『★因島の思い出、捕鯨船対商船の対決!★』[2008年11月20日(木)]
かつて、私が船乗りだった時分、私の所属する大手海運会社は、新しい船の建造に際し、あるいは、既存船の定期検査や船体修理に際し、H造船のドックを頻繁に利用していました。
私自身、何度もH造船のドックに入渠した経験があります。特に、広島県・因島市のドックは、ニューヨーク定期航路に就航するコンテナ船の新造受け取りのため一回、その他、既存船の定期検査や船体修理のため三回、都合四回も入渠しました。
ドック中の船乗りの生活は、忙しいながらも、独身時代、そして新婚時代、それなりに楽しい思い出ばかりが残っています。
独身時代の因島ドックでは、我々は“チョンガー寮”と称する三階建ての集合住宅に押し込まれました。泥まみれ、油まみれで、くたくたになり、どんなに遅く帰ってきても、寮母さんがこしらえた家庭料理が、いつも湯気を立てて用意されていました。
寮母さんは私たちの母親と同じ年代、我々の相談相手となり、身の回りの面倒を見てくれ、時には厳しく親のように叱ってくれました。寮母さんのやさしい笑顔は今でも忘れません。
1986年のドックは今も忘れはしません、“チョンガー寮”に帰り際、“寮生”たちは途中、ドックが副業で始めた養殖場に立ち寄ってくる決まりとなっていました。
その頃の造船会社は“どん底”の不景気、どの造船所もさまざまな副業に精を出していたのです。因島ドックでは、“杜仲茶(健康茶)”の生産と、“ヒラメ”の養殖に力を注いでいたのでした。もっとも、見事に成功し、今に引き継がれているのは、“杜仲茶”の商業生産だけだと思いますが。
さて、めいめい養殖場から25センチほどの“ヒラメ”を網で掬い、寮に持ち帰ってくると、受け取った寮母さんは早速、各自の好みに合わせ、それを料理してくれました。
今日は刺身、明日は煮つけと、高級魚“ヒラメ”が毎日試食できるのですから、寮生たちは大喜びです。夕食をキャンセルし、ネオンの巷に消える者は皆無でした。しかし、毎日ともなると、たとえ高級魚でも飽きてしまったことは事実です。
夕食後、我々の楽しみは、何といってもネオンの巷です。因島には当時、わずか100メートル四方程度の一角に、小さな飲み屋100軒以上が、ぎっしり並んでいたと記憶しています。いずれも、二階家の作りで、面する道路は1980年代後半まで、舗装すらされていなかったのでした。
グループに分かれ、馴染みの店を何件か“はしご”し、最後は皆で同じ店に集まり、その日の結果を伝え合います。独身者たちは、普段の船内生活での鬱積を、ドックの際、夜の巷で発散していたのでした。
入居中の船が自船だけで、競合相手がいないと、我々は夜の巷のアイドルとなり得るのですが、たいていの場合、ライバルがいるのです。最大のライバルは、捕鯨船でした。彼らは入渠期間が極めて長く、入渠の頻度も多く、因島の飲み屋街では最上級のお得意さんだったのです。
1980年代半ば、因島ドックに入渠した我々独身者が、常に女神のように崇めていた因島の“マドンナ”がいました。「女神であるが故、絶対に抜け駆けはしない!」という主旨の覚書を取り交わしていました。
しかし、1987年の春先、我々が知らない間に、いつのまにか捕鯨船乗組員の妻となり、本気で泣いていた三等機関士を、私が慰めてあげた思い出があります。
同じ頃(1987年3月)私は結婚、ついに独身集団との分離を果たしました。1987年初夏の因島ドックでは、懐かしい独身寮ではなく、新妻を伴い家族寮に入居しました。
毎日が子供のころ付き合わされた“おままごと”のようでした。ドックでの仕事を終え、家族寮の部屋の扉を開けると、夕餉のにおいが立ち込め、前掛けをした妻が出迎えるのを、とても“くすぐったく”感じたのを今でも覚えています。
独身グループとは分離したはずなのですが、ある日のこと、弟分の三等航海士が言いました。「セコンドオフィサー、また、捕鯨船の連中にやられています。我々はぜんぜん、もてないのです。彼ら新造船の受け取りで何ヶ月もいるようです。どの飲み屋でも、幅を利かしていて、我々はよそ者扱いです!」
もてないほうが身のためというか、今の妻と結婚できたのも、遠まわしに言えば捕鯨船の皆さんのお陰だと、私は感謝している次第です。
さて、三等航海士をもてなくした原因こそ、当時、因島ドックで新造中であった、捕鯨船“日新丸”だったのです。あれから約20年、現在、南極海での調査捕鯨母船“日新丸”は、たびたびニュースに取り上げられています。
昨年度、“日新丸”は南極海において、反捕鯨団体による激しい妨害活動を受け、乗組員や便乗していた海上保安官がけがを負いました。
今年は恒例の出港式も行なわず、スケジュールも一切非公開のまま、今週初め(11月17日)、南極海に向け、因島ドックを旅立って行ったと伝えられています。今回、“日新丸”は妨害対策のための装備を充実させ、海上保安官の便乗もないとのことです。
