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海洋汚染情報 −海の事件簿−
海上で起きた重大な汚染事件・事故について、独自の視点から鋭くメスを入れ、分析・解説する”海の社会部デスク”、その名も”元海の男”、職業”(さすらい派)研究員”による海の事件簿。
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『★五島の漂流物の正体とは?★』[2008年08月03日(日)]
昨日(8月2日)夜まで、沖縄県・八重山諸島の離島に出張し、インターネットが使えない状況下にあったため、本ブログの更新が遅れました。愛読者の皆様、お許しください。

出張出発日(7月31日)に更新したブログでは、“第58寿和丸”の海難原因に関し、漂流物との衝突の可能性如何を考察しました。

その中で、私の過去の経験談として、「(私は船乗りの現役時代、)何かのプラントの一部と思しき、長径20メートルにも及ぶ人口構造物の漂流を目撃したこともあります。」と記載しました。

実にタイミング良く、同日、長崎県・五島市沖では、中国文字が書かれた巨大な円筒形漂流物(長さ約32メートル、直径約4.4メートル)が発見され、大騒ぎとなりました。

口の悪い海事専門家の一人から、出張先の沖縄に連絡があり、「おまえが、自分のブログの信頼性を向上させるため、流したのではないか?」と言われました。もちろん、そんなことはありません。言っている方も冗談のつもりです。

さて、あの漂流物の正体ですが、化学プラントで使用される不活性ガス(窒素)の貯蔵タンクです。

引火性・爆発性の化学薬品を製造する過程で、当該化学薬品の引火・爆発を防止する観点から、プラント内に存在する、酸素を含む空気を排除する必要に迫られることがあります。

大気中に存在する空気の代わりに、酸素濃度がより低い、“不活性ガス”と称するものを、プラント内に“ぶち込み”、引火・爆発を事前に防止するのです。

ボイラーなどで発生した燃焼ガスの不純物を除き、浄化したものを、不活性ガスとして使用する場合もあります。

しかし、製造する化学薬品の品質向上を図り、かつ、防災の観点から酸素の存在を“ゼロ”に近づけるためには、純正“窒素”が不活性ガスとして使用されます。

今回の円筒形の漂流物は、不活性ガス(窒素)の貯蔵タンク、すなわち化学プラントの一部です。


おそらく、中国南部の臨海部、または河川流域の化学プラント製造現場において、“バージ(いかだ)”などに乗せておいた資材が荒天などで流されたものではないでしょうか。

あるいは、バージに乗せ、海上などを輸送する過程で、同じく荒天などの影響で流されたものではないでしょうか。

いずれにせよ、中国の目覚ましい経済・工業発展の一部を垣間見る、象徴的な出来事と言えましょう。

今回、この漂流物に関し、マスコミから私に対し、解説の依頼はありませんでした。仮にあったとしたら、私は以上のように答えるつもりでした。



『★水難に注意!★』[2008年07月22日(火)]
“海の日”を含む三連休、皆さんはどのように過ごされたでしょうか。全国各地で猛暑が続く中、恐れていた水の事故が相次ぎました。

昨日(7月21日)正午前には、三重県・伊勢市沖の海上から、「潜水した仲間二人が戻って来ない。」旨の“118番通報”が、第四管区海上保安本部(名古屋市)に寄せられました。

約1時間半後、水深2、3メートルの海底で、消波ブロックに挟まれた状態の男性二人(67歳・52歳)が発見され、救助されたものの死亡が確認されました。

鳥羽海上保安部などの調べによると、この二人は通報者の男性が操縦するプレジャーボートに乗り沖合に出て、素潜りによる貝採りをしていたとのことです。一人が戻らないため、もう一人が探しに潜り、結果、二人とも溺れたようです。

鳥羽海上保安部のK警備救難課長とは、先週末に電話で会話を交わしたばかりでした。「このところ、比較的大きな海難は一件だけ。しかし、今後の水難事故の発生が心配」などと話したばかりでした。

