『★新橋の居酒屋と尖閣への思い・・・★』[2008年06月13日(金)]
先日(6月10日)、尖閣諸島の魚釣島の沖合いで、海上警備中の海上保安庁の巡視船“こしき(966総トン)”が、我が国領海を侵犯していた台湾所属の遊漁船”連合号(推定約20総トン)“を発見、追跡中に両船が衝突、同号が沈没した事件の続報です。
“連合号”の船員・乗客16人は、“こしき”によって全員無事救助されました。乗客13人はその日のうちに台湾の海巡隊(日本の海上保安庁に相当)の巡視船に引き渡され、台湾に送還されました。
また、事情聴取を受けるため石垣島に残っていた船員三人のうち、船長を除く二人も那覇経由で空路台湾に送還されました。依然、船長一人が日本に残され、引き続き事情聴取を受けている模様です。
今回の事件は、単に台湾の“太公望”たちが、大物を狙いたいがゆえに尖閣の海に現れたに過ぎず、政治的な意図はなかったようなのですが、政治の世界はそうも行きません。。
台湾総統府は昨日(6月12日)夕刻、「尖閣諸島は自身の領土である。」旨、改めて声明を発表しました。また、「日本の艦船が我が国の領海内で我が国の船を沈没させ、船長を拘留していることに対し厳重する。船長の早期釈放と賠償請求を行う。」などと述べました。
日台交流の窓口機関である交流協会台北事務所前では、漁業者や反日市民団体による抗議活動が行なわれました。
さらに、“連合号”が所属する台北県の知事は、「行政院長(首相)に対し、尖閣諸島への軍艦派遣を要求する。」などと、穏やかならぬことを語ったそうです。
台湾の行政院にたびたび招かれ、官僚に対し技術指導を行なってきた私は、大勢の友人が台湾にいます。今でも交流が続き、すっかり情が移ってしまい、かなりの“親台派”を自称しています。
しかし、国益に関わる領土問題については、友人である以前に、一人の日本人として、どうしても譲るわけにはいきません。なんとも複雑な心境です。
さて、昨日のブログでは、尖閣諸島・魚釣島の灯台に端を発し、自らの体験を語り始めました。その続きをはじめましょう。
(昨日までの話) 4、5年前のある日、私は大学時代からの親友O君と二人で、新橋駅近くの居酒屋で飲んでいました。隣り合わせた初対面の同じ二人連れの中年男性客と意気投合、海や船に関する話で大いに盛り上がったのでした(続く・・・)。
どうやら彼ら(仮名AさんとBさん)はプレジャーボートの大の愛好家、かたや私たちは商船など大型船の専門家、船のサイズや用途こそ異なるものの、所詮は同じ“海の男”どうし、四人の会話は和気藹々と大いに盛り上がったのでした。
何かの拍子に会話が途絶え、しばらく沈黙があった後、Aさんがぽつりと語りました。
Aさん「実は先日、愛艇にBさんと乗って東京湾内でクルージングしていたところ、急にエンジンが故障してしまい、どんどん流されてしまったんですよ。」
私「ふむ、ふむ・・・」
Bさん「私は本職がエンジニアでメカには強いので、原因を探ったのですが、わからずじまい・・・、みるみる日は暮れてくるし、だんだん不安になってきました。」
O君「大変だったですね・・・、それで?」
Aさん「意を決し、海上保安庁の緊急通報118番で救助を要請したのです。」
私「大事に至る前に勇気を出して118番、当然ですよ・・・」
Aさん「間もなく巡視艇が駆けつけてくれました。数名の海上保安官が乗りこみ、一生懸命エンジンを調整してくれました。ほどなく、無事エンジンがかかったのですよ。助かりました。」
私「それは良かったじゃないですか! 」
Aさん「しかもですよ、私たちの艇が順調に走り出したにもかかわらず、その巡視艇は引き返すことなく、港まで随行し、私たちの無事を見届けてくれたんですよ。」
私「ありがたいですよね。海上保安庁に感謝ですよね。我々商船乗りもいざという時には頼りにしてんですよ。」
Bさん「本当に助かりました・・・・港に無事着き、彼らに丁重にお礼を述べました。」
