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海洋汚染情報 −海の事件簿−
海上で起きた重大な汚染事件・事故について、独自の視点から鋭くメスを入れ、分析・解説する”海の社会部デスク”、その名も”元海の男”、職業”(さすらい派)研究員”による海の事件簿。
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『★伊豆大島の大噴火と青春の思い出★』[2008年11月12日(水)]
今から35年も前のこと、高校一年生の夏休み、私たち同級生三人組は、東京・竹芝桟橋を出港し、生まれてはじめて、子ども達だけの泊りがけ旅行に出かけました。

行く先は伊豆大島、誰が提案したわけでもないのですが、“島”という言葉が発する何とも神秘的なイメージが、子ども達の冒険心を大いに掻き立てたのでしょう。

事前調査など一切なし。したがって、伊豆大島に対し、あたかも冒険小説に登場しそうな無人島をイメージしていた“悪ガキ”でしたが、行ってみれば何のことはない、船着場には多くの土産店が並び、海水浴場には人が溢れかえり、普通の観光地と大差ないことにやっと気付いたのでした。

「来年は三宅島にしよう!」、当時の高校生らしい単純な発想により、さほどの落胆もなく、二泊三日の旅行を大いに楽しむことができたのでした。

そう言えば、最後の晩、港の岸壁で夜釣りに興じていたところ、私たち三人の後方をフラフラと通過していった一台の乗用車が、ノーブレーキであっという間にそのまま海中に転落、付近の釣客らと共に救助したことを思い出しました。

乗っていた若者二人は、大した怪我もなく無事でした。当時、エアコンが装備されていない乗用車は珍しくはありませんでした。転落した乗用車もエアコンが未装備で、真夏の夜だったため、両サイドの窓を全開にしていたことが幸いしたのです。

“ゴー”という何とも不気味な濁音を響かせながら、私たちの目の前で、乗用車はものの数十秒でみるみる水没してゆきました。

「人は本当に乗っているの?」と、一瞬考えたのですが、助手席側の開いた窓から“ニョキ”と差し出された白い手首を見て、私はふっと我に返り、条件反射的にしっかりと握りました。

悪ガキ二人は転落しないよう、私の腰にしがみ付いていました。若者の手が思いのほか冷たかったことを、今でもはっきりと覚えています。もう一人、ドライバーは自力で脱出したところを、果敢にも着衣のまま海中に飛び込んだ漁業者風の地元男性数名に、救出されたと記憶しています。

転落から約10分、すべての救出劇が終わった頃、警察車輌が慌しく駆けつけました。その頃には、現場は野次馬でごった返し、私たちは蚊帳の外に出されてしまいました。現場を退散し、すごすごと民宿に戻ってゆきました。

少なくとも一人を救助したのは私たちなのに、人命救助で表彰されることはありませんでした。それよりも、騒動の最中、民宿から借りた釣竿を海に流してしまい、何と言い訳をすべきなのかが、私たちにとっては深刻な問題だったのです。今考えると、何とも“うぶ”な高校生でした。

良い話もありました。民宿にアルバイトに来ていた高校生の女の子と友達になり、その後、しばらく文通が続きました。いいですか“文通”ですよ。いまでは死語となってしまいましたが。私にとって伊豆大島は青春の思い出の島なのです。

時は巡り13年後の1986年(昭和61年)、私はアジア・北米東岸間の航路に従事する新造コンテナ船の三等航海士として乗船していました。パナマ運河を経由し太平洋を横断、東京湾への入域に向け、間もなく伊豆諸島に達しようとする時、大きなニュースが飛び込んできました。

11月21日午後4時15分、突然の大音響とともに、伊豆大島・三原山が噴火したのです。209年ぶりとなる大噴火でした。

噴火口から湧き出たオレンジ色の溶岩流が刻々と人家に迫る中、もはや島内に避難場所を探す余裕はありませんでした。

意を決し、空前の脱出作戦が行なわれることとなったのです。約1万人の島民らは、到着した海上保安庁の巡視船艇、自衛艦、旅客船、漁船などに収容され、次々と島を脱出してゆきました。

一人の犠牲者を出すことなく、最後の避難船が島を脱出したのは、大噴火から約13時間30分が経過した翌11月22日の早朝のことでした。作戦は見事に成功したのです。

私たちのコンテナ船が伊豆大島沖を通過したのは、それから数時間後のことでした。噴火口から湧き出す溶岩流や噴煙を眺めながら、若い三等航海士は、青春時代の思い出に浸ったのでした。

伊豆大島の大噴火から、間もなく22年の年月が流れようとしています。一度、伊豆大島に出掛けてみたくなりました。


『★第五福竜丸の被曝とゴジラ映画の思い出★』[2008年11月07日(金)]
1954年(昭和29年)3月1日未明、 ”第五福竜丸(140総トン)”は、マーシャル諸島の近海でマグロ漁を行なっていました。