また、福井県・敦賀市の海水浴場でも正午頃、遊泳中の女性(60歳)が水死しました。同じく、福井県・越前町の沖合でも、スキューバダイビング中に行方不明になった男性(36歳)の水死体が発見されました。

一方、21日午後1時過ぎ、熊本県・天草市の海岸では、遊泳中の男女5人が沖合に流されたものの、家族からの通報を受けた漁業者が漁船に乗って救助に駆けつけ、全員無事に助け上げられました。

118番通報等による公的機関による救助の重要性と共に、忘れてはならないのが、海水浴場で遊泳客の監視を行うライフセーバーや、今回の救出劇で活躍したような地元の漁業者の存在です。

遊泳は自己責任が基本です。しかし、実のところ遊泳客は、地元の海を熟知したこうした皆さんの存在により、知らず知らずのうちに、水難による命の危険から守られているのです。忘れてはなりません。本当に有難いことです。



『★あれから20年、悲風吹き荒れる浦賀水道!★』[2008年07月10日(木)]
間もなくあの悲劇から20年目の節目を迎えようとしています。今から丁度30年前の1988年(昭和63年)は、新時代の海洋レクリェーションの幕開けの年でもありました。

当時、日本では海洋レクリェーションに対する国民の関心が高まり、いずれ欧米並みの状況となることが予想されました。

日本初の豪華外航客船2隻が相次いで建造され、また、東京湾や瀬戸内海では、景色を楽しみながら食事を楽しめる、豪華なクルージング・シップやレストラン・シップが登場したのもこの頃です。

遊漁船の世界も然りでした。かつての遊漁船は、一部のマニアを対象とした小船というイメージでした。しかし、こうしたイメージを一新した大型遊漁船が登場したのです。

“第一富士丸(154総トン)”は、かつての漁船を改造した大型遊漁船で、コックやマリン・スチュアーデスを乗船させるなど、旅客船並みのサービスを“売りもの”にしていました。

夏休みが始まったばかりの7月23日、“第一富士丸”には大手商社I商事、そして、その関係会社の社員や家族など、夏休みの釣行を楽しみにした大勢の乗客が溢れ返っていました。

同日午後3時38分頃、東京湾内の神奈川県・横須賀港・北防波堤灯台の東3キロの海上で、第一富士丸は海上自衛隊の潜水艦“なだしお(排水量2,200トン)”と衝突しました。

“なだしお”は伊豆大島沖での艦隊訓練を終えて横須賀基地に帰港途中で、“第一富士丸”は横浜を出航し釣行の目的地である伊豆大島海域を目指していました。

第一富士丸は衝突の2分後に沈没しました。結果、乗員・乗客47名のうち30名が死亡、17名が重軽傷を負う大惨事となりました。

犠牲者には幼い子供も含まれていました。衝突当時、乗客の大部分は船首部に位置するサロンで寛いでいたのです。サロンには出入口が左舷側に一ヶ所しかなく、“第一富士丸”が左舷側を下にして沈没したため、多くの乗客が避難する間もなく船体と共に沈んでいったのでした。

海難審判は“なだしお”側の回避行動の遅れや操舵号令の伝達不備、“第一富士丸”側の相手船に対する動静判断の不適切などが原因であると裁決しました。


先週末の日曜日(7月6日)、この事故が発生した浦賀水道に面した観音崎で、遺族や海上自衛官などによる慰霊祭が行われました。参列者は犠牲者の冥福を祈り、忌まわしい海難の再発防止を改めて願ったとのことです。

遺族会の代表幹事のUさん(73歳)は、「二度と悲惨な事故がないようにとの願いが届かず、イージス艦による事故が発生した。夢と希望があった尊い命を失い、誠に残念だ。事故の再発防止を願い、風化させないことが残された我々の任務です。」と語ったそうです。

