日本財団公益コミュニティサイト CANPAN CANPANブログ:公益法人,NPO,CSR,社会貢献活動のための無料ブログ
海洋汚染情報 −海の事件簿−
海上で起きた重大な汚染事件・事故について、独自の視点から鋭くメスを入れ、分析・解説する”海の社会部デスク”、その名も”元海の男”、職業”(さすらい派)研究員”による海の事件簿。
« 韓国原油流出事故 | Main | 明石海峡玉突き海難 »
2008年10月
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
昭夫様 元海の男
『★続く死亡海難、救命胴衣不着用!★』 (11/15)
植田様 元海の男
『★定額給付金とストリートファイト★』 (11/11)
ふぁなんなん様 元海の男
『★沈没船からの油流出報道に想う!★』 (11/05)
最新トラックバック
『★イージス艦海難、チキンレースだったのか?★』[2008年10月23日(木)]
今年2月19日、海上自衛隊のイージス艦“あたご”と、千葉県・新勝浦市漁協所属の漁船“清徳丸”が衝突、親子2人の漁船員が行方不明(後に死亡認定)となった海難の続報です。

お伝えしたとおり、この海難の第六回目の審判が一昨日(10月21日)、横浜地方海難審判所で開かれ、“あたご”側の最終弁論が行なわれました。

“あたご”側の補佐人は、「(“清徳丸”が針路・速力を保持し、そのまま航行すれば、)“あたご”の艦尾を無事に航過していたにもかかわらず、右転及び増速によって新たに衝突の危険を招いた。」とし、海難の主因が“清徳丸”側にあると主張しました。

理事官(刑事裁判の検察に相当)側の、「“あたご”は海上衝突予防法上の“横切り船の航法”に従い、“清徳丸”を避航すべきところ、監視が不十分でそれを怠った。主因は”あたご“側にあった。」とする主張と、真っ向から対立したまま結審を迎えました。最終判断は、横浜地方海難審判所の裁決に委ねられることとなります。

“あたご”側のM補佐人は業界きっての論客、見事なまでに緻密なストーリーが組み立てられていました。さすがだと思います。

今回の最終弁論に関し、報じられた内容にざっと目を通すと、事故発生以来、海上自衛隊を悪としてきたマスコミの論調も、かなりトーンダウンしているような気もします。

さて、“あたご”側の主張ですが、仮にこれが事実だとすると、“清徳丸”は“あたご”に対し、自らの意思で“チキンレース”を挑んだということになるのでしょうか。

“あたご”側の補佐人は、航法の適用に関し、「“横切り船の航法”ではなく、“清徳丸”側の“船員の常務違反(船員の常務として必要とされる注意を怠る)”を適用すべきだ。」と述べたと伝えられています。

たしかに、航法規程としては“船員の常務違反”になるのでしょうが、本当に故意による“チキンレース”だったとすれば、現状の航法自体がそうした行為を想定していないため、状況次第では適用できない可能性も考えられます。

さて、“清徳丸”がこうした行動を取った理由に関し、“あたご”側の補佐人は、あくまでも推測とした上で、「(“あたご”の艦尾に発生する波の影響で、)漁具が海に落下することを嫌い、(波の影響がない)艦首を通過しようとしたのではないか。」と述べたそうです。

しかし、静穏な港内ならばまだしも、外洋上において、そのまま進めば、“あたご”の艦尾の約800メートル後方を航過していたとする状況下、しかも、“あたご”が当時10ノット強に減速していた状況下、漁具が落下するほど航走波の影響があるとは思えません。

「大漁を祈願するため、漁場に向う漁船は、多少の危険を冒しても、大型船の船首を強引に横切る。」といった話を、かつてよく耳にしたことがありました。

しかし、私もこの業界に入って長いのですが、実際にその場面に遭遇したことはありません。あるいは、そのような“迷信”を信じ、実践しているとする漁業者に出会ったこともありません。

軍艦の艦首は鋭く切り立っています。迫り来る艦首は威圧感といった生易しいものではなく、プロの船乗りに対しても恐怖感を抱かせます。私にも何度か経験があります。“清徳丸”があえて“チキンレース”に臨む明確な理由が、今一つはっきりしません。

事故当時の前直士官は最終弁論の中で、「事故発生直後から、取り調べに際しては、“清徳丸”の右転が原因で衝突した。」と、一貫して述べてきたと強調したそうです。

また、“あたご”が所属する海上自衛隊・第三護衛隊の事故当時の司令は、「遺族は不快感を抱くと思うが、事実を隠さず言うことが、事故の再発防止につながる。」と述べたそうです。

去る3月21日、防衛省は今回の事故に関する中間報告を、「艦船事故調査委員会による調査について」としてまとめ、発表しました。

この報告書は何度も読み返しました。しかし、今回の“あたご”側の主張を裏付けるに足りる内容は、この報告書からはどうしても見出せません。

“清徳丸”の存在に関する“あたご”側の認識、少なくとも衝突の危険に関する認識は、衝突約1分前まで、あたごの当直員の脳裏にはなかったとしか読み取れないのですが。

それとも、捜査や海難審判に差し障りがあるので、この報告書では述べなかったということなのでしょうか。そうであるならば、はっきりとその旨を述べるべきです。

いずれにせよ、審判官の裁決がすべてです。“真実はたった一つだけ”、果たして審判官はどのように判断するのでしょうか。



『★イージス艦海難、真実は一つ、泥仕合は繰り返されるのか?★』[2008年10月22日(水)]
今年2月19日、海上自衛隊のイージス艦“あたご”と、千葉県・新勝浦市漁協所属の漁船“清徳丸”が衝突、親子2人の漁船員が行方不明(後に死亡認定)となった海難の続報です。