突如、乗組員は夜空に輝くまばゆいばかりの閃光と、巨大なキノコ雲を目撃しました。アメリカがビキニ環礁で行なった水爆実験でした。

当時、第五福竜丸はアメリカが設定していた危険水域外で操業を行なっていたのでした。第五福竜丸は危険と判断、この海域からの脱出を試みました。

しかし、一度仕掛けたマグロの延縄(はえなわ)の収容には、かなりの時間を要します。やがて、灰状の物質が降り注いできました。いわゆる、“死の灰”ですた。

第五福竜丸は不運にも、数時間にわたり、“死の灰”を浴び続け、乗組員23名全員が被曝しました。この実験によって“死の灰”を浴びたのは、第五福竜丸だけではありませんでした。数百隻にのぼる漁船の乗組員、延べ2万人以上が被曝したとみられています。

水爆の威力がアメリカの予想以上であったため、安全区域にいたはずの多くの船舶が被曝したのです。しかし、第五福竜丸の被曝状況は最悪でした。

やがて、焼津港に戻ってきた第五福竜丸の乗組員は、病院での診断の結果、自分たちが原爆症に罹患していることを知りました。

第五福竜丸の船体は封鎖され、漁獲物のマグロは廃棄、東京・築地市場の一角に埋められました。この海域で操業していた他の漁船でも、汚染された漁獲物は“原爆マグロ”の烙印を押されて大量に廃棄されました。日本中は大騒ぎとなったのでした。

第五福竜丸の乗組員は隔離病棟に収容され、ただちに手当が施されました。治療の甲斐あって、他の乗組員たちが回復する中、唯一、比較的年配(当時40歳)のK通信長の容態だけは徐々に悪化していきました。

そして、被曝から半年後、K通信長は家族や同僚に見守られながら「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と訴えた後、静かに息を引き取ったのでした。

日本国内で大きな反核運動が展開されました。また、食に対する不安感から、魚類全般の消費量が極端に落ち込んだのでした。

K通信長の無念の死から2ヶ月後の1954(昭和29)年11月、映画「ゴジラ」が公開されました。
ひとことで言えば、封印され休眠状態であった太古の巨大生物が、水爆実験によって目覚め日本に上陸、戦後復興から間もない首都・東京を容赦なく破壊し、焼き尽くすという内容の娯楽大作です。

臨場感溢れる特撮シーンもさることながら、人々はゴジラによる東京の破壊行為を大東亜戦争時の非人道的な無差別爆撃に重ね合わせ、また、ゴジラを目覚めさせた水爆実験を第五福竜丸の事件に結び付けました。

こうしたこともあり、子供ではなく、多くの大人たちが映画館を訪れ、自身の戦争体験などを思い起こしたのでした。映画は空前の大ヒットとなりました。単なる今の特撮怪獣番組などとは性格は異なり、社会派映画と称しても良いのではないでしょうか。

無論、私は生まれていませんでしたので、封切りには間に合いませんでした。しかし、小学校低学年の折、夏休み特集のテレビ放映でこの映画に初めて接しました。

その頃、ゴジラ映画はシリーズ物となり、私も親にねだっては、何度か見に行っていたのですが、1954(昭和29)の初回ゴジラは、まったく別物であることが、幼い私でもわかりました。

なかなかゴジラ自身は画面に登場せず、見ている者の恐怖感は徐々に高まります。やがて独特の音楽や効果音などによって、恐怖感が最高潮に達したところでゴジラの登場です。

幼い私にとっては相当のショックでした。それを証拠に、その夜はゴジラに追い掛け回される悪夢にうなされ目覚め、ついには両親の部屋に退避し、布団に潜り込んだのでした。

それ以来、すっかりトラウマとなり、この映画を見ることはありませんでした。週末あたり、思い切ってレンタルし、見てみることにしましょうか。私も51歳、そろそろ“封印”を解いても良い頃ですから。


『★火の海と化した東京湾と“ダメ”生徒の心変わり★』[2008年11月06日(木)]
1974年(昭和49年)、私は文京区にある都立高校の二年生でした。民主党の小沢一郎代表や鳩山由紀夫幹事長などの著名人を多数輩出したことで知られる進学校でした。

しかし、当時の私は勉学にはさっぱり興味を示さず、さりとて、クラブ活動に入れ込むでもなく、毎日、授業をサボっては近くの馴染みの喫茶店に出掛け、友人との無駄話に没頭するいわゆる“ダメ”生徒でした。

学生運動のピークは既に過ぎていたのですが、何となく怠惰な重苦しい雰囲気が、当時の都立高校には蔓延していました。流行に左右されやすい私は、そんな雰囲気にいとも簡単に飲まれてしまっていたのでした。

11月9日の昼下がり、六時限目の体育の授業が自習となったことをこれ幸いに、そそくさと学校を抜け出し、喫茶店のカウンターで、お気に入りのコミック雑誌を読み漁っていました。

