『★あの日、東京湾で起きたカタストロフィ★』[2008年08月21日(木)]
猛暑も次第に収まり、間もなく9月1日、防災の日を迎えようとしています。いうまでもなく、防災の日とは、1923年9月1日に発生した関東大震災に因んで制定された記念日です。
防災の日には全国各地で防災訓練が実施され、日頃の備えの重要性が再認識され、一斉点検が実施されることとなります。
関東大震災の発生と同時に、我が国最大級の流出油災害が発生したことを知る人は意外に少ないと思います。
当時、神奈川県・横須賀市の臨海部、現在の米軍基地のあたりには、旧帝国海軍の重油燃料タンク群が所在しました。地震によって、これらのタンクの多くがことごとく倒壊し、一部はまるで”タライ”のように海に漂流したのでした。いわゆる、液状化現象によるものでした。
また、同時に大規模な海上火災も発生しました。海上に流出、あるいは、燃焼した重油の量は約8万キロリッターに達し、鎮火に至までに17日間を要しています。
8万キロリッターと言っても、ピンとこないかもしれません。仮に、東京ドーム球場に油を流し込んだ場合、油がグランド全面に満たされ、内外野のフェンスを乗り越えた程度に相当する莫大な量です。
11年前、日本海を襲ったナホトカ号重油流出災害を覚えているかとも多いことでしょう。その13倍に及ぶ大量の重油が、大正末期の東京湾を襲ったのでした。
今から10年ほど前、私はこの流出油災害に興味を抱き、徹底調査を行なったことがあります。国立公文書館などに通い詰め、旧帝国海軍の極秘文書を収集し解析しました。
また、“生き証人”の発見に全力を注ぎ、ついに、当時の様子を克明に記憶していた老漁師さんを探し出し、話を伺うことができました。以下、当時の取材メモから彼の話を中心に転記します。なお、私は一度、このテーマで小説を書いたことがあります。読んだ方もいらっしゃるかもしれません。
「・・・あの日は朝から強い“みなみ(南風)”が吹き、海は大時化(おおしけ)だった。“みなみ(南風)”はたしか、震災の何日も前から吹いておった。
“こち(東風)”が吹き、“ならい(北風)”に変わったのは、震災の一週間もあとのことだったよ。悪いことが起きるのは、決まって“みなみ(南風)”のときだよ。東京の大空襲の晩も“みなみ(南風)”が激しく吹いておった。」
私はここまで聞いただけで、この老漁師さんの話が信頼に足りることを実感しました。なぜならば、前もって調べておいた、関東大震災当時の東京湾の海気象の状況と、彼の話が見事なまでに合致したからです。年の頃は90歳前後、記憶力の確かさに脱帽しました。
「わしは当時、小学校の最上級生、卒業を半年後に控えておった。わしらの集落では、上の学校に進む漁師のせがれなど、いなかったよ。
わし自身も、学校など早く終えて、漁師の仲間入りをしたいと子供心に思っていたよ。修行を積み、やがて、一人前となって家を継ぐことは、漁師の倅にとってはあたりまえの話だった。少しも、いやだとは思わなかったね。漁師の仲間入りすることが大人の証、男としての誇りだったよ。
わしは、学校が休みの日には、必ずと言っていいほど、親父の船に乗っかって漁に出ていたよ。少しでも早く、親父から漁を教わり、一人前になりたかったからだ。同じ年ころの漁師の倅連中には絶対に負けたくはなかったよ。
大震災の日、うちは船を出していなかったよ。何せ、あの“みなみ(南風)”だもん。当時の船はどれも、櫓で船溜まりの外まで漕ぎ出し、あとは帆を操って沖まで走っていたもんだよ。
“みなみ(南風)”は東京湾の入口から、まともに吹き込んでくる厄介な風だよ。親父は絶対に無理はしなかったからね。
漁師の家の飯は早い。親父らは昼飯を終え、漁具(どうぐ)の手入れをしておった。学校から戻ったわしも、飯をかき込み、それを手伝おうとしていた矢先だったよ。
突然の大揺れだった。何が何だかわからないうちに、すべてが終わっておった。軒先に一尺も離して吊るしておいた二つの大鍋が、揺れが収まった後も、“ゴーン、ゴーン”と不気味な音をたててぶつかり合っていたよ。まるで、昨日のことのように思い出すね。
