『★女武者となった“上等兵”★』[2008年04月25日(金)]
明後日(4月27日)の日曜日、私たちが居住する東京・石神井公園では、毎年恒例の“照姫まつり”が開催されます。
今から500年以上前の文明9年(1477年)4月、江戸城を築城したことでも知られる太田道灌は、三宝寺池(現:東京都練馬区)の豊島(てしま)泰経の居城(石神井城)を包囲していました。
豊島氏は、道灌と対峙する長尾景春の味方について戦(いくさ)に参加、負け戦を繰り返した末、自らの居城である石神井城に逃げ込んできたのでした。
同年4月28日、道灌は石神井城に対し、総攻撃をしかけました。落城が間近であることを察した豊島泰経は、可愛がっていた白馬に家宝の金の鞍をのせ、城の背後の崖から、白馬もろとも三宝寺池に入水、自らの命を絶ったのでした。
泰経には照姫という、美しい次女がいました。父の最期を見届けた照姫は、その死を悲観し、父の後を追って三宝寺池に身を投げ、果てたのでした。
太田道灌は照姫の死を憐れみ、彼女の亡骸を弔い、小さな塚を築きました。後に姫塚と呼ばれるこの塚の脇には老松(照日の松)がそびえ、この木に登り上から池面を望むと、泰経とともに水底に沈んだ金の鞍が、燦然と輝いて見えると言い伝えられています。これが世に言う、石神井・三宝寺池の照姫伝説です。
もっとも、泰経には照姫なる娘はいなかったという説や、そもそも泰経は石神井城を逃れ、相模の国まで落ちのびたという文献も残っているようですが、この際、それはどうでもよいのです。
私たちにとって、照姫は永遠の悲劇のヒロイン、それも絶世の美女とであればこそ、その悲しい末路に哀れみを常に感じ続けているのです。
そうです。“照姫まつり”は、照姫を偲ぶ祭なのです。祭の最大の見所は、何と言っても“時代行列”です。
照姫や豊島泰経とその奥方が竜神を従え、鎧武者、稚児、女武者、花拍子、巫女などとともに、当時を再現した豪華な衣装や装備をまとい、石神井公園を基点とし、周囲の街中を練り歩くのです。
祭の当日には、艶やかな時代行列を目当てに、区内はおろか、近隣から約10万人の観光客が訪れ、大小さまざまな屋台が所狭しと立ち並ぶ、一大イベントなのです。
いつもは、うっとりと時代行列に見入っていた私たち家族は、今年、一大決心をしました。「見ているだけではつまらない、家族から行列参加者を出そう!」ということなのです。
照姫や豊島泰経とその奥方の役は、以前は本職の俳優を採用していたことがありますが、最近では、他の役と同様、練馬区民からの公募なのです。
今年の初め、家族会議が開かれ、家族四人のうち誰が応募するのか、審議が行なわれました。私が豊島泰経の役に応募するのは、あまりに“あたり役”すぎて、他の応募者の夢を打ち破ることになるとされ、ただちに却下となりました。
次に“下士官(私の妻)”ですが、「本当は照姫をやりたい。でも、奥方でもしかたない!」などと、神をも恐れぬことを言っていましたが、冷静かつ客観的な私の目で見る限り、“吉原のやり手ばあさん”あたりが適役です。
しかし、調べてみたところ、該当する役は、行列には存在しません。そこで、仕方なく、私と同様、却下ということになりました。
続いて、“二等兵(小4の下の娘)”ですが、剥いたゆで卵に目鼻を付けたような顔立ちのため、白塗りの化粧がとても似合いそうです。年齢からいっても、正に“稚児”の役にうってつけです。
早速、説得にかかりましたが、本人は色気より食い気、「行列に参加すれば、楽しみにしている屋台での“買い食い”ができない!」と、断固拒否の姿勢を示しました。最近、“幼児虐待!”などの言葉を覚え、多用するため、これも仕方なく却下と相成りました。
最後に残ったのが“上等兵(中2の上の娘)”です。私譲りの美貌に加え、中学校では演劇部に所属しています。もっとも、“万年、照明係”で、いまだかって役をもらったことはないとのことです。
しかし、ものは言いよう。オーディション応募用紙に彼女の制服姿の写真を添付し、演技派の美少女を示唆する記述を長々としたため、ポストに投函した私たち夫婦でした。
結果は見事に落選、最低で中学2年生以上という条件があったのに、応募当時は1年生だったからでしょうか。ということで、照姫役には落選したものの、女武者の役で、復活当選と相成ったのでした。
学校帰り、今日も彼女は公民館で行列の“振り付け”の稽古、“吉原のやり手ばあさん”は、その付き添いででかけるようです。皆さんも是非、石神井公園の“照姫まつり”にお越しください。明後日の日曜日です。