すると、カウンターに置かれた14インチの小さなテレビのブラウン管から、ニュースの実況解説のアナウンサーが発した悲痛な叫びが聞こえてきました。曰く、「東京湾が炎に包まれています!」

「何のことだろう?」、コミック誌から目をそらし、テレビ画面に注目すると、大きな船が炎と黒煙に包まれていました。「たいへんだ!」、思わず叫んだ34年前のことを、今でもはっきりと記憶しています。

1974年(昭和49年)11月9日、LPGタンカー“第拾雄洋丸(43,724総トン)”は液化石油ガス(LPG)やナフサなど47,000トンを積載し、川崎港に向けて東京湾内の中ノ瀬航路を北上していました。

また、貨物船“パシフィック・アレス(10,874総トン)”は室蘭に向け、千葉県・木更津港を出港した直後でした。

同日午後1時37分ごろ、両船は中ノ瀬航路の北境界線のわずか北方で衝突したのです。パシフィック・アレスの船首部分が雄洋丸の右舷側前部にほぼ垂直に当たりました。

雄洋丸の船体には長さ約24メートル、高さ約7メートルの破口が生じ、積荷のナフサが激しく燃え上がりました。雄洋丸の船体と付近海面に大火災が発生しました。

一方、パシフィック・アレスも、雄洋丸から噴出したナフサを大量に浴び火炎に包まれました。雄洋丸は次々と爆発を繰り返しました。

その後、決死の曳航作業が行われ、雄洋丸は火炎に包まれたまま、東京湾外に引き出されました。海上自衛隊による砲撃・雷撃・爆撃などにより、野島崎南東方沖合で撃沈されたのは事故から19日後、11月28日午後のことでした。

この海難により、雄洋丸の乗組員は38名中5名が死亡、7名が負傷しました。さらに、パシフィック・アレスの乗組員は29名中28名が死亡しました。唯一、機関室に取り残された二等機関士が、事故発生約15時間後、奇跡的に救出されています。

世界的にも例がない、センセーショナルな海難が、あろうことか、海上交通が輻輳する東京湾内で発生したのです。政府や行政機関はもとより、海運・造船・石油などの各業界や一般社会にも大きな衝撃を与えました。

あれほど好きなコミック雑誌を閉じ、テレビ画面を食い入るように見つめていた生徒は、恐ろしいとは思いつつ、何となく船や海の世界に興味を抱きました。

しかし、やがて自分が船乗りとなり、さらにその後は海事専門家になることまでは、とうてい考えてはいませんでした。

間もなくこの事故から34年を迎えます。懐かしい思い出です。



『★あなたの思い出のロングセラー商品とは?★』[2008年10月30日(木)]
昨日、放送作家のSさんと、彼が企画・運営するトークショーの今後のテーマなどについて、意見交換をしました。

彼の口からはいろいろなアイデアがつぎつぎと飛び出し、さすが、豊かな感性を持ったプロと感心しました。特に、私が興味を惹いたのは、昭和のロングセラー商品をテーマとした企画でした。

すなわち、古き良き昭和の時代に発売され、その人気ゆえ、今も販売が続いているさまざまな商品を取り上げたトークショーです。皆さんはどのような商品を思い出しますか。

私のベスト10は以下のとおりです。理由とともに記します。

1.野球盤ゲーム(昭和33年2月発売、エポック社)
・・・子供のころ、数年越しで、ほしくて、ほしくてたまりませんでした。特に、“消える魔球”機能がついた、高級機種は憧れの的でした。ある年のクリスマスの夜、新宿に家族で出掛け、食事の後、念願かないついに買ってもらったのでした。

2.アーモンドチョコレート(昭和33年2月発売、グリコ)
・・・一時期、私が小学生の頃、箱の中に封入された応募券を集めると、”しゃべる九官鳥”の玩具がプレゼントされる企画がありました。獲得に至るまでのほぼ一年、私のおやつは毎日、変わることなくアーモンドチョコでした。

3.カップヌードル(昭和46年5月発売、日清食品)
・・・中学校一年生、新しいものに大いに興味を抱く子供でした。百円玉を握り締め、発売されたばかりの商品を求め探し廻りました。しかし、見つからない。
ついに発見した場所は、どういうわけか茗荷谷の地下鉄駅の売店、”お湯”が用意されていたわけでもなく、なぜ、売っていたのかいまだに不明です。知っている方、教えてください。一緒に付き合わせた同級のA君、今はT大学病院の内科医です。

4.アイスノン(昭和40年7月発売、白元)
・・・夜中、風邪で寝込む私、頭の上に乗せられたアイスノンを、そっと換えてくれた亡き母を思い出します。

5・マーブルチョコ(昭和36年2月発売、明治製菓)
・・・鉄腕アトムのシールがおまけ、同世代の上原ゆかりちゃんの愛くるしい顔のコマーシャル。集めたシールは片っ端から、自分の本棚や勉強机に張りまくりました。

