『★あれから20年、悲風吹き荒れる浦賀水道!★』[2008年07月10日(木)]
間もなくあの悲劇から20年目の節目を迎えようとしています。今から丁度30年前の1988年(昭和63年)は、新時代の海洋レクリェーションの幕開けの年でもありました。
当時、日本では海洋レクリェーションに対する国民の関心が高まり、いずれ欧米並みの状況となることが予想されました。
日本初の豪華外航客船2隻が相次いで建造され、また、東京湾や瀬戸内海では、景色を楽しみながら食事を楽しめる、豪華なクルージング・シップやレストラン・シップが登場したのもこの頃です。
遊漁船の世界も然りでした。かつての遊漁船は、一部のマニアを対象とした小船というイメージでした。しかし、こうしたイメージを一新した大型遊漁船が登場したのです。
“第一富士丸(154総トン)”は、かつての漁船を改造した大型遊漁船で、コックやマリン・スチュアーデスを乗船させるなど、旅客船並みのサービスを“売りもの”にしていました。
夏休みが始まったばかりの7月23日、“第一富士丸”には大手商社I商事、そして、その関係会社の社員や家族など、夏休みの釣行を楽しみにした大勢の乗客が溢れ返っていました。
同日午後3時38分頃、東京湾内の神奈川県・横須賀港・北防波堤灯台の東3キロの海上で、第一富士丸は海上自衛隊の潜水艦“なだしお(排水量2,200トン)”と衝突しました。
“なだしお”は伊豆大島沖での艦隊訓練を終えて横須賀基地に帰港途中で、“第一富士丸”は横浜を出航し釣行の目的地である伊豆大島海域を目指していました。
第一富士丸は衝突の2分後に沈没しました。結果、乗員・乗客47名のうち30名が死亡、17名が重軽傷を負う大惨事となりました。
犠牲者には幼い子供も含まれていました。衝突当時、乗客の大部分は船首部に位置するサロンで寛いでいたのです。サロンには出入口が左舷側に一ヶ所しかなく、“第一富士丸”が左舷側を下にして沈没したため、多くの乗客が避難する間もなく船体と共に沈んでいったのでした。
海難審判は“なだしお”側の回避行動の遅れや操舵号令の伝達不備、“第一富士丸”側の相手船に対する動静判断の不適切などが原因であると裁決しました。
先週末の日曜日(7月6日)、この事故が発生した浦賀水道に面した観音崎で、遺族や海上自衛官などによる慰霊祭が行われました。参列者は犠牲者の冥福を祈り、忌まわしい海難の再発防止を改めて願ったとのことです。
遺族会の代表幹事のUさん(73歳)は、「二度と悲惨な事故がないようにとの願いが届かず、イージス艦による事故が発生した。夢と希望があった尊い命を失い、誠に残念だ。事故の再発防止を願い、風化させないことが残された我々の任務です。」と語ったそうです。
先ほど述べたとおり、“第一富士丸”の乗客は大手商社I商事、そして、その関係会社の社員や家族などでした。
私の自宅の真向かいには、昨年まで、I商事のK社長が住まわれていました。10年ほど前、転居されて来た際には、Kさんの小学生(当時)のお嬢さん曰く、「私のお父さんは部長です。」と言っていましたが、それから破竹の勢いで出世街道を歩み、最後は7人抜きで社長に抜擢されたのが4年前のことでした。
奥さんをはじめ、皆さん実に気さくな方々で、私たちと家族ぐるみでお付き合いをさせていただきました。“上等兵(中二の上の娘)”は、小学校一年生になりたての頃、Kさんのお嬢さんに手を引かれて通学していました。
ある日、Kさんと散歩でご一緒した際、私の職業意識が突然芽生え、この海難の話を持ちかけたい衝動に駆られました。しかし、なかなかタイミングがつかめず、最後まで、仕事とは関係のない世間話しかしませんでした。私たち家族にとって、KさんはI商事の社長ではなく、大切な隣人です。仕事の話はしなくて正解でした。