先ほど述べたとおり、“第一富士丸”の乗客は大手商社I商事、そして、その関係会社の社員や家族などでした。

私の自宅の真向かいには、昨年まで、I商事のK社長が住まわれていました。10年ほど前、転居されて来た際には、Kさんの小学生(当時)のお嬢さん曰く、「私のお父さんは部長です。」と言っていましたが、それから破竹の勢いで出世街道を歩み、最後は7人抜きで社長に抜擢されたのが4年前のことでした。

奥さんをはじめ、皆さん実に気さくな方々で、私たちと家族ぐるみでお付き合いをさせていただきました。“上等兵(中二の上の娘)”は、小学校一年生になりたての頃、Kさんのお嬢さんに手を引かれて通学していました。

ある日、Kさんと散歩でご一緒した際、私の職業意識が突然芽生え、この海難の話を持ちかけたい衝動に駆られました。しかし、なかなかタイミングがつかめず、最後まで、仕事とは関係のない世間話しかしませんでした。私たち家族にとって、KさんはI商事の社長ではなく、大切な隣人です。仕事の話はしなくて正解でした。

昨年転居されてからも、時々、妻は電話で連絡を取り合っているようです。Kさん、石神井が懐かしく思われた際には、是非、遊びにいらしてください。家族一同、お待ちしています。


『★私よりも上手? 予知能力海難発生!★』[2008年07月07日(月)]
昨日のブログでお伝えしたとおり、私は今日から一泊二日の予定で入院します。衝撃波による結石の粉砕術を受けるためです。

さて、本日(7月7日)から北海道洞爺湖サミットが開幕されます。会議の内容もさることながら、やはり心配なのはテロなどの妨害活動です。

無論、警察をはじめ海上保安庁などの関係機関が、万全の警備体制を敷いているのですから心配はないと思います。しかし、人一倍心配性の私にとって、杞憂に終わってくれれば有難いとは思いつつ、ついつい心配でならないのです。

本日、私が入院するため、“上等兵(中にの上の娘)”は、先ほど一人で都心の学校に出かけてゆきました。心配性の“オヤジ”ゆえ、校則違反であることは重々承知しつつ、今回に限り、携帯電話を彼女に持たせ、「人込みはできるだけ避け、早い時間帯に通学し、早い時間帯に帰宅しなさい。」と指示しました。

思い起こせば10数年前、東京で発生した地下鉄サリン事件の際、“虫の知らせ”なのか、朝から通勤に向かうことをためらい続け、ついには再び布団にもぐりこみ、欠勤してしまいました。ずる休みです。

当時、私が霞が関駅までの通勤に、毎日利用していた池袋駅発の地下鉄が、サリンによるテロ攻撃のターゲットになったことを知ったのは、昼になってからでした。

同じ車両で時々顔を見かけた霞が関の某官庁の職員も、当日被害に遭い、病院で治療を受けたと後日聞きました。自身の運の良さに正直驚きました。

予知能力とまではいかないものの、心配性の心配も、数を重ねることにより、時に正しい結果を導き出すこともあるようです。

さて、予知能力と言えば、世にも不思議な海難が昨日(7月6日)発生しました。昨日午前四時半ごろ、香川県坂出市の貨物船“第十一エーコープ(199総トン)”が、静岡県御前崎市沖を航行中、戸田漁協所属の巻き網漁船“第二十三協栄丸(19総トン)”の漁具を引っ掛け、同船を転覆させました。

その結果、第二十三協栄丸の船長(37歳)が海中転落しましたが、付近にいた僚船によって無事救助され、事なきを得ました。

実は第十一エーコープ、昨日のブログで取り上げた“お騒がせ”の張本人なのです。

すなわち、第十一エーコープは一昨日(7月5日)午後4時ごろ、濃霧の東京湾で「プレジャーボートと衝突したようだ。乗員三人が海に投げ出されたかもしれない。」と第三管区海上保安本部(横浜)に連絡をしたあの船なのです。