6.オロナミンC(昭和40年2月発売、大塚製薬)
・・・大村昆のコマーシャル、大人だけに許される飲料、飲むとすぐに元気になるというイメージでした。いつか、私も大人になったら飲もうと思いつつ、最初に飲んだ記憶は定かではありません。卵を入れる、独特な飲み方も流行っていたような気がします。

7.ボンカレー(昭和43年2月発売、大塚食品)
・・・小学生の頃、この一品で立派な夕食でした。特に、両親が揃って”お出かけ”の際の定番メニューでした。

8.リカチャン人形(昭和42年7月発売、タカラ)
・・・三つ違いの妹の”超お宝”グッズでした。兄としては「何が面白いのだろう?」と思いつつ、何となく興味があり、手にしてはみたいものの、いつも妹に拒否されていました。

9.かっぱえびせん(昭和39年1月発売、カルビー)
・・・「やめられない、とまらない」を実体験していた一人でした。子供のころ、なぜあれほど黙々と貪り食べていたのか、当時の気持ちは今となっては蘇りません。

10.ラーマ(昭和41年9月発売、豊年リーバ)
・・・それまで、バターやマーガリンに関し、使用者への”配給“は母の役目でした。子供が自分で自由に容器から掬えるようになったのは、まさに文化革命でした。

その他、さまざまなロングセラー商品があります。皆さんの思い出の商品はなんでしょうか。今日は海の話から脱線し、申し訳ございません。懐かしく、楽しかったものでついつい・・・。


『★携帯電話の水損と落水事故★』[2008年10月28日(火)]
7、8年前まで、私は毎週のように船釣りに出掛けていました。当時の手帳を紐解くと、最高でなんと年間48回という釣行回数を重ねた年もありました。

釣果はというと、所詮は土日限定のサラリーマン釣師、大混雑の遊漁船では、一人あたりの割り当てはおのずと限定されます。結果はあまりたいしたものではありませんでした。

そうとは言いながら、某スポーツ新聞主催の釣大会に果敢にも臨み、静岡県の沼津沖のイケスまわりで、重量7.9キログラムの大鯛を釣り上げ、“ぶっち切り”の優勝を収めたこともありました。

最近は寄る年波には勝てず、すっかりご無沙汰で、時たま思い出だしたように出掛ける程度です。

今でも自宅の三階の納戸は、私の集めたさまざまな釣具で見事に埋め尽くされています。下士官(私の正妻)は、ことあるたびに、「釣りは卒業したのだから、思いきって捨ててください!」と言っていますが、「俺の命の次に大切なものだ! 捨てるとしたら、お前のほうが先だ!」と言い返され、いまだに手付かずの状態のままです。

私の自宅は築13年になるのですが、簡易はしごを繰り出し上がる三階に、私以外の家族が訪れたことは、ほんの数えるほどしかありません。4年前に亡くなった母にいたっては、ついに一度もありませんでした。

子ども達は、秘密の部屋に入りたくて興味津々のようですが、妻から「上がっても、いずれ捨ててしまう、ガラクタしかありません! 面白くありませんよ!」と言い含められ、いつも残念そうに下から見上げています。

さて、釣行を重ねていた時代から、私は洋上に携帯電話を持参していました。ついつい釣りに夢中になり、雨やしぶきをかぶり、携帯電話を故障させてしまった失敗は、一度や二度ではありませんでした。

防水パックなる商品が発売されると、早速購入し試しては見たものの、通話に際して取り出すにはたいそう手間がかかり、「これでは港に駐車した自動車内に置いておくほうがましだ!」という結論に達し、すぐにお蔵入りとなりました。したがって、懲りることなく、その後も水損事故を重ねてきました。

釣行にご無沙汰となった最近も、購入したばかりの携帯電話を洗濯機に入れ、水損させてしまいました。水を張り洗濯機を作動させたのは妻、その前にポケットに携帯電話を突っ込んだまま、ズボンを洗濯槽に入れたのは私です。

私が悪いのは明白なのですが、「なんてことをしてくれた! 携帯電話に謝れ!」と叫び、妻を叱咤、家族全員の不評を買うはめとなりました。

もっとも、妻は慌てず騒がず、その日のうちに修理に出し、後日、会社に出掛ける私に、そっと手渡してくれました。自称“明治の女”と言うだけあり、実に気の利く良い妻だと、心の中では大いに感謝しています。

そう言えば、若い時分、酔った勢いで、繁華街の占い師に運勢を占ってもらったことがありました。なんでも“水難の相”が出ているとのことでした。当時、船員だった私は“ドキリ”としました。しかし、なんのことはない、その後度重なる携帯電話の水損事故のことを言い当てたのでした。

