社会部デスク”、その名も”元海の男”、職業”(さすらい派)研究員”による海の事件簿。
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『★修学旅行が中止となる理由、今昔!★』[2009年05月08日(金)]
連休が終わり、私たち家族も平常どおりの生活に戻りました。今日からは、私と“上等兵(中三の上の娘)”との、皆さんお馴染みの同伴出勤・通学も再開しました。

さて、ここ数日、彼女がいつになく、何となくそわそわしていたようなので、地下鉄の車内で問いただしてみました。彼女が語るに、このところの“新型インフルエンザ”騒ぎが、彼女が楽しみにしている行事にも影響をもたらしているとのことでした。

曰く、「来週の月曜日から東北方面に、人生はじめての修学旅行に出掛ける。でも、国内で“新型インフルエンザ”の患者が出たら、旅行は即刻中止にすると学校が決めた。旅行は大丈夫だろうか。」とのことでした。

そう言えば数日前、“下士官(私の妻)”と彼女が、大きなカバン相手に、何やらたいそうな詰め込み作業に奮闘した挙句、宅配便業者を自宅に呼び付け、それを引き渡していたのを思い出しました。そうです、彼女の修学旅行用の荷物だったのです。

どうやらこの修学旅行、荷物は事前に初日の宿泊先に宅配便で送り、行きは新幹線を利用し現地入り、東北での道中は豪華観光バスで巡り、帰りは飛行機を利用、お土産で膨らんだ荷物はやはり宅配便で自宅に送り返すとのことです。我々の時代とは違い、今の修学旅行は至れり尽くせりなのです。

たしか、我々の時代は、新幹線こそ開通していたものの、遠隔地への移動手段としては、夜行寝台列車がノーマルであったと記憶しています。

無論、宅配便など便利な輸送手段は存在しませんでした。生徒めいめいの背中には、荷物でパンパンに膨れ上がった、まるでエベレストを目指す登山家のような大型リュックが鎮座していました。

さらに、両手にはお土産で詰まった紙袋がぶら下がり、まるで戦後の“担ぎ屋”のような風情だったと記憶しています。時代は大きく変わったのです。

修学旅行は来週の月曜日の出発とのことですから、5月11日です。“5月11日”と言えば、私は仕事上、あの忌まわしい海難をどうしても思い出してしまうのです。

54年前の5月11日、楽しいはずの修学旅行が一瞬のうちに悪夢と化したのでした。私が生まれる約二年前、1955年(昭和30年)5月11日朝午前6時56分のことでした。

四国・高松港の沖合いで、国鉄が運航する宇高連絡客船“紫雲丸(1,480総トン)”の右舷に、同連絡貨物船“第三宇高丸(1,282総トン)”が衝突、紫雲丸が沈没に至ったのでした。

両船がそれぞれ四国・高松港と本州・宇野港を出港した際の天候は曇り、風も霧もなく、実に穏やかな天候でした。

しかし、港外に出るとすぐに霧が濃くなりはじめ、視界は100メートル程にまで急激に減少、すなわち、高松港の周辺は突然の濃霧で閉ざされていたのでした。

午前6時50分頃、第三宇高丸はレーダーによって船首方向約2海里(約3.7km)に所在する紫雲丸を確認しました。

同時刻頃、紫雲丸は第三宇高丸の発した霧中信号を聞き、それに応答しました。しかし、両船とも速力を落とすことなく、また、無線電話で相手船と交信を行なうこともなく、そのまま航行を続けたのでした。

その直後、紫雲丸の船長は「左転!」の指示を出しました。視界制限下の航法の原則は速力を落とすこと、また、行き合い船がすれ違う際の航法の基本は、“左舷対左舷”です。したがって、原速力のままでの「左転」の指示は実に不可解な行動でした。

午前6時56分、第三宇高丸は左舷100メートル前方で、濃霧の中からひょっこり現れ、左に回頭中の紫雲丸を視認しました。衝突の危険を察知し、ただちに機関停止、左舵一杯を令したが間に合わず、あっと言う間に衝突したのでした。

衝突と同時に紫雲丸の船内は暗闇となり、容赦なく海水が襲ってきました。甲板付近にいた乗客の一部は、衝突相手である第三宇高丸に逃げ移ることができました。しかし、衝突からわずか数分後、乗客らが救命胴衣を着ける暇も、乗組員が救命ボートを降ろす暇もなく、紫雲丸は沈没したのでした。

紫雲丸の乗客166名及び船長を含む乗組員2名、計168名が死亡・行方不明となり、大勢が負傷しました。第三宇高丸には死傷者はありませんでした。

この日、紫雲丸には修学旅行中の児童が多数乗船していたのでした。犠牲者の多くは児童でした。社会に与えた衝撃は極めて大きく、歴史に残る重大海難となりました。

戦時中、中断を余儀なくされていた修学旅行は、1950年代に入ると、ほぼ全国の学校で再開されました。

現在のように交通機関が多様化していなかった当時、移動手段は鉄道に限られていたのです。ニーズに応えた修学旅行専用列車なども登場しました。

無論、当時は四国と本州とを結ぶ架橋はなく、修学旅行のためには、鉄道に加え、国鉄が運航する連絡船を併用せざるを得なかったのでした。

紫雲丸の悲劇を目の当たりにした四国各県では、以後数年間、修学旅行を中止し、あるいは、連絡船を利用しなくてもすむ、四国内に行き先を変更したといいます。

半世紀前には海難によって修学旅行が中止されました。時代は移り変わり21世紀の現在、新型インフルエンザによって、修学旅行が中止になるかもしれないのです。



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