この海難の第六回目の審判が昨日(10月21日)、横浜地方海難審判所で開かれました。今回の審判では、“あたご”側の最終弁論が行なわれました。

“あたご”側の補佐人(刑事裁判の弁護人に相当)は、独自に作成した航跡図に基づき、「“清徳丸”は衝突の約6分前に右転を開始した。また、約1分前にも右へ舵を切り、さらに速度を上げた。」などと指摘しました。

すなわち、「“清徳丸”が右転しなければ、そして増速しなければ、“あたご”の艦尾を無事に航過していたはず。“あたご”が十分な動静監視をしなかったことも一因ではあるが、衝突の主因は“あたご”の船首前方を無理やりに通過しようとした“清徳丸”側にある。」という主張内容でした。

なお、「なぜ、清徳丸が右転したのか。」との問いに対し補佐人は、あくまでも推測とした上で、「(“あたご”の艦尾に発生する波の影響で、)漁具が海に落下することを嫌い、(波の影響がない)艦首を通過しようとしたのではないか。」と述べたそうです。

一方、理事官(刑事裁判の検察に相当)は、前回までの審判の中で、「“清徳丸”が衝突を避けるため、最善の協力動作を取らなかったことも一因である。」と指摘した上で、「“あたご”の監視が不十分であったため、前方を横切る“清徳丸の針路を避けなかったことが原因である。」と述べ、主因が”あたご“側にあったことを主張してきました。

すなわち、理事官は今回の事故に際しての航法適用に関し、海上衝突予防法上の“横切り船の航法”であるとし、“清徳丸”を右舷に見る“あたご”側に避航義務があったと主張しています。

一方、“あたご”側は、“清徳丸”の不用意な右転によって衝突の危険が生じたもので、“横切り船の航法”の適用は誤りと反論しているのです。

その他、最終弁論に望んだ“あたご”側の関係者は、“清徳丸”の遺族などへの謝罪の言葉を口にはしたものの、皆一応に補佐人の主張と同じ内容を次々と述べ、自らの“正当性”を主張しました。

“あたご”が所属する海上自衛隊・第三護衛隊の事故当時の司令は、「遺族は不快感を抱くと思うが、事実を隠さず言うことが、事故の再発防止につながる。」と締めくくりました。

結局、今回の海難審判は、“あたご”側の主張と理事官の主張が終始、真っ向から対立したまま、六回の審議のすべてを修了しました。最終判断は、横浜地方海難審判所の裁決に委ねられました。裁決の日取りは未定とのことです。

なお、今回の海難審判とは別途、この海難の刑事事件としての捜査が行なわれています。既に事故当時の“あたご”の当直士官ら2名が、業務上過失致死罪などの容疑で書類送検されています。

海難当事者に対する刑事責任追及の動静は、海難審判の裁決内容に大きく左右される傾向にあります。すなわち、裁決の内容が絶大な信頼を帯びた最重要な証拠となるわけです。

仮に裁決が“あたご”に対し極めて有利な内容となった場合、起訴猶予などの寛大な処分も十分考えられ、今後の刑事事件の捜査にも大きく影響します。

最後まで理事官と海上自衛隊の主張が対立する構図は、“なだしお”海難の時とまったく同じです。1988年7月23日、東京湾内で海上自衛隊の潜水艦“なだしお”と遊漁船“第一富士丸”が衝突、同丸の30名が死亡し17名が重軽傷を負いました。

“なだしお”側と“第一富士丸”側の主張が真っ向から対立、横浜地方海難審判庁の一審では、“なだしお”側に主因があると裁決されたのですが、二審の高等海難審判庁は双方に同等の過失があると裁決しました。

さらに、それでも決着が付かず、東京高裁への行政訴訟にまで発展し、最終的に“なだしお”に主因があったとする再逆転の裁決が確定したのは、事故発生から5年半後の1994年2月のことでした。正に“泥仕合”でした。

今回の場合も、穿った見方をすれば、理事官すなわち国土交通省と、海上自衛隊すなわち防衛省との果てしなき論争とも言えます。“なだしお”ののような“泥仕合”に発展するのか否かは定かではありません。しかし、少なくとも言えることは、幾多の主張があろうと、“真実はたった一つだけ”ということなのです。

『★イージス艦海難、東郷元帥に学ぶべき?★』[2008年10月02日(木)]
今年2月19日、海上自衛隊のイージス艦“あたご”と、千葉県・新勝浦市漁協所属の漁船“清徳丸”が衝突、親子2人の漁船員が行方不明(後に死亡認定)となった海難に関するお話です。

先日、幸運なことに、某図書館の貴賓書庫に立ち入る機会に恵まれました。その書庫には、その昔、帝国海軍が所有していた国内外の海事・海戦関係図書など、約8,000冊が収められているのです。

あのネルソン提督(1758年〜1805年、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などで活躍した英海軍の提督)が絶賛したと言う、ジョン・クラーク著の“海軍戦術論(1804年)”など、海事関係者ならば一度は耳にしたことがあろう名著の数々に、さすがの私も圧倒されました。

なんでも、これらの蔵書は、昭和26年、日比谷図書館に保存されていたものを譲り受けたそうで、本来ならば、その三年後に発足した自衛隊に移管されるべきところ、受け取らなかっために、そのまま残されているとの説明を受けました。

私がもっとも興味を抱いたのは、東郷平八郎元帥が所有していた多数の寄贈図書です。言うまでもなく東郷元帥は旧帝国海軍の軍人で、日露戦争の折、当時無敵と謳われていたロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で撃滅した世界的著名人です。

