『★大韓航空機撃墜事件の思い出と神秘の液体★』[2008年09月01日(月)]
先週のブログで私は、北海道・稚内に出張するかもしれないとお伝えし、宗谷海峡を臨む公園内に建立された“九人の乙女の碑”についてお話しました。
大東亜戦争終戦直後の1945年8月20日、樺太西南部に位置する真岡町(現ホルムスク)にソ連軍が侵攻する中、最後まで郵便局にとどまり、電話交換業務を行なっていたうら若き女性交換手9名が服毒自殺し果てました。その事件の慰霊碑が“九人の乙女の碑”なのです。
私の稚内出張は本決まりとなりました。明後日から一泊二日の予定で稚内に出向き、当地で実施される大規模油流出事故訓練と関係者会議に出席します。さて、稚内と言えばもう一つ、私にとって思い出の碑が建立されています。“祈りの塔”です。
奇しくも、ちょうど25年前、1983年の今日、9月1日の未明のことでした。稚内市の目の前、サハリンの南端西方の海域において、飛行中の民間旅客機、大韓航空のボーイング747機が、ソビエト連邦(現ロシア共和国)の領空を侵犯したとして、同国の戦闘機に撃墜されました。
乗員乗客合わせて269人全員が死亡しました。東西冷戦時代を象徴する世界を震撼させた大事件でした。
「祈りの塔」はこの事件の犠牲者の霊を慰め、また、残された者がこの事件を忘れることなく、世界平和を願うことを目的に建立された碑です。私は稚内を訪れるたびに、前述の“九人の乙女の碑”もさることながら、同碑にもたびたび足を運び、そっと手を合わせることとしています。
碑文には次のように刻まれています。
「愛と誓いを捧げる。あなたたちの生きる喜びを一瞬のうちに奪いさったものたちは、いま全世界の人々から糾弾されています。事件の真相はかならず近い将来にあきらかにされるでしょう。
わたしたちは あなたたちの犠牲を決して無駄にはさせません。わたしたちは 生命の尊さと武力のおろかさをひろく世界の人々に訴えていくことを誓います。
愛しい人たちよ 安らかにお眠りください。」
大韓航空機は米国・ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港を出発し、アンカレッジ空港を経由し、韓国・ソウルの金浦国際空港に向かう途中でした。
同機はカムチャッカ半島でソ連の領空を侵犯し、さらに、サハリンの領空を侵犯した直後、ソ連防空軍の戦闘機からミサイル攻撃を受け墜落に至ったのでしたした。
死亡した乗客には韓国人のほか、日本人28人など、多数の国籍の方々が含まれていました。当初、ソ連はこの事件を黙殺しましたが、国連で同機の交信記録が公開されたことなどにより、認めざるを得なくなりました。
なぜ、大韓航空機がソ連の領空を侵犯したかについては、当初、米軍指示による意図的なものだった(ソ連のスクランブル発進能力を確認したかった)とする説のほか、燃料を節約しようとしたなどの説が取り上げられたと記憶しています。
約10年後に発表された最終報告書では、当時の航法装置(慣性航法装置)の操作ミスによって、位置情報に誤差が生じ、それに気付かぬまま、ソ連領空内とは知らずに侵入したとする、過失説が有力とされています。
いずれにせよ、丸腰の民間旅客機を無差別に撃墜するという無謀な行為は、たとえ東西冷戦下という特殊な事情があったにせよ、国際世論の賛同を得られるはずはなく、世界中の反ソ感情を一気に悪化させる原因となりました。
稚内をはじめとする北海道の沿岸には、同機の破片や犠牲者の遺品などが大量に漂着しました。
当時、私は世界の港をかけめぐる小型タンカーの航海士でした。バンクーバーを出港した私の船は、事件が発生したその日その時刻、ちょうど、千島列島に沿って南下中でした。
バンクーバーで積んだ油は、カナディアン・クルード・オイルと称する珍しい原油でした。油と言えば黒または茶褐色のものが一般的です。
しかし、この原油は異質でした。緑色、それも透き通った緑色は、まるでソーダ水のようでした。あまりの美しさにすっかり心を奪われた私は、小さな透明の瓶につめ、船室内に飾っていたほどです。見るたびに心が洗われました。
ファックスで届いた、船内の張り出し新聞によってこの事件を知った私は、胸が痛み、いてたまれない気持ちになりました。自室に戻り、ふと、傍らに目をやると、そこには緑色の瓶がありました。
神秘的なその液体を眺めているうち、心が少しずつ落ち着いてきた記憶が、まるで昨日のことのように思い出されます。神秘の液体は、その後、どうなったのか、記憶をたどるのですが思い出せません。あれから25年、四半世紀もたったのですね。