さて、携帯電話といえば、先日、興味ある事故が発生しました。一昨日(10月26日)の昼過ぎ、北海道・小樽市沖の海上で落水事故が発生しました。

落水したのは、息子と二人でプレジャーボートに乗り、釣りを楽しんでいた会社員の男性でした。なんでも帰り支度のため、展張していたスパンカー(縦帆)を畳もうとしたところ、バランスを失い海に落ちたようです。

幸いなことに、12歳の息子が携帯電話を使って海上保安庁に118番通報、駆けつけた巡視艇に無事救助されたとのことです。

海上保安庁の迅速な救助活動もさることながら、落水した男性が救命胴衣を着用していたこと、息子が携帯電話を持っていたこと、そして、彼が118番通報のなんたるかを理解し、迷わず通報したことなどが大事に至らなかった理由です。



『★事故調査と犯罪捜査、両立の難しさ!★』[2008年10月17日(金)]
一昨日(10月15日)、海上保安庁長官による、記念すべき第一回目の定例記者会見が開かれました。意外なことに、1948年の発足以来、海上保安庁長官による定例記者会見は開かれていませんでした。

しかし、近年、南極海における日本の調査捕鯨船に対する妨害行為や、イージス艦と漁船の衝突海難など、世間を賑わす海の事件・事故が頻繁に起こり、海上保安庁に対するマスコミの関心はますます高まりを見せています。

一方、海上保安庁側にもかねてより、海の事件・事故について広報する機会を強化したいとの目論見がありました。今般、記者クラブ側の要望と合致したというわけなのです。

定例記者会見で長官は、運輸安全委員会による海難の事故原因に関する調査と、海上保安庁による犯罪捜査との関係について触れたと伝えられています。

報道によると、「(どちらが主導するのか、)もめる可能性はあるが、やりながら考えていけば良い。捜査も調査もきちんとしなければならず、うまく両立させたい。」と述べたそうです。

本ブログでもたびたび取り上げましたが、10月1日から国土交通省内の組織改編が行なわれ、海難審判制度が大きく変わりました。今までの海難審判制度は、「@海難の原因究明」及び「A船員の懲戒」を柱としていました。

新しい制度では、このうち、@海難の原因究明”について、既存の航空・鉄道事故調査委員会に船舶事故(海難)を新たに加えた、“運輸安全委員会”という新組織によって行なわれることとなったのです。

なお、海難が発生した際には、運輸安全委員会による事故原因調査とは別途、当然のことながら、海上保安庁による犯罪捜査が行なわれます。多くの海難では、業務上過失致死罪や致傷罪、業務上過失往来危険罪などの犯罪行為が疑われるためです。

しかし、ひとたび海難が発生した場合、証人や証拠品のほとんどが、事故調査に関しても、犯罪捜査に関しても共通のものとなります。

それを海上保安庁と運輸安全委員会がそれぞれの目的達成のため、取り合いになるなどの事態は、決してあってはならないことです。今回の長官の発言は、このことを指しているのです。具体的には、運輸安全委員会は、海上保安庁との間に協定を締結しました。

協定は冒頭で、「犯罪捜査と事故調査はいずれも公益実現のため重要であり、一方が他方に優先するという関係にない。」と述べています。

しかし、内容としては、「運輸安全委員会は、海上保安庁による捜査や海難救助に支障を来たさないようにする。運輸安全委員会から海上保安庁への協力要請は、支障が無い限り応じる。」など、“委員会は海保の邪魔をしない”という一言でまとめられるような気がします。

たとえば米国では、運輸安全委員会は政府の直轄組織であり、犯罪捜査に優先して調査を進められる絶大な権限を有しています。

今回の新しい海難事故調査制度ですが、背後要因を含めた原因究明を重視した欧米型の制度を見習ってはみたものの、肝心の権限については、必ずしも絶大とは言えないのが大きなネックです。

真の原因究明のためには、当事者の刑事訴追を免除する司法取引も“あり”などの欧米的な考えは、今の日本ではまだまだ受け入れられないのが実情でしょう。漕ぎ出したのは良いものの、新しい海難事故調査制度はまだまだ前途多難な状況なのです。



『★新海難審判制度への期待!★』[2008年10月07日(火)]
10月1日、国土交通省内の組織改編が行なわれ、海難審判制度が大きく変わりました。今までの海難審判制度は、「@海難の原因究明」及び「A船員の懲戒」を柱としていました。

新しい制度では、このうち、@海難の原因究明”について、既存の航空・鉄道事故調査委員会に船舶事故(海難)を新たに加えた、“運輸安全委員会”という新組織によって行なわれることとなりました。

一方、「A船員の懲戒」については、海難審判庁が“庁”から“所”に格下げされ、“海難審判所”なる組織がこれを行なうこととなりました。

「原因究明機能と懲戒機能とを一緒にしている海難審判制度は、主要国の中では日本と韓国だけである。これらを分離し、原因究明に特化させるのは国際的な趨勢である。」

「従来の審判では、原因究明が不十分であった。また、刑事責任追及と海難審判との役割の違いが不明確だった。原因究明機能に特化し、勧告制度を充実させることが必要だ。」などが、制度改革派の主な意見と思われます。