昭和初期に生まれた私の亡き母から、生前、繰り返し聞かされた話があります。

「私が赤ん坊の時、母(私の祖母)に背負われて、近所の公園を散歩していると、ばったり東郷元帥とお会いしたそうだよ。元帥は背負われた私を覗き込み、“女の子ですね、可愛らしい。がんばって、育ててあげなさい。”とお声をかけてくださったそうだよ。」

調べてみると、たしかに晩年の東郷元帥のお住まいは、当時の母の住居のすぐ近所でした。おそらく、東郷元帥にお声をかけていただいたのは、本当の話なのでしょう。

明治から大正が東郷元帥の活躍期でしたが、昭和初期にあっても、東郷元帥は国民的ヒーローであることに何ら変わりありませんでした。

母の父(私の祖父)はノモンハン事件を生き残った職業軍人、当時、母子を残したまま、そのまま中国大陸で従軍していました。雲上人のような方から、直接お声をかけていただいた母子の喜び、そして沸き立つ勇気は想像を絶します。

さて、自衛隊の受け取らなかった東郷元帥の蔵書の中には、彼が英国留学中に愛読した、当時の海軍教育に関するものも含まれています。今一度、どなたかに紐解いていただき、今後の海上自衛隊における、不祥事の再発防止対策にも役立てていただきたいものです。


『★イージス艦海難、海自教育不足の実体験!★』[2008年10月01日(水)]
今年2月19日、海上自衛隊のイージス艦“あたご”と、千葉県・新勝浦市漁協所属の漁船“清徳丸”が衝突、親子2人の漁船員が行方不明(後に死亡認定)となった海難に関するお話です。

昨夜(9月30日)、久しぶりに早めに帰宅し、何気なくテレビを見ていたところ、NHKの番組で海上自衛隊の度重なる不祥事の問題を取り上げていました。題して“岐路に立つ 海上自衛隊”。

「総額1兆円を超える巨大予算を使用し、世界最新鋭の兵器や装備を携えながら、イージス艦“あたご”による衝突海難をはじめ、不祥事が続くのはなぜなのか。

陸上自衛隊や航空自衛隊では、これほど大きな不祥事は続いていない。一体何が原因なのか。根本的な原因を検証する。」というのが番組の趣旨でした。

番組が結論として取り上げたのは、一言で言えば、“隊員に対する教育不足”でした。私が指摘し続けてきた“分業制のほころび問題”も、突き詰めれば“隊員に対する教育不足”が根幹にあります。したがって、“隊員に対する教育不足”は、世間があっと驚くほどの鋭い指摘とは思えません。

一方、「なぜ教育不足なのか?」については、興味ある解説がなされていました。「最新鋭の兵器や装備に対しては予算を廻すが、隊員教育に対する予算が十分でない。」

「長いこと家族と離れ離れになる海上自衛隊は、入隊希望者が少ない。また、入隊しても現場で厳しく教育すると、すぐにやめてしまう。おのずと隊員に対する接し方は甘く、教育が疎かになりがちである。」などです。

なるほど、私にも覚えがあります。以前、防衛省(当時は庁)が市ヶ谷ではなく、六本木にあった時代、私は海上自衛隊の事務方に請われ、左官クラスの制服組中堅幹部に対し、海上安全や環境保全に関する講演を毎年定期的に行なっていました。

一言も聞き漏らすまいと、熱心に聞き入る彼らの真摯な姿勢は、日本の商船・客船の乗組員と同様、まさに世界を代表する“船乗り”そのもの、国民の一人として誇らしく思いました。

時は巡り、やがて、防衛省が市ヶ谷に移転すると同時に、海上自衛隊からの講演依頼は一切なくなりました。

また、六本木の時代には、講演以外にも、航行安全や海事の環境保全に関する最新動向に関し、情報提供や解説を求める海上自衛隊からの連絡が、たびたび私のもとに寄せられていました。

その都度私は、電話で丁寧にお答えし、また、複雑な内容については、事務所にお越し頂き、納得するまでお話しました。これも、市ヶ谷に移り間もなく、途絶えてしまい久しいのです。

私はてっきり、「海上自衛隊が航行安全や海事の環境保全に関する情報収集や教育体制を整備し、専門家に教えてもらわなくても大丈夫になったのでは?」と考えていました。

しかし、NHKの番組が指摘した“教育の衰退”は、こうした私の体験と、時期的なものも併せ、見事に符合します。実に興味深いのです。

その他、番組ではインド洋での補給活動による業務負担増の問題や、同活動に伴う艦内におけるメンタルケアの問題を取り上げていました。

言いたいことは何となくわかるものの、それが、教育不足や不祥事の発生と、直接的にどう結びつくのか、私には完全に理解し切れませんでした。

私の代わりに、画面に向って「それがどうしたの!あんたたち軍人でしょ!」と言い放ったのは、私の妻でした。

彼女はイラン・イラク戦争や湾岸戦争の折、丸腰の商船に乗船し、銃火交わるペルシア湾へと旅立つ、現役時代の私との別れを何度も経験しているのです。

うろ覚えで恐縮なのですが、湾岸戦争の折、私たち商船乗りは、ホルムズ海峡の手前で誓約書にサインをさせられたと記憶しています。つまり、実質、「自己責任でペルシア湾に入る。命を落としても仕方ない。」と認める誓約書です。

無論、サインを拒みその場で最寄りの港に緊急入港し下船、交代の船員と入れ違いに帰国することも可能でした。しかし、これもうろ覚えで恐縮なのですが、何百回・何千人の日本船・日本人船員の入域にもかかわらず、サインを拒んだ事例は一例のみだったと聞いています。