一時、騒然となりましたが、横須賀海上保安部が調べたところ、貨物船に衝突の痕跡はなく、捜索の結果、被害船に関する情報も見当たらないことから、同船の勘違いということで決着し、同船は再び航海を開始したその直後の今回の事故だったのです。

正に最初の“幻の海難”は、同船の“予知能力”が成した技だったのです。世にも珍しい海難事例となりました。

『★へりおす海難とパネル展示会★』[2008年05月29日(木)]
まだ、五月だと言うのに東京は雨模様、ひとあし早く“梅雨”の訪れを迎えたかのような、鬱陶しい空気が漂っています。毎年この時期になると、私は決まってあの海難を思い出します。

太平洋の波浪が荒々しく押し寄せる断崖の岬、福島県・鵜ノ尾埼の片隅に、石造りの慰霊碑が建立されています。海洋調査船“へりおす(50総トン)”の乗組員を偲ぶ碑です。

“へりおす”は当時新鋭の海洋調査船として建造されました。船長をはじめとする9人の乗員は、海洋調査に対する使命感に満ち溢れ、いずれも未来を夢見た20〜30代の若者たちでした。彼らはへりおすの沈没によって、全員が殉職したのです。

1986年(昭和61年)6月16日、海洋調査船へりおすは、母港である静岡県・清水港から北海道・羽幌港に向かう途上、福島県沖合の海域に達しました。北海道での魚礁調査および一般公開を行うためで、建造されたばかりの“へりおす”にとって、これが事実上の初仕事でした。

当時、現場海域は天候悪化の傾向があったのですが、“へりおす”はそのまま北上を続けました。途中、自社の運航管理者に対し、「これ以上天候が悪くなれば最寄りの港へ避難するつもりである。」旨の臨時連絡を行っています。

運航管理者は、「前線が近づいているのでなるべく避難するように。」と助言したそうです。“へりおす”は同日午前5時38分ごろ、福島県・相馬市・鵜ノ尾埼の沖合海域において、遭難信号すら発信しないまま消息を絶ったのでした。

翌日、付近を通りかかったフェリーボートが、無人で漂流している“へりおす”の救命イカダを発見しました。海上保安庁の巡視船などによる捜索が行われ、福島県・相馬市・鵜ノ尾埼の東方31海里(約57km)、水深約215メートルの海底に沈んでいるへりおすの船体が発見されました。乗員7名が死亡、2名が行方不明となりました。

“へりおす”の海難は生存者がなく、また、目撃情報もないため、原因追求は困難を極めました。海難審判では、海底から引き揚げられた船体の検証結果などから、甲板上の開放部から海水が機関室内に流れ込み、電源が絶たれて操舵が不能になり、さらに波浪に翻弄されて横転、ついに沈没に至ったものと裁決されました。
 
四面を海で囲まれた日本にとって、海運や漁業は国民生活の大切な命綱です。海洋基本法が制定され、海洋に対する国民の意識が高まるなか、海上輸送や漁業にはつきものの“海難”という悲しい現実を見つめ直し、海洋のもたらす様々な恩恵を再認識すべきではないでしょうか。

“海難”は単なる交通事故とは性格が異なります。発生当時の社会情勢や世相を映し出す“鏡”でもあるのです。悲惨な“海難”を直視し、その歴史を振り返れば、当時の社会情勢や世相が垣間見えてきます。

昨日、知人から得た情報によると、(社)日本海難防止協会は、創立50周年を迎えるにあたり、戦後日本の代表的な海難を振り返る、パネル展示会を以下のとおり開催するそうです。私も今から、とても楽しみにしています。

1.名称:
「戦後海難の歴史と再発防止への取り組み」
主催:社団法人 日本海難防止協会
共催:財団法人 日本海事科学振興財団
後援:海上保安庁、産経新聞社

2.場所:
船の科学館・羊蹄丸、「アドミラルホール」
※ ゆりかもめ、「船の科学館」駅下車(新橋駅から17分、豊洲駅から14分)

