『★中国で見た名芝居?★』[2008年08月11日(月)]
北京オリンピックがいよいよ開幕しました。毎日、勝敗の行方にやきもきし、手に汗を握りながら、テレビ画面に釘付けになっている皆さんも多いのではないでしょうか。
それにしても、開会式で見せられた豪華な演出には、度肝を抜かれた方が多いのではないでしょうか。私は正直申し上げて、はじめのうちは、興味深く見入っていました。
しかし、これでもか、これでもかと豪華な演出がとめどなく続き、テレビのアナウンサーが驚嘆の言葉を連ねるごとに、心の片隅に妙に引っ掛かるものが徐々に芽生え出しました。
すなわち、「もう、これくらいで十分でしょう。選手団は待ち侘びているのではないですか。早く、入場させてください。」と、懇願したい気持ちに陥りました。やはり、私は変人なのでしょうか。
さて、私がはじめて中国を訪れたのは、1980年代初頭のことでした。その後、中国は大きな変貌を遂げました。当時のことを若い人たちに話しても、誰も信じてくれないかもしれません。
当時の中国は日本にとって、国交が回復してわずか10年足らずのこともあり、依然、我々民間人には馴染みが薄く、よく理解しきれない、近くて遠い国と言う意識が、心の隅々にまで深く浸透していました。
当時、私は若手の航海士、日本にほとんど帰ることなく、諸外国間を会社からの指令一つで彷徨っていた私の乗船していた貨物船は、中国東北部のとある港に到着したのでした。
税関吏、検疫官、入国管理官などが次々と乗船し、入港検査が開始されました。例外なく、体格に不相応な大き目の制服・制帽姿の異様さもさることながら、判で押したように能面のような無表情さも、私たちの意識を萎縮させるに十分なインパクトがありました。
一方、代理店員や荷役関係者などの民間人は、一応に地味な色調の人民服姿、やはり、能面のような無表情さが目を引きました。
入港手続きが終わり、荷役に関する打ち合わせが終わった頃でした。同じような人民服に身を包みながらも、満面の笑みを浮かべ、少々なまりはあるものの、流暢な日本語を操る中年男性が現れました。
聞くと、彼は現地の国営旅行会社の職員とのこと、我々に対し、名所・旧跡めぐりのバスツアーへの参加を呼びかけているのでした。
乗組員一同、はじめての中国でもあり、また、何よりも怖い国であると言う潜在意識が先立っていました。したがって、今回は上陸などせず、船内でおとなしく様子を見ることとした我々にとって、このお誘いは“渡りに船”の出来事でした。
聞けば、貸切りの観光バスに、専属のガイドが便乗し、しかも、レストランでの昼食まで付いて、一人あたり、日本円にしてわずか2,000円程度とのこと。これならば、船ごとに決められた一か月分の福利厚生費から捻出しても、お釣がくるほどの格安料金です。
幹部船員らは早速協議しました。数ヶ月にわたり、入港先は僻地ばかり、しかも、荷役時間はわずか24時間程度のハイペース、とても乗組員が上陸できるような状況ではありませんでした。
今回については、設備が古いこともあり、荷役完了には優に三日は要します。しかも、大きな町が港のすぐそばに迫っています。物理的には上陸が可能です。協議の結果、この誘いに有難く乗ることとしました。
乗組員は二つのグループに分けられ、初日、そして二日目、それぞれがツアーに参加することに相成ったのでした。
私は航海士であると同時に、船内福利厚生の担当者でした。無用のトラブルを避けるという観点から、船長の命を受け、荷役当直を特別に免除され、乗組員一行の“お目付け役”兼“幹事”として、両ツアーに連続参加することとなったのでした。
初日のツアーが開始されました。お世辞にも快適とは言えないまでも、そこそこのマイクロバスがやてきました。約束どおり、流暢な日本語を操る観光ガイドも便乗しています。
名所・旧跡を何箇所かめぐり、車窓の景色を楽しみながら、郊外のレストランに到着しました。予想していたより豪華なランチもいただきました。途中、農作業から戻る途中の集団に追いつき、バスは集団の歩調に併せるようにスローダウンしました。