たしか、当時のホルムズ海峡通過時の危険手当はわずかに8,000円、命の代償としてはあまりにも惨めでした。戦後、私たちの手元に残ったのは、当時の総理大臣の感謝状一枚、それも、手書きではなく、コピーされたものでした。どこに仕舞ったかも忘れました。



『★イージス艦海難、海自に対する勧告を要求!★』[2008年09月25日(木)]
一昨日から神戸と呉に出張していました。神戸ではケミカル防災の専門家と、また、呉では化学者と意見交換を行なってきました。昨夜は旧知の皆さん方と呉の町で再会、遅くまで飲み過ぎ、少々二日酔い気味です。

さて、今年2月19日、海上自衛隊のイージス艦“あたご”と、千葉県・新勝浦市漁協所属の漁船“清徳丸”が衝突、親子2人の漁船員が行方不明(後に死亡認定)となった海難の続報です。

この海難の第五回目の審判が本日(9月25日)、横浜地方海難審判庁で開かれました。今回の審判では、理事官(刑事裁判の検察に相当)により、刑事裁判の論告求刑にあたる“理事官意見”が述べられました。

理事官は審判官に対し、“あたご”が所属する第3護衛隊について、「安全にかかわる基本的な指導を徹底していなかった。」と指摘し、航行安全の徹底指導を行なうよう“勧告”を行なうことを求めました。

また、指定海難関係人(刑事裁判の被告に相当)である前艦長F一等海佐ら4人に対しても、動静監視の徹底や適切な引き継ぎを行なうよう、“勧告”を行なうことを求めました。

海上自衛隊に対する“勧告”の請求は、1988年7月23日、東京湾内で海上自衛隊の潜水艦“なだしお”と遊漁船“第一富士丸”が衝突、同丸の30名が死亡し17名が重軽傷を負った事件以来、実に20年ぶりのことです。

なお、理事官は今回の海難の原因について、「(“あたご”の)監視不十分で、前方を横切る“清徳丸の針路を避けなかったことが原因」と述べ、主因が”あたご“側にあったと指摘しました。

また、「(“清徳丸”が)衝突を避けるための最善の協力動作を取らなかったことも一因」と指摘し、“清徳丸”側にも原因があったと指摘しました。

“あたご”側の最終意見は、次回10月21日に行われる第六回審判で述べられる予定です。おそらく“あたご”側は、「当初、“清徳丸”とは衝突の危険はなかった。“清徳丸”が右転したことにより、衝突の危険が生じる見合い関係へと移行した。清徳丸側に主因があった。」と主張するものと思われます。


『★イージス艦海難、“あたご”が増速?★』[2008年09月18日(木)]
今年2月19日、海上自衛隊のイージス艦“あたご”と、千葉県・新勝浦市漁協所属の漁船“清徳丸”が衝突、親子2人の漁船員が行方不明(後に死亡認定)となった海難の続報です。

この海難の第四回目の審判が昨日(9月17日)、横浜地方海難審判庁で開かれました。審判には“清徳丸”の遼船で、事故当時、同船の後方を航行していた“金平丸”のI船長が証言台に立ちました。

私はてっきり今回の証人尋問は、自身の主張(清徳丸とは衝突の危険はなかった。しかし、清徳丸が右転したことにより、衝突の危険が生じる見合い関係へと移行した。清徳丸側に原因があった。)を証明するため、“あたご”側が要請したのかと思っていました。

しかし、報道によると、“清徳丸”が所属していた新勝浦市漁協(千葉県・勝浦市)が申し出たものだそうです。

I長は「7〜8マイル先から、(左舷前方に、“あたご”と思しき)大型船の灯火が見えていた。大型船は舵を切るのに時間がかかる。そこで、自分たちが避航したほうが早いと考えた。

右に舵を切ったのだが、“あたご”の接近は我々の予想以上に早かった。そこで、次に左に舵を切り直し避けた。

前方には“清徳丸”の船尾灯が見えていた。“清徳丸”は針路の変更はしなかった。」などと当時の状況を説明し、“あたご”側の主張に真っ向から反論したそうです。

さらに、I船長は“あたご”の速力に関し、気になる発言をしました。曰く、「(通常、もっと安全な距離を保って避航しているのだが、それができなかった。)“あたご”のスピードが(思ったより)早く思えた。20ノットぐらいで走っている感じを受けた。」旨を述べたようです。 

衝突当時の“あたご”の速力は、10ノット強だったとされています。10ノットという速力は、“あたご”の最大速力の三分の一に相当する超低速です。

理由はおそらく、東京湾への入域を日出後とするため、事故現場となった海域での時間調整だったのでしょう。あるいは、横須賀入港後、遠洋航海を慰労するセレモニーなどが予定されていたのかもしれません。

事故当時、今回証言した“金平丸”、そしてもう一隻の“康栄丸”までも、“あたご”の進行に対し、どういうわけか、文字どおり海上で“右往左往”しています。彼らのGPSに残った航跡記録が、その“慌てふためきぶり”を物語っています。

場合によっては、“あたご”の衝突相手は“清徳丸”ではなく、彼らであっても、決して不思議な状況ではありませんでした。

予想外の高速船の接近であるならば、“読み”違いも、たまにはあるでしょう。しかし、“清徳丸”以外の“金平丸”と“康栄丸”までが、“読み間違い”を起こしているのです。

彼らは“素人”ではありません。相手船の動静把握については、感覚的に身についているはずなのです。もちろん、人間ですからミスはあるでしょう。しかし、揃いも揃って三者“読み間違い”は、単なる偶然として片付けられないかもしれません。

