『★オイルショックと硫黄島沖刑務所!★』[2008年09月30日(火)]
“オイルショック”という言葉に敏感に反応するのは、おそらく、私を含めた50代以上の人々でしょう。
1973年(昭和48年)10月6日、第四次中東戦争が勃発しました。アラブ諸国は敵国イスラエルを支援する国家に対し、原油の供給を削減する旨の声明を発表、日本をはじめ、世界中の国々が大混乱に陥りました。
それもそのはず、言うまでもなく資源輸入国にとっては、毎日安定して大型タンカーで運ばれてくる石油なくして、生活や産業は成り立たないからです。
当時、日本をはじめ多くの国々では、万が一の事態に備え、石油を蓄えておくという緊急対策については、必要性をわかってはいながら、実行には移されていなかったのでした。
石油のほぼ100%を海外からの輸入に頼り、しかも、その80%を中東に依存していた日本の反応は過剰でした。
ガソリンスタンドの休日営業は中止となり、繁華街のネオンは一斉に消えました。マイカー使用の自粛が呼びかけられ、テレビの深夜放送は中止となりました。デパートのエスカレーターや空港の動く歩道までも、ピクリともしなくなったのでした。徹底した省エネ対策が全国規模で実施されたのです。
石油とは直接関係のないトイレットペーパーや洗剤などが品不足になるという噂が流布されました。多くの人々が噂を信じ込み、これらの品々を買い求め、スーパーマーケットや小売店に殺到しました。
全国規模で、さまざまな品物の便乗値上げ騒ぎが起き、「狂乱物価」という言葉が流行語となったのもこの時でした。一連の騒ぎは翌年まで続きました。
日本はオイルショックを教訓とし、ようやく石油の国家備蓄に乗り出したのでした。現在、全国12箇所(民間との共同備蓄を含む)に基地が建設され、国家として備蓄しているものだけでも、日本の消費量の約3ヵ月分に及びます。
しかし、当初の手法は異なりました。日本の海運各社が大型原油タンカーを数隻ずつ供出、国が買い上げた原油を満載し、硫黄島沖の海域に一斉に集められたのでした。
海域の範囲はあらかじめ指定され、その枠からはみ出ない限り、常にエンジンを停止し、波風に身を任せ、ひたすら洋上をプカプカと漂流していたのです。
国からは用船料を頂くものの、基本的には動かない船です。はじめのうちは、平素、手が廻らなかったメンテナンス作業などを、たっぷりと行うことができ、乗組員もホクホク顔です。
しかし、何ヶ月も続くと、することがなくなります。乗組員の暇つぶし手段は、“マージャン”か“釣り”のどちらかに限定されます。
“釣り”といっても太平洋のど真ん中、おのずと対象魚は表層の回遊魚となります。私たちを飽きさず、いつでも遊んでくれたのは、シイラという愛くるしい顔の魚でした。
シイラという魚、引き味は抜群ながら、食すとなると、お世辞にも美味しいとは言えません。特に、南方海域の“シイラ”は、確実に不味いのです。
しかし、背に腹は代えられず、刺身で食す乗組員も多くいました。私が所属していた海運会社では、シイラの寄生虫が原因と思われる集団食中毒が洋上備蓄タンカーで発生、会社からの通達により、南方海域での“釣り”では、“キャッチ・アンド・リリース”制度が強制されることとなってしまいました。
「のんびりできる!」と、はじめは、船員さんの間で人気の高かった洋上備蓄タンカーへの乗船勤務ですが、やがて、“硫黄島沖プリズン”と喩椰され、皆から忌み嫌われることとなりました。
オイルショックから、間もなく35年目の節目を迎えようとしています。“硫黄島沖プリズン”を満期で出所した船員さんたちも、その多くはリタイヤ、もしくはその年齢に達しています。

1973年(昭和48年)10月6日、第四次中東戦争が勃発しました。アラブ諸国は敵国イスラエルを支援する国家に対し、原油の供給を削減する旨の声明を発表、日本をはじめ、世界中の国々が大混乱に陥りました。
それもそのはず、言うまでもなく資源輸入国にとっては、毎日安定して大型タンカーで運ばれてくる石油なくして、生活や産業は成り立たないからです。
当時、日本をはじめ多くの国々では、万が一の事態に備え、石油を蓄えておくという緊急対策については、必要性をわかってはいながら、実行には移されていなかったのでした。
石油のほぼ100%を海外からの輸入に頼り、しかも、その80%を中東に依存していた日本の反応は過剰でした。
ガソリンスタンドの休日営業は中止となり、繁華街のネオンは一斉に消えました。マイカー使用の自粛が呼びかけられ、テレビの深夜放送は中止となりました。デパートのエスカレーターや空港の動く歩道までも、ピクリともしなくなったのでした。徹底した省エネ対策が全国規模で実施されたのです。
石油とは直接関係のないトイレットペーパーや洗剤などが品不足になるという噂が流布されました。多くの人々が噂を信じ込み、これらの品々を買い求め、スーパーマーケットや小売店に殺到しました。
全国規模で、さまざまな品物の便乗値上げ騒ぎが起き、「狂乱物価」という言葉が流行語となったのもこの時でした。一連の騒ぎは翌年まで続きました。
日本はオイルショックを教訓とし、ようやく石油の国家備蓄に乗り出したのでした。現在、全国12箇所(民間との共同備蓄を含む)に基地が建設され、国家として備蓄しているものだけでも、日本の消費量の約3ヵ月分に及びます。
しかし、当初の手法は異なりました。日本の海運各社が大型原油タンカーを数隻ずつ供出、国が買い上げた原油を満載し、硫黄島沖の海域に一斉に集められたのでした。
海域の範囲はあらかじめ指定され、その枠からはみ出ない限り、常にエンジンを停止し、波風に身を任せ、ひたすら洋上をプカプカと漂流していたのです。
国からは用船料を頂くものの、基本的には動かない船です。はじめのうちは、平素、手が廻らなかったメンテナンス作業などを、たっぷりと行うことができ、乗組員もホクホク顔です。
しかし、何ヶ月も続くと、することがなくなります。乗組員の暇つぶし手段は、“マージャン”か“釣り”のどちらかに限定されます。
“釣り”といっても太平洋のど真ん中、おのずと対象魚は表層の回遊魚となります。私たちを飽きさず、いつでも遊んでくれたのは、シイラという愛くるしい顔の魚でした。
シイラという魚、引き味は抜群ながら、食すとなると、お世辞にも美味しいとは言えません。特に、南方海域の“シイラ”は、確実に不味いのです。
しかし、背に腹は代えられず、刺身で食す乗組員も多くいました。私が所属していた海運会社では、シイラの寄生虫が原因と思われる集団食中毒が洋上備蓄タンカーで発生、会社からの通達により、南方海域での“釣り”では、“キャッチ・アンド・リリース”制度が強制されることとなってしまいました。
「のんびりできる!」と、はじめは、船員さんの間で人気の高かった洋上備蓄タンカーへの乗船勤務ですが、やがて、“硫黄島沖プリズン”と喩椰され、皆から忌み嫌われることとなりました。
オイルショックから、間もなく35年目の節目を迎えようとしています。“硫黄島沖プリズン”を満期で出所した船員さんたちも、その多くはリタイヤ、もしくはその年齢に達しています。




