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海洋汚染情報 −海の事件簿−
海上で起きた重大な汚染事件・事故について、独自の視点から鋭くメスを入れ、分析・解説する”海の社会部デスク”、その名も”元海の男”、職業”(さすらい派)研究員”による海の事件簿。
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『★中国で見た名芝居?(その2)★』[2008年08月12日(火)]
昨日のブログでは、約30年前の中国の港町での体験談をお話しました。当地の名所・旧跡めぐりのバスツアーに参加したつもりだった私たち乗組員でしたが、実はこのツアー、巧妙に作られた“芝居”だったのでした。

何を隠そう、二日連続してこのツアーに参加した私、偶然性を装いながらも、実は同じ登場人物による、同じせりふ、寸分違わぬパフォーマンスを見てしまったのでした。

今はそのようなことはないはずです。しかし、当時の中国としては、たとえ観光と言えども、我々日本人など外国人に対し、積極的に見せて宣伝したいシーンと、絶対に見せたくないシーンがあっても不思議はありません。

私が見た“芝居”ツアーは、特別な企画ではなく、すべての外国人に共通する通常の対応だったと思われます。

さて、それから一週間後、私たちの船は久しぶりに日本の港に戻ってきました。そこで、私は再び、同じ“芝居”を二回連続して見る羽目に陥ったのでした。

(つづき)
中国東北部のとある港での荷役を終えた私たちの船に、東京の本社から朗報が飛び込んできました。「瀬戸内海のK港に向え!N社のプライベートバースに着岸せよ!」と言う内容でした。

会社からの指令一つで、諸外国間を彷徨っていた私たちの貨物船にとって、日本への入港は実に六ヶ月ぶりのことでした。乗組員は大いに喜びました。

N社のプライベートバースはK港の西端、N社の敷地はK市とお隣りのA市に跨っていました。着岸後、入港手続きや荷役の打ち合わせが終わると、乗組員の多くは、つかの間の再会のため、海外で仕入れた土産の山を手に、家族の待つ場所に向け三々五々上陸してゆきました。

私は当時船内では数少ない独身者、しかも、役務とはいえ、中国の港では荷役当直が免除され、二日間もツアーに参加した関係上、船にそのまま居残り、当番をする羽目となってしまいました。

荷役当直については、会社が乗組員の休息のため、専用の当直スタッフを派遣してくれました。私の役務はいわゆる“在船当番”、船長に代わり、ただ船内にいることが与えられた義務なのでした。

多くの乗組員が上陸した昼下がり、静まり返った船内、私は操舵室内の海図テーブルで、次の航海に備えた海図の準備をしていました。

そこに、事務室で書類の整理をしていた三等機関士が上がって来ました。彼もまた私と同様に独身、彼は機関部の在船当番を拝命していたのでした。

「サードオフィサー、事務室にお客さんですよ。警察官を名乗っていますよ。“船長もしくはその代理の方にお会いしたい”と言っていますよ。」

十数年間にわたる私に船乗り生活の中で、警察官が船を訪れたことは、後にも先にもこの時だけです。船長の代理者とは、頼りないながらも私のことです。

「警察? 何の用事だろうか?」とつぶやき、私はそそくさと階下の事務室に降りて行きました。

私を迎えたのは二人の私服の男性でした。小柄な中年男の方が、笑みを浮かべながら深々とお辞儀をしました。

「三等航海士さんですね。こんにちは。はじめまして。お忙しいところ恐縮です。K警察から来ましたAです。こちらは同じくBです。」

ついで、頑丈そうな編み紐につながれた黒い手帳を取り出し、お辞儀に応える私の目の前にそれを突き出しました。

A氏の後ろのもう一人の男性は長身で痩せ型、神経質そうな顔立ちで、お辞儀こそするものの一言も発せず、獲物を目指す猟犬のような鋭い視線を常に私に向けていました。

二人に席を勧め、テーブルを介して向かい合わせとなったところで、笑みを浮かべたA氏が一声を発しました。

「外航船ですか。いいですなあ。私も子供のころは憧れましたよ。でも、船酔いが心配でしてね。所詮叶わぬ夢でした。」

その後も、たわいない船や海の話を仕向けてきました。私は、「こんな話をしにきたのではなかろう。」と思いながらも、丁寧に受け答えしました。

その都度、終始笑みを浮かべ、頷きながら大げさに反応するA氏に対し、B氏は無言のまま、鋭い視線を私に向けたままです。

「ところで、本船はいろいろな国へ行っているそうですが、最近はどちらの方に行かれましたか。」

いよいよ、本題に入ってきたようです。私は操舵室を降りる際、小脇に抱えてきた日誌をめくりながら、ここ半年間の本船の寄港地を順番に説明しました。

相も変わらず笑みを浮かべながら頷くA氏、B氏はおもむろにポケットからノートを取り出し、猛烈な勢いでメモを取り始めました。

A氏:「ほー、最後の寄港先は中国のT港ですか。はじめての入港ですか。」

私:「そうです。はじめてでした。」

A氏:「ところで、そのT港ですが、何か変わった施設を見ましたか?」

すでにA氏の顔からは笑みは消え失せていました。B氏と同様、猟犬のような視線をひしひしと私は感じました。

私:「変わった施設ですか。具体的にはどんな?

A氏:「たとえば、軍の施設だとか。大きなパラボラアンテナだとか。」

T港は商業港であると同時に、その一部は軍港となっていました。多数の軍艦が停泊し、その周囲には通信設備を含め、多くの施設がありました。

私は“軍事お宅”ではありませんが、少なくとも、日本を含めた他の軍港と、何ら代わり映えはしませんでした。私はその旨、正直に申し上げました。

「そうですか。では写真を撮影しましたか。軍港の写真です。」

入港時、乗船してきた中国人の水先人から、軍事施設を撮影することは堅く禁じられている旨、申し渡されました。また、着岸後、代理店員からも申し渡されました。観光の際にはガイドからも申し渡されました。

したがって、軍事施設にカメラのレンズを向けることは一切ありませんでした。その旨をA氏に伝えました。

A氏:「そうでしたか。写真はないですか。では、レーダーはどうでしょうか。レーダーの画像を撮影しませんでしたか。」

レーダーも然りです。入港直前まで作動させていた二台のレーダーも、中国人の水先人が乗船すると、彼は無情にもそのスイッチを切ってしまいました。以後、出港するまでの間、スイッチは中国語が書かれたシールで封印され続けました。

したがって、画像など存在するはずもありません。私はその旨をA氏に伝えました。

A氏:「そうでしたか。レーダーの画像もありませんか。」

私:「お役に立てず、申し訳ありません。」

彼らは残念そうに席を立ち、礼を述べて退室して行きました。

言うまでもなく、彼らは公安の刑事さんだったのです。当時、すでに日本と中国との国交は回復していました。しかし、日本にとって中国は、公安警察による情報収集の対象国である事実に何ら変わりはなかったのでした。

現在のように、衛星画像によって様々な港の画像が、タイムリーに入手可能な状況ではなかった当時、公安の刑事さんたちが船を訪問し、自らの足で情報を集めていたのでした。

意気消沈し、事務室の右側のドアから退室した二人、ドアが閉まったと同時に、今度は左側のドアが突然開いたのでした。
(つづく)


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