若い女性7人の一行でした。地味な人民服に身を包みながらも、女性らしさを主張するように、原色の化繊のスカーフを首に巻いていたのが印象的でした。労働歌と思しき歌を口ずさんでいます。観光ガイドが、歌の意味を解説してくれました。
また、農園で働く男女の集団の脇に差し掛かった際には、バスは完全に停車しました。男女の集団は、手に手に収穫したばかりの野菜を掲げ、こちらに向って手を振っていました。観光ガイドが、集約的農業の利便性を解説しました。
何ら問題なく初日のツアーは終了しました。そして二日目、初日に引き続き、再度、マイクロバスに乗り込んだ私でした。
名所・旧跡を初日と同じように巡りました。スケジュールも解説の内容も同じなのは、しかたないことです。私も重々承知していました。
やがて、バスは郊外のレストランへと移動を開始しました。そして、例の場所に近づいたのでした。例の場所とは、原色化繊スカーフの女性農民が行進していた場所です。
バスの一番後ろの席で半分寝ていた私は、バスがスローダウンした気配で目を覚ましました。「まさか。」と思いながら身を起こし、目を擦ると若い女性の一行が・・・、やはり、いました。
人数もぴったり一緒です。メンバーの顔も、全員見覚えあります。歌っている歌も、聞き覚えがありました。観光ガイドの解説が同じことから察するに、同じ歌で間違いないでしょう。
唖然としている間に、さらに、バスは進みました。農園で働く男女の集団の場所に至りました。予想はしていました。やはり、同じメンバーが我々を待っていました。
バスは“予定どおり”、同じ場所に完全停車しました。男女の集団は、“予定どおり”手に手に収穫したばかりの野菜を掲げ、こちらに向って手を振りました。観光ガイドの解説も同じでした。
そうです。我々は本来の観光ツアーに来たのではなったのです。あらかじめ筋書きが作られた、“お芝居”を見に来ただけだったのです。彼らの本職は農業かどうかわかりません。少なくとも、昨日・今日に限っては“役者”だったのです。しかも、“大根役者”ではなく、筋金入りの名役者だったのです。
一週間後、私たちの船は久しぶりに日本の港に戻ってきました。そこで、私は再び、同じ“芝居”を二回連続して見る羽目に陥ったのでした。
(つづく)

それにしても、開会式で見せられた豪華な演出には、度肝を抜かれた方が多いのではないでしょうか。私は正直申し上げて、はじめのうちは、興味深く見入っていました。
しかし、これでもか、これでもかと豪華な演出がとめどなく続き、テレビのアナウンサーが驚嘆の言葉を連ねるごとに、心の片隅に妙に引っ掛かるものが徐々に芽生え出しました。
すなわち、「もう、これくらいで十分でしょう。選手団は待ち侘びているのではないですか。早く、入場させてください。」と、懇願したい気持ちに陥りました。やはり、私は変人なのでしょうか。
さて、私がはじめて中国を訪れたのは、1980年代初頭のことでした。その後、中国は大きな変貌を遂げました。当時のことを若い人たちに話しても、誰も信じてくれないかもしれません。
当時の中国は日本にとって、国交が回復してわずか10年足らずのこともあり、依然、我々民間人には馴染みが薄く、よく理解しきれない、近くて遠い国と言う意識が、心の隅々にまで深く浸透していました。
当時、私は若手の航海士、日本にほとんど帰ることなく、諸外国間を会社からの指令一つで彷徨っていた私の乗船していた貨物船は、中国東北部のとある港に到着したのでした。
税関吏、検疫官、入国管理官などが次々と乗船し、入港検査が開始されました。例外なく、体格に不相応な大き目の制服・制帽姿の異様さもさることながら、判で押したように能面のような無表情さも、私たちの意識を萎縮させるに十分なインパクトがありました。
一方、代理店員や荷役関係者などの民間人は、一応に地味な色調の人民服姿、やはり、能面のような無表情さが目を引きました。
入港手続きが終わり、荷役に関する打ち合わせが終わった頃でした。同じような人民服に身を包みながらも、満面の笑みを浮かべ、少々なまりはあるものの、流暢な日本語を操る中年男性が現れました。
聞くと、彼は現地の国営旅行会社の職員とのこと、我々に対し、名所・旧跡めぐりのバスツアーへの参加を呼びかけているのでした。
