『★第五福竜丸の被曝とゴジラ映画の思い出★』[2008年11月07日(金)]
1954年(昭和29年)3月1日未明、 ”第五福竜丸(140総トン)”は、マーシャル諸島の近海でマグロ漁を行なっていました。
突如、乗組員は夜空に輝くまばゆいばかりの閃光と、巨大なキノコ雲を目撃しました。アメリカがビキニ環礁で行なった水爆実験でした。
当時、第五福竜丸はアメリカが設定していた危険水域外で操業を行なっていたのでした。第五福竜丸は危険と判断、この海域からの脱出を試みました。
しかし、一度仕掛けたマグロの延縄(はえなわ)の収容には、かなりの時間を要します。やがて、灰状の物質が降り注いできました。いわゆる、“死の灰”ですた。
第五福竜丸は不運にも、数時間にわたり、“死の灰”を浴び続け、乗組員23名全員が被曝しました。この実験によって“死の灰”を浴びたのは、第五福竜丸だけではありませんでした。数百隻にのぼる漁船の乗組員、延べ2万人以上が被曝したとみられています。
水爆の威力がアメリカの予想以上であったため、安全区域にいたはずの多くの船舶が被曝したのです。しかし、第五福竜丸の被曝状況は最悪でした。
やがて、焼津港に戻ってきた第五福竜丸の乗組員は、病院での診断の結果、自分たちが原爆症に罹患していることを知りました。
第五福竜丸の船体は封鎖され、漁獲物のマグロは廃棄、東京・築地市場の一角に埋められました。この海域で操業していた他の漁船でも、汚染された漁獲物は“原爆マグロ”の烙印を押されて大量に廃棄されました。日本中は大騒ぎとなったのでした。
第五福竜丸の乗組員は隔離病棟に収容され、ただちに手当が施されました。治療の甲斐あって、他の乗組員たちが回復する中、唯一、比較的年配(当時40歳)のK通信長の容態だけは徐々に悪化していきました。
そして、被曝から半年後、K通信長は家族や同僚に見守られながら「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と訴えた後、静かに息を引き取ったのでした。
日本国内で大きな反核運動が展開されました。また、食に対する不安感から、魚類全般の消費量が極端に落ち込んだのでした。
K通信長の無念の死から2ヶ月後の1954(昭和29)年11月、映画「ゴジラ」が公開されました。
ひとことで言えば、封印され休眠状態であった太古の巨大生物が、水爆実験によって目覚め日本に上陸、戦後復興から間もない首都・東京を容赦なく破壊し、焼き尽くすという内容の娯楽大作です。
臨場感溢れる特撮シーンもさることながら、人々はゴジラによる東京の破壊行為を大東亜戦争時の非人道的な無差別爆撃に重ね合わせ、また、ゴジラを目覚めさせた水爆実験を第五福竜丸の事件に結び付けました。
こうしたこともあり、子供ではなく、多くの大人たちが映画館を訪れ、自身の戦争体験などを思い起こしたのでした。映画は空前の大ヒットとなりました。単なる今の特撮怪獣番組などとは性格は異なり、社会派映画と称しても良いのではないでしょうか。
無論、私は生まれていませんでしたので、封切りには間に合いませんでした。しかし、小学校低学年の折、夏休み特集のテレビ放映でこの映画に初めて接しました。
その頃、ゴジラ映画はシリーズ物となり、私も親にねだっては、何度か見に行っていたのですが、1954(昭和29)の初回ゴジラは、まったく別物であることが、幼い私でもわかりました。
なかなかゴジラ自身は画面に登場せず、見ている者の恐怖感は徐々に高まります。やがて独特の音楽や効果音などによって、恐怖感が最高潮に達したところでゴジラの登場です。
幼い私にとっては相当のショックでした。それを証拠に、その夜はゴジラに追い掛け回される悪夢にうなされ目覚め、ついには両親の部屋に退避し、布団に潜り込んだのでした。