一方、私をはじめ一部の海事関係者は、当初、今回の海難審判制度改革を必ずしも“良し”とは考えていなかったのも事実です。

以前のブログで私は、今回の海難審判制度改革に対して曰く、「明治以来の海事分野における行政“大改悪”の一つとして、歴史に名を残す可能性がある。」などと述べました。

過剰な表現で少々反省はしています。ですが、そう言わしめた大きな理由は、今まで我々が誇りに思ってきた海難審判制度を否定することに対し、どうしても納得がいかないという点に尽きるのでした。

明治時代、日清戦争に勝利した日本では、国際的地位が一気に向上したことに伴い、西欧の列強国を模範とした様々な法整備が加速化しました。

海事の世界でも、海難防止を図るための法整備が進められました。すなわち、“海員懲戒法”でした。

すなわち、「海難を起こした船員を徹底的に懲らしめてやれば、彼らは深く反省し、同じ過ちを二度と繰り返さないであろう。すなわち、海難防止に寄与することになる。」、これが“海員懲戒法”の趣旨でした。

“海員懲戒法”の時代は、大東亜戦争の終結直後まで続きました。日本の海運は戦争によりほぼ壊滅、多くの優秀な船員が死亡しました。戦後、かろうじて残った船舶のほとんどが、粗悪な“戦時標準船”や老朽船などに限られていました。

また、戦争によって日本沿岸域の航路標識などはことごとく破壊され、さらに、海上のいたるところには、危険な不発機雷などが残されたままでした。戦争が終わり、日本の復興のため海運に寄せられる期待が高まる中、粗悪船や航路標識の不備などが原因の海難はあとを絶ちませんでした。

戦争を生き残った貴重な船員や船が、次々と海難の餌食になったのでした。新憲法が制定されたことを契機に、民主主義の世の中にマッチした、新たな海難防止のための法律を整備しようとする機運が高まりました。

そこで、登場したのが “海難審判法”でした。海難審判法の第一条には、「この法律は、海難審判庁の審判によつて海難の原因を明らかにし、以てその発生の防止に寄与することを目的とする」と記されています。

すなわち、海難の再発を防止するため、海難審判を通じ、その発生原因を徹底的に究明しようというのがこの法律の趣旨なのです。

「悪いことをした船員を懲らしめれば海難を防げる。」とする明治時代の法律がもろくも崩壊、「海難の再発を防止するには、個人の責任追及ではなく原因の究明である。」とする、斬新な発想が取り入れられた新しい海難審判制度の誕生でした。

国際感覚豊かな海の世界では、戦後民主主義の発想を、海難防止の分野にいち早く取り入れたのでした。

無論、海難審判は行政審判ですから、最終的には船員に対する海技免状の停止などの行政処分が伴います。しかし、実情は行政処分が主たる目的ではなく、明らかにされた原因に見合った行政処分が関係者に課されるわけです。

海難審判の審議のほとんどは、理事官(刑事裁判の検察に相当)と補佐人(刑事裁判の弁護人に相当)が互いに証拠を出し合い、それぞれの原因究明のための主張に費やされるます。準司法手続きに則った、他国に例を見ない、優れた海難審判制度が戦後間もない敗戦国である日本に登場したのでした。

多くの海難審判では、少なくとも航法上の原因究明については、論理的かつ科学的になされてきました。私はたとえ航法上の原因究明に特化するにせよ、従来の海難審判制度を心から誇りに思ってきました。

中には心憎いほど素晴らしい裁決もあり、いつまでも私の記憶に残っています。海難審判の裁決録は、私にとって、航法上の原因を解明する上で、バイブルに等しい貴重な情報源なのでした。

「従来の審判では、原因究明が不十分であった。」とする趣旨は、おそらく、「航法以外の海難に至る背後要因に関する分析が不十分であった。」を意味するものと思われます。

しかし、単に「原因究明が不十分であった。」と言われると、過去の裁決をすべて否定されたような、何とも憂鬱な気持ちになったのも事実です。

無論、今までの制度が完璧だったとは申しません。原因究明に関しても、航法上の原因究明に特化し、背後要因に関する分析が十分ではなかったことは重々承知しています。

背後要因究明は、裾野が実に広いことを忘れてはなりません。時に政策的な船員問題に踏み込んだり、サブスタンダード船(国際標準に満たない粗悪船)排除のため、外国に対する勧告も必要になるかもしれません。

新制度がどこまで背後要因究明に踏み込むのでしょうか。旧制度での原因究明機能が、飛躍的に向上されるのでしょうか。

本当にやる気であるならば、そして、そのための人材育成にも最大限の努力を払うのであるならば、私は逆に応援する用意があります。





『★火葬船シーマンシップ、水道の蛇口を徹底検証!★』[2008年10月06日(月)]
先週、都内某所で火葬船に関するセミナーが開催されました。私は講師陣の一人としてセミナーに参加いたしました。