こうした中、I船長の「“あたご”のスピードが(思ったより)早く思えた。20ノットぐらいで走っている感じを受けた。」は極めて印象的な発言です。

私も“あたご”の速力に関しては、疑問を持っています。3月24日の私のブログには、次のように記載されています。

「・・・はたして“あたご”の速力は、衝突の直前、全速後進をかけるまで、本当に10.4ノットのままだったのでしょうか。右舷の漁船団を早くかわす必要性から、一時的にも増速した可能性はないのでしょうか。」

理事官(刑事裁判の検察に相当)の申立書には、“あたご”の速力に関し、以下のように記載されています。

「03時10分航海長は、野島埼灯台から177.5度31.18海里の地点に達したところで、針路を328度に転じ、海潮流の影響を受けて324度の実航針路及び10.6ノットの速力で自動操舵により続航した。」

以下、衝突までの一時間以上、速力に関する記述はなく、「04時07分少し前、野島埼灯台から189.6度22.93海里の地点において、原針路及びほぼ原速力のまま、その艦首部と清徳丸の左舷中央部とが衝突した。」とされています。

すなわち、衝突時に至までの間の“あたご”の速力には触れていません。無論、綿密な証拠調べが行なわれ、増速の事実はなかったと認定し、あえて書かなかったのでしょう。

しかし、今回のI船長の発言は妙に気にかかります。身内を擁護するため、あえて当時の感覚を捏造したとはとても思えません。実際、自分らも右往左往したのですから、たとえ感覚的な問題とはいえ、当時、20ノットに思えたという意識は事実だったのでしょう。



『★イージス艦海難、分業制の再考はあるのか?★』[2008年09月16日(火)]
今年2月19日、海上自衛隊のイージス艦“あたご”と、千葉県・新勝浦市漁協所属の漁船“清徳丸”が衝突、親子2人の漁船員が行方不明(後に死亡認定)となった海難の続報です。

この事故の海難審判は、横浜地方海難審判庁を舞台に、すでに三回行なわれています。第三回目の海難審判は先週末(9月12日)に開かれ、前艦長のF一等海佐に対する尋問が行われました。

“あたご”側は、海難審判開始の当初から、「そもそも、清徳丸とは衝突の危険はなかった。しかし、清徳丸が右転したことにより、衝突の危険が生じる見合い関係へと移行した。清徳丸側に原因があった。」と主張してきました。

この日の審判では、その主張の基礎となる、独自に作成された“航跡図”が、F前艦長によって提示・説明されるとあって、多くの方々の興味はこれに集中しました。

結果は皆さんご承知のとおり、F前艦長の説明に対する根拠のあいまいさを指摘する声が続出、審判官からは「それは推測の世界ではないか。」と批判されるなど、さんざんな目にあったようです。

一方、この日の審判では、 “あたご”が所属する第三護衛隊群(京都府・舞鶴市)を代表して、事故当時の司令であったS一等海佐に対する尋問も行われました。むしろ、私は彼の尋問の方に興味を抱いていました。

S一等海佐は ハワイでのあたごの訓練が「非常に良好だった。」と述べる一方、「日本に近づく前に、(最後まで緊張を継続するよう)注意喚起をすべきだった。」と述べ、日本帰港を直前に控え、乗組員に気の緩みがあったことを認める発言をしました。

私は今回の海難が発生した当初から、事故発生に係る“あたご”側の背後要因として、大きく三項目を指摘しました。一部の新聞でも私の解説コメントが掲載されましたので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。

一つ目が分業制の“ほころび”です。事故当時、“あたご”の艦橋には、十八もの健常な目が備わっていました。

しかし、すべての目を“すり抜け”、事故の約1分前まで、“清徳丸”との衝突の危険が迫っていることを当直チーム全体が気付かなかったとは、誰もが信じがたい現象です。一般商船などと横並びで、単なる“見張り不十分”として片付けられる問題ではありません。

これがすなわち、軍隊組織としての分業制が故の“すり抜け”と言えるのです。すなわち、艦橋当直の人数が多いがゆえに、あまりにも分業化が進み、全員が自分に与えられた役割に集中、他人の仕事に積極的にかかわることを“良し”とせず、また、当直士官への報告システムや回避動作に移行するまでのプロセスも、商船と比較した場合、複雑すぎるためなのです。

実は1988年7月23日、東京湾内で海上自衛隊の潜水艦“なだしお”と遊漁船“第一富士丸”が衝突、同丸の30名が死亡し17名が重軽傷を負った事件の際も、分業制の“ほころび”を指摘する声が挙がっていました。

しかし、分業制あっての軍隊組織です。この点だけは、たとえ再発防止に最善を尽くすとは言いながら、海上自衛隊としては譲れなかったのでしょう。

結局、艦艇部隊に対する海事法規などの巡回講習、基礎的な訓練の集中実施など、今までの分業制は踏襲した上での、再発防止対策に終始したのでした。

さて、二つ目の背後要因が、乗組員の緊張感の欠落です。“あたご”は事故当時、ハワイ沖での重要な訓練を終え、のんびりとした大洋航海を続け、いよいよ本日は入港、船舶交通輻輳海域に入域する気持ちの切り替えが行なわれず、いまだ緊張感の高まりが十分でない状況だったのです。

結果、当直交代の引継ぎミスや、見張り員の報告不手際など、当直チーム全体の不安定行動がいくつも誘発され、それが重なり合って今回の事故へと発展したのです。

そして、三つ目の背後要因が、普段とは異なる操縦性能に対する認識不足なのです。事故当時、“あたご”は約10ノットのスピードで航行していました。最大速力は約30ノットですから、その約三分の一に相当する超低速です。