3.日時:
2008年8月1日(金曜日)〜8月31日(日曜日) AM10:00〜PM5:00

4.入場料
無料

5.お問い合わせ
 03(3502)2231 日本海難防止協会


『★今日は何の日? 室蘭港の大火災★』[2008年05月23日(金)]
43年前の今日、流出・燃焼した油の量から言って、日本最大の油タンカーの災害が発生したことを皆さんはご存知でしょうか。北海道・室蘭で発生したこのタンカー火災は、約1ヶ月にわたり、消すことができませんでした。

1965年(昭和40年)5月23日、室蘭港はいつもと変わらぬ爽やかな朝を迎えました。上空には抜けるような青い空が広がり、朝から気温はぐんぐんと上昇、日中の最高気温はこの時期の北海道としては大変珍しく、摂氏20度を越え、ポカポカ陽気となりました。

朝7時前、ノルウェー船籍の原油タンカー“ヘイムバード(35,355総トン)” は水先人を乗せ、原油の揚荷役のため、沖合いの錨地から室蘭港内の製油所の桟橋に向かっていました。

やがて、桟橋に達したヘイムバードは、左舵をとって回頭をはじめました。しかし、誤って船首右舷部を桟橋の角に激突させたのです。午前7時10分のことでした。

桟橋の角は、まるで鋭利な刃物のように、ヘイムバードの外板を切り裂きました。外板には破口が生じ、そこから原油が噴出しました。流出した原油は、ヘイムバード周辺の海面にまたたく間に広がりました。

午前7時20分ころ、原油の流出は900キロリットルばかりで、いったん止まりました。揮発性の高い原油の流出です。付近海面には原油から発せられた引火性のガスが漂い、まるで“もや”がかかったような状況となっていました。

水先人は一刻も早く本船を係留させ、原油を陸上タンクに揚げようと考えました。そこで、作業船の港隆丸に対し、 ヘイムバードから係留ロープを受け取り、それを桟橋に送るよう指示したのです。

港隆丸 が係留ロープを桟橋に送ろうとしたその時でした。何らかの発火源が原油ガスに引火し、海面火災が発生しましたた。直後、火炎は港隆丸を包み込むとともに、海面を走るように燃え広がったのです。

あっという間にヘイムバードにも達しました。ヘイムバードのタンクが大爆発を起こしました。ヘイムバードの乗組員8名と港隆丸の乗組員2名の計10名が死亡し、3名がやけどを負いました。

ヘイムバードは桟橋近くの浅所に船尾船底を乗り揚げ、動けなくなりました。やがて、火炎はヘイムバード全体を包み込みました。

その後、数回にわたり船体の各タンクが爆発しました。流出・燃焼した原油の量は56,000キロリットルに達し、火災は27日間も続いたのでした。

今日の室蘭港はうす曇、日中は晴れ、20度近くまで気温が上昇し、ポカポカ陽気となることが予想されています。あの日の天気ととても似ています。43年前の今日起こった出来事を、果たしてどれだけの室蘭市民が思い出すのでしょうか。

『★メイストームの悲劇★』[2008年05月13日(火)]
現在、八丈島の南の海上を台風2号が北東へ進み、関東地方は雨模様、千葉県の太平洋岸には波浪警報が発令されています。大きな海難が起きないことを祈っています。

今回の荒天は台風がもたらしたものですが、毎年4月から5月にかけて、台風並みに発達した低気圧が日本列島を通過し、海・山は大荒れとなり、事故を誘発するすることがしばしばあります。

老練な船乗りたちは、大自然に対する畏怖の念を込め、これを“五月の嵐(メイストーム)”と呼んでいます。彼らが“メイストーム”について語るとき、必ず引き合いに出すのが、54年前のあの出来事です。