昨年転居されてからも、時々、妻は電話で連絡を取り合っているようです。Kさん、石神井が懐かしく思われた際には、是非、遊びにいらしてください。家族一同、お待ちしています。

当時、日本では海洋レクリェーションに対する国民の関心が高まり、いずれ欧米並みの状況となることが予想されました。
日本初の豪華外航客船2隻が相次いで建造され、また、東京湾や瀬戸内海では、景色を楽しみながら食事を楽しめる、豪華なクルージング・シップやレストラン・シップが登場したのもこの頃です。
遊漁船の世界も然りでした。かつての遊漁船は、一部のマニアを対象とした小船というイメージでした。しかし、こうしたイメージを一新した大型遊漁船が登場したのです。
“第一富士丸(154総トン)”は、かつての漁船を改造した大型遊漁船で、コックやマリン・スチュアーデスを乗船させるなど、旅客船並みのサービスを“売りもの”にしていました。
夏休みが始まったばかりの7月23日、“第一富士丸”には大手商社I商事、そして、その関係会社の社員や家族など、夏休みの釣行を楽しみにした大勢の乗客が溢れ返っていました。
同日午後3時38分頃、東京湾内の神奈川県・横須賀港・北防波堤灯台の東3キロの海上で、第一富士丸は海上自衛隊の潜水艦“なだしお(排水量2,200トン)”と衝突しました。
“なだしお”は伊豆大島沖での艦隊訓練を終えて横須賀基地に帰港途中で、“第一富士丸”は横浜を出航し釣行の目的地である伊豆大島海域を目指していました。
第一富士丸は衝突の2分後に沈没しました。結果、乗員・乗客47名のうち30名が死亡、17名が重軽傷を負う大惨事となりました。
犠牲者には幼い子供も含まれていました。衝突当時、乗客の大部分は船首部に位置するサロンで寛いでいたのです。サロンには出入口が左舷側に一ヶ所しかなく、“第一富士丸”が左舷側を下にして沈没したため、多くの乗客が避難する間もなく船体と共に沈んでいったのでした。
海難審判は“なだしお”側の回避行動の遅れや操舵号令の伝達不備、“第一富士丸”側の相手船に対する動静判断の不適切などが原因であると裁決しました。
先週末の日曜日(7月6日)、この事故が発生した浦賀水道に面した観音崎で、遺族や海上自衛官などによる慰霊祭が行われました。参列者は犠牲者の冥福を祈り、忌まわしい海難の再発防止を改めて願ったとのことです。
遺族会の代表幹事のUさん(73歳)は、「二度と悲惨な事故がないようにとの願いが届かず、イージス艦による事故が発生した。夢と希望があった尊い命を失い、誠に残念だ。事故の再発防止を願い、風化させないことが残された我々の任務です。」と語ったそうです。
先ほど述べたとおり、“第一富士丸”の乗客は大手商社I商事、そして、その関係会社の社員や家族などでした。
私の自宅の真向かいには、昨年まで、I商事のK社長が住まわれていました。10年ほど前、転居されて来た際には、Kさんの小学生(当時)のお嬢さん曰く、「私のお父さんは部長です。」と言っていましたが、それから破竹の勢いで出世街道を歩み、最後は7人抜きで社長に抜擢されたのが4年前のことでした。
奥さんをはじめ、皆さん実に気さくな方々で、私たちと家族ぐるみでお付き合いをさせていただきました。“上等兵(中二の上の娘)”は、小学校一年生になりたての頃、Kさんのお嬢さんに手を引かれて通学していました。
ある日、Kさんと散歩でご一緒した際、私の職業意識が突然芽生え、この海難の話を持ちかけたい衝動に駆られました。しかし、なかなかタイミングがつかめず、最後まで、仕事とは関係のない世間話しかしませんでした。私たち家族にとって、KさんはI商事の社長ではなく、大切な隣人です。仕事の話はしなくて正解でした。
昨年転居されてからも、時々、妻は電話で連絡を取り合っているようです。Kさん、石神井が懐かしく思われた際には、是非、遊びにいらしてください。家族一同、お待ちしています。





私は口が軽いタチなので気をひき締めたいと思います。