私「ちょっと待ってください・・・。港に着いてからお礼を述べただけですか。後日改めて、酒の一本でも下げて、お礼に行って下さいよ。私たちも、あなたたちも海の男、海上保安官も海の男、お互い困ったときは助け合い、見返りを求めないのが“海の掟(おきて)”です。しかし、助けられたら後日、必ず改めて礼に行くのが海の男の“しきたり”です。是非、行ってあげてください。彼らも皆さんの元気な姿を見て喜びますよ・・・。」
Bさん「わかりました。そうですよね・・・」
その時でした、Aさんが背広のポケット名刺入れを取り出し、名刺を差し出しました。意気投合し、話に夢中になっていたため、それまで名刺交換をしていなかったのです。
名刺を差し出されると、条件反射のごとくモードが代わり、“米つきばった”のような名刺交換セレモニーに転じるのが我々サラリーマンの悲しい性(さが)です。
我々サラリーマンの社供品とは異なり、分厚い荘厳なAさんの名刺を受け取り、大きく印刷されたロゴマークと文字を見た途端、思わず目が“点”になりました。Aさんは、尖閣諸島の魚釣島に灯台を建設した政治団体N社の幹部だったのです。
Aさん「海と船がご専門ならば、ご存知ですよね・・・。私たちの活動は。尖閣諸島の魚釣島に灯台を建設するにあたり、若い者を従え、陣頭指揮を執ったのが私なんですよ・・・。」
私たちは灯台建設の際、そしてその後も、保守管理のために上陸する際、それを阻止しようとする海上保安庁と、何度もにらみ合いを続けてきた関係です。」
困ったことになりました。当時、日本政府は尖閣問題について、他国に対し波風を立てないとの配慮から、N社の行動を規制し、その前線実働部隊が海上保安庁だったのです。N社と海保はいわば犬猿の仲ということだったのです。
N社の私設灯台が国に移譲され、晴れて国有灯台として認定、国の管理が開始されたのはごく最近(平成17年)のことでした。
私「仰ることはわかります。しかし、尖閣で対峙しようと、東京湾で助けられたことは事実です。海上保安官とて海の男です。海の男は、そんなことで恩を着せようとはしませんよ。是非、行ってみてください。」
その後、四人の会話はさらに盛り上がりました。お互い次の日のこともあり、名残を惜しみながら居酒屋を後にしました。帰り際、Aさんからのひとこと、「今度、魚釣島にご一緒しませんか?」 もちろん、私たちは丁重にお断りしました。

“連合号”の船員・乗客16人は、“こしき”によって全員無事救助されました。乗客13人はその日のうちに台湾の海巡隊(日本の海上保安庁に相当)の巡視船に引き渡され、台湾に送還されました。
また、事情聴取を受けるため石垣島に残っていた船員三人のうち、船長を除く二人も那覇経由で空路台湾に送還されました。依然、船長一人が日本に残され、引き続き事情聴取を受けている模様です。
今回の事件は、単に台湾の“太公望”たちが、大物を狙いたいがゆえに尖閣の海に現れたに過ぎず、政治的な意図はなかったようなのですが、政治の世界はそうも行きません。。
台湾総統府は昨日(6月12日)夕刻、「尖閣諸島は自身の領土である。」旨、改めて声明を発表しました。また、「日本の艦船が我が国の領海内で我が国の船を沈没させ、船長を拘留していることに対し厳重する。船長の早期釈放と賠償請求を行う。」などと述べました。
日台交流の窓口機関である交流協会台北事務所前では、漁業者や反日市民団体による抗議活動が行なわれました。
さらに、“連合号”が所属する台北県の知事は、「行政院長(首相)に対し、尖閣諸島への軍艦派遣を要求する。」などと、穏やかならぬことを語ったそうです。
台湾の行政院にたびたび招かれ、官僚に対し技術指導を行なってきた私は、大勢の友人が台湾にいます。今でも交流が続き、すっかり情が移ってしまい、かなりの“親台派”を自称しています。
しかし、国益に関わる領土問題については、友人である以前に、一人の日本人として、どうしても譲るわけにはいきません。なんとも複雑な心境です。
さて、昨日のブログでは、尖閣諸島・魚釣島の灯台に端を発し、自らの体験を語り始めました。その続きをはじめましょう。
(昨日までの話) 4、5年前のある日、私は大学時代からの親友O君と二人で、新橋駅近くの居酒屋で飲んでいました。隣り合わせた初対面の同じ二人連れの中年男性客と意気投合、海や船に関する話で大いに盛り上がったのでした(続く・・・)。
