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その後。 [2011年04月11日(Mon)]
大きな余震が続いて、ホント怖いですね。。
仙台は桜が満開です。 でも天気は雨…今日のお花見は中止になりました。

先日、電話をくれた関西の友人が、まだ避難所にいるの〜?って聞いてきたので、そういや報告もしてなかったっけって驚きました。 心配だけかけてそれっきり…ごめんなさい。

私の周りだけ見ると、徐々に普段の生活を取り戻しつつあるようです。 私は学校の終了を待たずに、とり急ぎ震災関連の職に就きました。 被災された方が1日も早く生活再建ができることを願って仕事をがんばってます。 九牛の一毛にもならない程のことでも、できることをやるだけ。 できることしかできないけど、誰かの役に立ってるって信じたいです。

3月11日の話は前回記述の通り。 忘れないうちに翌日以降のこと、書いておきます。 

12日は明るくなってすぐそれぞれ家に帰り、横になって寝ました。 そして、哀しくもみよの最期を知りました。 お昼すぎ、水道が使えるようになりました。 午後、連絡の取れなかった帰宅困難者のLが訪ねてきてくれて一安心。 

家にはそのまま食べられそうな物がほとんどなくて、避難所でもらってきたんだけど、その日はちくわ1袋とがんもどきだけでした。 頂けるだけ本当にありがたいって思いながら、次の支給の見通しはたってないって聞いて不安になりました。 

避難所で一緒に寝る予定だったリツさんも誘って、Lと3人で私の家で川の字になって眠りました。 避難所から家までの夜道の暗さ、しみじみと見上げた月の形を今もはっきり思い出せます。 家の中でも懐中電灯を使いました。 すでに使い切ったつもりだったガスボンベをだめもとでコンロにセットして火をつけてみると弱々しい火がついたので、あたたかいお茶を飲みました。 その感激ったらないです。

13日は、あれ、何したんだっけ? 思い出せないけど遠くに行ったりはしなかったハズ。 食料を探し求めてかけずりまわって、ふだん買わないような栗きんとんとか、キウイをGETしました。 友人がどこかで、チーズケーキを買ってきてくれました。 

そうそう、区役所とか行ってみたんだった。 区役所は自家発電なのか、電気がついてて、ケータイの充電に並ぶ人の行列が尋常じゃなかったです。 テレビが見られたので夕方までしばらくの間、多くの人たちに混じってニュースを見ていました。

暗くなる前に避難所に戻って、また夜は3人で私の家に帰りました。 私たちは、それぞれがGETした食料を分け合って食べられたんだけど、その日私たちの避難所ではちくわ1袋とロールケーキ1口分しかもらえなかったようです。 ご近所のお豆腐やさんのお豆腐も配ってたけど、数が少なくてもらえない方が多かったみたい。 その頃には、ニュースでもっと悲惨な思いをしてる方々の情報も入ってきつつあったので、不満を言う人はいなかったけど、一部の人は無言で取り合いしてるような光景も…。

夜11時半くらい、布団に入っていたら、ブー!!ってすごい音が鳴って、同時に照明がつきました。 地震のあとブレーカーを落としたりしてなかったから…本当はだめなんだろうけど。。 急に明るくなって、すごく嬉しかったです。 こんな時間にも誰かが電気の復旧作業をしてくれている、そのことにすごい感謝の気持ちが湧いてきました。 さっそくケータイとipadを充電して、電気ポットでお湯を沸かし、3人でコーヒーを飲みました。 

そのころ外から何かの音が聞こえてきたので、ドアをあけると、近所のマンションからすごい大音量で「11階が火事です、避難してください」って放送が何度も何度も繰り返されてました。 煙も炎も見えないし、消防車の到着は遅かったし(きっと出動が多すぎたのかな?)、本当?って思いながら、でも心配でしばらく外にいました。 マンションの住人の話じゃ、11階からスプリンクラーなのか、水がダダ漏れになってるってことでした。

消防車が来ても放水する感じじゃなかったので、1時間くらいして家に帰りました。 しばらく3人でテレビに釘付けだったけど、リツさんとLが寝ちゃってからケータイでメールチェック。 たくさんの人からの心配や励ましの言葉をもらって、胸いっぱいで本当に朝まで眠れませんでした。 すぐに返事をしたいけど、あまりに真夜中なので、朝方つくように送信予約したくらい。

あとでこまっちセンパイより、なんでいっちゃんには返事をして私に返事をくれないの?なんて言われちゃったのですが、本当にメールくれたこと知らんかってんもん。。 全部のメールが届いたわけじゃないみたいです。 ほかにもそんな風にご立腹の方がいたら、そんな事情なのでホントごめんなさい。 許してください。。