乗組員一同、はじめての中国でもあり、また、何よりも怖い国であると言う潜在意識が先立っていました。したがって、今回は上陸などせず、船内でおとなしく様子を見ることとした我々にとって、このお誘いは“渡りに船”の出来事でした。
聞けば、貸切りの観光バスに、専属のガイドが便乗し、しかも、レストランでの昼食まで付いて、一人あたり、日本円にしてわずか2,000円程度とのこと。これならば、船ごとに決められた一か月分の福利厚生費から捻出しても、お釣がくるほどの格安料金です。
幹部船員らは早速協議しました。数ヶ月にわたり、入港先は僻地ばかり、しかも、荷役時間はわずか24時間程度のハイペース、とても乗組員が上陸できるような状況ではありませんでした。
今回については、設備が古いこともあり、荷役完了には優に三日は要します。しかも、大きな町が港のすぐそばに迫っています。物理的には上陸が可能です。協議の結果、この誘いに有難く乗ることとしました。
乗組員は二つのグループに分けられ、初日、そして二日目、それぞれがツアーに参加することに相成ったのでした。
私は航海士であると同時に、船内福利厚生の担当者でした。無用のトラブルを避けるという観点から、船長の命を受け、荷役当直を特別に免除され、乗組員一行の“お目付け役”兼“幹事”として、両ツアーに連続参加することとなったのでした。
初日のツアーが開始されました。お世辞にも快適とは言えないまでも、そこそこのマイクロバスがやてきました。約束どおり、流暢な日本語を操る観光ガイドも便乗しています。
名所・旧跡を何箇所かめぐり、車窓の景色を楽しみながら、郊外のレストランに到着しました。予想していたより豪華なランチもいただきました。途中、農作業から戻る途中の集団に追いつき、バスは集団の歩調に併せるようにスローダウンしました。
若い女性7人の一行でした。地味な人民服に身を包みながらも、女性らしさを主張するように、原色の化繊のスカーフを首に巻いていたのが印象的でした。労働歌と思しき歌を口ずさんでいます。観光ガイドが、歌の意味を解説してくれました。
また、農園で働く男女の集団の脇に差し掛かった際には、バスは完全に停車しました。男女の集団は、手に手に収穫したばかりの野菜を掲げ、こちらに向って手を振っていました。観光ガイドが、集約的農業の利便性を解説しました。
何ら問題なく初日のツアーは終了しました。そして二日目、初日に引き続き、再度、マイクロバスに乗り込んだ私でした。
名所・旧跡を初日と同じように巡りました。スケジュールも解説の内容も同じなのは、しかたないことです。私も重々承知していました。
やがて、バスは郊外のレストランへと移動を開始しました。そして、例の場所に近づいたのでした。例の場所とは、原色化繊スカーフの女性農民が行進していた場所です。
バスの一番後ろの席で半分寝ていた私は、バスがスローダウンした気配で目を覚ましました。「まさか。」と思いながら身を起こし、目を擦ると若い女性の一行が・・・、やはり、いました。
人数もぴったり一緒です。メンバーの顔も、全員見覚えあります。歌っている歌も、聞き覚えがありました。観光ガイドの解説が同じことから察するに、同じ歌で間違いないでしょう。
唖然としている間に、さらに、バスは進みました。農園で働く男女の集団の場所に至りました。予想はしていました。やはり、同じメンバーが我々を待っていました。
バスは“予定どおり”、同じ場所に完全停車しました。男女の集団は、“予定どおり”手に手に収穫したばかりの野菜を掲げ、こちらに向って手を振りました。観光ガイドの解説も同じでした。
そうです。我々は本来の観光ツアーに来たのではなったのです。あらかじめ筋書きが作られた、“お芝居”を見に来ただけだったのです。彼らの本職は農業かどうかわかりません。少なくとも、昨日・今日に限っては“役者”だったのです。しかも、“大根役者”ではなく、筋金入りの名役者だったのです。
一週間後、私たちの船は久しぶりに日本の港に戻ってきました。そこで、私は再び、同じ“芝居”を二回連続して見る羽目に陥ったのでした。
(つづく)





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