それ以来、すっかりトラウマとなり、この映画を見ることはありませんでした。週末あたり、思い切ってレンタルし、見てみることにしましょうか。私も51歳、そろそろ“封印”を解いても良い頃ですから。

突如、乗組員は夜空に輝くまばゆいばかりの閃光と、巨大なキノコ雲を目撃しました。アメリカがビキニ環礁で行なった水爆実験でした。
当時、第五福竜丸はアメリカが設定していた危険水域外で操業を行なっていたのでした。第五福竜丸は危険と判断、この海域からの脱出を試みました。
しかし、一度仕掛けたマグロの延縄(はえなわ)の収容には、かなりの時間を要します。やがて、灰状の物質が降り注いできました。いわゆる、“死の灰”ですた。
第五福竜丸は不運にも、数時間にわたり、“死の灰”を浴び続け、乗組員23名全員が被曝しました。この実験によって“死の灰”を浴びたのは、第五福竜丸だけではありませんでした。数百隻にのぼる漁船の乗組員、延べ2万人以上が被曝したとみられています。
水爆の威力がアメリカの予想以上であったため、安全区域にいたはずの多くの船舶が被曝したのです。しかし、第五福竜丸の被曝状況は最悪でした。
やがて、焼津港に戻ってきた第五福竜丸の乗組員は、病院での診断の結果、自分たちが原爆症に罹患していることを知りました。
第五福竜丸の船体は封鎖され、漁獲物のマグロは廃棄、東京・築地市場の一角に埋められました。この海域で操業していた他の漁船でも、汚染された漁獲物は“原爆マグロ”の烙印を押されて大量に廃棄されました。日本中は大騒ぎとなったのでした。
第五福竜丸の乗組員は隔離病棟に収容され、ただちに手当が施されました。治療の甲斐あって、他の乗組員たちが回復する中、唯一、比較的年配(当時40歳)のK通信長の容態だけは徐々に悪化していきました。
そして、被曝から半年後、K通信長は家族や同僚に見守られながら「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と訴えた後、静かに息を引き取ったのでした。
日本国内で大きな反核運動が展開されました。また、食に対する不安感から、魚類全般の消費量が極端に落ち込んだのでした。
K通信長の無念の死から2ヶ月後の1954(昭和29)年11月、映画「ゴジラ」が公開されました。
ひとことで言えば、封印され休眠状態であった太古の巨大生物が、水爆実験によって目覚め日本に上陸、戦後復興から間もない首都・東京を容赦なく破壊し、焼き尽くすという内容の娯楽大作です。
臨場感溢れる特撮シーンもさることながら、人々はゴジラによる東京の破壊行為を大東亜戦争時の非人道的な無差別爆撃に重ね合わせ、また、ゴジラを目覚めさせた水爆実験を第五福竜丸の事件に結び付けました。
こうしたこともあり、子供ではなく、多くの大人たちが映画館を訪れ、自身の戦争体験などを思い起こしたのでした。映画は空前の大ヒットとなりました。単なる今の特撮怪獣番組などとは性格は異なり、社会派映画と称しても良いのではないでしょうか。
無論、私は生まれていませんでしたので、封切りには間に合いませんでした。しかし、小学校低学年の折、夏休み特集のテレビ放映でこの映画に初めて接しました。
その頃、ゴジラ映画はシリーズ物となり、私も親にねだっては、何度か見に行っていたのですが、1954(昭和29)の初回ゴジラは、まったく別物であることが、幼い私でもわかりました。
なかなかゴジラ自身は画面に登場せず、見ている者の恐怖感は徐々に高まります。やがて独特の音楽や効果音などによって、恐怖感が最高潮に達したところでゴジラの登場です。
幼い私にとっては相当のショックでした。それを証拠に、その夜はゴジラに追い掛け回される悪夢にうなされ目覚め、ついには両親の部屋に退避し、布団に潜り込んだのでした。
それ以来、すっかりトラウマとなり、この映画を見ることはありませんでした。週末あたり、思い切ってレンタルし、見てみることにしましょうか。私も51歳、そろそろ“封印”を解いても良い頃ですから。