万智さんの無事もこの夜に知りました。 良かった、本当に。 お仕事で東京に行かれてたそうです。 何度も何度も、万智さんが海辺にいるはずがないって思いながら、でもたしか川の近くって言ってたし…なんて余計な心配をしてました。 だって東北には万智さんほど旧くからの知り合いって他にいないから、なんちゃって。 

みよについて書いておきます。

みよちゃんは震災の5日前、5歳のお誕生日でした。 人間の歳にすると、リスは最初の1年で20歳になり、それから毎年10歳ずつ年をとるそうなので、つまり還暦を迎えたばっかりでした。 

私は今もみよの本当の最期を知りません。 仙台では、震災の2日前にも大きな地震があったのですが、その日の夜からみよの元気な姿を見ていないんです。 寒い時期、巣箱に籠りっきりで出てこないことはよくあるので、震災の翌日、決定的にそのことを知るまでは巣箱に隠れて大好きな布にくるまって食っちゃ寝食っちゃ寝してると思ってたから。

この震災でたくさんの動物たちが亡くなったって聞きました。 津波じゃなくても。 小さな小さな心臓がドキドキドキドキして、本当に怖かったんだと思います。 助けてあげられなくて悔しいです。 

みよちゃんとは震災の1週間後に永遠のお別れをしてきました。 それはもうボロボロに泣きました。 お墓参りに行っては泣き、YouTubeを見ては泣き、今も若干涙目です。

他の人には何万匹もいるリスのうちの1匹だろうけど、私にはそれはそれは特別な…って星の王子様のキツネみたいだけど、本当にかけがえのないリス、っていうかみよちゃんです。

前にもアップしたかもしれないけど、これが私の愛するみよの在りし日の姿です ↓↓↓

震災のこと。 [2011年04月01日(Fri)]
お久しぶりです。 震災から半月以上が経過しましたが、皆様いかがお過ごしですか?

私は仙台でたったひとり?の家族である、シマリスのみよちゃんを震災で喪いました。 だけど元気です。 家も家具も無事でした。 でも4月のトルコ旅行は立ち消えました。

あらためまして、この度の震災で犠牲になられた方々に、心よりご冥福をお祈りいたします。 また、たくさんの大切なものを失くされて、深い悲しみと不自由な境遇の中を強く耐え忍んで生活されている多くの方々が、1日も早く心の平穏を取り戻されることをお祈りするとともに、微力でも行動することを誓います。

震災の後、たくさんの友人・知人からお見舞いのメールや電話をいただきました。 ありがとうございます! 電気が通ってケータイが使えるようになった夜、メールを見て胸がいっぱいになって眠れませんでした。 正常に受信できてないものもあったみたいで、個別にお返事できなくてすみませんでした。 

大きな地震のあと、まっ先に連絡をくれるのはいつも決まって関西の友人たちで、ともに阪神大震災をくぐり抜け、ともに生き、ともに乗り越えてきた仲間たち。 みんな震災の恐ろしさと、非常時の人の温もりを知っていて、それはもう熱烈に!支援したいって気持ちを伝えてくれました。 私は被災地の住民のひとりとして心からお礼を言いたいけれど、でも関西人のはしくれとしては、みんなと気持ちをひとつに少しでも阪神の時のご恩返しを東北の方々にしたい思いです。 八紘一宇、一緒にがんばろうねっ!

3月11日、午後2時46分。 たまたま学校が休みだったので、あの時間は家にいました。 2時までパチンコしてたんだけど、3時半に歯医者の予約をしてたので、帰ってきてご飯を食べ終わったのと同時くらいに揺れが来ました。 仙台に来てから大きな揺れにはずいぶん慣れちゃったけど、途中から明らかにいつもと違うぞってわかりました。 

私はガラスケースに入った博多人形が壊れないように押さえながら、上からエアコンやシーリングファン付きの重い照明器具が落ちてこないかと怯えていました。 たまたま大丈夫だったけど、私のとった行動は正しいはずがないです。 机の下にもぐるなり、玄関のドアを開けておくなり何かやるべきことが他にあったはずなのに。 このままじゃダメだって思いながら、それでもそこから動けずにいると、次第に電球の灯りが萎むように消えていき、すこし揺れがおさまってきました。買ったばかりの薄型テレビが落っこちてました。