(つづく)

防災の日には全国各地で防災訓練が実施され、日頃の備えの重要性が再認識され、一斉点検が実施されることとなります。
関東大震災の発生と同時に、我が国最大級の流出油災害が発生したことを知る人は意外に少ないと思います。
当時、神奈川県・横須賀市の臨海部、現在の米軍基地のあたりには、旧帝国海軍の重油燃料タンク群が所在しました。地震によって、これらのタンクの多くがことごとく倒壊し、一部はまるで”タライ”のように海に漂流したのでした。いわゆる、液状化現象によるものでした。
また、同時に大規模な海上火災も発生しました。海上に流出、あるいは、燃焼した重油の量は約8万キロリッターに達し、鎮火に至までに17日間を要しています。
8万キロリッターと言っても、ピンとこないかもしれません。仮に、東京ドーム球場に油を流し込んだ場合、油がグランド全面に満たされ、内外野のフェンスを乗り越えた程度に相当する莫大な量です。
11年前、日本海を襲ったナホトカ号重油流出災害を覚えているかとも多いことでしょう。その13倍に及ぶ大量の重油が、大正末期の東京湾を襲ったのでした。
今から10年ほど前、私はこの流出油災害に興味を抱き、徹底調査を行なったことがあります。国立公文書館などに通い詰め、旧帝国海軍の極秘文書を収集し解析しました。
また、“生き証人”の発見に全力を注ぎ、ついに、当時の様子を克明に記憶していた老漁師さんを探し出し、話を伺うことができました。以下、当時の取材メモから彼の話を中心に転記します。なお、私は一度、このテーマで小説を書いたことがあります。読んだ方もいらっしゃるかもしれません。
「・・・あの日は朝から強い“みなみ(南風)”が吹き、海は大時化(おおしけ)だった。“みなみ(南風)”はたしか、震災の何日も前から吹いておった。
“こち(東風)”が吹き、“ならい(北風)”に変わったのは、震災の一週間もあとのことだったよ。悪いことが起きるのは、決まって“みなみ(南風)”のときだよ。東京の大空襲の晩も“みなみ(南風)”が激しく吹いておった。」
私はここまで聞いただけで、この老漁師さんの話が信頼に足りることを実感しました。なぜならば、前もって調べておいた、関東大震災当時の東京湾の海気象の状況と、彼の話が見事なまでに合致したからです。年の頃は90歳前後、記憶力の確かさに脱帽しました。
「わしは当時、小学校の最上級生、卒業を半年後に控えておった。わしらの集落では、上の学校に進む漁師のせがれなど、いなかったよ。
わし自身も、学校など早く終えて、漁師の仲間入りをしたいと子供心に思っていたよ。修行を積み、やがて、一人前となって家を継ぐことは、漁師の倅にとってはあたりまえの話だった。少しも、いやだとは思わなかったね。漁師の仲間入りすることが大人の証、男としての誇りだったよ。
わしは、学校が休みの日には、必ずと言っていいほど、親父の船に乗っかって漁に出ていたよ。少しでも早く、親父から漁を教わり、一人前になりたかったからだ。同じ年ころの漁師の倅連中には絶対に負けたくはなかったよ。
大震災の日、うちは船を出していなかったよ。何せ、あの“みなみ(南風)”だもん。当時の船はどれも、櫓で船溜まりの外まで漕ぎ出し、あとは帆を操って沖まで走っていたもんだよ。
“みなみ(南風)”は東京湾の入口から、まともに吹き込んでくる厄介な風だよ。親父は絶対に無理はしなかったからね。
漁師の家の飯は早い。親父らは昼飯を終え、漁具(どうぐ)の手入れをしておった。学校から戻ったわしも、飯をかき込み、それを手伝おうとしていた矢先だったよ。
突然の大揺れだった。何が何だかわからないうちに、すべてが終わっておった。軒先に一尺も離して吊るしておいた二つの大鍋が、揺れが収まった後も、“ゴーン、ゴーン”と不気味な音をたててぶつかり合っていたよ。まるで、昨日のことのように思い出すね。
(つづく)




