『★メイストームの悲劇★』[2008年05月13日(火)]
現在、八丈島の南の海上を台風2号が北東へ進み、関東地方は雨模様、千葉県の太平洋岸には波浪警報が発令されています。大きな海難が起きないことを祈っています。
今回の荒天は台風がもたらしたものですが、毎年4月から5月にかけて、台風並みに発達した低気圧が日本列島を通過し、海・山は大荒れとなり、事故を誘発するすることがしばしばあります。
老練な船乗りたちは、大自然に対する畏怖の念を込め、これを“五月の嵐(メイストーム)”と呼んでいます。彼らが“メイストーム”について語るとき、必ず引き合いに出すのが、54年前のあの出来事です。
1954年(昭和29年)5月9日のことです。夜半から翌10日早朝にかけて、優勢な温帯低気圧が日本海側から北海道を東進して行きました。
太平洋側に抜けたとき、低気圧の勢力は952ヘクトパスカルに達し、道東沖の風速は毎秒30メートル、波高は15メートルを越えていました。台風並み、いやそれ以上の大時化(おおしけ)、正に“五月の嵐(メイストーム)”です。
季節はちょうど、サケ・マス流し網漁業の最盛期でした。北海道・花咲港の東方海上には、約1,900隻の漁船が出漁していました。
終戦後、進駐軍の方針で禁止されていた日本の遠洋漁業は、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ平和条約を機に解禁されていました。
1954年(昭和29年)当時、日本のサケ・マス漁船は、沿岸に限定されていた魚場を、徐々に沖合いに拡張させていく過渡期にあったのです。
しかし、漁船の船型がおぼつきませんでした。ほとんどの漁船が、沿岸での漁のために建造された小さな漁船だったのです。それでも、漁船員は沖合いの厳しい気象条件のもと、サケ・マス漁に果敢にも挑んでいたのです。
また、当時の気象情報システムは、21世紀の現在とは比べようもないほど粗末なレベルでした。しかも、30総トン未満の漁船の約70%までが通信設備を持たず、気象情報を入手することができなかったのです。
無防備なサケ・マス漁船の集団に、“五月の嵐(メイストーム)”は容赦なく襲いかかりました。暴風や高波が、小さな漁船を次々と飲み込んでいったのです。
その結果、なんと409隻の漁船が一度に遭難する集団海難へと発展したのでした。死者・行方不明者の数は計399名にも達しました。

今回の荒天は台風がもたらしたものですが、毎年4月から5月にかけて、台風並みに発達した低気圧が日本列島を通過し、海・山は大荒れとなり、事故を誘発するすることがしばしばあります。
老練な船乗りたちは、大自然に対する畏怖の念を込め、これを“五月の嵐(メイストーム)”と呼んでいます。彼らが“メイストーム”について語るとき、必ず引き合いに出すのが、54年前のあの出来事です。
1954年(昭和29年)5月9日のことです。夜半から翌10日早朝にかけて、優勢な温帯低気圧が日本海側から北海道を東進して行きました。
太平洋側に抜けたとき、低気圧の勢力は952ヘクトパスカルに達し、道東沖の風速は毎秒30メートル、波高は15メートルを越えていました。台風並み、いやそれ以上の大時化(おおしけ)、正に“五月の嵐(メイストーム)”です。
季節はちょうど、サケ・マス流し網漁業の最盛期でした。北海道・花咲港の東方海上には、約1,900隻の漁船が出漁していました。
終戦後、進駐軍の方針で禁止されていた日本の遠洋漁業は、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ平和条約を機に解禁されていました。
1954年(昭和29年)当時、日本のサケ・マス漁船は、沿岸に限定されていた魚場を、徐々に沖合いに拡張させていく過渡期にあったのです。
しかし、漁船の船型がおぼつきませんでした。ほとんどの漁船が、沿岸での漁のために建造された小さな漁船だったのです。それでも、漁船員は沖合いの厳しい気象条件のもと、サケ・マス漁に果敢にも挑んでいたのです。
また、当時の気象情報システムは、21世紀の現在とは比べようもないほど粗末なレベルでした。しかも、30総トン未満の漁船の約70%までが通信設備を持たず、気象情報を入手することができなかったのです。
無防備なサケ・マス漁船の集団に、“五月の嵐(メイストーム)”は容赦なく襲いかかりました。暴風や高波が、小さな漁船を次々と飲み込んでいったのです。
その結果、なんと409隻の漁船が一度に遭難する集団海難へと発展したのでした。死者・行方不明者の数は計399名にも達しました。