カーテンをあけたら外の光は明るくて、まずは在宅率の高い大阪の祖母に連絡。 直後ならつながるってのは、大きな地震を何度か経験するうちに学んだことです。 「きっと大きなニュースになるハズだけど、無事なので心配しないでいいよ。みんなに伝えてて。」って言ったら、やっぱりその後すぐ、ケータイは不通になりました。 祖母が家におってええんかいなって言うので、それもそうだと思って外に出たところ、ご近所の方たちも道路に出ておられました。 

近々すごく大きな地震が来ることを、宮城の人たちはみんな知っていました。 他の地域の方は驚くだろうけど、ほんとにそれは事実です。 3年以内に99%以上の確率で来るって言われた時から、もう3年は過ぎています。 けどあの揺れに驚かずにいられたでしょうか。 

ご近所を見渡したところ、崩れた家などはないように見えました。 私は来たるべき宮城県沖地震への心構えとして、絶対にご近所の人を助けるんだ!(←かつて自分が助けてもらったように)って思ってたけど、結局なにもできず。。 でも最初に言葉を交わしたご近所さんが、ひとり暮らしで昨日まで入院してたっておっしゃるので、この人を不安にさせないぞって心に決めました。 なぁんて善人ぶって、ほんとは自分が心細かっただけにちがいないのですが、、その時はそう思っちゃったんですね。

で、ご近所リツさんと一緒に近くの小学校に行くことにしました。 新居のそばには徒歩5分圏内に小学校2つと高校が1つ、さらに自衛隊の駐屯地もあって、昨年末に引っ越す際にも避難所にはこと欠かないなって思ったけど、まさかすぐお世話になるなんてね。 小学校に入る前、近くのファミマに飲み物を買いに行きました。 停電でレジは使えず、おつり出せませんって言われました。 けど投げ売り状態だったから500円でペットボトルのお茶4本をGET。 

ファミマに一緒に並んでた女性がへんなことを言いました。 「私たちは津波が来るから家族と一緒に中野栄からここまで避難してきたのよ。 でも10メートルの津波が来たらここだって安心できないわよ」って。 私は余震が怖かったけど、津波なんか関係ないと思ってました。 周囲は誰も慌ててないし。 だけどその後ラジオで聞いた津波の被害は私たちを震撼させました。 おかしいのは私たちの方だったのね、って、リツさんも言ってました。 あの女性のご家族がとっさの判断で行動なさったことに、今となっては尊敬の念を抱かずにはおれません。

体育館に入って隅の方に椅子を並べて座ってました。 照明が落ちてこないかしら、窓が割れたらガラス降ってくるねなんて言いながら、時間がたつのは早かったです。 急に大雪が降ってきたのは知っているけど、すぐそばの海側の街の様子はわからなかったです。 明るいうちに家から布団を持ってきて、ケータイがつながらないことにイライラしてました。 みよが巣箱の中で短い命を散らしたことを、まだその時の私は知りませんでした。

夜、小学校で前の職場の上司に遭遇。 私が声をかけたら、停電してるけど今から家に寝に帰るっていうので、無理に引き止めて朝まで一緒にいてもらいました。 この方が職場で唯一、動物占い・チーターの男(←こじかの私と相性が良い)ってのを思い出して、たしかにある意味すごい運命の人だったと思いました。 ご町内には会社の人たちがたくさん住んでるって聞いてたから、もっと皆さんに会えるかと思ってたのに、みんな真っ暗な中避難しなかったのかな?

避難所でアルファ米のご飯と、保存用のクラッカーをもらいました。お水も。誰がいつの間に準備してくれたのかはわからなかったけど、配るのは小学生や中学生たちが積極的にやってくれました。 ワンセグのケータイで電池残量を気にしながらテレビを見て、誰かのラジオに耳を澄ませ、聞こえてくる被害の状況に慄きながら、それぞれの海辺の親戚や友人の安否を案じながら眠れない夜を過ごしました。 日頃お付き合いのない方々なのに、自分より年配のお二人がいてくださったのは本当に心強かったです。 

その夜の気分を、後日短歌にして万智さんにツイッターで見て頂いたらほめてくれました♪ ほんとですよ。 でも友人Yが言うには、万智さんもこんな時にダメ出しはできへんやろって、、まぁたしかに、、それでもほんと嬉しいです!! 阪神大震災のあと、崩れた家の中から 『かすみ草のおねえさん』 を取り出したことを思い出しました。 万智さんの言葉があれば、私はこの震災も乗り越えられる、それは確信のあることです。

私の3・11はこんな日でした。 1・17並みに生涯忘れられない日になるでしょう。
震災にまつわる様々のことはキリがないので、また少しずつ記録しておこうと思います。 



何度でも、みんなでつよくつよく、生きていきましょうね。