1954年(昭和29年)5月9日のことです。夜半から翌10日早朝にかけて、優勢な温帯低気圧が日本海側から北海道を東進して行きました。

太平洋側に抜けたとき、低気圧の勢力は952ヘクトパスカルに達し、道東沖の風速は毎秒30メートル、波高は15メートルを越えていました。台風並み、いやそれ以上の大時化(おおしけ)、正に“五月の嵐(メイストーム)”です。

季節はちょうど、サケ・マス流し網漁業の最盛期でした。北海道・花咲港の東方海上には、約1,900隻の漁船が出漁していました。

終戦後、進駐軍の方針で禁止されていた日本の遠洋漁業は、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ平和条約を機に解禁されていました。

1954年(昭和29年)当時、日本のサケ・マス漁船は、沿岸に限定されていた魚場を、徐々に沖合いに拡張させていく過渡期にあったのです。

しかし、漁船の船型がおぼつきませんでした。ほとんどの漁船が、沿岸での漁のために建造された小さな漁船だったのです。それでも、漁船員は沖合いの厳しい気象条件のもと、サケ・マス漁に果敢にも挑んでいたのです。

また、当時の気象情報システムは、21世紀の現在とは比べようもないほど粗末なレベルでした。しかも、30総トン未満の漁船の約70%までが通信設備を持たず、気象情報を入手することができなかったのです。

無防備なサケ・マス漁船の集団に、“五月の嵐(メイストーム)”は容赦なく襲いかかりました。暴風や高波が、小さな漁船を次々と飲み込んでいったのです。

その結果、なんと409隻の漁船が一度に遭難する集団海難へと発展したのでした。死者・行方不明者の数は計399名にも達しました。



『★続く死亡海難、救命胴衣不着用!★』[2008年04月21日(月)]
救命胴衣不着用による、漁業者の死亡海難が続く中、先週末、またしても同じような悲劇が連続して発生しました。

まず、先週金曜日(4月18日)午前4時30分ころ、岩手県・大船渡市の門之浜漁港の沖合約2キロの海上で、漁船“山田丸(1・3総トン)”が転覆、付近に船長のYさん(58歳)とYさんの妻(50歳)の2人が漂流しているのを僚船が発見し、間もなく救助しました。

Yさんは病院に搬送されましたが、死亡が確認されました。一方、Yさんの妻は怪我もなく、無事でした。

Yさん夫婦は深夜2時ころ、養殖ワカメの収穫のため出港しましたが、折からの強風雨のため、遭難したものと見られています。

死亡したYさんは救命胴衣を着用しておらず、怪我もなく無事助かった妻は着用していたとのことです。男女間の肉体的な特徴の違いもさることながら、救命胴衣の有無が生死を分けた典型的な事例と見るべきでしょう。

報道によれば、漁協関係者は「出港時、Yさん夫婦が救命胴衣を着けているのを僚船が見ていた。Yさんは作業の邪魔になるなど、何らかの事情で脱いでしまったのだろう。」と悔やんでいたそうです。

出港時に着用していても、肝心の沖合で脱いでしまえば、“元も子も”ありません。残念でなりません。今回の事故は、着用さえしていれば、同乗者が怪我もなく生還したことから、かなりの確率で命は取り留めたケースです。

落水後、着衣のまま、救命胴衣を着けずに、自身の体を荒れた海上で浮上させるには、いったいどれだけの体力を必要とするのか、冷静に考えてみれば誰でもわかるはずです。

また、土曜日(4月19日)の午後3時前、同じ岩手県・山田町の船越漁協所属のホタテ漁船“宝亀丸(ほうきまる、2.3総トン)”の家族から、海上保安部に対し、同船が養殖施設に向ったまま帰港しない旨の通報がありました。同船には船長のSさん(72歳)が一人で乗りこんでいました。