おそらく、東京湾への入域を日出後とするため、事故現場となった海域で時間調整のために減速航行していたのでしょう。あるいは、横須賀入港後、遠洋航海を慰労するセレモニーなどが予定されていたのかもしれません。いずれにせよ、時間調整のために超低速航行していたのでしょう。

今回、事故を起こした朝4時からの当直チームが、前日、当直に立った際には、おそらく“あたご”は、時間調整の減速には至っていなかったでしょうか。すなわち、通常の航海フルスピードだったはずです。海・気象の急変による自然減速の可能性を考慮し、できる限り目的地の直前まで、時間調整のための故意減速は行ないのが普通です。

もし、そうだとしたら、彼らは時間調整のための減速を前直から引き継いだものの、体感的に認識している「あたご」の操縦性能は、減速前の状態、すなわち、通常の航海フルスピードの状態の認識だったはずです。

「この程度の見合い関係ならば、自艦が漁船の前を難なく行き過ぎるであろう。」、通常の航海フルスピードの感覚を体で覚えていた当直員が、事故の際、漁船との見合い関係に対する認識を誤った可能性があると私は思っていました。

以上、私が分析していた事故発生に係る“あたご”側の背後要因三つのうち、S一等海佐が艦隊指令として、どこまで認識していたのか、私は興味がありました。

結果はうち一つだけ、すなわち、日本帰港を直前に控え、乗組員に気の緩みがあったことを認めた点だけでした。

残りの二つ、特に分業制の“ほころび”に関しては、やはり、軍隊組織としてこれを認め、再発防止につなげることまでは言及できないのでしょう。ある程度、意識しているとは思うのですが、口に出して言えないのでしょう。

結局、潜水艦“なだしお”の時と同様、巡回講習や基礎訓練の集中実施など、分業制は踏襲した上での、再発防止対策に終始することになるのでしょう。そして、喉元を過ぎ、だいぶ経った頃、再び同じ歴史が繰り返されるのではないでしょうか。

東京は朝から雨模様、私も憂鬱な気分になってきました。


『★イージス艦海難、何をしても褒めてもらえない?★』[2008年09月15日(月)]
今年2月19日、海上自衛隊のイージス艦“あたご”と、千葉県・新勝浦市漁協所属の漁船“清徳丸”が衝突、親子2人の漁船員が行方不明(後に死亡認定)となった海難の続報です。

第三回目の海難審判が先週末(9月12日)、横浜地方海難審判庁(織戸孝治審判長)で開かれました。

あたご側は、海難審判開始の当初から、「そもそも、清徳丸とは衝突の危険はなかった。しかし、清徳丸が右転したことにより、衝突の危険が生じる見合い関係へと移行した。清徳丸側に原因がある。」とする主張を繰り返してきました。

この日の審判では、この主張を証明するとされる、あたごのF前艦長が独自に作成したという“航跡図”が説明されるとのこと、私も大いに興味はありました。

しかし、それまでの審判で、事故時の当直士官及び前直士官の航海技術のあまりのレベルの低さが浮き彫りになりました。

新たな“航跡図”の登場を我々に期待させるに足りる、合理的な理由を伴う“新証言”は、彼らの口から出たとは思えません。そこで、F前艦長の“航跡図”もさほど期待できるものではないと判断、傍聴は見合わせました。

午前中は、あたごが所属する第3護衛隊群(京都府舞鶴市)の前司令のS一等海佐に対する尋問が行われました。

S一等海佐は ハワイでのあたごの訓練が「非常に良好だった。」と述べる一方、「日本に近づく前に、(最後まで緊張を継続するよう)注意喚起をすべきだった。」と述べ、日本帰港を直前に控え、乗組員に気の緩みがあったことを認める発言をしたそうです。

また、再発防止策の一つとして、艦橋と戦闘指揮所(CIC)間の連携強化のため、チェックリストを作成することなどを明らかにしました。

午後からは、いよいよF前艦長に対する尋問が行われました。F前艦長は「清徳丸は(理事所の航跡図より)もっと南東にあり、そのまま進めば艦尾を通過した。僚船と清徳丸との位置も逆である。清徳丸の右転によって新たな危険が生じ衝突した。」という主張を繰り返し述べ、独自に作成した航跡図を示しました。

報道によれば、F前艦長はこの航跡図の作成方法について、「清徳丸の僚船(3隻)のレーダー図と証言をまとめ、それを平均化して割り出した。」などと説明したそうです。

僚船がレーダー画像を保存する装置を有しているとは思えません。おそらく、遼船のGPSによる自船位置情報のことを指しているものと思われます。

F前艦長の説明に対し、根拠のあいまいさに対する指摘が続出、審判官は「それは推測の世界ではないか。」と批判したと伝えられています。

「OO時OO分頃、いったんは“あたご”に対し、右舷灯(緑)を見せる態勢で艦尾方向に航過していた“清徳丸”が、突然右転し、左舷灯(赤)を見せるところを見た。」などの“新証言”ならばまだわかります。

しかし、F前艦長はこの航跡図は、「理論上、途中の経過はさておき、こういう可能性もあるのではないか。こうであってほしい。ならば、我が方の責任は小さい。」という主観が先立っているように思え、私も同じ立場ならば批判するかもしれません。

さて、この“あたご”ですが、別のニュースが伝えられました。昨日(9月14日)午前6時56分のことでした。高知県・沖の島の南南西約20キロの日本の領海内で、航行中の“あたご”が、約1キロ先の海面に潜水艦の潜望鏡と思しき物体が突き出ているのを発見したそうです。