今から500年以上前の文明9年(1477年)4月、江戸城を築城したことでも知られる太田道灌は、三宝寺池(現:東京都練馬区)の豊島(てしま)泰経の居城(石神井城)を包囲していました。
豊島氏は、道灌と対峙する長尾景春の味方について戦(いくさ)に参加、負け戦を繰り返した末、自らの居城である石神井城に逃げ込んできたのでした。
同年4月28日、道灌は石神井城に対し、総攻撃をしかけました。落城が間近であることを察した豊島泰経は、可愛がっていた白馬に家宝の金の鞍をのせ、城の背後の崖から、白馬もろとも三宝寺池に入水、自らの命を絶ったのでした。
泰経には照姫という、美しい次女がいました。父の最期を見届けた照姫は、その死を悲観し、父の後を追って三宝寺池に身を投げ、果てたのでした。
太田道灌は照姫の死を憐れみ、彼女の亡骸を弔い、小さな塚を築きました。後に姫塚と呼ばれるこの塚の脇には老松(照日の松)がそびえ、この木に登り上から池面を望むと、泰経とともに水底に沈んだ金の鞍が、燦然と輝いて見えると言い伝えられています。これが世に言う、石神井・三宝寺池の照姫伝説です。
もっとも、泰経には照姫なる娘はいなかったという説や、そもそも泰経は石神井城を逃れ、相模の国まで落ちのびたという文献も残っているようですが、この際、それはどうでもよいのです。
私たちにとって、照姫は永遠の悲劇のヒロイン、それも絶世の美女とであればこそ、その悲しい末路に哀れみを常に感じ続けているのです。
そうです。“照姫まつり”は、照姫を偲ぶ祭なのです。祭の最大の見所は、何と言っても“時代行列”です。
照姫や豊島泰経とその奥方が竜神を従え、鎧武者、稚児、女武者、花拍子、巫女などとともに、当時を再現した豪華な衣装や装備をまとい、石神井公園を基点とし、周囲の街中を練り歩くのです。
祭の当日には、艶やかな時代行列を目当てに、区内はおろか、近隣から約10万人の観光客が訪れ、大小さまざまな屋台が所狭しと立ち並ぶ、一大イベントなのです。
いつもは、うっとりと時代行列に見入っていた私たち家族は、今年、一大決心をしました。「見ているだけではつまらない、家族から行列参加者を出そう!」ということなのです。
照姫や豊島泰経とその奥方の役は、以前は本職の俳優を採用していたことがありますが、最近では、他の役と同様、練馬区民からの公募なのです。
今年の初め、家族会議が開かれ、家族四人のうち誰が応募するのか、審議が行なわれました。私が豊島泰経の役に応募するのは、あまりに“あたり役”すぎて、他の応募者の夢を打ち破ることになるとされ、ただちに却下となりました。
次に“下士官(私の妻)”ですが、「本当は照姫をやりたい。でも、奥方でもしかたない!」などと、神をも恐れぬことを言っていましたが、冷静かつ客観的な私の目で見る限り、“吉原のやり手ばあさん”あたりが適役です。
しかし、調べてみたところ、該当する役は、行列には存在しません。そこで、仕方なく、私と同様、却下ということになりました。
続いて、“二等兵(小4の下の娘)”ですが、剥いたゆで卵に目鼻を付けたような顔立ちのため、白塗りの化粧がとても似合いそうです。年齢からいっても、正に“稚児”の役にうってつけです。
早速、説得にかかりましたが、本人は色気より食い気、「行列に参加すれば、楽しみにしている屋台での“買い食い”ができない!」と、断固拒否の姿勢を示しました。最近、“幼児虐待!”などの言葉を覚え、多用するため、これも仕方なく却下と相成りました。
最後に残ったのが“上等兵(中2の上の娘)”です。私譲りの美貌に加え、中学校では演劇部に所属しています。もっとも、“万年、照明係”で、いまだかって役をもらったことはないとのことです。
しかし、ものは言いよう。オーディション応募用紙に彼女の制服姿の写真を添付し、演技派の美少女を示唆する記述を長々としたため、ポストに投函した私たち夫婦でした。
結果は見事に落選、最低で中学2年生以上という条件があったのに、応募当時は1年生だったからでしょうか。ということで、照姫役には落選したものの、女武者の役で、復活当選と相成ったのでした。
学校帰り、今日も彼女は公民館で行列の“振り付け”の稽古、“吉原のやり手ばあさん”は、その付き添いででかけるようです。皆さんも是非、石神井公園の“照姫まつり”にお越しください。明後日の日曜日です。