捜索を開始して間もなく、同日午後3時半前、“宝亀丸”の僚船が、漁港の沖合1キロの海上で、ホタテの養殖棚にロープで体を結び、浮いているSさんを発見しました。残念なことに、Sさんはすでに死亡していました。やはり、Sさんも救命胴衣を着けていませんでした。

“宝亀丸”の船体は付近海底で発見されました。当時、現場海域には強風、波浪、濃霧注意報が出されていました。

“宝亀丸”は強風浪のために転覆、Sさんは海に投げ出され、近くのホタテ棚まで泳ぎ着き、ロープで体を固定したものの、体力が尽きたものと思われます。このケースも、救命胴衣さえ着用していれば、命を取り留めていた可能性が捨て切れません。

以前にもお話したとおり、最近は、漁協が一丸となって、救命胴衣の着用キャンペーンを行なっている事例が珍しくありません。

しかし、せっかく、出港時には着用していることを確認できても、沖合では人目に触れることはありません。結果、漁が佳境に入ると、邪魔になり、脱いでしまうなどのケースが後を絶ちません。その典型が、“山田丸”のY船長の事例なのです。

「自分だけは大丈夫!」と思う過信こそ、死亡海難への”第一歩”であることを、ゆめゆめ忘れてはなりません。


『★日光丸の遭難、事故原因は?★』[2008年04月18日(金)]
4月5日の未明、青森県の陸奥湾の沖合い約1,600メートルの海域で、ホタテ漁を行っていた、青森市漁協・久栗坂支所所属の漁船“日光丸(5・1トン)が沈没し、船長ら8人の乗組員のうち6人が死亡、2人が行方不明となっている事故の続報です。

昨日(4月18日)のブログでもお伝えしたとおり、4月16日、“日光丸”はクレーン台船などにより、水深約23メートルの海底から、引き揚げられました。外から見る限り、陸揚げされた“日光丸”の船体には目立った損傷は見当たりませんでした。

ただ一つ、異様な光景が見られます。ホタテ籠の回収などに使用するクレーンの、長さ約8メートルのブームが、斜め前方に向って、空高くそびえたっているのです。

ブームは操舵室前方を支点とし、左舷船首部分に向って先端がそびえ立っています。では、“日光丸”はクレーンを使用し、何らかの作業を行っている最中に遭難したのでしょうか。

作業を行っていたならば、ブームの先端部から出ている吊り上げ用のワイヤーロープ、そして、さらにその先端に位置するフックは、垂直方向に垂れ下がっているはずです。

しかし、報道を読む限り、ブーム先端から出ているワイヤーロープは、ブームの下部に沿って船尾方向に戻り、フックと共にブームの支点部分に固縛されていたようです。

つまり、ブームだけは使用時の状態で左前方上空に向ってそびえ立ち、ワイヤーロープとフック類は不使用時の状態のまま、固定されていたらしいのです。

「クレーンは使用していなかった。しかし、沈没時のショックで、ブームがそびえ立ってしまった。」という意見もあるかもしれません。

ところが、“日光丸”のクレーンの動力源は油圧ポンプとのことです。仮に、衝突時のショックで油圧系統が破壊され、同時にブームが移動してしまった場合、引き揚げ時、配管内の油圧を保つことはできません。したがって、ブームは重力によって、自然に下方に下りてしまいます。

しかし、“日光丸”のブームは、海底から引き揚げられた今も、重力に逆らい、高々とそびえた状態のままなのです。つまり、クレーンの油圧系統は損傷を受けず、配管内の油圧は、沈没前の状態に保たれたままなのです。油圧は抜けていないのです。

“日光丸”は沈没の瞬間、クレーンのブームを高々と立てていたのです。しかしながら、吊り上げワイヤーとフックは、沈没の瞬間、定位置に固縛されたままだったのです。

何を意味するのでしょうか。“日光丸”はクレーンの準備をしている最中だったのです。ワイヤーを緩めながら、徐々にブームを伸ばし前方上空に掲げ、今正にワイヤーとフックの固縛を緩めようとした瞬間、突風か大波の直撃を受け、バランスを崩し転覆、そのまま海底に沈んだのです。