“あたご”はただちに追尾を開始しましたが、間もなく見失ったそうです。防衛省はP3C哨戒機やヘリコプターなどで、依然、捜索・警戒活動を続けているとのことです。

専門家は中国の潜水艦の可能性を指摘しています。なお、たとえ領海内とはいえ、これを的確な“見張り”によって発見した“あたご”の“お手柄”は報じられず、事前に察知できず、みすみす領海侵犯を許した防衛能力の低さに批判が続出しているようです。

しっかりと見張りをせずに漁船と衝突し批判され、しっかりと見張りを行い潜水艦を発見してもほめられず、少々同情したい気持ちになって来ました。

なお、千葉県・犬吠崎の沖合の太平洋上で、福島県・いわき市の巻き網網漁船“第58寿和(すわ)丸(135トン)”の海難ですが、ますます潜水艦との衝突説が湧き上がって来そうな気がしています。



『★イージス艦海難、校長先生と“ダメ”生徒★』[2008年09月12日(金)]
今年2月19日、海上自衛隊のイージス艦“あたご”と、千葉県・新勝浦市漁協所属の漁船“清徳丸”が衝突、親子2人の漁船員が行方不明(後に死亡認定)となった海難の続報です。

昨日(9月11日)、第二回目の海難審判が、横浜地方海難審判庁で開かれました。是非とも傍聴したかったのですが、急な会議の予定を組まれ、叶いませんでした。

会議とは言っても、海上保安庁や国土交通省の各課をまわり、それぞれ小一時間程度の意見交換や打ち合わせ、終わってみれば、何も私がわざわざ出向くほどの案件ではなく、他の者に任しても良かったのですが、今さら致し方ありません。

さて、第一回目の審判では、“あたご”側は「大変責任を感じている」などと謝罪する一方、理事官(刑事裁判の検察に相当)側と全面的争う姿勢を示しました。

すなわち、理事官の「“あたご”側に避航義務がある状況下、清徳丸を避けることなく、見張り不十分なまま、自動操舵で航行を続けた結果、衝突に至った。」とする主張に対し、「そもそも、“清徳丸”とは衝突の危険はなかった。しかし、“清徳丸”が右転したことにより、衝突の危険が生じる見合い関係へと移行した。“清徳丸”側に原因がある。」と述べました。

昨日の審判では、“あたご”の前航海長で、衝突前の当直士官(当直グループの責任者)であったU三等海佐、衝突時の当直士官であったN三等海佐はそれぞれ、「(引継ぎが)不十分であった可能性が高い。」、「(前直者の引継ぎ内容を)“鵜呑み”にしていた。」などと述べ、落ち度があったことを認めたそうです。

また、“あたご”側の補佐人(刑事裁判の弁護人に相当)は、「“清徳丸”が右転さえしなければ、“あたご”の艦尾820メートルを通過した」とする主張を裏付ける証拠として、“あたご”のF艦長が作成したとする航跡図を提出したそうです。

昨日の尋問の中で、 衝突時の当直士官であったN三等海佐は、「(方位が落ちている/右方向に存在する物標の方位が、どんどん“あたご”の艦尾方向に変化し、衝突の危険性はないで)問題は無しとする、前直士官のU三等海佐の言葉に誘導され、漁船団の接近に気づくのが遅れた。」とし、自身の見張りの甘さを認めたとのことです。

前直士官のU三等海佐の引継ぎは、「(右前方に所在する漁船団の)方位は落ちている(どんどん、“あたご”の右舷を艦尾方向に変化して行き、衝突の危険性はない)。」という内容だったそうです。

前直士官のU三等海佐も、「(衝突のおそれれは無し、)と言い切るのは早計だった。」と述べるとともに、「(漁船団は航行中ではなく、)停泊しているものと誤認していた。」と説明したそうです。なお、誤認の原因については「うまく言えない。」と、口を濁したと伝えられています。

また、漁船団の数に対する認識について、前直士官のU三等海佐は、「ひとかたまりとして見ていたが、10隻近くいるという印象を持っていた。」と述べたのに対し、衝突時の当直士官のN三等海佐は、「(レーダーなどで確認した結果)3隻しか認識していなかった。」と述べ、双方異なる見解を示しました。

さらに、前直士官のU三等海佐は漁船団の動静確認方法を問われると、「(漁船団をレーダーで捕捉し、)画面上に印を付けたが、(衝突の危険は無いと判断してm)5分後には印を消してしまった。画面を“綺麗”するため、早めに消すのは私の好み。」と述べ、審判官に叱られる場面もあったと報じられています。

加えて、衝突時の当直士官であったN三等海佐は、「見張りはベストでなかった。」と認めた上で、清徳丸の僚船に対しても回避動作を取らなかった理由を尋ねられると、「(かえって)危険が生じると思った。」などと述べ、同じく審判官に叱られたとのことです。

以上は報道された内容から引用し、つなぎあわせたものです。船舶の運航については“素人”である記者が伝える報道ですから、特に印象的な証言内容を中心に取り立てることは認識しています。その点を考慮したとしても、あまりのレベルの低さに、ただただ呆れるばかりです。航海訓練所の実習生でも、もう少し“まし”かもしれません。

一部の外国船や内航船に、かなりレベルの低い船員がいることは、重々承知していました。しかし、最新鋭の海上自衛隊のイージス艦のエリート士官の技術レベルが、よもやこの程度であったとは、私も読みの甘さを大いに反省しているところです。