因島でひっそりと夫を見送った家族の中に、果たして因島の“マドンナ”もいたのでしょうか。男泣きしていた同僚の三等機関士、今頃、何をしているのでしょうか。

私自身、何度もH造船のドックに入渠した経験があります。特に、広島県・因島市のドックは、ニューヨーク定期航路に就航するコンテナ船の新造受け取りのため一回、その他、既存船の定期検査や船体修理のため三回、都合四回も入渠しました。
ドック中の船乗りの生活は、忙しいながらも、独身時代、そして新婚時代、それなりに楽しい思い出ばかりが残っています。
独身時代の因島ドックでは、我々は“チョンガー寮”と称する三階建ての集合住宅に押し込まれました。泥まみれ、油まみれで、くたくたになり、どんなに遅く帰ってきても、寮母さんがこしらえた家庭料理が、いつも湯気を立てて用意されていました。
寮母さんは私たちの母親と同じ年代、我々の相談相手となり、身の回りの面倒を見てくれ、時には厳しく親のように叱ってくれました。寮母さんのやさしい笑顔は今でも忘れません。
1986年のドックは今も忘れはしません、“チョンガー寮”に帰り際、“寮生”たちは途中、ドックが副業で始めた養殖場に立ち寄ってくる決まりとなっていました。
その頃の造船会社は“どん底”の不景気、どの造船所もさまざまな副業に精を出していたのです。因島ドックでは、“杜仲茶(健康茶)”の生産と、“ヒラメ”の養殖に力を注いでいたのでした。もっとも、見事に成功し、今に引き継がれているのは、“杜仲茶”の商業生産だけだと思いますが。
さて、めいめい養殖場から25センチほどの“ヒラメ”を網で掬い、寮に持ち帰ってくると、受け取った寮母さんは早速、各自の好みに合わせ、それを料理してくれました。
今日は刺身、明日は煮つけと、高級魚“ヒラメ”が毎日試食できるのですから、寮生たちは大喜びです。夕食をキャンセルし、ネオンの巷に消える者は皆無でした。しかし、毎日ともなると、たとえ高級魚でも飽きてしまったことは事実です。
夕食後、我々の楽しみは、何といってもネオンの巷です。因島には当時、わずか100メートル四方程度の一角に、小さな飲み屋100軒以上が、ぎっしり並んでいたと記憶しています。いずれも、二階家の作りで、面する道路は1980年代後半まで、舗装すらされていなかったのでした。
グループに分かれ、馴染みの店を何件か“はしご”し、最後は皆で同じ店に集まり、その日の結果を伝え合います。独身者たちは、普段の船内生活での鬱積を、ドックの際、夜の巷で発散していたのでした。
入居中の船が自船だけで、競合相手がいないと、我々は夜の巷のアイドルとなり得るのですが、たいていの場合、ライバルがいるのです。最大のライバルは、捕鯨船でした。彼らは入渠期間が極めて長く、入渠の頻度も多く、因島の飲み屋街では最上級のお得意さんだったのです。
1980年代半ば、因島ドックに入渠した我々独身者が、常に女神のように崇めていた因島の“マドンナ”がいました。「女神であるが故、絶対に抜け駆けはしない!」という主旨の覚書を取り交わしていました。
しかし、1987年の春先、我々が知らない間に、いつのまにか捕鯨船乗組員の妻となり、本気で泣いていた三等機関士を、私が慰めてあげた思い出があります。
同じ頃(1987年3月)私は結婚、ついに独身集団との分離を果たしました。1987年初夏の因島ドックでは、懐かしい独身寮ではなく、新妻を伴い家族寮に入居しました。
毎日が子供のころ付き合わされた“おままごと”のようでした。ドックでの仕事を終え、家族寮の部屋の扉を開けると、夕餉のにおいが立ち込め、前掛けをした妻が出迎えるのを、とても“くすぐったく”感じたのを今でも覚えています。
独身グループとは分離したはずなのですが、ある日のこと、弟分の三等航海士が言いました。「セコンドオフィサー、また、捕鯨船の連中にやられています。我々はぜんぜん、もてないのです。彼ら新造船の受け取りで何ヶ月もいるようです。どの飲み屋でも、幅を利かしていて、我々はよそ者扱いです!」
もてないほうが身のためというか、今の妻と結婚できたのも、遠まわしに言えば捕鯨船の皆さんのお陰だと、私は感謝している次第です。
さて、三等航海士をもてなくした原因こそ、当時、因島ドックで新造中であった、捕鯨船“日新丸”だったのです。あれから約20年、現在、南極海での調査捕鯨母船“日新丸”は、たびたびニュースに取り上げられています。
昨年度、“日新丸”は南極海において、反捕鯨団体による激しい妨害活動を受け、乗組員や便乗していた海上保安官がけがを負いました。
今年は恒例の出港式も行なわず、スケジュールも一切非公開のまま、今週初め(11月17日)、南極海に向け、因島ドックを旅立って行ったと伝えられています。今回、“日新丸”は妨害対策のための装備を充実させ、海上保安官の便乗もないとのことです。
因島でひっそりと夫を見送った家族の中に、果たして因島の“マドンナ”もいたのでしょうか。男泣きしていた同僚の三等機関士、今頃、何をしているのでしょうか。