油圧系統が破壊されなかったため、遭難の瞬間のクレーンの使用状況は、そのまま再現されたと言うわけわけなのです。

突風や大波の状況下、重量物であるクレーンのブームを上空に掲げる行為は、船体の重心を上方に移動させることとなり、復元性を著しく損ないます。このあたりが、事故の原因として垣間見えてきます。



『★ホタテ漁船遭難事件、救命胴衣の魅力★』[2008年04月14日(月)]

先日(4月5日)未明、青森県の陸奥湾の沖合い約1,500メートルの海域で、ホタテ漁を行っていた、青森市漁協・久栗坂支所所属の漁船“日光丸(5・1トン)が遭難した事件の続報です。

この事故では、船長ら8人の乗組員のうち6人が死亡、2人がいまだに行方不明となっています。漁協は一昨日(4月12日)、中断していたホタテ漁を再開することを決定しました。天候さえ良ければ、予定どおり、本日(4月14日)から、ホタテ漁が再開されているはずです。

既に“日光丸”の沈没船体の所在は確認され、海上保安庁や地元漁協による捜索活動が続けられてきました。

しかし、悪天候などに邪魔され、捜索は難航を極め、一週間が経過しても、残る2人の発見には至りませんでした。

そのため、事故から一週間後の4月12日、青森海上保安部などで構成される対策本部が解散され、事実上、捜索の打ち切りが決定されたのです。苦渋の決断でした。なお、“日光丸”の船体の引き揚げについては、今後、漁協が業者と協議し、日程を決めるとのことです。

また、報道によれば、対策本部による最後の会議の席上、海上保安庁から漁協に対し、「亡くなられた6人は救命胴衣を着けていなかった。はなはだ残念である。」との発言があったそうです。

漁協では、全員着用の徹底を図るため、既に救命胴衣の追加発注を行い、間に合わない分に関しては、組合内で貸し借りをして間に合わせるとも報じられています。

先週、4月1日から、「船舶職員及び小型船舶操縦者法」の一部が改正され、航行中の小型漁船に一人で乗船して漁労に従事している場合、救命胴衣の着用が義務付けられました。

しかし、今回の“日光丸”のような、複数が乗り組む漁船の場合、救命胴衣着用の強制規程には至っていません。

多くの漁協が、救命胴衣の重要性を真摯に受け止め、自主的な着用キャンペーンに取り組む一方、いまだ漁業者には、「こんなものを着けていては、機敏に動けない。漁の邪魔だ!」とする考えが潜在するのも事実のようです。

せっかく、出港時には着用していても、いざ、漁が佳境に入ると、邪魔になり、脱いでしまうなどの事例も見受けられるとのことです。救命胴衣の着用により、救命率が格段に向上することは、漁業者ならば、誰もが知っているはずです。しかし、いざ洋上で漁が始まると、完全徹底され切っていないのが、悲しいかな現状なのです。

ひとたび、海難が起きた場合、尊い命が失われるばかりか、多くの僚船が捜索にあたるため、貴重な漁期を逃すことにもつながります。

こうしたことを考えると、救命胴衣の着用は漁業者の常務として、ごく自然に受け入れられて然るべき行動です。しかし、自身が海難の不運に見舞われるなど、漁業者の誰もが考えていません。いや、考えたくもありません。「自分だけは大丈夫!」と思うのが人の常なのです。

こうしたこともあり、せっかくのキャンペーンにもかかわらず、救命胴衣着用の徹底がなされないようなのです。

救命胴衣のメーカーでも、作業の邪魔にならない、できる限り簡易な救命胴衣の開発を進めてきました。漁業者などを対象とした、“作業合羽”と一体化したような製品も売り出されています。真剣に探せば、作業性を損なわない、魅力ある良い品が見つけられると思うのですが。



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