本日(9月12日)、第3回目の海難審判が開かれます。本日はF前艦長の尋問も行われ、自身が作成した独自の航跡図について、説明が行なわれる見通しです。

上司であったF艦長が独自に作成したという触れ込みの、“航跡図”とやら、どんな力作なのでしょうか。興味はあります。

しかし、“ダメ”な生徒がさんざん自分たちの学力のなさを世間にさらけ出した後、校長先生が出てきて、「それでも我が校は優秀なのです!」と力説したところで、ただただ“空しさ”だけが漂うのではないでしょうか。私は傍聴しないことにしました。


『★イージス艦衝突海難、なだしお海難との類似性★』[2008年09月11日(木)]
今年2月19日、海上自衛隊のイージス艦“あたご”と、千葉県・新勝浦市漁協所属の漁船“清徳丸”が衝突、親子2人の漁船員が行方不明(後に死亡認定)となった海難に関してのお話です。

(先ほどまで、編集中の寿和丸海難の記事と、混ぜこぜになっていました。失礼しました。編集し直しました。)

本日(9月11日)、この海難の第二回目の審判が、横浜地方海難審判庁で開かれます。前回に引き続き、前艦長や当直士官ら指定海難関係人(刑事裁判の被告に相当)に対する尋問が行われることとなります。 

私は出張のため、前回の審判を傍聴し損ねました。今日こそはと張り切っていたのですが、またもや、急な会議を招集され、願いは叶いそうにありません。

前回の審判では、“あたご”側は「大変責任を感じている」などと謝罪する一方、事故の原因は清徳丸側にもあるとする発言をし、理事官(刑事裁判の検察に相当)が申立書で指摘した事実関係について争う姿勢を示しました。

理事官側の「“あたご”側に避航義務がある状況下、清徳丸を避けることなく、見張り不十分なまま、自動操舵で航行を続けた結果、衝突に至った。」とする主張に対し、「そもそも、清徳丸とは衝突の危険はなかった。しかし、清徳丸が右転したことにより、衝突の危険が生じる見合い関係へと移行した。清徳丸側に原因がある。」とする主張を展開しました。

事実関係の一部を争うと捉えた方もいらっしゃるかもしれません。私はそうとは理解していません。「そもそも、事故の原因は清徳丸側にある。」という主張なのですから、全面係争と表現しても差し支えないでしょう。

本ブログをご覧の方はご承知のとおり、私はイージス艦だから悪い、漁船だから正しいなどの主観は一切持ち合わせていません。

たとえ、相手がイージス艦であろうとなかろうと、大きさの違いがどうであれ、あくまでも、動力船同士の衝突のおそれに関する規程など、全世界共通の航法規則(国際海上衝突予防規則、国内法では海上衝突予防法)の適用が基本であることを十分に認識し、客観的な視線で事故原因を究明すべきという立場です。

“あたご”と“清徳丸”の見合い関係は、海上衝突予防法に則り、“あたご”側に衝突回避義務が生じていた可能性が極めて高く、主因はあくまでも“あたご”側にあると私は思っています。

一方、海上衝突予防法に従う限り、“清徳丸”側にも責任の一端があるはずです。あえて数字で挙げるならば、“あたご”側に7、対して“清徳丸”側に3の過失があるものと判断しています。しかし、少なくと第一回目の海難審判での“あたご”側の主張は、8:2で“清徳丸”が悪いとする内容に匹敵します。

本ブログでも何度もお伝えしたとおり、去る3月21日、防衛省は今回の事故に関する中間報告を、「艦船事故調査委員会による調査について」としてまとめ、発表しました。

この報告書を読む限り、“清徳丸”の存在に関する“あたご”側の認識、少なくとも衝突の危険に関する認識は、衝突約1分前まで、あたごの当直員の脳裏にはなかったと思えます。

ところが、第一回目の審判での、“あたご”側の関係者の証言は、つなぎあわせると次のようになります。「(清徳丸に対する)連続動静監視は行なっていた。結果、“あたご”の船尾を無事かわすものと判断した。ところが、清徳丸は針路を右に転じ、“あたご”の進行方向に飛び出してきた。お前さんが悪い!」

前述の中間報告書では、“清徳丸”に関するものと断言できる動静情報について、視認当初から衝突に至るまでの、連続した証言が見当たりませんでした。

しかし、自身に有利なストーリーを組み立てたような理路整然としたレポートではないところが、かえって真実味があると私は判断していました。すなわち、“清徳丸”に対する認識が、衝突の直前からかなりはっきりしていることが、逆に今回の事故の真相を物語っているように思えました。

はっきり申し上げて、当直交代直後の5,6分の間、前直からの申し送りもあり、漁船団に対する衝突の危険についての認識は脳裏にはまったくなく、“ボー”としていたのです。早朝4時からの当直交代直後にはありがちなことです。私も遠い昔のこととは言え、今でもその気だるい感覚は、体で覚えています。

事故後、時間が経つにつれ、さまざまな情報を知るようになった状況下、一つのストーリーが自然と当事者に出来上がり、あたかも、事故当時、自分はそのようにしていたと思い込むことはよくあることです。虚言とはまた異なった人間の心理です。海難審判でもよく見られる現象です。

私は第一回目の海難審判を傍聴していません。そこで、私の理解に誤りがないのか、念のため旧知のT弁護士に確認してみました。T弁護士は第一回目の海難審判を傍聴していました。T弁護士も同じ考えであることを確認しました。

終始陳謝しておきながら、海難審判では一転、相手側に非があるとして、全面係争に近い状態で覆す。今回の海難審判における“あたご”側の主張展開は、20年前の潜水艦”なだしお”事故時とまったく同じです。

一昨日の私のブログ「歴史の繰り返しを防衛白書で読む」は、そのあたりを遠まわしにお伝えしたかったのです。



| 次へ
プロフィール


リンク集
http://blog.canpan.info/maikohinako/index1_0.rdf