セミナーには、メモリアル事業(葬儀、墓苑・霊園開発、石材、ケタリング・サービスなど)を営む全国の主要会社のほか、客船のインテリア・デザイン会社、宗教関係者、さらには、今後の融資先としての期待感を反映してか銀行からなど、多くの方々が参集しました。

現在、我が国の年間死亡者数は100万人程度ですが、団塊世代が平均寿命を迎える30年後には、年間死亡者数は一挙に約180万人に達することが予想されています。この数字を見ても、将来、火葬場不足が目前に迫っていることがおわかり頂けるでしょう。

日本の一部の地域は、既に火葬場不足に陥っています。特に都市部の火葬場は、フル稼働の状態が続いています。人口が都市部に集中し、火葬の需要が予想外のペースで増え続けているためです。

火葬場は住民から忌み嫌われる、いわば、“迷惑施設”です。足りなくなるからと言って、おいそれとは新設できないのが日本の実情です。

そこで、斎場・火葬場不足を解消するための切り札として考え出されたのが、“火葬船”構想です。海に浮かべた新タイプの専用船が、日本の火葬場不足を救うというわけなのです。

私は二年以上にわたり、“火葬船”を法制面・実務面など、多方面から検討・検証することを目的に日本財団が設置した委員会に、海事専門家の立場で参画してきました。今回のセミナーは、こうした関係から要請されたものでした。

今年に入り、海上火葬船構想の話題は一気に沸騰しました。1月には日本経済新聞の社会面でも大きく取り上げられたのを皮切りに、複数のテレビ・新聞、週刊誌や月刊誌などが、相次いで“火葬船”の話題を取り上げました。

また最近では、米国のAP通信の報道網を介し、世界中の国々に“火葬船”構想の話が伝わりました。事務局には、海外からの問い合わせも多いと聞いています。

さて、今回のセミナーですが、当日の朝、私は講演資料を慌しく作成していました。当日お集まりの方々は、いわゆる陸上サイドの皆さんで、海事に関する専門的な知識はほとんど有していません。

言うまでもなく、火葬船事業はメモリアル事業者と海運事業者とのコラボレーションなくしては成り立ちません。こうした意味からも、セミナーにお集まりの陸上側の皆さんに対し、私の講演の冒頭、海事に関する基礎的な知識のうち、もっとも重要なお話を何か一つでも、お伝えしたいと考えたのでした。

基礎的なお話として、何を取り上げようと考え抜いた挙句、選んだのが“シーマンシップ”についてでした。コラボレーションの相手先の船員について、知って頂くことが目的です。

言うまでもなく“シーマンシップ”とは、そもそも、海上経験、訓練、実技の繰り返しによって培われる、船員の技量・技能のことを指します。

それが転じて、こうした技量・技能を身につけるため必要かつ重要な、船員としての資質、心がけ、順応性、心構えといった精神的なものも含まれていると私は考えています。

物事の変化の先を見越す先見性、几帳面に仕事をこなす確実性、人命と船・積荷を守ることを第一とした使命感、時機を逸しない俊敏な行動性、国際社会の一員として相応しい慣習・礼節、使命達成に向けた一途な責任感、強靭な精神力と勇気に支えられたチャレンジ精神、いずれも、船員としての技量・技能を身につけるため、必要かつ重要な事項です。

私は現役を引退して15年以上経った今でも、よほどのことがない限り荷物で両手を塞がない、路上のマンホールの蓋は避けて通る、クレーンの吊り上げ作業現場はたとえ監視員がいても避けて通るなど、さまざまなこだわりを持ち続けています。

おそらく、船員としての資質、心がけが、今も体の奥底に染み付いているからなのでしょう。今回のセミナーの資料、シーマンシップに関する解説の作成途上の朝、私は会社のトイレに行きました。

用を足し、手洗いのため水道の蛇口を握っただけで、前夜、最後まで残業していたのは誰なのか、おおよそではありますが、私にはわかります。蛇口は思いっきり締め切られていました。

こうした場合、前夜の残業者は船員経験の無い社員です。たいていの場合、蛇口を思いっきり締め切られています。「俺が帰った後、ポトポトと漏水していたと指摘されたら大変だ!」との配慮なのでしょうか。

しかし、船員経験の有る社員が残業した場合、ほとんどの場合、蛇口を思いっきり締め切られてはいません。微妙な確度で、若干、水が出る方向に戻されているのです。

蛇口の構造的仕組みや、合成ゴム製のパッキングの特性を十分理解した船員は、万が一の固着などを危惧し、蛇口を思いっきり締め切るようなことはしません。冷暖房が止められた後のトイレ内の温度変化までを考慮し、最適の戻し具合を体で判断するのです。