どうやら彼ら(仮名AさんとBさん)はプレジャーボートの大の愛好家、かたや私たちは商船など大型船の専門家、船のサイズや用途こそ異なるものの、所詮は同じ“海の男”どうし、四人の会話は和気藹々と大いに盛り上がったのでした。
何かの拍子に会話が途絶え、しばらく沈黙があった後、Aさんがぽつりと語りました。
Aさん「実は先日、愛艇にBさんと乗って東京湾内でクルージングしていたところ、急にエンジンが故障してしまい、どんどん流されてしまったんですよ。」
私「ふむ、ふむ・・・」
Bさん「私は本職がエンジニアでメカには強いので、原因を探ったのですが、わからずじまい・・・、みるみる日は暮れてくるし、だんだん不安になってきました。」
O君「大変だったですね・・・、それで?」
Aさん「意を決し、海上保安庁の緊急通報118番で救助を要請したのです。」
私「大事に至る前に勇気を出して118番、当然ですよ・・・」
Aさん「間もなく巡視艇が駆けつけてくれました。数名の海上保安官が乗りこみ、一生懸命エンジンを調整してくれました。ほどなく、無事エンジンがかかったのですよ。助かりました。」
私「それは良かったじゃないですか! 」
Aさん「しかもですよ、私たちの艇が順調に走り出したにもかかわらず、その巡視艇は引き返すことなく、港まで随行し、私たちの無事を見届けてくれたんですよ。」
私「ありがたいですよね。海上保安庁に感謝ですよね。我々商船乗りもいざという時には頼りにしてんですよ。」
Bさん「本当に助かりました・・・・港に無事着き、彼らに丁重にお礼を述べました。」
私「ちょっと待ってください・・・。港に着いてからお礼を述べただけですか。後日改めて、酒の一本でも下げて、お礼に行って下さいよ。私たちも、あなたたちも海の男、海上保安官も海の男、お互い困ったときは助け合い、見返りを求めないのが“海の掟(おきて)”です。しかし、助けられたら後日、必ず改めて礼に行くのが海の男の“しきたり”です。是非、行ってあげてください。彼らも皆さんの元気な姿を見て喜びますよ・・・。」
Bさん「わかりました。そうですよね・・・」
その時でした、Aさんが背広のポケット名刺入れを取り出し、名刺を差し出しました。意気投合し、話に夢中になっていたため、それまで名刺交換をしていなかったのです。
名刺を差し出されると、条件反射のごとくモードが代わり、“米つきばった”のような名刺交換セレモニーに転じるのが我々サラリーマンの悲しい性(さが)です。
我々サラリーマンの社供品とは異なり、分厚い荘厳なAさんの名刺を受け取り、大きく印刷されたロゴマークと文字を見た途端、思わず目が“点”になりました。Aさんは、尖閣諸島の魚釣島に灯台を建設した政治団体N社の幹部だったのです。
Aさん「海と船がご専門ならば、ご存知ですよね・・・。私たちの活動は。尖閣諸島の魚釣島に灯台を建設するにあたり、若い者を従え、陣頭指揮を執ったのが私なんですよ・・・。」
私たちは灯台建設の際、そしてその後も、保守管理のために上陸する際、それを阻止しようとする海上保安庁と、何度もにらみ合いを続けてきた関係です。」
困ったことになりました。当時、日本政府は尖閣問題について、他国に対し波風を立てないとの配慮から、N社の行動を規制し、その前線実働部隊が海上保安庁だったのです。N社と海保はいわば犬猿の仲ということだったのです。
N社の私設灯台が国に移譲され、晴れて国有灯台として認定、国の管理が開始されたのはごく最近(平成17年)のことでした。
私「仰ることはわかります。しかし、尖閣で対峙しようと、東京湾で助けられたことは事実です。海上保安官とて海の男です。海の男は、そんなことで恩を着せようとはしませんよ。是非、行ってみてください。」
その後、四人の会話はさらに盛り上がりました。お互い次の日のこともあり、名残を惜しみながら居酒屋を後にしました。帰り際、Aさんからのひとこと、「今度、魚釣島にご一緒しませんか?」 もちろん、私たちは丁重にお断りしました。