大東亜戦争終戦直後の1945年8月20日、樺太西南部に位置する真岡町(現ホルムスク)にソ連軍が侵攻する中、最後まで郵便局にとどまり、電話交換業務を行なっていたうら若き女性交換手9名が服毒自殺し果てました。その事件の慰霊碑が“九人の乙女の碑”なのです。
私の稚内出張は本決まりとなりました。明後日から一泊二日の予定で稚内に出向き、当地で実施される大規模油流出事故訓練と関係者会議に出席します。さて、稚内と言えばもう一つ、私にとって思い出の碑が建立されています。“祈りの塔”です。
奇しくも、ちょうど25年前、1983年の今日、9月1日の未明のことでした。稚内市の目の前、サハリンの南端西方の海域において、飛行中の民間旅客機、大韓航空のボーイング747機が、ソビエト連邦(現ロシア共和国)の領空を侵犯したとして、同国の戦闘機に撃墜されました。
乗員乗客合わせて269人全員が死亡しました。東西冷戦時代を象徴する世界を震撼させた大事件でした。
「祈りの塔」はこの事件の犠牲者の霊を慰め、また、残された者がこの事件を忘れることなく、世界平和を願うことを目的に建立された碑です。私は稚内を訪れるたびに、前述の“九人の乙女の碑”もさることながら、同碑にもたびたび足を運び、そっと手を合わせることとしています。
碑文には次のように刻まれています。
「愛と誓いを捧げる。あなたたちの生きる喜びを一瞬のうちに奪いさったものたちは、いま全世界の人々から糾弾されています。事件の真相はかならず近い将来にあきらかにされるでしょう。
わたしたちは あなたたちの犠牲を決して無駄にはさせません。わたしたちは 生命の尊さと武力のおろかさをひろく世界の人々に訴えていくことを誓います。
愛しい人たちよ 安らかにお眠りください。」
大韓航空機は米国・ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港を出発し、アンカレッジ空港を経由し、韓国・ソウルの金浦国際空港に向かう途中でした。
同機はカムチャッカ半島でソ連の領空を侵犯し、さらに、サハリンの領空を侵犯した直後、ソ連防空軍の戦闘機からミサイル攻撃を受け墜落に至ったのでしたした。
死亡した乗客には韓国人のほか、日本人28人など、多数の国籍の方々が含まれていました。当初、ソ連はこの事件を黙殺しましたが、国連で同機の交信記録が公開されたことなどにより、認めざるを得なくなりました。
なぜ、大韓航空機がソ連の領空を侵犯したかについては、当初、米軍指示による意図的なものだった(ソ連のスクランブル発進能力を確認したかった)とする説のほか、燃料を節約しようとしたなどの説が取り上げられたと記憶しています。
約10年後に発表された最終報告書では、当時の航法装置(慣性航法装置)の操作ミスによって、位置情報に誤差が生じ、それに気付かぬまま、ソ連領空内とは知らずに侵入したとする、過失説が有力とされています。
いずれにせよ、丸腰の民間旅客機を無差別に撃墜するという無謀な行為は、たとえ東西冷戦下という特殊な事情があったにせよ、国際世論の賛同を得られるはずはなく、世界中の反ソ感情を一気に悪化させる原因となりました。
稚内をはじめとする北海道の沿岸には、同機の破片や犠牲者の遺品などが大量に漂着しました。
当時、私は世界の港をかけめぐる小型タンカーの航海士でした。バンクーバーを出港した私の船は、事件が発生したその日その時刻、ちょうど、千島列島に沿って南下中でした。
バンクーバーで積んだ油は、カナディアン・クルード・オイルと称する珍しい原油でした。油と言えば黒または茶褐色のものが一般的です。
しかし、この原油は異質でした。緑色、それも透き通った緑色は、まるでソーダ水のようでした。あまりの美しさにすっかり心を奪われた私は、小さな透明の瓶につめ、船室内に飾っていたほどです。見るたびに心が洗われました。
ファックスで届いた、船内の張り出し新聞によってこの事件を知った私は、胸が痛み、いてたまれない気持ちになりました。自室に戻り、ふと、傍らに目をやると、そこには緑色の瓶がありました。
神秘的なその液体を眺めているうち、心が少しずつ落ち着いてきた記憶が、まるで昨日のことのように思い出されます。神秘の液体は、その後、どうなったのか、記憶をたどるのですが思い出せません。あれから25年、四半世紀もたったのですね。