案の定、前夜の残業者は、船員経験の無いA氏でした。



『★オイルショックと硫黄島沖刑務所!★』[2008年09月30日(火)]
“オイルショック”という言葉に敏感に反応するのは、おそらく、私を含めた50代以上の人々でしょう。

1973年(昭和48年)10月6日、第四次中東戦争が勃発しました。アラブ諸国は敵国イスラエルを支援する国家に対し、原油の供給を削減する旨の声明を発表、日本をはじめ、世界中の国々が大混乱に陥りました。

それもそのはず、言うまでもなく資源輸入国にとっては、毎日安定して大型タンカーで運ばれてくる石油なくして、生活や産業は成り立たないからです。

当時、日本をはじめ多くの国々では、万が一の事態に備え、石油を蓄えておくという緊急対策については、必要性をわかってはいながら、実行には移されていなかったのでした。

石油のほぼ100%を海外からの輸入に頼り、しかも、その80%を中東に依存していた日本の反応は過剰でした。

ガソリンスタンドの休日営業は中止となり、繁華街のネオンは一斉に消えました。マイカー使用の自粛が呼びかけられ、テレビの深夜放送は中止となりました。デパートのエスカレーターや空港の動く歩道までも、ピクリともしなくなったのでした。徹底した省エネ対策が全国規模で実施されたのです。

石油とは直接関係のないトイレットペーパーや洗剤などが品不足になるという噂が流布されました。多くの人々が噂を信じ込み、これらの品々を買い求め、スーパーマーケットや小売店に殺到しました。

全国規模で、さまざまな品物の便乗値上げ騒ぎが起き、「狂乱物価」という言葉が流行語となったのもこの時でした。一連の騒ぎは翌年まで続きました。

日本はオイルショックを教訓とし、ようやく石油の国家備蓄に乗り出したのでした。現在、全国12箇所(民間との共同備蓄を含む)に基地が建設され、国家として備蓄しているものだけでも、日本の消費量の約3ヵ月分に及びます。

しかし、当初の手法は異なりました。日本の海運各社が大型原油タンカーを数隻ずつ供出、国が買い上げた原油を満載し、硫黄島沖の海域に一斉に集められたのでした。

海域の範囲はあらかじめ指定され、その枠からはみ出ない限り、常にエンジンを停止し、波風に身を任せ、ひたすら洋上をプカプカと漂流していたのです。

国からは用船料を頂くものの、基本的には動かない船です。はじめのうちは、平素、手が廻らなかったメンテナンス作業などを、たっぷりと行うことができ、乗組員もホクホク顔です。

しかし、何ヶ月も続くと、することがなくなります。乗組員の暇つぶし手段は、“マージャン”か“釣り”のどちらかに限定されます。

“釣り”といっても太平洋のど真ん中、おのずと対象魚は表層の回遊魚となります。私たちを飽きさず、いつでも遊んでくれたのは、シイラという愛くるしい顔の魚でした。

シイラという魚、引き味は抜群ながら、食すとなると、お世辞にも美味しいとは言えません。特に、南方海域の“シイラ”は、確実に不味いのです。

しかし、背に腹は代えられず、刺身で食す乗組員も多くいました。私が所属していた海運会社では、シイラの寄生虫が原因と思われる集団食中毒が洋上備蓄タンカーで発生、会社からの通達により、南方海域での“釣り”では、“キャッチ・アンド・リリース”制度が強制されることとなってしまいました。

「のんびりできる!」と、はじめは、船員さんの間で人気の高かった洋上備蓄タンカーへの乗船勤務ですが、やがて、“硫黄島沖プリズン”と喩椰され、皆から忌み嫌われることとなりました。

オイルショックから、間もなく35年目の節目を迎えようとしています。“硫黄島沖プリズン”を満期で出所した船員さんたちも、その多くはリタイヤ、もしくはその年齢に達しています。





『★今から稚内に行ってきます★』[2008年09月03日(水)]
今日、今から一泊二日の予定で稚内に出向き、当地で実施される大規模油流出事故訓練と関係者会議に出席してきます。こうした大型実動訓練の視察は久しぶりなので、今からたいへん楽しみにしています。

そう言えば毎年10月、関東エリアの河川において、水質事故(油・ケミカル等による汚染事故)を想定した、大掛かりな訓練、“関東地方水質汚濁対策連絡協議会 水質事故対策訓練”が開催されます。

この訓練には、国土交通省や関東地方の一都七県四政令指定市、地元自治体などの職員ら、総勢数百名が参加します。会場にはオーロラビジョンが設置され、一部はテレビ放映されることもあります。河川での防除訓練としては、私の知る限り、国内最大規模です。

ここ数年、私はこの訓練の実況解説を仰せつかり、オーロラビジョンで映し出される訓練風景を見ながら、内容について、一般市民の皆さんなどにもわかりやすく解説してきました。

今年は今のところ要請が届いていないようですが、どうなったのでしょうか。評判は良いと聞いているのですが。


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